ピェール邸の謎が解明しないまま一週間が過ぎた、特に進展は無く陰陽道の修行だけが捗る。
胡蝶と混じり合った恩恵による霊力の増加は、ひたすら御札作成を続ける事が出来たので必然的に修得度も高まった。
防御用の御札の数も三百枚をこえて失敗も少なくなったので、種類を変えて陰陽師の基本である式神札の練習を開始する。
僕が修得した基本的な式神札は人型に切り抜いた和紙に霊力を込めて歩かせる事と、蝶の型に切り抜いた和紙を飛ばす事。
どちらも基礎中の基礎で、これを元に色々と付加していくのが式神だ。
『胡蝶さん、式神札を作成するけど東海林さんの中級教材には色々な見本が有るけどどうする?基本は人型だけど動物の種類も多いよ、四つ足の獣系とか戦闘用だよね』
ぺらぺらと頁を捲りながら模倣する見本を吟味する、流石に人型は160㎝程度のノッペリとした姿形の式神に簡単な動作をさせる位だ。
中級でこの程度って事は安倍晴明が使役した十二神将って、どれだけ高レベルなんだろう?
逆に四つ足の獣系は80㎝程度の大きさだが対象を攻撃しろとか命令を組み込める、噛む位しか出来ないが数を用意出来れば中々の戦力になるだろう。
『ふむ、最終的には試練で手に入れた昆虫系を改良するが慣れる為なら獣系だな、数を頼りに撹乱や囮位にはなるだろう』
『四つ足の獣系って書いてあるが式神札には戌(いぬ)って書くから完全に犬だよな。犬飼一族絡みと思われそうだが仕方ないのかな?』
わざわざ宮城県まで行って犬神使いの犬飼一族の霊的遺産を相続した話は、亀宮一族内でも知れ渡ってるから外部に広まるのも時間の問題だ。
その僕が犬を模した式神を使役する……意味深だよな。
『気にするな、だが使えるぞ』
『確かにね、リアル犬や犬霊だと結衣ちゃんが怖がるけど式神なら平気かな?』
『養い子の為に力を放棄する考え方は止めろ、我に今風に調教されたいか?』
頭の中で両手を上げて降参の意を示す、だが結衣ちゃんの犬恐怖症は本能から来るモノだと思う。狐っ娘は猟犬に弱いから……
『さて、試しに一枚作って使ってみるか』
『そうだね、実用的な式神は初めてだから楽しみだ』
◇◇◇◇◇◇
結論から言うと犬の式神札の使用は成功した。
前回同様に自宅の祭壇を清めて作業場とし防御用の御札と同じ手順で作成する、作る時に込める霊力だけで使える御札と違い、式神の具現化には自身の霊力を注ぎ込まないと駄目だった。
そして悪食の視覚共有と同じ様に術者と式神とはラインで繋がっていて常に少量の霊力が消費され続ける。
『地味に霊力を消費するね、犬神大量召喚とかキツいかな?』
自分の膝の上で寛ぐ真っ白な犬神の背中を撫でる、本物の犬との違いは殆どないが目が赤く牙が鋭い。
『ふむ、教本よりも本物の犬に近過ぎるな。本来なら体毛など再現されず表面はツルツルらしいが……』
脇の下に手を入れて持ち上げる、中型犬と同等の大きさと重さで体温も感じるが獣臭さは無い。試しにお腹に鼻を付けて嗅いでみるが無臭だ……
「お前、メスだな……あっ?こら、顔を舐めるなよ」
『製作時に霊力を込め過ぎたからか?具現化の時に霊力を注ぎ込み過ぎたか?』
『リアル犬過ぎるけど戦闘力も有りそうだ。パワーアップした僕の筋力よりも強いぞ、コイツは!』
自分の犬神に押し倒されて顔中を舐め回されているのって少し恥ずかしい、力が強過ぎて退かせられないなんて!
『正明……お前、式神の制御方法を学んだろ?ラインを通じて命令しろ、バカ者が!』
『そっ、そうだった。落ち着け、そして離れろ』
ラインを通じて命令すれば素直に従い待てのポーズで待機している、普通の犬とは違い舌を出してハァハァはしない。体温調整とかも必要なさそうだ。
『成功だね、成功かな?一度東海林さんに聞いてみるか……』
式神の写真を撮って東海林さんにメールを送る、教本と違うのが出来たけどって……
「じゃ練習しますか……」
犬神札を量産する為に机に向かった、何故か膝の上で犬神が寛いでいるが制御方法を学ぶ為に具現化しっ放しも良いのかな?
◇◇◇◇◇◇
横浜市内某所、基本的に下準備が必要なエクソシストたる柳の婆さんは如何にピェール氏を誘い込むか罠の準備を進めているそうだ。
清浄な密閉空間に悪霊に憑依された対象者を拘束し神の奇跡により浄化するのが基本だが、柳の婆さんは浄炎がどうとか言ってたな。
ピェール氏が燃やされなければ良いのだが……
以前第三者機関の調査会社に頼んでいた土壌と水質の調査報告書が自宅に郵送で届いた、半月掛かるかと思ったが意外と早かった。
風巻姉妹の方は中間報告がメールで届き電話で説明されたが芳しくはない……
先ずは確認の為にサンプルを送ったのだが、予想通り特に有害物質は含まれていない。
細菌やカビも検出はされたが幻覚等を引き起こす成分は含まれていない、周辺の環境の問題も解決した。
次に洋館の関係者で亡くなった人物の調査の方は難航している、戦後の厳しい時代もそうだが生まれた時から日本に居れば人となりを知っている人は多いが……
日本と違い仕事や友人関係との交流は盛んだが、近所付き合いとなると両隣くらいだ。
しかも入れ代わりが激しいので同じ時期に隣に住んでいた人を探すのも一苦労だ、自分の国に戻ってしまった場合も多い。
だが古い順の三人はそれなりに調べられていた。
「リチャード・ロング、ベック・ガレボ、ダン・ダスティン……
何れも戦後アメリカから入り込んできた進駐軍絡みの高官達だが日本語は話せず通訳が居たそうだ。葬儀は本国で執り行っているから墓も海の向こうか……」
悪霊と化して取り憑いたにしても日本語を理解してなければ話せないし、話し掛けられても理解出来ないだろうな。
つまり今のピェール氏に取り憑いても英語しか喋れないし理解出来ない、仮に憑依して知識を引き出せたとしても日本語とイタリア語を英語に変換して意味を理解出来るのか?
ピェール氏はイタリア人だ、英語を話せるとは聞いていない……
「次の三人は調査途中だが難航している、戦後を過ぎて日本の高度成長期に商売として入り込んできた来た連中で同居していた、短期で荒稼ぎしている最中に続けて死んでいる。
欲望に塗れた連中だから怪しいと思う、かなり悪どい商売をしていたみたいだ……」
記録は病死と事故死で他殺とは書かれていないが限り無くグレーだな。
報告書を読み終わりデータをPDFに変換して専用フォルダに保存する、PDFに変換するのは後から書き換えが出来ないからだ。
『胡蝶さん、今回は調査が難航してるよ。ピェール氏に取り憑いた奴って本当に洋館絡みなのかな?』
脳内会話に切り替える、流石に私室で胡蝶と直に会話は危険だ。
『む、確かにその辺に彷徨っていた野良悪霊を引っ掛けた可能性は有るな。だが不可視の扉と無関係とは思えないぞ、同じ洋館に二つの強大な異変が同居し共存出来るとは思えんな』
むぅ、確かに胡蝶にも感知出来ない洋館の異変と、そこに住むピェール氏に取り憑いた悪霊が共存するとは思えない。
必ず強い方が主導権を握るのが普通だ、傘下に入るか取り込まれて吸収されるか……
『あの洋館は変だ、歴史だけ見れば他の有名なホラーハウス並みに関係者が死んでいる。噂にならなかったのは死因が霊絡みじゃなかったからだ……』
仰け反る様にして固まった筋肉を解す、寝る前に風呂に入ってマッサージをするか。
『いや、多くの人間の死を感じ取って力が目覚めた可能性も有るな。
最初の異変、突然家の中に現れる人影。
二番目の異変、ベビーシッターの失踪。
三番目の異変、住人の性格の豹変。
四番目の異変、消失した筈の部屋の不可視の扉……』
怪奇現象を繋げて考えるがイマイチ関連性が見付けられない、最初の人影が悪霊でピェール氏に取り憑いた。
それを知ってしまった竹内さんが被害に会ったと無理矢理考えてみた。
だけど最初の人影はマリオ君に感心が有ったのに、何故途中でピェール氏に取り憑き先を変えたのだろう?
『洋館自体の異変については行き詰まったが、二番目の竹内さんの失踪については魅鈴さん次第で原因は究明出来るだろう。
三番目のピェール氏に取り憑いた悪霊については柳の婆さん頼みだな』
そこまで考えが及んだ時に桜岡さんが風呂が空いたと呼びに来た、水色のパジャマにショールを羽織っただけで髪の毛も未だ乾かしてしない。
濡れた前髪が額に何本か貼り付いている姿が妙に艶(なま)めかしい。
「お風呂出ましたわ、未だ仕事でしたの?」
夜に男の部屋に入らない分別が有るのだろう、開いた扉から顔を覗かせているだけだ。
「ええ、調査報告書を読んでました。ホラーハウスっぽいのですが判断を保留してるんです」
守秘義務が有るので報告書は見せられないので開いていたページを閉じるが彼女は気にした様子は無い。
「お仕事大変ですわね。私にも手伝える事が有れば良いのですが……」
「大丈夫ですよ、無理はしてないし今の所問題も無いですから」
色々と行き詰まっているが正直に話す事もない、彼女は修行により新しい力を身に付けたらしいが聞いてない。
何か教えるのにタイミングを計ってるみたいなんだよな、だから彼女から教えてくれる迄は待つつもりだ。
「そうですか?何か有れば遠慮せずに言って下さいね」
「ええ、必ず」
彼女は安心した様な表情を浮かべて扉を閉めた、最近は活躍してないから気にしてるのだろう。
「さて、風呂に入って寝るかな」
壁掛けの時計を見れば十時を過ぎている、明日は魅鈴さんを連れて亀宮本家に行かなければならない。
彼女が口寄せをするには清浄な空間が必要なのと、霊媒師である事を隠している。
毎回宮城県に行くのも大変だからと祭壇の間を亀宮さんが提供してくれた、断り辛いプレッシャーを撒き散らしながら……
◇◇◇◇◇◇
翌日、魅鈴さんと合流して千葉の亀宮本家に向かう事となった。
今回は車だ、魅鈴さんの仕事服等を運ばなければならないし毎回の黒塗りベンツやリムジンの送迎も辛い……周りの反応がね。
小笠原家の前に車を停めて玄関に向かおうとしたら、魅鈴さんが出迎えてくれた。
「おはようございます、榎本さん」
「おはよう、魅鈴さん。荷物積みますよ」
珍しく洋服だ、焦げ茶色のビジネススーツっぽいが着物姿ばかり見ていたので新鮮だ。向こうで仕事用の袴姿に着替えなければならないからかな?
「お願いします、玄関に用意してますわ」
洋服と違い着物は専用のケースが有る、平べったい抽き出しみたいな物だ。
それに帯や足袋等の小物を入れた茶巾が玄関に置かれていた、香を焚きしめているのか良い匂いがする……
「良い匂いでしょ?私は沈水香木(じんすいこうぼく)が好きなんです」
「沈水香木か……僕も祭壇で焚く香に使ってますよ、不浄を祓い心識を清浄にする効果が有るんです。まぁ安価な東南アジアからの輸入品ばかり使ってますがね」
沈香は幾つか種類が有るが最高級品種の伽羅(きゃら)だと1gで一万円にもなる。
因みに樋屋奇応丸(ひやきおうがん)という幼児薬品の原材料でもある、疳の虫や腹下しに効くそうだが本当だろうか?
「キリスト教でも振り香で良く使いますし私達には関連深いですわね」
荷物は後部座席に魅鈴さんを助手席に乗せて出発する、先ずは東京湾フェリーに乗る為に久里浜港へ向かう。
県道を法定速度で安全運転を心掛ける、人を乗せている場合は特に注意が必要だから……
「榎本さんは、何時までこの仕事を続けるのですか?」
「え?」
信号で停まった時にいきなり質問された、横目で伺えば真面目な顔で僕を見ている。
「生涯の仕事にするつもりは無いんです、普通に生活するだけなら十分な蓄えも出来た。そうですね、あと少しでしょうか」
胡蝶の願いを叶えたら、その後僕は……