息子が激怒した。
これがかの反抗期とか思春期とか呼ばれる子育ての山場なのかと思うと、息子の成長を実感して感慨深くなった。赤飯食べたい、私が。
「お前はおれの母親じゃねぇんだろッ!!」
「うん、そうだね。違うよ」
すでに疑問ですらないエースの怒声を、私は間髪入れずに肯定した。
「あたしはエースを産んだお母ちゃんじゃないよ」
水気の多い粥を啜りながら、今日は具なしかと残念に思う。それから、お椀から顔をあげて「それがどうかしたの?」と訊いた。
くしゃりと何かを耐えるようにつぶれた顔をして、エースは火にかけられた鍋を蹴り飛ばして出て行った。
無残にも粥が飛び散っている。ああ、まだ残っていたのにもったいない。食べられるだろうか、無理か。灰と混じった白粥を眺めながら考えていると、ダダンが唸るような低い声で言った。
「おめェ、もうちょっと言い方ってもんがあるだろが」
「言い方って? 私はダダンみたいに口汚くないんだけど」
「ウルセェ!! あたしのことはどうでもいいんだ! 気を使ってやれって言ってんだよ」
「まさか、ダダンに気を使えと言われるなんて……。私の女子力はダダン以下、だと……?」
「もういい、おめェに言ったあたしが馬鹿だった」
虫けらを見るような目をして、ダダンは私から視線を外した。周りのみんなも、私を見ないようにしながら、黙々と食べている。私も何も言わずに食事を続けることにした。
そもそも私は、息子に「破れた服は脱いでそこ置いといて」と言っただけだ。
そして、冒頭へ戻って突然の激昂ですよ。
反抗期怖ぇ、行動が読めなくて怖ぇ。一体どういうことなの。
もしかしたらこの前、服を繕おうとして右袖も縫い付けちゃったことを根に持っているのかもしれない。あの服お気に入りだったし……。
ちゃんと元に戻そうと思って糸をほどいてたら、弱った生地も一緒に引き裂いてしまった。さすがにもう服とはいえなくなって、「ごめんテヘペロ」と言って謝ったけれど、やっぱり駄目だったのかもしれない。
それとも、エースが初めて捕まえてきたイノシシを料理しようとして、消し炭にしたことだろうか。あと掃除していた時に、エースの私物らしき紙くず(なんか汚い字が書いてあった。エースって字書けたっけ?)を捨てていいのか分からなかったから、まとめて部屋の真ん中に置いといた時も、なんか怒鳴られた。
こうなると、最近始めた母親修行がすべて裏目に出ているような気がする。が、気にしすぎても仕方がないので、気にしないことにした。
反抗期はあった方がいいからね。
おめでとう息子よ、これで一歩大人に近づいたな。赤飯はないけど。
その後、エースが自分の母親について、話題を口にしたのが初めてだと思い至ったのは、寝床を整えている時だった。
「……まァ、いっか」
その日は朝までぐっすり寝た。起きてもエースは帰っていなかったが、最近はよくあることなので気にしなかった。
7歳児にして夜遊びとは、アイツやりおる。
***
「最近、エースがずいぶん荒れとるらしいな」
森も眠りについた夜半の闇の下、ガープが杯を傾けながら言った。
「普通じゃね?」
ちびちびと杯の水面を舐めるように飲みながら、私は答える。
「町の不良共が子供に殺されかけたと騒ぎになったらしいじゃないか」
まだ幼いのにようやるわ、そう言ってガープはかかと笑った。まぁな私の息子だからなと便乗すれば、どの口が言うかと一蹴される。
エースは一年ほど前に、父親の名前を私から聞き出すと、なにやら一人で町へ通うようになった。
世の治安は、大航海時代が始まってから悪化していく一方だ。その元凶が父親であると知っても、まだ聞かずにはいられないのだろう。もちろん、いい評判などある筈もないのに。
そして大体暴れて帰ってくるのだ。
「私も若い頃は荒れてたしなぁ」
「お前の若い頃なんぞ知らんが……。まぁ、確かに少し前まで不良みたいなもんだったな」
納得したようにガープが頷く。
おいおい、少し前まで不良と思われていたのか私。不本意すぎる。
しょっぱい気持ちで、静かな夜の海を眺めていると、同じように視線を前に向けたままのガープが低い声で言った。
「何故、父親の名を教えたんじゃ」
「いいじゃん別に、いずれ知ることなんだし。思い知るのは早い方がいい」
きっと嫌でも思い知る。この世に逃げ場などないことを。普通の人生など望めないことを。己という存在が、どれほどの危険性をはらんでいるのかを。
しばらく黙っていたガープは、重い息を吐き出して言った。
「お前はお前で考えているんじゃろうが、わしにはお前がわざと母親らしくないよう振る舞っているように思える」
「さぁてねー。私はそんな器用じゃないけど」
「確かに、お前に嘘をつけるような器用さはない。でも、それ以外のことは……意外と器用じゃろ?」
「何が言いたいかはっきり言えよ、ガープ」
空になった杯を手の中で持て余す。酒は酔えないから好きじゃない。
ガープは少しだけ纏う空気を硬くした。
「今はまだ、エースはお前のことを母親として慕っている。だがそれもいつお前を見限るかわからん。あいつが独りにならんように心を繋ぎとめておく存在が必要だ」
そして普段よりもずっと平坦な声で、「エースの味方になってやれ」と言った。
ことりと地面に杯を置き、私は大きなため息をついた。
まったく、はっきり言えって言っているのに。この男が回りくどい言い方をするなんて珍しい。
「私たちがあの子の味方になってどうすんだよ」
ぶっきらぼうな、ともすれば冷淡な声で私は言った。
海はさざ波ひとつ立てずに鎮まり、とろりとした闇をゆっくりかき混ぜていた。まるで世界が終わった日のようだった。
「軍人と役人の私たちがあの子の味方になって、それでどうするの?」
隣に座る男の顔を覗き込んでにやりと笑うと、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「エースを海軍に入れて、自分の手元に置いておきたいアンタの気持ちは分かるけど、それを選ぶかはエースが自分で決めることだ」
いずれエースにもわかる日が来る。この先、どの道を選んだとしても、運命という重みを背負って歩き続けねばならないことを。そして、彼はきっと最も険しい道を進むだろう。私にはそんな予感があった。
「ヒヒヒ、心配すんな!! 引き受けたからには責任もって私が最期まで面倒をみるさ!」
「犬の世話ではないんじゃぞ……」
「分かってるよ」
何とも言えない顔でこちらを見下ろすガープに笑って見せる。
もう私は覚悟を決めたというのに、まだこの共犯者は甘い考えを捨てきれていないのだ。
杯を手に取って差し出すと、ガープが無言で注ぐ。表面いっぱいに張り詰めて、波紋ひとつ立てられそうになかった。
「だからその時が来たら、私が……」
その言葉の先を心の中だけで呟いて、私はくいっと杯を飲み干した。
今でもまだ、酒の味はわからない。
***
いい天気だった。
空と海はどこまでも青くて、風は清流のようにさらさらと吹き抜け、水平線の向こうへ白い雲を運んでゆく。
岬の先に座ってぼんやりとしていると、後ろから小さな足音が近づいて来た。
視線だけで振り返ると、驚いたことにそこにいたのはエースだった。自分から私の傍に寄ってくることはずいぶん長い間なかった気がする。
エースは何も言わずに少し離れて座った。
私のことを一切見ないのが可笑しくて笑いそうになったがぐっとこらえる。よく見るとエースは怪我が増えていた。唇は切れて血を滲ませているし、顔だけじゃなく体中に殴られたあとがある。服もぼろぼろになっていた。また縫わなければ。
「ずいぶん派手にケンカしたなぁ。勝ったか?」
「おれが負けるか!」
「それもそうだな」
さすが私の息子だ、と最近は言わずにいるけど、そう思っていることが伝わるように弾んだ声で肯定してやる。ふふふと笑いがもれたが、楽しいので気にしない。
「お前は……」
「なぁに?」
「……怒らないんだな。町で暴れても」
「何で怒るの? 息子がケンカで勝ったんだ。私は嬉しいけど」
私がそう答えると、エースは眉をしかめて険しい顔をした。そしてそのまま地面を親の仇のように睨みつけて、黙り込んでしまった。
ざざん、と波が控えめな音を繰り返している。海は陽の光を受けて白く輝き、それがあまりにも眩しいものだから私は目を細めた。
「おれは生まれてきてもよかったのかな」
ぽつりと、小さな声でエースは尋ねた。
それはささやかな風にかき消されてしまいそうなほどか細い声だったけれど、私には泣き叫びたいのを必死に抑え込んでいるように聞こえた。
「さぁね。いくら私でもそれは分からないよ」
のんきな声で私は答えた。
かみ締めた唇から、滲み出したひとしずくの血が地面を濡らす。握ったままの拳が白くなっていた。
エースが本当に訊きたかったことが、それだったのかはわからない。でも、きっとこれからも、本当の親について私に尋ねることはないだろう。他の誰から話を聞いたとしても決して私からは。
こんなになってもまだ、私を母親として扱う息子を嬉しく思うと同時に、恐ろしくも思う。
「重いよなぁー……」
私は間延びした声で言った。
「重いとさぁ、どこにも行けないって思っちゃう」
風がふわりと髪の毛をなびかせ、岬をすべり落ちるように海へ去ってゆく。
エースは何も言わなかった。
広い海を前にして、頑なに足元を睨みつけるその姿が、私自身を見ているようだった。
どこにも行けないと意地になって、自分の存在価値を見失って、人に意味を与えられなければ存在することもできないのに、まだ過去に縋って生き続けている。
そうやって歩んできた自分を否定はしないし、今はそれが自分だと笑って言える。でもそれは知ったからだ。どこへでも行けることを教えられたから。
『人はみな、生まれながらに自由だ!』
そう言った男がいた。かつて世界の全てを見た男は私にそう言った。この世界の誰よりも自由に生きて、そして死んでいった男の言葉。
知っていたつもりだった。なのに、いつの間にか自由という言葉の意味をはき違えていた。秩序と自由は対義ではないということを。
「確かに、人は生まれながらに背負っているモノの重さが違う。でも、人の価値はどんな人生を歩んだかで決まる」
私はさっぱりとした声で言った。
「今のお前に価値なんてこれっぽっちもないよ。漬物石より役に立たないだけ」
「ッ――! 価値があればいいのかよ! おれに価値があれば望まれるのか!? 生きてもいいって、言ってもらえるのかよッ!!」
それはあたかも、決壊した濁流のような叫びだった。
荒々しい息遣いで立ち上がったエースが、私を見下ろした。
私はぼんやりと海を眺めたまま言った。
「どうだろー。私もそんなこと言ってもらったことないから分かんないなぁ」
「じゃぁ――」
エースが言いかけた言葉を遮る。
「まぁ、『価値だとか重さだとか、そんなもの俺はどうだっていい』って言いきったやつもいたけどね」
ひゅ、とエースが息をのむ音がした。
私はゆっくりとエースを見上げて笑った。
難儀なものを背負ってしまったなぁ、お前も私も。だからきっとこれくらいは許される。そうだろ? ロジャー……。
「『自分の存在を人に決められて、お前はそれで満足なのか?』」
この世に存在する全てのモノに意味はあると、そう信じていたこともあった。でもこの世界は、そんなスッキリとした計算でできてはいない。足したり引いたり、余ったり足りなかったり。
仕方ないよなぁ、わりと適当だったもんなぁ、と苦笑する。私も実は計算苦手なんだ、学ないから。だから、ごめんなと心の中で謝る。
価値も意味も、生きる場所も。――欲しいものは全部、自分の力で手に入れてください。
「エースはさぁ、どんな生き方をしたらいいと思う?」
「……分かんねぇよ」と、エースは力のない声で言った。
「だよねぇ」と、私はケタケタと笑いながら頷いた。
私にもまだ分からない。
答えに辿りつくのは、私よりエースの方が早いだろう。
「その答えはきっと死ぬときに分かるんだろうね。――自分が満足か否か」
エースは何も言わなかった。私もそれ以上何も言わなかった。
立ち上がったまま海の向こうを睨みつけるその眼は、瞬きもせずナイフのように鋭かった。
私はその横顔を覚えておこうと思った。もう決して、私の前で涙を見せなくなった幼い泣き顔の代わりに。
海は相変わらずゆらゆらと白い光を揺らして、白い雲が海と空の真ん中に吸い込まれていく。
私は眼を閉じて、通り過ぎていく風を感じた。