灼眼のシャナ~ブラッディメモリ~   作:くずたまご

14 / 25
遅くなりました。
気づいたら、約三話分……内容もちょっと[※残虐描写有]なので、
時間と心にゆとりがあるときに、ご覧ください。




第ⅩⅡ話 絶望

 奮闘する慶次を背に、美代、成実、正守、福子の四人は後ろ髪を引かれる思いで、避難を急ぐ。

 

 

「結局、俺たちには何もできないのかよ……!」

 

 

 正守が苦々しげに呟き、成実が悲しそうに俯き、福子がギリギリと歯を食いしばる。

 現在、化け物が生徒(けいじ)を襲撃する異常事態に、大半の生徒は教師の判断の元、一階を除いた二、三階の教室に閉じこもっていた。というのも、学校外部に避難した所で数百名の人間を収容する場所はない上に、そもそもこの積雪の中、統率して進む事は困難だ。ゆえに、教師たちはなるべく化け物が入りにくい二、三階に生徒を集め、出入口を教師が守る事にしたのだ。

 もしもの時は、教師たちが盾になる。そういう覚悟を込めた陣形であったものの、誰も美代を、慶次を助け出そうとはしなかった。あの戦場に近づく事は、命を捨てる事と同意にしか思えなかったからだ。何百人もの生徒が後ろにいて、そんな短絡的な行動に出られるはずもなかった。

 しかし、それはまさに“賢い大人”の勝手な考えだ。成実、正守、福子の三人にとって、友が命を失う瀬戸際。黙って見てなどいられず、若さにかまけて教員たちを突破し、何とか校舎から抜け出した。

 美代に、慶次に近づけば、何かできるのではないか、という希望的観測。無論、そんな彼らに都合の良い幻想など、化け物を目の前にして一瞬で吹き飛んだ。

 幾百の目玉を張り付けた悍ましい外見。炎の弾に車など優に超す速度と跳躍力。その怪物に辛うじてだが、喰らいついている慶次。それらを間近で見て、三人は嫌というほど理解した。

 彼らに出来る事はない。戦う手段を持たない、そもそも戦った経験さえないに等しい彼らに、何か出来るはずがない。三人はせめてもの悪あがきに、慶次を励まし、化け物を挑発し、美代を助け出す事ぐらいしか出来なかった。

 

 

「……はぁっ、はぁっ……けいじ、さん……」

 

 

 正守と福子(成実は小さすぎておまけ)に担がれた美代は、荒い息を吐きながら朦朧とした意識の中で慶次を呼ぶ。その様子を正守は直視できず目を逸らし、福子と成実は悲痛に顔を歪める。

 美代の長く艶やかだった黒髪は、その半ばまで焼け落ち。セーラー服は黒く煤けて、腕の、足の、腹の露出した箇所は、雪の様に真っ白だった珠肌を真っ赤に爛れさせている。特に顔は、その右半分が黒く焼け焦げており、かつての美貌は面影さえも残っていない。美代は女性として大事なものを、あの炎で一瞬のうちに失っていた。同性の福子と成実は、心を痛まずにはいられなかった。

 

 

「何で、こうなっちゃうの……」

 

 

 成実の小さな呟きが、嫌に正守と福子の耳に残る。ここにいる誰もが、成実と同じ気持ちだった。

 慶次はただ毎日を懸命に生きていた。美代は慶次を助けるために、一生懸命だった。その結末がこんな悲惨な結果だというなら、あまりにも理不尽過ぎた。

 だが、理不尽を止める手段を成実、正守、福子の三人は持っていない。そもそも、何が起きているのかも分からない。どこまでも彼らは無力だった。

 

 

「奥村、佐久間、笹!! お前たちって奴は――!!」

「説教は後! 今はあの子が優先!」

 

 

 四人は校舎の入り口に辿りつくと同時に、若い男性が目を怒らせ、中年の女性は救急箱を持って、それぞれ校舎から飛び出してくる。担任の滝川教諭と篠崎養護教諭だ。人数が二名と少ないのは、百名を超す生徒を抑えるには、これ以上教員数は割けない、という事なのだろう。

 篠崎教諭の指示に従い、すぐに治療を始める。広げたシートの上に美代を横たえる。女性陣が手分けして美代の治療にあたり、男性陣はその視線を慶次に転じる。滝川教諭は校舎へ戻れ、とは言わない。慶次のために、命を張った生徒たちなのだ。言った所で従わないと、分かっていた。何より、彼も自分の生徒である慶次が心配で、ここから離れたくなかった。

 全員が黙して、慶次と化け物の戦いに注目する。

 

 

「っ! 慶次、負けるんじゃないぞ!!」

「前田……頑張ってくれ……!!」

 

 

 戦いは佳境に差し掛かっていた。

 慶次を押し倒した化け物が、慶次の肩に爪を喰いこませながら、鋭い牙で首を噛み砕こうとしていた。慶次はギリギリのところでそれを抑えながら、拳から血を流しながら殴り続けている。

 ここまでくれば、戦闘の素人である正守たちにも分かる。この戦いは慶次が死ぬか、化け物が死ぬかでしか、決着する方法がない、と。

 身体が傷つく事も厭わず戦い続ける慶次と、誰もが代われるものなら代わりたかった。だが、ここにいる誰もが祈って見守るしかできなかった。

 

 

「―、――っ!!」

 

 

 慶次が何かを叫んでいた。正守たちからは未だ情勢変わらず、慶次が殴り、化け物が喰らおうとしているようにしか見えないが、明らかに慶次は焦り拳を何度も何度も振るっていた。

 一体、何が――それを推察しようとした刹那、

 轟音と爆風が吹き荒れた。

 成実たちも治療の手を止め、爆発の根源を振り返る。

 全員が見つめる中、爆炎が慶次を飲み込んでいった。

 

 

「……うそ……」

 

 

 その言葉は誰が呟いたのか、しかし全員の心中を代弁していた。

 雪降り積もったグラウンドの中央、吹雪く視界を吹き飛ばすほど煌々と炎と煙が舞い上がる。

 全員が、あの“化け物”が炎を吐く瞬間を見ている。あの炎を出したのは“化け物”に相違ない。ならば、あの炎は――。

 全員がこの情景の示す悲劇に辿りつき、表情を凍りつかせ、絶句した。

 

 

「……大丈夫、です……けいじ、さん、は、生きて……います……」

 

 

 誰もが絶望に打ちひしがれる中、妙に明るく調子っぱずれな声が上がった。

 一同が声の主に目を向け、その人物にぎょっとする。美代だった。しかし、その明るい声音とは違い、瞳からポロポロと涙を零し、唇は小刻みに震えていた。

 美代はボロボロの身体を無理やり起こし、想い人を包む炎を見つめる。

 

 

「これぐらいで、けいじ、さんが……やられる、わけ……ないじゃない、ですか……」

 

 

 現状を否定する言葉が、次から次へと美代の口から零れる。感情が、現実を受け入れる事を拒否していた。しかし、頭のどこかでは慶次の死を認めていた。だから言葉とは裏腹に、涙を止め処なく流していた。

 今の美代は、感情と理性が乖離していた。

 

 

「……でも、怪我、しています……今、助けに……」

「あんたもうじっとしてなさい!!」

「美代ちゃん!! もうやめようよ……!」

「離して!!」

 

 

 このままでは、美代が壊れてしまう。福子と成実が半ば確信を以って美代を止めようとするが、彼女はそれを跳ね除ける。

 焼け落ちた黒髪、半分以上焼け焦げた顔、焦点合わない視線で狂ったように美代は叫ぶ。

 

 

「生きてるんです……! 慶次さんは、絶対に生きてるんです……!! 私は、慶次さんを、助けないと――!!」

 

 

 美代の鬼のような形相に、成実と篠崎は気圧される。

 福子だけは、それがどうしたと歯を食いしばり、美代の傷が広がらないよう、細心の注意を払いながら抑えようとする。

 

 

「だから!! あんたは怪我してんだから、動いていい訳ないでしょ!!」

「それが何です!! 私は慶次さんを助けるって、約束しているんです!! 怪我なんて、そんなのどうでも――」

「よくない!!」

 

 

 睨みつける美代を、福子は優しく抱きしめる。その耳元に嗚咽交じりの声を響かせる。

 

 

「どうでもいいとか言うな! あ、あんたまで、前田みたいになったら……! 私……どうしたら、いいのよ!! す、少しは、私の気持ちも、考えなさいよ!!」

「福子さん……!」

 

 

 福子の感情の吐露が、美代の心に響く。それが、美代の乖離していた感情と理性を段々と近づけさせる。

 猛々しかった美代の心は段々と悲しみに沈んでいき、嗚咽交じりのものに変わる。

 

 

「だって……だって……助けるって、言ったのに……!」

「分かってる……分かってるわよ……!」

「それどころか、あっさり見捨てて……足まで引っ張って……私のせいで、慶次さんが……!!」

「そんなことないから……もうそんな事……!」

「これでは――!!」

 

 

 ――お父様と何も変わらない!

 美代の慟哭に福子が、成実が、正守が、違うと否定する。

 もちろん、ここに至るまでの過程や、込めた想いは正反対だ。しかし、事実は美代が慶次を追い込み、そして“死”に至らしめた。経過は違っても、もたらせた結果は父と同じ……否、それ以上だった。

 美代の胸の内に渦巻く感情は悲しみだけではない。胸を引き裂かんばかりに膨らむ罪悪感が、彼女の心を苛んでいた。

 それは幾ら泣いても叫んでも、友に慰められても、その温かさに触れても、癒す事はできない。できるとしたらただ一人だが、その一人は――。

 

 

「な、なあ、お前ら、あれを見てくれ!」

「んだよ佐久間! ちっとは空気読んでよ! こっちは忙しいの!!」

 

 

 突然、正守が間に入ってきて、福子がやさぐれる。

 

 

「わ、分かってるっつーの、それぐらい!! でもあれは、」

「だから何なのよ――!?」

 

 

 正守が指を差した先は、爆発の中心地。

 雪も地面も吹き飛び、円形状にできたクレーターのちょうど真ん中に、

 人影が一つ、何か棒のようなものを支えに、立っていた。

 

 

「なあ! あれって、もしかして――」

「前田に決まってるでしょうが!!」

「だよなー!!」

「あ、あはは……」

 

 

 正守と福子は歓喜で手を取り合い、成実は腰が抜けてその場に座り込む。

 

 

「いい生徒をもったよ」

「……羨ましいね」

 

 

 滝川は慶次の事を誇りに思い、篠原は優しく微笑む。

 絶望が歓喜に変わっていた。

 

 

「…………」

 

 

 美代は静かに涙を拭う。涙は止まり、胸を覆う悲しみと罪悪感は、いつの間にか吹き飛んでいた。

 

 

「慶次さん……」

 

 

 能力は悲しいほど凡庸だが、土壇場を、絶望を一瞬でひっくり返せる。それが前田慶次だと、自分が好きになった人だと、今さらながら気付かされた。

 

 

(一昨日も、昨日も、今日もハラハラさせて……でも、やっぱり最後は――!?)

 

 

 誰もが歓喜に湧きあがる中、冷静さを取り戻した美代は、その明晰な頭脳が正しく働き出す。

 本当にこれで終わりなのか、と。

 

 

(あの異常なバットを持った慶次さんでも、あれだけ苦戦した化け物……なら、どうして昨日の慶次さんは“運動に支障がない程度の怪我”で済んでいたのでしょうか……? 敵は自爆も厭わない化け物、見逃すはずがありません)

 

 

 生まれる矛盾。美代はそれに対する解をすぐに弾き出す。

 

 

(まさか、昨日の少女があの化け物を倒した……!? 普通ならあり得ないですが、でもこれなら、慶次さんが無事でいられた道理も、見ず知らずの女の子を家に招き入れた理由も、慶次さんが頑なに時間稼ぎに拘っていた訳も、筋が通ります……!)

 

 

 だがそれは同時に、これが見せかけの歓喜であると、深く深く理解してしまった。

 二日続けて化け物に襲われた慶次、

 戦力と成り得るはずの少女が未だ不在、

 唯一残された戦う手段を持った慶次は満身創痍、

 警察はおろか、未だ外部から大人の一人も来ない学校、

 有無を言わせず、生徒を校舎に閉じ込めた教職員、

 それらが繋ぐ答えは一つ――。

 

 

(堂森市を“化け物たち”が襲っている……!)

 

 

 絶望は終わらない。

 

 

 

 

(は、ははっ……まさか、生き残るとは、思わなかったな――っ)

 

 

 爆炎に包まれた慶次は、徐々に晴れていく薄桜色の火の粉を見ながら、全身を苛む痛みに、生を噛みしめていた。

 最後の一振り。慶次が無我夢中で振り抜いた右腕は、偶然にも“燐子”の腹部の“口”に打ち込まれた。腹部の口は、炎弾の発射口……慶次は意図せずして、発射口に蓋をしたのだ。結果、炎弾は“燐子”の外部に出る事はなく、そのまま内部で誘爆。『宝具』が慶次の意志を汲み取り、右腕が強化していたのも相まって、爆発はその指向を空へと向けた。身体を襲ったのは爆発の余波だけとなり、慶次はその命を繋ぐ事ができた。

 あの時、右腕を振ったから、

 あの時、“燐子”の腹を狙ったから、

 あの時、“存在の力”が篭っていたから、

 本当に幾つもの偶然が重なり、慶次は生きていた。

 生き残れたのは、意図した訳ではない。まさに奇跡、僥倖だった。

 ――だが、その代償は決して小さいものではなかった。

 右腕の感覚がなくなっていた。燃え尽きていたのだ、右腕の肘より先、全てが。

 

 

(……これは、さすがに……キツイな……)

 

 

 左腕に伝わる、宝具を、物を握る感覚。それが、右腕にはなかった。

 喉を、肺を襲う熱い痛みよりも、全身を苛む燃えるような熱よりも、それは途轍もなく、痛くて空虚だった。

 

 

「……ぃ……ぅ……」

 

 

 だが、それを嘆いている暇はない。

 思い出されるのは、椿の言葉。

 

 

『今のお前は高速治療と引き換えに、ご飯食べなきゃ再生のし過ぎで倒れる身体なのよ』

 

 

 喉が、肺が、肌が、炎に焼かれた。『宝具』が新たな細胞を次々と産み出し、黒く焼け焦げた皮膚をボロボロと追い落としていく。奪われた水分を、肌に染み込ませていく。尋常ならざる再生、だがそれを支えるエネルギーが明らかに不足していた。その証拠なのか、再生したはずの皮膚は干乾びており、心なしか頬もこけてきた。

 早く食事を取らなければ倒れる……では済まない。

 死ぬ。

 

 

(ここまできて、餓死はダメだろう……!)

 

 

 酷く喉が渇き、思考が回らない頭で、慶次は宝具を杖替わりに立ち上がる。焼け爛れた皮膚がボトリと落ちるが、それを気にする余裕はない。

 

 

(……飯、鞄の中に詰め込んでたっけ……? で、肝心の鞄は、美代に渡したっけ? それとも、教室だっけ? ……ダメだ、全然考えがまとまんねぇ……)

 

 

 水を、食料を求めて、慶次は歩き出すが、その歩みは安定しない。フラフラと、右に左に蛇行する。右腕を失ったのだ。左に重心が傾き、真っ直ぐ歩けなくて当然だった。

 だが、栄養の不足した頭では、そんな当たり前の事も気づかず、雪道にたたらを踏む。

 

 

(傷が深い……真っ直ぐ歩けな――)

「慶次!!」

 

 

 足場の悪い雪道でバランスが取れるはずもなく、慶次がその身を地面に投げ出しそうになった時、誰かが傷ついた身体を受け止めた。

 慶次は朦朧とした意識の中で、そいつを見上げる。

 

 

「……正、守――?」

「先生!! 早く!!」

「分かってる!!」

「? ……っ!?」

 

 

 ぼんやりしていると、突然、何かを口に入れられ、冷たいものが流し込まれた。それがペットボトルで、スポーツ飲料水だと気づく前に、喰らいつく様に飲み込んだ。

 水分が通る度、火傷した喉に激痛が走ったが、そんなの無視した。飢えに飢えて、何でもいいから腹に何かを溜めたかった。

 口元から溢れるのも構わず、何度も何度も喉を鳴らし飲み干す。

 そしてやがて、渇望が枯れ果て潤いを取り戻し、喉が、肺が正常な機能を始める。

 

 

「――ぷはっ!! し、死ぬかと思った!!」

 

 

 声を上げる。呼吸をする。慶次が生きている証だった。たったそれだけの事が嬉しくて、息を吸って、吐いた。何度も何度も、命を確かめるために繰り返した。

 

 

「はぁっ、はぁっ……! 生きてるっていいな……! っていうか先生たち、よく気づきましたね。再生に食料がいるって」

「……まあ、新発田から聞いたからな」

「つーか鞄の中、飯ばっかりだな……」

 

 

 生の喜びを噛みしめている慶次とは対照的に、滝川と正守の表情は暗かった。

 

 

「全く、二人してそんな暗い顔して。この前田慶次が生きてたんだから、もっと喜ばないと!」

「そうは言っても慶次……お前、右腕が――!」

「くそっ……何だよ、勝手に舞い上がって……! 本当にすまん! 私がもっとしっかりしてたら――!」

 

 

 正守と滝川が声に悔しさを滲ませる。不謹慎とは思いながらも、慶次は嬉しくなるのを抑えられない。

 慶次は化け物と戦うだけでは飽き足らず、焼け焦げ化け物のような形相になるまで戦った。彼らからすれば、今の慶次は力も容姿も正真正銘の化け物だろう。なのに、受け入れてくれたどころか、心配までしてくれる。

 彼らと直に話して、しみじみ思う。険しい道しか記憶にない人生の中で、本当に良い仲間に恵まれたのだ、と。

 そして、慶次に助力する余裕もないはずなのに、一番欲しいタイミングで一番欲しい物をくれた美代。彼女がいたからこそ、慶次はこの場に立っていられる。

 だからこそ、慶次はこの言葉を言わねばならないだろう。

 

 

「ありがとう先生、正守」

「前田……」

「慶次……でも――」

 

 

 申し訳なさそうに何かを言おうとする二人を、慶次は制する。

 

 

「本当に感謝してるから、もう自分を責めないでくれ」

「「…………」」

 

 

 こんな恐ろしい異常な事態なのに、今この時、この場所に、自分以外の誰かがいる。それがどれだけ恵まれた事か。彼らには理解されないかもしれないが、それは何ものにも代えがたい事だった。

 だから絶対、負い目なんて感じて欲しくなかった。

 

 

「大丈夫。飯食ってれば、腕なんて生えてくるさ……多分」

「そこは、多分を付けるな――じゃなくて、腕は生えてこねーよ!」

「……ふふっ」

 

 

 慶次がおちゃらけて、二人は小さく笑う。これで少しでも心が軽くなればと思う。

 

 

(さて……)

 

 

 雰囲気が柔らかくなった所で、慶次を校舎に運ぶ流れとなる。

 慶次は正守に引きずられ、滝川に食料をぶち込まれながら、警戒を厳にする。確かに“燐子”は倒した。だが、それで全ての危険が取り除かれた訳ではないのだ。

 慶次は恐る恐る視線を、堂森市中心部へと向ける。

 

 

(封絶は……まだ消えてない……)

 

 

 未だ消えぬ薄桜色の陽炎に、慶次は大きく舌打ちをする。封絶が未だ消えていない……それは“紅世の徒”が今もなお生きている証左であった。堂森市から危険は去っていない。

 慶次に黙々と食料を与える滝川に、少しの間、中断するように伝える。状況を少し、把握したかった。

 

 

「んぐ、先生、ちょっといいですか?」

「どうした?」

「他のみんなはどうなってますか?」

「校舎にいるが、それがどうした?」

「……校舎に篭る様に指示を出したのは、誰でしょうか?」

「校長と教頭だが……本当に、それがどうしたんだ?」

「最後に一つ! ……警――」

 

 

 察、と繋げようとした慶次の耳に、けたたましいサイレンが届く。重厚感のある、どこか危機感を煽る音。パトカーのサイレンだった。

 だが、サイレンは学校に近づくことなく、堂森市の市街地から延々と鳴り続けている。

 

 

「……この通り、サイレンは聞こえるが、来る気配がないな」

「…………」

 

 

 黙する慶次、内心に動揺が走る。

 二日続いての“燐子”の強襲。

 これだけの異常状態にも拘わらず、パトカーの一台も来ない学校。

 校舎に生徒たちを押し込めた校長と教頭。

 ――導き出される答えは一つである。

 

 

(“封絶”は椿をおびき寄せるための陽動、本命は“燐子たち”の堂森市襲撃か……!)

 

 

 “封絶”を人口の密集地である堂森中心部に展開して椿を釣り出し、温存していた残りの“燐子”――おそらく、慶次が対峙した二体以外にも、大量にいたのだろう――を堂森市に放逐、戦う手段の持たない一般人を“燐子”が襲う。それが堂森市の現状であり、敵の取った作戦だったのだろう。

 椿は孤立し、慶次は重傷。堂森市全域は“燐子”に蹂躙され……つまり、慶次たちはまんまと一杯喰わされたという事だ。

 

 

(くそっ! このまま、奴らの自由にさせる訳にはいかないのに……!!)

 

 

 視線を右に流せば、肘から先のない腕。こんな状態で、慶次に出来る事はあるのか。

 事態をいち早く把握した校長と教頭は、“燐子”から守りやすいように生徒を一か所に集めている。校舎入口のような狭い場所なら、ある程度戦えるかもしれないが、今の慶次は満身創痍。五分……いや、一分持つかさえ怪しい。

 加えて、校舎に残れば必然的に街を見捨てる事になる。全てを守る、何て傲慢な事は言わない。だがらといって、すんなりと割り切れるか訳がない。

 何か少しでも、事態を好転させる手立てはないか考えるが、

 

 

(ダメだ、悪いイメージしか湧かない。椿がいないと、俺一人じゃ何も出来ん)

 

 

 考えれば考えるほど、今の事態は慶次の処理能力を遥かに超えているとしか分からなかった。

 と、慶次の様子に何かを感じ取ったのだろう。不安そうな顔で、正守が慶次に声を掛ける。

 

 

「なあ、慶次。今のお前に訊くのは酷だと思うが……一体何が起きているんだ? それに、何の目的でこんな酷い事を……」

「すまん。今、状況を整理している所だ。もう少し待ってくれ」

「……無理すんなよ」

 

 

 正守が疑問を呈し、慶次は深く考え込む。正守の言う通り、そもそも“紅世の徒”の目的が全くの不明だった

 

 

(六年前の惨劇と今回の事件が繋がってるって思ってたけど、違うのか? そもそも、何で“燐子”は俺が来る前に『人間』を喰らわなかったんだ? 俺はともかく、普通“紅世”の奴らが人を襲うのって、“存在の力”を補給するためだろ? それとも何か、前提が違って――)

 

 

 前提が違う――ここまで考えて、頭に思い浮かんだ不埒な疑惑を吹き飛ばす様に、慶次は首を左右に大きく振る。

 

 

(馬鹿か俺は! 椿を疑ってどうするんだ!!)

 

 

 “紅世”から渡りし“徒”が、人知れず人を喰らい、この世を跋扈している。椿から教えられた『この世の真実』。慶次は“燐子”には二度も襲われたが、“紅世の徒”を見た事もなければ、人が喰らわれる所に出くわした事もなかった。椿が語る真実を、一度も体験した事がなかったのだ。

 少女の言葉を疑うには十分な状況かも知れない……だが、一日共に過ごし椿の人となりを知った。

 甘党で、

 嫌味なくらい正論で、

 だけど、どこか常識外れの箱入り娘で、

 戦う姿は……美しかった。

 状況は疑うに値する。しかし、椿という少女は信を置ける人物だった。それだけは、胸を張って言える。

 

 

(そういや、そうだったな――)

 

 

 慶次は思い出す。

 あの薄桜色の陽炎の中、慶次の存在はちっぽけだった。柄にもなく、命を諦めてしまった。それが、あの紅蓮に守られ、命を紡いでくれた。

 あの時、あの場所から、慶次の命運は『炎髪灼眼の討ち手』に委ねられていたのだ。ゆえに、慶次に出来る事はただ一つ。

 

 

(椿以外、解決できないんだ。俺はあいつを信じて、あいつを手伝う。それしかないんだ)

 

 

 敵の目的も分からず、対処法も思いつかない。だが、椿を信じる……この一点だけは揺るがしてはならなかった。

 ならば慶次のやる事は一つ。彼女が戻ってくるまで踏ん張る。それまで、“紅世の徒”の目的やら対処法は、全部頭の中からも叩き出す。

 

 

(自分の命が掛かってるのに、他力本願な事で)

 

 

 己の無力さを自嘲する。だが、悪い気分ではなかった。

 と、慶次の薄ら笑いに正守が、不安を隠さず尋ねる。

 

 

「慶次……何か、分かったのか……?」

「ん、まあ、分かったと言えば、分かったんだが……」

 

 

 慶次は正守たちに、自分が立てた予想を話すかどうか迷う。伝えたところで、対処法など時間稼ぎしかないのだ。彼らに余計な絶望を与えるに過ぎない。かといって、絶望は必ず来るのだ。伝えなかったところで、それは問題の先送りにしかならない。むしろ、事前に教えて心だけでも備えさせた方がいいかもしれない。

 

 

「……今以上によくない知らせになるが、本当に聞くか?」

「まだ悪いことがあるのか……!?」

「…………」

 

 

 情けないと思いながらも、慶次は決断が出来ず逆に二人に訊き返した。

 二人はしばらく沈黙した後、頷いた。それが二人の決断だった。

 慶次はしばらく迷った跡、意を決して来る絶望を口にする。

 

 

「実は昨日、あの“化け物”に襲われたんだ。多分、“化け物”は一匹じゃなくって、街に溢れかえってる」

「っ! そう、か……」

「……ははは」

 

 

 二人は慶次の予想を、否定しなかった。薄々勘付いていたのだろう。だが、理性では納得しても、心は受け入れ難かったのか、どちらも血の気が引いていた。

 慶次を引く正守の身体は、小刻みに震えていた。慶次に食事を与えようとする滝川は、何度も食料を取りこぼした。

 話して良かったのか分からない。もしかしたら、もっと賢いやり方があったかもしれない。だが、過去は変えられない。この選択が、より険しい道を進むことになっても、慶次は歩みを止める事は出来ない。

 

 

(それじゃあ、俺は残って時間稼ぎをして、正守と先生には――)

 

 

 慶次は、まずは正守に指示を飛ばす。

 

 

「正守、校舎に着いたら笹の傍にいてやれよ」

「っ! だ、だが慶次! “化け物”が街に溢れかえっているなら、俺が残って戦った方が――」

「言っちゃ悪いが、最後になるかもしれないんだ。お前は好きな人の傍にいろよ」

「……お前はどうする気だ……?」

「もちろん、残って時間稼ぎを、」

「――っ、ふざけるな!!」

 

 

 正守が慶次を怒鳴りつける。目を怒らせ、慶次を睨みつける。勝手な事を言うなと目が語っていた。

 慶次は思わず噴き出した。相手が大切だからこそ、勝手な理屈で勝手に行動する。結局、慶次は椿と何も変わらなかった。だが、慶次は自身の行動を省みるつもりはない。感情だけで残ると言っている訳ではないからだ。

 慶次は冷静に、冷徹に正守に告げる。

 

 

「あのな、別に格好つけてる訳じゃないんだぞ?」

「じゃあ、何で残るなんて――!!」

「お前らが周りにいると、バットの巻き添え喰らう事になるだろ」

「だ、だったら、バットなんて振らなければいい! 俺が、代わりに戦ってやる!!」

「それこそ、ふざけるな。お前たちが目の前で襲われて突っ立ってられる程、俺は図太くないし、化け物を見ただけで震えるお前に何が出来る?」

「っ!」

「悪い、ちょっと言い過ぎた……でもな、これしか方法がないんだ。だから、俺を人殺しにさせないためにも、少しの間だけ一人にさせてくれ。大丈夫、俺も自己犠牲なんてする気はないさ。ちょっと遊んだら、とっとと逃げるよ」

「……すまない」

 

 

 正守は慶次から目を逸らした。肩が震えていた。

 慶次は僅かに届く嗚咽を無視し、滝川に視線を移した。悲しみに染まった目が、慶次を射抜く。

 

 

「先生はクラスの奴らと一緒にいて下さい。さすがに、これ以上一人の生徒を依怙贔屓にするのは、良くないでしょう」

「……すまん、最後まで力になれなくて」

「謝らなくてもいいですよ。それに、俺の仲間が来れば、あんな奴ら一撃ですから」

 

 

 慶次は小さく笑い椿の存在を匂わすが、冗談と思われたのだろう。二人はそれきり口を噤み、黙々と前に進んだ。

 重苦しい空気が場を支配した。慶次はこの空気を破る術が思いつかない。ただ、されるがままに正守に引きずられ、滝川に口に食料を詰め込まれた。

 

 

「ケイくん!」

 

 

 校舎入口に辿りつくと、成実が救急箱を持って急いで慶次に駆け寄る。福子は校舎入口数メートル地点で、養護教諭の篠崎とシートに寝かせた人を治療していた。二人に隠れて姿は見えないが、焼け落ちたスカートから推察すると……美代、なのだろう。慶次は美代の傷ついた姿を思い出し、無意識に『宝具』を強く握りしめる。

 その慶次の様子に何かを感じ取ったのか、それとも欠けた右腕を直視し過ぎたのか、成実は血の気の引いた顔で、

 

 

「ケ、ケイくん、右腕……ど、どうしたら――」

「笹、先に服持ってきてくれないか?」

 

 

 所々焼け落ちた学ランは、今や服としての役割を果たしていなかった。『宝具』の効果であまり寒くはないが、裸同然の格好でいるのは居心地が悪い――というのは成実をこの場から逃がす口実だった。

 素直に取りに行くと思った成実だったが、なぜか中々動かない。直視したくないのか、必死に右腕の傷を視界に入れないようにしながら、それでもチラチラと傷口を覗きながら、

 

 

「え、でも、治さないと、右腕、」

「んな救急箱じゃ、何もできないだろ。それより、早く服。何なら、パンツ貸してもいいぞ」

「う、うん、分かった。今、脱いでケイくんに――って、しないよ。確かあっちにコートが一着あったから、そっちに――」

 

 

 成実は一瞬、下着に手を掛けようとしてから、とうとう慶次に押し通され、校舎の中に走っていった。あれは本当にノリツッコミではなく、半分本気のような気がしたが、今はそれは置いておく。

 慶次は中々動こうとしない正守(こいびと)の肩を突き飛ばし、追いかけろと促す。だが、正守は慶次の事が心配なのか成実を追いかけようとしない。

 

 

「な、なあ。やっぱり俺――」

「早く行け! この彼女持ちが!」

「いっ!? こ、この野郎! ガチで蹴りやがって! 後で覚えていろよ!!」

 

 

 慶次は問答無用で正守の尻を蹴り上げた。結構、遠慮なしで蹴ったせいか、正守は尻を抑えながら校舎に入っていった。

 

 

(さて、次は――)

 

 

 支えが無くなった慶次、短時間に貪り食い、エネルギーは十分。未だ傷口と火傷を治そうと、細胞が活発にポコポコと蠢いているが、動く分には体力は戻っていた。心配なのは右腕だが、“焦げ”が削げ落ち、綺麗に骨やら肉やらが丸見えになってる。が、出血自体は収まっているので、こちらも動作に問題はない。

 今度は隣の滝川に、慶次は声を掛ける。

 

 

「先生。みんなをよろしくお願いします」

「本当に、来ないんだな?」

「はい。それに正直なところ、一発当てたら全力で逃げる予定なんで。本当にご心配なく」

「……分かった。無理は、するなよ」

 

 

 滝川は泣いているのか笑っているのか、よく分からない形に顔を崩して、校舎の中へ入っていった。

 慶次はすぐさま校庭に身体を向け、“燐子”に対して備える。

 

 

(“燐子”に一当てしたら、そのまま“封絶”に向かって逃げるか)

 

 

 この場に留まって守り抜く力は、残念ながら慶次にはない。今の慶次にできるとしたら、“燐子”を引き連れ、椿と合流を目指し“封絶”を目指すだけだろう。その場合、“燐子”と鬼ごっこする訳だが、一体どのくらい持つであろうか。せめて、美代たちが逃げるぐらいの時間は稼ぎたらと思う。

 と、そんな策とも言えない策を慶次を考えていると背後から、

 

 

「放して!! 最後ぐらい、慶次さんの傍にいさせて!!」

(……頭が良いのも、考え物だな)

 

 

 よく聞いた女性の金切り声に、慶次は思わず嘆息する。

 おそらく、声の主は美代で、“燐子”が複数いる事に気づいて、そして……未来に絶望してしまったのだろう。だからこそ、あの物分かりの良かった彼女が、迷惑も考えず喚いているのかもしれない。

 慶次は後ろを振り返った。

 美代は座り込んだまま滝川や福子、篠崎を押しのけ、這ってでも慶次の元へ行こうとしていた。美代の白い肌は余さず包帯に覆われており、所々血が滲んでいる。顔もほとんど全てが包帯であり、そこから僅かに除く目は涙を湛えていた。

 慶次と美代の目が合う。それだけで、美代はボロボロと涙を零した。

 

 

「慶次さん、お願いです!! 私は守らなくてもいいから、最後まで隣に――」

「美代」

 

 

 慶次は美代の言葉を中途で切る。最後まで慶次の……好きな人の隣にいたい。家族を喪った慶次だからこそ、全てとは言わないが彼女の気持ちは理解できた。だが、美代の願いはそんな悲観的なものじゃない。生きている限り、慶次に寄り添い想いを通わせ、そして幸せになる。とても純粋で、くすぐったいものだったはずだ。だからこそ、慶次は聞くわけにはいかない。

 

 

「大丈夫。絶対戻ってくるから、少しの間だけ安全なところにいてくれ」

「何を惚けた事を仰っているのですか!! またあの“化け物”が来たら、私たちは誰も逃げられません!! 殺されます!! だから、最後は慶次さんの隣にいさせて!!」

「やめてくれ。お前の本当の願いは、そんなんじゃないだろ?」

「っ!! で、ですけど、」

「先生、早く行ってくれ」

 

 

 慶次が冷たく突き放す。滝川が、福子が、篠崎が美代を担ぎ上げ連れていく。

 

 

「放して下さい! お願い、慶次さん、見捨てないで――!!」

「――っ!」

 

 

 慶次は慌てて美代から目を逸らした。

 人が本当に絶望に染まる瞬間。それを見てしまった。美代に与えてしまった。決して、そんな事をさせるつもりじゃなかったのに、させてしまった。

 胸の奥深く、冷たい冷たい感触が競り上がってくる。正守と滝川と別れた時には、全く湧かなかった感覚だった。嫌な感覚だった。だが、どれだけ嫌悪しても止まってくれなかった。

 

 

(……切り替えろ。全部は生き残ってから、椿と合流してからだ)

 

 

 慶次は気持ちを入れ替えるために大きく息を吐く。

 今日一日、後悔ばかりだった。それを晴らすためには、生き残るしかない。

 胸に去来する感情を抑え込み、再び戦う覚悟を決める。

 と、ほぼ同時に校舎から悲鳴が上がった。

 慶次は今も吹雪く、霞んだ視界の先に目を凝らす。

 “燐子”がいた――それも、三体。

 さすがの慶次も、これには顔が引きつった。

 

 

(は、はは……一発当てて、逃げる? 腕一本捧げて、ようやく一体討滅だぞ。それが三体って……左腕、左足、右足失くして、俺に達磨になれってか?)

 

 

 冗談にならない事を考えながら、それでも諦めずに左腕一本で『宝具』を構える。背後ではドタドタと階段を下りる音の塊がする。再び襲いかかてきた“燐子”を見て、生徒たちが慌てて逃げ出しているのだろう。

 

 

(中央を突破してそのまま“封絶”に行くしかないか!)

 

 

 最早、校舎入口で時間稼ぎなど言ってられない。“燐子”を突破し、そのまま椿の所へ駆け込む。後は運任せだ。“燐子”が慶次を追いかけてくれればよし。追いかけなければ、とっとと合流する。生き残るには、仲間たちを僅かでも生き延びさせるには、それしかない。

 “燐子”が三体、横一列で駆けだす。慶次は強く地面を踏みしめる。

 チャンスは一度。“燐子”が飛びかかってきた瞬間、こちらも地面を踏み抜き、一気に突破するしかない。

 そう考え、迫る“燐子”に慶次が集中していると、

 

 

「うわあああぁっ!!」

「やめろ! 来るなあぁぁぁっ!!」

「あ、ああああ、誰か助け――!!」

「なっ!?」

 

 

 背後で上がった絶叫に、慶次が驚愕に振り返る。

 ある者は爪に引き裂かれ、

 ある者は牙に喰らいつかれ、

 ある者はその剛力に吹き飛ばされ、

 ある者は余波に巻き込まれ、壁に、床に、天井に叩きつけられる。

 二体の“燐子”に人が、襲われていた。

 

 

「や、やめろ……」

 

 

 その中に、慶次の仲間たちもいた。

 正守は成実を庇い、爪に背中を引き裂かれていた。

 滝川は吹き飛ばされた生徒に巻き込まれ、壁に叩きつけらえていた。

 福子は立ち向かおうとしたが、為す術なく爪に斬り裂かれた。

 

 

「ぁ……ぁあっ……」

 

 

 贓物を撒き散らした父。

 脳ミソを垂れ流した兄。

 首が潰れた妹。

 六年前の惨劇と、目の前の現実が重なる。

 乗り越えたはずの感情が、徐々に頭をもたげてくる。

 

 

(だ、ダメだ……! 感情に、身を任せたら、俺は――)

 

 

 このままでは、感情に心が支配される。感情のまま宝具を振るってしまう。五体の“燐子”に囲まれた上、自身を制御出来なくなれば、死は避けられない。だが、目の前の情景に、とてもではないが慶次はこれ以上、感情を抑えられそうになかった。

 慶次が懸命に感情を制御しようとしている間も、惨劇は広がる。

 そしてとうとう、“燐子”は美代に牙を向けた。

 猛然と迫る“燐子”。

 壁に追いつめられた美代。

 振り下ろされた爪は、寸分違わず美代の胸を狙う。

 追いつめられた姿が、吐血した母の姿に重なる。

 慶次の理性は呆気なく、吹き飛んだ。

 

 

「やめろおおおおおおっ!!」

 

 

 感情が爆発し『宝具』がこの日、最大の輝きを見せる。しかし、怒りに塗りつぶされた慶次は、感情のままに校舎の中へ入ってしまった。当然、迎え撃つ予定だった三体の“燐子”に背を向ける事となる。その明らかな隙を見逃すほど、彼らは甘くない。

 

 

「うぐっ!!」

 

 

 背後から左腕を、右足を、左足を、それぞれ一体ずつが、慶次の身体に喰らいついた。慶次は咬み付かれたまま、うつ伏せに押し倒される。牙が皮膚を、肉を食い破る。血管が引き裂かれ、ボタボタと血が流れる。しかし、それだけでは足りぬと、“燐子”たちはさらに咬む圧力を増し、残った手足を引き千切ろうとする。

 

 

「――や、やめ、ろ……!!」

 

 

 関節が外れそうになるのを、何とか歯を食いしばりふんばる慶次。だが、こうしている間も惨劇は進み、夥しい血痕が壁に、床に、天井に飛び散っていった。そして、その血痕の一部には……美代のものも、すでに含まれていた。

 美代は胸に真新しい傷を刻み、壁に身体を預け呆然と惨劇を見つめていた。在りし日の母の姿と同じだった。

 慶次の手足の引力が、さらに増す。

 

 

「ぐっ、あぁあっ……!」

 

 

 関節が、耳障りな音を立て始める。もう心も身体も限界だった。このままでは、冗談ではなく手足をもがれ、達磨にされて……慶次は壊れる。だが、今の慶次に、有効な手立てはない。ただただ、絶望を待つだけだった。

 

 

「あははっ」

 

 

 広がる惨劇、悲劇。

 壊れたような明るい笑い声が上がる。

 

 

「あはっ、死ぬ。みんな、死んじゃう」

 

 

 声の主は気絶した正守に下敷きにされ、今なお無傷でいる成実だ。

 その瞳は、恋人を捉えていない。

 ただ、そこにある空虚を、焦点の合わない瞳で眺めているだけだった。

 

 

「みんな死んじゃうんだよおおおおっ!!」

 

 

 慶次も、美代も、正守も、福子も、成実も。

 全ては壊され、壊れていって。

 

 

「――――――」

 

 

 その終端、

 突如、世界は揺れた。

 

 

 

 

 慶次は壁に叩きつけられていた。意外にも、“まだ失ったのは右腕”だけで。それでも、二の腕からは血が流れ、右太腿の皮は捲れ、左足の指はそれぞれが変な方向に曲がっていたが。

 四肢を喰い千切ろうとした“燐子”は、なぜか中途で慶次を放り出したのだ。それでも、危機が去った訳ではない。“燐子”は今も、慶次の眼前にいた。しかし、二体は傷つき怯え沈黙する生徒の間を歩き、三体は慶次に向けて唸るばかり。どの“燐子”も決して襲おうとしなかった。

 

 

(一体、何、が……)

 

 

 血を流し過ぎたのか、思考がまとまらない。それでも、命を拾った千載一遇の好機をみすみす見逃すわけにはいかない。慶次は朦朧としながらも視線を巡らせ、状況を探る。

 状況は荒れている、の一言だった。

 靴や傘の小物は乱雑に散らかり、棚という棚は須く倒れ、ガラス片が床を埋め尽くしていた。“燐子”がやった……にしては無駄が多すぎる。

 

 

(そういえば、最後の揺れは……)

 

 

 全てが壊れていく、刹那。地面が隆起したかのように、衝撃が押しあがり、揺さぶられた。咬み付かれ全然余裕がなかったが、あれは冷静に考えると――、

 

 

(地震、か)

 

 

 これだけの物が散らかり、ガラスが割れる。地震に相違なかった。しかも、かなりの規模な大地震だった。

 

 

(堂森市は、本当に、どうなって、いるんだよ……)

 

 

 “燐子”に襲われ、止めの大地震。正直、堂森市は呪われているのではないかと思うほど、連続して不幸が訪れていた。だが、理由は分からないが、地震が起きてから“燐子”は人を襲うのを止めている。もしかしたら、この地震は悪い地震ではなかったのかもしれない。

 と、ここで慶次は状況把握を止める。結局、どこまで考えても推論ばかりだ。今は事実――“燐子”は大人しくなり、慶次は生きている――を受け止め、次に何をするかを決めるべきだった。

 状況はより悪くなっている。今までは、生き残る術を模索、実行してきた。端的に言えば、生きるために何かをしてきた。だが、それも終わりかもしれない。

 

 

(命を懸ける、時か――っ!!)

 

 

 そろそろ命を賭け金にしなければならない、か。

 慶次が悲壮な覚悟を決めようとした時、

 ――待ちに待った紅蓮が来た。

 

 

「は、はは……」

 

 

 火の粉が舞い散り、瞳が、髪が、炎が燃え立った少女。

 『炎髪灼眼の討ち手』がようやく来たのだ。

 

 

「遅かった、じゃ、ねーか……」

 

 

 校舎に入った『炎髪灼眼の討ち手』。

 一歩一歩、ゆっくりと近づく椿は、どこかその足取りは覚束なかった。

 

 

「……おい、何か、あったのか?」

「……っ」

「……椿?」

 

 

 明快な椿から答えが返ってこない。それどころか、煌めく紅蓮の瞳を不安そうに揺らしていた。そこには凛々しさの欠片もなく、まるで迷子の子どものようであった。

 彼女が、椿が、炎髪灼眼の討ち手がいれば、命が繋げられる。みんな助かる。そういう確信を持っていたからこそ、慶次は絶望の中を突き進んで来れた。だが、今の彼女は……とてもではないが、希望には見えなかった。

 

 

「お、おい……やめろ、冗談、だろ……?」

 

 

 そもそも、なぜ“燐子”を前にして、椿は戦おうとしないのか。なぜ、慶次を見ているだけなのだろうか。

 手が震える。喉がカラカラに乾く。『宝具』の光が弱くなっていき、再生速度が落ちていく。気持ちを切り替えねばと必死に思うが、嫌な想像が止まらない。

 もしかして椿は最初から『 』だったのではないか。

 もしくは、さっきの間に『 』になってしまったのではないか。

 心臓の鼓動が嫌に大きく聞こえる。時間が経てば経つほど、鼓動は早くなっていく。

 

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 

 慶次は荒れた呼吸で、震える声で、椿に問う。

 

 

「“燐子”は敵、なんだろう? なあ、早くそいつらを、倒してくれよ? その、俺を……守るんじゃ、なかったのか?」

「それ、は……」

 

 

 椿は答えに詰まると、俯いて口を強く結んだ。鬱屈としたものが、慶次の中に積み重なっていく。醜いそれを、椿に向けて全てぶちまけたい衝動に駆られてしまう。

 でも、ダメだ。それをしてしまえば、取り返しのつかない事になる。無能な上、心まで醜くなってしまう。人として、それだけは絶対に嫌だった。

 慶次は何とかギリギリの所で感情を抑えつけ、のろのろと立ち上がりながら、次はアラストールに問う。

 

 

「教えてくれよ、アラストール」

「…………」

「お前は、お前たちは――」

 

 

 異常な静寂。唾を飲み込む音が、こびり付く様に耳に入る。

 これを訊けば、後戻りはできない。

 ――訊きたい。聞きたくない。

 ――信じたい。信じたくない。

 相反する思いで、しかしはっきりと、慶次は尋ねた。

 

 

「『敵』――なのか?」

「っ!? 違――」

 

 

 “コキュートス”を握り、椿が慌てて否定しようとして、

 それを遮る様に。

 

 

「お前ら矮小な者に敵も味方があるか。たかが人間が調子に乗るな」

「……っ!」

 

 

 アラストールではない男の声が、割り込んできた。

 慶次は椿の背後に、椿は振り返り、声の主を見遣る。

 

 

「それにしても、まだ(・・)生きていたとはな。前田慶次……しぶとい人間だ」

 

 

 そこにいたのは、純白のジャケットと藍色のジーンズ背の高い痩身の男。容姿も整っているとはいえ、街に入れば埋もれてしまうような、ごくごく平均的な顔つき。一見すれば、普通の男に見えるそいつは、しかし、身体には誰もが目を引く特徴があった。

 左足一本で立ち、それを右手の松葉杖で支える。彼は右足と左手が、ほとんど動いていなかった。

 男は松葉杖で己を支えながら、一歩一歩着実に歩き、そして――椿の隣に立った。

 椿は動かない。まるでこの男が隣にいる事が当たり前だとでも言うように、男はそこにいる。

 椿の隣に立つ男が、“紅世の徒”なのか。いや、そもそも“紅世の徒”……『フレイムヘイズ』などいるのか。

 “燐子”と戦おうとしないどころか、『敵』と思われる男の隣にいる椿。もう慶次には、何を信じていればいいのか、分からなくなってしまった。

 

 

(俺は、一体、どうすれば――)

 

 

 呆然とする慶次の眼前で、

 

 

「だがそれも、ここで終わりだ」

「っ!?」

 

 

 慶次が驚愕に目を見開かせた。男がいつの間にか距離を縮めて、松葉杖の先端を慶次の胸に向けていた。

 

 

「――!!」

 

 

 男の背後、椿が口を大きく開き何事かを叫ぼうとするが、その声が届く前に、

 トン、と慶次の胸は軽く小突かれ、

 慶次は力なくうつ伏せに倒れこんだ。

 

 

(あれ――?)

 

 

 立ち上がろうとしても、力が入らない。

 それどころか、瞬きも出来ない、指も動かない、息も吸えない。

 自分の身体なのに、何一つ思い通りに動かない。

 なのに、頭だけは空気が澄みきったかのように、クリアだった。

 

 

(そういえば――?)

 

 

 妙に冴える頭が、ふと気づく。

 先まで、全然収まってくれなかった胸の早鐘が、いつの間にか止まっている事に。

 

 

(――っ)

 

 

 “燐子”と正面切って戦った。

 片腕を失っても、“燐子”に囲まれても抗った。

 全ては大切なものを守るために、

 そして、生き残るために。

 心が折れない様に、絶望の中、僅かな希望に縋りついていた。

 二度の死の境地も、幸運と機転、そして何よりその強靭な精神力で潜り抜けた。

 しかし、

 

 

「…………」

 

 

 今まで抗ってこれたのが奇跡だったのだろう。

 三度の危機に、慶次に為す術なく。

 ――心臓を止めてしまった。

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 前田慶次が校庭で“燐子”と対峙している時を同じくして、少女もまた“封絶”で『敵』と相対していた。ただし、慶次が明確に危機感を抱いているのに対して、少女が抱いた感情は――戸惑い。

 妙に煌めいて見える純白のジャケットを羽織った、痩身の男。左足一本で立ち、右手の松葉杖で支えている、一見すればただの“障碍者”。だが、彼から漂っていくる気配は、普通の人のそれ(・・)ではない。しかし、“紅世の徒”のようなこの世にいる事自体、不自然な存在ではない。

 そう、彼は――。

 

 

「『フレイムヘイズ』……!」

 

 

 『敵』の意外な正体。その戸惑いは、早くも呟きと共に露へと消える。

 『フレイムヘイズ』は“紅世の徒”を討滅するという共通項を持っているが、その実、一枚岩ではない。元が『人間』である『フレイムヘイズ』は、当然その生い立ちや思想、理念、信条は個々人異なる。目的がぶつかり合い戦う事は、決して珍しい事ではなかった。少女もアメリカ大陸で起きたフレイムヘイズ同士の内乱、“革正団(レボルシオン)”側に一部フレイムヘイズが付くなど、聞き及んでいた。ゆえに、戸惑いは一瞬。

 堂森市市街地に立ち並ぶ雑居ビルの一つ。その上で、少女は大太刀『贄殿遮那』を構え、対峙する。

 と、少女が訊こうとしたその先、まるで機先を制するように名も分からないフレイヘイズは嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑った。

 

 

「久しぶり……というより、初めましてと言うべきか? それと、出来る事なら、武器は下げて欲しい」

「あんた何て、知らない」

 

 

 少女は構えを崩さぬまま、眉を怪訝そうに顰める。

 このフレイムヘイズが言っている事が、全然分からない。以前、会った事あるなら『久しぶり』という言葉は確かに適切だ。なのに、『初めまして』の方が相応しいと言う。矛盾しているのは勿論だが、そもそも少女にはこのフレイムヘイズに見覚えが全くなかった。

 困ったように男が笑うと、今度は視線を少女の胸元へ神器“コキュートス”へ向けた。なぜかその視線が、アラストールと再会を喜ぶ『震威の結い手』と被って見えた。

 

 

「ほとんど初対面の相手に言われて、下げるほど愚かじゃないのは当たり前か」

「……お前は、なぜ……」

「っ!?」

 

 

 “紅世”真正の魔神であり、誰よりも尊敬しているアラストールの声が震えていた。恐れとも戸惑いとも取れる声音に、少女は少なからず衝撃を受ける。

 一体この男の何が彼をこうさせたのが分からなかった。唯一分かるのは、あの(・・)アラストールがその心根を隠せなくなるほどのフレイムヘイズだと言う事。

 少女は警戒のレベルをさらに上げ、決して油断する事なくアラストールに尋ねる。

 

 

「アラストール。こいつは、何者?」

「っ……それは……っ」

 

 

 アラストールが言い淀む。幼き日から、アラストールと共に過ごしてきた少女は、彼のこんな姿は知らない。

 少女はようやく気づく。

 これはただの妙な事件ではない。普通では考えられない、異常事態が起きている事に。

 だからこそ、このフレイムヘイズが何者なのか、知らなければならない。

 

 

「アラストール!」

「…………」

 

 

 少女は強く促す。

 それでもアラストールは中々口を割らない。

 

 

「…………」

「…………こやつは、」

 

 

 しかし数瞬の後、とうとう諦めたように重い口を開く。

 

 

「こやつの名はカル……先代炎髪灼眼の討ち手候補(・・・・・・・・・・・・)だ」

 

 




王大人「死亡確認」


すみません、変なところで区切って。ですが、ここじゃないと区切る個所がないし、
話が全然進まないので、ここで終わるしかありませんでした。

ちなみに、伏線は(多分)全部出したので、ここから先はどんどん回収に向かっていきます。
推理……と呼べるほどの謎を散りばめられたか分かりませんが、そういう面でも楽しめたら
と思います。

それと、どなたか小説を自動で作ってくれるようなAGEなシステムを持っている方は、
いらっしゃいませんか?

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。