逆転の発想だ。私はそう考えることにした。
繰り返される終わりのないルーチンワークから抜け出し、ゆったりとした自分のための時間を持てる。都会の喧騒を忘れ、自然豊かな田舎でのびのびとした人生をおくれる。
そう、私は憧れの田舎暮らしを手に入れたのだ。
しかし田舎には田舎のルールがある。それを守らなければ、住民として認めてもらえず、つま弾きにされてしまいかねない。
共同作業は当り前。定期的にある草刈りや掃除、イベントの打合せなど。そうした当番をこなすことが、田舎暮らしに失敗しないための最低条件だ。
そして、その当番をこなすために、私は山道の傍で息をひそめていた。
この山を越えるためには、必ずこの道を通らなければならない。
与えられたチャンスは一度きり。この機を逃せば隣人として認めてもらえない。
茂みの中に身をひそめ、幾日も辛抱強く待ち続け、この日にようやく変化が訪れた。人がやって来たのだ。茂みの中からでは姿は見えないが、どうやら一人だけのようでゆったりと歩いて来る。地面を踏みしめるどっしりした音と、時折高い位置にある枝葉が擦れる音から、大柄な男であることがうかがえた。
じっと滲む汗を、手の中にあるものと一緒に握りしめる。視界を閉ざして息を止め、跳ねる心臓も宥めて完全に気配を殺す。男が近づいてくるのを音だけで聞き分けてタイミングを見計らう。3、2、1!
――私は男の前に飛び出し、木の棒を振り上げてこう叫んだ。
「命が惜しけりゃ金目のモノを全部置いてきなぁあああッ!!」
そうやって飛び出した私は見た。とても見覚えのありすぎる英雄さまの青筋の浮いた顔と、大きく振り上げられた鉄拳が視界を埋め尽くしていくのを。――暗転。
***
「という訳で、山ガール始めました」
「この大馬鹿モンがぁあッ!!」
ガツン、と鈍い音がしてまたコブが増える。思わず頭を抱えてうずくまった。目の前にチカチカと星が瞬いている。
なぜまた殴られなければならないのか、解せん。
あの後、意識を取り戻すとダダン一家のアジトまで戻っていた私は、これまでの経緯をガープに説明した。青筋を増やしながら黙って聞いていたガープは、話が終わったとたん拳を振りおろしてきたのだ。
全く、私の苦労を全然分かっていないのだから。
若い女が一人、赤子を抱えて田舎に引っ越してくるなんて格好の噂の的だし、ママ友の会にも入れてもらえず避けられているし、仕事だってこんな山の中じゃ見つからない。
地域に馴染もうとする私の努力を、返り討ちにするとは!
「山ガールっティか、ただの女山賊のことじゃニーか」
小柄な体躯のドグラが、私の背後で呆れたようにつぶやいた。
物は言いようだと誰かが言っていた。山ガールも、森ガールも、雪ガールも全部似たようなものだろう。『ガール』を『女』の文字にすると、とたんに面妖な雰囲気になるのはご愛嬌として。
「お前、自分の立場分かってんのか!?」
ガープが再び声を荒げ、私も顔をあげて負けずと叫んだ。
「産休中!」
「謹慎中だ!!」
ドゴンと、今度は床が悲鳴をあげる。
「お前が山賊の真似してどうする!」
「山賊じゃないもん山ガールだもん。私、ダダンみたいな立派な山ガールになる!」
「「ヤメロッ!!」」
かぶる二人の声。
今度は少し離れた場所で、私たちの様子を見ていたダダンも声をあげた。
「ガープ!!……さん、頼むからこの小娘を連れてってくれ! 赤ん坊を育てることは受け入れられても、こいつの面倒まではみられねェよ!! 掃除も洗濯も雑用も、ロクにできやしないどころか、すぐに問題を引っ提げてくる! こいつが来てから、あたしらは災難続きだ。あんたが言ってた不幸体質ってのにも限界がある! 何がどうなってんのかわからねェが、こっちの命がいくつあっても足りゃしねェ!!」
「あぁ、こいつの不幸体質は、……まぁどうにかしろ」
「できるか!!」
ダダンが憤慨して叫ぶ。
コルボ山を根城にする山賊ダダン一家の棟梁は、女とは思えぬほどいかつい強面だ。
そしてヒステリックなほど口うるさい。
こうなるとぐるりとひと回りして、なんだか肝っ玉母ちゃんに思えてくる。保身というか心配というか、自分ひとりではなく、自分たち一家全員の身を守ることを第一に考えているからこそ、子分たちも彼女を慕っているのだろう。
悪党だけど堕ちていない。そういうのも分かっていて、ガープは私と赤ん坊をここに預けたんじゃないかと思っている。
しかし、誰がどう言おうと、私のこの体質はどうにもならない。私自身それをよく理解しているので、できるだけ大人しくしているつもりなのだが、アジトに引きこもっているだけでは、どうにもならない時がある。
森の中から熊などの猛獣がアジトを襲撃してきたり、雷が私めがけて落ちてきたり、時季外れのタイフーンが異常発生して山を滅茶苦茶にしていったり、私ひとりいるだけで天変地異には事欠かない。
それを荒事に慣れている山賊たちとはいえ、どうにかできるようなものでもないだろう。
「山の中に捨て……迷子になっても、いつの間にか生きて戻ってくるし、弱いくせに意外としぶとい。いくら何でも、この厄災娘の傍にいるくらいなら監獄の方がマシだ!」
「まーまー、お頭」
大柄だが落ち着いた性格のマグラが、頭であるダダンを宥める。
マグラはよく私を庇ってくれるので、ダダンが怒鳴りだしたら、マグラの大きな身体の後ろに隠れることにしている。そうするといつも「まーまー」と間延びした声でダダンを落ち着かせてくれるのだ。
私が赤ん坊と一緒に、コルボ山に連れて来られた時も、ガープに脅され押しつけられ驚くばかりだった一家の中で、唯一私を気遣ってくれたのがマグラだった。
もっとも、私をガープの娘と勘違いして「こんな山の中に赤ん坊と一緒に放り込むなんて、あんたも酷い親だなぁ」と発言した彼は、ガープに「誰が誰の親だ!!」と、鉄拳制裁を喰らっていたのは、仕方がないこととして。
「でもガープさん。ありじゃ育ティるどころか赤ん坊も巻き込まりて死んディまうっすよ」
独特な訛りのある話し方をするドグラが、ガープに必死で訴えた。
ドグラもマグラと一緒になって、ダダンから庇ってくれるのだが、その対象は私ではなく赤ん坊のみである。意外とシビアな男だ。
「それを何とかするのがお前らの役目じゃろが」
「そんニ無茶苦茶だ……」
「で、そのエースはどこじゃ」
がっくりと肩を落とすドグラを尻目に、そう言ってガープは窓の向こうを見やるように首を伸ばした。
ちょうどその時、部屋の仕切りにかけられている布の間から、赤ん坊が「あーあー」と、拙い声を張り上げながら這って出てきた。
「待ちやがれエース!!」
「エースちゃーん!! ガープおじさんでちよー!」
「あ! ガープさん帰って来てたのか!?」
赤ん坊の後ろから、子守を任されていた手下の一人が追ってくるが、その腕につかまる前に、ガープがでかい顔であやしだした。
キャッキャッと機嫌よく笑う赤ん坊。
反対にドン引きする周りの面々。
いつも思うが、あの世にも恐ろしい顔のどこが赤ん坊に受けるのか。
「エースはいい子じゃのー」
そう言って赤ん坊を抱いて、嬉しそうに笑うガープ。
何も知らない人にとっては、孫を抱いて喜ぶ好々爺の姿に見えるのだが、ガープを昔から知っている私にとっては、違和感の塊にしか映らない。視界の暴力だ。
「ほれテミス、お前も抱いてやらんか。お前がエースの母親代わりなんじゃぞ」
「う……。お、おいで~」
「ギャァアアアアンン!!」
ガープに言われるまま、必死に笑顔を浮かべながら手を差し出してみるが、そのとたん赤ん坊は死ぬほど泣き出した。ガン泣きである。
くそう、なぜガープにできて、私にできないのか。
ガープの何とも言えない目線が、うっとうしい。
「なんじゃい、あれから少しは親代わりらしくなったかと思えば……。何も変わっとらんのか」
「まぁ……。こ、これからだよ、これから」
この山に身を潜めて、既に三ヶ月。
それ以前の航海にかかった期間を含めても、赤ん坊はまったく私に懐く様子を見せなかった。それどころか、まだ人見知りも始まらない時期のはずなのに、抱くどころか近づくだけで火がついたように大泣きされ、目すら合わせてくれない。
子育てをするどころか、しっかり警戒されている始末である。
どんな無力な存在でも、防衛本能だけはしっかり備わっているという。生き物の本能は誤魔化せない。人間の赤ん坊だけでなく、動物もそうだ。本能的な存在にこそ、避けられ警戒されることが多い。
「相変わらず不憫な人生を送っとるな」
深いため息をついて、ガープが苦々しく呟いた。
最近、私の前では口癖のようになってきたフレーズだ。何をいまさらと思わなくもないが、結局ガープもことの重さを理解しきれていなかっただけなのだ。
「まーね……。でも、昔はこんな体質じゃなかったんだ……」
仕方ない、これは対価だから。
そう心の中で言い聞かせ続けてきた。でも赤ん坊の泣き声を聞くたびに、胸のあたりが重くなる。
泣かせたい訳ではないのに、どう笑わせたらいいのか分からない。もうずっと、自分がどう笑えばいいのかわからなかった。
泣き止まない赤ん坊の声に慌てふためいている周りに、後はよろしくねと告げ、ガープにはひらひらと手を振って外へ出た。
外は天気が良く、抜けるような青い空の下で、干した洗濯物がひらひらと風に吹かれてなびいている。
目の前に広がる緑の樹海に足を踏み入れると、森がざわりと揺らめいた。声なき声が慄いている。遠くから近くから、天の明るい方からも地の暗い方からも、からみあい、こだましあって、それ自体が大きな一つの意志のようにうねる。ぉおおん、ぅおおおん。地の底から響く声。時折つんざくような高音が、光のような速さで私を貫いていく。
それらの声に私は耳を塞ぎ、山道を歩き始めた。
空は相変わらず一点の曇りもない、神様の贈り物のようなブルーが広がっている。
この世界に私の居場所はない。
***
テミスの出て行った後は白々しい空気がアジトの中を漂っていた。
よしよしとエースをあやし終えたガープだけが、ダダンの手下に茶を要求し、くつろいだようにエースを抱えている。
エースもまた、周囲の様子などお構いなしに「あー」だの「うー」だの、何やら話しかけるように声を発していた。
「お頭、今日のはちょっと言い過ぎたんじゃねぇか」
マグラが眉をハの字にして、弱り切った声を出した。
しかしダダンは目を吊り上げて、マグラの方を見もせずに声を張り上げた。
「情けない声出してんじゃねェよ! そんなことはあたしの知ったことじゃないね!!」
「でもお頭……」
ほとほと困ったように頭をかくマグラを手で制して、熱い茶を受け取ったガープがのんきに啜りながら言った。
「テミスのあれは呪いだ」
「はぁ? 何だいそれは?」
呆気にとられた声をあげたダダンは、思わず何の冗談を言い出したのかと、ガープを怪訝そうに見やった。
しかしガープは恐ろしく真剣な顔つきだった。
黒い影がガープの表情を無機質に見せ、ダダンはぞっと恐怖が身体の真ん中を駆け抜けていくのを感じた。
冗談ではないということがどういう意味なのか。たとえ学はなくとも、それが分からないほど、ダダンは頭の回転が遅い人間ではなかった。
世界に数多ある、伝説や伝承。
その中には、神の怒りをかって滅ぼされた国や街の話もある。
呪いなんて不確かなものを信じるダダンではなかったが、この数ヶ月で体感した災難を、偶然で済ますことができるとは思っていなかった。
「じゃあ何だい、あの厄災を呼ぶ娘は神の怒りでもかったっていうのかい?」
吐き捨てるように、ダダンはガープに詰め寄った。
しかしガープは静かに首を振って言った。
「神の怒りをかったのではない。世界の怒りをかったんじゃ」
それは、世界中の海賊に悪魔と呼ばれた男とは思えないほどの、神妙な顔つきだった。
「あいつは世界に呪われておる」
そうガープは言って、考えあぐねるように目をつむり、それ以上は誰に聞かれても、何も言わなかった。
ただエースだけが、丸い目をじっと見開いて、声一つあげずにガープを見上げていた。
***
ガープが山を下りた数日後、ダダン一家は突如騒がしくなった。
私は数人の手下たちと一緒に水汲みに行っていて、なぜか川に誤って落ち、数百メートル流されつつも、なんとか自力で岸に這い上がったのだが、もちろん誰も助けに来てくれなかったので、一人だけ森ではぐれてしまい、帰って来た時にはすでに、皆が慌ただしく動き回っているところだった。
「あのクソガキ、勝手に歩きやがって! クソッ、どこ行きやがった!? お前ら北側と南側に分かれて森も探せ!!」
「へいッ!!」
どうやら赤ん坊が行方不明のようだ。
こんな山賊のアジトで人さらいもないだろうから、十中八九自分で這って出て行ったのだろう。普段からよく動き回る赤ん坊だとは思っていたが、まさか森の中にまで入っていくとは。
さすが、あの男の子供といったところか。逞しいことこの上ない。
「じゃぁ私も、」
「小娘ェ!! おめェは動くんじゃねェよ! 邪魔だ中にいな!!」
「えー、はぁい」
火を噴く勢いのダダンに睨まれ、私はしぶしぶアジトの中に入った。
私がいなくなっても、誰も知らん顔で何日も過ごすくせに、赤ん坊がちょっといなくなっただけでこの騒ぎようだ。
子供の影響力というのは、人殺しの悪党たちまでも、ここまで慌てふためくほどのものなのか。もちろん、何かあってはガープが恐ろしいという保身もあったかもしれないが。
正直のところ、私はこの時点では、そこまで大事だとは思っていなかった。
どれだけ元気がよかろうが、所詮は赤ん坊が這って動く程度。すぐに森の傍で見つかるだろうと思っていたし、人の出入りが激しいこのアジトの近くなら、獣が少ないことも分かっていた。
自分自身という不確定要素さえなければ、大丈夫だと。
しかし、陽が西に傾きはじめてしばらく経っても、赤ん坊は見つからなかった。
さすがに焦りが見え始めたダダンたちの目を掻い潜って、私はひっそりとアジトから抜け出した。
森は相変わらず唸り声をあげて私を追い出そうとする。
ひしめき叢がる樹木の間を駆け抜け、転がり、私は走りに走った。方向は分からなかった。しかし私は森の声だけを聞き分けて走った。
彼らの声の多くは私に向けられたものだが、中にはそれ以外の声が混じっていることを知っていた。私はあの男のようにはっきりと声を聞くことはできないが、それがどんな意志を持っているのかを聞き分けることはできた。だから私は、ただ耳を澄まして森を転がり走った。
今まで重く溜まっていたものが、ふつふつと胸を圧迫して苦しく責め立てる。これは何だろう。分からない。分からないが、今は走るしかなかった。
やがて、木漏れ日に朱色が混じりだした頃、数知れない小鳥のさえずりが、切り立った岩稜の方から嵐のように吹き込んできた。頭上を黒い影が通り過ぎ、樹木の間へ千々に分かれていく。
その鳥の群れの流れに逆らうようにして、岩稜の麓を目指した。
嫌な予感はしていた。
以前マグラが言っていたのだ。大きな人食い虎が、あの岩稜の辺り一帯に住み着いているから、近づくなと。だがアジトからは遠く、見張り台から望むことができる程度だからと、気に留めてはいなかった。
森を抜けると、大小さまざまな岩が点々と転がり、その先には錐のように切り立った岩稜がある。夕日に照らされた岩々は赤く火照り、その影は黒く長く伸びていた。その麓の点々とした岩の間を、赤ん坊は無邪気に這い進んでいた。
「マジでこんなところにいたよッ!!」
どうやってここまで来たのかは後で考えるとして、足を緩める間もなく私は赤ん坊に向かって走り続けた。
あと少しというところで、ぞわりと背筋に冷たいものが奔る。
岩稜の中腹、錐のようにするどい岩の上に、それはいた。
滑らかな毛並みを夕日に反射させ、赤く色づいた虎は、私が知っている虎より2倍も3倍も大きかった。
目元の影が深くてよく見えなかった。なのに目線が合った気がした。鋭利で容赦のない獣の眼だった。私を見てにやりと笑った。そして、頭を伏せて構えたかと思うと、身体を波のようにうねらせ、獣は天高く飛び上がった。
「エースゥッツ!!!!」
どこから出てくるのかと自分でも思えるほど、腹の底から叫んだ。
夕闇が迫る赤黒い岩肌の上を、閃光が駆け下りる。
大地を足が千切れるほど蹴りつけ、何とか先に飛びかかるようにして、小さな身体を抱え込み転がり起き上がると、山の端に沈む夕焼けがまばゆく輝いていた。そして瞬きをする暇もないほど一瞬のうちに、その美しい獣は私の目の前に現れ、びっしりと生えそろった牙が視界を掠めていった時にはもう岩の上に叩き付けられた後だった。
「ぐッ――――!!」
思わず左手で右肩を抑えると、ぐしゃりと嫌な感覚がした。酸化した鉄の匂いが鼻につく。右肩の肉をごっそりと抉り取られた。激痛に遠のく意識を叱咤し、私は腕の中の赤ん坊を抱えなおした。
私が触れているにも関わらず、赤ん坊は泣きわめかなかった。大物だなぁ、と頭の隅で呑気に思考する自分を可笑しく思いながらも、ゆらりと立ち上がると、わき目もふらずに走り出した。
森に駆け込み、木の根に足を取られながらも走る。しかし、背後の気配が遠のくことはなかった。一定の距離をあけながらも、息遣いが聞こえるほどのすぐ後ろを、獣はついて来た。
獣が嗤った。
樹々も、鳥も、虫も、草木も、森の全てがあざ笑うかのように、ざわめいた。
どうあろうと逃げるしかなかった。
そもそも私は戦闘向きじゃないのだ。ここまで走って来ただけでも、死にそうなくらい息が苦しい。虎だろうが熊だろうが、獣相手に立ち向かえるようなスペックはない。
「あぅッ!!」
ついに根に足を取られて盛大に転んだ。
それでも、腕の中の赤ん坊を押しつぶさないように、仰向けに転んだ私を褒めてほしい。
盛大に腰を打ったが、痛くはなかった。ただ熱かった。熱い、抉られた肩が強烈に熱かった。それと同時に手足がぞっと冷たくて、微かに震え始めていた。肩も腕も胸までもが血でぐっしょりと濡れて、張り付いた衣服が気持ち悪い。
(あぁ、ヤバいなこれ)
こんなところで何をやっているのかと呆れる。ついてないなぁとも。
こんなことなら、副官長に罵られながら執務机に縛りつけられて、繰り返される終わりのないルーチンワークをこなしていた方がよかった。まぁ、これも何千回と繰り返した後悔なのだけれど。
くすりと哂ったつもりが、ひゅぅひゅぅと気管が変な音を立てる。
事務仕事のツケが、こんなところに回ってきた。運動不足とかまじか。
パキ、と小枝を踏む音がして、顔を上げると獣がそこにいた。
樹々の間から差し込む、鮮烈さがやわらいだ夕日の残光に、その毛並みの色が確かに黄色なのだと見てとれた。均整のとれた肉体が美しい。
獣はゆっくりと近づいて来る。
残念なことに、運動不足の元事務員の足は、既に死んでいる。さっきから冗談じゃないほど力を振り絞っているのに、膝も足も震えるばかりで、上体を起こすのが精一杯という情けない有様だ。山ガールへの道のりはまだまだ遠い。
ゆっくり、ゆっくりと近づいて来る。もういっそ一思いにやれと叫んでしまいそうなほど、獣はこの狩りを楽しんでいた。
それでも、こんな時にどんな顔をすればいいのか分からない私は、ただ獣の眼を見つめて哂うだけだ。
殺せるものなら殺してみろ。心の底から美しい獣をあざ哂う。
声なき声など、聞いてやるものか。
その時、「あ~」と赤ん坊の声がした。
今まで声一つあげずにいたことが奇跡なのだが、この状況でも赤ん坊は泣き出さなかった。ただ私の顔を見上げて、何かをつかむように手を伸ばしていた。小さな豆粒みたいな指は、土まみれで赤く擦り切れていて、空をつかむばかりで何も触れなかった。
それでも、その小さな赤い手は、私のほんのすぐ前にあって、確かに私に向かって伸ばされていた。
『この子の未来はこの子が自分で選ぶものよ。誰にもその邪魔はさせないわ』
突然あの時の、ルージュの声が耳元で聞こえた気がした。まだ一年も経ってないのに、十数年も昔に聞いたような気がした。
「この子は、私が預かった……大事な子だ……」
掠れた声が、ひゅぅと鳴る喉から零れ落ちた。
なぁ、ルージュ――心の中で彼女に話しかける。やっぱり私は母親という存在が分からないよ。でも、この胸を刺す苦しみは何なのか、ようやく分かったよ。
獣はゆっくりと構えた。
ああ、来るなぁと思った。ただそれだけだった。獣に対する恐怖も嘲りもなかった。ただ胸の内にあったのは、今までずっと抱えていた想いだ。抱え込みすぎて随分重くなった心だ。
そう、それは、――世界に対する『怒り』。
「邪魔をするなァア!!」
そうして、声なき声が消えた。
森が静まりかえり、空も大地も風も夕日も、すべてが無になった。
やがて一陣の風が吹き抜け、目の前の虎がゆっくりと倒れた。
どすんと地面が音を立て、その口の間から泡を吹いているのを見つめながら、私はしばらくぼんやりと座り込んでいた。
***
気が付くと夜の気配が忍び寄っていた。
西の空は僅かに白く光り、かすかな黄色を残して、淡いブルーのグラデーションが頭上を覆い、東の空には星が瞬いていた。群青色の夜がやってくる。
森の奥から声が聞こえた。人の声だ。ダダンの声もする。
私は「おーい」と弱弱しい声をあげた。なんとか届いたようで「どこだ小娘!! 無事かぁあ!?」とすぐに返ってきた返事に安堵する。
「無事じゃないけど、とりあえず大丈夫ぅ~」
そう答えて、私は腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。
赤ん坊は「あー」と声をあげながら、手を伸ばしていた。掴み取ろうとするように、夢中で傷ついた小さな手を伸ばす。
血の気を透かしたようなまろい手が、赤く汚れていた。脇に手を入れて抱き上げると、膝もやはり擦れて血がにじんでいた。
本当にこの距離を、自力で這ってきたのだなと驚くばかりだ。傷の痛みを感じていないのかと、心配してしまうほど、赤ん坊は自分の身体に無頓着だった。やっぱり大物になるなぁと思う。
抱き上げられても赤ん坊は手を伸ばし続ける。その手はやはり、私に向かって伸ばされていた。
「なんだ、お前。私がいても良いのか?」
答えはない。ただ「あーあー」と繰り返されるだけだ。
それは、声なき声とは全く違うものだった。人ではないモノとは異なるものだ。
「お前は私に、一緒にいて欲しいのか?」
首をかしげる私の真似をするように、赤ん坊も首をかしげてみせた。そのまま見つめ合っていると、やがてキャッキャッと笑い出した。
「そっか……」
私は深く息を吐くように呟いた。
「こんな私を、必要としてくれるのか……」
突然、悪夢から目醒めたような心地だった。
あんなに重苦しかった胸の奥に、ぽっと火が灯ったようだった。あんなに熱かった肩も、冷たかった手足も、何も感じなかった。ただ午後の木漏れ日のように、温かかった。
ふふふと声が零れて、気が付いたら笑いが止まらなかった。
「よろしくな、エース」
そう言って私は笑い、エースを抱えたまま後ろに倒れ込んだ。
全てを失う覚悟をした。
そうしなければ、前に進めないと思ったから。なのに……。
なぁロジャー、そうじゃなかったのか? お前は私に一体何をさせたいんだ? まだ何も分からない。この世界は分からないことだらけだ。でも一つ、確かなことがある。
この日、私は母親になった。