【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

9 / 12
第08話 第三の男「百式」

「……ふぅ」

 洛陽の大通りをゆっくりと進む馬車。

 車輪が何かを踏んだのか強い揺れに眠りから醒まされた賈文和は、深いため息をついた。窓から外を窺うが目的地にはまだ着いていない。どうやら出発してすぐに寝てしまったらしい。

 

(うたた寝しちゃうなんて……)

 

 眼鏡を取って目頭を指で強めにつまむが、眠気は覚めてくれそうにない。

 単なる門修繕で終わるとは思っていなかったが、やはりその予想通り。連日多忙を極めている。それもこれも十常侍の計らいによって“有難く賜った”肩書きのせいだ。

 

『北門を修理するのなら、洛北における何かしらの権限を持っていた方が都合がいいでしょう』

 

 それはその通りかもしれないが、権限を持つということは職務も増えるということでもある。

 与えられた官職は洛陽北部尉。おかげで北の二つの門の修理の他に、荒れた洛北の治安回復という余計な仕事まで回されてしまった。

 もちろん治安回復の方まで完璧にこなせとは、あちらも言ってきてはいない。今回の任官は北門修繕期間に限定された臨時的なもので、ことが終われば解官されるからだ。

 けれど、だからといって門の修繕のみに力を入れるというわけにはいかないだろう。実行者が自分でも、城門修復は事実上董仲穎の名で請け負っているようなものだ。仮にも洛陽北部尉を名乗っておきながら何の成果も上げないのでは、宮廷に名前が売れ出している親友の風評に関わる。かといって本腰を入れて取り組めば、いつ西平へ帰れるかどうかも分からなくなってくるのだから……。

 こちらにその裁量を任せてきている辺りが小賢しい。

 

(「ゆっくり考えてもいいから、答えを出せ」ってところか……。多少粉はかけられるかなとは思っていたけど……まさかここまでとはね)

 彼らが本気で董仲穎を派閥に組み入れようとしていることは、火を見るよりも明らかである。

(……考えてた中で最悪の事態だわ。都のゴタゴタなんかに月を巻き込みたくなかったのに……。それもこれも、そもそもあのアホ大将軍が呼び出しなんかしてくるからよ)

 背もたれに全体重を預けつつ、心の中で悪態をつく。

 

 双方と適当な距離を保ちつつ西平へ帰還。あの男も西平で当分の間、独占する。望み薄だとは思っていたが、賈文和の求めた最良の展開はそれだった。

 高等算術を修得した数少ない“男”で、奇跡的にどの勢力にも属していない。その点だけ見ても田伯鉄には利用価値がある。例の商業地区の活性化などの付加価値を足せば……。

 けれど、その展開は望めそうになかった。田伯鉄には都で達成すべき目的があり、そして彼女達の状況も非常によろしくない。黙って西平へ帰してくれる気がない以上、いつまでもどっち付かずというわけにはいかないだろう。

 

 どちらにつくのか選ばなければいけない。

 

 董仲穎の洛陽再訪問をどういう経緯のものにするのか。具体的に言うのであれば、どちらの呼び出しに応じるか。

 それが彼女たちの意思表示になる。

 しかし情報が少ない今、すぐにそれは決められないし、決める必要もない。洛陽北部尉の職務である、洛北の治安回復という“明確な終わりのない仕事”――彼らから与えられた猶予期間を十分に活用するつもりである。

 

(大将軍と両天秤にかけてることなんて、百も承知ってわけか)

 

 自嘲気味に嗤う。

窓からのぞくぼやけた空は、心とは裏腹に雲ひとつ無い。

 洛陽を二分する大将軍と十常侍の二大勢力。

彼女たちはその中間の、非常に不安定な立ち位置にいる。舵取りを誤ることは出来ない。いくらとっておきの“手土産”を持っていようが、渡す相手を間違えたのではどうしようもないのだ。

 

「…………」

(……本当にそうなの?)

 

 顎に手を添え、思案する。

 

『算術を使って男子復権を目指しています』

 

 あの話が本当なら、この都の基本思想は女尊男卑。涼州で軍閥を構成している彼女からすれば、本当に馬鹿馬鹿しい話である。いくら都が旧態依然としているといっても、まさか本気でそんな事を信じている人間がいるとは思えない。

 洛陽の女達が声高に男子の無能を叫ぶ理由はただ一つ。

 既得権益の確保だろう。

 

 だとしたら、疑問が生まれてくる。

 洛陽で対立している二大勢力という――前提条件に関わってくる重大な疑問が。

 

 

 そこまでして男の台頭を阻もうとするにも関わらず、十常侍や大将軍のような存在を放置するなどということがあるだろうか?

 

 

 宦官と外戚の争い。

 都の権力闘争の構図は単純で、実に分かりやすい。

 けれど、もしそれが茶番だとしたら?

 

「…………」

 

(いずれにしろ情報が足りない……か)

 

「はぁ……」

 眼鏡をかけ直し、再びため息。

 情報を集めるにしろ働きかけるにしろ、洛陽に“つて”が少ないことが何よりも痛い。太守職が実質世襲制になって久しい上に、もとより涼州は連合による半独立状態。涼州連合の盟主である馬家ならともかく、太守とはいえ一豪族である月に、都との強いつながりなどあるはずがないのだ。

(やっぱりあのアホ大将軍のせいよ)

 涼州でも比較的都に近く、連合の中でも馬家の影響力が少ないこちらを指名してくるあたり、実は有能なのかもしれないが、詠や月としてはいい迷惑である。

 人脈が、特に十常侍派のそれが足りない。

 先の討伐軍で知り合った面々は信用は置けそうではあるが、いずれも政局に明るいとはいえないし、軍人の彼女達は全員大将軍よりである。

(あの子は……ないか)

 今向かっている屋敷の持ち主も頼れそうにない。

 侍御史を務めていて、曲がったことが大嫌いな彼女は汚職官吏の敵。とてもその権化のような十常侍の方面につながりがあるとは思えない。

(都の政治情勢には詳しそうだけど……)

 最大の問題は、実は主である董仲穎なのかもしれない。

 宦官の専横は遠く涼州まで聞こえていることもある。正義感の強い彼女は、どちらかと言えば大将軍側につきたがっているのではないだろうか。けれど集めた少ない情報やこれまでの駆け引きを考えても、政治巧者なのは……。

 

 ままならない。

 この一言に尽きる。

 

 やはり大将軍について、十常侍とやりあうしかないのだろうか。

 考えるだけで気が滅入ってくる。

 詠は三度目のため息をつこうとして、やめた。

 いつだったか、

『ため息をつくと幸せが逃げるよ』

 そう言われたのを思い出したのだ。

『そんなことあるわけない』

 と返した自分に、なおも食い下がる親友。

 幼い頃の他愛ないやりとりを思い出して、彼女は久方ぶりに笑みをこぼす。

 その親友に会うのは十日ぶり。こんなに離れたのはいつ以来だろうか。

「……ん」

 頬を両手で軽く叩く。

 

(たしかに今の状況は良くないけど、見方を変えれば中央に食い込む好機。ここは腕の見せ所ってもんでしょ。

 それなのにその軍師が困った顔してたら、月を心配させちゃうじゃない)

 

 決意に答えるかのように馬が低く嘶く。

 賈文和は車中で目を瞑り、微笑んだ。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「これはこれは洛陽北部尉様。ようこそお越しくださいました」

「その呼び方やめてよ。賈文和でいいわ」

 見知った顔にバツの悪い顔で返す。

 党錮の禁などの政争が起こる度に、中央の官職は再編を繰り返してきた。その中で生まれたのが名職――実務を伴わない名だけの官職であり、各官職に相当する位階として諸侯にばら撒かれている。

 再編の中で名職とならずに消えていった官職もあり、洛陽北部尉はその内の一つ。本来の職務は北宮の門周辺の警備だったが、それは新たに作られた官職に取って代わられていて、その就任者は十常侍の親派で固められている。つまり軍を持たない彼らの私兵というわけだ。

 今回の仕事は洛陽城北の門周辺の治安回復。

 これは洛陽北部尉本来の職務ではない。それが使い走りに過ぎない今の状況を示しているようで、詠はどうにも好きになれなかった。

「かしこまりました、賈文和様。お越しになられたらお通しするように言付かっております。どうぞこちらへ」

 案内されるままに屋敷へ入ろうとして、門に掲げられた看板が目に入る。

 以前は汚い字(おそらくあいつの字だろう)で「田算塾」と書かれていたそれは、見覚えのある字で書かれた真新しいものに替えられていた。

 

「百式学院……ねぇ」

 

 田伯鉄が「百式」の号で呼ばれていることは知ってはいたが、詠にはどうもピンと来ない。確かに優れた算術を使うし、発想も面白いのだが、学者とはどこか違う気がする。その違和感が何なのかと聞かれれば明確に答えることはできないけれど、とにかくあの男に百式などという仰々しい名前は似合わないのだ。

(そういえば、いつもなら出迎えに出てくるのに、今日はどうしたんだろう)

「伯鉄は?」

「それが、伯鉄様はちょうど出かけておられまして。お昼までには帰ってくると仰っていたのですが……申し訳ございません」

「そう……ってちょっと待って。てことは今、屋敷には誰も居ないんじゃないの?」

「いえ、太白様がいらっしゃいますから」

「……それは家の人じゃないでしょ」

 月はそんなことは絶対にしないが、それにしたってあまりにも無用心ではないだろうか。

 呆れた様子の詠に、声を落として老使用人は返す。

「『身分秘匿のためにも客人ではなく、家族同然に』というのが伯鉄様の方針でございますので。それに賈文和様については心配無用とのお言葉を承っております」

「相変わらずお人好しというかなんというか……。でもまぁ、そこまで信頼されると悪い気もしないわね」

 すると、老人は少女を見て意味有りげに微笑み、

「では、太白様のお部屋へご案内しましょう」

 そう言って、再び先を行く。

「……お願いするわ」

 

 少し声が大きくなったのが、なんだか恥ずかしかった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 案内された一室。

 開いた扉の先には、西平にいる時と同じように、真剣な面持ちで筆を走らせている親友・董仲穎の姿があった。その眼差しは机の上に広げられた本と紙とを行ったり来たりしている。よほど集中しているのか、部屋に入っているのに気づいていないらしい。

「月」

「あっ、詠ちゃん」

 呼びかけると読んでいた本を閉じて、小走りに駆け寄る。

「元気にしてた?」

 両手をとって微笑みかけた。

 もう、半年以上も会っていなかったかのような自分たちの行動に、詠は心の内で苦笑する。けれど嬉しいものはしょうがない。

「うん。元皓さん達も屋敷の人達も良くしてくれるから……。詠ちゃん、洛陽北部尉になったって言ってたけど……」

「書簡にも書いたけど色々あってね。余計な仕事ばっか持ってくるのよ、あいつら。まぁ時間もあるし、難しい話は後にしましょ」

 少し不安げな様子で聞いてくるので、努めて明るく返す。

 心配させるわけにはいかない。

(それでも心配しちゃうのが月のいいところなんだけど)

 

「ところで、何やってたの?」

「えっとね。授業で使う教科書を作るお手伝いをしてて……」

「あの馬鹿……。西平太守を下働きさせるとはいい度胸じゃない」

「あっ、違うよ詠ちゃん。私からお手伝いさせて下さいって頼んだの」

 慌てた様子で訂正してくるのに、苦笑を誘われる。

 

 (……やっぱりじっとしててっていうのは無理だったか)

 

「そう。だったら何も言わないけど……。で、どうなの? その進み具合は」

「あともう少しっていうところかな。伯鉄さんはまだ納得できてないところもあるみたいだけど……」

 机の上に置かれた九章算術を見やる。まさに使い込んだといった感じのそれは、あの男にとって半身ともいうべき存在。

「あいつ、算術だけはとことんやるのよね。人に教える資格がーとか言って」

「ふふっ」

 親友の微笑みに、なんだか面白く無い方向に話がいきそうだと直感して、

「そういえば、ここに置いてあるこれは何なの?」

 洛陽北部尉は話題を変えた。

「お店で売る商品の試作品なんだけど。でも上手くいかなくて壊れちゃって……」

「商品?」

 足元に置いてある壊れた傘らしきものを拾い上げる。

「傘……よね?」

「うん。それは飛び出し傘って名前で……本当はこの、取っ手の近くにある出っ張りを押すと、片手でも簡単に開けられるんだけど……」

「……開かないわね」

 押してみるが、骨組みが歪んでしまっているのかピクリともしない。

「最初は動いてたんだよ? それで今度は材料とかを変えてみようって」

 それで授業もないのに屋敷にいないらしい。

「ふーん。頑張ってるのね」

 

(完成したら一本買ってあげようかしら。……って、え?)

 

「ちょ、ちょっと待って。あいつって算術の先生なのよね? なんでそんな技術屋みたいなことしてるのよ」

「えっと……商人くらすの人達の相談を受けてるうちに、引き受けるようになったって。商業地区の新商品のほとんどは伯鉄さんの案が元だって、生徒の子が言ってたよ?」

「…………」

 

 それはもう、色々とおかしい。

 

 今まで溜まっていた違和感が、一気に噴出する。

 

 引き受けてポンポンと商品案が出てくるのなら、そいつの頭は宝の山だ。天才といって差し支えないだろう。

 そう、田伯鉄が天才ならば、どんなにすごい算術を編み出そうが発明しまくろうが、それらは大した問題ではないのだ。現に親友は、なんの疑問も抱いていない。

 

(でも、ボクには……)

 

 詠には田伯鉄が天才だとは思えなかった。

 勧誘したくらいだ。もちろん能力は認めている。算術も高度なものだし、考え方も柔軟。しかし天才かと聞かれれば疑問が残る。

 あの男のそれは、直感やひらめきの類なんかではなく――。

 違和感の正体にたどり着いた気がした。

 

“知っている”

 

 この表現が一番しっくりくる。

 

 思いつくのではなく思い出す。

“知っている”のだ。

 それも誰も思いつかないようなことまで。

 

(これじゃまるで……)

 

「…………」

 頭をよぎった馬鹿馬鹿しい考えを打ち捨てる。そんなわけがない。いくらなんでも妄想が過ぎるというものだ。

 

(……どうかしてる。よっぽど疲れてるんだわ)

 

 あの間の抜けた男を天才とは認めたくなかった。つまりはそういうことだろう。なんと器の小さいことだろうか。

 疲労とともに、情けなさが湧いてくるのを詠は感じた。

 不思議そうにこちらを伺う親友を安心させ、彼女の成果を見に机へと向かう。

 

 途中にある窓。

 横目に見えるは荘厳で、それでいて強欲が蠢く王城。

 

(伯鉄に協力してもらうのは、もう少し先になりそうね)

 

 声には出さず、呟いた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「お邪魔するよ~」

 

(……またあいつか)

 

 扉の向こうから力の抜ける声がかけられるのに、男は眉を顰めた。

「邪魔するなら帰ってくれ」

「はははっ。意地悪言わないでよ」

 笑いながら入ってくる小太りの男。

 無駄だと知りつつ冷ややかな視線を浴びせるが、やはり効果はない。

 

「君は天子に仕える身でありながら、礼儀がなってないな孫中常侍」

 

「君は天子をお慰めする身でありながら、堅すぎるんだよ宋中常侍」

 

 可笑しさに耐え切れなくなったのか吹き出した男を見て、げんなりする。

 孫中常侍、宋中常侍と互いに呼ばれたこの男達こそ、悪名高き十二人の中常侍――世にいうところの十常侍の二人。

 孫璋と宋典、その人であった。

「……それでどうした? 何かあったのか?」

「別に~。ちょっと世間話をしようと思ってさ……んしょ」

 言いながら許可も無しに勝手に椅子に座る。

 孫璋のこうした振る舞いは日常茶飯事なので、最早その更生は諦めていた。

「世間話?」

 聞き返しながら真向かいの席へ座り直す。

「うん。洛陽北部尉と会ってきたんでしょ?」

「ああ」

(賈文和か)

 宋典は自分と同じく眼鏡をかけたキツめの少女を思い出した。

「補佐役というか取次役に選ばれたからだよ。私は鉤盾令として宮殿の修繕を請け負ったこともあるからな。何か困ったことがあれば声をかけてくれと……それだけだ」

「残念ながら彼女にとっては、今の状況自体が困ったことだけどね」

「それについてはどうしようもないさ」

(可哀想ではあるが……)

 王朝の威光(すでに司隷以外が支配地域でないと言っているようなものだが)を示す意味でも、匈奴討伐は洛陽の官軍のみで行うべきだったと宋典は考えていた。

 実力はともかく、所詮は涼州の田舎太守にすぎない彼女らが何進に味方したとして、一体どれほどの脅威になっただろう。気になるなら、何か適当な理由を作って都から追い出せば良かったのだ。

 実際会ってみて感じたことだが、彼女らに都でのし上がろうという野心があったとは思えない。しかし、戦で功を立て、中郎将にまで進んだ董仲穎は、最早無視できない存在となってしまっている。

 孫璋に合わせて笑いながらも、宋典は賈文和には内心同情していた。

 だからといって何かしてやるつもりはなかったが。

「で、賈文和ちゃんはどうだった?」

「先の匈奴討伐の報告や、今回会った印象からの推測だが……恐らく“才持ち”だなあれは。大将軍様も面倒な人間を連れてきてくれたも――」

「そうじゃなくて顔だよ顔!」

「は?」

 話を遮って放たれた言葉の意味するところに、宋典は唖然とする。

 

(こいつはなにをいっているんだ?)

 

「賈文和の顔だよ。どうだった?」

「…………」

「そんな汚いものを見るような目をしなくてもいいじゃないか。男なら誰だって可愛い娘は嫌いじゃないだろう?」

 目の前の男が本当に“切り落として”いるのかどうか、蹴りを入れて確かめたい衝動に駆られる。ここが宮城の一室でなければ躊躇いなくそうしただろう。

 それを何とか我慢して、

「……たしかに魅力的ではあったよ」

 出来るだけ無愛想に返す。

 答えなければしつこく聞いてくることは、過去の経験から知っている。

「いいな~。僕もお近づきになりたいな~。ねぇ、宋中常侍。取次役代わってよ」

「私に言ったってどうにもならん。我らが盟主に掛け合えばいいだろう。多分、却下されるがな」

「どうしてさ」

「まさかとは思うが、本気で聞いてるのか? 君の様に胡散臭い奴が取次役になってみろ。董仲穎がこちらにつく可能性など消し飛んでしまうからに決っている」

「はははっ、ひどいなぁ」

 ヘラヘラと笑うのを見ていると、一つの不安が頭をもたげてくる。

 

(まさか本当に馬鹿話をしに来ただけじゃないだろうな……?)

 

 孫璋とは宦官になる前からの付き合いだが、昔からどうも掴みどころがない。しかし、いくらなんでもそんなことは……十分考えられるのだから困る。

 

「心配しなくてもちゃんと面白い話も持ってきたから」

 心を見透かしたかのように笑いかけてくるのを見て、

(こういうところが苦手だ)

 宋典は思いつつも、それを悟らせまいと強気に言う。

「……世間話と言っておいてこれだからな。面白い話というのも期待しないぞ」

「それで構わないよ。でも、きっと気に入るはずだよ」

 苦笑しながらも断言。

 いつもふざけ気味のこの男にしては珍しい。

「と、その前に……お茶か何かくれるかい? 喉乾いちゃってさ」

 

(……やはり苦手だ)

 

 宋中常侍は厚かましい同僚の要望に答えるべく、席を立つ。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「最近、大司農の方で面白い動きがあるのは知っているかい?」

 孫璋が“面白い話”を話し始めたのは、献上品の高級茶を三杯も飲んだ後であった。

「大司農で?」

 大司農は王朝の財政を主管する役職である。

属官には太倉、均輸、平準、都内、籍田の五令が設置され、穀物の管理、供給、物資価格の調節等の財政業務を執り行っている。

 そこで面白い話というと、

「また、誰かの不正が発覚したのか?」

 宋典がその答えに至るのは当然といえば当然であった。それほどまでに洛陽の政治は腐敗している。しかし、孫璋は口の端に笑みを浮かべ、

「それじゃあ、よくある話だよ。面白い話にはならない。……不正がよくある話ってのもどうかとは思うけどね」

 大袈裟に肩をすくめてみせた後、

「……男たち、中下級の官吏達が、偏見と差別の撤廃を求めて水面下で動きはじめてる」

 そう続けた。

 何事かと期待していた宋典は肩透かしを喰らった気分である。何故ならそんなことは……。

「それこそこの都では昔からよくある話だろう。これまで多くが求め、そして誰もそれを成し得なかった。だからこそ私も君も“今の立場”を目指してきた。違うか?」

「ま~、それについては否定しないけどねぇ」

 困った風に笑う。

「じゃあ、宋中常侍は今回の動きも潰されると思うの?」

「ああ。あの蔡倫でも成し得なかったことだ。有象無象に出来るわけがないさ」

 

 蔡倫

 

 男性文官の地位向上のために奔走した彼は、都の男達にとっての偉人であった。

 富と権力を得るために宦官となり、手に入れたその力を利用して紙を発明・改良。一連の技術革新をもって男が無能でないことを証明しようとした革命家だ。

 彼は世界に挑み、そして敗れた。

 

「蔡倫はたしかに天才だったと思うけどね。彼の敗因は研究が専門的すぎたからだよ」

「…………」

 尊敬する先達を否定されたようでむかついたが、それを押し止め、無言で続きを促す。

「新技術の開発なんてのは誰にでも出来るものじゃないでしょ? 蔡倫の場合、天才過ぎて研究内容もぶっ飛んでたし。だから結局『あの男だけは特別だった』ということにされちゃった」

 言い終わり、お茶に手を伸ばす孫璋。

 四杯目だ。

「……では、今回のは違うとでもいうのかい?」

「……んくっ……あ~、美味しいねこのお茶。えと、なんだって? そうそう。覚えさえすれば誰でも運用できるものだよ」

 からかうような目で宋典を見る。

 

(「考えてみろ」ということか)

 

 大司農――財政を司る役職。

 中下級の官吏――実務者達だ。

 覚えれば誰でも使えるという。

 それはつまり……。

 

「…………算術か……」

「せーかい」

 碗を置き、手を叩く。

「学問で攻めるというのはね。効果的だよ、とても。人間は基本的に学んでないことはできないからね。その中でも、算術は儒学なんかと違って運用その他で能力の差がはっきりと出る」

「その能力の差が教育の差であることを証明するのに、算術は最適だということか」

 男女の差が教育の差であると証明するために、学問を使う。それは、

「まさに正攻法だよね~。例えば女よりも計算処理が格段に早い男がいたとするよ? 保守派の女たちは女が男に劣るとは認めないからね。じゃあ、なんで負けるんだってことになる。

 当然言うはずさ。『自分たちだってそれを学びさえすればできるんだ』ってね。でもそれは……」

 一旦言葉を切って茶を飲み干した後、

「今の男達が主張していることそのものになってしまう」

 菓子に手を伸ばしながら言う。

「……『同じ事を覚えたらこちらの方が早い』と言うと思うよ。奴らなら」

「大した問題にはならないよ」

 菓子をかじりながら「何を言っているのか」といった感じで笑っている。いつもなら腹を立てるところだが、内容が内容だ。ポロポロと食べかすを落としていることも、気にならない。

 

 ……いや、少しは気になる。

 

「『人の能力は後天的なもの――つまり教育次第で大きく変わる』この手のことを言わせるだけで十分なんだよ。君の言う“才持ち”はともかく、大部分は女というだけで教育の優遇を受けていただけなんだから。

 同じ事を学んだとしても、女が絶対的に優位というのはまずないと思う。一つでもそういう分野を作れるというのは大きな一歩だよ。それでも女の方が優れていたら……ま~その時は大人しく尻に敷かれようよ」

 先ほどまでの真剣さは何処へやら。

 楽しそうに笑いながら、再び菓子に手を伸ばした。

 

(いつも真面目でいてくれれば心強い相棒なんだが)

 

「けれど、孫中常侍。算術が女よりも得意な男なんてのは前からいただろう? どうして今回に限って大事になる?」

「それは……直接見たほうが早いかもね」

 言いながら汚れた手を濃い緑色の官服で拭い、懐から一枚の紙を取り出す。

「大司農には知り合いが結構いてね。あ、何の為とかは聞かないでよ」

「聞かないさ。お互い叩けば埃の出る身だ」

「ははっ。ま~それもそうだよね。……これはその筋から手に入れた噂の算術の一部。女には見せないって約束でもらったんだ。君は僕と同じで“ついてない”けど、女じゃないから見て大丈夫だと思う」

「…………」

「そんな怖い顔するなよ~。冗談が通じないなぁ」

 

 机の上に広げられた紙。それは先達・蔡倫の努力の結晶。

 果たしてそこに書かれた内容は――。

 

「僕は算術は門外漢だけど、君は結構出来たよね。どう?」

「……明らかに大司農の業務で使用する範囲を超えている。正直なところ、最後の方のやつは私には解けない。……高等算術……か。太史令かその辺りの奴が裏で手を引いてるのか?」

 太史令とは吉兆や災異を記録し、主に時節、天文、星暦を司る役職である。

「いいや違う。自分の立場が危うくなるかもしれないのに、そんなことするわけがないよ。それに、太史令には女の子しかいないじゃない」

「なるほど。それは至極もっともだ」

 流すように宋典は返した。もとよりただの確認である。

 高等算術は彼女らの地位を担保する切り札。秘匿しているそれをみすみす他人にばら撒くとは思えないし、それにこの都で男子復権を目指すことの困難さは誰もが知るところである。成功の確率はあまりに低く、失敗したときに失うものは計り知れない。

(それに女である彼女らがそんな事をする旨みもない。あったとしても危険性の方が断然大きい)

 

 なら一体誰が?

 

 孫璋はすっきりしない様子の同僚を満足気に見て、ようやく話の核心に入る。

「ここからが“面白い話”なんだ。さっきまでのは男にとって希望が湧いてくる話。ま~僕からすれば? ちょん切っちゃったの早まったかなーとか、後悔が湧いてくる話なんだけどさ」

 ヘラヘラ笑いながら続けるのを、宋典は黙って聞いた。

 

「それを彼らに教えている人間は『百式』というらしい」

 

「ひゃくしき?」

「号だよ。無数の算術式、解法を自在に使いこなすっていうのが由来みたい」

 

(なるほど、それで百式か……。確かに算術家には相応しい号なのかもしれない)

 

「で、だ」

 おもむろに立ち上がると、机に両手をついて身を乗り出してくる。途端に妙に脂っぽい匂いが鼻をついた。

 しかし、当の孫璋は顔を顰める宋典を全く気にする様子もなく、

「その百式の正体というのが面白い。僕達の可愛らしい敵・田豊ちゃんの噂の兄君というじゃないか」

「田豊? あの侍御史の?」

 

 侍御史田元皓の兄。

 宋典もその存在については風の噂で知っていた。

 向こう見ずな彼女が長安で殺されそうになったとき、それを助けたという生き別れの兄。明らかに嘘だと思ったが、そうする意味が分からないし、十常侍内では議題にすら上がらなかったので静観していたのだった。

(たしか名前は……)

「思い出した……。田鋼だ。字は伯鉄」

「ふぇーふぁい」

「…………」

 一発殴ってやろうという思いを、雑役時代に培った鉄の自制心で何とか押しとどめる。

「口にものを入れたまましゃべるな、行儀が悪い。それに一体なんだ? その脂っぽい匂いは」

「……んくんっ……ああ、これ? お昼に市中で噂の拉麺を食べに行ったんだけどさ~。美味しかったんだけど汁が濃いのなんのって。あれ、大盛りで頼む人とか信じられないね」

 あっけらかんとした様子だ。

 

(……宮廷を抜けだして食べに行ったということだろうか)

 

 同期の信じられない行為に目眩がしてくる。

 さすがに文句を言おうとして、

「それでね。その拉麺屋がある商業地区って、田家の屋敷に結構近くてさ」

 それを飲み込む。

「…………」 

「やたらに活気づいてるんだけど。それは百式が私塾を始めて少し経った頃からみたいでね」

「……百式の影響だと言いたいのか?」

「断言はできないけど、十中八九は。あと、もう一つ。賈文和とも接触してるらしいよ。まだその女の子が彼女本人かどうかは分かってないんだけど…………可愛いんでしょ?」

「……ふむ」

 宋典が顎に手を当てて考えるのを見て、

「どう? 宋中常侍。洛陽に突如現れた算術家『百式』……よりにもよって“この都”で、しかも“男”を対象に高等算術を格安の授業料でバラ撒くいかれた男。

 算術が急激に発達したのは蔡倫が紙を発明してからだから、その後継者としても資格十分。面白い話じゃない?」

『どうだった? やっぱり面白い話だったでしょ?』といった顔で話を締めた。

「…………」

 この男の言を認めるのは何というか、とても癪に障る。癪に障るのだが、

「……ああ。ありがとう、孫中常侍」

 口角が釣り上がるのを止められない。

「賈文和の話の時点で追い出さなくて良かったよ。いつもこれくらい実のある話をしに来てもらいたいね」

「ひどいなぁ。……で、どうする? 当然動くよね?」

 皮肉をこめた物言いにも全然堪えた様子はなく、部屋を物色し始める。

 これももう、いつものことなので注意はしない。

「もちろん。十常侍といっても、私と君の席次は十一と十二。十常侍の十にも入っていないというのは哀しすぎる話だ。それに……君もそのつもりで私に話したんだろう?」

「まーね。正直手詰まりだったし。そこへなにやら引っかき回してくれそうな百式様のご登場だよ。これを活かさない手はない」

 宋典は舌なめずりをしながら器に酒を注ぐ同期を見つつ、これからのことに思いを巡らせる。

 

 大将軍と十常侍の二大勢力の対立。

 そこに予想外の第三勢力を登場させることができたなら……。それも普通の政治勢力ではなく、思想集団という形で。

 

(上手くいけば奴らを一掃できるかもしれない)

 

 

「……ところで、その酒。どこから出してきた?」

「ま~ま~細かいことを気にするなよ」

「君ってやつは……」

 

 

 

「漢室のためにっ」

「……漢室のために」

 

(これは所謂景気づけだ。昼間から呑んだって、バレなければ構わないだろう)

 

 

 悪友と酌み交わす酒は、いずれ手に入れるであろう勝利の味がした。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。