本当は怖すぎる幻想郷 【ホラー短編集】   作:個人宇宙

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文字数:約13,000字


赤い人形

 

 

 メディスン・メランコリーがその音を聞いたのは、辺りもすっかり暗くなった時のことだった。遠くの方で奇妙な唸り声と、微かな咀嚼音が聞こえてきたのである。

 

 何だろう、と思いつつ、メディスンは音が聞こえる方に向かってみる。

 彼女が住処としているこの『無名の丘』は、春先に鈴蘭の花が咲き誇る以外にこれといった特徴もない草原地帯である。人間が住んでいる村とは離れており、妖怪や妖精の類もそんなに好んで寄りつくことの無い場所である。

 

 今夜は月が出ているおかげもあって、周囲はよく見えている。もっとも、妖怪である彼女にとって、完全な暗闇だろうと問題ないのだが。

 そして、現場に辿り着いた時、彼女は何度か目を瞬かせてしまった。

 最初は無名の丘に迷い込んできた獣が、獲物を食べている光景に見えた。

 しかし、それは全くの間違いだった。

 

 人間が人間を食べていたのだ。

 男と女。

 食べられているのは男のようで、すでに息絶えていた。

 

 どちらとも成人の人間のようである。髪の長い女は四つん這いの状態で、ぐちゃぐちゃと音を立てながら男の肉体にかじりついていた。

 女は見たことない服を着ていたので、おそらく外の世界からやってきた人間だろう。

 男の方は全裸の状態だったし、腕やら足やら指やら体のいろんな部分が周囲に散らばっていたため、外の世界から来たのか判別できなかった。

 

 メディスンは首を傾げた。

 ――人間って、あんなことするんだっけ?

 人間とあまり交流したことがない事情もあってか、メディスンは目の前の光景が普通なのか異常なのかよく分からなかった。

 女は息を荒げながら、必死な様子で肉に齧りついている。

 その姿はまさに獣そのものだった。辺り一帯は血と肉片で赤く染まっており、鈴蘭の花たちも赤く染まっていた。

 女は男の胴体にかぶりつき、その肉を引きちぎる。

 

 その時、女とメディスンの目が合った。

 月明かりに照らされて、女の顔がより鮮明に映る。

 女の顔は痩せこけ、目玉がやたら突出しており、その周囲は黒ずんでいた。もし、普通の人間がこの姿を目にしたら、そのあまりにも醜悪な姿に卒倒しているだろう。

 

「あっ……あっ、がががはっ……」

 

 四つん這いの状態のまま、女はメディスンに体を向ける。血の混じった涎を垂らしながら、「がっ、ごっ、ごっ」と奇妙な声を鳴らしている。

 どうやら、獲物を自分に向けたようである。

 しかし、様子を見たところ女に特別な能力はなさそうだった。ただ、己の本能のまま、自分を食糧にしようと考えているのだろう。

 

「わたしは食べられないよ」

 

 念のため、メディスンは言ってみる。

 万が一、女が自分を仕留めたところで、その欲求を満たすことはできないだろう。

 メディスン・メランコリーは、もともとこの場所に捨てられた人形が妖怪と化してしまった存在であり、その体は人間とは違う形で構成されているのだ。

 

「がっ……ごふおっ」

 

 だが、そんな警告を無視して、女はメディスンに突進していった。

 仕方ないので、メディスンは服に仕込んでいた鈴蘭の花を取り出す。

 これは通常の何千倍もの毒性を含んだ、メディスン特製の鈴蘭の花である。

 さらにこの花は軽く潰しただけで、周囲の空気中にその毒成分を散布できるように改良されている。当然、メディスン自身にその効力は受けない。『毒を使う程度の能力』を持っている彼女にとって、これくらいのことは朝飯前なのだ。

 

 勝負はあっさりと決した。

 花を軽く潰して周囲に毒成分が散布されると、女は体を止めて苦しみ始めた。奇妙な唸り声をあげて、男の肉らしきものを吐き出しながら悶えているうちに、その動きを止めた。

 念のため、メディスンは動かなくなった後も女の様子を見続ける。

 特に動きそうな気配はなし――。間違いなく死んだようだ。

 

「わたしの話を聞かなかったからよ」

 

 実は特製の鈴蘭の花以外にも、いろんな毒を用意していたのだが、どうやら使う機会は次に持ち越しのようである。とはいっても、その機会がいつ来るのかは分からないが。

 とりあえず、メディスンはその場を去ろうとした時だった。

 

 ふと、女の手の部分が一瞬光ったように見えたので、動きを止めた。

 目を凝らしてみると、女の左手の薬指には指輪がはめられており、月の光で反射しただけのようだった。

 余計な心配だったようで、彼女はその場から去った。

 

 ※

 

 翌日、メディスンはのんびりと鈴蘭の花を弄っている時のことだった。

 

「やあ。あっちにある死体はお前の仕業か?」

 

 突然、少女の容貌をした妖怪がメディスンのもとにやってきたのである。

 メディスンは首を傾げた。

 

「死体って?」

「とぼけるなって。あっちに男と女の死体があったんだよ。で、女の方は明らかに何者かによって殺されていたんだ。それってお前の仕業なのか」

 

 紫色の髪をした妖怪は、血色の悪い顔をメディスンに向けて問う。その顔はどこか病的な何かを抱えているような、不気味な気配を漂わせていた。

 ここでメディスンは、ようやく昨晩のことを思い出した。

 

「あー。あれね。襲ってきたからやったのよ」

「そうか。やっぱりお前の仕業だったのか」

 

 妖怪はメディスンの前に腰をおろす。そこには何本かの鈴蘭の花があったはずだが、妖怪はそんなのお構いなしに座ったので、メディスンは少し不快な気分になった。

 妖怪は甲高い笑い声をあげながら、自分は『麻薬屋』と名乗った。

 麻薬とはどういうものなのか説明も受けたが、メディスンにはいまいち意味が分からなかった。ただ、麻薬とは人を狂わせる薬であることだけは理解できた。

 

「女の死因は毒だった。あれはお前が作ったのか」麻薬屋が問う。

「ええ、そうよ」

「女の体内には超高濃度のコンバラトキシンが入っていた。致死量の数千倍くらいのな。コンバラトキシンとは、鈴蘭の花とかに含まれている毒成分のことだ。一応、この辺りに自生している鈴蘭も調べてみたが、どれも一般的な含有量と大差なかった。つまり、通常の手段では、あれだけの高濃度の毒を作り出すのは不可能なんだ」

 

 ぺちゃくちゃと、やたら長ったらしい説明をしてくる妖怪である。

 本音を言えば早くいなくなって欲しかったのだが、特に追い出す口実もなかったので、メディスンは仕方なく付き合ってやることにした。

 ぱん、と麻薬屋は手を叩いた。

 

「で、改めて問うけど、お前はどうやって毒を作ったんだ」

「お前じゃないわよ。メディスン・メランコリーよ」

「じゃあ、メディスン。メディスンはどうやってあんな強力な毒を作れたんだ」

「さあ。毒を作る時なんて、別に細かいこと考えてるわけじゃないし」

「つまり、あれはお前の生まれ持った才能ってやつか」

 

 すると、麻薬屋は口を閉ざして、何やら考えるような表情になる。

 長い沈黙の間、メディスンは昨晩の出来事を思い返してみた。

 思えば、あの女の状態は普通ではなかったのかもしれない。

 いくら人間との交流が希薄なメディスンとはいえ、女の様子は明らかにおかしかった。人間が人間を食べるなんて聞いたことなかった。

 

 どうせ暇だし、ちょっとくらい事情を訊いておいてもいいかもしれない。

 そう思ったメディスンは、「ねえねえ」と尋ねてみた。

 

「昨日、わたしが殺した人間の様子がおかしかったけど、あれってあなたの仕業なの?」

 

 すると、麻薬屋は待ってましたと言わんばかりに不気味な笑みを浮かべた。

 

「そうだ。あれはみんな私がやったんだ。私の特製の薬を試すための実験台としてな」

「実験台?」

「説明するとかなり長くなるけどな――」

 

 それから、麻薬屋は詳しい事情をメディスンに説明してくれた。

 まず、麻薬屋は手始めに外の世界から二十人くらいの人間を取り寄せた。

 場所は、無名の丘にも近い森である。森とは言ってもかなり奥まったところに連れてきたので、近くの集落まで歩いても三日以上の時間が掛かるらしい。

 

 そして、麻薬屋は人間たちにある仕掛けを施した。

 人間たちを連れてきた場所の近くに、きれいな水の入った井戸と、瑞々しい果物が実った木を用意したのである。どれも、彼女が時間と手間を掛けて作ったものである。

 場所が場所なので、もともと幻想郷に住んでいる人間が口にすることはない。

 迷い込んだ人間たちは何の疑いもなく、その水と果物を口にした。

 

「ところがどっこい。実は、その水と果物にちょっとした罠を仕掛けておいたのさ」

 

 麻薬屋はここで声色を上げて、その罠を説明してくれた。

 

「まず、水にいろんな種類の薬を注入しておいたんだ。強力な下剤やら、脂肪を燃焼を急激に促進してくれる薬やら、体の水分を速やかに尿として排出してくれる薬とかな。もちろん、私の能力で全て無味無臭化している。細かい部分は省略するけど、これを飲んだ人間はどうなるかお前には想像できるか?」

 

 彼女はこめかみを軽く叩いた。

 

「つまり、飲めば飲むほど、喉の渇きと空腹がひどくなるわけだ。体中の脂肪や水分が薬の効き目によって体の外に排出されるから、さらに人間たちは水を口にせずにはいられなくなる。でも、飲めば飲むほど、また薬の効力で体の外に排出されてしまう。脂肪も食べた物も急激に排出されるから、常に腹が減っている状態になる。飢餓地獄の完成だ。しかも、強力な下剤によって、人間たちは常に腹痛などの身体的な痛みを味わう。これで、森から脱出したいという気力や体力を奪うこともできる。でも、この水はまだ準備段階に過ぎないんだ」

 

 ここで麻薬屋は、手のひらに乗るくらいの大きさの果物をメディスンに見せた。

 リンゴによく似たその果実は、太陽に照らされて美しい光沢を放っていた。

 

「喉の渇きと飢えに苦しんでいる人間たちが、次に何をすると思う? この瑞々しい果物を無性に食べたくなるだろう? でも、この果物にもいろいろと仕掛けを施していたんだ」

 

 麻薬屋は果物の表面をぺろりと舐めた。

 

「この果物、食べれば甘ったるい味が口に広がるが、実はその中にいろんな種類の麻薬を詰めに詰め込んだ特製の合成麻薬果実なんだよ。これも細かい成分は省略するけど、これを摂取し続けたら強烈な幻覚を見たり、攻撃的な性格に変わったり、食欲が旺盛になったりするんだ。まあ、ごく少量だったら問題ないけど、さっきの水のせいで飢えていた人間たちは、これをがっつり食べざるを得なかっただろうねえ。その結果、人間たちのすさまじい殺戮劇が始まった。最初は『みんなでこの森を脱出しよう』と一致団結していたけど、最終的には大半の人間が発狂して、殺し合いを始めた。十人くらいの人間が、一人の人間の肉を生きたまま貪っている瞬間はなかなか見ものだったなあ。一部の人間には逃げられたけど、何はともあれこの実験は大成功に終わった。自前の水と合成麻薬果実で、私は人間たちの理性や良心を完膚なきまで破壊することに成功したんだ」

 

 メディスンは昨日の女の状態を思い返した。

 麻薬屋の罠によって理性と良心を破壊された女は、薬によってもたらされた過剰な食欲によって男の肉に喰らいついたのだ。

 もともとは普通の人間だったはずなのに、妖怪のせいで瞬く間に哀れな獣に成り果ててしまったのだ。

 メディスンは声を低くして尋ねた。

 

「なんで、そんな大がかりなことをしたの?」

「そっちの方が刺激的で楽しいと思ったからだよ。私もこれまでいろんな薬を人間に与えては息の根を止めてきたけど、それだけじゃ物足りなくなってしまってさ。いろいろ試行錯誤した結果、少しずつ内側から破壊していった方が面白いと感じるようになってきたんだよ。あっ、念のため言っておくけど、私の作った薬は妖怪やそれ以外の生物には効かないからな。あくまで人間用に特化した薬なのさ」

 

 麻薬屋の嗜好などよく分からなかったが、とりあえずメディスンは相槌をうった。

 

「で、どうしてそんな話を私にしたの?」

「おっと。長くなってしまったな。本題はここからだ」

 

 麻薬屋は、赤い果実を懐にしまってから続けた。

 

「メディスン。私はもっと大がかりなことをやってみたいんだ」

「大がかりなこと?」

「今よりもっと強力な薬を作って、今よりもっと大勢の人間を巻き込みたいんだ。そのためにはもっと多くの時間と協力者が必要なんだよ」

 

 生暖かい風が吹いて、鈴蘭の花たちが大きく揺れた。

 

「どうだ。もし、やる気があるなら私と一緒に協力しないか? メディスンの毒を作る能力を応用できたら、今よりさらに強力な薬が作れそうなんだよ」

「わたしの力で?」

「ああ。さっきの人間の女の死体を調べて、そう感じたんだ」

 

 メディスンは、どうして麻薬屋が自分を誘っているのかを考えてみた。

 さっきの長ったらしい説明からして、この妖怪は間違いなく快楽目的でこんなことをやっているのだろう。

 言葉の雰囲気からして強引に誘っているとは思えなかったので、もし自分がこの誘いを断ったとしても、この妖怪はあっさり引き下がってくれるだろう。

 とはいえ、特に断りたい理由も見当たらなかったし、だからといって了承したところで、やたら説明的な口調が鼻につく妖怪と付き合っていくのも面倒に感じた。

 

「んー。どうしようかな」

 

 メディスンは、鈴蘭をいじりながら続けた。

 

「ちょっと考えたいから、また明日でいいかな」

「ああ。別に構わないよ」

 

 そう言って、麻薬屋は立ち上がる。

 彼女が座っていた場所には、潰れた鈴蘭の花があった。

 

「じゃあ、また明日の同じ時間にここにやってくるよ」

 

 麻薬屋は奇妙な笑い声をあげながら、その場を去っていった。

 

 ※

 

 メディスン・メランコリーは、鈴蘭畑に捨てられた人形が変異して妖怪化した存在である。

 自分が人形だったころの記憶は覚えていない。

 ただ、自分という存在がこの世界に出現した時に漫然とあったのは、この自分という体を作ってくれたのは人間であり、その人間のせいで自分はこうなってしまったのだという認識だけである。

 そのため、人間の姿を見るたびに、彼女の中である感情が湧きあがってくるのだ。

 

 それは『怒り』である。

 自分という人形を捨てた人間に対して、どうしようもなく怒りが湧きあがってくるのである。お腹が減れば食べ物を口にしたくなるように、眠たくなれば目を閉じたくなるように、メディスンは人間を見れば必ず最初に怒りが湧いてくるのだ。

 これはメディスンの完全な予測であるが、自分は人形の代表として生まれたのだと思っている。己の意志を表明することができない無数の人形たちの無念が、いつしか鈴蘭畑に捨てられていた人形に集約されて、自分という存在が発生したのである。

 

 そして、この日の夜前もメディスンは一人の少女を鈴蘭畑で遭遇して、すぐに怒りの気持ちが湧いてきたのである。

 昨晩の死体を貪っていた女も一応人間であったが、あまりにも変わり果てた姿だったため、怒りという感情すら湧いてこなかったのだ。

 少女はメディスンを見るなり、その場で硬直してしまった。

 

「あっ……ええと……」

 

 長い黒髪の可愛らしい女の子で、その胸には小さな人形を抱きしめるように持っていた。

 すでに薄暗い時間帯になっていたので気付くのに少し時間が掛かったが、その顔は疲れ果てており、着ている服も泥や汗でだいぶ汚れてしまっていた。

 メディスンと少女は、しばらく無言で見つめ合った。

 

「あっ――」

 

 どんな言葉を掛けようか考えているうちに、少女がその場に倒れてしまった。

 メディスンは舌打ちをしながら立ち上がり、少女のもとに駆け寄った。

 

「どうしたの。なんで人間がこんなところにいるの」

「み、みず……」

「水が欲しいの?」

 

 少女はこくりと頷く。顔は青白くなっており、かなり衰弱しているのがはっきりと分かった。しかし、それでも人形だけは胸に抱きしめたままだった。

 メディスンはしばらくその人形を見続けた。

 金色の髪と、ぱっちりとした目が特徴的な可愛らしい女の子の人形である。

 青を基調としたいかにも豪華そうな服を着ており、おとぎ話に出てくる遠い国のお姫様みたいな恰好だとメディスンは思った。

 

 ――人間なんて、放っておけばいい。

 最初はそう思ったが、人形を眺めていくうちに、何故かその気持ちが消え失せていった。なぜか、この女の子を見過ごすことができなくなってきたのだ。

 

「分かった。ちょっと待ってて」

 

 喉が渇いているようだから、水を与えてやればいい。

 メディスンは近くにある川に行こうと思ったが、すぐに水を持ち運ぶための容器が無いことに気付いた。どうしようかと焦ったが、ふと少女の背中に荷物を入れるための袋があったので、何か良いものはないかと思い、その口を開けてみた。

 

 そして、思わず目を瞬かせてしまった。

 袋の中から、先ほどの麻薬屋が見せた赤い果実が大量に出てきたのだ。

 

 ※

 

 春を迎えたばかりの無名の丘は、あっという間に夜を迎えてしまった。

 水を飲ませて、しばらく体を休ませておいた後、少女はむくりと起き上がった。

 みず、と少女は再び言ってきたので、メディスンは「その中にまだ残ってるよ」と言って、銀色の容器を指差した。

 先ほど少女の袋の中から、銀色の光沢を放った水を入れる空の容器を見つけたので、それを使って近くの川から水を汲んできたのだ。少女は慌てた様子で水を飲む。

 あっという間に全ての水を飲み終えると、少女は大きく息を吐いた。

 

「どう? 気分は」メディスンは尋ねる。

「ちょっと元気になった。ありがとう」

 

 ここでメディスンと少女はお互いに自己紹介をした。

 少女はアイと名乗り、生まれた場所の地名も教えてくれたが、メディスンにはどういう場所なのか見当もつかなかった。

 アイと名乗る少女はとても気さくな性格のようで、こっちは訊いてもいないのに、自分のことをいろいろと語り始めた。

 両親のこと、学校と呼ばれる場所での生活のこと、そしてこの数日の間に彼女の身に起こった事も話してくれた。

 

 とはいっても、その内容はメディスンがだいたい予想した通りだった。

 この少女は麻薬屋の実験のために、外の世界から連れてこられた人間だった。

 そして、周りの人間が麻薬屋の罠によって発狂していく最中、何とか逃げ切った人間のうちの一人だった。

 詳しい話を聞いてみると、アイは両親と一緒に山を登る『ツアー』と呼ばれるものに参加していて、その最中に二十人くらいの人間と一緒にこの世界に連れてこられたようだった。アイいわく、山を登っていたらいつの間にか森の中を歩いており、何が起こったのかさっぱり分からなかったらしい。

 アイは両親と共に何とか地獄から逃げ出したものの、その途中で両親とはぐれてしまい、一人で逃げていくうちにこの無名の丘に辿り着いたのだった。

 

「なるほど。それは災難だったね」メディスンは言う。

「メディスンのおうちはどこにあるの?」

 

 自分のことを語り終えたアイは、今度はメディスンのことを訊いてきた。

 

「メディスンも道に迷ったの? パパは? ママは?」

 

 さらに質問を重ねてくる。

 メディスンは、アイから目を逸らす。もし、自分が人間じゃないと答えたら、この子は絶対に怖がってここから逃げ出すだろう。それはどうしても避けたかった。

 

 本当のことを話さないほうがいいかもしれないと判断したメディスンは、とりあえず「わたしも道に迷った」と答えて、パパとママについても適用に「はぐれた」と答えた。

 アイが納得したように頷いているうちに、メディスンは視線をアイの横に置いてある『リュック』に向けた。リュックとは、アイが教えた袋の名前である。

 

「で、そのリュックに入ってる果実はもう食べたの?」

「んっ。まだ食べてないよ」

「一口も?」

「うん」

 

 アイはリュックから赤い果実を取り出した。

 

「本当はすごく食べたいんだけど、パパが『それは絶対に食べない方がいい』って怒ってきたから、まだ食べてない。すごくおいしそうだから、こっそりリュックに入れちゃったんだけど、なんでだろうね」

「じゃあ、今日まで何を食べてたの」

「お弁当があったから、ちょっとずつ食べてた。パパやママ、それに周りの大人たちもみんな自分のお弁当や水をわたしにあげてくれたんだ」

「水も?」

「うん」

 

 アイはこくりと頷く。

 なるほどね、とメディスンはひっそりと納得した。

 どうやら、いろんな幸運が重なってアイはまだ麻薬屋の罠に引っかかってないようだった。

 周りの大人たちは貴重な食料と水を、子供のアイにあげてしまった代償として、真っ先に麻薬屋の毒牙に掛かってしまったのだ。

 メディスンはアイから果実を取り上げると、「こんなの捨てちゃいなよ」と言った。

 

「それ、食べたことあるけど、かなり不味かったから食べないほうがいいわよ」

「ええっ。でも、みんなすごく美味しそうに食べてたよ」

「大人にはおいしく感じる果物らしいよ。だから、子供は食べちゃだめなの」

 

 アイは信じられない様子で果実をまじまじと見ていたが、やがてメディスンの言葉に納得したようで、リュックに入っていた大量の果実をそのまま投げ捨てた。

 びしっ、と音を立てて果実が潰れていく。そこから流れる赤色の汁が人間の血のように見えた。もし、一口でもあの悪魔の実を食べていたら、アイもたちまち昨日の女のような末路になっていただろう。

 

 ――えっ。

 

 その瞬間、メディスンは自分の行動に疑問を抱いた。

 人間の少女に対し、どうして助けるような言葉を放ったのか、自分でも理解できなかったからだ。

 

 しばらくの間、沈黙が二人の間に流れた。

 特に話すこともないのでメディスンは鈴蘭の花をいじっているうち、すすり泣く声が聞こえてきた。

 横になったアイが人形を強く抱きしめながら、大粒の涙を流していたのだ。

 

「パパ……ママ……。どこにいるの」

 

 アイの細い声が、夜の闇に溶けて消えていく。

 

「どうして泣いてるの」メディスンは首を傾げて尋ねる。

「もう、こんなのいやだ……。早くおうちに帰りたいよ」

「パパとママが、どこにいるのか分からないの?」

 

 人間の少女はこくりと頷く。

 両親のことはすでにアイの口から聞いている。

 二人とも怒るとすごく怖いけど、すごく優しい人たちだと言っていた。

 アイの持っている人形も彼女の誕生日に両親が買ってくれたもので、すごく大切にしていると、人形の頭を撫でながらアイはしゃべってくれた。

 

 しかし、そんな両親も今はアイのそばにいない。

 彼女は涙を流しながら、「パパ、ママ」と何度も叫んだ。

 ふと、アイに抱かれている人形の視線が、メディスンに助けを求めているように映った。

 不思議な人形である。この人形のせいで、さっきからどうも気分がおかしくなっているのだ。

 メディスンは、アイと向かい合うようにして横になる。

 

「明日、パパとママを探そっか」

 

 メディスンの言葉を聞いて、アイは泣くのを止める。

 

「たぶん、パパとママはこの近くにいるはずだから、朝になったら一緒に探そうよ」

「ほんと? ほんと?」

「本当だよ。だから、今日は早く寝たほうがいいよ」

 

 アイはメディスンの顔をしばらく眺めた後、こくりと頷いた。

 

「うん。ありがと……」

 

 そして、アイはリュックを枕代わりにして、再び横になった。すでにその目から涙は流れておらず、どうやら気分は落ち着いたようだった。

 少し冷たい夜の風が、鈴蘭の花たちを揺らしていく。

 二人はお互い横になったまま、しばらく見つめ合った。

 

「メディスン」アイが言う。

「なに」

「私たち友達だよね?」

「ともだち?」

「うん。友達」

 

 メディスンはその意味がよく分からなったが、とりあえず首を縦に振った。

 

「そうだね。ともだちだね」

「えへへっ……」

 

 アイはにっこりと微笑むと、そのまま目を閉じる。かなりの疲労が溜まっていたようで、あっという間に規則正しい寝息を立て始めた。

 メディスンは、アイが抱いている人形に目を向ける。

 

 その金色の人形の顔は、どこか安心したような表情をメディスンに向けていた。どうして、そう変わっているように見えたのかは分からない。

 何となくメディスンはアイに近寄って、その体を抱きしめてみる。

 

 ――あったかい。

 

 意外と心地よかったので、メディスンはさらに抱く力を強くさせる。

 アイは小さく唸ったが、メディスンは構わず力を入れる。

 初めて味わう人間の感触は、心の奥のどこかに存在する自分の空白を埋めてくれるような、どこか不思議で奇妙な感触がした。

 

 ※

 

 周囲がおぼろげな朝の光に包まれた頃、メディスンは目を覚ました。

 そして、すぐに何かがおかしいことに気が付いた。

 アイの姿がどこにも見当たらないのである。

 

 メディスンは慌てて起き上がり、周囲をきょろきょろと見渡してみる。しかし、アイの姿はどこにもなく、いつものように鈴蘭の花々があるだけだった。

 メディスンの足元には、アイのリュックが置きっぱなしだった。あんな子が荷物を置いて逃げるはずがないので、自分が眠っている間にどこかに行ったに違いない。

 

「どこにいるの! アイ!」

 

 彼女の名前を叫びながら、メディスンは辺りを探してみた。

 しかし、特にこれといった目星や思い当たる場所がないので、捜索は難航した。

 そんなに遠くには行っているはずがないと思いつつも、無名の丘に近い川のところまで来た時、メディスンは川辺であるものを見つけた。

 

 それは、アイが持っていた『水筒』と呼ばれるものだった。

 メディスンは、ぞくっとするような感覚を抱いた。彼女は水を汲むために一人で川まで歩いて来たのだろうか。しかし、肝心の彼女の姿がどこにも見当たらない。

 

 その時、メディスンはあるものを発見した。

 それは人間の足跡だった。大きさからして、明らかにアイが履いている靴の足跡だった。それは、水筒から川の近くにある草むらの方へと続いている。

 

 ――嫌な予感がした。

 どうして、アイが水筒を置いて草むらに入ったのか、全く予測がつかなかったからだ。

 メディスンは恐る恐る草むらの方へ近づいてみる。この辺りはメディスンの身長より高い草が生えており、奥に何があるのかさっぱり分からなかった。

 そして歩いていくにつれ、メディスンは数日前にも嗅いだ匂いを微かに感じた。

 それは人間の女が男を貪っていた場所にたちこめていた、あの血の匂いだった。

 

「おっ。メディスンじゃないか」

 

 その時、横の方から声が聞こえてきた。

 声の主は麻薬屋だった。紫色の髪をした血色の悪い顔の妖怪は、草をかき分けながらメディスンのもとにやって来ようとしていた。

 

「どうしたんだ。こんな朝っぱらに」

「……ちょっと、さがしものを」

「へーっ。そうなのか」

 

 そして麻薬屋が目の前までやってきた時、メディスンは気が付いた。

 麻薬屋の手には、血塗られたアイの人形があったのだ。

 メディスンは思わず目を見開いた。

 

「その人形はなに?」

「ああ。これか。これはさっき殺した人間の子供が持っていた人形だよ」

 

 それを聞いて、全身の体温が急激に上昇したのを感じた。

 

「人間の子供?」

「昨日、実験のために連れてきた人間の一部が逃げてしまった、という話は聞いただろ。そのうちの一人を、さっき川の近くで見つけたんだよ。私を見るなりいきなり逃げ出したから、何とか草むらで捕まえて、そのまま私の薬の実験台になってもらったってわけさ。昨日説明した合成麻薬果実と並行して開発していた、新しい麻薬のな」

 

 血塗られた人形は、じっとメディスンを見つめていた。

 

「でも、人間の子供にはうまくいかなったみたいだ。内側を破壊する前に、体の方が先に限界を迎えてしまったようでな。服用してすぐに全身から血が噴き出して、そのまま死んでしまったんだ。もうちょっといい感じに狂って欲しかったけど、そこはうまく調整しないとな」

 

 メディスンの脳裏に、にっこりと微笑むアイの顔が思い浮かぶ。

 ともだち、という単語にやたら嬉しそうに反応しているアイの顔である。

 

「で、メディスン。昨日の話の続きだが――」

「なんで?」メディスンは麻薬屋の言葉を遮った。

「はっ?」

「なんで、殺したの?」

 

 メディスンは低い声で尋ねる。

 麻薬屋は、これを冗談だと捉えたのか苦笑いをした。

 

「なに言ってるんだ。外の人間がこの世界にやってきたら、みんな死ぬ運命なんだよ。あの女の子は単に運が悪かっただけさ。――まあ、そんなのどうでも良いことだがな」

 

 そして、麻薬屋は人形を適当なところに放り投げる。

 赤に染まった人形は悲しそうな視線を向けながら、草むらの中に消えていく。

 その瞬間、メディスンの中に潜んでいた何かが吹っ切れた。

 

「あああああっ!」

 

 大きな叫び声をあげながら、メディスンは麻薬屋に突っ込んでいった。

 

 ※

 

 目の前には、青色のドレスを着た可愛らしいお姫様が立っている。

 ここは、とある国のお城の大広間。

 普段は大勢の人たちで賑わっているところだが、今日はお姫様だけの舞踏会だ。

 彼女は微笑みながら、明かりの点いていない部屋で踊り始める。ふわふわのドレスが彼女の動きによって、さらに軽やかに見える。月明かりに照らされて、彼女の金色の髪も輝いて見える。

 

 そんな想像をしながら、メディスンは人形の頭を撫でる。

 しかし、目の前にいるお姫様の人形は、すっかり血の色に染まっていた。

 この日の夜、鈴蘭の花に囲まれたいつもの場所でメディスンは横になっていた。

 

 あの時、メディスンは衝動的に仕込んでいた毒を麻薬屋に浴びせた。

 匂いを嗅いだだけで、体に強烈な痺れをもたらす猛毒である。

 不意を突かれた麻薬屋は、その場に倒れた。

 普通の人間だった即死の威力であるが、さすが頑丈な体をしている妖怪なだけあって、その程度では息絶えなかった。しかし、体は動けなくなったようで、理解できないような表情をメディスンに向けたまま、口をパクパクさせていた。

 

 あとは一方的な殺戮だった。

 まずは、通常の数千倍もの毒性を含んだメディスン特製の鈴蘭の花を、大量に麻薬屋の口に押し込んでやった。ただでさえ血色の良くなかった顔はますます黒ずみ、体の至るところから血が噴き出していった。

 しかし、それでもなかなか死なない。

 そこでメディスンは己の能力を全力で駆使して、様々な種類の毒を麻薬屋の体に入れていった。メディスン自身もどんな効力を持っているのか分からないまま、ひたすら毒を麻薬屋に流し込んでいった。

 

 どれくらいの時間が掛かっただろうか。

 気付いたときには、そこに麻薬屋の姿はなかった。

 麻薬屋の姿をしていた物体らしきものが、溶けたようにそこに転がっているだけだった。

 

「ふうっ……」

 

 メディスンは小さく息を吐いて、また先ほどのお姫様の世界に戻る。

 どうして、こんなおとぎ話みたいな情景を想像できるのだろうか。

 もしかしたら、自分がまだ人形として存在していた頃にそんな話を聞いてしまい、この人形と出会ってしまったことにより、忘れていたはずの記憶が引き出されてしまったのかもしれない。

 

 彼女は目を開いて、人形を持ち上げてみる。

 月明かりに照らされたお姫様は、すっかり血塗られた赤い人形に成り果てていた。今日は血を浴びる機会が多かったせいで、メディスン自身もすっかり血まみれだった。

 

 麻薬屋を殺害した後、メディスンは改めて草むらを探索してみた。

 そして、すぐにアイの死体を発見した。彼女の周囲は血の海となっており、その顔は苦痛に歪んだまま固まっていた。

 メディスンはその場で穴を掘って、アイの死体を埋めた。

 

 実は、ここで一つ判明したことがあった。

 アイの死体を穴に移そうとした時、一枚の紙切れがアイの服から落ちた。

 確認してみると、その紙にはアイと大人の男女の顔が映っていた。みんな顔立ちがそっくりだから、おそらくこの男女二人がアイの両親と判断していいだろう。

 

 そして、女性の顔を確認したメディスンはここでようやく気付いた。

 紙に映っている男女は、二日前に遭遇した人間の男女だったのだ。

 発狂した女が死んだ男を貪っているところをメディスンが発見して、女を仕留めた――あの時である。

 

 つまり、アイの両親は、アイと出会う前にとっくに死んでいたのである。

 これはメディスンの勝手な想像であるが、アイの両親は自分たちがおかしくなっていることを自覚して、わざとアイから距離を置いたのではないだろうか。そうでなければ、固い絆で結ばれた親と子供がどうしてはぐれてしまったのか納得いかなかったからである。

 メディスンは再び大きく息を吐く。

 

 ――本当に自分はどうしてしまったのだろう。

 

 この人形に出会ってから、奇妙な考えや行動をするようになった。

 どうして麻薬屋を殺してしまったのか、アイを助けるようなことをしたのか、未だに理由は曖昧なままであった。

 しかし、これだけは明確に言えた。

 

 自分はこの人形に導かれるまま、一連の行動をしただけに過ぎないと。

 人形から妖怪という存在になり果てた自分に対して、この人形から伝わってくる意志の力が、自分にあんなことをさせたのだと思っている。

 

 メディスンは、持っていた人形を今度は抱きしめてみる。

 だが、昨晩アイの体を抱いたときのような、あの満たされるような感覚は一向にやってこなかった。自分は人形の無念にちゃんと応えたはずなのに、どんなに強く抱きしめても、その心が満たされることはなかった。

 

 ――どうして、どうして。

 

 血塗られた人形は何も答えず、メディスンに抱かれたままだった。

 

 




1年4ヶ月ぶりの更新です。
1話~3話は登場人物の設定から想像できる怖さを重視しましたが、今回はとにかくホラー的な怖さとかストーリー性を重視しました(そのため東方の要素が薄くなってしまいましたが……)。
最後までありがとうございました。

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