空と海と最後のブルー   作:suzu.

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02.この世で最も偉大なのは母ちゃんだ

 

 空は美しい夕焼け色に染まり、街にひしめく白い建物を色鮮やかに照らしていた。

 大通りを道行く人々の顔でさえ斜陽が赤く差し、その陰影を深く浮彫にしている。その顔にはどれも緊張に疲れ果てたような、怯えることに諦めたような、そんなくたびれた色を濃く滲ませていた。

 人通りは多くない。むしろ閑散としている。

 口を固く閉ざし足早に過ぎ去る住人達。誰とも目を合わそうとしない。夕暮れ時だというのに家へ帰るはずんだ子供の声もなければ、酒場へ繰り出す算段をつける大人たちのにぎわいも、郷愁をさそうカラスの鳴き声ひとつない。

 赤く染まった街と、虚ろな表情の住人。まるでよくできた絵画を覗き込んでいるようであった。

 鮮烈なのに、どこか現実味に欠けた、寂しげな空虚を漂わせて……。

 

 大通りへと通じる路地裏を歩きながら、私は微かな足音を聞き分ける。

 大通りを颯爽と歩く人間たち。硬いブーツをこすり付けるように歩く特徴的な音。6人、いや8人もいる。そこの角を曲がった先から歩いてくる。

 さっと頭から被っているフードを目深く引き下げ、くるりとUターンすると目先の脇道にごく自然な動作で入った。そのまま住宅の並ぶ細い裏道を、足取り迷うことなくクネクネと曲がり続け、ようやく街の外れまで来た頃には夕焼けは半分以上沈み、鮮烈な赤い光はやわいオレンジへと色を変えていた。

 誰に見られることもないように注意しながら、街を抜け出しそのまま入り江へと向かう。

 小さな入り江には船艦の姿もなく、ただポツリと沈みゆく太陽に照らされて、ヤシの木が細長い影を伸ばしている。その影に寄り添うようにして、その家はあった。

 一階建ての平屋であるそれは、なんてことのない平凡な造りだ。

 入口の扉を開き、猫のようにするりと入る。すると、奥まで見通せる何も遮る物のない部屋は、窓から差し込む夕日に赤く染まっていて、部屋の奥のベッドの上で女性が一人、上体を起こして窓の外を静かに眺めていた。

 美しい髪の女性だ。あわいオレンジに染まった髪はろうそくの灯火のように揺れ、健康的に日焼けした肌はこの島の住人であることを表していた。

 しかし、その顔色は青褪めて健康とは言い難い。

「ルージュ、寝てろって言っただろ」

「あらテミス。帰って来てたの。あなたいい加減、音もさせずに入ってくる癖直しなさいよ」

「えー、仕方ないだろ~。職業病だよ、しょくぎょーびょー。それより体調は良いのか?」

「ええ、いつもこの時間帯は何だか調子が良いの。きっとこの子の機嫌が良いのね。夕日が好きなのかしら?」

 そう言って、ルージュは自分のお腹にそっと触れた。

 そこは大きく膨らみ、その中にもう一つの命が宿っていることを如実に表している。

 あと数週間もしないうちに、生まれてきてもおかしくないほどの膨らみではあるが、その予測は全く当てにならないだろう。なぜなら、彼女はもうすでに、三ヶ月も前からこの状態だからだ。

「無茶だけはするなよ。そろそろお前の体も限界なんだからな」

「分かっているわ。でも、大丈夫。私もこの子も、決して負けたりはしないもの」

 その窪んだ目に力強さを宿して、ルージュは笑った。

 そんな彼女の様子に感心しながらも、事態は差し迫った状況にあるため、その言葉に安心などしていられなかった。

「まだ街には海兵がいる。『子ども狩り』はまだ終わってない」

 ルージュが妊婦であることは、すでに海兵に知られている。数日おきに調べに来る海兵たちの眼を誤魔化すにもそろそろ限界があった。

「なにせよ、その大きさでまだ五ヶ月目だって言い張るのも無理があるよな。旦那が体の大きい人だから、子どもも大きく生まれるんだ。とか、これ以上デカくなるつもりかよ、つー話だよな」

 ルージュは子どもの父親について、他の街から来た商船の船乗りだと説明している。今は長旅に出ていないが、子どもが生まれる頃には戻ってきて一緒にこの島で暮らす約束をしている、ということになっているのだ。

 もちろんデタラメだが、それを聞いた海兵たちは無事に生まれると良いな、とだけ言って疑う様子はなかったらしい。

 もちろん父親の素性については事細かく聞かれたらしいが、あらかじめ私が伝えておいた人物像を自分の恋人のように説明させた。

 父親の身元は調べられても良いように、きちんと身元の明らかな実在する男だ。五ヶ月前にこの島を訪れた商船のクルーで、大柄な体格の独り身の男。そして、すでに行方が分からなくなっている幽霊船の一員。

 死人に口なしとはこの事だ。

 最初の調査では「早く男が戻ると良いな」なんて気さくな言葉をかけていた若い海兵も、男がすでに帰る見込みのないことを知るや、次からは言葉少なめにルージュの様子を観察するだけだ。

 海兵がルージュに何も言わないことからも、帰らない子どもの父親を待つ憐れな妊婦とでも思われているのだろう。父親は死んだと伝えないあたりに、海兵たちも既にこの『子ども狩り』に成果を期待していないことがうかがえる。

 当たり前か、もうあの男が死んで一年以上経った。

 人の子は十月十日で生まれるとされているが、実際は九ヶ月と二十日ほど。普通に考えれば、これから生まれてくる子どもに、血の繋がりはありえない。

(それが、ありえちゃってるんだけどな……)

 母親の執念とは恐ろしいものだ。

「つーか、これ以上デカくなったら、風船みたいに弾けるんじゃないかと心配だ……」

 ぼそりと呟いたその言葉を拾ったルージュがくすくすとおかしそうに笑った。

「女の身体はそんなに脆くないわ」

「えーそうかぁ? 人間なんてみんな簡単に死んじゃうんだよ」

「それでもよ」

「それでも?」

「人でも動物でも、どんな種族であろうとそんなの関係ないわ。この世で一番強いのは、母親という生物よ」

「ふーん……」

 その理屈がよく分からなくて、とりあえず生返事をしておく。

 今だって自分の子どもに殺されかけているのに、どうしてそんな言葉が出てくるのか本気で分からなかった。

「貴女もいつかきっと分かる日が来るわ」

 ルージュはそう言った。

 しかし、そんな日はきっと来ないだろうと思った。自分には彼女を理解できる日は来ないだろうと。それでも仕方がない。だって私は私でしかないのだから。母親じゃないから仕方ない。私はそれでいい。

 でも、子どもはそれで良いのだろうか?

「なぁ、ルージュ。お前はこれで本当に良かったと断言できるのか? 無事に生まれても、その子どもが幸せに生きれるような世界じゃないぞ。そいつ、生まれてきたくないかもしれねぇんだぞ」

 母親は自分の意思で子どもを産むのだ。それで良いだろう。でも子どもの意思は? そこに子どもの意思は一欠けらもない。子どもは生まれてくることを享受するだろうか。後悔したり、恨んだりしないだろうか。

 心配になって尋ねると、ルージュは一瞬きょとんとした顔をしてから、朗らかな声で笑い飛ばした。

「誰だって、そうよ。幸せになれるかなんて、そんなの誰にも分からない」

 貴女も、私もそう――。

 そう言ってルージュは私を正面から見つめた。

 その眼が、あまりにも力強く澄んでいるものだから、私は知らず知らず息を詰めて見つめ返していた。

 今まで見た中でも、一等きれいな眼だった。

 彼女は私に言い聞かせるように、優しく言った。

「生まれてくるだけで、幸せが保障されてる世界なんて面白くないでしょう。私がこの子にできるのは、無事に生んであげることだけ。それ以上のことは、きっと私には何もできない。この子の未来はこの子が自分で選ぶものよ。誰にもその邪魔はさせないわ」

 彼女は言う。生きるも死ぬも、全ては子どもが決めることだと。自分に出来るのは、最初の選択肢をあげることだけだと。そのためだけに全てを失ったとしても。

 なんて分の悪い条件だろう。なんて、途方もないことなんだろう。分からない。私にはそれを許容してしまう心理が、そしてそれが当たり前だという母親という存在が分からない。 

「生きることさえ、赦されないとしても?」

「この子の生きる場所がないというのなら、私の場所を譲るわ。人一人分の居場所を。私が生きているこの小さな場所じゃ、ダメかしら?」

 世界中の誰もが赦さなくても、彼女だけは赦すだろう。そして、全てを譲り渡すつもりなのだ。

 それが、生まれてくる罪に対する対価。

 彼女の存在の重みでは、生まれてくる子どもの重みとは、到底釣り合うとは思わなかったけど(なにせ、子どもはあの男の血を引くのだから)、今はもうリストラされた身なので、重さの計算はしなくてもいいのだ。

 だからあえて私は、笑って彼女にこう言った。

「さあね、神様に聞いてみなよ」

「そうね、じゃあもし逢えたら聞いてみるわ」

 そう言って、彼女も笑った。

 

 三ヶ月後、一人の女が息を引き取るのと同時に、一人の赤ん坊が生まれた。

 名前はエース。母親によく似た面影を持つ子ども。

「人間ってこんな重かったんだな」

 ――知らなかったよ。そう呟いて、私は窓の外を見上げた。

 きれいな夕日だった。沈みゆく夕日の先には、この子どものまだ見ぬ世界が広がっている。

 この子は望むだろうか、その先を。この子は行くのだろうか、全てを見に。

 子どもは答えない。今はただ、静かに眠りについていた。もう目覚めることのない母親の傍で。

 凪いだ海風は涼やかで、潮の香りが強く胸をくすぐった。

 

 

 


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