海は、仮に隠れて見えなくとも、奇妙に人の感覚に迫ってくる。
潮の香りを運ぶ海風が吹き抜けずとも、寄せ返す波音が届かずとも、海は常に私の傍に在った。それは、手の届かない空とはまた違った在り方である。
晴れならば晴れなりの、曇りならば曇りなりの、雨ならば雨なりの、夜ならば夜なりの、その時々の空の色を海は映す。一瞬たりとも同じではない世界。それら数え切れぬほどの光景が、私の身体に深く刻まれている。
一歩、一歩、数えるように白い階段を登りながら、私は
あれから十年。まだ私はあの海の光景を忘れられずにいる。
どれほど登っただろうか。私はぴたりと足を止め、おもむろに後ろを振り返った。
眼下には、巨大な根の上を這って一直線にすうっと伸びる白い階段。視線を上げれば、白く霞む空気を背景に、樹々の間から差し込む細い光の筋。その幾筋もの光の間をゆっくりと空へ昇るシャボン玉の数々。そして咽喉を晒すごとく天を仰げば、空をすっぽりと覆い隠す深緑の樹葉が己の頭上より遥か高くに存在し、まるで小さな妖精になったように思える。
しっとりとした空気が辺りを包み込んでいて、私は思わず深く息を吸い込んだ。土の匂いはしない。しんと静まり返った空気は独特の樹の匂いに満ちていた。一息吐いて気を取り直し、疲れた足を引きずる様に持ち上げ、再び階段を登り始める。
ようやく白い階段を登りきると、そこには島特有の丸い形を取り入れた建物がぽつんと建っていた。
店の扉を開けるとカランカランと小さなドアベルが鳴った。
「いらっしゃ――、」
カウンターにいた女性が振り返ると同時に、目を見開いて言葉を失う。その姿に苦笑しながら、私は「やあ」と手を挙げて軽い挨拶をした。
「貴女は、テミス……」
「久しぶりだね、シャッキー」
名前を覚えていてくれた事に安堵を覚えながら、私はこの酒場の店主である彼女を迷わず愛称で呼んだ。
シャッキーはすぐに衝撃から立ち直ると、まるで旧友が訪ねて来たかのように、にこやかに応えてみせた。そこに警戒する素振りを欠片も見せないのは流石としか言えない。
「ええ、何十年ぶりかしら。貴女って本当に変わらないのね」
「それシャッキーに言われたくないなぁ」
そう言いながら私は店の奥まで進み、カウンターの椅子を引いて座った。
店内には他に客もおらず静かだった。吹き抜けの
「何にする?」
カウンター越しに立ち、シャッキーは訊ねた。
彼女の背後に並ぶ大小さまざまな酒瓶を一瞥して私は訊ね返す。
「ぼったくらない?」
「ぼったくるわ」
「じゃあ水で」
「水もぼったくるわ」
「じゃあウイスキーで」
「了解」
そう言ってシャッキーは、くるりと私に背を向けると、迷う事無く棚の中から黒いラベルの酒瓶と硝子杯を手に取り、「ロック? ストレート?」と訊ねた。私は「ロック」と答え、氷を取り出したシャッキーの鮮やかな手際をカウンター越しに黙って眺める。
アイスピックが氷を削る音を店に響かせながら、シャッキーは言った。
「何しに来たの、って聞くまでもないわね。残念だけど、今はレイさんいないわよ」
「待ってたら帰ってくる感じ?」
目的の人物が店の中にいないことは入店する前から気づいていた。しかし、シャッキーの言葉にはそれ以上の意味が含まれているような気配があった。
「一度出て行くとしばらくは帰ってこないわ。今回はもう半年近くなるし」
「ああ、成程。ギャンブルか」
私が呆れて呟くと、シャッキーは肩を竦めてそれに応えた。
「レイリーが戻るまで待つ訳にもいかないし。うーん、どうしようかなぁ」
当てが外れたことに残念がるほどの事でもないし、そうかと言ってすぐに帰るには面白味がない。
カランと硝子杯の中に氷塊を入れる音がしてウイスキーが注がれる。カラカラと音を立てて杯をまわしてから、硝子杯をカウンターに置いてシャッキーは言った。
「彼、この諸島から出たりはしないから、賭博場か酒場を回れば見つかるかもしれないわよ」
「いや、まず無理だと思う」
私は硝子杯を受け取りながらそう応えた。
「どうしてそう思うの?」
シャッキーが首を傾げて訊ねる。
「お互い運が悪いから、こういう時はとことん噛み合わない。無駄骨に終わるだけだよ」
「なるほど」
可笑しそうに笑いながらシャッキーは頷いた。
硝子杯にそっと口づけて、僅かばかりの酒を口に含む。これ一杯でどれだけの値段なんだろうなと思いながら飲む酒は、味の良し悪しが分からない私でも美味しく思えてくるから不思議だ。美味い酒が飲みたい時はシャッキーのお店が一番なのかもしれない。
私が舐める様にちびちびと酒を飲んでいるさまを眺めながら、「ところで、」とシャッキーは言った。
「貴女、こんな所にいて良いの?」
「バレなきゃ問題ない。バレなきゃ」
私は反射的に目をそらして答えた。
息抜きという名の人権が私にも必要だと思うんだ。大丈夫、メモは残して来たから。多分、きっと大丈夫、じゃないが大丈夫と思い込むしかない。まぁ、帰ったら間違いなく副官長に監禁される。書類の山が乱立する執務室に。つまるところ今の私は脱走犯。
シャッキーは呆れた目で私を見た。
「十年ほど前に、貴女がマリージョアに戻ったという話は聞いていたけど」
「ちょっと、それどこ情報? どこ情報なのさ」
思いがけず大きくなった声で私は言った。
「ひみつよ」
そう言ってシャッキーは笑った。
私は硝子杯に浮かんだ水滴に頬ずりするようにしがみつき、深いため息を吐いた。
実は情報屋をやっている、と言われても信じる程度には彼女の情報ルートは読めない。政府の諜報員でも十分やっていけそうである。しかし潜入には向いてないかもしれない。どうにも目立つ女性であるし。
項垂れる私を見下ろしながらシャッキーはなおも問いかける。
「謹慎中はどこで何をしてたの?」
「やだぁ、どうせそれも知ってる癖にぃー」
だらだらと上体だけ寝転がりながら間延びした声で私がそうはぐらかす。
すると、「ふふふ」とシャッキーは意味深に笑った。
「え、いやマジで? 本当に知ってるの?」
勢いよく起き上がりシャッキーに詰め寄った。シャッキーは私を見ながら笑っているだけで何も答えない。冷や汗が背をつたって落ちていく感覚にぞっとする。
むしろ今更なのかもしれない。どこから漏れてもおかしくなかった。特に最初の息子が海で名をあげるようになってからは。
「
「気を付けるわ」
シャッキーはやはり笑いながら、それだけを答えた。再びぐでんとカウンターと仲良くなった私を見るシャッキーの目には複雑な色が浮かんでいた。
「それで、どうするの? レイさんに何か伝言があるなら聞くけど」
シャッキーの言葉を私は首を横に振って答えた。
「いや、別にそれほどの事でもないよ。会えなかったら会えなかったで構わないと思っていたし、話さなければならない内容でもない。ただちょっと、仕事の愚痴とか聞いてもらいたかっただけ」
「代わりに聞いてあげようか?」
「情報絞り取られそうだから遠慮しておく」
「残念ね」
軽い口調で言うシャッキーに私は苦笑を返し、それから少し思案した。
「そうだな。代わりにこれを置いて行くよ」
そう言って私は、スラックスのポケットから折り畳んだ手配書を三枚出してカウンターの上に開いて置いた。
「あら、これって……」
手配書の顔と名前を見たシャッキーが目を見開く。
じっと三枚の写真を見つめる彼女の視線に、私は急に居た堪れない心地になり、常より小さな声で言った。
「うん。レイリーが戻ってきたら見せておいて」
「分かったわ」
シャッキーは大切なものを受け取ったとでも言うように、神妙な面持ちで頷いてみせた。私は軽く肩を竦め、それから手にある硝子杯をじっと見つめた。杯の表面に付いた水滴がつぅと伝い落ちる。
「不思議な感覚だなぁ」と、私は呟いた。
その言葉にシャッキーが私を注視したのが気配で分かった。
「なんかさ、何十年も前のことが昨日のような気もするし、遥か昔のことだったような気もする」
「そうね。時間の感覚がどんどん曖昧になっていくような、そんな感覚は私にも分かるわ」
私の言葉にシャッキーは静かな声で同意した。
シャッキーと私は殊更交流があった訳ではない。それこそレイリーを介しての知人程度の認識であれば上等な方で、良くて他人、悪くて敵、そんな関係でしかなかったのに、今まさに二人だけで会話している状態がとても不思議だった。
「懐かしい、ていうのとは少し違うんだけど。何なんだろうねぇ」
時々、自分が自分でない何者かになったような、そんな錯覚に陥る。まるで夢を見ているような、そんなふわふわとした気持ちになることもあれば、今までの全てが夢だったような、そんな抗いがたい絶望感にも襲われる。
「困るんだよな」
そう言って、私は手の中にある硝子杯をぐっと呷った。カランと飲み干した杯の中で残った氷が音を立てて揺れる。私はそれ以上何も言わずに黙り込んだ。
シャッキーはそんな私を何も言わずに見ていた。
「そろそろ行くね」
「ええ」
しばらくの沈黙の後、私はシャッキーに告げた。
空になった硝子杯をカウンターに置いたまま立ち上がる。ぎょっとするほど高額だった支払いを終えて(この時ほど職場に感謝したことはない)、店の扉に手をかけたところで背に声をかけられる。
「貴女の幸運を祈るわ」シャッキーは言った。
「それは無駄じゃない?」私は笑って応えた。
カランとドアベルの音をひとつ響かせて閉まった扉に、次にこの店を訪れるのは何時になるだろうかと考える。これが最初で最後かもしれない。出会いと別れを何度もくり返してきたけれど、きっと慣れることはついぞないだろうな。そう思いながら白い階段を淡々と降りていく。
さて、この後は何処へ行こうか。
せっかく未来の自分の自由を犠牲に脱走してきたのだから、しばらく現実逃避という名の休暇を楽しみたい。このシャボンディ諸島を観光するのもいいけれど、ここは聖地に近すぎる。どうせならもう少し足を延ばしてプッチとかサン・ファルドに行ってみようか。
そんな風に、今後の予定を考えながらヤルキマン・マングローブの巨大な根の上をのんびりと歩いていた。それを油断していたと言われればそれまでなのだけれど、いつの間にか後をつけられていた。
店を出た時にはいなかった。ならばシャッキーと会っていたのは見られていないはずだ。追手にしては副官長じゃない時点で違うとしても嫌なタイミングだった。
撒けるかどうか考えながら早足でいくつかの浮島を越えて、人気のない根の上で立ち止まる。それを合図に、黒いフードを被った三人が樹の陰から現れた。
正面に一人と斜め後ろに一人ずつ。囲まれている。殺気立っている様子ではないが、慎重にこちらを伺う様子は随分と警戒されているようだった。顔が見えないようにフードを深く被っている姿は単なる賊には見えない、となると。
「革命軍か」ぼそりと私は呟いた。
全く、なんて間が悪いんだか。なにも脱走して一人でいるところを狙わなくたっていいじゃないか。いつもはちゃんと働いてんだから。今回はたまたまだから。
「世界政府特殊顧問のテミスだな」
正面にいる者が問いかけてくる。樹々の間に響いたのは若い青年の声だった。
私は毅然とした声で言った。
「違います」
「嘘つけ!」
普通に怒られた。他人のふりして見逃してもらう作戦は失敗だったようだ。何故ばれたし。
今の私は世界政府役人の目印でもある黒いスーツを脱いで普通の格好をしている。顔が広く知れ渡っている訳ではないから、きっと背格好や目と髪の色で私と判断されたのだろう。知り合いが革命軍のリーダーだと要らない苦労が増える。
「お前には迂闊に手を出すなと言われてはいるが、マリージョアから出てこない最重要人物がこんな所をほっつき歩いてる千載一遇の機会を逃すわけにはいかんのでな」
今度は右斜め後ろにいる体格の大きい者が言った。こちらは大人の男の声。
残る一人は身体をすっぽりと覆った服装で分かりにくいが、恐らく体格的に女性だと思われる。そうなると、この三人は諜報班か工作班か。どちらにしても腕に覚えがないということはないだろう。なにせ政府のお膝元で活動しているぐらいなのだから。
嫌だなぁ、と表面上は平静を装いながらも内心嘆く。私は内勤が主で、戦闘向けじゃないんだ。本当に勘弁してほしい。
私の心情なんてお構いなしに、正面の青年が冷徹な声で言う。
「アンタに恨みはないが、政府を、この世界を変えるために、」
そう言って、青年は頭に被ったローブをぱさりと脱ぎ落とした。鋭い視線が私を貫く。彼の瞳はどこまでも真っ直ぐだった。
その視線に私は思わず目を見開いた。ぐらりと世界が揺れる。
「――死んでもらうぜ」
そこに居たのは、成長した息子の一人だった。