【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

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第02話 胡蝶の夢

――――

 

 どこか懐かしい声がする。

 

――と?

 

 再びの少女の声。

 凛としたそれが自身の名を呼ぶものだということ。そして、その主がいつの間にか傍らにいたことに気づく。

 同時に自分が置かれた状況にも。

 

「ごめん。少し目眩がしてたんだ」

 思わずお茶を濁した。

 実際やましい事を考えていたわけではないのだが、結局のところ「主が呼びかけるまで気づかなかった」という不甲斐ない事実は変わらない。

 

(さっき怒られたばっかりだってのに)

 

 恥じ入る気持ちから視線を少女から逸らすと、先には無数の家屋に、道を行き交う人々。彼女の治める街が広がっていた。

 門や楼閣などのランドマークから、付近の様子やそこで出会った人々が思い起こされる。それは自身がここに世話になってから、それなりの日数が経過していることを意味していた。

 

 ここから何が見える?

 

 思わず声の方を見やる。

 壁上の風に髪を流しながら、主君たる少女は同じように街を眺めていた。

 質問の意図が分からない。

 その視線を追いかけ、

「街が見える」

 とりあえず見たままを答えたが、当然ながらそれが合格点を満たすことはない。

 

 ここから突き落とされたいの?

 

 意図に気付けず、促されるまま、目に映るままを答えていく。

 家があって、店があって、人がいて、働いて、ご飯を食べていて――そう、そこには見慣れた日常があった。何でもないただの日常。しかし――、

 

(ああ、これなんだ)

 

 ようやく少女の言わんとすることを理解した。

 

「人がいる。人が、生活してる」

 

 人々の営み。その幸せこそ彼女が守ろうとするものなのだと。

 自身の答えに、見間違いでなければ一瞬、彼女は微笑んだように見えた。

 そして視線を己が街へ戻すと、自らの想いを語り始める。答えが分かっても口を挟まないのは、それが彼女の決意だと知ったからだ。

 

 思い返せば、この出来事が契機なのかもしれない。

 傍らに立ってはいるが、支えにはなれていない。

 ある意味当然だとすら思っていたその事実に、悔しさを感じるようになったのは。

 

 

 

 

 規則的な電子音に、河北大和もとい田伯鉄の意識はまどろみから脱する。音の正体は目覚まし代わりの携帯のアラームだ。

 中国時代劇のセットのような部屋の中、その登場人物のような格好をした男の顔が、液晶の明かりに照らされる。スヌーズを消して閉じると、鏡面仕上げのバックパネルに映る己の姿。自身を客観視した大和は、シュールな光景に低く喉を鳴らす。

 

 顔に重なって映るデジタル数字は、午前4時30分であることを示していた。もっとも、「ここ」の時刻と合っているかは、当人にも分からない。例え合っていたとしても、不定時法が採用されているこの世界では、ストップウォッチ的な使い方が現実的なのだが。

 元いた世界では肌身離さず持っていた相棒だったというのに、今では日々の睡眠時間の管理とたまのカメラ、思い出のアルバムの役割くらいしか果たさないというのは悲しい話ではあった。

 電池の残量は80%。一日中出掛けることを考えても、充電には早い。体をしぼるように一つ大きく伸びをして、出仕の支度を始めるべく立ち上がる。

 

 寝台横の卓上に置かれた携帯電話。待受に映る元の世界は以前より遠くに感じられて、それが少し寂しかった。

 

「あっ、お早うございます」

 手早く着替えと朝餉を済ませ、出仕へ向かうために書簡を脇に靴を履いていると、もはや聞き慣れた妹の声がかかる。

「おはよう。もう起きてたのか」

「いえ、ちょっとお手洗いに……」

 言いかけて突然顔を伏せる。何事かと小さな肩を震わせるのに、

「どうした?」

 屈んで顔を覗きこむ。大和は分かってやっていた。

「ごめんなさい。だってその、ふふっ、まだ慣れなくて」

「これなぁ。ったく我ながらもうちょっと格好良くならんのかね」

 口ひげを撫でながらぼやく。

 

 国に仕官するにあたって、賈文和から「嘗められらないように」とのアドバイスがあって髭を伸ばすことにしたのだが、口ひげの伸びが中央と両端で全然違うために、なんとも間の抜けた顔になってしまっているのである。

 ちなみに仕官の諸々の手続き等の後、再会した彼女の反応は「……まぁ、油断させるっていうも一つの手だしね」という無情なもので、隣にいた彼女の親友にいたっては、ちょうど先の妹と同じ様子であり、ツボに入ったのか最後に仕官祝いの官服を渡してくれるまで、ことあるごとに笑いを堪えていた。

 

「兄さんはかっこいいですよ」

「下手な慰めはよしてくれ。これに関しては同僚からも散々なんだから」

 女だらけの新入官吏歓迎会での悲しい出来事が脳裏をよぎる。

「よし。じゃあ、行ってくるよ」

「はい。あの……」

「ん、何だい」

「その、今日も早いんですね」

「当分の間は軍に合わせなきゃだからね、うん。まぁ、帰りはいつもと一緒だよ。菊音は?」

「わたしはいつも通りです」

「じゃあ晩飯は一緒に食べれるな。ああ、そうだ」

 大袈裟な声と一緒に手を打つ。

「爺さんにあっさりしたの頼んどいてよ。軍といえばあの人だろ?……昼はまたドロドロのラーメン食べる気がするんだよ」

 

 笑う顔にもどこか元気がない。

(うん、やっぱりな……)

 大和は特段女性の機微に敏いわけではないが、それでも疑うべきものがある。

 即ち、『菊音は自分に対して何かしら負い目を抱いているのではないか』ということ。これは大和の中で確信に限りなく近づいていた。

 彼女の様子がおかしくなったのは私塾を開く開かないの時期である。

 今となっては信じがたいことだが、就活当時の彼の心境としては「とにかく食い扶持と帰還方法の調査費用を稼げればいい」くらいの認識であった。

 そんな大和に算術を薦めたのが彼女である。結果、大金を稼ぐにまで至ったが、同時に大事に巻き込まれてしまっている。

 

 実際、彼女が何の予想も対策もしなかったかといえば、そんなことはない。

 大和が知らないところではあるが、彼女は彼女なりに出来ることの全てを行っていた。私塾で名を上げた暁には、自分の信条を曲げてでも、中央政界から遠い太史令に口添えするつもりであったし、もしも政争に巻き込まれたなら全力で守る気でいた。

 

 彼女にとっての最大のイレギュラーは、董仲穎と賈文和、そして側用人の老人であった。

 年末から田伯鉄を取り巻く状況は一変。宦官、外戚を巻き込む大きなうねりとなっており、もはや一侍御史の手には負えないところにまできてしまっている。

 董仲穎や賈文和が自己の権勢のみを追求する悪人であれば或いは、老人が妄執に囚われた復讐者であれば或いは、兄たる大和を引き離すことが出来たかもしれない。しかしながら、三人ともそのような人物ではなく、むしろ彼女にとっては嫌いになれない人物であり、何より大和が彼女らに協力することを良しとした。

 

「早いうちにどうにかしたいんだけどなぁ」

 妹と別れ、出仕の馬車に揺られながらひとりごちる。

 今のこの状況こそが、妹の異変の原因であることは間違いないだろう。彼女が自分のせいで大事に巻き込まれたと思っているのであれば、それを否定するのが一番である。

 つまり、自分の意志でこう在るのだと示すわけで、

(……結局やることは同じってか)

 最早、何度目になるだろうか。大和は無力さに天井を仰いだ。口でいくら言ったところで、気を使われていると思われるだろう。今の状況では半分くらい強がりが入るのは自身でも予想がつくし、それに田豊が勘付かないわけがない。

 

(であれば、だ)

 やはり状況の側を変えるしかないのだ。

 宦官と外戚、男と女の狭間で求められた役割を演じきり、都に新しい秩序を誕生させなければならない。

 

『そんなこと出来るわけがないだろう』

 

 かつての己が囁くところを力づくで黙らせる。

 実際何のことはないはずだ。大和は呪文のように自身に言い聞かせていた。件の女将軍が仕官祝いに長剣と一緒にくれた言葉を借りるなら、『やれることを懸命にやるということ』それだけである。彼女の在り方は彼にとって指針の一つとなりつつあった。

「千里の旅も一歩からか」

 苦々しい思いで、繰り返し読んだ孔子の一節を唱える。

 決意してすぐに変われるのであれば、それは相当な意志の持ち主である。実際にそう上手くいくことは少ない。直面している問題が手に余るのならなおのこと。

 しかし、時は人を待ってはくれない。

 それを端的に指し示すかのように、気付けば王城はすぐそこまで迫っていた。

 

 

 手前で馬車を降りて大通りを経由、門をくぐり庁舎へと向かう。

 まだ早朝のためか城内は人はまばらであるが、それでも周囲からの視線が刺さるのはいつもの通りであった。囁くような声の中に自身の名前を見つけた大和は、何気なしにそちらを向く。話をしていた女性官吏達は一斉に目線を逸らしたり、わざとらしく咳払いする。これもまたいつも通りの光景である。

 

(……まぁ、最初の頃に比べれば幾分かましか)

 

 大和は愛想よく一礼して、先へと向かう。

 彼女たちの立場になれば、あの反応も仕方のないものである。大和は諦観めいた考えで、傷つこうとする己が心を慰めた。

 それもそのはず。王城は年明けに激震が走り、その余波が未だ周囲を騒がしている状況である。一連の動きは、匈奴中郎将即ち董仲穎の少府就任に端を発していた。

 少府とは皇帝の下、三公に次ぐ実務機関――概数で呼ぶところの九卿の一つ。宮中の御物、衣服、宝物、御膳などを含めた財政管理を司る官職である。

 故にいくら対匈奴の遠征軍において功績があるとはいえ、地方太守にすぎない彼女がこれに就くなどとは、当然ながら誰も予想してはいなかった。

 それどころか、「彼女は大将軍か十常侍の――敵対した側によって罰せられることはあっても、これ以上の昇進は望めない哀れな駒である」というのが宮中における大方の評価であった。

 もちろん根拠とするものもあった。先の戦争の事後処理の中で浮かび上がってきた、彼女とその親が進めていた南匈奴に対する融和政策である。

 

『対異民族政策は国防・外交の重要案件であり、たとえ実際に影響を被る太守であったとしても、これを皇帝の許可なく決定し、遂行したのは許しがたい』

 

 上手く言いくるめてこの一言でも「頂戴」できればそれで終わりである。それが分かっているからこそ、董仲穎は保身を図り、大将軍・十常侍のどちらにも媚びを売っているのだ。

 多くがそう思い、哀れみ、あるいは嗤う中、年賀の謁見にて彼女が「頂戴」したものは、それらすべてを裏切るものであった。

 

『五胡の中、南匈奴は烏桓とともに光武帝以来の体制内異民族であり、寛容を旨とする政策は王朝伝統のものと一致する。董卓らは一度途絶えたそれを復活させ、律儀に守り抜いた忠臣である』

 

 事情を知らぬ近従者達が凍り付き、眼球が零れ落ちんばかりに驚いたのもつかの間、領内での善政やこれまでに至る欠損のない納税などを称えられ、その日のうちに少府に就くことが発表されたのだ。

 この電撃人事について、大将軍と宋典、孫璋ら一部宦官らの関与が明るみになるに至り(孫璋などは任官発表の現場で大いにこれに賛同していた)、洛陽の人々はようやく理解した。

 

 いよいよ二極政治が動く時が来たのだと。

 

 そこから、人々の目が百式こと田伯鉄へと向けられるまでは、大した時間を要しなかった。

 男と女という、外戚対宦官とは別軸で行われている都のもう一つの闘い。そこで密かに噂されている人物が、特例でもって尚方令に迎え入れられるというのだから。

 噂の出所がどうやら十常侍であること。尚方令の官・尚方丞が、かつて男子復権を掲げて敗れた蔡倫の官歴の一つであることからも、この任官が今後の政局に関係するだろうことは火を見るよりも明らかであった。

 止めとしてつけ加えるならば、尚方令は他ならぬ『少府』の属官であり、田伯鉄の任官は董仲穎の推挙によるという。

 

 こうした事情から、宮中内は誰が敵で味方なのか、それ以前に誰につけば生き残れるのかの探り合いが未だに続いている。大和の生活にも好意と敵意、信頼と猜疑心、羨望に畏怖といったものが、スパイスと表現するには過度に振りかけられている有様であった。

 

「はぁ」

 等間隔に灯りを揺らす廊下の先、扉の前で一つ深呼吸し、

「田尚方丞、罷り越しました」

「どうぞ」

 やわらかい声に緊張が解れるのを感じつつ、衛兵が戸を開けるのを待つ。洛陽らしい華美な装飾の中、物々しい政務机に不釣りあいな部屋の主が、笑顔で大和を迎えた。

(ああ、ここはオアシスじゃないか!)

 王城の陰湿な空気にやられているからか、一週ぶりに会う直属の上司にして盟友・董仲穎の姿に妙な多幸感が頭を満たす。

 それを十分かみしめた後、

「お早くないですかね?」

 押印が必要な書簡を渡し、対面の椅子に座る。

「それなら。伯鉄さんもですよ」

「私はたったの七日間ですよ。でも少府様は年明けからずっと」

 芝居がかった表情と仕草に口元を抑えて笑うが、やはり、少し無理をしているように見える。

 彼女は慣れない環境の中、完璧な仕事を求められている。その上で都の因習と戦わなければならないのだ。伝え聞く働きぶりが真実なら、むしろ疲れていない方がおかしい。

「少しは休まれたらどうです」

 大和の口調は軽く、しかし思いは切実なものだった。

 けれども、

「やらなければ、いけないことですから」

 表情は柔らかく、しかしきっぱりと盟友は言う。

 言わんとすることは分かる。おそらくそれが正しいことも。

 望んでやっている以上、「可哀想だ」などと思うのは甚だ見当違いなことであり、失礼である。それも分かっている。

(それでもだ。たくさん世話になったし……手伝いたいと思うくらいはいいだろう?)

 自分に言い訳を済ませると、書簡に目を走らせる月に対し、大和は提案する。

「何か手伝えることはありませんか?」

 顔を上げると、困った風に笑う。

「あの、その、ホントに何でもいいんで」

「……伯鉄さん」

「なんだったら、そう! 重いもの運ぶとかでも。こう見えて力は結構あるんですよ」

(ああっ、何言ってんだ俺は! 断られそうだったからっつってももうちょっとマシな提案を)

 饒舌に語るや否や脳内で盛大なツッコミを入れる。雑用など、それこそ隅の机で笑いを堪えているそこの属官が行う仕事であって、田伯鉄が行うべき仕事ではない。

 『百式』の役割を果たすことこそが、彼女にとっての最大の助力となるのだ。仮に手伝ったとして、大した実務経験のない人間が何の役に立つというのか。

 感情に任せた馬鹿げた提案に大和が頭を痛めていると、とうとう月も堪えられなくなった様子で笑い出した。

「少府様?」

「ふふふっ、その……ごめんなさい。去年のことを、思い出しちゃって」

「去年のこと、ですか?」

「はい。私もさっきの伯鉄さんみたいに、ふふっ、お仕事もらおうとしてたなって」

「あ~、そういえば」

「あの時は、私も無茶を言っちゃって」

 懐かしい太白時代の思い出話に大和の顔もほころぶ。少し前のことであるのに、ずいぶん昔のことのように思えた。

「あれから大分経ちますね」

 在りし日を懐かしく思ったのだろうか。少女は目を細める。

「ええ、まったく。宮仕えより自営業のほうが気ままで楽だったと実感してます」

「伯鉄さんは、その、最近はどうですか?」

 はにかむ奥に揺れる心配と謝意に気付き、

「確かに初めてのことだらけで緊張しましたけど、近頃はコツをつかめた気がしますよ。特に……嫌味を言ってくる女性のあしらい方とか」

「……よかったです」

 上司は失笑して、確認し印をしたものを手渡してくる。どうやらこちらの心の内も筒抜けらしい。かつて田家の屋敷でそうしたように、二人は顔を見合わせて笑った。他愛ないやり取り。しかし、それは進行形の権力闘争を、つかの間忘れさせてくれるのには充分だった。

 

「それで、あの、お手伝いの話なんですけど……」

「ああ、さすがに無いですよね。すみません、無茶を言ってしまって」

「いえ……お願いしたいことがあります」

「本当ですか?」

「はい、でも……伯鉄さんも、忙しいですよね?」

「いえいえ、軍関係のも今日で終わりなんで。楽勝です」

 全部が嘘ではない。少なくとも軍の仕事は今日で終わる。

「じゃあ、お願いしても、いいですか?」

「バッチ来いってやつですな」

「ふふ、それも久しぶりに聞きました。ありがとうございます」

 では、お願いしますね。の声で部下が目の前の机に書簡を運んでくる。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……。

(……よ、予想外に多いな)

「あのっ、私からのは最初のもので、残りはその……」

 引き攣る大和の顔に気付いて弁明するが、歯切れが悪い。

「あー、分かってます。というか、今分かりました」

 何気なしに手に取った書簡の末尾に答えがあったのだ。そこには見慣れた字で、

 

 喼急如律令

 意訳:さっさと終わらせなさいよ。

 

「私のは後回しでいいので……」

「かしこまりました。他はまぁ、後ほど陣で顔を合わせるでしょうし、詳細についてご本人から伺います」

 書簡を組紐で手早く纏める。黒と茶を基調にしたそれは、門人の一人に貰ったものだ。

「これで良しと」

「今から行かれるんですか?」

「ええ。出来るだけ早く来いとのことだったんで」

 身支度を済ませると恭しく礼をする。

「それでは、失礼いたしました」

「はい。詠ちゃんにも、よろしくお願いしますね」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 洛陽の北北東にある夏門。高さ二十丈にも及ぶその壁上には、風がうなり声を上げながら吹きつけている。田伯鉄はくるまった外套に顎を埋め、遠くに繰り広げられている光景を見つめていた。

 彼の瞳に映っているのは、魚の大群のように動く二色。時折、かつて球場で聞いた歓声にも似た声が、風とともに鼓膜を震わす。

 蠢くそれは〝北面の騎士”と呼ばれる者たち。

 官軍と西平の軍、それに匈奴を加えた――いわゆる洛陽の北に陣幕を張っている軍の俗称であり、渦巻く疑念の論拠となっている存在だ。

『北の状況を見るに、天子様は本気で改革を進めるおつもりなのかもしれない』

 かつて皇帝の命にこうべを垂れながらも、「売官で得た資金で直属の軍を組織する」などということは机上の空論である。誰もがそう考えていた。売官の収入が莫大であるとはいえ、それは一時的なものにすぎない。

 常備軍を、それも八軍を組織し維持し続けるのは無理があるというものだ。事実、最終的に組織されたのは、呂布、張遼、華雄の三軍に過ぎず、一軍当たりの規模も構想時のものから大分縮小されていた。

 それはともかく、とりあえずの体裁を整えて一段落――となるはずであった。

 ところが、である。大将軍・何進と宦官の対立が激化する中で動きを鈍化させていたはずの軍は、討伐行を挟んでの董仲穎少府就任を機に一転。冬眠から覚めた獣のように活動している。このままどこかに攻め入ろうかというほどだ。

 

 二色が一気に近づいていく。あの全てが軍装に身を包んだ人間なのだ。

(さらしを軍装と呼ぶかは大いに疑問だが……)

 二重にも三重にも現実離れした光景に、ふと、誰かから聞いた話が頭に浮かぶ。

『胡蝶の夢』

 あれはいつだっただろうか。

 その正確な書名も、文句も覚えてはいない。が、たしか、今の自分自身にも当てはまるような内容だったはずである。かすみ目に強めのまばたきをくれてやりつつ、記憶を辿る。

「――ぅ」

 しかし得られたものは、たった数日前のような、それでいて数年前のことであるような吐き気を催す感覚のみ。

 眼前で模擬戦を行っている二将――張遼、華雄としこたま呑んだことを思い返した。きっとそのせいだろう。あの二人と夕食を摂ると、大体飲み比べの流れになるのは感心できない。

 見ればその張遼の軍が猛攻を加えんとする華雄のそれに横槍を入れようと、左翼後方を大きく転回させる。一個の生き物の如く動く様からは、高い練度と用兵が窺えた。

「やっぱりすごいな」

 それは傍目に見ても、いや傍目に見ているからこそ分かる最適の一手。

 大和も大学で愛好会に入ってからは、その手のシュミレーションゲームをプレイしていたし、何度か周回する頃には『百戦危うからず』という状態であった。無論敗北もあるにはあったが、戦術レベルでは覆せない実力差があるときだけ。通算戦績は名将の名に相応しいものである。

 では、もし本当に指揮を執ったなら彼女達のようにいくだろうか?

 改めて振り返れば『敵を知り己を知れば』という条件が粗方満たされていたのだと気付く。彼我の兵力、行軍速度、将の力量差、数値化された士気など、全てを知った上で神の視点とでもいうべきクォータービューでの実時間の状況把握。そして瞬時に、的確に伝達される命令。局地戦に限ってもこれだけのアドバンテージがあるのに、それで勝てない方がどうかしている。

「鍛錬と慣れやな」とは張遼の弁だが、俄かには信じがたい。手足の如く軍を操る将軍たちが超人的なものに映るのも、無理のないことであった。

 

(しかし、一体どこを攻めるつもりなんだろう)

 

 矛先を都に向けることはないと、賈文和は言っていた。

 その言を疑う余地はない。軍事的な所謂クーデターが都に齎すだろう混乱は、十中八九破滅的なものになる。これは政治に疎い大和にも理解できた。

 なにしろ排斥すべき勢力の形がないのだ。敵は大将軍派でも十常侍派でもなく、女性保守派でも男子復権派でもない、都の争いを持続させて利を貪る者たち。

 現状で見かけ上の政敵、十常侍の張讓、趙忠らを力づくで排したとして、それは根本的な解決にはならない。残るものはお気に入りを殺された皇帝の不信感と、人々の恐怖だけ。それこそ虎牢関の戦いが起きそうなものだ。

 ならどうするのか。

 

 真っ当な理由でもって、真っ当に改革を進めるのみ。

 

 らしいといえばらしい。これが董卓らの出した答えだ。

 多くの高級官僚が数々の不正を行い私腹を肥やしているなか、董卓は洛陽に蔓延るあらゆる汚職・腐敗から一線を画しているクリーンな存在で、異民族から漢を助けた英傑でもある。

 民衆の人気も高く、担ぐのにこれほど適した人材はない。賈文和の『説得』に大将軍と宦官らは渋々ながらもこれに同意した。

『やってく中で敵が静まればそれで良いし、動くなら炙り出せるわ』

 かつての上司の不敵な笑みを思い出す。

 主君を高く売り込めて満足げであったが、どうもそれだけではなさそうだった。

 賈文和には何か考えがあるのだろう。そう、彼女は何時だって最適解を考えている。自分の何手も先が見えているに違いない。大体の場合、大筋が決まるまで蚊帳の外で待たされることが多いのだが。

 

「…………」

 そのことに全く不満がない。それはさすがに嘘になるが、隠し事ならお互いさまだ。

 メイド服や夜伽など、欲望のままに貪る夢を見ていることはもちろん、なにより『この世界の住人ではないということ』。

 

(話すべきだろうか)

 

 荒唐無稽な話だ。信じてもらえるわけがない。信じてもらえたとしてどうする? 何が変わる?

 自分に今できる精一杯はここであるというのに。

 

(……いや、違うな)

 

 一瞬頭をもたげた言い訳にかぶりを振る。

 百式という光り輝く鎧。正体を話すことは、その秘密を明かすことと同義である。

 大和は気づきたくなかった事実を眼前に突きつけられたような気がした。

 自分は彼女たちに『それ』がハリボテのメッキだと知られるのを恐れているのだ。

 河北大和(・・・・)では、きっと失望させてしまうだろうから。

 

(今のままじゃいけない)

 

 ならどうする?

 まさに堂々巡りだ。結論は分かりきっている。

 頭に華雄の声が響く。それはぐうの音も出ない正論だ。

 焦燥に苛立ち。どちらも夢を諦めてからは久しく感じることのなかった感覚だが、それは道理だ。漫然と生きる上では己の無力など気になるはずもない。

 

(焦っても仕方ないのは分かってる。でも――)

 求められる役割と止まることのない時間が、決意を、努力を置いて先へ先へと行ってしまう。

 ままならないとは正にこのことだった。

 

 

 

「伯鉄様」

 不意に背後から声を掛けられる。

 振り返ると軍装の男が立っていた。都の正規兵のものとは違う、機動力を重視したそれは西平式のものに違いない。

「あれ? まだ出番じゃないと思うけど」

 額の汗を拭い、親指で門外を指す。模擬戦の終了後に会う約束をしているが、それにはまだ時間がかかるはずであった。

「いえ、下で洛陽北部尉様がお待ちです。今から北の陣へ向かわれるようですよ」

「ありがとう。すぐ行くと伝えて」

 兵士が一礼して去ると、鋸壁の隙間から門の内側――日常風景が顔を覗かせる。

 そこには――

 

 

 何が見える?

 

 

 どくり。と、心臓が跳ねる。

 風の音が聞こえない。

 見慣れたはずの街並みが、しかしいつになく心をざわつかせる。

 

 

 ここから何が見える?

 

 

 音なき声が頭を支配する。

 強烈な吐き気と眩暈、続いて目の奥が爆ぜたような感覚が襲う。

 (日常)(非日常)、その境に大和は立たされていた。

 覚束ない足取りで門の内側、日常であるはずのそれに答えを求める。

「……違う」

 眼下に広がっているのは、やはり住み慣れた街だった。北のスラムが改善されたことを除けば、ほとんどが変わらない。どこに何があるのかも、一通りは把握している。

 

 故に間違えようがない。

 

 多くの時間をここで過ごしてきた。大和にとって洛陽は、この世界の全てに限りなく近い。

 

 故にここしか知るはずがない。

 

 なら――

 

 呟く声は壁上の風に巻かれて消えた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「体調悪そうだけど、問題ないの?」

「ええ、一度吐いたら大分楽になりました」

 洛陽の北、門から繋がる街道を二騎が悠然と行く。

 田伯鉄は左手に広がる平原と、その向こうの丘で行軍する兵士達に目をやった。模擬戦を終えた張遼、華雄の軍だ。

「ああいうのを見てると、何だか自分たちは取り返しのつかないことをしてるんじゃないかって気になります」

「あながち間違いじゃないって言ったら?」

「まさか、冗談でしょう」

「初めから全部上手くいくって知っていたら苦労しないわよ」

 前を行く賈文和は、来るべき戦に備えて日増しに練度を上げていく軍勢、その先頭を行く二将を横目に見やる。

「ううん。結局最後まで分からないことだってある。つまり何が言いたいかっていうと、最後に勝つとしてもその過程は保障できないってこと」

 沈黙で返す大和。

 速度を落としてその横につき、

「さっきから変よ。何か気になることでもあるの?」

「いや、大したことじゃ」

「構わないわ」

 琥珀色が射抜いてくる。これは逃げようがない。言外の要求に屈服した大和は、肩を落とすことで了承の意を示した。

「……文和様は、見たことないはずのものや人に見覚えがあったり、そういうことがあったりしますか?」

「そんなこと? 本当に大したことじゃないのね」

 肩透かしを食ったような顔に、今度は大和は面食らう。

「そうでしょうか」

「大なり小なりあるものじゃないの? そういうのは」

 賈文和の言には一理ある。

 ここへ来る前から、頻度こそ違えど既視感を覚えることはあったのも事実だ。

 しかしあれは――決定的に何かが違う。

 

(せめてあの女の子を覚えてたら)

 

 手がかりの顔どころか、髪の色すら曖昧だ。

 夢を覚えているといっても、その内容は断片的なものである。目覚めたときには大半が失われてしまうのだ。

 もちろん、例のピンク色の夢の様に何度も繰り返し見れば、これは嫌でも覚えてしまうが。

「なによ」

「いえ、別に。今日もお綺麗だなぁと」

 胡散くさそうな視線を受け流す。

 真実を話そうものなら市中引き回しの上、腰斬刑は免れないだろう。

「戦とか好きそうじゃないから、てっきりあっちが気になるんだと思ったわ」

 顎でしゃくった先には北面の騎士。

「いや、それはまぁ……そっちも気にならないといえば嘘ですけど」

 賈文和の言うとおり、確かに自分から話を振った覚えはない。

 戦が好きか嫌いかでいえば、おそらく嫌いだろう。嫌いといっても争いを憎むとか、そんな高尚なものではない。単純に人が死んでしまうという事実が怖いのだ。

「怖い?」

 その心を見透かしたかのように聞いてくる。

 いつもは何も感じないはずのそれに、砂利を口に含んだかのような不快感を覚えた。

 

(こんなことで? どうかしてる)

 

「いえ」

「本当に?」

「……多少は」

 ケラケラと笑う姿は年相応のそれだ。笑顔がチクリと胸を刺す。

 

『河北、まだやってんのか?』

 

 かつてのやり取りがフラッシュバックする。

 自己に向けられていたはずの苛立ちが矛先を変えるのを感じて、しかし止めることが出来ない。

「わかってるわよ。あんたが月やボクを心配してるってことは。軍を洛陽に来させる時も最後までごちゃごちゃ言ってたし。けど大丈夫」

 田伯鉄はともかく、河北大和の心の内など知らない賈文和は、ふふんと笑うと、

「最近までヒモ同然だった男に心配されるほど、落ちぶれちゃいないわ」

 

 彼女とのこの手の言い合いは挨拶のようなものだ。

 悪意がないことも分かっている。いつも通りなら、冗談やセクハラ交じりの軽口を叩いていたに違いない。

 だが、大和は溜息をついただけだった。

「実際……そうだと思います」

「えっ?」

「心配だといっても何が出来るわけでもないし、戦では役立たず。尚方丞の仕事で手一杯です。皆、自分のことを蔡倫の再来なんて呼んでいますが……」

 その先は尻すぼみに消える。

 一体何を言おうとしたのだろうか。それさえ思い出せない。思い出せるのはいつか見た、酒に映る己の顔だけだった。

 八つ当たりもいいところだ。体中の血が燃えているような感覚が大和を襲う。

 誤魔化すように額を叩くと、

「すみません。今のは忘れてください」

 自嘲気味に笑ったが、いつも女性官吏にするように、上手く演技できた気がしない。

「…………」

 賈文和は何か言いたげに口を開き、しかし続く言葉が出てこない様子だった。

 

(……何やってんだ俺は)

 大和は自分で自分を殴りたい気分だった。さっきのは、恐らくきっと嫉妬に満ちた感じの――とにかく情けない顔だったろう。

 普段気を張りすぎているせいだ。タイミングが悪く、少し弱気が出てしまったのだ。焦って苛立ってるからだ。

 それらは大いに考えられる可能性だったが、何よりもまず、この気まずい空気をどうにかしなければならない。

 何か言おうとして、しかし沈黙を破ったのは賈文和だった。

 

「もしもよ」

「え?」

「だからもしもの話。前にあんたが言ってたみたいに洛陽が危ないことになって、それで月とあんたのどちらかを選ばなきゃならなくなったら――」

 前を見据えたまま数秒ためて、

「ボクはためらいなく月を選ぶわ」

「それは……仕方のないことだと思います」

 同じ立場でもそうするだろう。

 彼女にとって董卓は親友だ。それだけの価値がある。

「でも」

 強い口調に、下がりつつあった視線を戻される。珍しく(これを言えば怒鳴られるが)険のとれた少女の顔がそこにあった。

「少しでも余裕があるなら必ず助けるわ。なんでかって、あんたもそうすると思うから」

「文和様……」

「月もあんたのこと、友達だと思ってるし」

 ばつが悪そうに頬をかくと、

「つまりなんというか……ああ、もうっ。信頼はしてるし、頑張ってるのも分かってるってことよ」

 言うや否や、大和の馬に鞭を一振り。

 突然速力を上げる馬の動きに慣性をもろにくらい、大和はバランスを崩しそうになる。

「わっ! っと、な、何を――」

「久しぶりに競争するわよっ」

 追い抜きざまに叫ぶと、その姿は見る見るうちに小さくなっていく。

「くっ」

 体勢を立て直し、急いで追いかける。幸い借りた黒馬は以前の馬術訓練時に世話になっていたのと同じだった。

 大和の手綱と姿勢から意図を察し、前方を行く栗毛を追う。

 しばらく行くと、前方を駆る賈文和が側道へと入った。陣へ行くにはこのまま街道沿いを進むだけで充分である。なら可能性として考えられるのは、

(三戦目ってことか)

 白馬寺への遠乗りを思い出す。行きも帰りも負けて、結局夕食を奢らされたのはいい思い出であった。

 賈文和を追って自身も側道へ入る。

 林を進む形となる細いそれは、お世辞にも馬に向いているとはいえない。そんな中、風を切り、木々を避け、小川を飛び越える。

 大和は体勢をしきりに変えて、反動を消すことに躍起になった。人馬一体には遠いが、少しでも近づけるように、背に邪魔なものが載っていると感じさせないように。他でもない彼女達の教えだ。

 奥に光が見える。林の終わりは近い。とうに賈文和の背中は見えなくなってしまっていた。

 今回も負けということになるが、不思議とそれを悔しいとは思わなかった。先ほどの苛立ちが嘘のように霧散している。

 

 信頼もしてるし、頑張ってるのは分かってるってことよ

 

 大和は自分の単純さに苦笑した。

 彼女はこちらの事情など知らない。故にあれは田伯鉄へ贈られた賛辞であり、厳密には河北大和に対するものではない。それなのに素直に喜んでしまっているのである。

 先のからかいにしたって同じだろう。虚の存在であるはずの田鋼に振り回される自分が、たまらなく可笑しかった。

 

 景色が流れる中、血管を流れる不快な成分が汗として流れ、薄まっていくのを感じる。

 尚方丞の仕事、旗印としての重圧、それらからくる不安・焦燥、そしてかつての挫折がもたらした痛みさえも。将来も利益も関係なく、一心になにかに取り組む感覚を、ただ懐かしく思う。

 久方ぶりに、身体に力が充溢するのを感じた。公称の齢三十でなく、まるで実年齢に――もしくはその数年前にかえったような。

 

 陣に着くと、賈文和は鐙を支点に体を回し、馬から降りようとするところであった。

「桃酥(タォースゥ)二十個で手を打ちませんか?」

 馬を停め、報酬について提案する。

 桃酥は大和が元の世界の中国から逆輸入した焼き菓子である。女性官吏の関心を買うために、地元の商店と共同開発したいわくつきの品。賈文和が試作から立ち合っていて、気に入っていたのを思い出したのだ。

「確かお好きだったでしょう?」

「ん、ありがと」

 賈文和は大和の顔を見ると安堵したように、満足げに笑った。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 荊州の人里離れた地にありながら、都までその名が届く名門・水鏡女学院。

 学院の主、司馬水鏡といえば言わずと知れた才媛であり、その知を頼って多くの人間がその門戸を叩く。

 その水鏡先生の様子が最近おかしい。生徒たちの間には、彼女の部屋から時たま奇声が聞こえるという証言が相次いでいるのだった。

 

「あわわ! 朱里ちゃん、押さないで」

「しー。雛里ちゃん、気付かれちゃいます」

 真相を確かめるべく部屋を覗き見るのは、学院トップを争う二人――諸葛亮と鳳統である。

「準備はいいですか?」

「……ねえ朱里ちゃん、やっぱりやめよう?」

「ダメです。やっぱりきちんと真相を調べないと」

 その真相にすでに心当たりがあることも手伝って、親友に押し切られた雛里は覚悟を決めた。二人はゆっくりと部屋の戸に手をかける。

(……うわぁ)

 それはどちらの心の声であったか。

 戸の隙間を通して瞳に映る師の様子は、それはそれは酷いものであった。

 朝方渡した手紙を両手で天にかざしたかと思えば、皺ができようというほど胸に抱きしめ回る。その頬は朱く染まって緩みっぱなしだ。

「あれは、洛陽からのお手紙……でしょうか」

「うん。蝋で封がしてあったし……」

 丸めた紙を紐で止め、その上から蝋封する。その一風変わった様式を使う人間を、朱里は件の洛陽の学者以外に知らない。

 今度は寝台に突っ伏したかと思えば、ゴロゴロと転がり、足をバタつかせている。

 師の様子は想い人からの手紙に喜んでいるような、まさに恋に恋する年頃の乙女のようであった。二人もそう思ったに違いない。手紙の内容さえ知らなければ、という条件付きでだが。

「雛里ちゃん、私……なんで先生がご結婚されないのかわかった気がします」

「朱里ちゃん……」

 突拍子もない仮説とその実証、結果、考察、次工程……。勉強の合間に二人が読む恋愛本の世界とは、かすりもしないものだ。長々と書き綴られたそれが微塵の色気もない代物であることを、二人は知っている。

 

「ふっふふーん」

(まさか、ですね。もう返事が来るなんて!)

 そんな生徒の引き気味の視線には気付かず、上機嫌の司馬水鏡は書簡を手に改めて机へ向かう。

 恋愛とはベクトルこそ異なるが、彼女が都の学者に興味をもっていることは紛れもない事実であった。

 そもそも人がある仮説を立てる場合、多くは先行する研究などの何かしらのとっかかりを必要とするものである。例え常識に変革をもたらすような型破りな人物であっても、常識という「すでに在るもの」を礎石として、それに疑問を抱き、否定するところから始まる。

 

 しかしながら、百式の研究仮説の半数以上は、『誰も触れていない分野において突拍子もない仮説を確信をもって打ち出し、それを証明するための最短距離を突っ走る』というべきもので、これは朱里達生徒はもちろん、すでに一通りを修め、人に教える身となっている彼女の知的好奇心をくすぐるのにも充分であった。

 

 また、それら出鱈目な仮説と同等に目を引いたのが基礎研究の多さである。すでに他の人間に証明されてしまっているものも相当数あることからも、百式が自身の知るどの学閥にも属していないだろうことは明らかだった。

 

(この国の学術の水準を知らないということは、やはり異国の出なのかもしれないわね)

 

 異人であるなら、手紙を交わすたびに上手くなる書字にも説明がつく。宛名を見ながら思う。子どもならともかく、齢三十でここまでの変化は考えづらい。

 ともかく、その答えが目の前にある。

 先の返信のなかで率直に疑問をぶつけてしまい、「もう手紙は来ないかも……」と半ば諦めていただけにその喜びはひとしお。生徒二人の覗き見に気付かず、司馬水鏡は嬉々として手紙を広げる。

 

 

 そこには尚方令の印とともに、自分の知識は大宛への旅の中で得たということ、都の現状と己の立場、そして司馬水鏡の助力を求める旨が記してある。

 

 助力とは他でもない、水鏡女学院の生徒を都へ寄越してもらいたいというものであった。


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