そこに足を踏み入れたとき。
――――不意に襲ってきたのは、『不可視』の一撃だった。
「っ……!」
微かな殺気が迫る感覚からギリギリのところでそれを何とか察知出来た。反射的に足を折り、頭を下げて回避する。それでも完全には間に合わず、音も無く放たれた斬撃は俺の髪の毛を数本持っていく。
――――!
相手の姿が見えないまま、体勢の崩れた俺に二撃目が迫る。
俺はもうその場にとどまることを諦め、思い切り床を蹴って頭から飛び込み派手に転がりながら、壁に立てかけてあった木刀を何とか手に取り、
「この……!」
追いかけてきた『見えない剣』と打ち合うが、
「くっ……っ……!」
尋常じゃなく『重い』。木刀を握る指が、ビリビリ痺れる。
このままでは押し切られると、内外共に冷や汗が噴出してきたところで、いきなり上から押さえつけるようだった剣圧が弱まり、
「むぅ……勘は鈍ってはおらぬようだが、『圧』が響くのう。伊達になったのは外目だけで、内は骨と皮ではないか。お前、きちんと食っておるのか? 肉を食え、肉を」
そんな嗜めるような言葉と共に、『見えなかった』……いや、見えていたのに『感知出来なかった』相手が、やっと姿を現す。
「あ、あなたは……!」
「うむ。久しいのう、一夏。達者なようでなにより」
篠ノ之柳韻。箒と束さんの父親であり、一時身寄りのなかった俺と千冬姉の親代わりになってくれた人でもあり。
俺たちに、篠ノ之流剣技を叩き込んでくれたその人が、愉快そうにくつくつと笑いながら、何故か俺の前に立っていた。
「何が『達者でなにより』ですか。もう少しでそうじゃなくなるとこでしたよ、わかってんですか」
「はっはっ、許せ許せ。お前があまりにも良い具合に育っていたものでな。つい嬉しくなって、ほれ、手の一つも滑ろうというものよ」
「全く……」
変わってませんね、と続けようとしたが……言葉が出なかった。
藍色の着流しを纏い、その老成した口調に反して、いかにも男版箒といった感じの、全く本来の歳を感じさせない美しい容姿こそそのままだったが、箒に受け継がれた艶やかな長い黒髪からすっかり色が抜け落ちてしまっている。
元々ちょっと信じられないくらい美形な顔立ちと少し浮世離れした性格もあり、人間離れした存在のように感じないこともなかった人なのだが……この髪はそれをいっそう引き立たせる。不敵な笑みを浮かべながら静かに佇むその姿は、月を背に嗤う『夜叉』を思わせた。
「……そのような顔をするでない。儂とて人の子、泣く子と寄る年波には勝てぬ。それに、悪いことばかりでもない」
「っ……!」
『また』だ……!
目の前から一歩も動いていない筈の柳韻さんの姿がまるで幻か何かだったかのように消え失せる。
気配を辿ろうにも、それらしいものを全く感じ取ることが出来ない。せめてもの抵抗として周囲をぐるぐると見渡すが、それも空しくあっさり後ろを取られ、ポカンと軽い打撃を後頭部に貰った。
……『遁歩』が柳韻さんの
しかし自分が未熟なのは百も承知だが、精々気配を追えない人間の不意を突くくらいしか出来ない俺のそれのことを思うと、流石に自信がなくなってきそうだ。
「この通り……命の色が薄まってきているからこそ極められる業もある。何、不自由ながらも出来ることを探す時間があるのは年寄りの特権だぞ?」
「そんな、髪の色一つ変わったくらいで爺さんみたいなこと言わないでくださいよ。まだ老け込んで隠居決め込むような歳でもないでしょ」
「む……やれ、年寄り扱いも気に食わんが、お前はお前で手厳しいのう」
全く痛くないとはいえ、殴られた仕返しとばかりに、振り返りつつ軽口に軽口を返す。
だが何か思うところがあったのか、途端に何処か渋い表情をする柳韻さん……え、まさか本当にいままでずっと山奥かどっかで隠居してたんじゃないだろうなこの人。
……少し考えて見ると全く違和感がないのが逆に怖くなってくるので、これについて聞くのはやめよう。現状もっと気になることがあるし。
「えっと……柳韻さんは、何故ここに?」
「うむ……この学園は、こういう祭りのときでないと一般は入れぬと聞いたのでな。会うことは叶わずとも、せめて一目その姿を見れればと、足を運んでみたのだが……」
「あっ……箒、ですか」
「…………」
柳韻さんは返事こそしなかったが、表情をみればその沈黙は肯定を意味するのは自明だった。
なら――――
「ちっと待っててください! 今ちょっと探して連れてきますから!」
「……! いや、よい! 構うな!」
「!」
すぐにその場から走り出そうとして、すぐに柳韻さんらしからぬ強い口調の静止に足を止められる。
どうしたというんだろう。この学園挙げた祭りの中、どこに行っても引っ張りだこであろうあの幼馴染をどうにか捕まえてくるには、早く動くに越したことはないっていうのに。
「……よい。重の着物を着て、笑っているあの子を見た。儂はそれでよい。それ以上は望まん……いや、それ以上を望んではいかんのだ。折角の祭に親が水を差すような真似をしてはいかん。儂はここで祭の終わりを見届けてから去る。お前は何も見なかったことにして続きを楽しんでくるがよい」
「でも……」
「そもそも……お前、人事で走り回っているような場合なのか? 隠しているつもりかもしれぬが、儂は騙せぬ。お前から戦の中にあるような、微かな緊張を感じるぞ。差し詰め、鬼にでも追いかけられたか? ふむ……それでいて、隙あらば鬼を討ち取ってやろうという気概も見える。よいな、あの
……あり得ないだろ、なんでこう全部見てきたかのごとくピタリと言い当てるかねこの人は。それでいて勝手に明後日の方向に盛り上がっていくのやめてくれませんかね。千冬姉を追い落とそうなんて気概を持ったことなんて生憎生まれてこのかたないんですけど。つーかあんたも千冬姉のことそんな風に見てたんですか。気持ちはわからないでもないけれど。
いや、今はそうではなく。
確かに抜き差しならない状況にいるのは事実だが、それはあくまで俺の問題である。
今まで一人で頑張ってきた箒のことを思えば、いくらかつてお世話になった恩人とはいえ誤魔化して逃げるような真似を許すことは出来ない。その意図をこめて精一杯柳韻さんを睨み付ける。
「……お前は箒の味方か。いや、わかってはいたことだが、今この時ばかりはあやつが羨ましい」
対し柳韻さんは背筋が冷えるような怜悧な視線を返してくる。しかし、しばらくして俺がいよいよ緊張感で折れそうになってきたところで漸く折れたように、やれやれと首を振った。
「安心せい。祭の後、会いにはゆくよ。折角、足を運んだのだしな」
「絶対ですよ」
「わかっておる……だが、まずはお前の用事を片付けてからだ。これだけは譲れぬ、任を背負っているお前を放って会いにいったとなっては、箒に叱られるからのう」
「……はい?」
よし、なんとか約束を取り付けたぞ……と思ったところでまた話がおかしな方向に進んでる気がする。くそぅ、箒の親ってのは伊達じゃないな、どうしてこうも頑固なのか。
しかしここは譲れない。俺や弾くらいでもあの騒ぎなのに、この祭りの熱狂のなかこのぱっと見二十代そこそこの超絶白髪イケメンが投入されればどんなカオスが巻き起こるかなんて想像もしたくない。
「いや、いいですって。柳韻さんはここでじっとしててくださいよ、箒は俺が連れてきますから」
「そうは言うがのう、一夏よ。相手は相当な難物なのではないか? お前がその気であるなら、普通の相手ならばむざむざこんな場所まで追い立てられはしまいよ。思うに、今劣勢なのだろう?」
「……それは、柳韻さんには関係ないことです」
「いつかの束や千冬のような言い逃れをしよって……気に入らぬ。よって聞いてやらぬ。『鬼』の特徴を言うがよい、一夏。儂がお前に代わって捕まえてきてやろうではないか」
「でも……」
「まさか、何も語らずしてこの場を切り抜けられると思ってはいまいな? 儂の『遁歩』を見切れず、振り抜く直前の剣気を頼りに身を守るのが精々のお前がここから無事逃げ果せる自信があるというのであれば試してみるがよかろう。儂もその方が楽しめる」
……ダメだ、どうしようもない。逃げたところでこの人が外に出てきてしまえば同じこと、そもそも言うとおり逃走を試みたところで痛い目に遭うだけだ。
くそ、恨むぞ先輩。こんな状況じゃなければ箒を連れてくるだけで済んだってのに……だからまあ、仕方ないってことで。これから本家の鬼が裸足で逃げ出すような人をお使いに出すけど恨まないで欲しいな、無理だろうけど。
~~~~~~side「セシリア」
「はぁ……まったく」
あの食わせ者の生徒会長のアナウンスにまんまと乗せられ、クラスメイトたちは殆どが一夏さんを追ってクラスから出て行ってしまった。
扉から外を見渡した限りでは他のクラスも似たような状況らしい。なんにせよ、これではもう出し物どころではないだろう……クラス代表として怒るべきなのか、この衣装で慣れない接客を続けず済んだことに安堵すべきか。自分の中でも割り切れないのが、なんともやりきれないところだ。
わたくしは――――まぁ、ここを空けたままにしておくわけにもいかないし、このまま待機でいいだろう。
ある事情からクラス外活動に所属していないわたくしには、一夏さんを捕まえても特に得をすることはないからだ。そういう意味では、他の代表候補生二人もいなくなったのは正直なところ意外だったけれど。
それに……やはりこんな格好では、大手をふるって外を歩くのはやはり恥ずかしいし――――
「あ~ん、ここももぬけの殻かぁ~……うぅ~、戦女神目当ての賓客のオモテナシで折角のお祭りの時間を今まで潰してた私にこの仕打ちぃ~? ……もうグレていいわよね。いや、いっそまた今度は校舎の風通しを良くしてあげるっていうのも……!?」
「……!?」
――――な、なんてこと!? よりにもよって、今一番見つかりたくない人がなんでこんなタイミングでここに……!! に、逃げ――――
「ごほうびキター! メイドセシリアたーん!!」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
られる、筈もなく。
眩い金を溶かし込んだような髪からうっすらと漂う薔薇の香りに包まれた途端、目の前が真っ暗になった。
「う……うぅ……」
「いやぁ、相変わらずセシリアのお茶は美味しいわねぇ……ほら、いつまで泣いてるの。おかわりよ、おかわり」
結局その後散々弄ばれました。わたくしとってはもうお嫁にいけるか瀬戸際なところだったというのに、この人はこの態度です。もう、いっそ責任をとって貰うべきでしょうか。
「そんな目で見ないでって、ちょっとやりすぎちゃったのは謝るわ。でも、ちょっと懐かしくってね。ちっちゃい頃はよく見せてくれたじゃない? チェルシーと服取替えっこして、『似合いますかお姉さまっ!』って」
「む、昔の話ですわ。今はもうオルコットの当主ですもの、軽々しく使用人のお召し物なんて着れませんもの」
「結局着ちゃってるけどねぇ……まあ、それだけ割り切れるようになったってことか。最初当主になったばっかりの頃は、必死にらしくもない当主の『型』に嵌ろうとしてて、見てていつか潰れちゃうんじゃないかって心配だったんだけど、もう大丈夫そうね。何か、ここで転機でもあったってトコロかしら?」
「……!」
なんでもないような、とても軽い調子のエリザベスおねえ……ミーティア先生の一言に、思わず息を飲む。
誰にも、あの時から抱いていた心持ちを吐露したことなんて今までなかったし、指摘されるまで自分でも気づけていなかったけれど……この人は最初から、気づいてたのかと。
「……ええ。情けない話ですが、空回りしている自分に最近になって漸く気づけた始末ですわ」
「そうみたいね。良かったわ……ほら、あの事故の後割りとすぐに私家から放逐されたでしょ? そんなあなたのことを見てて何も出来なかったのが、結構心残りでね」
「そんな……あの時のことについては、わたくしこそお姉さまの支持者なのに何も出来なくて……」
「それはもういいって言ったでしょ? 何年経ったと思ってるのよ、もう家には綺麗さっぱり未練も恨みもないわ。今みたいな立場だからこそ好き勝手できるってのもあるしね」
本当に、昔の立場に未練はない。そんな想いを現しているかのような、朗らかなお姉さまの笑顔に、微かに胸の痛みを覚える。
――――そう、発端はあのわたくしが両親を失った鉄道事故の日。お姉さまもまた、父であり当時故国の国王であらせられたニコラス陛下を亡くされている。
オーバーテクノロジーとまで謡われた技術を総結集して生み出された、世界一速く、快適と銘打たれた鉄道の開通記念式。
試験運用を幾度も繰り返し、絶対に安全と太鼓判を押されたはずの列車は、よりにもよって多くの要人を乗せたその時に脱線、炎上。
後になってスコットランド独立運動の過激派による、陛下を狙ったテロと判明したこの大惨事で、美しかった車体は見る影もなく潰れ、生存者は、誰一人としていなかった。
事故の知らせを受けたとき、奇しくもわたくしとお姉さまはロンドンの同じ場所で列車が戻ってくるのを待っていた。
『大丈夫。きっと大した事故じゃないわ』
お姉さまはそれだけ言って微笑むと、優しくわたくしの頭を撫で、部屋を出て行き――――とうとう、その日は戻ってこなかった。
彼女がその後すぐに事故現場に駆けつけ、自らも泥と汗に塗れながら、必死に救助活動に当たっていたことを知ったのは、それから丸一日経ってからだった。
あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。自らの部屋でチェルシーに抱きしめられながら、指から血が滲む位強くお母様とお父様の無事を祈っていた自分。そんな時、やっと帰ってきたお姉さまは、
服はボロボロで、指は火傷だらけ。キラキラ光っていて、宝石みたいといつも憧れていた髪は灰で薄汚れ、真っ白な肌に黒い煤や油をつけた酷い姿のまま、
『ごめんなさい、セシリア』
あまりにも。残酷な、その一言だけを言った。
その時感情を爆発させたチェルシーがお姉さまに殴りかからなければ、きっとあの時わたくしは折れてしまっていたかもしれない。
『『ごめんなさい』……? 誰に対して言ってる? 誰に向かって謝っている……!? もう全部、全部お終いですよ! よくも今更、お嬢様に向かってそんなことを……死ね! あなたが散々弄んで打ち捨ててきた者全てに呪われて死ね、全てあなたのせいだ! あなたのせいでアーサーさまは……!』
可愛らしい顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、呪詛のような言葉を叫びまったく抵抗しないお姉さまを押し倒して顔を殴りまくるチェルシーを、訳がわからないまま必死になって止めた。そうしているうちに酷く疲れがやってきて、気がつけば気を失っていて。
次に目覚めたときには、両親や陛下の葬儀は既に終わってしまっていて、即ちもう手遅れだった。
こともあろうか、陛下の国葬が執り行われたその日。
皆が涙を溢しながら祈りをささげる中、突然お姉さまが腹を抱えて笑い出し、そのことが後に王の位をついた皇后様の逆鱗に触れて、王室から永久追放を受けたというのだ。
当然、信じなかった。当然だ、あんな自らボロボロになりながら、わたくしの両親や陛下の救助にあたったお姉さまが、そんな陛下の死を冒涜するようなことをする訳がない。
今でも、ヘンリー皇太子派の陰謀だと思っている。だからこそ、今までの彼女の功績に目も向けず、手のひらを返してお姉さまを非難する同じ派閥の貴族たちや、ただことを面白おかしく取り上げお姉さまを気違い扱いするどころか、果ては何の根拠もなく今回の事件の黒幕なのでは? などと騒ぎ立てるゴシップの記者たちが許せなかった。
けれど王女派の最大党首だったお母様を失い、派閥から多くの者が離れていくなか、ただの小娘の『オルコットの当主』の言葉を聴く者は全くといっていいほどいなくて、わたくしは歯軋りをしながら、全てを失い家から追われるお姉さまを見ていることしか出来なかった。
強くなりたい。この時ほど、そう願ったことはない。だからこそ、後にIS搭乗者としての打診がきた時、これが親戚たちがわたくしが家から離れるよう仕向けるための策略だと気がついていながら受けることにしたのだ……もう二度と、小娘と侮られないようになるために。
けれど。こうしてお姉さまを目の前にすると、思うときがある。
わたくしは今、あの時の覚悟に十分に報いることが出来ているだろうか、と。
わたくし自身は変わったつもりでいた。しかし、いざ国に帰ってみれば、周囲のわたくしを見る目は変わっていなかったという事実を知ってしまった以上尚更に。
そんなことを考えていたのが、顔に出ていたのか。
お姉さまはテーブルに頬杖をつきながら穏やかに笑い、わたくしに向かって右手を伸ばし、一指し指を額に押し付けると、
「ふふっ、まーた焦ってる……昔っからあなたはわかりやすくて可愛いわね。見てるとアーサーを思い出すわ。彼も何一つ私に隠しとお
せない位素直なくせに、強情で頑固だった」
また、こちらの感情をかき乱すようなことを言う。チェルシーといいこの人といい、どうしてわたくしの近くにいる人たちはわたくしからお父様の面影を見ようとするのか。
「……っ! お父様のことは……!」
「関係ない、よね。ごめんごめん、失言だった。でも、私と話してる間に思い詰めるような顔しないで欲しいわ。らしくもなく考えちゃうじゃない。私、また変なこと言って困らせちゃってるかな? って」
「……一応自覚はおありでしたのね」
「当たり前じゃない、困らせたいんだもの……けど、それもあんまり引っ張ると楽しくないからね。今は、あなたの困り顔より笑顔が見たい気分なの」
と、気遣いなのか、それともいつもの傍若無人なのか判断に困るような、こちらの気持ちなどお構いなしといった調子で言葉を続けるお姉さまは、
「だからね、そのためには割りとなんだってしちゃう所存よ。例えば……あなたにこの間不愉快な思いをさせた本国のBT兵器担当官をスパッとクビにしちゃったりとかね」
ニコニコとまるで邪気のない表情で今度は爆弾を落としてきた。
「え……? 今、なんと?」
「私が提供してあげたデータを活用して遂行してるプロジェクトだっていうのにさ、聞けば私がいないのをいいことにテストパイロットのあなたに色々当り散らしてるっていうじゃない? ……こういうところじゃ自分が損するくらい真面目なあなたの報告書も握りつぶしたって聞いて、久々にちょっとムカついちゃってね。誰のおかげで今の仕事が出来てるのか、ちょっと思い出させてあげたのよ。ま、尤も後悔した所でもう二度とこの業界には戻ってこれないだろうけど」
「わ、私が言いたいのはそういうことでなく……!」
「んー……大分悩んでるようにみえたけど、こんなことくらいじゃ喜んでくれないか。やっぱ根を絶たないとダメってことかしら……でも出来ればもう、あの人らとは関わりたくないのよねぇ。ホントちょっとでもあなたと同じ血が流れてるっていうのが信じられないわよ、醜い臭い煩いの三重苦。おまけにそっちまで手出しちゃうと流石に母様にバレちゃいそうだし」
「だから……!」
確かに、努力も主張も認められずに落ち込んでいたかもしれない。しかしだからといって、そんなただ気に食わない対象を見返すだけならまだしも、よりにもよって他者の力を以って排斥するなんて、わたくしは最初から望んでなど……!
……そう、叫ぼうとしたところで何故か言葉に詰まった。『こんなことくらいじゃ喜んでくれない』。その部分が、妙に頭の中で引っ掛かったからだ。
今思えば、小さい頃はとても狭い世界のなかで生きていた。身の回りのことは使用人たちがみんなしてくれて、唯一思い通りにならないのはそれこそお母様と親族くらいのもの。そしてその思い通りにならない人たちに不愉快な目に遭わされても、
『『私の』セシリアをいじめたのはあなた?』
『この人』が一睨みするとたちどころに震え上がって頭を下げた。そんな光景を見て、わたくしはどんな表情をしていたのか。
笑ってはいなかったか。喜んではいなかったか。溜飲を下げてはいなかったか。
きっと、お姉さまのしていることは当時の延長線の上にあるものなのだろう。この人自身はあの時と変わっていなくて、変わったのだとすればわたくしの方。わたくしが守られているだけのオルコットの跡取りではいられなくなり、オルコットの当主としての自覚を持つにあたり獅子の皮を着たロバでいることを恥じるようになった一方で、彼女は変わらず自身が獅子であることに疑いを持っていないということ。
だから本来ならこんなことを感じるのは筋違いなのかもしれない、けれど……それを認識した上で尚、お姉さまが今までわたくしの知っていた人物から離れていくように感じるのはどうしてだろう?
一度、一瞬でもそんなことを考えてしまったからかもしれない。
わたくしは、普段だったらこの人に絶対聞かなかった、いや、聞こうとすら思わなかったであろうことを、気がつけば口にしていた。
「お姉さま……嘘、ですわよね? あんな、噂。前国王陛下の、葬儀での……」
「…………」
問いに対し、しばらく沈黙が続いた。しかしやがてお姉さまは何処か遠くを見るように目を細めて彼方を見るような目になると、
「……セシリア。覚えてる? 私、あなたに聞いたわ。『あなたが将来、なりたい自分があるとしたら、それはどんな自分かしら?』って」
問いには答えず、わたくしが幼い頃に投げかけてきた問いを、問い返してくる。
意図がわからず、それでも戸惑いながらわたくしがそれに答える前に、お姉さまは再び口を開いた。
「『お姉さまみたいな人になりたい』って言ったわね、あの時は。私はそれに対して『それはオススメできないわね』って答えた。なら、今はどう? 『今の』あなた……セシリア・オルコットは、どんな自分になりたいのかしら?」
「それは……」
お姉さまに憧れている気持ちは今でも変わらない。そういう意味では、あの時と答えは変わらないのかもしれない。
けれど両親の死を皮切りにお姉さまもいなくなり、それ以来わたくしは『セシリア・オルコット』であって、いくら自己投影をしてみたところでそれ以外の人間になど決してなれないということは嫌というほど身に染みるようになった。今は誰かになりたいというより、自分自身を変えたい、受け入れられたいという気持ちの方が強い。
わたくしはわたくしだ。その上で小娘と侮られず、誰からも認められる者でありたい。
きっと、答えるならそれが答えだ。けれど何故か、一度喉まで出掛かったその答えは何処かで引っ掛かって、お姉さま相手にぶつけることが出来ず。
「……ダメね。悪いけれど、答えられないのならさっきの質問にも答えてあげられないわ。さて……一心地ついたし、せっかくだから私もあの生徒会長さんのお遊びに混ざってこようかしらね。セシリア、お茶ありがとうね。お代は置いておくわ。美味しかったわよ」
そんなわたくしを、何処か少し残念そうな目で見つめると、どこからともなく取り出した五十ポンド紙幣を指で弾いてテーブルに着地させ、徐に立ち上がった。
「ちょ、ちょっとお姉さま。お茶二杯だけでこんなには頂け……あ、待って!」
そしてそのまま行ってしまおうとする彼女を、つい反射的に呼び止める。
不躾に呼び止めてしまったにも拘らず、お姉さまは嫌な顔ひとつせず足を止め、わたくしの言葉を待ってくれた。
しかし、それでも――――何故か、『答え』の言葉は、結局出てはこなくて。
「なら、お姉さまは……お姉さまが『なりたい自分』というのは、どんな人なのですか?」
代わりに出たのはそんな言葉だった。
お姉さまはそのわたくしの問いを反芻するように首を振ると、向き直って笑顔になった。
「そうね……強いて言うなら、『赤い靴の主人公』かしら」
「え……?」
「いくら私でも心の中がわかるわけじゃないから多分、だけど……あなたの理想とは全く逆ね。だから昔、『オススメできない』って言ったのよ。自分にも他人にも、嘘を吐きたくない。着飾るのは大好きだけど偽るのはイヤ。我慢なんて以ての外――――立ち止まりたくないの。前だけを向いていたい。走り続けていたいの」
「お姉、さま?」
それは、今となってはとても久しぶりに見た気がする彼女『本来』の貌だった。
もうすっかり大人びた相貌を綻ばせ、
「呪いが何よ! 足を切り落としてから後悔するなんて馬鹿馬鹿しい。楽しいなら踊り続けるわ。その果てに疲れ果てて死んでしまっても構わない。そのこの上なく無様で滑稽な最期を自業自得って後ろ指さされて笑われたって、これが私の生き様だって嗤い返すの。それはきっと素敵な終わり――――私はね、セシリア。最期まで絶対に悔やむことのない、『お馬鹿なカーレン』でいたいのよ」
夢見る少女のような表情でお姉さまは語った。
その万感の想いが詰まった彼女の言葉の前に、わたくしは……何も、言い返すことが出来なかった。
お姉さまはそんなわたくしの反応を予期していたのか、何処かすこしだけ寂しそうな、けれどそれでいて以前までのようにものわかりの悪い困った妹を見るような、優しい微笑みを浮かべると、手を振ってクラスから去っていった。
……彼女のその一見すれば立場を弁えていないような奔放にして苛烈な生き方については、自分には出来ないと思いつつも一定の理解はあったつもりだった。だからこその憧れでもあったはずだ。ならば、先程の言葉を受けて驚く理由も、自分の中にはないはずだった。
なのに、今は。
いかに彼女が望んでいようと、そういう生き方を彼女が選択するのは嫌だった。だから、そう言葉にしたかったけれど、出来なかった……あの時お姉さまの目に宿った光は、それほどまでに強かった。もし、わたくしの言葉で彼女を変えられるとしたら、きっとそれはもっと『前』。わたくしが盲目的に、彼女を信じるしかなかった頃の話で……わたくしはとっくに、その機会を既に逃してしまっていたのだと、気づかされてしまったから。
――――結局。いくら強くなろうとしたところで、最早手遅れで。わたくしにとって大事なものはもう、手のひらから零れ落ちていくだけ、なんだろうか。
同時に、いつか抱いたそんな嫌な考えが頭を過って。
去っていくお姉さまを見送りながら、わたくしはただ、しばらくの間その場に立ちつくしていた。