空と海と最後のブルー   作:suzu.

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01.今日からニート、いいえ産休です

 

 遥か頭上でカモメが鳴いている。

 ちゃぷ、ちゃぷ、と一定のリズムで波止場に寄せる波が白い飛沫となって飛び散る。その度に潮の香りが胸を擽った。

 

 空はどこまでも澄んでいて、海はどこまでも深い。

 

 そんな普遍的ともいえる青色の中にさえ、様々な色が混じり合い、その色合いは刻一刻と姿を変えていく。

 今見る景色はこの瞬間だけのもので、この先どんなに同じ処で待っていても、二度と同じ景色を見ることはできやしない。そう言ったのは、どこの誰だったか。

 退役し老いた軍人の言葉だった気もするし、どこぞの寂れた酒場で、ゲロ吐き散らしていた酔っ払いの言葉だったかもしれない。

 どこの誰が言った言葉でも、結局は同じことだ。忘れてしまえば全てが無意味だし、逆に内容さえ覚えていれば好きなように解釈できる。

 要は、その言葉を聞いた時の私は、何も考えずに聞き流しただけなのだ。そんな言葉が吐けるのは、老い先短い人間の特権だと思っていた。人生は一度きりなんて、そんな当たり前のことを振りかざして、まだ見ぬ世界の果てに夢を追い求める馬鹿の言葉だと、そう思っていた。

 だから……。だから、どうってことも無いのだけれど。

 

 ぱしゃり、と白い飛沫を上げる波を蹴とばす。

 たくし上げたズボンの裾が濡れるのも構わず、二度三度続けて水音を立てた。素足に掛かる海の水は冷たく心地よかった。

 いっそのこと、着の身着のままで、海の中へ飛び込んでしまいたいぐらいだ。そのまま海流に身を任せて、どこまでも流されてしまおうか。なんて、冗談みたいなただの気の迷いだけど。

 そんな限りなく本気に近い雑念を巡らせながら、幼い子どものような仕草で海上をぼんやりと眺めていると、ふと日が陰っているのに気が付いた。いや、日を遮っている影が私の上に落ちていた。

 呆然と見上げると、逆光の中の黒い影が私に声を落とす。

「ずいぶん不機嫌そうだな」

「ほっとけ」

 海に視線を戻して、そっけなく答える。

 私の軽口に安心したのか、相手は僅かに苦笑すると、何も言わずにどかりと私の横に座り込んだ。

 私よりずっと大きな体が並ぶ。

 袖を通さず羽織っただけの白いコートの裾が、海風にパタパタとそよいでいるのを視界の端に捉えながら、私は先に口を開いた。

「よくここが分かったな、ガープ」

 海軍本部中将――モンキー・D・ガープ。

 もう十分いい歳したオッサンの癖に、やることなすこと自由奔放で破天荒な海軍のエース。

 役所違いもいいとこなのに、ひょんなことで知り合ってから何かと腐れ縁が続いている既知だ。

 思っていたよりも、普段通りの声が出たことにほっとしていると、隣に座ったガープが私と同じように海を眺めたまま憮然とした口調で言った。

「何かある度に、お前がここで海を眺めとることくらい知っとるわ」

「え……、マジ?」

 思わずばっと横を振り向いて見上げる。

「マジじゃ」

 息が止まるかと思った。

 じゃあ、今までのアレやコレや、あんなみっともない姿なんかも、実は全てお見通しで、そっと背後から暖かく見守られていたというのか……。

 

 何それ、死にたい。

 

「お前がそういう反応すると思ったから黙っとったんじゃ」

 地を這うようなうめき声を上げながら、頭を抱えて悶える姿をそっと横目で見下ろして、ガープは言った。

「なまぬるっ! 生ぬるいんだよあんたの視線は! あたしはあんたの娘じゃねぇッつーの」

「んなこと知らんわ!」

 今まで晒していた醜態を思うと、いたたまれなさで死にたくなるが、よく考えたら今更だった気もする。それに、先ほどまでの陰鬱とした気分が和らいでいるのに気付いた。敵わないなと思うのはこういう時だ。

「……取り乱して悪かった」

 それこそ今更じゃろと笑われたが、悔しかったので聞かなかったことにする。

 素足のまま投げ出した足で胡坐を組むと、今度は手を後ろについて空を見上げた。

 クー、と遠くでカモメが鳴いている。気持ちよさそうに風を切っていた。

「センゴクから聞いた。無期限の謹慎だそうだな」

 水平線の向こうを見据えたままのガープが静かに言った。

 回りくどいのは似合わない男だ。しかし人一倍、情に厚い男であることも知っている。私のところなんかに来ている場合ではないだろうとは思うが、それがお節介でないのが少し悔しい。

「聞いたとおりだよ。無期限の謹慎だなんて要は懲戒免職という名のリストラ。いや、リストラより性質が悪いな」

 目の届くところに置いておきたいから謹慎。いざという時は謹慎を解いて都合の良いように使うだけ。手放すには惜しいってことか。

 そこは誇るべきか、憤るべきか……。

「いっそのこと、インペルダウンに送られた方がマシだったな」

「馬鹿なことを言うな。お前は何も罪など犯しとらん」

「でも、裏切り者だ」

 軽く言った私の言葉にガープの纏う空気が凍るのを感じた。

 それに構わず私は続ける。何となく、言葉を続けたくなった。

「あんたは英雄だけど、私は裏切り者なんだよ」

 言ってから、少しだけ後悔した。

 少しだけして、それだけだった。

 自分で思っている以上に堪えていたらしい。許されると分かっているからこその、意地の悪い言葉。これくらいの甘えは笑って飛ばされると思っていたのに。

「悪い。ンな顔すんなよな、ちょっと八つ当たりしただけだ」

 見なくとも分かる。眉間に皺を寄せて堪えるようにかみ締めている顔を、振り向くことはできなかった。

 よりにもよって、英雄の称号を引き合いに出すなんて、私もどうかしてる。それがこの男にとって、決して誇るべきことでないのは、分かっていたはずなのに。

 バツの悪さを抱えて、重くなった空気に自然と視線が落ちる。

「これから、どうするつもりだ?」

 ガープの固い声が沈黙を破る。

「考えてない」

 ぽつりと呟いた言葉は、どこへも届かず目の前の海に落ちていった。

 それが無性に閉塞感を生み、どこまでも続くはずの海と空を前にして、私の矮小さをさらけ出しているようだった。

 謹慎つーってもさぁ、と何でもないように紡いだ言葉は思ったよりも気だるげで、それでも話し出した言葉を止める訳にもいかず、私は吐き出すしかなかった。

「年に一回、定期報告に行かなきゃなんないけど、別に監視がある訳じゃないし、好きにできるといえば好きにできるよ」

 淡々と紡ぐ言葉は、隣の男にはどう捉えられているのだろう。

「だけど、私はどこへも行けない」

 あっさりと断言した言葉は、やはりどこへも響かなかった。

「私は海を渡るための翼を持たないから。籠の中でしか生きられないから」

 遠くでカモメの声が聞こえる。

 見上げれば小さくも白い姿。あの空の青にも海の青にも、決して染まらない孤独を抱えながらも、何物にも染まらない白さが眩しかった。

「あんたのように渡り鳥にはなれないよ。小鳥は加護がなければ生きられない」

「お前はそんな貧弱じゃなかろうが」

 ガープのくぐもった声がこぼれた。

 それがどうにも可笑しくて、くくく、と咽喉を鳴らして笑った。笑ってから、さっぱりとした空しさが押し寄せてきた。

「弱いさ。過去がなければ生きられない。意味を……、意義を与えられなければ私は存在する価値がないんだよ」

 分かっていたことだった。とうに認めたことだった。私は人とは違うのだと。

「あんたにはきっと分かんないよ」

 生きてる世界が違うから。そう言って静かに嗤うと、

「分かるわけないじゃろッ!」

 と、ガープが急に色を変えた。

「お前はいつもそうじゃ。何も言わんと黙ったまま勝手に抱え込んで、全部終わった後に自分はこうだからと碌に笑えもせんくせに、嗤ってみせる!」

「ッ――!! ンな勝手なこと!!」

 思わず立ち上がって、ガープの胸ぐらを引き寄せるように掴む。

 そんなことで、海軍のエースたる男の巨体が、揺らぐことなどありえなかったが、それでもそうせずにはいられなかった。なのに、言葉の続きは出てこなかった。

 ほら見たことか、とでも言いたげなガープの眼を睨みあげると、出てこない言葉の代わりにギリッと奥歯でかみ締める。

「何が勝手だ、その通りじゃろうが! あの男のようにお前を分かってやれるものなど、この世にふたりとしておらん。そしてあの男も死んだ。お前はまたそうやって次を待っとるだけか!」

「…………」

 憤りを隠そうともしないガープの気迫は、凄まじかった。

 返す言葉はなかったが、自分から視線を外すことは負けを認めるようでできなかった。私が掴んだ手もそのままで、それ以上の言葉失くして互いに睨み合う。

 言わなければ分からないと言ったのは、誰だったか。言わなければ伝わらないと聞いたのは、いつのことだったか。結局覚えていないのは聞き流していたからか。記憶と記録がごっちゃになって、過去の輪郭が曖昧に滲んでいる。忘れるはずなんてないのに、どんどん大切なことが抜け落ちていくような気がする。

 もし、もしも、あの方の言葉さえ忘れてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。

「次なんて知らない……。そんなこと、どうだって良いんだ。次なんて不確定な未来に興味はないんだよ。私にとって大切なのは過去だ。それの……、何がいけないっていうんだよ」

 絞り出した声は震えていた。みっともなく震えていた。

 どうしてこんなに、私は弱くなってしまったのだろう。

 昔はたった一つ信じていれば、それだけで何を失っても気にも留めなかったのに。そう、たった一つさえ。

 

『――お前に存在意義をやろう』

 頭に響く、何よりも大切な私の始まりの記憶。

 今はまだ鮮やかに覚えている。決して色褪せることなどないと、そう信じている。だけど、それも今では、どうして永遠を信じ続けることなどできるだろうか。

 

「過去に縋って生きて……、何になる。たとえ全て失ったとしても、未来が残っとるじゃろうが。不確定なんぞ言い換えれば可能性になる」

 掴まれた胸元を振り払いもせず、怒りを湛えた静かな眼で私を見下ろす。

 同じように、静かな声で私も言い返した。

「未来なんてパンドラの箱と同じだよ。絶望も希望も何もかも一緒に入ってる。それに縋って開けるのは愚かな人間のすることだ」

「それでも希望は残されとる」

「希望に終わりはあるが、絶望に終わりはない。終わりを持つ者が希望を語るなッ!」

「…………」

 今度はガープが黙る番だった。

 しかし、視線を先に外したのは私だった。

「もう、やめよう」

 掴んでいた手も離し、すとんと元のように座り込む。足は波止場の縁に投げ出して飛沫を上げる海の中へ放り込む。じゃぽんと軽快な音を立てる波柱を上げたのを見て、そのまま子どものようにじゃぱじゃぱ足をバタつかせた。

「わしでは、何を言っても無駄なようじゃな」

 皺になった胸元を直すと、ガープも海の方へと視線を戻した。

 その視線の先はいつも水平線の向こうだ。目の前の海を見ているようで、その海のずっと先を見ている。これだから船乗りは、と苦々しく思う。

 

 海は嫌いだ。

 空も嫌いだ。

 

 どちらも私を拒むものでしかない。なのに、この世界は海と空ばかり。

 たった一つ、赤い土でできた大陸は、己の尾を飲み込む蛇のごとく輪を描いてはいるが、それも険しい山に阻まれ、自由に行き来することは難しい。世界のなんと狭いことか。

 だからこそ、海へ、その先へと、帆を張り風を味方につけ、意気揚々と青い世界へと出ていく男たちの気持ちが分からないわけではない。

 私だって本当は、世界がもっと広いことを知っている。私だって見たかったのだ。世界の果てを。

 でも私は白服じゃない。黒服だ。

 それこそ、アイツの船にでも乗らなければ、私は碌に海を渡ることもできなかった。

「なぁ、ガープ。どこへも行けないと言ったけど、本当はどこへだって行けることはもう教えられたんだ。だから、もうそれで十分なんだよ。もう、どこにも行かない」

 白波を足でかき消しながらそう言った。

 昏い靑を湛える海の底を覗き込んではいけない。

 ゆっくりと瞼を閉じ、その裏に燦々とした太陽の光を感じると、私は深く、深く息をはいてぽつりと呟く。

「もう満足しちゃった」

「嘘じゃ」

「嘘じゃねーよ」

 まるで予め決められていたセリフのように、リズミカルに言い合うと、くすくすと笑ってみせる。それから、なぁ、とようやく私は粛として尋ねた。

「アイツ、どんな最期だった?」

「最悪の一言に尽きる」

 ガープはげっそりとした溜息をつきながら迷わず言い捨てた。

「世界中を掻き回していきよったわ」

 一瞬、言われた意味が分からなくてきょとんとする。

 それからあの男の顔を思いだし、何となく予想がついてしまった。そしてその予想は、大して外れてはいなかった。

「あッははは! あの野郎マジ張ったおすッ!」

「笑いごとじゃありゃせんわ!」

 爆笑する私に怒鳴るガープ。

 予想が外れていなかったとしたら、あの男がどんな爆弾発言をかましてこの世を去ったのか、実に気になるところだ。

 あの男が残した言葉だ。きっとどんな言葉であっても、これからの時代は荒れることになるだろう。

 ああ、本当に何て奴! 私の役目を一体なんだと思っていたのだろうか。

「あはッ! もーマジ死ねばいいと思う!」

「笑いながらキレるな。器用すぎて不気味でしかないぞ」

 だんだんガープの視線が冷たくなってきたので、なんとかひーひー言いながらも息を整える。

 眼尻に涙が浮かんでいたのを指で拭って、視界をクリアにすると、ガープのこめかみに青筋がひとつ浮いているのが見えた。

 少し笑いすぎたかもしれない。

「ま、まぁ。アイツらしいっていやアイツらしいケドさ、人の仕事増やすとかホントあり得ないよね~。って、あたし今職なしだったわ。がんばってねガープ中将!」

 なんとかフォローしようとしたのだが、どうにもフォローになっていなかったらしい。青筋がふたつに増えてしまった。

 これ以上無駄口を叩くのはやめておこう。身の危険を感じる。

 無理やり押し黙った私に、ガープが平常を装った声で言った。

「テミス。ロジャーからお前に伝言をあずかっとる」

「伝言……?」

 ぞわりと肌が粟立ち、のどの奥がヒクついた。

 あの男からの伝言。この世の全てを見に行った、悪名高き海賊からの伝言――。

 それは私にとって歴史に残されたどんな言葉よりも最悪の一言に尽き、世界中を掻き回すよりもなお性質悪く、私の過去も未来もひとつに繋いで振り回した言葉。もとい最後の爆弾投下だった。

 

「俺のガキを頼む。だ、そうだ」

「…………は?」

 

 今度こそ思考停止。

 頭の中でERRORの文字が踊っている。

 

「お前が守れ、とも言っとったぞ」

「は、はぁああああ?!」

 顎が外れるかと思うくらい、ぽっかりと口を開けて、ガープの顔を見上げる。

 そんな私の顔を見たガープが、先ほどの私のように腹を抱えて笑い出した。

「ぶわっはっはっはっ! お前もあの男に振り回されりゃいいんじゃ! お前だけ好きに隠居などさせんぞ! 堕ちる時は一緒だ! わっはっはっはっ!」

「えぇええ? ちょっと、何言っちゃってんのぉおガープさん!」

 クソッ、このおっさん大人げねぇ! 知ってたけどなッ!!

 地団駄を踏んで盛大なツッコミを入れるけれど、こうなったガープは誰も止められない。

 豪快に爆笑してくれるおっさんを前に、はやくも諦めの境地が訪れそうになったが、ここで粘らねば何かを失いそうだ。

「いや、ていうかさ。アイツにガキなんていたの? え、ドッキリじゃなくって?」

「残念じゃがな。今その子どもを探している。お前が育てろ」

 ひくり、と頬が痙攣するのを感じた。

「む……、」

「む?」

 歪んだ口端から、零れ落ちた言葉をガープが拾い上げると、引き攣ったままの顔で泣きの入った絶叫を迸らせた。

 

「無茶ゆーなばかぁああ!!」

 

 心なしか、波に反響して海の向こうまで飛んでいった気がするが、勿論ただの気のせいで、実際にははた迷惑な喚き声でしかなかった。

 遥か頭上では、クー、クカー、と平和そうな鳴き声が聞こえる。波止場に寄せるさざ波が余韻に静けさを添えていた。

 空に海に叫んだまま、得も言わぬ虚しさをかみ締めて立ち尽くしていると、ばさばさと羽音をさせて一羽のカモメが降りて私の肩に止まった。カモメはクカーとひと鳴きするやいなや、私の頭を小突きだした。

「あだっ、あだだだっ。ちょ、やめてマジで。すんません、うるさくしてすんませんッ」

 手を振り回しながらカモメと格闘する私を、ガープは生暖かい眼差しで見守っていた。

「ちょ、ヤメ! その眼ムカつく! つーか、助けて下さい中将ぉおお!」

 そこでようやく、ガープがしっしと片手でカモメを追い払った。

 突然の来襲から解放された私は、上体から崩れ落ちるように地面に膝と手をついて項垂れる。

 ちくしょー、あのカモメいつか焼き鳥にして喰ってやる。

 どうでもいい報復を心に誓って、はたと本題を思いだして青ざめた。思い出したところで、すかさずガープが止めを刺す。

「お前に拒否権はないぞ。断るなら重りをつけたままグランドラインのど真ん中に沈めて、お前のアレやコレや、あんなみっともないことを全部暴露してやるから覚悟せい」

「ナニそれ鬼畜! ってか犯罪だから! 後半特にやっちゃらめぇええ!!」

 涙目で頭を抱えて叫哭する私をよそに、ガープは大変イイ笑顔で輝いていた。

 なんだか視界が遠くてぼやけている。

 そうだ、インペルダウンに行こう。

 ピクニックに行くかのような軽さで、完全に現実逃避としか言いようのない逃亡を思い立つが、沈められる場所が海か牢かに代わったところで、そんな些細な問題は気にせずにガープは嬉々として赤裸々に、私のアレやコレやあんなみっともない姿を酒の肴にしてみせるだろう。

 いや、今でも十分醜態を晒しているのだけれど。

 

 というか子ども。よりにもよって子育てときたものだ。

 ここまで明らかな人選ミスもない。自分だって向いてないことぐらい分かる。

 いや、別に子ども嫌いという訳ではない。しかし、これは子どもがどうという問題ではないのだ。子どもではなく子犬だとしても同じ。つまりは、

「こ、子どもどころか子犬、いや小鳥にさえ懐かれたことがないってのにぃい」

「相変わらず、不憫な人生を送っとるな」

 だと思うのなら、巻き込まないでくださいと言う気力は残されていなかった。

 そりゃ、これから自由に動こうと思えば自由に動ける。監視もないのだから、犯罪に手を染めようが何しようが、バレなければ問題ない。

 それは勿論、バレなければというのが前提の話であり、もしバレれば今度こそ酌量の余地はない。

 くらり、と今度は視界が歪んだ。

「が、ガープ……、あんたそれ本気で言ってるんだよな。どういう意味か分かってるんだよな」

「本気も本気、大真面目じゃ」

 歴戦の英雄の眼は、波紋ひとつ立たず静かだった。

 先ほどまでの言動に反し、あまりにも静かで、それが確かに覚悟を決めて、私の元を訪れたのだということを如実に表していた。

 どうしてあんたが。そう戦慄さえ覚えるほど、ガープの決意は崩れそうにはなかった。

 私に譲れないものがあるように、この男にも信念があるのだということを思い知らされる。私の掲げる正義と、この男の掲げる正義は、どうしてこうも違うのだろうか、と。

 それは決して白服と黒服という違いだからではない。それこそ、生きている世界が違うのだと囁かれているようだった。

「生き残れると思ってるのか?」

「そのために守るんじゃろうが。お前と、わしで」

 あ、そこは手伝ってくれるんだ。と思ったが、そんな一筋の光明はこの際あまり意味がないことに気付く。

 待て私、騙されるな。

「お前は1年以上拘束されとったから知らんかもしれんが、ロジャーは一味を解散してから南の海(サウスブルー)のバテリラという街で女と暮らしとる姿を目撃されとる」

「へ、へぇー。あの男がねぇ……」

 思いもよらない事実に、衝撃というより呆然としてしまう。どこか感慨深くさえもある。

 所詮は人の子。海賊王という烙印を押されたとはいえ、人並みの幸せを求めなかった訳ではなかったのか。そう思うと、あの男が何を感じ、何を望んで最期を迎えたのか、余計に分からなくなってしまう。

 何だか狐につままれた気分だ。

「この情報はまだ上にはいっとらんが、それも時間の問題だ。今政府はロジャー海賊団に関わる者全員を犯罪者として捕えようと動いておる」

 先回りして、その女と子どもを見つけなければ手が出せなくなる、ということか。

 無茶ぶりも良いところだ。たとえ無事に見つけ出し、表の世に隠し育てることができたとしても、大人になったその子どもをどうするというのだ。市井に紛れて暮らさせ一生を終えさせるのか。それこそあの男の血を受け継ぐ子どもなぞ、何をしでかすか分かったものではないのに。

 なにより、そんな血を受け継いだ子どもを、私に、この私に教育させようだなんて狂気の沙汰としか思えない。政府の黒犬たるこの私に、だ。

「言っておくが、私は私でしか成りえないぞ。それでも私に赤子を育てろというのか」

「ロジャーがお前に託すと言うんだ。それで間違いはないんじゃろ」

 当然のごとく紡がれた言葉に絶句する。

 

 ああ、――どうして。

 

 あの男に出遭ったのは、偶然と言う名の事故だと思っていた。

 記憶を抹消したいほど不本意な事故の結果だ。なのにどうして、こいつらは同じことを言うのだろう。当たり前の顔をして「間違いはない」なんて言ってのけるのだろうか。

 なんてひどい。身もふたもなく喚いて泣き出してしまいたい衝動に駆られるほど、本当にひどい言葉だと思った。

 だけど、いくらごまかしても、確かに私は自分で道を選んだのだから、彼らをなじるのはお門違いだ。そう、私はいつだって差し出された手を自分の意思で掴んだのだ。全て自業自得。これも求めたものに対する報いなのかもしれない。

 

『生きるも死ぬも、すべては己の望むまま』

 パキン、と何かが割れる音がした。

(あ……、)

 脳裏に横切った記憶には覚えがなかった。でも、その声は私のよく知る人の声だった。

『過去はいつでもお前を見ている。いつだって振り返ればお前の歩んだ道がある』

 パキ、パキン。と殻が剥がれ、ほんの少しだけ中身を覗かせる。しかしそれで十分だった。とん、と背中を押された気がした。と同時に、ふっと肩の力が抜ける。

 

 なんだ。答えは始めから私の中にあったのか。

「――分かった。その伝言、受けるよ」

 気が付けば言葉はするりと口をついて出ていた。

 こんなに自分の中が、波紋ひとつ立たずに澄んでいるなんて、ずいぶん久しぶりだった。鏡面のようにしんと静まり返っている。そのくせあと一滴でも落とされれば、溢れ出してしまいそうだった。

 いいだろう、我々は共犯者だ。

 乗りかかった船には沈むまで付き合うだけ。どこへ向かって進路を取っているかは風だけが知っている。それでいい、舵なんて必要ないから。

「何だガープ、意外そうな顔だな」

 静かに笑ってみせた私の言葉に、何とも言えない顔でガープは固まっている。

「いや、正直お前は子どものことなど切り捨てると思っとった。どこへも行かないと言うお前に、この伝言を聞かせても決心は揺らがんだろうとな」

 あんたが無理にでも言わせたんだろうが、とは内心思ったが、苦笑を零すだけにしておく。

 きっと、この伝言があの男からでなければ、私は子どものことなど気にも留めなかった。

 私にとって大切なことは一つだけだ。たった一人だけだった。でも、二人目を見つけてしまったのだから、大切なことが二つに増えても仕方ない。たとえそれらが、決して相容れないものだとしても、手放すことは出来なかった。

「きっと私はいつまでも未来に夢見る人間にはなれない。これからも過去に縋って生きていくんだろうさ」

 誰がなんと言おうと、臆病に嗤って、卑屈に哂ってやる。

 そうやって今まで歩んできた。矛盾と言うバグを抱えながら生きてきたんだ。今更そのバグが、一つ二つ増えたところで変わらない。

 吹っ切れたように、けらけらと笑ってみせると、

「おいていかれるのは慣れている」と、

 そう言って、淡い微笑はそのままにひしと男の眼を見据えた。

 

 老いて、逝かれるのは。

 

「テミス、」男の静かな声が響いた。

 その声色はまるで悼むように聞こえた。私は黙って首をふる。

「誰も死ぬまでは幸福でない」

 だが、人は言う。生きる限り希望を持つことができると。

「今日この日を忘れるなガープ、我々は共犯者であって共謀者ではない」

 そう、我々三人、立場は違えど、一つの未来を求めた共犯者だ。

「――賽は投げられた」

 流されるわけじゃない。約束した、ただ歴史に流されるのはもうやめにすると。だから、後は覚悟を決めるだけで良かったのだ。全てを失う覚悟を。

 私の告白を、そして懺悔を黙って聞いていたガープは、首を振るようにして重い息をはきだすと、苦々しく呟いた。

「わしはお前に取り返しのつかないことをしたのかもしれん」

「そんなの、今更だろ」

 へらり、と笑って強がってみせる。

 怖い訳じゃない、誰だって何かを失うのは怖い。

 いつか時が来たとき、私は耐えられるだろうか。全てを失って私は私でいられるだろうか。分からない。分からないけれど、始まってもいないことを恐れるのはもうやめよう。終わりがこないのなら、いつまでも足掻くしかないのだから。

 重苦しい空気を払拭するように、手足を思いっきり伸ばし気持ちよく伸びをすると、ぱたりと大の字に寝っ転がった。

 なんだか今日はこんな空気の繰り返しばかりだ。とてもじゃないが似合わない。よりにもよって相手があのガープなんだから。慣れないことをして疲れた。

 空にはカモメが浮いている。

 美味しそうだと思った私は、決して悪くないはずだ。

「あー、そうそう。どこへも行きたくないことは事実だけどね。あんたも私の体質は知ってるだろ?」

 体質というか、この場合、性質に近いのだけれど。

 行儀悪く寝たまま、視線だけでガープを見上げると、逆光が眩しかった。

 暗に子育てはしても良いが、再び船に乗り続ける気はないと告げると、ガープはしれっと肯定した。

「不幸体質のことならよく分かっとる」

「その言い方はヤメロ!」

 思わず叫ぶと、やや呆れた声が降ってくる。

「似たようなものだろうが」

 どこが! とは思うものの、全く身に覚えがないとは言えないので、うぐぐと声にならない主張を洩らす。

 そうこうしているうちに、ガープは悪びれもせずに、身に覚えの数々を並べたてだした。

「海を渡れば十中八九の割合で乗っている船が沈没し、海を泳げば泳げるのに溺れ、山を歩けば遭難する。生物という生物には嫌われ襲われ、あげくの果てには、何もない所で転ぶのが趣味ときたもんじゃ」

「趣味じゃねぇよ! 不可抗力だ!」

 バシバシと地面を叩いて抗議する。それも最後の部分だけしか訂正できないのが悲しい事実だ。

 いつだったか誰かに、呪われた不幸体質と揶揄された覚えがある。もちろん爆笑というオマケ付きで。

「よくそれで役人なんぞやってられるな」

「外に出なけりゃ被害は少ないから良いんだよ!」

「なるほど、それでいつもは引きこもっとるのか。お前の周りに及ぼす被害は天災と変わらんからな」

「もうマジで、ほっとけよぉッ!」

 いい加減、コンプレックスを刺激するのはやめてほしい。涙腺が緩んできた。

 しかし大人げない男は、容赦という言葉を知らなかった。

「子どもが無事に育つといいな」

「それこそあたしが知るかっ!」

 だから最初から言ってるじゃん。人選ミスだって……。

 いい加減もう憤る気力もないが、いつまでも生ぬるい表情で地面に懐いている訳にはいかない。ふふ、と虚ろに嗤い声を洩らしてゆらりと立ち上がる。

 こうなったら、何がなんでも立派に育てて、見返してやろうじゃないか。

 

 リストラされて、晴れてニート。

 なので、ちょっと子育てしようと思います。

 

「あ、あは、あははっ……。産休だと思ってやんよッ」

 今にも溢れそうな涙もそのままに、仁王立ちして天に向かってポーズを決める私は、さぞかし頭の痛い子だろう。

 こういうことをするから、ガープに恥ずかしい話のネタが増えていくのだとは分かっていても、やらずにはいられなかった。

 今夜はヤケ酒しよう。酒と焼き鳥があれば満足だ。いつもは私の酒に付き合うのを嫌がるガープも、今日ばかりは逃がさん。

 はた迷惑な決意を終えると、私はがしりとガープの足元をホールドした。ぬるい笑みを浮かべて見上げる。今自分がどんな顔をしているかは考えたくない。

 何を感じたのか、ガープが私を引きはがそうと仰け反る。

 だが、そうやすやすと逃がしてたまるものか。堕ちる時は一緒、そう言ったのはこの男だ。

 冷や汗さえ浮かべて青くなるガープをうっすらと嗤いながら、私は地を這うような声色で言った。

「つーかなぁ、あたしを外に連れ出すならあんたの船に乗っけろよ」

 英雄が絶句した。

 こいつ馬鹿だろ。馬鹿なんだな。

「ふ、ふははは。南の海に着くまでに生き残れると良いなぁ。あんたもあんたの大事な部隊もな!」

「ちょ、ちょっと待てテミス。お前は政府専用の船で……」

「英雄の船に乗れるなんて感激だなぁ、ふははは! 後で酒に付き合えよガープ!」

「待て、待たんかテミスー!」

 悪役もかくや、という見事な高笑いを上げながら裸足で走り去る私に、港のカモメたちが群がって来たのは、一体何がいけなかったのか。

 必死でカモメを振り切ったころには、背後に受けていたガープの声は聞こえなくなっていた。

 

 

 

 再びこの街を、《聖地》マリージョアを出る時が来た。

 これもあんたの思惑通りだったんだろうか。

 今やいくら問いかけても、応えが返ってくることはない。あの男は死んだのだ。

「やっと見つけたと思ったのに。お前で二人目だったんだ。あたしの声を聞くことができたのは……。そうだろ、――ゴール・D・ロジャー」

 もう二度と会うこともなければ、共に語り合うこともない。

 だけど、彼が残した『今』はずっと先まで続いている。

 

 さぁ――、未来を見に行こうか。

 

 

 

 


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