その時、ダンテの表情にあったのは、彼にしては珍しい険しさだった。
久々の大物相手に大立ち回りを演じ、意気揚々と帰ってきたダンテ。
そんな彼を迎えたのは、スラムの街並みを闊歩する下級悪魔たる《マリオネット》の群れだった。
五年前に魔界の王を封印して以来、日を追うごとにこの界隈に姿を見せることがなくなっていった悪魔たち。その存在に怯え、逃げ惑っているのはそれ以降に住むようになった新参者たちだろう。
そんな彼らを守るように、古参の者たちが銃火で以って応戦しているが焼け石に水だ。
一体斃したときには、すでに二体以上増えている。
このままでは古参も新参も甚大な被害を被りかねない。
バイクから降りたダンテは、逃げる住民の波に逆らうように一歩踏み出し、一陣の赤い颶風となって駆けだした。
動きの軌跡すら映らない神速の体捌き。
次の瞬間、踊るしなやかな肉体が現れ出でたのは、ちょうど哀れな犠牲者を鮮血で染め上げようとしていた一体の直上だった。
長く、それでいて力強い指先がトリガーガードを絡め取り、二丁拳銃の威容を夜空の下に曝け出す。
マシンガンに匹敵するマズルフラッシュに連なる血染めの祝砲。
降り注ぐ弾雨を浴びて、人形が文字通りのスクラップと化した。
「逃げな」
事態をまだよく呑み込めていないのか、目を白黒させる粗野な男。
しかし次の瞬間には、肺に貯め込んだ空気を全て吐き出さんばかりに絶叫し、人の波へと溶けていった。
銃声と絶叫に魅かれたか、思うがままに暴れていたマリオネットの群れが一様に殺意を纏ってこちらに向かってくる。
標的から外された隙を上手く突き、古参の者たちも残り少ない人波に紛れて避難を始めたようだ。
「熱烈なアプローチは歓迎だが――悪いな、今はてめえらの相手をしてる暇はねえんだ」
同居人の無事を確かめたいと思い、さりとて逃げ惑う住民を見捨てることもできない苛立ちを起爆剤に、猛る戦意がダンテの背中に具現を果たす。
薔薇を咥えた髑髏であった。
どす黒い瘴気を吐き出しながら、煌々と双眸を紅く滾らせるその魔剣。
銘を《無尽剣ルシフェル》。
爆発する紅い剣を、その名の通り無尽蔵に生み出すこの魔具は、つい先程の依頼でぶっ飛ばした悪魔の魂が変化を遂げた代物だ。
髑髏の両脇から伸びる、翼とも鉤爪ともとれる装飾から生み出された剣を両手に持ち、彼が刻み始めたのは情熱的なタップダンスのステップだ。
「――まずはこいつを突き刺す!!」
それは、さながら貴公子の舞だった。
軽やかなステップに合わせて深紅のコートが翻り、その美貌に獰猛でありながら同時に蠱惑的な笑みが浮かんでいる。
乙女らはもちろんのこと、同性でさえ思わず足を止めて魅入ることだろう。
日頃の彼からは想像もつかない、生き生きとした典雅さだ。
「――真っ直ぐに、そして強く!!」
時には直接突き刺し、時には投げ、木製の身体に突き立っていく紅い剣。その様は咲き誇る徒花を思わせる。
剣自体の殺傷能力が低いためか、いまだ絶命しないマリオネットがその手の凶器を振るった。
その刃がダンテに届く刹那、爆ぜた剣の爆風に内側から喰い尽くされて散華する悪魔の依り代。
「――角度を変え、時には大胆に!!」
一見してふざけた言動でありながら、その実悪魔を滅するための最善のみを選び取っている。
爆炎に巻き込まれて都合三体の頭部が消し飛んだ。
あらぬ方向に投げられたと思われた剣は、脇道から飛び出してきた加勢に突き立ち、後続もろとも破滅の運命へと追いやった。
攻撃自体の規模とは裏腹の殲滅能力は悪魔の跳梁を許さない。
「ブチ込んでやる!!」
狩人は踊る。
今ここにあるのは彼を主演としたダンスステージ。
端役は主演を引き立て、そしてただ消えていくのみである。
「――そして最後に絶頂を迎え、君は自由になる」
終幕。
場に展開された全ての剣が爆ぜ、人っ子一人いなくなったスラムの街に炎の大輪が咲き誇った。
*
赤い影が飛ぶ。
移動に長けた《トリックスター》スタイルの強みを最大限に発揮し、ダンテは事務所に向けて最短距離を突っ走る。
壁を走り、瞬間移動を乱発し、すれ違いざまにはぐれ悪魔を何体か斬り伏せ、タバコの吸い殻や薬物の包装が散乱する裏路地を一気に駆け抜ける。
悪魔の殲滅に二分。事務所までの移動に一分。
なんと長い三分間だったろうか。
ようやく辿り着いた路地の突当たりにある事務所は、襲撃間もない爪痕を刻み付けられていた。
扉が吹き飛び、砕けた窓や家財が路上に散らばるその様は竜巻に直撃されたかのようだ。
その惨状を前に、ダンテの顔にあったのは怒りでも後悔でもなく――疑念だった。
「――この魔力は……」
破壊された事務所を中心に、水底にいるかのような錯覚を覚える魔力の渦が広がっている。
重く圧し掛かってくる霊圧の凄まじさはたるや、常人であればこの場にいるだけで最悪死にかねないだろう。
大悪魔の位階に指を掛けようという者が間違いなくそこにいる。
「――ふうむ。うちの姫さんがお怒りか」
ダンテはこの魔力の持ち主に心当たりがあった。
吹き飛んできたマリオネットを身を屈めて躱しながら、彼はぽっかりと口を開けた入口を潜った。
照明のない闇の中、散乱する人形の残骸の中心にその異形はいた。
側頭部から前面へと伸びる、巨大かつ鋭利な角。
瞳は血を思わせる色に染め上がり、同じ色の第三の瞳が額を縦に割り裂くように顕現している。
漆黒の外殻が青白い肌を覆い隠し、背中の透き通った羽が震えながら碧い燐光を放つ。
そして、その碧い燐光を受けて外殻が濡れたように輝き、この世ならざる魔性の美を醸し出しているのだ。
夜の貴婦人。
そんな印象を見る者に与える艶麗な姿をした子供の悪魔だった。
「ヘイ、さっきぶりだなお嬢さん。ちょっと見ないうちに随分とグレちまったようだな――」
語りかける言葉は常のそれ。
いつも通りの軽妙な口調でジョーク混じりに語りかけ、
「――なあ、エリゼ?」
これ以上ない真摯な眼差しと声音でダンテは異形の名を呼んでいた。
返答は言葉ではなく白刃で以って行われた。
蒼く帯電する大剣による下段からの斬り上げ。
だが、技も心得もないただ力任せの一閃がダンテに届く訳もなく、次の瞬間には上段から振り下ろされたリベリオンがその刃を抑え込んでいた。
焼き切れた大気の臭いが鼻をつく。
見れば、エリゼの握る剣がリベリオンに抗うように一際強い電流を纏い始めていた。
彼女の体格に合わせて刃渡りが短くなってはいるが、それは間違いなくダンテの所有物だった。
「……へえ。アラストルか」
事務机の後ろの棚。
そこにいずれ質草にするつもりだった魔具を何点か保管してあったのだが、どうやら何らかの形で扉が破壊されてしまったらしい。
この雷を纏う魔剣も、元はその棚に保管されていたものであった。
「おい、エリゼ!! 俺だ、分かるか!?」
無言。
迸る稲妻に照らされて、紅と蒼の瞳が交錯する。
間近で見た紅の瞳に理性の色はない。
悪魔の力に呑まれ、〝破壊〟という悪魔の本能が剥き出しになっていた。
「……あー、こりゃ完全にトんじまってるな」
苦痛めいた微かな呻きを聞きながら、ダンテは押さえつけていた剣を一気に撥ね上げた。
途端、力の均衡を崩されて黒き異形が踏鞴を踏む。
そして、そんな隙を見逃すダンテではない。鼻先を掠めた雷刃に眉根一つ動かすことなく、一瞬にしてエリゼの足元へと滑り込み――
「――おらよ、っと!!」
巴投げ。
鮮やかなまでの手並みに理性のないままで反応できるわけもなく、エリゼの矮躯が扉のない入口から路地へと跳ね飛ばされた。
「オイオイ、いくらグレたからって自分の家で暴れるのはよくないぜ」
地面に突き立てた剣を支えにして起き上がろうとしていたエリゼに、投げ掛けられたのはそんな言葉。
「まあ、お前がそんなにもグレちまったのは俺の責任だしな。だから――来いよ、満足するまで語り合おうぜ?」
そう、これは己の失策。
いくらここ数年悪魔の数が減っていたとしても、自身が魔界にとって最大の仇である事実は揺るがない。
だというのに、油断があった。
狡猾にして陰湿な〝奴ら〟に心の隙を突かれた、その代償が今目の前にある光景だ。
だが、まだ清算できる。終わりではない。
双眸は真剣の凄みを宿し、言葉は冷然と語られる。
ニヤリと口角を吊り上げていながら決して笑んではいないその形相は、しかしどこまでも彼に似合っていた。
もはや怠惰な男はここにはいない。
「――Let's rock,baby」
業火のような覇気を纏って、魔帝すら封じた最強のデビルハンターがそこにいた。
*
果たしてそれは、地上に降りた奇跡だったのか。
とうに世界を染め上げた夜の闇を切り裂く無数の蒼い光条。
その軌跡をなぞるように雷が奔る様は、怖気を覚えるほどにこの世の常識から外れていた。
遠くから見ていたある者は言った。
雷の花が咲いた、と。
またある者は言った。
地上から天に雷が昇って行った、と。
人々の不安を掻き立てたその空の下、紫電と炎が織り成す舞台の上で赤と黒の影が激しく睦み合う。
「……ぁ……ァ」
細やかな呻きと共に、黒の影が一度その左手の剣を振るえば、その動きに追従して電流が蛇の如くのたうった。
魔剣《アラストル》。
黒の影――エリゼ・シュバルツァーが振るうその剣は、操る者に電撃を操る力とスピードを与えるという。
彼女に剣術の心得はない。故に技も力に任せた稚拙なものだ。
だが、その速度だけは異常だった。
腕がブレたと見るや、次の瞬間には十を超える剣筋が夜に軌跡を刻み付けた。
人間には真似できず、そして人間には躱せないその速度は、まさしくアラストルの謂れの体現だった。
だが――。
「――ハッハァ!! どうした、もうバテてきたか?」
当たらない。届かない。
対する赤い影は、鼻先を剣が掠めるスリルを完全に満喫していた。
身を屈め、捻り、そして跳び越える。
明らかに無駄な動きさえ混じっているのに、剣どころかそれに連動する電流までもが空振りに終わる。
外れた電流は近くのゴミの山や廃車に着弾、二人のダンスを寿ぐ盛大な花火となった。
己が得物たる白刃を抜くことすらなく、全て躱しあまつさえ前進してのける赤の影――ダンテ。
吹き荒ぶ剣風が自発的に彼を避けているようにさえ見えるその様子は、さながら台風の目だった。
五体満足のまま生を謳歌する男の姿に、理性のない筈の少女が今、確かにたじろいだ。
「……どうした? まだ終わりじゃないだろ? 溜まっちまったモン、全部吐き出せよ?」
その囁きはすぐ耳元で。
いつの間にか距離を縮めたダンテが目の前にいた。
「……ッ……」
エリゼから魔力を吸い上げ、一気に輝度を増した雷光は当然のようにダンテには届かない。
右足を軸に身を翻しただけで容易く背後を取られた。
「Good.それでいい」
言葉による揺さぶりと彼女の魔力の枯渇を狙うダンテの口角が、より一層吊り上がった。
「――さて、いい感じに温まってきたことだしここは一つ、もっと激しい夜のダンスと洒落こもうぜ?」
言うなりその身が再び翻り、その流れのままにリベリオンの白刃が抜き放たれた。
直後、同時に放たれた真一文字の薙ぎ払いが中空で絡み合う。
無論、それだけでは終わらない。
真っ向からぶつかり合う刃の応酬が次々と火花を生み、鋼が奏でる高らかな響きが両者の聴覚を圧する。
一合切り結ぶ度にダンテの肉体を電流が駆け抜けるが、もはや一切頓着していない。
むしろ程良い刺激と感じながら、相手を振り回すべくより激烈に剣舞を刻むのみである。
「いいねぇ、いい感じだ。ノってきた」
右側方からの横薙ぎには左側方からの横薙ぎを。
左脇からの袈裟懸けには右脇からの逆袈裟の斬り上げを。
反対方向からの剣閃が全ての太刀筋を斬り落とす。
果たして、それからどれだけの剣閃が踊ったのか。
当人たちにさえ分からない剣の演舞についに終わりが見え始めた。
「……ア……ゥ……ダ、ンテ……ダンテ……」
いつしか口から漏れる呻きには生気が宿り、それに伴って剣と魔力の暴威が目に見えて衰えていく。
「ふむ。あと一押しってところか……」
どのようなノックが一番効果的だろうか。
そう思案するダンテの前に、期せずして答えが現れた。
一閃。
当初の速さなどもはや見る影もない突きが迫っていた。
「BINGO!!」
我が意を得たり。
そう笑ってダンテは諸手を大きく開いて――。
「――Come on!! キスしてやるぜぇ!!」
何の抵抗も躊躇もなく、冷たい刃を己の心臓に受け入れていた。
*
夢から醒めたような心地だった。
ふわふわと頼りない身体の感覚も紗がかかった意識も、適度な酩酊感に包まれて実に気分がいい。
しかし、そんな心地よさも時間の経過と共に薄れていく。
徐々に鮮明になる感覚が、まず始めに左手に握られた硬質な手応えを捉えた。
「…………?」
馴染みのない肌触りを上塗りするように次いで感じたのは、異様に
何事かと思い、左手を顔に近づけた途端に鼻腔を刺す濃密な鉄の臭い。そして、ぼやけた視界の中で、やけにくっきりと映る紅色が血であると告げていた。
「…………え?」
急速に焦点が合わさった視界に映る赤い男の影。
胸には大剣の威容が突き立ち、溢れる血が刀身を伝っては零れ落ちている。
「――え?……嘘……え? どうして……一体、誰がこんな……?」
どうして? 誰が?
問うまでもない。
手にあった馴染みのない硬質な手応えは剣の柄。今も手に纏わりついている彼の血液。
「……よう、エリゼ。機嫌は直ったか?」
致命傷を負いながら、しかしいつも通りの笑みを浮かべるダンテのその言葉。
それらが意味するところは即ち――。
「――私?」
あり得ない。
大恩あるこの男性を、一体どういう理屈と因果があれば殺すに至るというのだろう。
悪魔に襲われてから、今に至るまでの欠け落ちた記憶が少女の恐怖と混乱に拍車を掛ける。
こみ上げてきた酸味を抑えようと口元に手をやって――その異常に気付いた。
「……何、これ?」
真っ黒な手だった。
手袋でもしているのかと思ったが違う。
そう認識した瞬間、冷水を浴びせられたように、恐怖と混乱に支配されていた思考が停止した。
停止したが故に他の異常を鮮明に感じ取った。
まるで、眼がもう一つ増えたかのように視界が広い。
背中に腕が生えているかのような違和感を感じ、試しに力を込めてみれば身体が宙に浮きかけた。
「――――――――――――ッ!?」
悪寒が総身を舐めつくした。
おそるおそる持ち上げた視線の先、異様なまでによく見える〝眼〟がダンテの双眸に映る異形の姿を捉えて――。
「……ぃや。いや、いやあああああああああああああああああああ!!」
再び恐怖が爆発した。
「おい!! 落ち着けエリゼ!!」
心臓に剣が刺さっていながら息絶える気配のないダンテの言葉は、恐怖と混乱の極致にある少女には届かない。
異形のままの少女の身体が突き動かされるように飛翔し、あっという間に夜に溶けて見えなくなった。
「……やべぇ。ミスっちまったか?」
ノックがあまりに強すぎたようだった。
冷静に考えてみれば、見知った人間を刺して平静でいられる人間などそうそういる訳がない。
「――よし。まだ追えそうだな」
幸いにもまだ気配は消えていない。
己が不明を悔いつつ、家出娘を連れ戻すべくダンテの姿が霞と消えた。
*
波止場に立ち並ぶその倉庫で、少女はただ一人泣いていた。
人間の姿に戻り、隅の方で涙に暮れるエリゼの口から漏れ出すのは、同じ音の羅列だった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
壊れた機械のように垂れ流す謝罪の言葉。
聞く者はなく、倉庫に沈殿する薄闇と静けさに吸われて消えた。
押し潰されそうな罪悪感から逃れる術はなく、同時に逃げてはいけないと理解しているからこそ、無心に謝罪のみを口走っていた。
父母の温かさを覚えている。
きっと彼らは愛娘の喪失を嘆いていることだろう。情愛の深い人間だったことをよく覚えている。
兄の頼もしさを覚えている。
あの雪の日に魔獣から自分を守ってくれた彼。差し伸ばされた手を振り解いた瞬間の、彼の愕然とした表情をよく覚えている。
赤の男の不器用な優しさを覚えている。
夜、寝付けなかった自分が完全に寝入るまで、決して眠ろうとはしなかった彼。いつもと同じように笑う彼の胸に、剣が刺さっていたことなどつい今しがたの出来事だ、忘れる訳がない。
愛すべき彼らを裏切り、傷つけ、挙句の果てに殺してしまったのは一体誰か?
無論問うまでもない。自分だ。
大切に想う人を裏切ってきた自身と、こんな悪魔の力を植え付けたあの人間たちを呪わずにはいられない。
もういっそのこと、自分はこのまま消えてしまった方がいい。
そうした心理の働きがここに足を運ばせたのかもしれない。
彼と出会ったというこの倉庫からならば、何処へなりと消えることができるのではないかと願いを抱いて――。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
幾度目かさえ分からない謝罪。
その言葉を伝えるべき相手は、この憎たらしいほどに透き通った空の下には誰一人としていない――。
「――いいぜ。とびきりの美少女が謝ってるんだ、赦してやるのがいい男の甲斐性ってモンさ」
――筈、だった。
「……………………」
「オイオイ、幽霊でも見たような顔をしてるぜ? こんないい男を捕まえて失礼な嬢ちゃんだな」
濡れるような月の光を一身に浴びて、赤の男がいつもと変わらぬ姿でそこにいた。
「…………どうして――」
――生きているんですか?
そう問おうとして、目の前の現実が信じられずに口籠る。
その言葉の先を、果たして彼は一体どのように汲み取ったのか。
「どうして? 決まってるだろ、お転婆な家出娘を連れ戻しにきたのさ。それに――」
不敵に言ってのける彼の姿が、一瞬にして異形のモノに変わった。
「――――ッ!?」
よく目を凝らして見てみれば彼の姿に異常は何もない。人間のままだ。
だが、直視することさえ憚られる汚濁の気配は決して気のせいではない。粟立つ肌と逆立つ産毛が何よりの証拠だった。
「……怖いか?」
エリゼのすぐ横に腰を下ろしながらダンテが問う。
「…………」
恐ろしくないと言えば嘘になる。記憶がないままだったらきっと逃げ出していたことだろう。
だが、今は
もう二度と大切な人を裏切らないために、エリゼは精一杯の強い語気で言い放った。
「……怖くなんて、ないです!」
「……そうかい」
「……でも――」
差し出された手を取ることが出来たなら、それは一体どれほどよかったことだろう。
「――私は戻りません。いえ、もう戻れないんです。今回はダンテが……その……人間じゃなかったから殺さずに済んだだけのことなんです。もし、ダンテじゃなかったら私は間違いなく殺していました。だから……人間じゃなくなった私はこのまま消えてしまった方が――」
「――おっと、ストップだエリゼ」
涙ながらに訴えるエリゼの独白を、ダンテの言葉が遮った。
「なあエリゼ。〝人間〟って何だと思う?」
「…………え?」
その質問の意図を図りかねてエリゼは戸惑った。
だが、その有無を言わせない口調に遊びの類を感じられず、たどたどしいながらも自分の考えを述べることにした。
「……それは……やはり、私みたいに悪魔の力なんて持たない、普通の人のことではないでしょうか?」
「いいや、違う」
断定だった。
「人間は人間の身体を持っているから人間なんじゃない。人間の〝心〟を持っているから人間なんだ。誰かを想って誰かのために涙を流す。そんな〝心〟を持てるのは人間だけだ。誰のことも想わない悪魔は誰のためにも涙を流さない。涙を流せたのなら、そいつは誰であろうと〝人間〟だ」
それが例え悪魔であろうとも。
人間の〝心〟。とりわけ涙を流すことのできる〝心〟を持つ者こそが人間なのだとダンテは言った。
思い出すのは、血腥い祭壇で生贄に捧げられた時のこと。あの時自分は、人間である筈の〝彼ら〟のことを悪魔のようだと思ったのではなかったか?
〝彼ら〟の法悦の下卑た笑みが、悪魔のそれと重なって見えた。
(……違う。私はあんな人たちとも悪魔とも絶対に違う。人を死なせて笑っていられるなんて、私には絶対に出来ない!)
彼を――ダンテを殺したと思った時の恐怖と絶望は、彼の生存を知ってもなお褪せることなく蟠っている。
殺戮に悦楽を見出す悪魔たちではこんな気持ちを持つことはないだろう。ましてや、罪悪と悲しみから涙を流すなんてことも絶対に。
「ダンテは、ご自分のことをどのように考えているのですか?」
故にこの質問は必定。
悪魔である彼が自身のことをどう思っているのか。それを聞かないことには自分の気持ちに整理がつけられない気がしたから。
「俺は人間さ」
これも、やはり断定だった。
謳うように、誇るように、自分を人間だと言ってのける様はどこまでも清々しい。
「そして、お前も人間だ。例えお前が今も、これから先も、自分のことを人間だと思えなかったとしても俺はお前を人間だと認める。俺は確かに、お前の涙を見たぜ」
敵わないと思った。
怠惰で我が儘な人だとばかり思っていたのに、こんなに頼もしく見えるだなんて。
それが、少しばかり悔しくて――目頭が熱くなる。
「ていうか、俺の顔を見たら分かりそうなもんだがなぁ。あんなブッサイクな連中と比べられること自体心外だぜ?」
「……ふふっ。そうですね、ごめんなさい」
「ようやく笑ったな」
ああ、本当に敵わない。
立ち上がったダンテが差しだしてきたその手を、しかし今度は拒まない。しっかりと握ってエリゼもまた立ち上がった。
「…………ぁ」
途端に猛烈な眩暈。いや、これは眠気か?
堪らず倒れそうになった少女の矮躯を、割り込んできた逞しい腕が抱き止めた。
「……ごめんなさい、ダンテ。すごく……眠いです」
「無理もねえな。あれだけ暴れたんだ、魔力も体力もスッカラカンだろ?」
指一本動かすことさえ億劫なこの倦怠感は、きっとそういうことなのだろう。
今にも閉じられそうな瞼を必死に見開くエリゼ。
そんな彼女の視界が、唐突に真っ赤に染まった。
「乗りな」
それがダンテの背中だと気付くと同時、見計らっていたかのように一際強い眠気の波が押し寄せた。
一瞬の意識の明滅の間に、少女の身体は男の背中に背負われて宙にいた。
(……これは――)
自分にとっての父はテオ・シュバルツァーただ一人。
自分にとっての兄はリィン・シュバルツァーただ一人。
ああそれなのに――彼らを髣髴とさせる、この背中の大きさは一体どうしたことだろう?
(暖かい……)
素直にそう思った。
だが、まだこの暖かさに身を委ねる前に言っておきたいことがある。眠る訳にはいかない。
「……ダンテ。一つだけ聞きたいことがあります」
「んん?」
「……私のこの悪魔の力。これを……手放すことは出来ますか?」
「……いや、難しいだろうな」
〝あの刀〟があれば話は別だったろうが、あれは魔界に消えて久しい。
「……やっぱり。でしたら……この力の使い方を教えて……頂けませんか?」
「……一応、理由を聞いておこうか」
「……怖いからです。この力が……この力に呑まれて、また今日みたいなことになるかも知れないことが。でも……手放せないのなら、例え怖くても踏み出すべきだと思うんです。それに……破壊することしか出来ない力を、誰かを守るために使えたら……それってとても素敵なことだと思いませんか? もしそんなことが出来たら……私はこの力を植え付けた〝あの人たち〟や悪魔たちに、中指を突き付けてやれる筈なんです。ざまあみろって……」
「お前さん、いい女になるぜ。いいね、ますます将来が楽しみだ」
「そんなの……当たり前のことじゃないですか……って、そんな風に言うということはもしかして?」
心底楽しそうに言うダンテの言葉は、即ち了承の意思表示であった。
「そこまで自分の考えを持ってるんだ。例え俺が断ったとしても食い下がるつもりだったんだろ? なら俺はお前の頼みを容れるさ」
ダンテのその言葉までが限界だった。
「……では……どうかお願いします」
それだけをどうにか搾り出して、エリゼは安らかな眠りへと落ちていった。
「眠り姫のご帰還か。しっかりエスコートさせていただきますよ」
力の抜けた寝息を耳元に聞きながら、やや芝居掛かった口調でダンテは独りごちた。
「それにしても――〝この力を植え付けたあの人たち〟ねぇ?」
その言葉が意味することはただ一つ。
「――こいつ、記憶が戻ってやがるな」
とはいえ、彼女が眠ってしまった今はどうすることも出来まい。
彼女は何者か、何処から来たのか、それらを知るのはまた明日だ。
外に出る。
それは二か月前のあの時の焼き増しで、しかし決定的な違いがあった。
背中に息づくこの重み。その小さな身体に過酷な運命を背負わされながら、前に進むことを決めた強さに一人の人間として純粋に敬意を抱いた。
特段長い時間を共に過ごした訳ではない。だがそれでも、この少女の存在は確実にダンテの心の中に根を下ろしていたのだ。
故に彼は、彼女を背負って帰る。その重みの尊さを噛み締めるように。
二人連れ立っての家路はあの時以来だった。
身を寄せ合う彼らを祝福するかのように、中天の銀月が遍く大地を優しく照らし上げていた。
*
「ダンテ、悪いことは言わないわ。警察に自首しましょう」
「ヘイヘイ。久しぶりに帰ってきた第一声がそれかよ、トリッシュ」
今回のNGシーンその1
「……ごめんなさい、ダンテ。すごく……大きいです」
NGシーンその2
「……ごめんなさい、ダンテ。すごく……一撃必殺です」
すみません(´・ω・`)