【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

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序章 始まり
第01話 日常としての非日常


 前方を駆ける隊が左右に分かれた向こう。薄い朝靄に揺れる曹孟徳の牙門旗を認め、田伯鉄(でん はくてつ)は心の中で嗤う。それは強敵を目の前にした英傑のそれではなく、あくまでも自分の変わり様に対する自嘲だった。

 

“できないことをやろうとすべきではない”

 

 今、まさに実行しようとしていることに対してかつての矜持がちらつくが、それは最早意味を成さない。

 

(やるしかない。もう、覚悟は決まってる)

 

 一陣の風が吹き抜け、「曹」の一字が翻る。

 その傍らに並ぶようにして立つのは、「丸に十字」の旗印。それはまるで“彼”の有り様を示しているかのようであった。

 

(出来れば直接戦いたくないなぁ)

 

 自分よりはるかにイケメンの――それでいて嫌味を感じさせない青年に、束の間思いを馳せる。

 男が彼と直接に対面したのは一度のみ。お互いの立場上、少ししか話したことはなかったが、気は合いそうであった。

(まぁ、それも当たり前の話か。自分と同じなんだから。……出来ることならもっと別の出会い方をしたかった。こんな血なまぐさい世界での敵味方なんかじゃなく、例えば大学の新歓コンパとか――)

「田将軍! この期に及んで余計なこと考えてるんじゃないでしょうね!」

 左後方からの怒鳴り声に今度は顔に出して苦笑。

「まさかっ! そんな余裕があるわけ無いだろ!」

 顔の向きはそのままに同じく怒鳴り声で返す。といっても、馬蹄と甲冑の音、兵たちの雄叫びでようやく普通に聞こえる有様ではあるが。

「ならいいんですがね」

 すぐ横を並走する形をとった副将は胡散臭そうに目を細めた。

「貴方は絶望的に戦に向いてないので」

「なぁに『雄々しく、勇ましく、華麗に』だろ? “しんぷる”だよとても。やってやるさ」

 手にした槍を握り直し、接近する戦列を兜の奥から見据える。

 

(……やっぱり前者二つは難しいな。せめて華麗さだけは……っと、そろそろか)

 

「田将軍! 威力射程、入ります! どうせ目測できてないでしょ!?」

「今言おうと思ってたんだよ……よしっ!」

 似合っているとは言い難い金ピカの鎧を輝かせた男は、裏返り気味の大声で号令。時間差で銅鑼が鳴り響いた。

“同郷”の青年への思いやその他諸々の感傷を置き、男はさらに速力を上げる。その後方には風を受けてはためく田の旗印。

 

(いずれにしろここで終わりだ)

 

 夜明けとともに「丸に十字」と「四角に十字」は相対す。

 官渡の一大決戦は終幕を迎えようとしていた。

 

 

 

 

―・―・―・―・―

「だぁあ、完全に遅刻だっ」

 男は鞄を小脇に抱え、駅に向かう道を小走りに急ぐ。

 

(やっぱ夜勤の代役なんて引き受けなきゃよかった。今夜の飲みは勘弁……してくれないよなぁ)

 

 遅刻の罰に奢らされる自分が容易に想像できてげんなりする。

 初夏の太陽の日差しはやたらに強く、寝不足でただでさえ少ない体力を容赦無く削っていく。上を向く気力もないが、色はきっと黄色に違いない。

 走り過ぎざま、花火大会のチラシが電柱に張ってあるのが目に入る。

 地元で行われるその花火大会は結構有名なもので、上京したての頃は「いつか彼女と一緒に……」などと考えたこともあった。大学生活二年目になってもその連れていく彼女がいないのは、本人にとって誠に遺憾なことである。

 

(まぁ、そこらに鳴いてる蝉みたいに差し迫ったタイムリミットがあるわけじゃない。気長にいけばいいさ)

 

 それに日程を見るかぎり、彼女がいたとしても観に行けそうにない。

 今度は町内会の掲示板に貼ってあるそれを横目に見て、思う。

 鞄に入ってる企画通りにことが進むなら、その日は中国は無錫にある三国志テーマパークにいるはずだからである。

 まさか今年も行くことになるとは。

 計画を聞かされた彼が第一に抱いた感想はそれだった。

 肩がけのベルトの金具部分ににぶら下がってる関羽のキーホルダーは、去年そこでお土産に買ったものだったりする。

 諸葛亮の八陣迷路や連弩の射的、赤壁の戦いのミニチュアジオラマetc……楽しくなかったと言えば、それは嘘になる。たしかに楽しかったのだが、正直去年の一回でお腹いっぱいと言わざるをえない。三国志フリークというべき彼の先輩達もさすがに同じ場所は嫌だったようで、いくつか案を提案していたのだが……。

 

(あの人、全然人の言うこと聞かないからな)

 

『私、あの場所気に入りましたの。ですから今年もとうっぜんっ行きますわよ! 夏合宿は毎年あそこでいいんではなくって?』

 会長の一言にひきつった笑みを浮かべる先輩達。

(あの人も重度の三国志ヲタさえなければモテるだろうに)

 まぁ、他にも問題は多々あるが、それを言ってはオシマイだろう。

 あの美貌の――しかし色々と残念な先輩を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれてくるのを感じた。

 

 男――河北大和(かわきた やまと)は大学の三国志愛好会という小さなサークルに所属している。

 長かったようで短かった前期試験も、昨日をもって無事に終了。今日はテスト明け一回目の集まりの日。長期休暇中の合宿の最終打ち合わせを兼ねて、部長の母校『聖フランチェスカ学園』の一般開放日を利用しての見学会――という名の缶詰めが予定されているのであった。

「まずいな……」

 時計を見て呟く。

 合宿の企画は彼なので、居なければ話が進まない。しかし、どう急いでも、約束の時間を30分ほどオーバーしてしまう。電話は出てもらえなかったので、とりあえず遅れる旨の謝罪メールを送ったが、今のところ返信は無し。

 とにかく急ぐべきだろう。

 疲れた身体に鞭をいれようとして、前の信号が赤に変わるのが見える。

(ああ、ついてないなぁ)

 昼間でも鮮やかに光る赤いLEDに嘆息する。

 ここの信号はなかなか変わらないことで有名だ。早く渡りたいのなら右手に見える歩道橋を使わなければならない。

「はぁぁ」

 そのバリアフリーの欠片もない急角度に、思わずもう一度のため息。今の身体にこの階段の登り下りは、正直きつい。

 変わるのを待つか待たざるか、迷うこと数瞬。

(いや、土曜の昼だ。次の電車を逃すわけにはいかないだろう。あのお姫様を待たせすぎるのはよろしくない)

 一歩を踏み出そうとしたとき、着信を知らせる振動が大腿に伝わる。

 

『先に行っておりますので、到着次第連絡するように!』

 

 携帯を閉じて首を回すと、油の切れた機械のように関節がきしむ。

 視界の端に入った太陽はやはり黄色をしていた。

 

―・―・―・―・―

 

「ここがフランチェスカ学園ね」

 首から下げた入校証を手で弄りながら、『校庭』というより『庭園』と呼んで差し支えない校内を行く。

 部長の普段の立ち居振る舞いから、お嬢様学校だろうということは予想していたが、ここの様相はそれを遥かに上回っていた。先の入念な手荷物チェックに、入ればレンガ造りの歴史を感じさせる校舎。そして東京ドーム20個分の広大な敷地。

 注意深く見れば、建物の様式は区画ごとに分けられているようだった。もっとも、バロックだのルネサンス期だのの違いを見分けるだけの学がない大和には「なんか統一感がある」くらいの認識に落ち着くのだが。

「えっと、自学自習室つったっけ……」

 到着時に送られてきたメールを再度チェックする。

 自学自習室とは図書室とは別棟として今冬完成予定の歴史資料館――そこの仮の資料置き場を兼ねた建物で、そこの一室を借りているとのことだった。「貴重な展示物はもちろん、図書館と繋がっております電子書籍も含めれば、国会図書館並みの蔵書が期待できますわ」とは部長の弁だが果たして、ここを実際に見るとそれもあながち誇張とは思えなくなる。

 行先の方向を探るべく案内板を探してみるが、そんな無粋なものは置いていないらしい。

 

(ああ、ここ共学になったばっかりなんだっけ)

 仕方なく人に聞こうとするが、周りにいるのはお嬢様然とした女生徒ばかり。気後れした大和が守衛にもう一度聞きに戻ろうとしたところ、

「あれ? 大和先輩ちゃいます?」

「え?」

「ああ! やっぱりそうや!」

 懐かしい響きに振り返ると、眼鏡をかけた短髪長身の青年が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。

「及川? お前なんでここに……」

「久しぶりやのにひどいわ~。なんでってここ俺の通ってる学校やしぃ」

 両手を合わせ腰をくねらせるふざけた姿に大和は見覚えがあった。スポーツ万能、成績優秀、眉目秀麗と三拍子揃いながらも、似非関西弁とホモ疑惑で女を寄り付かせない男。それが目の前の男、高校時代の(正確には同時期に通ったことはないが)後輩・及川佑である。

「あぁ、久々のその蔑みの視線、ゾクゾクするわ~」

 エスカレートする悪ノリ――初見では真贋を測りかねるその態度に、周りの空気が変わるのを感じる。汚らわしいものを見るような視線と、ごく一部興奮している獣のような視線が痛い。

「ちょっとこっち来い」

「きゃー、助けて―」

「そういうのはいいから!」

 

 

「そんで、先輩も知ってる通り鷹宮学園廃校になってもーたから」

「女の子が多いし最高! ってな具合に転入したわけか。相変わらずだな」

「褒めてもなんもでーへんで~♪ ま、ワイの他にも鷹宮組おるし、男子少ない中仲ようやってますわ」

「仲良く……ね。よく話に出てた早坂。あいつもここに通ってんの?」

「そりゃあもう! せやけど、あきちゃんは親友でもあり、裏切りもんでもあるんや。入学して早々に自分だけ可愛い彼女作りおって……。今の俺の気持ちを理解してくれるんは、同じ境遇のかずピーだけや」

「なんというか、お前の親友とやらに同情するよ」

 自習室への道案内を買って出た及川と共に、大和は校舎の北東、街路樹の植えられた石畳の道を行く。聞けば自習室のある建物は歴史資料館の予定地とほど近く、男子寮ほどとはいかないまでも他とは離れた場所にあるという。

 そういえば、と及川は今更思い出したかのように切り出した。

「先輩はまだ野球やってますん?」

「……いや、高校できっぱりやめたよ」

「え~、なんでーな? これぞエース! って感じで凄かったのにもったいない」

 二人の交友は学校見学会における部活動見学が始まりである。抜群の身体能力を見せつけた及川を粘り強く勧誘したが、結局断られたのを大和は思い出した。

「なーにがもったいないだよ。それはお前の方だろ? あれだけ運動神経いいのに結局『帰宅部にしますわ』とか」

「にゃはは~、どこも練習時間長すぎるんねんもん。あんなん修行やわ。耐えられへん」

「ここでも帰宅部なのか?」

「モチのロン!」

「古過ぎだろさすがに……」

(こいつも黙ってたらもっとモテるだろうにな)

 及川の顔は、男の大和から見ても所謂イケメンのカテゴリに分類されるくらいレベルが高い。写真を撮って回してもらえばいくらでも食いつく女の子はいそうである。

(……出会って数分で除外される可能性も高いけど)

 

「ところで、さっきから気になってたんだけど、ここって休みの間も制服なのか?」

 ここに来るまでの生徒も皆一様に制服姿であったことに加えて、隣を歩く及川の服装が気になって仕方ない。

 やけに滑らかな光沢を放つそれは、歌劇の衣装をシンプルにしてそのまま夏服に変えたような代物である。及川は袖をつまみながら、

「そーやで。まー部外者かどうか一目で分かるし……つーか先輩が私服で堂々と歩き回れるんがおかしいねんて」

「そうなのか?」

 入校証を改めて見ると、自分の名前の上に先輩の名前がしっかりと記入されている。

(この学校に多額の出資しててその特権とか? ……否定できないのが怖いな)

「聞き忘れてたけど、先輩は自習室に何の用事があるん?」

「大学のサークルの調べもんだよ。ここのOGの先輩が借りてくれてる」

「へー」

 気のない返事に大和が顔を向けると、悪鬼の形相をした及川の顔があった。

「一体なんだってんだ」

「ここのOGって! どうせ不動先輩とか楠原先輩みたいな美人さんやろ? やっぱりみんなワイを置いていくねん! ワイかてモテモテのネチョネチョになりたいわー!」

「あの人はそんなんじゃないから。あと、欲望が駄々漏れすぎ」

「この学び舎におれんのは一年半なんやで? 一に友情! 二に恋あり! 三四と五にはセックスありや!」

「業が深いな」

「若人であれば当然かつ自然。性欲をスポーツに昇華してた人間には分からんのですわ」

 したり顔で語る及川に大和は失笑する。予期していなかった再会は、道中を楽しくするには充分だった。もちろん、道行く女生徒たちの視線を抜きにした話ではあるが。

「あー、見えてきたわ。あれやで先輩」

 及川の指す先には道中にあったような歴史を感じさせるものとは違う、コンクリート造りの武骨な建物があった。

「仮の資料館にもなってるから、後は受付のおねーさんに聞いたら分かると思うわ」

「ありがとう、及川。助かったよ」

「どいたましてー♪ 今度、東京行くとき案内してーな」

「どうせ女の子ウォッチングとかだろ」

「せやでー♪ 大学も東京考えてんねん。上京したてで困ってるワイ。助けてくれる美人のお隣さんに管理人さん。そして始まる性交渉!」

「恋にしとけよそこは……。まぁ、来るとき連絡くれよ。アドレス変えてないから」

 何度も念を押す及川と別れて建物へと向かう。

 その後は先輩に怒られて平謝り。合宿の打ち合わせといつもの考察やら雑談。

 

 しかし、河北大和が予想していた「いつも通り」は来ることはなかった。

 ガラスケースの中、展示された青銅鏡は館内の照明を鈍く映しながら、来訪者を待っていたのである。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「暑い。暑すぎる……」

 大和は読んでいた竹簡を脇に巻き上げ、左手を庇いながら机の上に突っ伏した。

“この世界”で暮らし始めて20日程が経過。一段とボリュームを増したセミの声は、本格的な夏の始まりを告げている。背中をジリジリ焼くのは窓からの強烈な日差しだ。彼としては可能なら厚手のカーテンでもつけて遮断したいところだが、電気照明がない以上、それは無理な話だろう。クーラー生活に慣れた身体にとって、ここの夏は地獄と言っても過言ではない。

 突っ伏した状態から顔を上げ、利き手に巻いた時計を見る。

(もうそろそろ昼飯の時間か……にしても暑すぎるだろ。こんな日差しで喜ぶのはこのソーラー充電の時計くらいなもんだ)

「伯鉄様、そろそろお昼ごはんの時間です。元皓様もお待ちですよ」

 馬鹿なことを考えていると、部屋の外から聞き慣れた声がかかる。

「ありがとう、片付けたらすぐに行くって伝えて」

「かしこまりました」

 その声を戸越に聞いて、身を起こしながらため息。

「伯鉄様……か」

 

 

 姓は田、名を鋼。

 字は伯鉄。

 

 

 彼の名であるが、しかし本当の名ではない。

 本名は河北大和。つまり「田鋼」というのは明らかな偽名である。

 偽名と聞いて全体的に良い印象をもつ人はおそらく少い。そこには「他人の目を欺くための嘘」というマイナスイメージが少なからずつきまとうからだ。もちろん彼は詐欺師でなければお尋ね者でもない。がしかし、もし公に素性を知られれば監禁、投獄、最悪の場合は殺されてしまうかもしれない。そういう危険な立場に河北大和はあった。

(えーと、これはここか)

「っと」

 汗が本に落ち落ちそうになり、慌てて拭う。顔を戻せば目の前には巨大な本棚。古典的な綴じ方の本に円筒状に巻き上げられた竹簡で埋め尽くされている。博物館のような蔵書を持つそれに、机の上の書物を仕舞っていった。その途中、

「しかし、洛陽の夏がこんなに暑いとはね」

 またしてもボヤきが入る。

 今日一日で「暑い」という単語を何度口にしただろうか。言ったところでどうなるものではないが、そうでもしないとやっていられない。それくらいの暑さなのである。

 が、問題はそこではない。

 彼は確かに「洛陽」と言った。

 しかし、窓の外から聞こえてくる物売りの声は明らかに日本語である。世界で日本語を公用語にしているのは日本だけで、そして日本に「こんな場所」はない。洛陽に日本人町は無いし、例え存在したとしても、日本語しか聞こえてこないというのは変だろう。

 

 舞台は後漢の都・洛陽。

 結論から言うと、この世界にとって河北大和は異分子に他ならなかった。

 それが彼が偽名を名乗ることになった一つの理由である。

 もう一つは――。

(妹か……まだ現実感がないよな。やっぱり)

 残りを取りに机に戻りつつ、思い出すのはあの日のこと。

 

 

 いよいよ夏が始まろうかというあの日、河北大和は確かに、所属するサークル・三国志愛好会の会合に向かおうとしていたはずだった。記憶はそこで途切れ、目が覚めたのは長安の宿屋の一室。看病していてくれたらしい女の子からの第一声は、

 

『あ、危ないところを助けていただき、あの……その、ありがとうございましたっ』

 

 であった。

 

『ちょ、ちょっと待って。意味が分からない』

 

 彼が混乱したのも無理はないだろう。事情を聞こうと身体を起こそうとすると左腕に鈍痛が脈打つ。女の子をかばって事故に遭い、折っていたのだ。もっともこれも当人にとっては“折ったらしい”である。そんなことは全く記憶に無いのだから。

 

『ここは……?』

 

 状況を把握しようとその女の子と会話を続けていく内に、とんでもないことに大和は気づかされる。自分がいるのは日本ではなく、かといって単に外国というわけでもない。迷い込んでしまったのは後漢の時代の――しかも、彼がサークルで話題にしているそれとはかなり違った――パラレルワールドというべき場所である、と。

 だからといって何かが解決するわけではなく、知れば知るほど自分の置かれた絶望的な状況を思い知るだけ。異世界に一人、お金も身分も何も持っていないのだ。元の世界へ帰る方法を探すどころか、そこら辺で野垂れ死ぬ可能性すらある。

 

『実は――』

 

 途方に暮れた大和は、自分が異世界の人間であることを正直に伝えることにした。

 これは非常に危険な賭けでもあった。女の子は見た目こそ幼く可愛らしいが、侍御史(じぎょし)という官職につく支配者側の人間である。

「異世界からきた」

 こんな突拍子もない話を信じてもらうことすら難しいのに、信じてもらえたらもらえたで、別の問題が浮上してくるのだから。

 女の子は少し――大和にはとても長い時間考え込んだ後、

「カワキタヤマト様! ご提案がありますっ!」

 弾かれたように顔を上げる。

 一転して明るくなった表情。その様子は年相応の女の子のものに見えた。

「暫くの間、洛陽にある私の屋敷で暮らしませんか? 助けられたご恩もお返したいんです」

 保護してくれる。

 その申し出はとんでもなくありがたいことである。

「……いいの?」

「どうですか? ってこちらが聞いてるんですから、いいに決まってますよ」

 にっこりと笑うその顔は最早救いの女神のようで……。

 だから、彼女が続けた言葉に、

 

「それで、わたしの屋敷で生活していただくためには条件が一つあるんです。男の人と一緒に住むとなると……その……字を名乗ってる以上、色々と誤解されちゃうと思うし……」

「? いや、お世話になるのはこっちだから何でも――」

 

 彼が深く考えずに返してしまったのも仕方のなかったことなのかもしれない。

 

 

 

「兄さん、まだなんですか?」

 

「ああ、待たせてごめん。本の片付けに手間取っててね」

 言いつつゆっくりと振り返るが、誰も居ない。いや、下にいた。

「読んだらすぐに片付けないで次々出しちゃうからですよ」

 大和を見上げながらお小言を言う女の子。どこか現代風にアレンジされた古代中国の官服は、彼女が立派に官吏であることを示している。

 黄色をメインとしたそれは大きさが合っていないようで、肩口は微妙にズレ、袖も余ってしまっている。装飾らしい装飾といえば、蝶の形をした髪留めと、緑と紫の帯から懐に伸びている黒い紐くらいであるが、簡素にまとめられた装いはその主の魅力を損なうどころかより強調する役目を果たしていた。

 

 姓は田、名を豊。

 字は元皓。

 

 彼女こそ偽名を名乗ることになったもう一つの理由。

 彼にとって命の恩人ともいえる女の子。

 今は昔に生き別れた兄と妹という関係を演じているお相手だ。

 

「ごめんごめん。ちょっと熱中しすぎて。で、どうした?」

「で、どうした? じゃないですっ。ご飯できたっていうのに全然来ないじゃないですか」

 両手を腰に当てて少しご立腹の様子である。

「完全に忘れてたよ。さあ行こう! すぐ行こう!」

 そんな妹をあえてスルーするように――良い匂いにつられるようにして、田伯鉄は食卓へと向かう。空腹でのお小言は勘弁願いたいのだ。

「……もぅ、調子いいんですから」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 二人で小さい食卓を挟んで座る。

 部屋へ呼びに来た老使用人は、先に食事を済ませていたらしい。買い物があるとかで、すでに外へ出てしまっていた。

 しかし、空腹は最高のスパイスとはよく言ったもの。

 自分の分を軽く平らげて「ごちそうさま」を言った後、お茶をすすりながら食べ終わるのを待つ。

「兄さん。もっとよく噛んで食べた方がいいですよ」

「あ、あぁ、ごめん。気をつけるよ」

(洛陽に来て数日しか経ってないのに何回怒られただろう。あのおどおどしていて可愛かった田豊ちゃんはどこへ行ってしまったのか……。まぁ、あの時は状況が特殊だったというのもあるし、この快活さと生真面目さこそが彼女の本質なんだろうけど……)

 もはや妹というより小さい母親と暮らしている心地さえする大和であった。

「ときに兄さん、お勉強の調子はどうですか?」

 箸を休めて聞いてくる。

 これを母親と呼ばずして何と呼べというのか。

「ああ、大分わかってきたよ。読みに関してはかなり上達してきたと思う。分からない漢字がまだ結構あるけどね。書く方は――」

 

 長安を発った日、馬車で田豊が広げていた報告書を見て、大和は顔を顰めた。この世界の言語は話し言葉が日本語で、書き言葉は中国語となっているのである。

 もっとも、それ自体には大した驚きはなかった。出発前日に見て回った長安の街。そこに溢れかえるオーパーツ(場違いな工芸品)の数々。もはや言語が少し違う位でいちいち反応するのも馬鹿らしい。

 ただ、言語というのはこれからの生活の中で無視できない存在であることは確かだった。

 読み書きが出来なければ日々の生活が不便というのはもちろん、それが出来なければ元の世界への帰還方法を探すのも困難になる。

 妹が自分を手伝うつもりでいることは大和も気づいていたが、彼女は如何せん宮仕えの身。非番の日でもなければそれは無理だろうし、世話になっている以上、休日まで自分の都合に巻き込みたくはない。基本的には一人で調査するつもりである。それなのに書いてあることが分からないというのではお話にならない。

 故に、洛陽に来てからの田伯鉄は、与えられた部屋に篭っての勉強三昧の日々を過ごしているというわけであった。

 

 元からある程度中国語を勉強していたのには、かなり助けられている。このあたりは『ビバ! 三国志愛好会!』といったところだろう。サークルのお嬢様気質の会長の命令で一年の後期から自由科目で中国語をとっていたこと、夏、冬の長期休暇に中国を旅行したことが、かなり生きていた。

 

 もちろん、まさかこんな形で生きてくるとは思ってもいなかったが。

 

 簡体字が無いことなどの違いこそあれ、ここの書き言葉の骨子は現代中国語と変わらない。覚え直すこともあって面倒だが、あの難しい発音とオサラバできるのであれば安いものだろう。

『基礎はできてるし、案外早く修得できるかもしれない』

 多少楽観的にすぎるが、その見立ては間違いというわけでもない。

 

「でも、すごく上達が早いですよね。似たような文字があちらにもあったんですか?」

「まぁ、そんなとこかな。それよりも昨日くれた本、あれすごく分かりやすいよ。本当にありがとう」

「わたしのお古なので少し読みにくいかもしれないですけど……喜んでくれてよかったです」

 そう言ってにっこり笑い、再び箸を取る。

(……この子には本当に頭が上がらないな)

 後はどうやって調査資金を稼ぐかであるが、それは左腕を治してからになるだろう。かなり回復が早い気がするが、まだ完治には遠い。

(そのけっして安くない治療費を支払ってくれているのは……)

「ふぇ? なんですか?」

「……いや、なんでも……あ、ごはんつぶ付いてるぞ」

「~~~~っ!?」

 あわててほっぺたをこするその姿に微笑みを誘われながら、

「そういえば今日は、あ、もうちょっと右。仕事じゃなかったっけ? ん、とれたよ」

「ほ、報告書の提出だけでしたから。お昼からは時間がありますよ。兄さんは?」

「調子が出てきたからね。もうひと頑張りしようと思ってる」

 少なくとも前者はウソだ。今日は暑さでへばって思うように進んでいない。

「じゃあ、わたしが見てあげます。と、言いたいとこですが……昼から一緒に外に出ませんか?」

 

(外だと? この猛暑にか? 自殺行為だろう)

 

「そ、そんなに嫌そうな顔しなくても……だ、だって兄さん洛陽に来てからほとんど部屋に篭りっきりじゃないですか。たまには外に出て――」

「あ~分かった。行くよ」

「うーん。言い方が少し引っかかります……けど……まぁ、いいです」

 コロコロと変わる表情が面白い。

「ふふっ。出かける準備ができたらお部屋で待っててくださいね」

「わかったよ。けど出かけるってどこに?」

「近くの市です。お買い物が目的なんですけど、ちょっと気になる噂もあったので……」

「……噂って、もしかして俺達のこと……?」

(近所の人にニートと認識されてるのは薄々気づいていたけど……まさか、そんな危険な男に見えるのだろうか……)

「ちち違いますよっ!! だいたい『そんな噂』が流れちゃってるんだったら、一緒に出かけようなんて言いませんっ!!」

 見事に顔を真っ赤にする。

“そんな”の具体的な内容についてはよく知らないが、とても恥ずかしいことだというくらいの認識は田豊にもあった。

 それをわざとらしい咳で誤魔化して、

「どうやら、旅の占い師が妙な予言を流して民を煽動しているみたいなんです」

 少し真剣な顔をして言う。

「占い師の予言ね……内容に問題があるとか?」

「はい、なんでも『世が乱れたときに天から御遣いが降り立ち、天下を安寧へと導く』というような内容でして……」

「ふむ」

(確かに皇帝陛下のお膝元で喧伝すべきもんじゃない。そもそも都での流言飛語なんて大問題だ)

「でも、それだけ噂になってるなら、捕まるのも時間の問題じゃない?」

「それが誰も捕まえられないんです。目撃者はたくさんいるんですけど、どれもあやふやで役に立たないらしくて……。はっきりしているのは、その占い師の名前と予言だけで、性別や背格好については何も分からないみたいです」

「それじゃ警邏の人も捕まえようがないなぁ。それで、その占い師の名前ってのは?」

「はい。管輅というそうです」

 

(……三国志の登場人物。また女の子だったりしないだろうな……)

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 夕日に赤く染まった道を並んで歩く。

 女の子の買い物が長いというのはどの世界でも変わらない真実である。荷物持ちの男が片腕ということもあり、買い物の量はそれほど多くはない。それでも帰る頃には夕方になってしまっているのだから流石だ。

「今日は楽しかったです」

「ああ、そうだな。いい気分転換になったよ」

 洛陽に来て、本格的に出歩いたのは今回が初であった。疲れはしたが、部屋で竹簡相手にうんうん唸っているより遙かに健康的と言える。ストレスも発散でき、妹も上機嫌。大和としては言うことなしといえよう。

「それに、噂の占い師さんも見つけられた」

 予想に反して煽動容疑者の管輅はすぐに見つかった。

 警邏が必死に探しているというのがウソに思えるほどあっさりと。

「管輅さん、噂にあるような危険な煽動者には見えませんでしたね」

「占いもいたって普通な姓名判断だったしね。もう洛陽で商売はしないと言ってたし、これで預言者問題も無事解決! とはいかないまでも、徐々に沈静化するんじゃないかな? なんか拍子抜けではあるけど」

 

 違和感が残る。

 結局何が目的だったんだろうか。彼女が洛陽で行ったのは、天の御遣いの噂を広めることである。これは間違いない。けれど「それは何のために?」と聞かれると、全くわからないのだ。

「……ん」

(噂を広めてそれを利用するのであれば、もっと具体的なもの方が有効だし使いやすい。天の御遣いなんて抽象的なものでは、)

「兄さん!」

 右下からの声に思考を中断する。

「ん、えーと……ごめん。なに?」

「なに? じゃないです。すぐボーッとするんですから……」

「ごめん。それで何のはな――」

「もう、いいですっ」

 妹はプイッと顔を背け、

「いつも人の話を……」などとブツブツと文句を言っている。

 

 やれやれ。さっきまで機嫌がよかったのに。と、

“こちらに向けられた”頭を見ると、夕日を弾く銀髪には一緒に選んで買った髪留めが。

 

(……そういうことか)

 

「その髪留め、似合ってるよ」

 ぶっきらぼうに言うと、無理につくっていたむくれ面を崩し、嬉しそうに髪留めをいじりながら、

「わたしもそう思います」

 ない胸を張り、得意げに言う。

 そのわざとらしい様子につられて笑いながら顔を上げると、

 

「……すごいな」

 

 夕陽に燃えた空はどこまでも綺麗で。

 

 

「んー、明日も晴れるといいな」

 荷物を持った片手で伸びをする。

「兄さん暑いのは大嫌いじゃないですか」

 すかさず入るツッコミ。

「違いない」

 

 今度は二人して笑った。


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