外は慶次の現状を反映したように暗かった。空は厚く黒い雲が延々と立ち込め、日の光を完全に遮断し、暗さを象徴するように道に点々と配された街灯が、煌々と光を注いでいる。
吐く息は出た傍から白くなり、寒さを表す。しかし、いつものような肌を刺すような寒さではない。宝具の効果で身体能力が向上しているせいだろうか。
昨晩、命の危機を乗り越えた。
いつもと違う朝。せめて、天気だけは明るくあって欲しい、と慶次はぼんやりと思う。その刹那、膝から力が急激に抜けていった。慶次はそれに逆らわず、扉に背を投げ出し、脱力。
「はあぁぁぁぁっ……」
白いため息を、長く大きく吐き出す。
燐子、紅世の徒、フレイムヘイズ。
耳を疑うような情報が飛び交った。その中で、瀕死の重傷だった一介の高校生が、見事にやり切った。慶次は我ながら立派にこなしたと思う。
(我ながら、よく自我を失わずにいられるよ。ご褒美に、今日の夕飯はちっと豪勢にするかな)
慶次は内心自画自賛しながら荒い息を吐くと、凝り固まった身体が解れていく。椿に軽口を叩いていたが、虚勢に近いものだったのかもしれない。特に、常時戦場の緊張感を漂わせる椿は、話しているだけで疲れる。最後はかなり肩の力が抜けていたが、それでも威圧感は半端ない。
「少し休みたいな……」
思わず弱音が口からついて出て、両頬を手のひらで引っ叩く。燐子は“紅世の徒”の僕。謂わば、先刻の事態など、前哨戦に過ぎない。まだ事件の一端も解決していないし、始まってもいない。気を抜いている暇ではない。
(昨夜もそうだが弱気すぎるぞ、俺)
少し先の事を考える。
登校する。
友人に会う。
授業をこなしながら、異変について尋ねてみる。
エネルギー補給の飲食も忘れてはならない。
(あれ? これって、いつもとあまり変わらないような気がする)
いつも通りの日常。そこに僅か、異変が紛れ込んだだけ。
(まあ、俺は俺のできる事やるだけだな)
頭が悪いなりに知恵を、気力を振り絞り、足掻いた結果の行動だ。不足はあるかもしれないが、悔やんでも仕方がない。
それよりも、今は友人たちへの立ち振る舞いを気をつけなければならない。
友人たちは慶次より遥かに優秀だ。学業から日常物資まで、何度も助けてもらっている。慶次が困難にぶち当たれば、必ず相談するし、向こうも文句を言いながら助けてくれる。それだけの信頼関係もある。
だが、今回は違う。信頼の有無ではない。能力の優劣が問題ではない。“人間”では駄目なのだ。『フレイムヘイズ』もしくは、それに準じる者でないと敵わない。あくまで、“人間”である友人たちでは役に立たず、危険に身を晒すだけである。
(あいつらには、絶対にバレちゃいけない。これだけは肝に銘じておこう)
慶次が密かに決意する。
そこへ突き刺さるような鋭く冷たい声が掛けられた。
「そんなところで何をなさっているんですか?」
セーラー服の少女が格子状の門を僅かに開け、隙間から顔を覗かせていた。間違いなく美人と分類される容貌、吊り上った二つの双眸が慶次を睨む。何してんだ馬鹿! と怒っているのではなく、これが彼女の素面である。
「……おはよう、美代」
「おはようございます、慶次さん。体調の方は……まだまだのようですね」
慶次が挨拶をすると、刺々しい声で体調を気遣ってくれる。本当は慶次の不調にいてもたてもいられないのに、こういう言い方しかできない。相変わらず感情表現が苦手だなと思う。
隣人であり、幼馴染であり、クラスメートでもある少女は慶次が上げた優秀な友人の一人。
慶次が住む旧市街地――堂森市南部の平野部――の学生は、堂森高校のある新市街地――こちらは近年開発された堂森市北部の山岳部――にあるため、一度最寄りのバス停に向かう必要がある。隣人の美代とは同じバス停に向かうため、一緒に登校するようになっていた。家族のいない慶次にとって、最も多く時間を共に過ごす人物であると同時に、最も“注意すべき”相手でもある。
慶次は服に付いた汚れを払いながら立ち上がり、美代を見やる。
何の感情も篭っていない様な冷たい眼差し。しかし、その奥に熱っぽいものがあると、慶次は知っている。
(早速、最大の難関が来たな)
ずばり言ってしまうと、美代は慶次が好きなのだ。慶次の様子がいつもと僅かでも違えば、異変に気づかれてしまうかもしれない。
(まあ、美代でも数時間で異変に気付くなんてことないよな)
とはいえ、美代と共に過ごす時間は数時間。彼女が“十年に一度の天才”などと囃し立てられるほど優秀でも、すでにいつも通りに動けるようになった慶次の異変に気付けるだろうか。
だが、何を切っ掛けに気づかれるか分からないので、いつも通り接することを慶次は心得る。
「そんなところで何をなさっていたんですか? もしかして、まだ学校へ行くには体調面で不安があるのでしょうか?」
「別に。ちょっとボーっとしてただけだって」
「そうですか。それで、そのバットは……?」
「今日、体育あるだろ。せっかくだから、今年最後の授業は野球にしようと思ったんだ」
「どうしていきなり野球なんですか? というか、病み上がりに体育はやめた方がいいと思います」
「部屋の掃除してたら昔の野球ゲームが出てきて、それを見てるうちにやりたくなったってところ。まあ、体調の方は良くなったんだからさ、今年最後の体育なんだ、大目に見てくれよ」
「うーん……」
美代は小さな口から唸り声を上げると、豊満な胸部に垂らしたサイドポニーを指で梳く。彼女が考えるときの仕草だ。慶次の言動に何かしらの疑問を持ったのかもしれない。
あくまでも、不自然なところがないように振る舞い、美代の隣に立つ。その間、美代は疑惑の眼差しで慶次を食い入るように見つめていた。
腕時計を見る。そろそろ、バスが到着する時間だった。
「急ごうぜ。このままじゃ、バスに遅れちまう」
慶次は考え込む美代を促す。絶対に秘密が漏洩し得ないが、何がきっかけで気が付くか分からない。早急に思考を中断させて、損はない。
そう判断したところへ一言。
「怪我をしていますね、慶次さん」
「っ!?」
慶次の覚悟をあっさりと破壊する一言を、美代は告げた。
(なななな、なぜバレた!? 仕草、態度、口調!?)
内心の動揺を何とか抑え込み、表面上は平静を保つ。が、打開策は何も見つからない。そもそも、弁舌で彼女に勝てる見込みはゼロ。このままでも、こちらが口を割ってしまう可能性さえある。
「……何を言って、」
「まず、一つ」
冷静さを装い返答する慶次を遮り、美代は指を一つ立てる。慶次は中断させることもできず、美代の言葉に耳を傾ける。
「腹部の筋肉や皮膚を伸ばさないように背筋を曲げています……三ミリほど。それも、不自然な形で。そこから、腹部を庇うような動作だと判断しました」
「いやいやいやいや!? 三ミリとか誤差でしょ!? んな、判断するなよ!?」
「三ミリは冗談ですが、いつもより背筋が曲がっていたのは確かです」
「いやいやいやいや!? そもそも、どうしてお前が俺のいつもの姿勢を記憶してんだよ!?」
「それで、二つ目ですが」
「おい、無視すんな!」
美代が二本目の指を立てる。
「隣に立つだけで、消毒液の匂いがしました。包帯にでも消毒液を染み込ませたんですか? 何にせよ、大量の消毒液を使用しなければならない状況なんて、負傷以外考えにくいです」
あまり気にしていなかったが、確かに消毒液特有の刺激臭が鼻孔を突く。
咄嗟に、椿がアラストールにぶーたれて、慶次に包帯を巻く光景が思い浮かぶ。おそらく、一々傷口を消毒するのが面倒だったのに加えて、彼女には細かな作業を行う器用さが足りなかったから、こんなことになったのだろう。ついでに言うと、ガーゼ等は使用しておらず、包帯の巻き方がとても下手である。実際、宝具の効果で傷口は隠す程度で良かったが、今はその不器用さと処置を恨めしく思う。
その間も、演説のように美代は朗々と述べる。
「そもそも、慶次さんは野球経験がお遊び程度ですし、学校の備品は必要数以上揃えられています。“やりたいからバットを持っていく”なんて不自然です。そうなると、バットを持参する理由も変わってきます。持ちやすく振りやすい、持っていても不自然じゃない、などバットの特性から考えますと、例えば……」
美代は一旦声を切り、大きく息を吸うと、
「護身用」
「ぶっ!」
確信をもって美代は言った。その確信に満ちた言葉と態度が、殊更慶次に動揺を与える。暑くもないのに、額から汗が噴き出す。
「当たってますか? それとも、外れていますか?」
(当たりまくって逆に怖いわ! お前は俺に盗聴器でも仕掛けているのかよ!?)
家を出て数歩で、負傷が漏洩されかけている。油断がなかった、とは言わないがここは素直に美代の洞察力を褒めるしかない。
(どうする!? 考えろ、俺!)
美代が慶次の小さな変化に気付けたのは、彼女が慶次の事を気にかけているからこそだ。それ自体は本当に嬉しく思うが、皮肉にも悩みの種を増やす結果になっている。
悪意のない善意。だからこそ、誤魔化しの効く状況ではない。しかし、真相を話すわけもいかないし、何より彼女を事件に巻き込む事だけは絶対に避けたい。
幸いなことに、美代の証明は状況証拠のみ。学ランの下、“徒”による斬撃の跡さえ見つからなければ、美代の妄言で片付く。美代も証拠がない以上、そこまで強硬手段には打って出ないだろうと思――。
「慶次さんが素直に口を割らないので、今から警察……いえ、この場合救急車ですか? とにかく、通報してきます」
「ちょっと待ってくれませんか、美代さん!?」
「嫌です」
訂正。こちらの事情をおかまいなしで、公的権利を発動させてきた。普通なら間違った時の事を考え、証拠が揃うまで控えると思うのだが、彼女にそういった想像は皆無なのであろう。
天才少女に失敗はない、という事か。何にせよ、慶次の意に反した行動であり、止める必要がある。
慶次は美代の前に立ち塞がり、進路を塞ぐように身構える。が、美代は予想に反し慶次を避けるのではなく、逆に掴みかかってきた。
「捕まえた」
美代の口角が持ち上がり、鋭い眼差しが冷笑に染まる。
捕まえた理由は慶次の負傷箇所を調べるためだろう。嵌められた。それも、とても単純な手管で。
精神的に疲弊した所に次々と仕掛けてくる美代の容赦のなさに泣きそうになる。それでも、素直に傷を見せるわけにはいかないので、学ランのボタンに差し掛かった美代の手を引っ掴む。
公道のど真ん中で、慶次と美代が睨み合う。
「いい加減諦めたらどうですか? 今、あなたが抵抗していることが私の言葉が正しいという何よりの証左なんですよ」
「往来で脱がされそうになったら、抵抗するのは当たり前だろ!? この手を離せ変態!」
火花を散らす二人。美代が攻め、慶次が防ぐ。言い争いながら、手と手が激しくぶつかり合う。
「慶次さんの身のためなら、変態の称号も甘んじて受け入れましょう。それでは、とっとと脱いで下さい」
「俺にも僅かながら矜持があるんだよ! お前は良くても、俺は全然良くない!」
「大丈夫です。女の子に簡単に捕まってしまう男の子に、プライドなんてないようなものですから。大人しく脱いで下さい」
「お前は言ってはならないことを言ってしまったな……」
お互い段々と引っ込みがつかなくなり、目的がどうでもよくなってくる。最早、どうにかして払う、もしくは吐かせる事だけに没頭する。
互いの声が、近所迷惑のレベルに引き上げられる。
「脱ぐわけがないだろ、この変態娘が!」
「いいから、脱いで下さい!」
「何だその言い草! 最早立派な変態だな!!」
「黙って下さい! そして、脱げ!」
「脱ぐか!」
「脱げ!」
「脱がん!」
段々と膠着状態になっていく中途、
「……何時までやってるのよ」
そこへ割って入るように、呆れきった声が掛けられる。
「「うわっ!!」」
互いに他人の目を気にする程度の羞恥心は残っていたのか、弾かれるように離れた。
二人して声の方角……慶次宅を振り向くと、フレイムヘイズの少女が今日何度目か分からない呆れかえった瞳で慶次を見ていた。
声を掛けたのは彼女なりの手助けだったのだろう。
(いや、今はそれよりも――!)
一人暮らしの男性宅から、少女が出てきた。これが、第三者から見た事実だ。そして、そこからどんな推察をされるか。考えるだけで恐ろしい。
慶次は恐る恐る美代を見ると、彼女の目尻から滴が零れ落ちていた。
斜め上の事態に慶次は狼狽する。
「えっ、ちょ、いや、なんで泣いて、」
原因は間違いなく、椿であることは分かる。もしかして、生き別れの妹? などと現実逃避しながらも、慶次の中にはすでに一つの解が見つかっていた。
(こ、こいつ、絶対勘違いしてやがる!)
椿とは“そういう”関係ではないと言うのは簡単だ。だが、美代は必ず言葉の証明を求める。椿との関係を証明すれば、自ずと慶次の傷と“この世の真実”に触れることになる。それだけは、絶対に阻止しなければならない。
嘘を吐けばいい、などと思うかもしれないが、それが簡単ではない事は、今しがた美代の推理力で証明したばかり。
慶次はどうすればいいのか分からなくなり、結果、黙することしかできなかった。
張りつめた空気。
先に動いたのは美代であった。
「慶次さん……!」
美代は震える唇で涙声を無理やり絞り出すと、身を翻し駆けだす。
「やっぱりロリコンだったんですね!!」
「この状況で、どうしてそういうことを真っ先に口走る!?」
「こんな事になるなら、あの時あの本を燃やしておけばよかった!!」
「酷い捨て台詞……って、おい!!」
美代の後姿が遠のいていく。
酷い置き土産を捨て置き、去って行きやがった。
慶次は美代を追いかけなかった。
言葉が見つからない、というのもあるが、先に誤解を解くべき人が一人――否、二人いるためである。
「…………」
「嘘! 美代の言ったことは嘘だから! お願いだから黙って距離を開けないでくれ!」
「本当にそういう趣味はないんだな?」
「アラストールまで言うか!?」
本気で懸念するアラストールに慶次は本気でへこむが、落ち込んでいる暇はない。
椿の性格を考えれば、足手まといの上、変態となれば最小限の接触以外禁止と言われかねない。最悪、護衛さえ打ち切られる可能性もある。
「…………」
(うわっ、その目は噂に聞いたアレか)
黙する椿が、ゴミを見るような目で慶次を見下す。ちょっと死にたくなった。
「誤解! 全部誤解だから俺の話を聞いてくれ――」
遅刻を覚悟して、慶次は二人の誤解を解きに掛かった。
見つけた本はC〇mic L〇