湖の畔に置かれたベンチに、アルテシアが座っていた。そのアルテシアを取り囲むように、パチル姉妹とソフィアがいる。この3人が立っているのは、ベンチが3人がけであり、4人そろって座れないからだ。アルテシアだけ座ってるのは、3人からその体調を気遣われてのことである。
「平気よ。いくらなんでも、あれくらいの魔法で倒れたりしないわ。頭も痛くないし」
「ならいいんだけどさ。でも、ホグズミードに行った価値は十分にあったよね」
「そうだね。でも、考えろって、どういうことだろ。アルテシア、わかる?」
首を振ることも、うなずくこともしない。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐きだす。深呼吸することで気持ちを落ち着けようとでもしたのだろう。
ホグズミードの家で、アルテシアは自分を含めた4人の姿を見えなくした。そうしておいて、その家の玄関の外へと転移。もちろん、誰がこの家に来たのかを確かめるためだ。ドアをノックしていたのは予想したとおりの3人だったが、そのときアルテシアたち4人は、見てしまった。屋根の色が青から茶色へと変わる瞬間を見たのである。偶然には違いなかったが、そうなったのは、にじ色の玉を外に持ち出したため。そういうことになる。
そしてその家の入り口のドアが開き、3人組が玄関に入ったのを見届けてから、アルテシアの魔法で学校の湖のところへと移動したのである。
「自分で考えて、自分で決めろってことだと思う。だけどこれって、すごくむずかしい。ソフィアはどう思う?」
ソフィアもまた、魔法書を学んでいる。だからこそ、聞いてみたかった。自分で考え自分で決めるにせよ、このことを相談できるのはソフィアしかいない。そう思ったからこそ、アルテシアはソフィアに、そう言ったのである。だがソフィアは、うつむいたままだった。
「どうしたの、ソフィア」
「そういえば、さっきから全然しゃべってないよね。ずいぶんとソフィアの声、聞いてない気がするけど、気分でも悪いの?」
「あ、いえ。そういうことじゃないんです。ただ、にじ色の玉のことを考えてたんです」
ソフィアが、ようやく顔を上げる。視線はもちろん、アルテシアへと向けられた。
「あの家の人が言っていた奇跡の色って、アルテシアさまの目の色のことですよ。もちろん、気づいてますよね?」
「あ、それはあたしも思った。アルの目は、そんな色だって」
パドマもうなずく。それは、透きとおるように澄んでいながらも、これ以上はないであろうほどの深い、青。言葉にすれば、どこか矛盾しているような表現となってしまうが、実際にそれを見れば、誰もが納得するだろう。まさにそんな色なのだ。
「それにあの人の目も、あのときはそんな色でした。アルテシアさま、これって」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、もう1人は500年前にクリミアーナで騒動が起こった、そのときの魔女だと思ってる」
「え! 500年前って。まさか」
驚いたのはパチル姉妹だけ。たがソフィアは、きっとそんな予想をしていのだろう。ただ静かに、アルテシアを見ている。
「その人も、魔法を使うのに苦労していた。でも、騒動もあったのににじ色の玉はそのままにしていた。たぶん、手元にあったはずなのにね」
「それは、なぜなの?」
「わからない。それを考えろってことだと思う。とにかく、じっくりと考えてみる」
アルテシアが、ベンチから立ち上がる。
「それより学校に戻ろう。ここは寒いよ。マクゴナガル先生にも報告しないといけないし」
「でもさ、これからどうするの?」
「しばらくは、このまま持ってるわ。そして、あの人に言われたように、いろいろ考えてみる。ここから魔法書の不足分を取り出すのは簡単だけど、そうしてしまう前にね」
「でも、アル」
心配そうなパーバティに、アルテシアは笑顔を見せた。
「大丈夫、心配ないよ。だってほら、ここにあるんだからさ」
そして、にじ色の玉を見せる。それは、どこでもない、自分の手の中にある。だから、なにも心配することはない。アルテシアの言うのはそういうことだが、それでパーバティの不安がなくなったわけではないようだ。パーバティが、ソフィアへと目をむける。そこで、パドマの明るい調子の声がした。
「マクゴナガルのところで、ワイワイ騒ごうよ。とにかくさ、みんな忘れて楽しもうよ」
※
その昔、アルキメデスは「分かったぞ!」と叫びつつ、服を着るのも忘れて裸で浴室の外へと飛び出したらしい。浮力の原理のヒントを得たときのエピソードとされているが、まさにハリーは、そんな心境であったのに違いない。もっとも、裸のままで浴室を飛び出したりはしなかった。キチンと服を着て、そーっと浴室を出る。もちろん、透明マントで姿を消すことも忘れない。というのも、今は真夜中だからだ。誰にも見つからずに、寮に戻らなければならない。
深夜に監督生の浴室へと入り込み、ついに探し当てた金の卵の謎。それによれば、第2の課題は『湖に入って水中人を見つけ、奪われたものを取り戻す』こと。しかも、1時間のあいだにやり終えなくてはならないのだ。遅れれば、奪われたものは戻ってこないらしい。何が奪われるのかは知らないが、ひどく厄介な課題だ。自分の手に余るとハリーは思っていた。
「問題は、どうやって息をするのか、なんだよな」
ふっと、ひとり言。おそらくあれは、水中人の言葉なのだろう。金の卵を浴槽に沈め、自分も潜ることで、ちゃんと聞き取ることができた。でもそのすべてを聞き取るためには、3回にわけて潜る必要があった。息が続かなかったからだ。
課題は、湖に入ることを要求している。制限時間は1時間。つまり、1時間程度は湖に潜れなければいけないのだ。でも、どうすればそんなことができるのか。そんな方法など、なにひとつ思い浮かばない。つまりハリーには、ハーマイオニーの持つ知識が必要なのだ。
「あっ!」
思わず、叫んでいた。それほど大きな声ではなかったはずだ、と自分に言い聞かせながら、ハリーは廊下の隅に隠れた。透明マントを着ているのだから大丈夫であるはずだが、フィルチの飼い猫であるミセス・ノリスが、こちらをじーっと見ているのだ。もちろん姿を見ているわけではなく、匂いを嗅ぎつけられたのに違いない。
ならば、この場所にはいつまでもいられない。フィルチが、近くにいるのかもしれないからだ。マントから足などがはみ出したりしないようにと注意しながら、ハリーはゆっくりと廊下を進んでいく。ミセス・ノリスもまた、その後をついてくるように歩き出す。やはり、姿が見えているのか。そんな気にもさせられたハリーだが、走り出すわけにはいかない。走れば、足音がしてしまうからだ。音を立てないように、ゆっくりと進んでいくしかない。
そうしているうちに、前方から声が聞こえてくる。聞き覚えのある声が、言い争っていた。
「スネイプ、それは確かか。間違いないのか」
「間違いない。誰かが吾輩の研究室に入り込んだのだ。以前にも、薬材棚から魔法薬の材料がいくつか紛失したことがある。それ以来、誰かが忍び込んだ場合、探知できるようにしてあるのだ」
「それに引っかかったというのだな。だが、いったいなんのためにだ。そんなことをしそうな者に心当たりはあるのか」
「生徒のだれかだとは思うが、調べる必要はあるだろう。はたして、何を持っていったのやら」
言い争っているのは、スネイプとマッドアイ・ムーディーだ。スネイプが何を盗まれようと、そんなことはハリーにとってどうでもいいことだった。そんなことよりも、すぐにこの場を離れなければ。
ハリーは、まっすぐに寮へと戻るのをあきらめ、回り道をすることにした。いくら透明マントを着ているとはいえ、ムーディのそばは通れない。ムーディの魔法の目は、ごまかせない。透明マントを着ていても、見つかってしまうのだ。
こっそりとその場所を回避し、ようやく寮へと戻ってきたところでハリーは大きくため息をついた。談話室では、ロンが待っていた。
「なんだって。1時間も息を止める? もちろん死なずにってことだろ。どうすりゃ、そんなことができるって言うんだ」
※
「なんでよ。あなたはもう、卵の謎はもう解いたって、そう言ったじゃないの。なのに、こんなギリギリになって、そんなことを言うなんて。あと1週間しかないじゃない」
ハーマイオニーの、怒ったような声が響いた。だがそんな声は、図書館にはふさわしくはない。
「大きな声を出さないで! ここは図書館なんだから」
さっそく周囲から冷たい視線を向けられるが、図書館にいたのは、ハリーにとっては幸運だったろう。ハーマイオニーも、ひそひそ声にならざるを得なかったのだから。
「とにかく、なにか方法を探さなきゃ。一番可能性のあるのは、なにかの呪文だわ。でも、そんな呪文があるかしら」
さっそくハーマイオニーは、本を集めて調べ始める。もちろんハリーとロンも、同じことを始めるが、ハーマイオニーのペースにはとてもついていけない。
自分のことだというのに、ハリーは、真剣に探してはいなかった。ハーマイオニーが、なにか見つけてくれる。きっといい方法を見つけてくれると、そう思っていたからだ。
ひょいと、ハーマイオニーが頭を上げる。
「ねぇ、ハリー。あなた、どうしてお風呂になんか、あの卵を持っていったの?」
「セドリックがヒントをくれたんだ。あの謎は、監督生の浴槽で考えるべきものだって」
「ヒントねぇ。ホグズミードでアルテシアたちがいなくなっちゃった謎を解くヒントも、くれればいいのに」
「それは、ムリじゃないかな。やっぱりぼくたち、見間違えたんだよ」
勘違いだということで納得したはずだった。なにしろ、ホグズミードのあの家にアルテシアたちはいなかったのだ。部屋の中まで見せてもらったのだからそれで間違いないはずなのに、ハーマイオニーは、まだ気にしているのか。
ハリーは、そう思わずにはいられなかった。でもきっと、そうやって考え続けるということが大事なのかもしれない。そんなことが頭をよぎる。
ロンにも協力してもらっているが、ほとんどハーマイオニーに任せっきりという状態は変わらなかった。そのためか、いい方法が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。1週間という日々は長いようで短いのだと、そう思い知らされるかのよに、あっという間に過ぎていく。なんの手がかりもないままに、あと2日となっていた。
いまは、魔法生物飼育学の授業中。リータ・スキーターに巨人族だった母のことを記事にされ、ずいぶんと気にしていたハグリッドだったが、このところ、こうして授業にも取り組んでくれるようになっていた。今日の授業のメインテーマは一角獣。ハグリッドは、どこからか一角獣の赤ちゃんを2頭連れてきていた。
一角獣の赤ちゃんは、とくに女子生徒には好評だったが、それどころではないハリーは、少し離れたところでぼんやりとしていた。ハグリッドが近づいてくる。
「どうした、ハリー。一角獣には興味ねぇか。ちいっとばかし、撫でてやったらどうなんだ。ん?」
「いいよ、ぼく。ちょっとね」
「心配ごとか。なあに、おまえさんなら、きっとまた、うまくやるだろうさ。オレにはわかるんだ」
だったらいいんだけど。ハリーは、返事の代わりに、ハグリッドにとりつくろったような笑顔を見せ、さも一角獣に興味があるようなふりをして、みんなが集まっている場所へと近づいていった。
そしてついに、第2の課題の前日の放課後となる。相変わらず良さそうな手立ても思いつかないまま、ハリーは図書館へと続く廊下を歩いていた。足取りが重くなるのも仕方がない。なにしろこれから、夕食も抜きで、たとえ徹夜になろうとも水中で呼吸する方法を調べなければならないのだ。ハーマイオニーですら見つけられないことなのに、どうしろって言うんだ。ハリーの後ろ姿が、そんなことを言っているようだった。
階段を降りようとしたハリーは、その下のほうにアルテシアを見つけた。誰かと話をしている。それに気づくと、ハリーはすぐさま、その場にしゃがみ込んだ。もちろん、アルテシアに見つかりたくなかったからだ。
「そういうことは、勝負が終わってから。それから、あの玉は返しませんけど、かまわないですよね」
ハリーにはその背後しか見えないのだが、アルテシアと話しているのはティアラ。ハリーは、ティアラと会ったこともなければ話をしたこともないので、声を聞いただけでは、誰なのかはわからないはずだ。
「返さない?」
「ええ。いい記念になるから。それより、湖の中で1時間過ごさなきゃならないとしたら。どうする?」
そのティアラの言ったことに、ハリーは驚いたに違いない。なにしろそれは、今まさにハリーが悩んでいること、そのものだった。
「湖の中って、潜ったままでってこと?」
「そう。あの湖には水中人が住んでるらしくて、その水中人から、奪われたモノを取り返す。それが第2の課題で、制限時間は1時間」
ホグワーツ4年目だというのに、湖に水中人が住んでいるということを、アルテシアは知らなかった。森や湖のほとりには何度も来ているが、そんなそぶりすらも感じたことはなかった。
「奪われたのがなんであれ、今回もまた、簡単な課題であることは確かですね。取り戻せばいいだけ」
「そうだけど、杖を使わなきゃいけないのなら、ようすは違ってくるわよ」
「杖、ですか。へぇ、杖なんか使ってるんだ。ちゃんと使えてるの?」
「なんとかね。でも学校じゃ劣等生のほうに近いかな。あなたのほうはどうなの?」
普通の魔法族の杖では、うまく魔法が使えないはずだとアルテシアは思っている。そのことは、ソフィアの杖のことで経験済みなのだ。ティアラは、軽く笑ってみせた。
「少なくとも、フラー・デラクールよりは上手に使えるわ。じゃあ、杖を使うとして、どんな方法を?」
「あー、そうね。泡頭呪文(Bubble-Head Charm)かな。頭の周りを空気の泡でおおうんだけど、それで水中でも息ができるわ」
「それ、デラクールが練習してたわ。でも1時間も持つのかな。すぐに酸素が足りなくなりそうだけど」
「大きな泡にしなきゃね。でも一番簡単なのは、えら昆布(Gillyweed)よ。これを食べると、ちょうど1時間、水中でも呼吸ができるようになる」
「そんなもの、どこにあるっていうんです?」
「たしか、スネイプ先生が、あ、ホグワーツの魔法薬学の先生なんだけど、研究室に置いてあったと思う」
ちょっとだけ考えるそぶりをみせたが、すぐにアルテシアはそう答えていた。スネイプの研究室には何度か入ったことがあり、そのときに見た覚えがあったのだ。
「じゃあ、あなたはそれを使えばいい。でも結局、モノを奪うんだから、最初の課題と同じことでしょ」
「そうだね。どうするの?」
「なにか、考えます。今度はわたしが課題を出すけど、いいですよね?」
「ええ」
「では、そういうことで。明日、お時間とってくださいね」
話が終わり、アルテシアとティアラがいなくなっても、ハリーは、うずくまったままだった。いま聞いた2人の話を、なんども頭の中で思い返していたのだ。
明日の課題をクリアするためのヒント。それが、2人の話のなかにあった。泡頭呪文であり、えら昆布。何日ものあいだ調べ続けたのに、その2つを見つけられなかった。フラー・デラクールだってそうしているらしいのだから、見つけられてもよかったはずだ。
うずくまったまま、ハリーは、そんなことを考えていた。そして、急に立ち上がった。
「図書館だ。図書館に行かなきゃ」
誰のセリフだ、と心の中で思いつつ、ハリーは、図書館への道を急いだ。
※
「あいにくだな、ハリー。ロンとハーマイオニーは、オレたちがもらっていくぞ」
「え!」
もうすぐ図書館というところで、ハリーは、その図書館から出てきたばかりのフレッドとジョージのウイーズリー家の双子と出会ったのだ。その少し後ろにロンとハーマイオニーがいる。
「冗談だよ。マクゴナガルに連れてくるようにって言われてるんだ。おい、ロン。ハーマイオニーも、行くぞ。大至急ってことだからな」
「ちょっと待ってよ。ぼく、大事な用があるんだ」
「それは、後回しにしてもらわないとな。すぐにこの2人を連れていかないと、オレたちが怒られることになる」
その場に残されてしまうことになったハリーだが、戻ってきたら手伝うと言ってくれた、ハーマイオニーの言葉にすがるしかなかった。とはいえ、なにもせずに待っているわけにはいかないので図書館に駆け込む。幸いなことに、手がかりはある。アルテシアが言っていた泡頭呪文と、そしてえら昆布だ。
本棚から本をかき集め、必死にページをめくる。だが、お目当てのものは見つからない。しばらくしてハリーの手は止まり、山積みとなった本を前に、考え込むようになっていた。仮に泡頭呪文について書かれた本を見つけたとしても、すぐにそれを使えるようになるのか、と考え始めたのだ。
ハリーの頭の中で、最初の課題のときにファイアボルトを呼び寄せるための呪文を練習したときのことが思い出される。泡頭呪文のやり方がわかったところで、十分に練習しないと使い物にならないのではないか。
「アルテシアだ!」
そう叫びつつ、ハリーが立ち上がる。もちろん、周囲の視線などを気にしている場合ではない。ハリーは、大急ぎでせっかく選び出してきた本を、本棚へと戻していった。さすがに片付けないと、図書館を出ることはできない。
元々あった場所かどうかは、この際問題ではなかった。とにかく棚へと本を戻したハリーは、寮の談話室へ向けて走った。
※
「ほう。こんな時間に来て何を言うのかと思えば。頭は大丈夫か?」
「大丈夫です。頭痛は、していません」
スネイプが妙な顔をしたのは、アルテシアの返事が気に入らなかったのだろう。自分の皮肉が通じなかった、といったところだ。もっともアルテシアとしては、このところ、友人らにしょっちゅう、同じようなことを聞かれているという事情がある。体調はどうか、頭は痛くないか、といったことをだ。
ここは、スネイプの研究室の前。時間も、真夜中に近い。見つかれば減点、あるいは処罰されるという時間帯である。だがアルテシアがここを訪れたのは、もちろん目的があってのこと。それが、えら昆布だった。
「頭痛の話など、していない。なぜおまえが、ポッターなどを連れてこんな時間にここへ来たのかということだ。えら昆布など、ここにはないぞ」
「え? ないんですか。たしか、前にお邪魔したとき、見たような覚えが」
「たしかにな。だが、盗まれてしまったのだ。はたして、何者が持って行ったのやら」
ここでスネイプが、アルテシアの小さな身体に隠れるようにしているハリーへと目を向けたのは、もちろん偶然だろう、ハリーは、盗んだりはしていない。では、誰なのか。ふとハリーは、ムーディーの顔を思い浮かべた。ハリーは、スネイプとムーディーが言い争っている声を聞いている。
「それが何者であるにせよ、えら昆布はここにはないのだ。今のうちに寮へと戻るなら、減点はしないでおいてやる。さっさと戻れ」
そうするべきだ。おそらくハリーは、そう考えたのだろう。アルテシアの肩に手をかけた。
「行こう、アルテシア。これから泡頭呪文を練習するよ。それでなんとかなるはずだ」
「いいえ、ハリー。盗んだ人がいるのなら、取り返せばいい。そうですよね、先生」
「そのとおりだが、犯人が誰か、おまえは知らぬだろう。どうやって取り戻そうというのだ」
「先生。もし取り返せたら、1回使う分だけもらってもいいですか。ぜひ、お願いします」
「だが夜明けまでに取り戻せねば意味がないだろう。あきらめろ」
当然スネイプは、えら昆布を使って何をしようとしているのかを知っている。だからこその言葉だ。だがアルテシアは、にっこりと微笑んでみせた。
「もちろん大丈夫です。えら昆布がおいてあった場所さえ教えてもらえれば、すぐにでも」
「いま、この場でできる、ということか」
「はい。あいにくと犯人はわからないかもしれません。でも、取り戻すことはできます」
いったい、アルテシアは何を言っているのか。どうしようというのか。ハリーは、まったくわからないといった顔でアルテシアを、そしてスネイプをみる。だがスネイプは、ハリーなどまったく目に入らなくなったらしい。
「魔法で、ということか。だがよいのか。おまえは、禁止されていたはずだ。これまでマクゴナガル先生が隠してきたものを、吾輩が見ることになってしまうぞ」
「いいんです。必要なことだと思うことにしますから」
「そうか。だがせめて、杖は持っておくのだ。中へ入れ」
身体を横へずらし研究室の入り口を広く開けると、スネイプは、アルテシアを中へと押し込んだ。そして、ハリーを見る。
「おまえは、ここにいろ。一歩たりとも動かずにいるのだ。さもなくば、処罰する。あとで会おう」
スネイプにそう言われてしまうと、もうその場にいるしかなかった。いつのまにか、足縛りの呪い(Leg-Locker Curse)をかけられたに違いない。ハリーはそう思いつつ、スネイプの研究室のドアを見る。もちろん閉じられており、中を見ることはできない。気になることは確かだが、のぞき見ることもできなかった。
そのスネイプの研究室で、アルテシアはスネイプとテーブルをはさみ、向かい合わせで座る。すぐにもえら昆布のほうに取りかかりたいアルテシアだったが、スネイプがそこに座るようにと指示したのだ。
「ちょうどいい機会だ。吾輩から話しておきたいことがある」
「はい。でも先生、ハリーを待たせてますよ。中に入れても」
「ダメだ。それではあやつに話を聞かれてしまう。ほかの誰にも聞かせるわけにはいかんのだ」
「そ、そうですか。わかりました」
いったい何の話なのか。ハリーのことも気になるアルテシアだが、お願いをしに来た立場でもあり、ここは話を聞かないわけにはいかない。
「おまえも、どこかで聞いたことがあるはずだ。吾輩が、かつてはデスイーターだったとな」
「ああ、はい。いつだったか忘れましたけど、そんなこと聞いたことがあります。でもそれがどうしたんですか?」
「どうした、だと。おまえ、これを聞いて、なんとも思わんのか」
「ええと、どういうことですか。わたし、なにを言わないといけないんですか?」
きょとんとしたその顔は、もちろん意識してのものではないのだろう。さすがのスネイプも、苦笑いするしかないようだ。
「いや、何も言わなくていい。だが、いちおう確認するぞ。デスイーターが、何者であるのかは知っているのだな」
「はい。ずっとまえに、パーバティが教えてくれました」
「そうか。あの娘がどう言ったは知らんが、闇の帝王、すなわちヴォルデモート卿と無関係ではない。それを知っているというのだな」
「知っています」
いったいスネイプは何を言おうとしているのか。2人は、まるでえら昆布のことなど忘れてしまったかのように話し込む。だが忘れてなどいられないのは、もちろんハリーだ。
あいかわらずハリーは、研究室の前で、立っていた。一歩も動くなと言われてるが、いまは研究室のドアの前を右へ左へ、いったりきたり。それをずっと繰り返していたのなら、その歩数はかなりのものになっているだろう。
「くそぉ、いつまで待ってればいいんだ」
もちろん、ドアを開けようともしてみた。だが、開かなかった。スネイプがなにかしたのか、開けられなかったのだ。かといって、この場を去ることもできない。スネイプに言われたこともあるが、なによりこのドアの向こうにはアルテシアがいる。自分のために、えら昆布を手に入れようとしてくれているアルテシアが。
だからハリーは、ドアの前をうろうろとすることしかできなかったのだ。それにしても、ハーマイオニーとロンは、どうしているのか。そんなことも、ハリーは考えている。自分の姿がないとなれば、探しに来てくれてもよさそうなものじゃないか、と。
「まさか、夜が明ける、なんてことはないよな」
ずいぶんと時間が経っているという気はしている。いったい今は、何時ごろなのか。それすらもわからず、ハリーはただ、その場所を往復しているだけだった。こんなことをしていていいのか。ただ待っているだけでいいのか。このあいだに、泡頭呪文でも練習していたほうがいいのではないか。
だがハリーは、知っていた。いや、気づいていた。今が何時かは知らないが、これから泡頭呪文を練習しても間に合わないし、そもそも泡頭呪文のやり方を知らない。もはや、えら昆布に頼るしかないのだと。
※
「なんだ、まだいたのか。とっくに逃げ去っているものと思っていたが」
「そ、そんなこと、そんなことより、アルテシアはどうしたんだ? なぜ、そんなことに」
研究室のドアが開き、姿を見せたスネイプ。だがその両手は、ふさがっていた。アルテシアを抱きかかえているからだ。どうやらアルテシアは、眠っているらしい。あるいは、気を失ったのか。
「何が起こったのかは、この娘が知っているだろう。吾輩は、その結果しか知らん。とにかくおまえは、これを持ってとっとと行け」
アルテシアを抱きかかえたまま、スネイプが放ってよこしたのは、えら昆布。それを受け取りはしたが、ハリーには、すぐにはそれがえら昆布だとはわからなかったようだ。
「ポッター、それがえら昆布だ。直前に食べればよい。なに、どうせ盗まれていたものだ。持って行け」
「こ、これが。でも、アルテシアはどうしたんだ」
「吾輩の言ったことを理解したか。さすれば、なにも言わずに立ち去るべきだとわかるだろう。じきに課題が始まる。学校の期待のほとんどはセドリック・ディゴリーだろうがな」
学校の期待なんか、どうでもよかった。だが、課題を放り出すわけにはいかないのも確かだ。課題は、水中人に奪われたものを取り戻すこと。しかも制限時間ありなのだ。なにを奪われたのかは知らないが、遅れたらもう取り戻すことはできないのだから。