才能の一言で片付けられて嬉しい人間などそうそういないだろう。
才能だけで何かをやって一番で居続けられる者などまずいない。
あぐらをかいた瞬間にその座を狙っていた別の人間から引きずり降ろされるのが世の常だ。頂点にいる者は自分が一番の座にいるのは汗を流した数が一番だからだと誇り、実際に相応の努力をしてきている。
それなら逆に誰よりも努力をすれば一番になれるのかと言うと、もちろんそんなことはない。努力の質だ種類だ方向性だといろんな理由を述べてみても、同じ努力をしようがどうしても差というものは出てくる。ある者は壁と呼ばれる障害にぶち当たってつまづくが、別のある者は壁など最初からなかったかのように軽く飛び越えてしまう。それを外から見ている人間は才能の一言で片付けるのだ。
凰鈴音は自分の目の前にある壁を力づくで叩き壊して前に進んでいた。
そして、壁をやすやすと飛び越えてしまうような人間が大嫌いだった。
今俺の目の前で一夏が必死に悩んでいる。
どうやら自分は鈴の怒りを買ってしまったらしいと理解はしたが、どうしてそんなことになったのか思い当たる節がないからだ。
一夏の目には昨日の鈴の様子がいつも通りだったように見えていたようだ。
「織斑君に勝って力づくで自分のものにしようとしてるんじゃないの?」
相川さんはそう言っていた。つまり相川さんは一夏をものにできるのであればその手段も辞さないということなのだろう。
もちろん負けず嫌いの一夏にそんなことをすれば全くの逆効果になることくらいはさすがに理解していると思うけれど。
「いや、でもあいつすげー優しかったぞ。丁寧に教えてくれて、できたら褒めてくれて、全然悪い感じとかしなかったんだけど」
そうなのだ。ここ三日は順調過ぎるほどに順調だったのだ。
イグニッション・ブーストの存在は知らなかったが、鈴は一夏の動きを見て何が悪いのかをいろいろと指摘してくれた。
鈴はテスト前の一夏に勉強を教えていたりもしたので、一夏の扱いもよく分かっている。口が悪くとも一夏を苛立たせやる気をなくさせるような言い方はしない。
そして一夏も言われたことは素直にきちんとやってのける。だから出来が悪いのならともかく、鈴が怒るような問題があったようには俺の目からも見えなかった。
「おかげでイグニッション・ブーストの目処がついたくらいだもんね」
「それは俺的にはまだまだというか、もうちょっとやらせて欲しかったっていうか……」
もう必殺技としてここぞで使うしかないと指揮班は諦め気味だったのだが、この三日で戦術になんとか組み込めるまでにはなってくれていた。一週間の積み重ねがあった上でとはいえ、正直鈴のおかげとなる部分は相当に大きい。
そして昨日の成果を聞いて俺はイグニッション・ブーストの練習の終了を宣言し、今日からは本番に向けて相手を想定しながらの実践訓練を始めることになっていた。
残り四日、土日を挟んでいるとはいえギリギリである。
「時間があればと思うのはみんな同じ。大事なのはその中でどこまでできるかということだから」
「分かってるよ。正直俺だってセシリアのときにやった相手の対策をしてないのは不安だってのもあるし。でもさ」
「なに?」
「だからって鈴とやりたいかっていうとあんまりそうは思わないんだよ」
これが一番の大問題である。一夏にとっても、俺にとっても。
一夏は一年ぶりに鈴に会えたことを素直に喜んでいる。もちろん友達としてだが、学校の行事とはいえ再会早々に友達を敵として見なければならないというのは嬉しくないのだ。それも相手が怒っているなどと聞いてはモチベーションも低い。
そして一方俺としては一夏の天敵を相手にするなど論外だという話である。
一夏の欠点まで指摘できるようなのを敵に回してどうすれば勝てるのか。
早々に舞台から引きずり降ろすしかない。
「それは僕だって同じだ。できることなら戦いたくない。鈴も感情的になってるし、無理矢理奪い取った代表をやめてもらうのが一番なんだけど……」
「原因が分からないことにはどうしようもないか。最初はお前のせいかと思ったけどはっきり俺だって鈴に言われたしなあ……。理由は言わないくせして」
「一夏に教え始めた時はすごく機嫌がよかったのは間違いない。だからこの三日だね」
「外から見てる智希が分からないんじゃ俺に想像つくわけないだろ。あー、こういうときに聞いたら教えてくれるのが鈴だったんだけど、その鈴が今怒ってるんだもんなあ……」
鈴は自分の中に溜め込むような人間ではない。文句があればためらうことなく口に出す。そしてそれが一夏のことであればまず本人か俺に言ってくる。
だから分からない。
実は今までも溜め込んでいたということだったのだろうか。
「正直八方塞がりだ。一緒にいたクラスの誰に聞いてもピンときてないようだったし」
「じゃあ何なんだよ? 鈴の勘違いか? だったらそんなの知らねえよ」
一夏は鈴に理由を言ってもらえないことに苛立っている。自分に非があれば謝ることに躊躇などない。だが同時に自分が悪くなくても謝るというつもりもない。とりあえず謝ってその場を収めようなどという平和主義的解決は思考の外にある。
もちろん鈴にも一夏本人には言いたくない場合もあるのだが、その時は俺に言ってくる。俺に八つ当たりをしてくる。
そして俺が笑い飛ばして、鈴はものすごく悔しそうな顔になって帰って行く。それでも自分の力で立ち直って、また一夏の前にやってくる。もはや執念の域にあった。
「僕に言ってこなかったということはやっぱり鈴の信用を失ってたみたいだね。確かにそれは仕方ないかなと思うけど」
「あれはお前も珍しくちゃんと謝っただろ。それに鈴の方も許さないならそういう態度してるからそれはない。俺にも智希にも言わないってことはまたあの訳分かんねえ女心的なやつか?」
珍しくがちゃんとにかかっていたのか謝ったにかかっていたのか是非とも確認しておきたいところではあるが、今はそんなことを言っている場合ではない。落ち着いた後に問い詰めることにしよう。
「それなら鈴方面はもうどうしようもないね。今すぐ思いつくのは千冬さんに強権発動してもらうしかないかな。一夏、千冬さんに頼んでもらえる? 鈴が暴走したから止めてくれって」
「俺? そういうのはお前の分野だろ?」
「僕が織斑先生にお願いして聞いてもらえると思う?」
「そうだった。むしろ余計不利なことになりそうだ」
「……まあそういうわけだから、教師にしてではなく姉に助けてもらうつもりで言ってほしい。千冬さんも鈴のことは知ってるし、鈴が勝てない相手だ。鈴がみんなに迷惑かけてるって言ったら無視はしないんじゃないかな。千冬さんに言われたら鈴だって逆らえない」
「なるほど。確かに手の付けられなくなった鈴を止められるのは千冬姉くらいしか思いつかないな。分かった、行ってくる!」
「よろしく」
こうすると決めた時の一夏の行動は早い。
あっという間に部屋を飛び出して行った。
千冬さんが今自分の部屋にいるかは分からないが、あの様子ならすぐに見つけ出すだろう。後は一夏が姉としての心をくすぐれるかどうかだ。
ああ見えて千冬さんは一夏には甘く、またこの一年間一夏に家事全般の面倒を見てもらっていたそうなので、プライベートでは意外と立場が弱い。
入学してここまで一夏は千冬さんに頼ってこなかった。ならば貯金の使いどきはここだ。
一方で俺にも何かやれることはあるだろうかと考える。やはり鈴の説得を試みるべきだろう。そろそろ頭が冷えてきているかもしれないし。
鈴には自分が抑えておけば丸く収まるなどという思考は存在しない。もし俺にも非があれば言わずにはいられないはずだ。
そう結論づけて俺も部屋を出ようとドアを開けると、なぜか篠ノ之さんが目の前に立っていた。
「一夏ならいないよ」
「いや、そういうことではないのだ。甲斐田、お前に話がある」
一夏と二人きりになろうと勇気を出すも部屋の前まで来てヘタレたかと思ったが、どうやらそういうわけではなさそうだ。
「何の話? 一夏のこと?」
「それはそれで言いたいことが山とあるが、今はそうではない。その……凰鈴音の話だ」
まさか犯人は篠ノ之箒だったかと一瞬思ったが、目の前の相手にそういう後ろめたさはなかった。むしろ同情、哀れみの類だろうか、気の毒そうな顔をしている。
「分かった。それなら喜んで話を聞かせてほしい。じゃあ人に聞かれたくないだろうし会議室へ行こうか」
「え?」
だからといってどさくさ紛れに一夏の生活空間に入れると思うなど、甘い。
家探しを始める程度ならかわいいものだが、篠ノ之さんに限らずこの連中は油断すると何かと理由をつけて一夏の私物を持って行こうとするのだった。
「よかった空いてた。空いてなかったら外にでも行くしなかったからね」
「そうだな」
ここに来る途中クラスメイト達ともすれ違ったが、声をかけてくる者は誰もいなかった。
理由は分かっている。俺がこれから篠ノ之さんに説教をして責め立てるのだろうと思われていたからだ。連中は謀ったかのように、篠ノ之さんに対して同情の視線を向けていた。
確かに俺が先頭を歩いて篠ノ之さんが神妙な顔をして後ろをついていっていたらそう見えるのかもしれないが、あの君子危うきに近寄らずを地で行く姿勢には少しイラッとくるものがあった。谷本さんなどは目を閉じて両手を合わせ何事かをつぶやいていて、布仏さんまでそれを真似していた。元二組代表との件も含めるとそろそろ谷本さんには何かしらの制裁が必要なのかもしれない。
「甲斐田」
「なんでしょう」
「お前は一夏のことをどう思っている? いや、一夏を見ていて、一緒にいてどう思う?」
「何を言いたいのかさっぱり分からないんだけど」
一夏の前にいて俺が邪魔だと思うのはよく分かるが、俺を恋敵などとまで考えてしまうのはもはや処置なしである。
「すまない、言い方が悪かった。甲斐田は一夏を見ていて恐ろしいと思うことはないのか?」
「恐ろしい?」
「そうだ、自分の中にある何もかもが一夏に吸収されてしまって、自分の存在価値などなくなってしまうのではないか、という恐れだ」
「ああ、そういうこと」
俺は篠ノ之さんの言いたいことをおそらく正確に理解できた。
「分かるのか! そうだ、一夏にとって私など必要なくなるのではないかという恐怖だ。いや、別に今の自分が一夏に必要とされているなどと言うつもりはない。近い将来に、自分が、篠ノ之箒という一人の人間が、一夏にとって何の価値もない存在になってしまうのではないかと怖くなるだけなのだ」
「よーく分かるよ」
俺にとっては実に今さらな話だが、篠ノ之さんは六年ぶりに再会してようやく一ヶ月だ。そろそろ目の前の織斑一夏という人間が見えてきたのだろう。
「そうか! それなら教えてくれ! どうしてお前はそうやって普通でいられるのだ!? 男だからなのか!? 男とはそのような感情を超越できるのか!?」
「別にそういうのは男女関係なくて個人の問題だと思うけど、その前に言わせてもらうと僕はそういう話を聞きにここまで来たんじゃないんだけれど」
俺は答えることなく本題に入るよう促す。
いや、何となく言いたいことは読めてきたが、今は篠ノ之さんの話をしたいわけではない。
「す、すまなかった。まさか一発で理解されるとは想像していなかったので思わず興奮してしまった。凰鈴音の話だ」
「うん。鈴に何があったの?」
「ここから先は全て私の想像だ。本人と話をしたわけではない。私がこの三日一夏の訓練を見ていて思ったことだ。だが私としてはきっとそうだろうと考えている」
「それで?」
「端的に言うと、凰鈴音は一夏の才能に嫉妬している」
言われてみればむしろ今までよく表面化しなかったなとも言える問題だった。
「この三日で一夏は驚くべき成長を見せた。それまでの一週間試行錯誤していた姿からは想像もできない速度だ。正解が見えた途端にこうなるとは、甲斐田、お前は分かっていたのだな。であるからあそこまで正解にこだわっていたのであろう」
「どうだろう」
「そうか。だがよくよく考えれば先だっての模擬戦の際もそうだ。入学初日は生身とはいえ私にかすることさえできなかったというのに、気がつけば模擬戦の前にはISに乗って私と打ち合うことができるまでになっていた。傲慢なことを言うつもりはないが私は剣道において中学日本一の称号を持っている。だから剣の打ち合いにおいてはそれなりの自負がある。それなのにだ」
そうだった、この人は話しながらテンションのボルテージが上がっていく人だった。
酔っているとまでは言わないが、一人で盛り上がってきている。
まあ気持ちは分かるけれど。
「もちろん今の一夏は穴だらけで、特に応用力が弱い。同時に複数の動きをするのは得意とするところではない。だが一つのことだけについては恐るべき集中力を見せる。そして凰もそのことは理解していたようで、一夏の行うべき行動を一つ一つに分解して説明し、順にやらせていた。そして一夏は全てをあっさりとやってのけた」
「それだけなら組み合わせるって応用ができないんじゃないの?」
「やはりお前は分かっていて言っているのだろう? 確かに模擬戦の前もそのような状態だった。だが本番に入りその緊張感の中で一夏の集中力が高まっていき、ある時それら全てが一夏の中で一つに統合された。かくしてオルコットが何もできず、一撃を当てることさえできずに沈むという結果を産んだ」
なるほど、常々俺が感覚的に言っている一夏は本番に強いを言葉にするとこういうことなのだろうか。
「でもその集中力はいつもってわけにはいかないけどね」
「もちろんそれは一夏の大きな課題だ。だが十分に克服できると思える課題でもある。そして先輩方は言っていた。一夏がどこまで成長するかとても想像がつかないと。私も剣の腕を褒められたが、同時に既に方向性が固まっているとも指摘された。つまり私は順当にしか成長することができないのに対し、一夏はある日突然化けるという話だ」
最後の方はちょっと自嘲めいていた。自分の中で盛り上がっていることに変わりはないのだが、おかげでどんどん篠ノ之さん本人の方に話が偏っていっている。
「なるほどね、それを鈴は嫉妬したと」
「す、すまない。またも興奮してしまっていた。凰のことだな。一緒にいた時間が長いだけあって、奴は一夏の特性を理解していただろう。だがおそらくこれまでは同じ土俵に立つことがなかった。立ったとしても、一夏の方に競うつもりがなかった」
「そして今ISという同じ舞台に立ってはっきりと感じてしまったと」
「そうだ。同時に一夏との差も理解しただろう。この速度で一夏が成長してはすぐに追い抜かれる程度の差だと」
「だから今なら勝てると思って喧嘩を売った?」
「馬鹿を言うな。そのような程度の低い話ではない」
確かにその程度なら鈴など大した相手ではない。
「自分の存在意義がかかっているからだ。最初に言ったように、根源は苦もなく自分を追い抜いていく才能に対する嫉妬だ。そして行動の意味は、これまで自分の積み上げたものを無意味にしてしまうことへの抵抗だ」
「まるで自分のことのように言うね。それなら将来篠ノ之さんも一夏の敵になりかねないのかな?」
「私は一夏に追い抜かれてしまうことなど恐れてはいない。私が怖いのはそのことによって一夏が私から興味をなくしてしまうという未来だ。というかお前は最初から分かっていながら私の口から言わせようとしているな?」
と言ってもはっきりと言葉に出すのは大事なことだ。
俺は将来一夏の敵に回りかねない人間を一夏の側に置いておけるほどの度量はない。
「分かったつもりにならず人とコミュニケーションを取れと僕に言ったのは誰だったかな? まあ僕は篠ノ之さんにもISの才能は十分にあると思うけどね」
「相変わらずの憎まれ口を。だが私にISの才能があるという発言ははっきりと否定させてもらうぞ。何しろ私のIS適正はCランク、AランクのオルコットどころかBランクの一夏にさえ及ばない。まさか自分より上は皆才能があるなどとは言うまいな?」
「そもそもIS適正って何だって話だよね。織斑先生もあってないようなものだって言ってたし」
「世界最強にしてIS適正Sランクの人間の言葉にどれほどの説得力があるのだろうな。私の意見としては学生の身分のうちは、という程度だ」
IS関係の世界にいる人間はIS適正というカースト制度に支配されている。
このIS学園はIS適正Dランク以下は受験さえ叶わず、Cランクでも特別な技能がなければ合格できない。Aランクは数が非常に少ないので、事実上Bランク同士の争いだ。
そういう意味では織斑先生の言葉は意味が通る。ほとんどがBランクなのだから確かにあってないようなものだ。
「そんなことないよ。なんたって篠ノ之さんは」
「そこまで私の口から言わせようとするのか。稀代の天才の妹だからこそ私は確信を持って自分に才能などないと言い切れるのだ」
目立ち過ぎる一夏や俺の存在でなんとなく隠されてはいるが、篠ノ之さんもIS学園の誰もが知っている人間である。もちろんISの生みの親にして天才篠ノ之束博士の実の妹として。
だが篠ノ之さんは自分の姉について一切口に出さない。もちろん立場上下手なことは言えないというのもあるが、それにしても全く口にしない。篠ノ之という苗字を出さずに偽名を使っていれば誰一人気づかないだろうという次元で存在を匂わすことすらしない。
そこまで徹底されてはクラスメイト達もその意思を汲み取り、このクラスにおいて授業以外で篠ノ之束という人名が出てくることはなかった。
天才の妹として見られるのは辛いことなんだろうなと、みんなは思っているのだろう。
一夏でさえ話題に出すことはなかった。もっともこちらは気を遣ってではなく自分が口にしたくないという風情だったが。
「それならわざわざISの世界に入ってこなくてもよかったのに。一夏にISを使えることが分かったのは受験の出願が終わった後の話だったよね?」
「……凰の話をしていたのではなかったのか。とにかく、凰は自分が苦労して会得したことを一夏が簡単にものにしていく光景に耐えられなかったのだろうと思う」
「それ一夏は何も悪くないよね」
そんなに自分の話をしたいのであればこの際させてやろうと思ったが、他人に踏み込まれるのは嫌なようだ。
「そうだ。だからこそ凰にとって罪は重いとも言える。簡単に会得されては自分の苦労や努力を理解すらされないのだからな」
「それこそ知ったことではないというか、そもそも努力って他人に認められるためにやるものじゃないだろうに」
「言い方がよくなかったか。一夏が簡単にやってのけた事柄を自分は苦労しなければできなかったという事実を思い知らされるからだ」
「それで嫉妬に至ると」
俺は鈴が一夏と勝負をすることはないと思っていた。
勉強の類は一夏の方にやる気がないし、スポーツなどは同じ競技でも男子と女子で分かれている。現代は基本的に男と女を同じ土俵で競わせるようなことをしない。それどころか男が女の分野に口を出すことさえ嫌う。
鈴が勝ち誇るのは常に同性に対してであって、男という存在は一夏にしろ俺にしろ競うような存在ではなかった。男を見下しているというのではなく、優秀な自分を見せる対象として認識していた。そしてその最たる相手が織斑一夏だった。
「同情はする。一夏と競うことが前提にあれば、きっと私も認められないという気持ちになったであろう」
「篠ノ之さんはそうじゃないんだね」
「私は最初から一夏と競うつもりなどない。それ以前に私は自分が一番であるべきだなどと考えたことは一度たりともない。剣道についてはあくまで結果的にというだけだ」
まあ、そのあたりが俺が篠ノ之さんを認めて鈴を認めない理由でもある。
本当は一夏にとっての一番にはなりたいのだろうけれど。
「うん、よく分かったよ」
「そうか。ではどうするつもりだ? 現実を認めさせるのが本人にとってもいいとは思うが、現状では一夏にとって勝ち目の非常に薄い相手だ」
「そうだね。もちろん戦わないのが一番なところではあるんだけど」
「また口で丸め込むつもりか? あれは悲痛なまでの意地であって他人から指摘されて変えられるようなものではないぞ?」
「本人に得があるって話でもないしね」
本当に、たとえ勝ったとしてもこの行動は鈴にとって何もいいことがない。
どんな事情か知らないが遅れて入学してきて最初にやったのが自分のクラスの代表を無理矢理奪うこと。その姿を見ていた鈴のクラスメイト達はどう思っただろうか。まあ優勝でもすれば結果論的に鈴に対する見方が和らぐのかもしれないが、優勝の特典は専用機持ちの鈴には特に必要もない。
それに何より肝心の一夏の機嫌まで損ねてしまっている。話を聞いて一夏はすぐさま二組へ駆け込んだが、鈴には聞く耳など一切なくけんもほろろに追い返されてしまった。俺とは口をきこうとさえしなかった。
「損得で行動していればそもそもこのようなことにはならない。そしてもう足を踏み出してしまった以上は戻れない」
「一応、今無理矢理引き戻せないかとは考えてる。具体的に言うと一夏から千冬さん、織斑先生に頼んで」
「私の前では千冬さんで構わないぞ。だがそういうことか。一夏の友人ということで元々面識があるのだな」
「鈴が苦手にしてるって感じかな。身長差もあるし、文字通り上から言われたら逆らえない」
そして鈴が最終目標にしている人間でもある。一夏を横に置き千冬さんを超えるのが鈴の人生の目標だそうだ。中二の終わりにやったお別れ会のとき鈴は俺に熱意を込めて語っていた。どうやって超えるつもりかと思っていたが、その時から鈴はISの世界に進むつもりだったのだろう。
「なるほど。だが甲斐田、千冬さんがそう都合よく動いてくれるとはあまり思えないのだが。その、今までの行動を鑑みるに」
「うん、もちろん理想通りにいくとは思ってないけど、だからといって鈴の行動をそのまま見逃していいかと言うとそういうわけでもないはずだ。毎日職員室行ってて感じたけど、千冬さんはただの一教員じゃない。一夏がいるから今年は一年一組の担任になったけど、本来はそういう立場とは違う。今やISの学園の顔だしもっと責任のある人だ」
そんな簡単に下克上していいのであれば代表とはいったい何なのだという話になる。例えばリーグマッチでクラスの代表として学園外の人間も観戦する模擬戦に出るなど、ただのクラス委員ではない。
コロコロ変わるのであればもう最初から決めずその時の成績優秀者でいいじゃないかとなるだろう。
そうだともう確信しているが千冬さんはリーグマッチのルールを決めたりとIS学園に深く関わっている。だから少なくとも何らかの動きは見せるはずだ。
「立場上見過ごせるはずがないという話か。それなら一夏ではなく甲斐田が千冬さんに言いに行けばよいのではなかったのか? 甲斐田なら今の話で押し切ることもできるであろう。まあ少々クレーマーではあるが」
「それは絶対に駄目。僕が一夏と鈴を戦わせたくないと分かれば千冬さんは絶対にそうなるように仕向けてくる。あくまで今回の話は鈴の暴走で、一夏はそれを心配してのことでなければならないんだ」
「お前は本当に性格が悪いな」
篠ノ之さんは呆れたようにため息をついた。
というか本当に俺は関わっていないのだから、横から出て行ってしまってはむしろ怪しまれる。既に俺はオルコットの件の際に話を学園外にまで広げて大目玉を食らっている。鈴以外と接触してわざわざ千冬さんの機嫌を損ねるような真似はしない方がいいだろう。
本当は鈴の所属する中国や元二組代表の所属するカナダのIS関係者を煽ったりしたいところではあるけれど。
「あとはそろそろ鈴の頭も冷えてくるだろうし、本人と話をして事態の深刻さを理解させようと思う。鈴も馬鹿じゃない。冷静に考えれば自分の行動がまずいことくらい分かるはずだ」
「相手を追い詰めて逆に激昂させるのではないぞ」
「それはもうやったから大丈夫」
「何が大丈夫だと言うのだ」
笑い合って、俺達は会議室を後にした。
この後は鈴の部屋に行ってみようか。
と、篠ノ之さんと別れ鈴の部屋へ向かおうとした時、どこからともなくクラスメイト達が湧いて出て篠ノ之さんを連れて行ってしまった。
訳も分からずうろたえる篠ノ之さんに対し、連中は肩を優しく撫でたり声をかけたりして引っ張っていく。
まさか篠ノ之さんが俺にいじめられたとでも考えて、慰めようと待ち構えていたのだろうか。
誰一人としてこちらを見ようとはしない。なんだこの差は。
これでは俺はクラスを恐怖で支配する暴君で、連中は圧政に耐えながら肩を寄せ合う国民ではないか。
実態がそうならまだしも、俺は篠ノ之さんの自分語りまで聞いていたというのに、これは理不尽過ぎる。
呆然としていると、誰かに後ろから頭を撫でられる。気配すら感じていなかったので、俺は反射的に振り返り後ずさった。
目の前には手を伸ばした布仏さんが笑顔で立っていた。
「みんな仲良しだね~」
もしかして俺という共通の敵を作ることでクラスは一つにまとまり仲良くなったのだろうか。
別に文句があるならあるでもいいが、それならせめて事実に対してだけにしてくれと切に願いたい。
鈴の部屋へ行くとハミルトンが出てきて、鈴は呼び出されて出て行ったと答えた。
自分の部屋に戻ると満足気な一夏が出迎えて、自分の気持ちは千冬さんにしっかり伝わったと得意げに語った。
一応事態は進んでいるようだ。
「なあ智希、俺さっきから嫌な予感がしてるんだけど」
「いい話だって織斑先生は言ってたけどね」
「まさかお前は喜べなんて言葉を素直に信じてたりしないだろ? ぜってーロクでもない話に決まってる」
「鈴のことだとは思うけど、わざわざ僕らだけ呼び出して言うことかっていうと……」
「まあ個人的な話だからな。千冬姉も先生として言うわけじゃないんだろ」
放課後、俺と一夏は織斑先生から話があると職員室の側にある織斑先生の部屋まで呼び出されていた。いい話だから喜べと言っていたがもちろんその言葉を信じる者などいない。
「智希はいつもここで作業してるのか?」
「うん、ほとんどは書類の整理。去年の分が全然まとまってなくて」
「千冬姉はここでもそうなのか。全部頭に入ってるからいいとか言ってるけど、他の人間には分かんないんだからさ」
「頭の中にしかなかったら本人がいないと駄目だからね」
結局俺のやっている作業は織斑先生の頭の中を他人が分かるようにすることである。
書類を分類し、整理しながら、俺は織斑千冬がIS学園で相当な地位にいることを知った。
「すまない、待たせたな」
「お茶入れてきましたよ、どうぞ。甲斐田君はもう飲み慣れていますけどね」
「あ、ありがとうございます山田先生」
織斑先生への文句を言っていた俺達は慌てて背筋を正す。
いろいろやらされているがお茶入れだけは山田先生が譲らなかった。この人は織斑先生のお茶入れだけは自分の使命だとでも考えているようだ。
「さて、話の内容だが喜べ。夏休みのカナダ旅行が決まったぞ」
「は?」
「よかったですね。普段はこのIS学園から出られませんから、この機会を楽しんでください」
また話が斜め上方向に飛んでいった。
「期日は八月の頭の一週間だ。行き帰り含めてであるから実質は四五日ほどだが、もちろん観光をする時間はある。普段とは違う景色を存分に眺めてくるといい」
「織斑先生質問いいですか」
「なんだ?」
「行くのは僕ら二人ですか?」
「それを伝えるためにわざわざここまで呼んだのだから当然だ。ああ、二組の凰鈴音も同行する」
「鈴が!? 千冬姉どういうことだよ!?」
カナダに鈴。もう確定だ。
「学園では織斑先生と呼べと何度言わせる。凰の起こした行動については織斑に言われる前から把握していた。必要もなく代表を変更するなど、当然本来は認められることではない。だがハミルトンを含めた二組の生徒全員が賛同している上、凰やハミルトンが自身の本国に報告しており国際的な問題にまでなりかけていた。よって簡単に否定して終わりというわけにはいかなくなっていた」
「お二人とも既に理解していると思いますが、自国から送り出した生徒が代表になれるのであれば喜んで応援しようとするのです」
風は限りなく悪い方向へと吹いている。
「かくして私達は落としどころを探していたのだが、そんな折に織斑から大事な友人のことなので協力できることがあれば是非とも協力したいとの申し出があった。正直渡りに船だった」
「いや、そりゃ確かにできることがあればやるって言ったけどさあ……」
「お友達のために何かをしようというその気持ち、とてもすばらしいと思います」
今ここに山田先生までいるのはそういう理由か。
普段はどちらかと言うと俺の味方をしてくれる人だが、こういう理論を持ち出されてはなるほど迷わず織斑先生に賛同するだろう。
「結論として、凰はリーグマッチに出場するがそれはあくまで代理としてであり、クラスの代表はこれまで通りハミルトンとすることで収まった」
「なんだそれ!?」
「対外的にはハミルトンにやむを得ない事情が発生したので、リーグマッチにおいて変わりに凰が出場するという形になるな」
「だったらハミルトンさんが代表のままでリーグマッチにも出ればいいんじゃないんですか」
「それができれば最初からそうしている。リーグマッチという自国の新型機のお披露目機会を作ることで中国と凰には納得してもらった」
外から固められてしまった。何と言われようと俺は動くべきだったか。
「カナダの方はそれでいいんですか?」
「そこでお前達の出番だ。希少な男性操縦者と誼を通じることができるのであれば喜んでリーグマッチの機会を譲ってくれるとのことだ。三ヶ月先の話にはなるが、お前達がカナダを表敬訪問することで全て丸く収まった」
「きったねー!」
「もちろん観光の時間も用意してもらえるように言ってありますから。普段はこのIS学園の中だけで過ごしていて外を見る機会もないと伝えてありますので、大歓迎を受けていろいろ見せてもらえると思いますよ」
織斑先生が人の悪い笑顔を浮かべ、山田先生が慌てて取り繕うが、結局のところ俺と一夏がうまく利用されたことに変わりはない。確かに一夏のことだから本心で何でもやると言ったのだろうが、これではただの鈴の尻拭いではないか。
「もちろん中国に対しては貸し一つだ。お前達も今後中国に対して何か要求があれば聞こう。凰についてはリーグマッチが終わった後話をするがいい」
「終わった後?」
「そうだ千冬姉」
「織斑先生だ」
「織斑先生、鈴、凰さんがあんなことした理由はなんだ、何ですか?」
「そうか、お前達は知らないのだったな」
篠ノ之さんから聞いたことは誰にも話していない。また篠ノ之さんにも口止めしておいた。
理由は簡単だ。このIS学年の生徒には多かれ少なかれエリート意識がある。つまり程度の差はあれど鈴と同じ種類の感情を抱く人間がいるかもしれない。だからそういう感情を今この時期はわざわざつつきたくないのだ。
「知ってるんですか?」
「本人から話を聞いたのでもちろん知っている。が、それを今お前達に説明することはできない」
「なんでだよ千冬姉!」
「だから織斑先生だと何度言わせる」
ということは鈴の感情を知った上でこの対応をしたのか。
篠ノ之さんの言った通りであるなら、織斑先生は鈴に対して理解を示したことになる。
あるいは全く別の理由があったか。
「二人ともそんな顔をするな。凰には終わった後きちんと説明をするように約束している。リーグマッチ終了後に三人で話せ」
「別に今聞かせてくれたって……」
「それは今説明するとリーグマッチに差し障りがあるからなんですね」
「……そうだな。全力でやり合うにはな」
「分かりました。終わった後聞くことにします」
「智希?」
ほぼ間違いない。後は鈴本人を少しつつけばその反応で確定できる。
織斑先生は俺が既に理由を理解していることが分かったのだろう。軽く笑った。
「織斑先生、あと一ついいですか?」
「どうした甲斐田」
「僕自身は何でもやるとは言った覚えがないんですが、どうして一夏とひとまとめにされているんでしょうか?」
「智希お前自分だけ裏切るのか!?」
別にそういうことではない。
もう俺にはひっくり返せそうもないので、せめて嫌味の一つでも言って一矢くらい報いておきたいだけだ。
「何だ、甲斐田にはそういうつもりはないのか?」
「いいえ、でも僕は織斑先生に対して直接口にしたことはありません。そんな大事なことなのだから、僕にも一言聞いて意思を確認しておくべきではなかったでしょうか」
「お前自分だけずるいぞ!」
「別にやらないとか言ってないから」
猛烈に抗議する一夏を手で払いのけて、俺は織斑先生を真っ直ぐに見る。
するとそんな俺を見て織斑先生はおかしそうに笑った。これは珍しい。というか本気でそう思っている。
「ならば智希、忠告しておこう。情に訴えたいのであれば徹底しろ。昨夜お前は一夏と一緒に私のところに来るべきだった。本当に鈴音のことを思っての行動であると見せたかったのであればな」
「いやいや、だって智希も来たら千冬姉は言うこと聞いてくれないだろ!?」
「その計算してやった行動が間違っているということだ。今回に関しては智希に非がない。ならば堂々と乗り込んで来ていいはずだ。まして暴走した友人を思ってという大義名分まである。なぜそうしなかった?」
「それは……」
一言も喋っていないどころか顔さえ合わせていないのに、俺の考えは完全に見透かされていた。
「私に対して後ろめたさがあるからだ。もっと言えば、私に鈴音をどうにかして代表から降ろしてもらわなければ困るからだ。当事者の周囲を煽るような真似をしなかったのは学習したと褒めておこう。だがその方向で行くのなら利害など捨てて動いているように見せる必要がある。中途半端に計算が見える行動など害悪以外の何物でもない」
俺は唇を噛んで下を向いた。
きっと一夏と一緒に行ったら行ったでまた変に疑われて別の結末があっただろう。
結局のところ今回の俺は千冬さんと対決することを避けて逃げたという話だ。
自分では千冬さんを説得できないと諦めていたのではなく、面と向かって話をしては自分の目的が看破されてしまうと怖がってしまったということなのだ。
「今回の智希の敗因は鈴音の暴走を止めることと鈴音を代表から降ろすことを同一に捉えてしまったことだ。鈴音の暴走を止めた結果、鈴音は代表から降りた、となるようにすればよかったのだ。カナダ旅行はそれを学んだ授業料だと思え」
「えっ、それじゃ俺は?」
「お前は自分で何でもやると言っただろうが。軽々しく口にするからこういうことになる。もっと考えて発言をしろ」
「なんだそれ!」
はっきり負けと言われてしまった。もちろん全て見透かされてしまった上、最悪の結果になってしまったのだから言い返す言葉などない。
俺の目の前に座る山田先生は何が嬉しいのかにこにこしている。
まさか俺を笑ってのことではないだろうが、もちろんそういう人ではないのは分かっているが、そんな幸せそうな表情をされるとこちらはどういう顔をしていいのか分からなくなった。
俺と一夏が打ちひしがれて力なく廊下に出ると、隣の職員室の前にいた女生徒がこちらを向いた。
知った人間だろうかと顔を見るとクラスメイトだった。整備班のリーダー岸原さんと鏡さんだ。
しかし表情が非常にまずい。鈴よりは少し大きいくらいで小柄な岸原さんが、もう全身で泣きそうになっている。というかほとんど泣いている。
「甲斐田君!!」
叫ぶなり岸原さんが突進してきた。待て、俺は闘牛士ではないし赤い布も持っていない。
だが幸いにして岸原さんは俺の目の前で立ち止まってくれた。急ブレーキをかけられるだけの自制心は持っていたようだ。
「オルコットさんが! オルコットさんが!」
「セシリアがどうかしたのか!?」
今度はオルコットか。本当に気の休まる暇がない。
「オルコットさんが、凰さんと言い争いになって、そのうちお互いに自分のISを展開し始めて!」
「ISで喧嘩してるのか!?」
もう目眩がしてきた。本当に自由な連中だ。
「二人とも専用機だし、誰も手が出せなくなって、それで……!」
「二人はどうなってる!? まだやってるのか!」
「一夏、岸原さんをそんなに揺さぶったら答えられないから」
「あ、す、すまん……」
慌てて一夏が岸原さんの肩にかけた手を離す。
しかし鈴とオルコットがガチ喧嘩とは、確かに血の気の多い二人ではある。
鈴はすぐ拳で決着をつけようとするし、オルコットもプライドが高く一夏と煽り合って決闘などと言い出す輩だ。お互いにヒートアップすればまあ自然な展開としてそうなるだろう。
「それで、今は?」
「あっ、えっと、私は……」
「岸原さん?」
「理子は喧嘩が始まった時点ですぐ甲斐田くんを呼びに行ったからその後のことは知らないんだ。そして終わったから私が顛末を報告に来たんだけど、同時になっちゃったみたいね」
動転していて挙動不信な岸原さんを見て鏡さんが横から補足してくれた。
ということは岸原さんはずっと職員室の前で俺達を待っていたのか。そしてその間に不安で押しつぶされそうになっていたと。緊急事態なのだから無理矢理押し入ればいいのに、律儀というか勇気が足りないというか。
「なるほど、もう終わった後なんだね」
「鈴は!? セシリアはどうなったんだ!?」
「え、いや、鳳さんは帰って行ったよ。どこに行ったかは知らないけど」
「セシリアは!?」
「それがオルコットさんは……」
鏡さんが言いよどむ。オルコットは負けたか。
「その場にいた人間で医務室に運んでる。気を失ってたけどISには絶対防御があるし、体については大丈夫だと思う」
「医務室だな!」
言うなり一夏は全速力で疾走して行った。
鈴はオルコットが気絶するまで叩きのめしたか。それともオルコットが気を失うまで負けを認めずに食らい付いていたか。あるいはその両方か。
「甲斐田くん?」
「ごめん、それじゃ僕らも医務室に行こうか」
「そうね。行きながら経緯を説明するわ。理子?」
鏡さんにつられて振り返ると、安心したのか岸原さんが泣き出していた。右手に自分の眼鏡を持ち、左手で顔を押さえて涙を流している。廊下で一人待ちぼうけしている間にそこまで不安に支配されてしまっていたのか。
「岸原さん、わざわざ知らせてくれてありがとう」
とりあえず泣き止んでもらおうと声をかけてみた。
隣の鏡さんがありえないものを見るような目を俺に向けている。どいつもこいつも。
「甲斐田君!!」
岸原さんは俺の言葉に反応して顔を上げてくれたのはいいのだが、さらに顔をくしゃくしゃにして大泣きモードに入り、あろうことか床にへたり込んでしまった。
完全に失敗した。
「か、甲斐田くん。私先に行ってるね」
それを見るや鏡さんが逃げ出した。
待て、この状況を俺一人でどうにかしろと言うのか。岸原さんとよく一緒にいるの見るがお前達の仲はその程度だったのか。というか職員室前の廊下で座り込んで大泣きしている生徒に対して俺はどうすればいい。
「甲斐田、そんな場所で泣かれては迷惑であるから岸原をこちらに連れて来い」
「どうぞ、こっちなら大丈夫ですよ」
救いの声の主は仇敵織斑千冬だった。山田先生も笑顔で手招きしている。
今しがた敗れた相手に助けを乞うのはどうかと思ったが、背に腹は代えられない。
こうなったら織斑先生に岸原さんを押し付けて逃げ出そう。
「場所だけ貸してやる。岸原が落ち着いたら責任持って連れて帰れ。まさか置いて帰ろうなどとは考えるなよ」
だがそれすらもお見通しだった。俺は再度の敗北に思わず頭を垂れる。
こんなことをしている場合ではないのに。早く医務室に行って状況を確認しなければならないのに。
俺は深い溜息を一つ吐いて、泣き続ける岸原さんの手を取って立ち上がらせる。
そしてそのまま手を引いて織斑先生の部屋へと歩みを進めた。
そういえば施設にいた頃はチビ共の手をこうやって引いていたなと思った。