南から吹き込んでくる風が、窓枠のカーテンを泳がせている。
窓の向こうには干した大量の洗濯物。朝早くに片っ端から洗った戦果だ。ここ数日は小雨が続いていたから、今日ようやく片付いてスカッとした。
まだ太陽は昇り始めたばかり。昼時には早く、街に出かけるには中途半端な時間。
こんなことなら、トラを探しに岩場まで出かけたルフィとサボについて行くんだった。
あの辺りを縄張りにしている古参のトラは、この山の中でも一等デカくて強いが、なぜか絶対に人を襲わない。それをいいことに、ルフィはあのトラがお気に入りで、勝手に自分の仲間だと言い張って、構ってもらいに行くのだ。
トラはいつも迷惑そうに逃げていくが、それを追いかけるのがルフィは楽しいらしく、放っておくと一日中トラを追い回して遊んでいる。
普段はこの山の動物なんぞ食料程度にしか思っていない俺でも、散々追い回された挙句、ルフィに背中に乗られてぐったりしている姿を見た時は、動物虐待という言葉が頭に浮かんだほどだった。
今から岩場まで行こうかどうか考え込んでいると、部屋の真ん中で煙草を吸いながら新聞を広げていたダダンが声をあげた。
「ドグラ、マグラ! ゴアってのは……どこだ?」
突然名前を呼ばれた二人は、目を白黒させながらダダンを振り返った。
「一応このコルボ山もゴミ山もフーシャ村も、ゴア王国の領土ディすけど?」
「だよねぇ~」
ドグラの答えが腑に落ちないような顔で頷くダダン。
「まーまーお頭。珍しく新聞なんか読んで。今日は槍でも降りますかねぇ」
余計なことを言ったマグラをひと睨みしたダダンは、読んでいた新聞をバサバサと折りたたみながら言った。
「この王国に客が来るって、なんだかデカいニュースになってるが。何の騒ぎだ? そんな偉い奴なのか? その『天竜人』ってのは」
「天竜人?」
ダダンの言葉に俺は聞き返す。
「あたしも知りゃしないよ。小娘に聞いてみな」
そう言ってダダンは、たたんだ新聞をぽいっと投げて寄越した。
受け取った新聞を広げると、そこには大きな見出しで天竜人来訪と書かれ、世界政府の視察団が東の海を回っていること、その船に天竜人の何某様が乗っていること、このゴア王国にも来ること、その日時などが大層な言葉でつらつらと書かれていた。
何だコレは、と俺は半目になって新聞の文字を睨む。
最近は街で捨てられている新聞などを読むこともあるが、こんなただ事ではなさそうな記事は初めて目にする。
新聞から顔を上げて母を探すと、窓際に座り込んで空を見上げていた。
母は最近、ぼんやりしていることが目に見えて多くなった。ダダンたちは母が大人しくなって、厄介ごとが減ったと喜んでいるが、黙りこんでいる母の横顔を見ているとなんだか不安になる。
窓際まで近づきながら母に呼びかけると、俺は新聞の一面を突き出した。
「おふくろ、天竜人ってのは何だ?」
ゆるりとした動きで振り返り、新聞の一面へと視線を下ろした母は、しみじみとした口調で言った。
「エースは新聞まで読むようになったのかぁ…。ゆくゆくはインテリ山賊だね」
「俺は山賊になんてなんねぇよ」
海賊になるんだとは胸の裡でだけ答え、はぁ、とため息を吐く。言葉の陰に隠れた後ろめたさに、呆れたふりをして誤魔化した。
きっと母だってとっくに気づいている。いつか俺もサボもルフィも、母をこの山において海に出て行くことを。
「そんなことより、この天りゅ――」
「エース」
名前を呼ばれて俺は息をのんだ。
新聞を見つめたままの母は、やけに平坦な声でゆっくりと言った。
「しばらく、街に行ってはいけないよ」
驚きすぎて固まった俺を気にも留めず、母は窓枠をひらりと乗り越えて、すたすたと森に入っていく。
「あっ! おい、勝手に森に――ッ!」
ひらひらと手であしらう母の後姿に、俺は言葉を途中で失う。
母はそのまま森に消えてしまった。
「なんだい、今日は本当に槍でも降んのかい? 小娘が自分からエースに口を出すなんて、初めてのことじゃないか?」
「まーまー。あの子も母親らしくなったってことですかね」
「いや、そんなはずニーよ」
部屋の中にいたダダンたちが呑気に言い合っている。
俺はじんわりと汗をかいていることに気づいた。身体がやけに冷えている。
母が俺の話を遮ったことも、俺の顔を一度も見ないことも、名前を呼んだ声に何の感情もなかったことも、何もかもが違和感の塊でしかない。
母が消えた森の入り口を呆然と見つめながら、俺はカーテンの揺れる窓辺でただ立ち尽くすことしかできなかった。
***
「最近のおふくろはおかしい」
「ああ、間違いなく様子が変だな」
「うん、ヘンだ」
俺の言葉に頷きながら同意するサボとルフィ。
ゴミ山の廃材に座り、囲むように顔を寄せ合いながら、俺たちは兄弟会議なるものをしていた。
今日は風が弱く、ゴミの中から立ち昇る煙は緩やかに辺りに立ち込めている。見通しが悪いから、堂々と話し合いをしていても見つからないだろう。
今朝の出来事をサボとルフィに語って聞かせ、俺は感じていたことを話した。
「街に行くなってのも、今まで何も言わなかったってのに突然言いだすなんて変だ」
「しばらくって言ったんだよな? 街で何かあるのか?」
「ああ、これを見ろ」
今朝ダダンが見ていた新聞をサボの前に広げた。
「これは……、世界政府の視察団だって?」
サボは俺から新聞を受け取り、記事を読み始めた。
ルフィも横から必死に覗き込みながら「何て書いてあるんだ?」とサボに聞くが、サボは真剣な顔で新聞の字面を追い始め、ルフィの声は耳に入っていないようだった。
「そうか、そうだったのか……」
しばらくして、納得が言ったとばかりにサボが呟く。
サボの考えが俺と同じところにたどり着いたことを感じ、俺は頷いて言った。
「これを見せた時、おふくろは街に行くなって言ったんだ」
「確か母さんは世界政府の……」
「ああ、役人って話だ。普段の姿からじゃ想像もつかねぇが」
母は仕事の話を一切したことがない。それでもジジイから聖地と呼ばれる場所で働いていたって聞いたことがあるし、今でも年に一回はそこへ定期連絡に行く。
仕事を完全に辞めたわけじゃないらしいから、今回のことは母にとって何か思うところがあるのかもしれない。
「この天竜人ってのが偉いってのは何となくわかるが、問題はどのくらい偉いかだな」
新聞の記事からだいたい想像はできるが、どの程度の権力を持っている奴なのか、母の仕事とどんな関わりがあるのかが分からない。
俺がサボの手元にある新聞を睨みつけながら言うと、サボが顔をあげて言った。
「一番だよ。世界で一番偉い。世界政府よりな」
「……知ってんのか!?」
「この前、歴史の本で読んだ」
何気なく言ったサボに、俺は呆気にとられた。
サボは幅広く本を読むので、俺より知識が広い。航海に必要な本ばかりを読み漁っていたツケのような気がして、俺は歴史の本も読もうと密かに決意した。
サボは天竜人が聖地と呼ばれる場所の住人で、800年前に世界政府を作り上げた創造主と称される20人の王たちの末裔であることをかいつまんで語った。
「……そうか、何となくだが状況はわかった」
俺は頭を抱えながら言った。
結局、母の働いていた場所で一番偉い奴ということ以上に、母との関係は分からないが、自分の仕事の話は一切しない母だ。俺たちが関われるような問題ではない。
ふいに不自然な沈黙が落ちる。
俺とサボは黙ったまま、最近の母の変化について考え込んだ。
俺たちは母が仕事をしている姿なんて見たこともないし、何をしていたのかも知らない。今更だが、俺は母のことを知ろうともしなかったことに気づいた。
話についていけずにそわそわしていたルフィが、俺とサボの話が止まったのを見て、ふてくされた顔で聞いた。
「なぁ、母ちゃん何で元気ないんだ?」
俺とサボは顔を見合わせて途方に暮れた。
「……分かんねぇよ」
自分で思っていたよりも低い声が出て、しまったと思った時にはルフィがびくりと肩を震わせた。サボが俺を咎めるように睨みつけ、俺はバツが悪くなって俯く。
サボが場を取りなすように明るい声で言った。
「母さんのことはしばらくそっとしとこう。天竜人がいなくなれば、またもとに戻るだろ」
「そうだといいが……」
俺が呟いたその瞬間、サボの隣にいたルフィが吹っ飛ばされた。
「「!!?」」
反射的に横にある鉄棒をつかんだ俺も蹴り飛ばされ、派手にゴミの上を転がりながら必死で頭を守る。状況を正しく理解できないまま、起き上がって俺を蹴り飛ばした男を睨みつける。
男の腕の中でサボが苦しげな顔で逃れようと足掻いていた。なんでブルージャムが。
そこでようやく俺は、周りに立ち込めている煙が仇になったことに気がついた。
チクショウ、と吐き捨てて相手を睨むも、うかつに手出しできるような相手じゃないことは分かっている。男はこのグレイ・ターミナルで幅をきかせている海賊団の船長。そこらのチンピラとはわけが違う本物の海賊だ。
先ほどまで、迂闊に話し合いをしていた自分たちを殴り飛ばしてやりたい。
ギリリと歯を食いしばり、いつでも飛び出せる体勢で下から男を睨め付ける。ブルージャムは暴れるサボを太い腕の一本で悠々と締め上げている。人質か、何の目的だ、と熱くなった頭の冷静な部分を必死に回転させる。
「いっでー! 何すんだおまえ!!」
先に吹っ飛ばされたルフィが俺の後ろで吠える。
今にも食ってかかりそうなルフィを、俺は手で制した。
多数の人間が近づく気配に煙が動いて晴れていく。しかし、男の後ろから現れたのはブルージャムの手下だけではなく、予想だにしない者だった。
「お父さん!? どうしてここに!」
サボが愕然と叫んだ。
姿を現したのは以前街で見かけたサボの父親という男。サボが自らの出生の秘密を語るきっかけになった男だ。その後ろにはマスクを被った兵士やブルージャムの手下たちが銃を抱えて取り囲んでいる。
「ダンナ、おたくの坊ちゃんはきっちり保護しましたよ」
「よくやった海賊。そのまま捕まえておきたまえ」
ブルージャムがしたり顔で恭しく報告するも、サボの父親はちらりとサボの姿を確認するとそのまま、「さっさと戻るぞ。このままでは肺が腐ってしまう」と言って歩き出した。
そのあとを追おうとブルージャムが背を向けた時、咄嗟に反応したのはルフィだった。
「サボを返せよブルージャム!」
蹴り飛ばされた衝撃でまだふらふらするのか、ルフィは地面に這いつくばったままブルージャムに向かって叫ぶ。
だが、ブルージャムはにやにやと笑っているだけで答えない。
「返せとは意味の分からないことを」
帰ろうとしていたサボの父親がルフィの声に反応した。俺たちなど一度も視界に入れなかったのにコツコツと近づいてくる。その顔には苛立ちが浮かんでいた。
「サボはウチの子だ! 子供が生んで貰った親の言いなりに生きるのは当然の義務。よくも貴様らサボをそそのかし家出させたな! ゴミクズ共め、ウチの財産でも狙ってるのか!?」
「何だとッ!?」
頭にカッと血が上るのが自分でも分かった。
考えるより先に体が動いて、サボの父親に飛び掛かろうと足が地を蹴った瞬間、頭を横からぶん殴られて、あまりの痛みに気が遠くなりかけた。
べしゃりと受身もとれずに地面に沈んで身動きがとれない。鉄棒も手から離れてしまった。
当たり所が悪かったのか、どくどくと頭が心臓になったみたいに耳元がうるさくて、ああこれは結構血が出てんなと、物理的に血の気が引いた頭の隅で思う。
「コラ海賊! 子供を殴るにも気をつけたまえ! ゴミ山の子供の血がついてしまった。汚らわしい。消毒せねば」
頭上から降ってくる言葉に顔をしかめる。
馬鹿じゃねえのこのオヤジ。俺もサボも同じ兄弟なのに。それを、何も分かってないんだ。
「違う……」
絞り出すようなその声に、俺ははっと顔をあげる。
ブルージャムに捕らわれたままのサボだった。サボの声は俺が聞いたこともないぐらい低くて、そして僅かに震えていた。
「俺はそそのかされてなんかいねぇ!! 自分の意思で家を出たんだッ!!」
「お前は黙っていろ!!」
サボの父親も感情的に声を荒げた。だが、サボは止まらない。
「俺の親は母さんだけだ! お前なんか知らない!! 俺の家族は母さんとエースとルフィの四人だ!!」
「何をふざけたことを言っている!! せっかく生んでやったのに!」
サボの父親は拳を容赦なく振るった。何度も、何度も。
「サボに何すんだー!」
「やめろルフィ!」
ルフィが走り出すが、止める間もなくブルージャムに横から腹を蹴り上げられて、小柄な体が宙を舞う。
ぼやけた視界の中で必死に地を蹴りルフィを受け止めるが、その衝撃で俺の体から力がふっと抜ける。血を流し過ぎたらしい。
やがて拳の音が止み。サボの荒い息遣いだけが場に響いた。
サボの父親は手についた血をハンカチで拭うと、ここぞとばかりに猫なで声で「ほら、母様もお前を家で待っているよ。早く帰ろう」とサボに言った。その口調は優しげなはずなのに、苛立ちが全く隠しきれていなかった。
「後は頼んだぞ、海賊共」
「勿論だダンナ、もう代金は貰ってるんでね。この二人が二度と坊ちゃんに近づけねぇように始末しときます」
その言葉にぎくりと体が強張る。今の状態じゃルフィを連れて逃げられない。
俺とルフィを捕まえようと、ブルージャムの手下が手を伸ばしてきた。
咄嗟にその手に噛みついて退かせようとするが、逆上した手下に踏みつけられる。
「ぐはッ!!」
「エース!!」
口から内臓が出そうな衝撃に、ルフィの声さえ遠くなる。
俺を踏みつけている足をどかそうとルフィが齧りつき、殴られても離そうとしない。やめろ、にげろルフィ…! そう言いたいのに空気の抜けきった肺では声にならない。
「やめろッ! やめてくれ……!!」
場を切り裂くような悲鳴をあげたのは俺じゃなくて、サボだった。
「もういい、……わかったよお父さん」
「何がわかったんだサボ」
いやに冷ややかな声で、サボの父親は問いただした。
しばらくの沈黙の後、サボはうめくような声で、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「何でも言う通りにするよ……!! 言う通りに生きるから……、この二人を傷つけるのだけは、やめてくれ!!」
倒れ込んだまま視線だけを彷徨わせる。
かすむ視界の中で、サボがブルージャムの腕から解放され、よろりと父親の前に身体を投げ出すのが見えた。
「お願いします……。大切な、兄弟なんだ……!!」
サボは土下座していた。
自分の父親に跪いて、地面を頭に擦りつけて、くぐもった絞り出すような声で、兄弟の命乞いをしていた。
「ふん。まぁいいだろう……。さっさと行くぞ。時間を無駄にした」
サボの父親は不愉快そうに顔をしかめて、高慢な態度で吐き捨てた。
男たちがぞろぞろと引き上げていく。サボは俯いたまま動かなかった。
俺は自分が致命的な失敗をしでかしたような気がして、ぽつりとサボの名を呼んだ。しかし、サボは俺の声には反応しなかった。俺の声が聞こえていないのか、じっと地面に額を擦りつけて俯いている。サボがどんな表情で何を考えているのか分からなくて、俺はかける言葉を呑み込んだ。
やがて、サボはふらりと立ち上がると、俺たちの方を見ずにそのまま背を向けた。
「おい、サボ……!?」
もう一度、サボの名前を呼ぶ。今度は僅かにうわずって震えていた。
サボがゆらりと歩き出す。
「――行くなよッ!!」
今度ははっきりとサボに届くように叫んだ。
それでも、サボは一度も振り返らなかった。俯いたまま父親の後ろをよろよろとついて歩き、そしてそのまま煙の向こうに消えていった。
俺はその姿を呆然と見送ることしかできなかった。
そんな、まさか。という思いが浮かんでくる。まさか、諦めたわけじゃないだろうな。そんな、はずがない。サボに限って。あんなのは、あんな言葉はただのフリで、俺たちを逃がすための芝居にすぎなくて、明日の朝にでもひょっこり帰って来て、「夜のうちに窓から抜け出して来たんだ」とか言って、それで今度は見つからないように何か対策を三人で考えて――、
(でも、母親が家で待ってるって……)
そんなわけない。どうせ母親もロクな奴じゃないんだ。じゃなきゃ、サボはゴミ山になんて来なかった。
そう分かっていても、なぜか、街の大通りに面した小奇麗な家々と、そこに住まう家族の何気ない平凡な会話が頭をかすめる。だって、本当は、サボはあの世界の住人なのだ。
その後、俺とルフィはブルージャムの手下に引きずられ、奴らのアジトまで連れてこられた。そこで俺とルフィは簡単に止血の手当てを受け、ブルージャムの仕事を手伝わされることになった。
本当はやりたくなどなかったが、ここで嫌だと言えば殺されるかもしれないし、何より、サボが戻ってこないままコルボ山の家に帰るのが嫌だった。
何度も取り戻しに行こうと喚くルフィを宥めながら、俺は口先で、アイツにとって何が幸せなのか分からない、様子をみよう、嫌ならまた必ず戻ってくるさ、と言い聞かせた。
そうやって俺は、サボはもう戻ってこないという予感を、必死で誤魔化すしかなかった。