IS/SLASH!   作:ダレトコ

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第九十七話~不良少年の追憶~

 

 

~~~~~~side「弾」

 

 

 「はい、これあげる。ルームメイトの子からもう一枚ガメてきたから里見さんにも渡してね。あ、メンドいとか言って来なかったら絶対許さないから。はっ倒すわよ。向こうが本気出してきたらアンタたちいないと流石にちょっとヤバめだし。なんか他の対抗馬もなーんか油断ならない感じなのよね」

 

 ……そんな、身も蓋もないような第一声で誘いをかけてきた幼馴染を追いかけながら思わず溜息を吐く。

 あの馬鹿、俺だけならまだしも俺のバイト先の店長まで巻き込むとかホント何考えてんだ。お陰でやっさんの説得に無駄に骨を折るわ、こちとら無償で働かされにいくだけだというのに、ハブにされた数馬の八つ当たりを甘んじて受けざるを得なくなるわで碌な目に遭わなかった……一夏みたいにアホかお前の一言で一蹴出来ればよかったが、そうはいかないのが中々に辛いところではある。

 

 まあ、元々好奇心旺盛で面白そうなことには首を突っ込まずにはいられないあいつが色々と面倒ごとを持ってくるのは、あの忌まわしい思い出の日から三人でつるむようになってからは割りと日常茶飯事だったような気もするのでこれもそのうちのひとつと思えばたいしたもんでもない。

 

 尤も、そんな一面があることは、最初あいつを見たときには思いもしなかったが。

 

 

 

 

 ――――別に、最初は何とも思っていなかった。

 

 「ふ、ふぁ……凰、鈴音。よ、よ……よろ、し、く……」

 

 第一声からイントネーションの変なカナコトな言葉で話すし、ちょっと焦ると訳わからん言葉が直ぐに飛び出すし。

 まあクラスんなかじゃ可愛かったのは事実だし、それを面白がってちょっかいかけてるのはいたみたいだがそれくらいだ。ある日クラスに放り込まれた転校生は、異分子としてはわかりやすい区分である「ガイジン」とかいう言葉で差別され始め直ぐにクラスで浮き始めた。

 とはいえ、当時は有名になり始めた奴の弟という触れ込みでそいつ以上に浮いてる奴がクラスにいたわけで、幸いというべきかそのお陰でそれ以上の悪意が向くようなことは、その時まではなかった……ように思う。あの時はいくら愛嬌があろうが振って湧いたような転校生になんて関心は向かなかったので、そこまで見てはいなかった。

 

 俺は俺で、心に余裕がなかった時期だった。あの貧弱だった蘭が優等生と認められ始め、それに比べてあいつは、とかナメた言葉を聞くようになった頃だったからだ。

 それに対して何をしたかと言えば、殴って黙らせた。あの世代の中じゃ俺は自分で言うのもなんだがかなりガタイはいいほうだったから、年上だろうが大抵の奴には負けなかった。喧嘩吹っかけてきた馬鹿を数人病院送りにしてやると、少なくとも俺の聞こえるところでふざけた口を利く奴らはすぐにいなくなった。先公はひたすらウザい目で見てくるようにはなったが。

 

 「五反田つえー! あいつら泣きながら逃げてったぞ!」

 

 「なんだよ、六年だからって調子乗ってさ。ただの雑魚じゃん」

 

 そしてそのうち殴った奴の、やがてそうじゃない奴も何人か、俺の腕っ節を持ち上げて言うことを聞くようになる奴らが寄ってくるようになって、なんていうか……その、あの野郎(一夏)の言を認めるのは癪だが正直ちょっと調子に乗った。人をナメた態度をとる奴らも含め段々と周囲から人が離れていき、何だかんだで強気には出てたものの内心では少し自信がなくなりかけてきたところでチヤホヤされて、なんか、やっと誰かに認められたような気がしたんだ。

 

 「……!」

 

 「あ……?」

 

 あいつに改めて意識を向けたのは、そんな風に過ごし始めた頃だ。

 既にあいつがこっちに来てから丁度……一月くらい経ってからだったか。

 放課後の廊下で、当時の俺の仲間……だと思ってた奴らが悪ふざけでぶちまけたワックスで足を滑らせたのか、転んだだけだったらまだ良かったのかもしれないが、運悪くその時にランドセルの蓋が開いて中身をぶちまけてしまい、散らばった教科書を見ていかにも呆然といった体で間抜け面をしているあいつがいた。

 

 仲間はそいつの間抜け面を散々笑った後、散らばった教科書をわざわざ踏みつけてその場を通っていった。

 俺も最初そうしようとしたが……目に涙を浮かべながらワックスでビチョビチョになってもう使い物にならなそうな教科書を拾い集めているそいつの姿が、

 

 『ううっ……ぐすっ……』

 

 ――――その時よりも、前。

 俺が気まぐれに拾ってきてやった手のひらいっぱいの団栗を大事そうに抱えて、その癖俺を追いかけようとしてきて何度も転び、その度に泣きべそかいて団栗を拾ってやがった鈍臭い馬鹿()のことが一瞬頭を過って、

 

 「チッ……」

 

 「えっ……?」

 

 気がついたら舌打ちをしながら油臭くなった教科書やノートを一緒になって拾っていた。

 そうしたら元々丸い目をさらに丸くして意外そうな顔をするそいつがなんか腹立たしくて、

 

 「……オラ、さっさと拾えや。テメエのだろうがよ」

 

 「う……う、ん……」

 

 睨みつけながら声をあげると慌ててまた油サルベージに戻り始める。

 その後結局全部拾うまで付き合うことになり、

 

 「ったく、こんなゴミ拾いに付き合わせやがって。全部、テメエがトロいせいだ。聞こえてんのか? ああ? テメエのせいだつってんだよ、このウスノロ」

 

 「…………」

 

 俺が回収した分のすっかり重くなった紙束をそいつに突っ返す。ついでにこっちまで油臭くなったことに対して文句の一つも言いたくなり悪態が口をついて出る。が、

 

 「あ、あの……あ、あり、がと」

 

 聞こえなかったのか。または意味がわからなかったかはわからないが。それを受けてうつむいていたそいつが、やがて意を決したように顔をあげて、拙い言葉でそんな言葉を告げると、

 

 「…………っ!」

 

 初めて、笑ったんだ。

 あの時の息の詰まるような……いや、実際に息が詰まって血がカーっと頭に昇って何も考えられなくなるような感じは、今でも鮮明に思い出せる。この息苦しい感覚を覚えるのは生まれて初めてで、お陰でこの苦しさの根底にある感情の正体に気がつくのに時間がかかり過ぎて遠回りして、結果として大失敗して……今でも、その背中を眺めていることしかできない。

 

 まあ、なんていうか……一般的な解釈ではちょっと違うのかもしれないが、俺としてはその……一目惚れ、だった。

 

 

 

 

 「なにニヤニヤしややがんだよ。キモいんだよ、ガイジンのくせによ」

 

 「う……」

 

 ……その後のことはあまり、思い出したくない。

 我ながら本当クソガキだった。初めて抱いた感情を持て余して、どうしていいかわからずに苛立ち、よりにもよってそれを本人に、あいつ自身はおろか周囲からもどう見ても悪意にしか見えない形でぶつけた。

 

 あいつ……鈴は、浮いていることこそ変わらないものの、気づけば数人友達が出来てきていて、少しずつだがクラスに溶け込み始めていた。

 友達と思わしき女子たちと相変わらず拙い言葉で話しながら、ぎこちなく笑うあいつを見て……俺は、さらに苛立った。その顔を、俺以外の誰かに見せるのが嫌だった。俺だけのものであって欲しかったんだと……思う。

 だから……あいつが、笑う度。そんな、俺自身向けられて胸糞悪くなっていたような言葉を、何度もあいつに向けた。

 

 それだけでも最悪だっていうのに、状況はさらに悪くなった。

 俺のそんな態度を見て、俺の仲間だった奴らも嬉々として囃し立てた。暇つぶしがてらに行われていた嫌がらせの矛先も、ニヒルぶって大した反応を寄越さないあの野郎に飽き始めていた奴らは、すぐにムキになって涙目になる鈴の方が面白いと思ったのか、次々にそちらにシフトしていったんだ。

 

 さらに都合の悪いタイミングで、ある日日本で悪さをしていた中国人強盗団の一斉検挙がテレビで報じられた。

 時間が有り余って、刺激的な話題に飢えている当時の俺らの世代には格好のネタであり……中国人ハーフの鈴は、このネタでからかうには誂え向きの獲物だった。

 気づいたときには……鈴はもう、笑わなくなっていた。教室ではいつも一人で俯いていて、学校に来る日も日に日に減っていった。

 

 そんな状況になって、俺はやっと後悔した。

 でも、今更仲間を止めることも出来なかった……こいつらは、俺のことをわかってくれてると思っていた。そう、信じていたくて、だから楽しみに水を差して自分からまた離れていくのが怖かったし、なにより。

 

 ――――そうすることで、この気持ちを他の誰かに少しでも悟られて否定されるのが、この時の俺はなにより嫌だった。その光景を想像するだけでも、耐えられなかった。

 

 だから『あの日』も。

 悔しそうに、俺たちに縋るような目を向けながら泣き叫んでいる鈴を取り囲んで、中国人の鈴の親父のことを引き合いに出し警察に連れて行こうと持ちかけられたとき、明らかにやりすぎだと内心では思っていながらも、

 

 「……聞く耳持たねーよ。さっさと歩けよ、ハンザイシャが」

 

 俺は結局最後にはお山の大将で居続けるために、鈴の背中を突き飛ばして。

 

 「おい」

 

 「あァ!? ……っぶ!!」

 

 そのちっぽけなプライドを守るために自分に嘘を吐いた報いを。すぐに受けることになった。

 

 

 

 

 後ろから声をかけられた。

 それを認識するのと、強い力で髪を掴まれたのがほぼ同時。

 そして引っ張られるまま振り返った途端、顔面の真ん中に鉛で殴りつけられたような衝撃を受け、たまらず倒れこむ。

 

 「づっ……!」

 

 「どっち向きに倒れてやがる。違えよ、お前が向いていいのは『下』だけだ」

 

 「がぁっ……!」

 

 振り返りざまに顔面におもいっきり膝蹴りを喰らった。

 一瞬のことだったが、何とかそれを認識できた。だがそれに体が反応する前に、今度は仰向けに倒れたところを脇から思い切り蹴り飛ばされた。

 蹴り転がされ、骨まで伝わる痛みに蹲って悶えていると、今度は後頭部に痛みと重みが同時に襲ってくる。頭を踏みつけられているとすぐにわかった。

 

 「謝れよ。こいつに謝れ。さっきから違うって言ってるのによってたかって悪者扱いしやがって。何が『ハンザイシャ』だよバーカ。漢字で書けもしないくせに粋がってんなよ」

 

 「っ……!」

 

 完全に不意を突かれ、まだ顔すら見れていないものの、その明らかにこちらを小ばかにしたような声で、一発で気に食わない奴だとわかった。すぐさま、頭を押さえつけてる足を掴んでやろうと手を伸ばすが、それを察したのか相手はすぐにわざと俺の頭を強く踏みつけながら後ろに跳んだ。

 

 「で、べぇ……!!」

 

 最初の一撃からの追い討ちで完全に潰れた鼻を押さえながら、ふざけた真似をしやがった野郎の姿をここで漸く見た。

 

 ……いつも、教室の隅でつまらなそうに外を眺めてる根暗だった。俺はあまり興味はなかったが、姉貴が有名人らしくて周囲からのやっかみや嫉妬でよくいじられているものの、それに決まって鬱陶しいものを見るような目で睨むくらいで大して反応しないような奴だった。

 そいつがいつもの無表情をやめ、気を抜くと竦みそうになるくらい怒りで鋭くなった目をギラギラさせながら、鈴をこっちから守るように仁王立ちしている。

 

 「なん、で……?」

 

 「メダカ当番。お前が休みまくってるせいで俺が一週間延長でやらされる羽目になってんだ。俺は忙しいんだよ、すぐにでも追いつかなきゃいけない人がいるからな。メダカなんかに構ってる場合じゃないんだ。だから休むのやめろ」

 

 「ご、ごめ……」

 

 「……別に謝んなくていいよ。こいつらのせいなのはさっきわかったしな。でも、今日からは大丈夫だ」

 

 「え……?」

 

 「俺が守ってやる」

 

 それだけじゃない。

 目に涙を溜めて呆然としている鈴に背中を向けたまま自分の掌に気合を入れるように拳を叩き込み、俺の方を睨み歯を剥き出してニヤリと笑いながらそんな話をしている。

 なんでかはわからなかった。けれど……そのやりとりが無性にムカついた。もうこれ以上、一分一秒たりともこの野郎と鈴が話をするのも我慢ならなくて、俺は気づいたときには鼻血が止まらない鼻を押さえるのも忘れ、何もかもが気に食わない目の前の根暗に殴りかかっていた。

 

 

 

 

 「なにをしているお前たち! やめろ! すぐやめるんだ!!」

 

 ……正気に戻った時には、警官の服を着た大人に地面に押さえつけられていた。

 周囲からはメソメソ泣く声が聞こえて、押さえつけられている頭を何とか回して見てみるとそれは顔や体中に青あざを作って鼻血を流してる仲間のものだとわかり、気づけば知らない大人や先公共に囲まれていて、何人かは連れて行かれたのかすでにいなかった。

 

 「ぼ、べぇ……!!」

 

 そして。

 そいつらと同じ……いや、それ以上にボロボロの『あの野郎』が、俺のことを冷めた目で見下ろしているのも見えた。

 喧嘩中の時は頭に血が昇り過ぎてほとんど覚えていなかった。けれどあんな、俺より一回りも小さくてヒョロヒョロした奴なんて、何回か殴ってやれば簡単に沈むと思っていたが、そうはならなかったどころか、逆に叩きのめされたのは自身が負ったダメージからも明らかだった。それでも納得できなくて反射的に起き上がって殴ってやろうとするも、流石に大人の力には敵わずに起き上がれない。

 『あいつ』の方も、俺のように押さえつけられてこそいないがもう一人の警官に腕をしっかりと掴まれていた。そして俺から視線を外すと腕を引かれるまま、特に抵抗することなく連れて行かれるも、

 

 「おい、お前……いや、り……リンイン、だったっけ? あーもう、自信ないからリンでいいよな」

 

 「まって! ……その、ひとは……え?」

 

 それまで地面ににへたり込んで呆然としていたものの、野郎が連れて行かれそうになると慌てて警官の方に駆け寄ろうとする鈴の方に振り返って頭を掻きながら一瞥すると、

 

 「じゃあな。明日学校、来いよ。メダカ当番、任せたからな」

 

 「う……う、ん」

 

 最後に。ここで始めて、痣だらけの腫れ上がった顔で少し照れたように鈴に笑いかけ、鈴も少し戸惑うような、心配そうな表情を見せたものの、しばらくして笑顔で応えていた。

 何も出来ないまま、そんな二人のやり取りを見ていることしか出来なかった俺は、やがて鼻血が未だに止まっていないことに気がつき、直後に視界が明滅した後真っ暗になった。

 

 ――――思えば。あれが、今までの人生で一番最初に『負け』をはっきり自覚した時で。もう決して結果の覆ることのない、人生初にして最悪の、敗北だった。

 

 

 

 

 「……ぺっ」

 

 「ッ……!」

 

 そんなことがあってから数日後。

 複数人を巻き込む傷害沙汰を起こした俺は当然のように謹慎を喰らい、親連中からもたっぷりと有難くない大目玉を貰った挙句に同じく自宅謹慎中の相手に謝ってくるまで家に入れないと放り出され。仕方なく俺は鼻が骨ごと潰れたため顔面を包帯とギプスでぐるぐる巻きにした、さながらミイラ男の体を衆目に晒し、目撃した大人たちに不気味がられたりガキどもに泣かれたりしつつ『あいつ』の家まで足を運んだ。

 

 状況は向こうもあまり変わっていなかったようで、俺たちの再会はすぐに叶った。

 俺同様ほぼ全身マミー状態の奴は初っ端からこっちの足元に唾を吐きかけてきやがり、危うく第二ラウンドが始まりかけたが、互いの状況があの喧嘩の直後よりも悪化していることに気がつき、その事実が俺たちの頭を冷やしてくれた。

 ……それは、あんだけボコしてくれた相手を容易く叩きのめせる奴が、お互い背後にいるということでもあるからだ。下手を打てば今度こそ命がなくなる。

 

 それに……あの時は、未だに認めたくない気持ちのほうが強かったけれど。

 俺にとっても不本意な形で悪化していった鈴の苛めについて、止めてくれたことについては礼を言うべきだと思った。けれど、ここまで俺に痛い目を見せてくれた奴はいなかったのもあり、やっぱり下手にでるのはどうしても嫌で。それがもう今更守るような一線じゃないことがわかっていても、なんとかこっちの体面を保てるよう言葉を選ぼうとしたが……

 

 「ぼぼぼべぼ、ぼぼばべばべぶべばぼ――――」

 

 「なに言ってっかわかんねぇんだよ! 赤ちゃんかお前!」

 

 「べべべぼべーばぼーばッ(テメエのせいだろうがッ)!!」

 

 既に最初の段階から失敗していた。

 ……まあ、最終的な結果からいえば、紆余曲折の末プライドが保てたかはともかくとして俺の言いたいことは伝えられたと、思う。

 そうして得られたものは、この最初はなにもかも気に食わないと思っていた野郎が、

 

 「はぁ……!? ホントかよそれ。ふざけんなよ、どんだけ俺殴られ損なんだよ。お前、そんだけ強いならさっさと自分でなんとかしろよ。人に迷惑かけんな」

 

 まあ痛い目をみただけに色々ケチこそついたが、今までひた隠しにしてきた感情を身も蓋もなくぶちまけた俺の話を笑うことも馬鹿にすることもせず、しっかりと最後まで聞いてくれるくらいにはいい奴だということと。

 

 そいつが『一夏』って名前だってことだった。

 最早責める意図は全くなかったが、俺は最後になんでいきなり殴りかかってきたのか聞いた。

 

 「お前は家族を馬鹿にされて平気なのか?」

 

 一夏は真顔で当然のように聞き返してきた。俺は……何も、答えられなかった。

 

 

 

 

 「その……今まで、悪かった」

 

 一夏のとりなしもあり、謹慎が抜けた後俺はすぐ鈴に侘びを入れた。

 

 「てめえ、じゃない。あたし、り、リンインって、なまえ、ある。ちゃんと、よんで」

 

 鈴は最初こそ戸惑った様子を見せたが、最後にはいつか見た笑顔を浮かべながら許してくれた。それを見て、なんか思わず泣きたくなる位、安堵したのを覚えている。

 というか実際泣きそうになっているところで、鈴から見えない位置からこちらを見てニヤニヤしてるクソ野郎(一夏)が視界に入ったので後で殴ると決めた。というか殴った。

 

 鈴への態度を変えたことで他の奴等も戸惑っているようだったが、誰にも文句は言わせなかった……というか、言えなかっただろうと思う。あの喧嘩に関わった奴らはあれがトラウマになってしまったらしく、怯えぶりがあまりに酷いことから命が惜しければ俺と一夏には関わるなという暗黙の了解みたいのがしらないうちに出来上がっていて、物怖じせずに俺らに近づいてくる鈴もその括りに入れられたらしい。

 

 よって今度こそ今まで築いたコミュニティも失いお山の大将でも何でもなくなった俺だったが、あれだけ恐れてたのがなんだったんだと思うくらい、案外何ともなかった。

 

 「だん。がっこう、さぼっちゃ、だめ」

 

 「そうだぞ弾この野郎。お前もメダカ当番にしてやろうか?」

 

 「……一夏テメエもう当番代わったんじゃねえのかよ。いつまでやってんだよ」

 

 ……本人たちの前じゃ今も絶対に口に出来ないが、きっと代わりに得られたものがそこを埋めてくれたからだろう。もう持ち上げられることもなければ何でも言うことを聞く奴もいなくなったが、それはそんなことなんてどうでも良く思えるくらい、俺にとっては大きかった。

 次第に言葉を覚えていくにつれ、鈴が見た目ほど真面目じゃないっていうか、案外ズボラで腕白だったり、それでいて意外と女らしい面倒くさいところがあるのも知った。けれどそんな、本来なら見たくないような一面を知ってしまってもこの気持ちは萎むどころか、ますます大きくなっていった。

 

 だからこそ。

 

 「ねえ。水槽の水、そろそろ変えない? ちょっと汚くなってきたし」

 

 「だから何で俺が……はあ。わかったって。カルキ抜き貰ってくるから待ってろ」

 

 「うん、準備して待ってるから、宜しくね」

 

 「ったく……」

 

 「いーちかっ」

 

 「……なんだよ」

 

 「なんでもなーい」

 

 ……きっと誰よりもあいつを見ていたからこそ。あいつの気持ちが『どこを』向いているのか、気がつかないわけにはいかなかった。

 自分でも仕方ないと思った。あいつがどうにもならないほど追い詰められた時、助けたのは一夏で、俺はどう足掻いても『追い詰めた』側だった。あいつを傷つけたくせに、こんな気持ちを後生大事に持ち続けているのさえおこがましいとも。

 

 でも、今更この気持ちを捨てることも出来なかった。

 俺は元々、あんま大したものは最初から持ってないようなつまらない男だ。この気持ちを失くしてしまえば、きっともう何も残らない。

 だから、あの決定的な『敗北』から、俺の『位置』は変わらない。

 

 ――――ちょっと気を抜けば置いていかれてしまいそうなくらい、奔放な駆け足で前だけ向いて走り続けるお前の少し後ろを、小走りで追いかける。たまに気まぐれに振り返って、笑ってくれれば俺はそれでいい。

 

 

 

 

 「……弾?」

 

 昔のことを思い出していたら、知らないうちに足が止まっていたらしい。追いかけてこない俺を怪訝に思ったのか、鈴が振り返ってこちらに向かってくる。

 

 ……ったく、俺のことなんて気にせずに走ってりゃいいのに。お前がそんなんだから、こっちは納得ずくなのにたまに惨めな思いをすることになる。頼むから、せめて負け犬でいさせて欲しい。

 

 「……いや、悪い。さっき、メダカ掬いなんてやってるところがあるの見てさ。ちょっと、昔のこと思い出してたんだよ」

 

 「あー……そういうことか」

 

 強ち嘘でもないことで誤魔化すと、鈴も納得したように頷いた後どことなく複雑そうな表情をする。

 まあ今こそ一夏の面倒臭いところを知ってる身としてはあれがあいつなりの口実というか照れ隠しみたいなものだったのはお互いわかってるだろうが、実際引き合いに出された鈴からしてみれば、こんな反応になるのも無理はないと思う。

 

 「今思い出すと笑えるよな。一夏の奴、メダカ当番やりたくないって言ってたくせに学年変わるまでずっと何だかんだで世話しててよ。ツンデレかよ。それにお前まで巻き込んで……結局あれってなんか進級のときに先公から何匹か貰ってまだ家で飼ってんだろ?」

 

 「そうよ、ウチでね……IS関係で向こう行ったときはちょっと心配だったけど、ちゃんとお母さんが面倒見ててくれたみたいで安心したわ。まあ、もうかれこれ三代目くらいなんだけどさ」

 

 「あれからそんな経つか……ま、鈴の日本語も板についてきたくらいだしそんなもんか。あん時はマジでカタコトだったもんなー」

 

 「もう、いじわる」

 

 しかしそんな顔をしつつも、飼っているメダカの話をする鈴の様子からは、あの時の思い出がどれだけこいつにとって大きいものだったか手に取るように伝わってきて、今度はこっちが微妙な顔をさせられる番になる。

 

 「でも、ちょっと意外」

 

 「……? なにがだよ?」

 

 「いや、弾が昔の話するなんて、ね。あたし、あんたがあの頃の話ぶり返されるの嫌がってるのかな、って勝手に思ってた」

 

 「……そいつは、お互い様じゃねえのか?」

 

 それに加えてこれだ。一見猪突猛進に見えて、案外こいつは人のことを見ている。

 ……そういうのが一々琴線に触れるからやめて欲しい。欲しいから、つい憎まれ口が口を突いて出る。こればっかりは、いくら時間が経っても直らない俺の悪癖だ。

 

 「あたしは別に。まあ、ちょっと嫌な思いしたのは確かだけど、昔は昔のことだしね。あんたが根っこから悪い奴じゃないのは、最初からわかってたしさ」

 

 「はあ? 何言ってんだ。俺は、お前に……」

 

 「……ノート。一緒に拾ってくれたでしょ?」

 

 「……!」

 

 鈴のその言葉を飲み込むのに、しばらく時間がかかった。それくらい、こいつは俺にとってはあまりに大きすぎて持て余すくらいのことを、本当に何でもないことのように口にした。

 ……覚えて、いた。あんな、もう俺だけが後生大事にしまってると思っていた、あの時の記憶を。

 

 そのことを認識した途端、もうあの時とは状況も場所も時間も違うのに、一瞬初めてこいつの笑顔に心を奪われた時に戻ったような気がして、けれどあの時よりもだいぶ下のほうからこちらを覗き込むように見つめてくる視線に、すぐに現実に戻された。

 だがそんな劇的に変動した自身の心象の変化に自身でもついていけなかったのか、

 

 「なんだよ鈴……いつ、そんな小さくなったんだ?」

 

 とんでもない言葉がつい飛び出した。

 

 「あんたがでっかくなったんでしょ……ったくもう、馬鹿にして。そう言うあんたは外見ばっかで中身が変わってないじゃない。いいわよ別に、あんたはどうせ覚えてないだろうって思ってたし」

 

 殴られるのも覚悟したが、鈴は呆れたようなジト目を返しただけで実力行使はない。そのまま振り返ると、さっきまでみたいに歩き出す。

 それ以上、鈴は何も言わない。けれど、その背中は当然のように、いつもみたいに俺が追いかけてくるのを信じているあいつのもので。

 

 「待てよ鈴。いや、ほら。ちょっと手違いがあったっていうか、別に忘れてたわけ、じゃ――――」

 

 あいつがそれを望んでいる以上、俺も応えなくちゃいけない。

 だから、やっぱり『いつものように』。あいつのその背中を追いかけようとしたところで。

 

 ――――ぐにゃり、と。『世界』が歪んだ。

 

 

 

 

 「……!」

 

 最初に認識できたのは、足元から一瞬で遠くまで迸っていく深緑のノイズと。

 ノイズに構成されるように、鈴の影から立ち昇るように現れた、全身を物々しい鎖で雁字搦めにされたデカい化け物の姿だった。

 ……全身を黒い靄のようなもので覆っており、姿そのものははっきりしないが、影だけでも明らかに人の形をしていないのはわかった。指先は刃物のように鋭く尖り、爬虫類を思わせる顎のラインは上下に大きく裂け牙を覗かせていて、不気味に光る真紅の双眸だけが靄に覆われた全身の中で唯一はっきりと確認できる。まさに化け物としか言いようのない全容。

 

 その化け物がまだ状況に戸惑っている鈴の背後から、絡みつく鎖を振り払うように動きながらその無防備な背中に凶悪な形をした腕を伸ばそうとしている。

 

 「……鈴!」

 

 後のことなんて考えなかった。ただ、必死にその名前を呼んで止めようとした。

 化け物の注意がこちらに向く。そいつは明らかに鬱陶しいものを見るような視線で俺のことを一瞥すると、まるで蝿でも払うかのような動作でこちらにその腕を振るう。

 

 「っ……くっ……」

 

 決して広さに余裕があるとはいえない廊下という場所で、その巨体から繰り出される一撃をかわしきるのは無理だった。

 しかしその見た目のインパクトに反して、攻撃には然るべき衝撃も痛みもなかった。ただ何か薄ら寒いような感覚が体の中を通り過ぎていった後、急に体から力が抜けて立っていられなくなる。まるで……体から生気を抜き取られたかのようだった。

 何とか倒れまいとふんじばる。しかし立ち向かうべき化け物は、その一撃を最後に気づけば跡形もなく消えうせていた。

 

 ……あれは、いったいなんだったんだ?

 

 フラフラと揺れる視界の中そんなことを考える。何もかもが唐突過ぎる上に姿形さえ完璧には捉えられなかったが、ただ一つわかったのは、あの化け物を雁字搦めにして自由を奪っているように見えた鎖は全て、鈴が右手首につけているブレスレットから伸びているように見えたということだけだった。

 それが、いったい何を意味するのか。答えが出る間もなく鈴が漸く、異常に気がついた様子でこっちに向かって駆けてくる。

 必死に叫んでいるようだが、聴覚が役に立たない。視界もどんどん色褪せていく。

 

 ――――だから、そんな顔するなって。

 

 落ちる寸前。何とか一番大事なもの守れたことに安堵しながらも、最後に見たあいつの顔は俺が一番好きなあいつのものじゃなくて。

 それだけが、唯一の心残りだった。

 

 


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