「ふう……疲れた」
芳乃家に戻って第一声から溜息混じりの一言を呟いた。
「どうしたんですか? 帰ってきて早々。何があったんですか?」
芳乃家に戻り、食卓へ足を踏み入れるとそこにはジャージ姿と眼鏡という良く言えばリラックスしきった。悪く言えば少々ダラケた感じの姿の由夢ちゃんが座っていた。
この姿にもだいぶ慣れてきた気がする。最初この姿を見た時は学校でのイメージと余りにもギャップが激しかったので戸惑ったが、由夢ちゃんにだってリラックスする権利くらいはあるのだから気にしないようにした。
「うん。放課後にななかちゃんと会って、弁当の話になって追いかけられた」
「はあ……大変でしたね」
今の一言で僕の身に何があったのか察してくれたようだ。こういう時頭のいい人は理解が早いから助かる。
「音姫さんと義之はまだ帰ってない?」
「お姉ちゃんは生徒会の仕事です。兄さんは、何処かは知りませんがエッチな本でも探しに行ってるんじゃないですか?」
義之、あまり信用されてないのかな。ひどい言い様だった。
「そっか。じゃあ、少し早いかもだけど夕飯の準備でもしておくか」
「あ、あの……」
「ん?」
僕が台所へ入ろうとすると少し遠慮するような声で由夢ちゃんが声をかけてきた。
「あの……邪魔じゃなければ、お料理の手伝いしてもいいですか?」
そういえば、ここに来た当初に由夢ちゃんに料理を教えるなんて事を言ってた気がする。
由夢ちゃんも誰かに……というか思い浮かぶのが一人しかいないけど。その人に向けて作ってみたいという気持ちがあるのだろう。
うん。誰かに喜んでもらいたいという気持ちは大変良い事だと思う。自分の料理を食べてそれがおいしいと言われればもっと上手に作りたくなる時だってあるし。
由夢ちゃん、料理が苦手とか聞いたけど頑張ればきっとその料理を食べた人が喜んでくれるようになれるはず。決して姉さんや姫路さんのようにはならないと……そう思いたい。
「うん。じゃあ、まずは材料切るところから始めようか?」
「は、はい。お手柔らかに」
「うん。それはもちろん」
由夢ちゃんに一言告げると夕飯の準備に取り掛かった。
さて、料理を作ることになるからには──
「ストップ! 由夢ちゃん! 包丁の持ち方が違う!」
「え? あ、えっと……」
「その握り方はアウト! 手を添えるようにして、空いた手は猫のように丸めといて──」
もちろん、料理をつくることになるからには一切の甘えは無用だ。
流石に姫路さんや姉さんみたいなレベルではないものの些細な見逃しで料理を粗末にするのは僕のプライドが許さない。
料理に間違った常識は禁物だ。なのでここは心を鬼にして由夢ちゃんにちゃんとした料理を教えなければならないのだ。あんな
「こ、こうですか? んん、難しいなぁ……」
由夢ちゃんは慣れない手つきで必死に材料を切っている。
普段やってないからか、元々がちょっと不器用な娘なのかはわからないがひとつひとつの動作が遅く、手もすごく震えている。
多分ちゃんと作らなきゃと緊張しているからだろう。それが理由で今までも大事なところで料理を失敗しちゃったのかもしれない。
でも、ここは僕がしっかり見て由夢ちゃんをサポートするのが僕の使命だ。
「ん……しょ」
「と、あまり力を入れないで。ノコギリで木材を切るイメージで包丁を動かせば綺麗に切れるから」
「え、えと……」
危うく野菜が潰れてしまうところをすんでのところで回避し、由夢ちゃんに正しい切り方を教える事ができた。
「うん。少しずつ綺麗に切れるようになってきたね」
最初は玉ねぎを切らせてみたけど、玉ねぎが切ったのではなく、潰れたと表現した方がすっきりするような形になった時は驚いた。
そこから更正するのはちょっと骨だった。まあ、姫路さんや姉さんみたいに自分の意見を譲らない人でなく、元が素直な娘だったのが救いか、2人の時みたいに疲れる事はない。
「げっ! これはっ!?」
由夢ちゃんの料理を見ていると居間の方から驚きと恐怖の混じった声が聞こえてきた。
「あ、義之。お帰り」
「お帰りじゃねえだろ……何なんだ? この状況?」
「この状況って……」
今目の前にあるものと言えば、念のためと思って大量に用意した野菜や、煮込みの最中の鍋。そして、用意した野菜を切っている由夢ちゃん。これを見て出せる結論はただひとつ。
「由夢ちゃんに料理をさせてるんだけど?」
「お前正気か!?」
「兄さん、それどういう意味ですか?」
義之の動揺っぷりを見て由夢ちゃんが包丁を持ったまま震えていた。
「いや、由夢が料理をして今まで酷い事にならなかったためしがないだろ」
「義之、由夢ちゃんだって頑張ってるわけだし。それに僕が見てるから早々大変なことにはさせないよ」
「いや……それでも油断すれば──」
「大丈夫。油断なんてこれっぽっちも……由夢ちゃん! 鍋が吹いている! すぐに消して!」
「え!? あ、えと……」
いきなり大声を上げたのが失敗だったのか、由夢ちゃんはどう行動すればよいのか躊躇した。
このままでは危ないと思い、動揺している由夢ちゃんの横から手を伸ばしてコンロの火を消した。
「鍋が吹いた時はすぐにコンロの火を消して温度を下げるのが吉だよ」
「は、はい」
「とまあ、こっちは僕に任せて義之はそこで待ってて」
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。絶対に失敗はさせないから」
世間一般とは異なる生活を経てこの手の事に関しては一切油断する隙もなかったからね。そう、料理とは戦争だという言葉の重みを常々痛感していたから。
だからどんな些細な失敗も決して見逃しはしない。その料理を食べる人全員の尊い命を守るために。
「あ、由夢ちゃん! 材料は一気に入れない! 材料を入れるにも順番はあるから!」
「ひゃい!?」
「ていうわけだから義之はゆっくりね」
「……マジで頼んだぞ」
義之は心配そうな目でこちらを見ながらゆっくりと居間へと去っていった。
「さて、続けようか?」
「は、はい……」
「それじゃ、まずは肉を入れて炒めてね。そして、炒めた後で野菜を入れてから──ストップ、由夢ちゃん! 調味料入れるのはまだ後! それにそれはポン酢だ!」
「え? あれ……」
一切の油断も許さない。絶対に。
「……うん。大分いい感じになってきたかな?」
明久と由夢ようやく夕飯づくりも終盤へと入ったところだ。2人の料理をしているのを見たところから今この時まで大体一時間半といったところか。
結構時間を食ってたな。まあ、あれだけ明久に注意されながらオロオロと料理をしていたからな。
「それにしても、明久さんって……意外と厳しいんですね」
「そりゃあね。料理で間違った知識は命を左右する時だってあることは既に体験済みだったからね」
「私の料理も、そのレベルだと?」
「いやいや。食べた事ないけど、由夢ちゃんのはまだ可愛い方だよ。姫路さんなんて玉水っていうのを使って大変だったから」
玉水? 明久の口から聞き慣れない単語が出てきた。聞いたことない名称だな。
その時、玄関から戸が開く音が聞こえてパタパタと音を立ててこちらに向かってくる気配を感じた。
「ただいま~!」
「あ、おかえりなさい」
「おかえり」
「おかえり、音姉」
ちょっと疲れ気味の音姉が居間へ入ってきた。
「生徒会の仕事でしたっけ? お疲れ様です」
「うん。ちょっと忙しかったけど、どうにか…………えっと、明久君? 何を?」
音姉もこの光景を見て固まった。そりゃそうだ。由夢が台所に立つのを見て事情を知ってる人間が恐怖しないわけがない。
「ああ、由夢ちゃんに料理教えてたんですよ。僕が見ていますからご安心を」
「あ、そうなんだ。それなら安心かな」
明久が傍にいながらというのがわかるとホッと胸をなでおろした。まあ、俺も心配していたが、明久の指導を見て大事には至りそうになかったので今は安心できるが。
「そういや、明久。さっき言った玉水っていうのは何だ? 何かの水の名称か?」
少なくとも俺は聞いた事がない。由夢はやはり知らないみたいだし、音姉なら……知ってるようだな。
しかし、何故か顔面が蒼白していってるが、どうかしたのか?
「えっと、明久君……それって、王水のこと?」
「……あ、そっちでした」
なんだ、明久の勘違いか、玉水じゃなくて、王水な。しかし、どっちにしても聞いたことがないな。
「王水ですか。聞いたことありませんね。お姉ちゃん、わかります?」
「えっと、確か……塩酸と硝酸を混ぜることで出来る薬品で。金やプラチナなんかも溶解しちゃう程の強力な酸の筈なんだけど……」
「なるほど、それをその姫路って人が………………」
……待ってほしい。さっき明久はなんて言った?
姫路が、玉水もとい王水を、料理に、混ぜた? 金やプラチナを溶解する程の強力な酸を?
「あ、明久……それはマジか? マジでそんな料理を作った奴がいて、それをお前が食ったのか?」
「って、そんな事より由夢ちゃん、確認確認。最後の仕上げとしてちゃんと味見をして必要なら最後の調整ね」
「そんな事じゃねえ! 王水入れた料理がどうなったのかがものすげえ気になるんだが! どうなんだ明久!」
まだまだ明久には驚倒させるほどの出来事が山積みだったらしい。
いったい後どれだけの驚愕情報があるのやら。ある意味、杉並率いる非公式新聞部の情報よりも気になる。
翌日、今日は時間があったので弁当を作る時間が十分に取れた。
昨日は月島さん達の弁当にも世話になったからお礼もかねて彼女達にも作った。みんな作ってる感じだから量は少なめだけど。
そして時は過ぎ、午前の授業が過ぎて昼休みに入った。
「義之、吉井。今日お前ら、学食行くか?」
「あ、そうだ。板橋君にも」
ちょうどいいところに板橋君が来たので僕は今朝作った弁当を差し出した。
「いや、そろそろ俺達のことも名前で……って、お? 何だそれ?」
「僕が作った弁当。昨日月島さん達に作ってもらったからそのお礼にと持って作ったやつの余り」
「うお!? これ吉井が作ったのか!?」
「うん」
「ちなみに言うが、明久の料理は音姉と同等かそれ以上だ」
「マジでか!?」
いやいや義之、流石に音姫さんの腕には敵わないと思うんだけど。
「ほう……吉井の手料理か。これは楽しみなものだ」
いつの間にか僕の傍にいた杉並君が僕の弁当を見て興味を示していた。
「とと、君達にもあげるけど本命はあの3人だからね。月島さん?」
「え? えっと、何?」
月島さんを呼ぶとすぐに反応してくれて駆け寄ってきた。
「今日もみんなでお昼にしようか? お弁当作ってきたから」
「お弁当? 義之が?」
「違う違う。作ったのは明久だ」
「あれ? 吉井君って、料理できたの?」
「一応、家でよく作ってるからね」
というより、僕以外に作らせたらマズイことになるから僕が作らなくちゃならないんだけど。
「それで、昨日作ってもらったわけだから。そのお礼にと思って月島さん達にも作ったんだ。ちょっと量は少なめだけど」
「え? いいの?」
「いいもなにも、昨日のお礼だからね」
「へぇ……吉井の手作り弁当」
「手料理で小恋ちゃんにアタック大作戦と来ましたかぁ。小恋ちゃん、明久君のこの想いをどう受け取るか?」
「ふぇ~!?」
そして後ろから月島さんをからかいながら雪村さんと花咲さんが登場してきた。
「あ、2人もよかったらどうかな? 僕の弁当でよければあるから」
「小恋だけじゃなく、私達も纏めて手に入れようとまずは餌付けから。シンプルだけど、女の心を掴むにはいい手ね」
「でも、明久君のお料理で私達の心が掴めますかな~?」
「ははは。それは食べてからのお楽しみに」
2人のからかいはこのようにサラっと流して僕達は昨日と同じく適当に机を集めて席に座って昼食にした。
「んじゃぁ、吉井のお手並みを拝見させてもらうか!」
ハイテンションの板橋君を始め、全員が僕の作った弁当を食べ始めた。
そして、義之と杉並君を除いた全員の顔が驚愕の色を浮かべた。
「え? アレ? これ、本当にお前が作ったのか?」
「うん。そうだけど」
そんなに僕って、料理できないってイメージがあるのだろうか。
「うぅ……カルチャーショック……」
「すごく、すごくおいしいんだけど……すごい敗北感」
「意外とやるじゃない」
そして月島さんと花咲さんが何かショックを受けて落ち込んでいた。料理を趣味とする女の子にしてみれば何か複雑な事があるのだろう。
「しかし、驚いたぜ。お前にこんな特技があったなんて」
「まあ、家じゃ大体僕がみんなの食事作ってたからね。姉さんや母さんに作らせたら命が危ないから」
「へえ、お前の姉さんや母さん、料理苦手なのか」
「苦手なんてレベルじゃないよ。あの2人、レシピを見せても材料間違えてひどいことになるから」
一体何をどうすればあんな人を殺せるような料理を創れるのだろうか?
「あ、いたいた! 明久くーん!」
突然現れたななかちゃんを見て姉さんと母さんの料理の映像が一気に払われた。
「あ、ななかちゃん。どうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょ。もう、教室の外でずっと待ってるのに出てこないんだから」
ななかちゃんが頬を膨らませて何やら怒ってるみたいだ。
「えっと……どうしたの?」
「……お弁当」
「え?」
「お弁当。昨日作ってくるって言ったじゃん」
「……あ、そういえばそんなこと言ってたなぁ」
あの後、ななかちゃんを狙う男子生徒の集団に追いかけられたのですっかり忘れてた。
「む~。折角明久君に作ってきたのに~」
あ~。ななかちゃんが不機嫌になっちゃったよ。流石に忘れた僕の方が悪いんだろうな。
「ごめん。でも、ななかちゃんも料理できたんだ」
「うん! 今回は明久君のためにと・く・べ・つに、愛情込めて作ってみました!」
そう言ってななかちゃんが弁当箱を出して中身を披露した。いやはや、なんとも──
「うお! 白河の料理、滅茶苦茶うまそうだぞ。ちくしょう! なんで、なんでこんなにも差が開くんだ!? 料理か!? 料理の出来るできないの差が戦力の決定的な差か!?」
ななかちゃんの弁当を見て板橋君が興奮しだした。うん。確かにものすごく美味しそうだ。
「ほ、本当に美味しそうだよ。食べていい?」
「うん! ただし、明久君のお弁当と交換ね!」
「あ、うん。僕のでよかったら。食べかけだけど」
「いいよ。自分のお弁当を少し分けてもらうから」
「そう。それじゃ、遠慮なく」
僕はななかちゃんから弁当を受け取って中にある唐揚げに箸をつけた。
「ど、どう?」
「……うん! 美味しいよ! この唐揚げよく出来てるよ!」
「でしょでしょ? 下味も私」
「うん。いい味付けしてるし、文句なしだよ」
本当に美味しかった。いやはや、今の僕の周囲には料理の上手な人が多くて夢みたいだよ。
「よかった~……」
「うん。本当においしいよ。ななかちゃん、いいお嫁さんになれるよね」
「え、お、おおおおお、お嫁さん!?」
「ん?」
何かななかちゃんがすごく驚いてるけど、どうしたんだろう?
「わお! ここで白河さんにプロポーズ!?」
「自然に口に出すあたりが策士っぽいわね」
「はわわわ!」
雪月花の娘達は何を言ってるのだろう? プロポーズって……はっ!
「わわわ! ごめん! そういう意味で言ったんじゃなくて、純粋にななかちゃんなら将来いいお嫁さんになれるんじゃないかってだけの話だよ!」
何かものすごい言い訳くさい気もするけど、僕の言葉に偽りはないんだし。
「あ、その……えへへ。わ、私が一生懸命つくったお弁当が食べられて嬉しいでしょ。この果報者」
そう言ってななかちゃんが照れくさそうに肘をつついてきた。
「そ、それじゃあ……明久君のお弁当は如何程かな?」
そう言ってななかちゃんも僕の弁当を口につけた。そして、落ち込んだ。
「……何? この美味しさ……。反則だよ」
「あれ? ななかちゃん? どうしたの?」
「明久君、今はそっとしておいてあげよう」
「へ? 何で?」
「いいから。今はななかに声をかけない方がいいよ。ショックを受けてるから」
「ショックって、何に?」
「「自分の胸に聞いてみて(みなさいよ)」」
2人に不満そうに言われた。そう言われても全く心当たりがない。そんな事よりも……
『なあ、なんでアイツばかり白河と話を?』
『それに白河から弁当だと?』
『それになんだか白河、落ち込んでるぞ。アイツ、一体白河に何をした?』
『殺っちゃうか? もう殺っちゃうか?』
まずはこの状況からどう生き延びるかだ!
昼食を食べ終えた後、僕は昼休み終了まで命懸けの鬼ごっこをしていたのだった。