蒼き鋼のアルペジオ ―Auferstehung― 作:主(ぬし)
「
「───は?」
俺の
「カ、艦長……?」
触れる間近まで迫っていた唇がさっと引かれ、悦に浸っていた顔貌に懸念の翳りが生じる。同時に、正体不明のおどろおどろしさにも揺らぎが生じる。頭巾のように目元を覆う前髪の向こう側で瞳が震える。霧中から現れる船首のように人に恐怖を与えるその瞳が、歪む。それは初めて亡霊が見せる人間じみた感情───“光への
「昔、俺が飼っていた犬の名前だ。俺の大切な親友だ。その名前を、俺が指揮する潜水艦に与える。だが、
「な、なにを言ってルの?ワタシが……」
「違う!お前は俺が求めるイ405じゃない。たしかにお前の言う通り、俺は現状を打破する“力”を求めていた。この鬱屈し、閉塞した世界を破断する“力”を求めていた。俺と共に運命の大海をひた走るに相応しい相棒を求めていた。それは断じてお前なんかじゃない」
「……やメて」
唇がぶるりと震え、声音に卑屈な喘鳴が生じる。それに端を発して、司令室の発光が息を吹き返した生物の鼓動のように明滅し、廃寺の伽藍のように陰鬱だった空気に変化が生じ始めた。ウォン、と足元から聴こえる機関音が高音域にまで一気に跳ね上がり、復活の兆候を伝えてくる。毒ガスのように艦内に充満していた命を吸い込む底なしの闇が瞬く間に打ち払われ、生命力溢れる暖かい光に取って代わられようとしている。それはまさに、目の前に座する亡霊の存在が根底から揺らいでいることを如実に現していた。孤独で空虚な王座に座する亡霊が、その王座ごと蹴飛ばされようとしていた。
「そンな───こんなコとが───」
今度は亡霊が恐慌を来たす番となった。先ほどまでの俺に対する露骨な媚びが消え、顎をぐっと引っ込めてこちらを恨めしげに睨め上げてくる。両の頬に血管のような真紅の光筋が走るも、俺には
そう、コイツはただの亡霊だ。存在のおぼろげな、吹けば消える程度の
自分の意気が───
「なにしてるんだ!こんな奴さっさとやっつけろ!俺と一緒にいたいんだろう!」
「やめて───やメて、
俺の決意を前に、どす黒い双眸が恐慌にぐわっと見開かれる。音楽的な響きすらあった声は影もなく、焦燥に擦り切れている。相手を圧倒する立場が見事に逆転し、俺は亡霊を追い詰める形となっていた。
ふと、その奥底に既視感のある瑠璃色が垣間見えた。暗い洞穴の底で、見たことのある淡い光が煌めいている。その閃きは、まるで俺の呼び掛けに呼応しているようだった。それを見て、熱い予感めいたものが胸の奥でドクンと脈動する。アイツは消えていなかった。そのことに気付いた俺の心に希望の火が灯り、気力が奮い立つ。
「
俺の呼びかけに応えようとするように瞳の瑠璃色はさらに光度を増していく。明滅の間隔が短く、早くなる。アイツが表の世界に出ようと───俺の下に帰ろうと、足掻いてくれている。
「やメて───やめロ、薄汚い
耳をつんざくヒステリックな金切り声。先ほどまでの甘えるようだった声音から一転して敵意を剥き出しにする。亡霊が己に生じ始めた変化を察知して憤怒している。歯茎を剥き出しにして自身の肩を掻き抱いてそこに爪を立てる。そうしなければ自分が
その無意味な抵抗に反比例するように、両頬の妖しい光筋は漸減し、淀んでいた瞳が靄が晴れるように澄んでいく。司令室に滞留していた重油のような重苦しい気配が洗い流され、清浄な深清水のそれに変わっていく。薄くなっていく暗闇の被膜の向こうに、俺に向かって必死に手を伸ばす少女の姿を幻視する。十重二十重に落とされた緞帳の向こうから
「……オ前も私を沈めルノか……!」
うつ向き、食いしばった歯のあいだから吐血めいた怨嗟を吐き出す。肉食獣のように鋭く尖った爪と八重歯を剥き出しにして威嚇に喉を唸らせる。
だが、もう恐怖は感じなかった。むしろ俺の胸中を支配していたのは
「お前は俺に相応しくない!俺たちの
ガラスに爪立てるような断末魔の絶叫が空間に響き渡る。悪霊の最期の足掻き。俺はそのど真ん中を貫くように全身を声にして叫ぶ。
「さあ行くぞ、ニコ!!!出航だ!!!」
空間の一点で、目くるめくような
───名前をくれてありがとう
───犬の名前ってのがアレだけど、気に入ったよ
実は何年も前から出来ていたのですが、「これでいいのか」「もっとシンプルに出来たのでは」「まだやり直せるのでは」などとクヨクヨしていて、投稿できませんでした。ヤンデレ設定とか二重人格設定とか必要だったのか……。仕方ないじゃないか、二重人格のヤンデレTSっ娘が書きたかったんだよ……。