「やぁ、久しぶりだねぇ。ドラゴン」
音もなく背後に立った男に、私は後ろを振り向きもせずに声をかけた。
「相変わらずだな、テミス」
「まぁね」
男は静かな声で私の名を呼んだ。
私は屋上の縁に腰かけたまま、軽い声で応える。
夜なのに生暖かい風が髪を躍らせている。何となく片手で髪を押さえながら、風の匂いに顔を顰めそうになるのを耐えた。
今夜は月なんて見えない。ちっとも好い夜じゃないが、こうして端町にまで繰り出すぐらいには私も落ち着かないのだろうと心の裡で一人勝手に呆れてしまう。
「お前、ここで何をしている」と、男は問うた。
「何って、見てのとおりだけど」と、私は答えた。
だが男は私の答えがお気に召さなかったようで、俄に苛立ちを募らせたのが感じられた。
これがダダンだったら間違いなく舌打ちをしていただろう。この男ならきっと眉間に皺を寄せて険しい顔をしているに違いない。そう背後の男の表情を想像して、こっそりと忍び笑う。
風が吹く。焼け焦げた匂いが風に乗ってここまで届いてくる。何もかもを焼き尽し、あらゆるモノが入り混じった強烈な異臭だ。うち捨てられたゴミが、腐ったナマモノが、生きているヒトが、そして大地が焼き尽くされ、気化されていく。
端町を囲む高い壁の向こうは朱く染まり、天まで焼き尽くさんと猛火を轟かせていた。そこから黒々とうねる様に立ち昇る噴煙。そして、焦げた匂いと共に微かに届く断末魔。あの壁一枚向こうに地獄はある。
男は問いかける。
「助けようとは思わないのか」
「助ける? なぜ?」
私は後ろを仰ぐようにして男を見上げ、答えた。
「だって、これはこの国の決定だよ」
黒い影が揺れた。煌々と燃え盛る炎が二人の足元に闇を忍ばせる。
しばらくの静寂の後に、猶も男は問う。
「世界政府は何をしている」
「
皮肉めいた言葉にこちらも同じく皮肉を返す。
男はその言葉を鼻で笑った。ローブの下から黒い目がこちらを見下ろしている。私も口の片端をあげて笑ってみせた。
互いに視線を外すこともなく、壁の向こう側の喧騒と風の音が私たちの沈黙を埋めていた。
牽制あるいは挑発なのかもしれない。それだけの敵意がお互いの間にあった。男はそれを隠そうともしなかったし、私もそれに真っ向から応じてみせた。
先に口を開いたのは、やはり男だった。
「……この十数年で世界は変わった。各地で綻びが出始めている」
私の様子を窺うような慎重な言葉だった。
まどろっこしいのは嫌いだ。こういう言い回しを聞くと、あのジジイと似たもの親子だったんだなと思い知らされる。
そしてまた、共犯者二人のうち別の男も思い起こしながら、しみじみと私は答えた。
「まぁ、アイツが死んで海が荒れたしねぇ」
「違う。ロジャーの死より前だ」
低く力強い声で男は断言した。そして、小さく唸るように、その言葉を口にする。
「お前がマリージョアを離れた時から、この世界は少しずつ均衡を失っている」
私は軽く肩をすくめ、男の言葉に沈黙をもって応えた。
「お前は一体、何がしたい」
「別にぃ~」
私はへらりと笑ってはぐらかした。
男のすっぽりと頭から身体を覆ったローブの裾が風にはためいている。
私は腰かけている屋上の縁から足をぶらぶらと揺らした。それから首をもたげ、もう一度男の顔を覗き込んだ。
眉間の皺をさらに深くし、先ほどまでよりも険の増した目つきで男は言った。
「お前はこの世界を壊したいのか」
その問いが思いがけないものであったから、私は言葉を詰まらせた。
そして、数瞬おいて腹の底から大笑いした。身体を折り曲げて転げ回りたいのを耐え、それでも笑い声は押さえきれずに周囲に響き、朱色の夜空にかき消された。
「アハハハ!! アンタ、笑いのセンスあるよ。あのジジイよりよっぽど!」
「ならば何故、何もしない」
「なんかさぁー、勘違いしてるんじゃない?」
男を見上げながら、私は口の端を上げて言った。
「『私』とはそういうものだよ」
男の眼が揺れたのを見つけて、うっそりと嗤う。
そうやって夜空へと伸びる猛火が、男の陰影を浮かび上がらせているのを黙って眺めていた。
やがて男は静かな声で言った。
「それが世界の正義か、テミス」
「正義? 正義だって……? 馬鹿だなぁ。そんなもの世界のどこにも存在しないのに」
「お前がそれを言うのか」
「私はそういうのじゃないよ」
きっぱりと否定する。やる瀬ない気持ちが心の裡に去来した。
「正義なんてものはさ、政府にも権力にも、ましてや私の手の内にもありはしない。この世のどこを探したって、そんなものは見つかりやしないんだよ」
そして私はささやくように言った。
「それはきっと、自分の中にしかないもので。大切なのは、己の正義を裏切らないことじゃないかな」
男は目を細めた。そして、何かを言いあぐねるように微かに唇を震わせ、すぐに口元を引き結んだ。男は複雑そうな面持ちでしばらく思案し、それからかぶりを振って口を開いた。
「質問を変える」
そう言って、男はまだ私に問う。
眉を顰めながらも私はこくりと頷いてみせた。
「お前は何を待っている」
「夜明けだよ」
「夜明けだと?」
「そうだよ。夜明けを待ってるんだ」
「それこそ馬鹿げている」
私の言葉に男は静かに言った。
「夜明けが見たいなら東へ行けばいい。お前がやっているのは西へと夕日を追いかけ続けているようなものだ」
私は絶句した。
どこまでも露骨な男の言葉に私は驚き、呆気にとられ、それから動揺したことを必死に隠した。隠さねばならなかった。
「……わぁーお。ご忠告どーも」
私はほほ笑んだ。どうにか、笑みを浮かべた。
その笑みを見た男はとうとう諦めた表情でため息を吐き、私を見据えながら言った。
「なるほどな。よく、わかった……。世界政府というものが何なのか」
冷たく突き放すような声で男は言う。
私は何か言おうと口を開いたが、何も言葉を紡ぐことはなかった。うっすらと開いた口をゆっくりと閉じて、笑ったまま男の言葉を受け入れた。
「お前がいなくならない限り、世界は何も変わらない」
そう言って、男は静かに私の言葉を待った。
私はすぐに反駁しなかった。しばらく黙ったまま、うっすらとほほ笑んでいた。それからふぅと小さなため息を吐いて、何となしに屋上の縁をカリカリと指でひっかきながら壁向こうの燎原の火に視線を向ける。赤々とした夜空が眩しくて、目を細めた。
「……無駄だよ。私がいてもいなくても関係ない」
そう私は応えた。
「大体、権力を持っているのは天竜人だし、実権を握っているのは五老星だ。私なんて、ただのしがない中間管理職だって」
「俺にはお前がわざとそうなるように仕向けているように見える。世界の目を、不満を、憎しみを、恨みを、悪意を……。そんな矢印をいくつも書き加えて、一定の方向へと流している。そうやって世界をコントロールし続けているんだろう」
そうだろう、と訊ねている口調なのに、確信を滲ませたその声は反論を認める気などさらさらなかった。
私はその言葉に応えなかった。それが肯定として男に捉えられただろうことは分かっていたが、そんなことは構いやしないとさえ思っていた。
男は私を見据えながら淡々と言葉を続ける。
「そのお前が、世界のコントロールを手放した」
「謹慎中なんだって」
「それも全部、仕組んだことだろう?」
「まさか。まるで何もかもが私の掌の上みたいな言い方をするんだな」
「違うとでも」
「違うに決まってるだろ」
私はきっぱりと否定して、「そんなの、カミサマにだってできやしないよ」と吐き捨てた。
全く以って、そうなのだ。何一つ思い通りになんてなりやしない。そもそも一番上のボタンを掛け違えてしまったのだから、何をどう足掻いても私が最初に願ったようにはならないし、もはやその願いさえ既に願いと呼べるものではなくなってしまった。
誰もみな総じて、思い通りに世界は動かない。どうして男はそんな簡単なことが分からないのか。
私は知らず知らずのうちに苛立っていた。理解されたいなんて思ったことはないけど、理解してくれた人を知っているから、だから余計に何故こんな不毛な会話をしなければならないのかと思う。
私はどうにも投げやりな心持ちになって、激しく燃え盛る壁の向こうをちらりと見やって男に問いかけた。
「行かなくていいの?」
「行かせてくれるのか」
「今はね」
「そうか」
お互いにそう言い合いながら分かっていた。次に会う時は敵同士だと。
吹き荒れる風は相変わらず生ぬるくて嫌な匂いがする。この夜が終われば朝はちゃんと来るのだろうか。こんなに炎が燃え盛っていては、夜が煮詰まってしまうのではないか。そして、何もかもが鎮まり還り、とろりとした闇がゆっくりとかき混ざりながら世界は終わっていくのだ。
男は顔を歪め、「テミス」と私の名を呼んで言った。
「お前は、この世の病根そのものだ」
私はその言葉にとびっきりの笑顔で答えた。
「そうかもね」
さしもの男も一瞬、返す言葉を失った。
そして男は、それ以上の言葉が無意味だと悟ったのか、一度すっと息を吸い込み、それから静かに深い息を吐いた。それはある種の決意に満ちた行為だった。その仕草に私はどこか懐かしさを感じた。
男はゆっくりと壁の向こうを見上げ、自分に厳しく言い聞かせるような声で言った。
「いつの日か、俺は必ずこの世界を変えてみせる。お前がこの国を見捨てたように、世界もまたそうなるだろう。その前に、変えなければならない。お前を必要としない世界に」
男は至極静かで落ち着いていた。その眼は朱色の夜空を射抜いている。恐らく、いや間違いなく一から十まで本気で言っているのだろう。生半可なことを口にする男でないことは私も承知している。
だからこそ私も静かに目を伏せて男の言葉に聴き入った。少しも聞き漏らさないように。
「話は終わりだ」
男は案外と拘りもなさそうな声でそう言った。もはや私を見ようとはしなかった。私も目を伏せたまま小さく頷いた。
「じゃあな、テミス」
「じゃあね、ドラゴン」
そして、私たちは短い別れの言葉を口にし、男はローブを翻して去り、私はその場で腰かけたまま男を見送った。
呆気ない別れだった。概ね人との別れなんてそんなものだ。湿っぽいより断然こっちの方が私の性に合っている。それが殺伐とした別れであったとしても。
何だか今夜は無性に渇いていた。こんな時は喉を焼くような強い酒が飲みたい。それか煙草でも構わない。そうやって紛らわすことを覚えたのはいつの頃だったか。
それでも、いつまで経っても私は忘れることなどできないのだ。煤けた赤黒い大地の上でただ渇いてゆく苦しみを、臓腑に灼熱を落とし込んだかのような苦しみを、
もう一度壁の向こうを見上げると、夜空を朱く染める劫火は夕焼けの空のように見えた。
鮮烈な紅。沈みゆく太陽の最後の色。でも今夜は沈まない。きっと一晩中、紅蓮が空を彩るのだろう。
私は夜明けを待っているのに、夕闇でさえ上手く終わらせることができないのだ。
風は炎を巻き上げ、炎は風を呼び込む。互いを喰らい合うように勢いを増していくばかりの灼熱は、もはや人の手に負えるものではなかった。周囲の全てを焼き尽くし、燃やせるモノが無くなるまでただ待つしかない。
私はゆらりと立ち上がった。
屋上の縁に立つと、吹き荒れる熱風に煽られて少しくらりとする。一度眼を閉じて呼吸を落ち着け、それから静かに夜空を見上げた。
立ち昇る黒い煙はうねりながら天へと続く。途切れることなく空を覆い尽くさんばかりに。
あぁ、あの黒煙はまるで邪悪な者が焼かれた時の煙のようじゃないか。ならばあの煙は、世々限りなく立ち昇ることだろう。灰になった者が赦されるいつか