嫌な予感がする時は何か悪いことが起こる前兆だ。
それを虫の知らせと言う奴もいれば、第六感や経験則だと言うやつもいる。どれにしろ、人生そこそこ生きてりゃ一度や二度はそんなことがある。ましてや山賊なんて薄汚れた仕事ならば、それに命を助けられることもある。
朝からどうにも落ち着かなくて、口に銜えていた煙草を灰皿に力任せに押し付けた。まだ長さが残っていたそれは燻ったまま吸い殻の山の一部となった。それでも苛立ちは抑えられない。
「チッ、ガキ共はまだ帰ってこねェのかい」
機嫌の悪さを隠しもせずに声を荒立て、昨日の昼から姿を見せない居候の所在を問いかける。
近くにいたマグラが部屋の煙たさに手で掻き払いながら弱った声で言った。
「お頭、出て行って一晩ですぜ。二、三日帰ってこないこともよくあるじゃないですか」
「んなことは分かってんだよ」
問いかけにまともな答えが返ってくることなんて期待していないが、そんな当たり前のことにさえ苛立たしい。
「小娘はどうしてんだい」
今度は朝から姿を見かけない居候の所在を問いかける。
「見張り台にいますぜ。今日は風が強いってんのに座り込んで動かねぇ」
そう言ってマグラは呆れた顔で窓辺へと視線をやった。
風で揺れる戸が忙しなく音を立てている。洗濯物を干したら間違いなく飛んでいきそうな強風が薄白く霞んだ青空を駆け抜けていた。森は風が吹き荒んで騒がしいのに、獣一匹虫一匹姿を現さない。嫌な風だ。
小さくため息を吐いて煙草を取り出すと、紙箱の中はそれが最後の一本だった。それにまた苛立ちが増す。空になった箱を握りつぶして床に放り投げると、買い置きしている残りの箱数を頭の中で数えながら口に銜えた一本に火をつけた。
風はきっと明日まで吹き荒れるだろう。
***
夕暮れになって風は益々強まった。
西日で赤く染まった丘の上に立つと、体を押し上げるように風が吹き抜けていく。煙草の煙がかき消され、紫煙の匂いさえも残らない。目で追えるほど速い雲の動きを眺めていると、突如背後から声が聞こえた。
「私にも一本ちょーだい」
振り返るといつの間にかテミスが立っていた。こういう時には相変わらず足音も気配も何もない。黒いスーツを着て、まるで初めからそこに在ったかのように立っていた。
――全く、あたしの勘は外れやしない。
「おめェが勝手にちょろまかしてんの知ってんだからな」
「あははー、バレてるー」
あたしの隣まで来て片手を伸ばすので、仕方なしに一本弾き飛ばしてやる。それをテミスが口に銜えるのを横目にライターを取り出そうとすると、テミスはひらひらと手であたしを制した。
「あァ? 火は?」
「いらない。好きじゃないし」
「ッざけんな!! じゃあ何で吸ってんだよ!」
「背伸びしたいお年頃なんですぅー」
「くたばれッ!!」
くすくすと笑いながらテミスは煙草を唇で転がして遊んでいる。
口寂しいならキャンディーでも銜えていりゃいいのにと腹立たしく思いながら、無意識に噛み締めていた煙草を銜えなおして殊更ゆっくりとそれを吸う。
そうして夕暮れの空を眺めたまま、隣に気取られないよう紫煙と共に身体の力も吐き出していく。
「それで?」あたしが問いただすと、
「何が?」とテミスは問い返した。
「どうしたんだって聞いてんだよ。その恰好」
苛立ちが滲んだ声で再び問うと、あたしと同じように夕暮れの空を眺めていたテミスは「ああ、」と自分の姿を目線だけで見下ろした。黒いスーツに黒いネクタイ。見たことはないが知識としては知っている小娘の
テミスは銜えていた煙草を指で挟み取ると、「謹慎が終わったのさ」とこともなげに答えた。それから唇の端を吊り上げて、「ついに職場復帰できるんだよ」と滑稽なほど愉快気に言葉をつけ足した。
職場復帰どころか社会復帰だってままならないだろうに、この小娘は何を言っているのか。
あたしが胡乱な目をしたのが分かったのか、不満げな声でテミスは言った。
「ちょっと、今すごく失礼なこと考えただろ」
「まァ、
「ありがとう……?」
私の誤魔化しに対し、苦虫を噛み潰したような顔で礼を言うテミス。
馬鹿にされていることは分かっているだろうに、こんなところばかり律儀に返しやがる。
「で、ガキ共はどうすんだい」
「お別れだね」
さらりとした声でテミスは言う。
「お別れ? 何言ってんだ、そんな簡単な話じゃ――」
「家族ごっこはもうお終いだって言ってんの」
すぐには反応できなかったあたしは目線だけで隣を見た。
テミスはいつものように笑っていた。笑い方もロクに知らない癖にそれらしい顔で目を細めて笑っていた。
「何を考えてんだ」
咄嗟にあたしはそう問いかけた。だがテミスは答えない。
もとより何を考えているのか読めない奴だったが、今もやはり読めなかった。まるで空を掴むような、あるいは水を掴むような心地がした。そこに確かに存在するのにどう認識したらよいか分からない。
それでもあたしは腹の底から唸るように言葉を絞り出すしかなかった。
「おめェはどう逆立ちしたって母親らしくはなかったが……、それでも途中でガキ共を放り出すような奴じゃなかったはずだ」
テミスは夕闇が迫る空を眺めたまま黙っている。
「それともあたしの勘違いか」
そう言って、あたしも黙った。
強い風だけがあたしらの間をすり抜けていく。
幾ばくかの時を空けて、おもむろにテミスは口を開いた。
「まぁ、私もあの子たちは嫌いじゃないけどね」
そこで言葉を探すように切ったテミスは、先ほどよりも低く擦れた声でそっと続けた。
「……だからといって、いつまでも仲良く一緒にいられるって訳じゃない」
そう言ったテミスは夕闇を眺めているようで何も見ていなかった。ただ淡々と沈む日を眺めていた。
「おめェの言い分はわかった」
あたしは静かに頷いて、テミスに向き直った。
「だけどねェ、それとこれとは、話が別だッ!」
言葉尻を叩き付けるようなあたしの言葉に、テミスは微かに反応した。
だがそれに構わずあたしは利き腕を振りかぶり、「歯ァ喰いしばりなッ!!」そう叫んで、爪が食い込むほど握りしめた拳をテミスの横っ面に叩き込んだ。
鈍い音が弾け、腕全体に衝撃が走る。
振り抜いた拳ごとテミスは受け身もとらずに吹っ飛んで、丘の上を無様に転がった。
「ッたァア――!! 本気でなんて聞いてない!!」
がばりと上体だけを起こしながらテミスは叫んだ。
手で押さえた頬はみるみる赤く腫れあがり、口元には血が滲んでいる。これで叫べる元気があるならあと四、五発ほど入れようか、と拳を握りしめたままにじり寄るとテミスは青ざめた顔で黙った。
あたしはため息を吐いて頭を軽く振ると、いつの間にか短くなった煙草を手の内で握りつぶした。そして懐から煙草の箱を取り出しながら投げやりに言った。
「本気でやらなきゃ、後であたしがエースに殺されちまうよ」
「あ。やっぱバレてる?」
私があの子たちに会わないつもりなの、とテミスはへらりと笑って言った。
「おめェの行動パターンなんていつも同じじゃねェか」
立ち上がるつもりはないのか、テミスは胡坐をかき、衝撃で落した火のついていない煙草を銜えなおした。そして転がった拍子に黒いスーツについた草の切れ端や土をはたき落としながら心底嫌そうな声で言った。
「苦手なんだよ。見送るのも、見送られるのも」
「安心しな。あたしは見送ってなんざやらねェから」
取り出した新しい煙草を銜え、火をつけながら応えてやる。
するとテミスはからからと高らかに笑い声をあげた。それから、ようやくあたしの眼を真っ直ぐに見上げた。
「私、ダダンのことも嫌いじゃないよ」
「そうかい。あたしゃ、おめェが大っ嫌いだよ」
吐き捨てるように言うと、またテミスが笑った。
「素直じゃないねぇー」
よっ、と立ち上がったテミスは「ねぇ、ダダン」とあたしを呼んだ。だがその瞬間にカラスの鋭い鳴き声が遮り、それが思いのほか近く聞こえたものだからその方向に気を取られた。
「あの子たちのこと、よろしくね」
テミスの声がして視線を戻すと、もうテミスの姿形はどこにもなかった。
ただ、夕暮れに赤く染まった丘の上を風が力強く通り抜け、耳元で風がうねる音だけがいつまでも続く。
それだけだ。それ以外に何もなかった。
何の気配もない丘の上をしばし眺めて、あたしは肺の中の空気を全部出し尽くす勢いでため息を吐いた。
「……結局、あたしが全部責任もってガキ共を育てねェといけねェんじゃねーか」
そう一人呟いて、何もかもを押し付けた海軍の男の顔を思い浮かべながら、知り得る限りの暴言を浴びせた。
ガキ共に何て説明するかなんて今は考えたくもない。ただ確実に被るエースの怒りの余波を思うと、やはりもう七、八発ぐらい殴っておくんだったと後悔した。
いつかこうなる日が来る気はしていた。
それでも、その日はもっと後でもいいと思っていた。そのために
「さてと、まだ残ってる厄介ごとも何とかしねェとな」
小さく呟きながら、煙草を銜えなおす。
最後に耳に残ったテミスの声は少し寂し気で、それでもどこか暖かい声だった。
頼まれてしまったからには行かねばなるまい。残念ながら、朝からひしひしと押し寄せる悪い予感はまだ終わってはいないのだ。一度アジトに戻って手下共から情報を集めなければ。全くもってやってられない。
夕闇の空を振り返ると日はもう沈んでいた。
残り火のような赤い空までもがどこか忌々しく感じられる。これもそれも全部あの小娘と海軍の男の所為である。あの二人が何をしたいのかは知らないし、勝手にやってくれと思うが、こっちまで巻き込まれては堪らない。
踵を返してあたしはやっとの思いで歩き出した。