クルクルクルと、ハーマイオニーの持つ砂時計が、14回引っくり返された。
「それでどうなるって… うわっ!」
暗い病室が溶けるようになくなった。とてつなく速く、後ろむきに歩いて、いや走っているような、そんな妙な感覚に包まれる。ぼやけた形や色が、次々とハリーたちを追い越していく。そんなときがどれだけ続いたのか。やがて、流れていく景色の速度がゆっくりとなっていき、止まった。
「こっちにきて、ハリー」
ハーマイオニーが、ハリーの腕をつかんで引っ張っていく。2人は、玄関ホールにいた。そのホールを大急ぎで横切り、物陰へと隠れる。いったいなにがどうなっているのか、ハリーにはさっぱりわからなかった。
「ねぇ、ハーマイオニー。どういうことなんだい。なぜ、外が明るいんだろう。真夜中のはずだよね」
「しーっ、静かに。ちゃんと説明するから、大きな声はださないで。わたし、時間を逆戻りさせたのよ」
「逆戻り?」
「そうよ、いまは今日の10時ごろ。もうすぐ防衛術の試験が始まるんだけど、そのまえにアルテシアを捕まえないと。あたし、アルテシアが外へ散歩に行ったのを見たわ。試験の前に戻ってくるはずでしょ。玄関ホールを通るはずなのよ。もうそろそろだと思うんだけど」
まだ説明不足だ、とハリーは思っていた。だが、そーっと玄関ホールのようすをうかがうハーマイオニーをみて、自分もそうやってみる。ホールには、誰もいない。
「まさか、もう行っちゃったのかしら。でもダンブルドアは真夜中の12時5分前だって行ってた。防衛術の試験が10時10分からだから、合ってるはずよ。」
「10時? 午前中だって? 今日の…」
「あ、来たわ。ハリー、あなたはここに隠れてて。あたしが話をしてくる」
「待ってよ、ハーマイオニー」
するすると物陰から出て、アルテシアのところへと走っていくハーマイオニー。それについて行くべきかどうか、ハリーは迷った。迷っているあいだも、その視線の先ではハーマイオニーとアルテシアが話をしている。やがて2人は別れ、ハーマイオニーが戻ってくる。
「話はついたわ。あたしたちは、このままここで待ってればいい。アルテシアが来てくれるわ」
「けど、ハーマイオニー。アルテシアは、防衛術の試験で気を失って医務室行きだ。ここに来られるはずないよ」
「そうだけど、アルテシアは来るって行ったわ。アルテシアはウソなんか言わない。あたしたちは信じて待ってればいい。来なかったとしても、時間は過ぎていくでしょ。結局、ダンブルドアの指示どおりになるわ」
「あのさ、ハーマイオニー。ぼく、よくわからないんだけど、その砂時計はなんなの?」
細長い金の鎖がついた砂時計。それをひっくり返すと、時間が戻る。目の前でいま、そんなことが起こったような気がするとハリーが言い、そのとおりだとハーマイオニーが答える。
「逆転時計っていうのよ。授業を全部受けるのに必要だからって、マクゴナガル先生が手配してくださったの。勉強以外に使わないこと、誰にも言わないこと、そんな約束をいくつもしなくちゃいけなかったけど、なんとか魔法省の許可がもらえた。これで時間を戻して、いくつもの授業を受けていたの」
「なるほど。時間を戻せる魔法の道具ってことか。わかったよ。でも、ダンブルドアは3回って言ってたよね。いいのかい?」
「3回も5回も10回も、結局は同じことよ。でも、シリウスを助けるためになにをすればいいのかしら。どうすれば助けられるっていうの?」
「それはたぶん、そのあいだに起きたことに関係があるんだと思うわ。なにかわからないけど、そういうことだと思う」
頭の上のほうから聞こえたその声は、アルテシアのものだった。ハーマイオニーたちが、思わず顔を上げる。
「夜中の12時に3時間前だと校長先生がおっしゃったのなら、今夜の9時から12時までのあいだに起きたことだと思う。なにをするにしても、9時になるまで待つべきだとは思うけど」
「そ、そうよね。でも待つにしても、ええと何時間待つことになるのかしら」
「大丈夫よ、逆転時計の反対のことをすればいいわけでしょ。それは、わたしがやるわ。でもこれは、とても危険なことなのよ。大きな問題があるわ」
その問題とは何か。当然のようにハーマイオニーが尋ねるが、アルテシアはにっこり笑って左手をあげ、その質問をさえぎる。そうしておいて、自分たちの周囲を人差し指で指さしていく。
「何をしてるの?」
「逆転時計の反対のことをするのよ。とにかく、今夜の9時へ行きましょう」
3人の周囲を、半透明の板のようなものが囲っていく。あっというまに、大きな箱の中に3人が入り込んでしまったような、そんな状況となる。
「この中から出ないでね。いま、このなかだけ外の20倍の速さで時間が流れてる。9時になるまで30分ちょっとってとこね」
「逆転時計の反対って言ったわね、アルテシア」
「うん。時間を戻すんじゃなくて、早送りしてるのよ。もっと早くもできるけど、30分のあいだに話がしたいの」
「そうね。だいたい、なにをすればいいのかもよくわかってないんだし」
「それなら、わかってるよ。ダンブルドアは、シリウスを助けろって言ってるんだよ」
どうやればシリウス・ブラックを助けることができるのか、問題なのは、その方法なのだ。なおもハリーが、話を続ける。
「ダンブルドアが、窓がどこにあるかを教えてくれただろ。そこにシリウスが閉じ込められているって言ったじゃないか。だからぼくたちは、バックピークに乗って、その窓まで飛んでいけばいいんだ。シリウスは、バックピークに乗って逃げられるんだ」
「それはそうだけど、そんなことを誰にも見られずにできると思う? そんなことムリよ。いくら夜中だからって、どこで誰が見ているか、わからないわ。いまホールにいるのだって、同じところにずっといたら、誰かに見られるに決まってる」
「それは大丈夫よ、ハーマイオニー。わたしが魔法で、誰にも見えなくするわ。でも問題なのは、そういうことじゃないの」
では、なにか。その一瞬、3人ともに、無言のままで見つめ合った。そんな時間が、数十秒。
「時間の操作で、あなたたちは過去に戻った。わたしは、未来に来た。でもそこには、現在のハリーとハーマイオニーがいるし、過去のわたしがいるはずでしょ。会うわけにはいかないし、ほかの人がやってることをじゃましてもいけないわ。やったことを変更するのもまずいと思うんだよね」
「それは、そうでしょうね。でも、そうなったらあたしたちがやれることはほとんどないわ」
「ね、ハリーも、そう思うでしょ。それはしてはいけないんだってこと、わかってくれるわよね?」
アルテシアとしては、このことははっきりさせておきたかった。アルテシア自身、今回のような時間の操作をしたことがないのであまり強くは言えないのだが、過去のできごとに関わっていいはずがない。
ハリーは、よくわからないという顔つきだったが、それでも了承してくれた。だが、それで終わりではなかった。アルテシアには、まだ気になることがある。
「問題は、しなかったことをしてもいいのかどうかだけど、どう思う?」
「どうって、問題ないさ。ぼくたちは、そのために来たんだろ。ダンブルドアだって、そうしろって言ってるんだよ」
「そうね。あたしもそう思うわ、アルテシア。慎重にやるべきだとは思うけど、誰にも見つからずにやれば問題ないんだと思うわ」
「そうなのかなぁ」
不安は、ある。だが、わからないことで悩んでいてもしかたがない。ハーマイオニーの言うように、慎重にやっていくしかないだろう。臨機応変、その場その場で考えながらやっていくしかないのだ。
「ところで、今日の午後9時から、なにが起こったのかわたしは知らないわ。わたしにとっては未来のことだから」
「それはもちろん、教えるわよ。ちゃんと話すわ」
「ね、いまのわたしは何をしてるのかしら。もう、試験は終わってる時間だけど」
「ああ、キミは試験のときに倒れたんだ。医務室で寝ているはずだよ」
「あぁ、なんだ。やっぱりそうなんだ」
あまりにも予想どおりすぎて、アルテシアは苦笑するしかなかった。時間を操るのは大仕事、それもこれほど大がかりなことをやるのだから、身体への負担もかなりのものとなるだろう。いまのところは大丈夫だが、この先も何度か魔法を使うことになるだろうし、意識を失って医務室行きとなるのは十分に考えられることだ。
「医務室で寝ているのね。なんだか、ほっとした。マクゴナガル先生には怒られるだろうけど」
「どうして?」
「うん、ちょっとね。それより、そろそろ時間かな。9時過ぎには、あなたたちは何をしてたの?」
「ぼくらは、ハグリッドの小屋に行ってたよ。そこでピーターを見つけたんだ」
「そして危険生物処理委員会の人たちが来たわ。ヒッポグリフのバックピークを処刑するためよ」
「処刑?」
言われて思い出した。そういえば、ヒッポグリフの控訴判決の日が、今日だった。つまり、敗訴したということになるのだろう。でも、その日のうちに処刑されるだなんて。
※
アルテシアたち3人はハグリッドの小屋のそばに立ち、校舎のほうから歩いてくるダンブルドアとファッジ、それに危険生物処理委員会の魔法使いと、大きな斧を抱えた死刑執行人が歩いてくるのを見ていた。別に姿を隠そうともしていないのは、透明マントを着ているからではない。マントは持ってきていないので、アルテシアが魔法によって見えなくしているのだ。
「ねぇ、もう1度聞くけど、あなたたち、ヒッポグリフが処刑されるところは見てないのよね?」
「ええ、見なかったわ。処刑されるところなんてイヤだったし、ダンブルドアたちに見られてもまずかったしね」
「それが、どうしたって? とにかく、助けるんだろ。ぼく、もうバックピークに乗っててもいいかな?」
「あ、うん。かまわないけど、打ち合わせどおりでお願いね。ヒッポグリフが逃げたってことにしないと、ハグリッドに迷惑がかかるから」
「ああ、大丈夫だよ」
計画では、あらかじめハリーがヒッポグリフに乗っておき、処刑が始まろうとするときに飛び立って逃げるのだ。そうすればハグリッドが逃がしたのではないことになり、責任を問われるようなことはないはずなのだ。
危険生物処理委員会の人たちが、ハグリッドの小屋に入っていく。ハリーも、ヒッポグリフとコミュニケーションをとり、背中に乗る。もちろん、ヒッポグリフにはハリーが見えるようにしてある。
「もうやるしかないんだけど、ハーマイオニー。校長先生、いたよね」
「ええ。それが、なに?」
「あなたたち、時間を戻す前に校長先生と会ってるんだよね。そのとき、ヒッポグリフのこと、なにか聞いた?」
「え? ええと、そうね。そういえば、ヒッポグリフのことはなにもおっしゃらなかったと思うわ」
「そうなんだ」
アルテシアは、考える。つまり校長先生は、こうなることを想定していた。だから、あえてヒッポグリフのことを話さなかったのだろう。そのときに何がおこったのかを、ここにいる誰もが知らない。ならば、助けても問題ないということになるのかもしれない。アルテシアは自分をそう納得させたが、それはともかくとして、校長先生はあまりに無茶をやらせすぎじゃないんだろうか。
アルテシアの見ている前で、ハグリッドの小屋から危険生物処理委員会の人たちが出てくる。いよいよだ。アルテシアとハーマイオニーが、ヒッポグリフに乗ったハリーを見る。準備万端、ハリーはいつでも飛び立てる。
「あとは、タイミングだね」
「うん。ハーマイオニー、合図お願い」
「わかった」
そして、ヒッポグリフがハリーを乗せて飛び上がる。その瞬間にアルテシアが、魔法でつないであるひもをほどく。結果として成功はしたが、タイミングは危うかった。死刑執行人の動作があまりにも速かったのだ。あと少しでも遅れていれば、そちらの仕事のほうが完了することになっていただろう。その斧が、風を切るヒュッという音と、空を切った斧が地面をたたくドサッという音がアルテシアの耳に届いた。
「やったわ。成功したわよ。アルテシア」
「ええ、なんとかね。じゃあ、行きましょうか」
もう、この場所に用はないので、空を飛んだハリーと合流することになっている場所へと、移動を開始。時間は十分にあるので走る必要はない。そこからは『あばれ柳』も見えるはずだし、森沿いにある木立の中へとヒッポグリフを隠しておくこともできるだろう。
もっともアルテシアは、自分たち3人とヒッポグリフとを、他人から見えるようにするつもりはなかった。安全のためにも、最後の瞬間まで見えない状態を維持しておくつもりでいるのだ。木立の中へと入ったにせよ、誰かの目に触れないという保証はない。
「森の中から『あばれ柳』を見てたほうがいいわね。そうしないと、いま何が起こっているのかわからなくなるし」
「ああ、うん。そうだね」
ハーマイオニーにはそう返事をしておき、歩きながら周囲を見回していく。みたところ、いつもとかわりはない。とくに異常を感じないことに、アルテシアはほっとする。経験がないのではっきりとしたことは言えないが、仮に過去を変えてしまっていたなら、なにか異変が起こっても不思議ではないはず。いまのところは大丈夫だ。
「ねぇ、アルテシア。あなた、顔色悪いわよ、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫よ。うん、まだ大丈夫」
「まだ?」
「ううん、なんでもないわ、気にしないで。ほら、ハリーが降りてくるわよ」
箒と同じく、ヒッポグリフに乗るのもハリーは得意であるらしい。見事、予定どおりの場所に着地成功。それを見ながら、アルテシアは心の中で苦笑する。いまもっとも過去を変えてしまう危険が高いのは、ハリーでもハーマイオニーでもない、自分自身なのだと気づいたからだ。そういえば、さっきから頭が痛くなってきている。
なぜ、自分はこうなのだろう。正直、歯がゆいし、悔しくもある。本来なら、みんながそろったこの時点で、シリウス・ブラックを逃がすことのできる時刻へと飛び、シリウスを逃がしてやればいいのだ。そして、ハリーとハーマイオニーを医務室に送り届け、自分は闇の魔術に対する防衛術の試験中へと戻るのだ。まね妖怪と闘った、あの大きなトランクの中へと戻れば、それで任務完了となる。
それらを一気にやってしまうのが理想なのだが、さすがにムリなようだと、アルテシアは思い始めていた。その原因とも言うべき頭の痛みを我慢しながら、考える。どうすればいいか、と。
実際、この時点でアルテシアは、かなり魔法を使っている。しかも、これで終わりではないのだ。この先も魔法をつかうことになる。マクゴナガルからは使用が禁止されている魔法を使わねば、現在へと戻ることができない。
ヒッポグリフの着地地点から森に沿って歩き、木立のなかへと入っていく。そこからは『あばれ柳』の周辺が見えるし、待機場所としては適当だろう。
その『あばれ柳』の下にある地下の通路へと、次々と人が入っていくのが見える。その最後が、スネイプだ。
「いまの、スネイプ先生だよね。スネイプ先生も、いたんだ」
「ああ、そうだよ。あいつが来て、話がややこしくなったんだ」
「でも、スネイプの誤解を解くのはムリだと思うわ。学校時代にいろいろあったんでしょうけど、頭から、ルーピンやシリウスのこと疑ってかかってたでしょ。話を聞こうともしないし」
「叫びの屋敷でのことは、あとで聞くわ。いまは聞かない方がいいと思うんだ」
まだその話を、アルテシアは聞いていない。聞けば聞くだけ、自分に対する制限が増えることになるので聞かない方が都合がいい、というのがアルテシアの考えだ。未来にいる今ではなく、現在に戻ってから聞けばそれで十分なのだから。
「とにかく、あとはシリウス・ブラックを逃がせばいいのよね? ね、その時間になるまで、ここで休んでてもいい?」
魔法で飛べば簡単なのだが、アルテシアは、ここで待つということを選択した。このまま木立のなかに隠れていれば、いずれそのときがやってくるのだから、そのための魔法を使わなくてもよくなる。しかも、いくらかでも休めることにもなるのだ。
ハーマイオニーの了解を得て、アルテシアは幹の太い木を選び、身体を預けるようにしてその根元に座った。ふーっと息を吐くと目を閉じる。3人ともに過去や未来に来ているという不安定な状況にあるのだから、さっさと用事をすませたほうがいいのに決まっているのだが、さすがに一気にやるのはムリだった。
※
それから1時間ほどが、何事もなく過ぎた。木の葉をかすかに揺らす程の風が吹き、空では満月が、流れる雲に隠れたり顔を出したりをくり返していた。
「この月、なんだよな。今日が満月じゃなかったら、ピーターのやつを逃がすことはなかったのに」
「仕方がないわ。いまはどうすることもできないでしょ。あたしたちは、シリウスを助けることしかしちゃいけないのよ」
「そうだけど、ぼく、思い出したことがある」
「なによ?」
疑わしげな目でハリーを見る、ハーマイオニー。その目に、ハリーは苦笑するしかなかった。
「違うんだ、ハーマイオニー。ぼくが思い出したのは、オオカミになったルーピンが、森に駆け込んでくるってことだよ。このあたりだったと思うんだ」
ほんの一瞬あと、ハーマイオニーが息をのんだ。そうだ、たしかにそうだった。だがそのすぐあとで、ハーマイオニーは笑ってみせた。
「大丈夫よ、ハリー。あたしたちはいま、誰にも見えないのよ。ルーピンにだって見えないわ。だから、ここを通り過ぎていくわよ」
「そうかな。アルテシアは寝てるんだぜ。それでも大丈夫だと思うかい? 魔法はまだ、効いてると思う?」
見れば、たしかにアルテシアの目は閉じられていた。ハリーの言うように寝ているらしい。次にハーマイオニーは、校庭へと目をむける。すでにあばれ柳の根元から出てきたらしく、あのときの自分自身を含めた数人が校庭を歩いている。雲が動き、隠れていた月が顔を見せる。
「満月だ。ルーピンが変身する。隠れた方がいいよ。キミはバックピークを頼む。ぼくはアルテシアを抱えていくから」
「いいえ、ハリー。大丈夫よ」
「え? でもルーピンが」
背後から狼人間の遠吠えが聞こえてくる。声が近づいてくる。
「ハーマイオニー!」
ハリーが大きな声を出したが、ハーマイオニーは、首をよこに振った。
「動かない方がいいわ。ここでやり過ごすのよ。大丈夫よ、アルテシアを信じましょうよ」
「けど」
「どちらにしろ、もう間に合わないと思うわ」
たしかに、遠吠えはすぐ近くまで来ている。ややあってハリーたちのすぐ横を通り過ぎていったが、見つかってはいないようだ。ちゃんと魔法は効いているらしい。
「大丈夫なのかしら、ルーピン先生」
「それより、次は吸魂鬼だ。もうすぐ校庭に入ってきて、シリウスを襲うはずだろ」
「そうだけど、あたしたちは何もできない。ここにいてやり過ごすしかないのよ。だって、吸魂鬼よ。動き回るとかえって危険だわ」
「わかってる。わかってるんだけど」
このあと、校庭へと入ってきた吸魂鬼に、シリウス・ブラックが襲われることになる。湖のそばでのことだ。あのときハリーは、吸魂鬼に襲われているとは知らずに、ハーマイオニーとともに駆けつけた。そして吸魂鬼を追い払おうと、何度か守護霊の呪文を使ったのだが、できそこないばかりでうまくいかなかった。そしてもうダメだと思ったとき、湖の反対側から、まぶしいばかりにかがやいた、見事な守護霊が吸魂鬼を追い払ったのだ。
あのときハリーは、守護霊の呪文を使ったであろう人物を見た。はっきりと見えたわけではなかったが、自分によく似ていた気がするのだ。ということは、父さんではないのか。ハリーはそんなことを考えていた。死んだと思われていたピーターが、実は生きていたのだし、シリウスだって、絶対に脱獄できないとされていたアズカバンから逃げ出してみせた。ならば、父さんが吸魂鬼を追い払ってくれたとしても、ありえないことではない。そんな奇跡があってもいいはずだ。
「ごめん、ハーマイオニー。ちょっと見てくるだけだから」
反対される前に、とばかりにハリーは駆けだした。湖のほとりまで一気に走る。このあたりが、守護霊の呪文を使った人がいた場所のはずだ。周囲を見回す。いた、吸魂鬼だ。吸魂鬼が、暗闇の中から抜け出してくるように次々と集まってくる。だが、幸いにもハリーが立っている場所ではなく、目指しているのは、湖のむこう岸。そこにシリウスがいるからだ。そのあたりで、小さな銀色の光が見えた。ハリー自身が守護霊を出そうとして失敗したときのものだろう。ハリーは、もう1度、あたりを見回した。
(早くしないと、間に合わなくなるぞ)
吸魂鬼がキスをしてしまったら、もう取り返しがつかない。父さんは、どこにいるんだろう。父さんでなかったにしても、あのとき吸魂鬼を追い払ってくれた人は、どこにいるんだろう。
しかし、周囲に人はいない。誰もいない。なぜだ、もう間に合わないぞ。そう思ったとき、ひらめいた。ハリーは気づいた。ほかの誰かがやるんじゃない、ぼくなんだ、ぼくがやるんだ。あれは、ぼくだったんだ。ハリーは、杖を取り出した。
※
ハリーは、ハーマイオニーのところへと戻ってきていた。戻るなりハーマイオニーから、何をしていたのか、おかしなことはしなかったかと問い詰められることになり、その説明をしなければならなかった。
「シリウスとぼくたちが吸魂鬼に襲われたとき、誰かが守護霊の呪文で追い払ってくれた話はしたよね? あのときぼく、その人を見たんだ。ぼんやりしてたけど、でもぼくは、それが父さんじゃないかと思ってたんだ。だから、確かめにいったんだ」
「でもハリー、あなたのお父さんは」
「ああ、そうだよ。だけど、もしかしたらって思ったんだ。あのとき見た人が、父さんじゃないかって」
「それが、いまのあなただったってことね。でも、ハリー。あなた、誰にも見られちゃいけなかったのよ」
「そんなこと、わかってるさ。でも、あのときのぼくがぼくを見てたんだから、ぼくはあそこに行かなくちゃいけなかったんだよ。きっと、行かないほうが問題だったはずだ」
どうなのだろう。さすがのハーマイオニーも、そこまではわからない。アルテシアに相談したいところだが、あいかわらずアルテシアは眠っているのだ。
「それにハーマイオニー、ぼくたち誰にも見えないってことになってるけど、ほんとかな? あのときのぼくに、いまのぼくが見えたんだ。見えないはずだろ。おかしくないかな。アルテシアが寝ちゃったから、魔法の効果がとぎれてるのかもしれないよ」
ここは、起こして聞いてみるべきだろう。ハーマイオニーとハリーは、木に寄りかかって眠るアルテシアに近づいていく。どちらにしろ、シリウスを助けに行く時間が近づいている。起きていてもらわねば、困るのだ。とりあえず、軽く身体をゆすって、声をかけてみる。
「ねえ、アルテシア。そろそろ時間だと思うんだけど、起きた方がいいわよ。ねぇ」
「アルテシア、シリウスを助けたいんだ。そろそろ行こう」
だが、アルテシアは眠ったままだ。少し強めにゆすってみたが、やはり起きない。
「さっきから全然起きないのよ。どうしたらいいと思う?」
「どうって、とにかく、起こさないとだめなんだ。ほら、あれをみなよ」
なるほど校庭のほうでは、吸魂鬼に襲われてぐったりとしているハリー、ハーマイオニー、シリウスの3人が、スネイプによって担架に乗せられているところだ。このあと、今夜の出来事が学校側に知られることになり、シリウスは西塔にあるフリットウィック先生の事務所に閉じ込められ、ハリーたちは医務室に連れていかれることになるのだ。
「どうしよう、きっとアルテシアはどこか悪いのよ。だって、試験のときに倒れたんでしょ。きっと起きないわ」
「それでも、なんとか起こすんだ。思い出したよ、このことだったんだ。トレローニーが言ってた。起こさないといけないって」
「あんな人の言うことなんか、どうでもいいわ。でも、ほんと、どうしよう」
スネイプと4つの担架が、ゆっくりと動いていく。4つ目の担架には、ケガをしたロンが乗せられているのだろう。月明かりのなか、ハリーとハーマイオニーは、そのようすを見ながら相談する。
「とにかく、あたしたちだけでシリウスを逃がしてから、アルテシアを起こしにくるっていうのはどうかしら?」
「でも、時間的に間に合うのかい? ぼくたち、医務室に戻ったら、簡単には外に出られないよ」
「ダンブルドアが病室のドアに鍵をかけるまで、あと40分くらい。そのあいだにシリウスを救いだし、病室に戻ってなきゃダメなんだけど」
「とても、アルテシアを起こしにくる時間はないよ。いま、起こさなきゃダメだ」
ハーマイオニーが、もう1度時計を見る。
「いいわ、連れていきましょうよ。バッグピークに乗せていけばいいでしょ。それくらいできるわよね、ハリー」
「それはなんとかなると思うけど、でもハーマイオニー、アルテシアは医務室に行っちゃいけないんじゃないかな」
「どうして?」
「わかんないけど、医務室には試験中に倒れたアルテシアがいるはずだろ。そのアルテシアは、ずっと寝たままのはずだ」
「あ、そうだわ。あたしたちは、ちょうど出て行くところに戻れるけど、アルテシアはそうじゃない。うわ、どうすればいいの」
アルテシアの戻る場所は、昼間の試験中でなければならない。だがそこに、どうやって戻るというのか。時間だけなら、逆転時計が使える。だがあれは、1時間単位だ。細かい調整はムリだし、そもそもアルテシアがどの時点で試験を抜け出したのか、ハーマイオニーにはわからない。
「いいわ、とにかくできることだけでもやりましょう。2人でシリウスを助けにいくのよ」
「でも、アルテシアはどうするんだい」
「それは、あとで考えるわ。とにかくもう、時間がないのよ」
「でも、ハーマイオニー」
「逆転時計を使ったのは、あたしたち2人だけ。逆転時計の規則は守らなきゃ。でも、アルテシアは違うわ。だからきっと、自分でなんとかして戻るんじゃないかしら。ね、ハリー、そう思わない?」
「そうかなぁ」
それが正しいのかどうかは、わからない。だがもう、時間に余裕はないのも確かだ。ハリーは、ヒッポグリフとコミュニケーションをとり、その背中に乗ると、ハーマイオニーを引っ張り上げた。この背中では、2人が乗るのがやっと、アルテシアも乗せるのはムリだ。
「よし、行こう。いいかい? ぼくにつかまって」
そしてハリーが、ヒッポグリフの脇腹をかかとで軽くつつく。ヒッポグリフが大きな翼を広げ、空へと飛び上がる。だがハリーたちは、そのことに懸命になるあまり、気づかなかったのだ。ちょうどいま目を開けたアルテシアが、そのようすを見たのだ。
アルテシアは、気を失っていたのではない。眠っていただけなのだ。眠ることで、少しでも頭痛を解消できるのではないかと考え、時間に合わせて目が覚めるようにしておき、寝ていたのである。
あわてて立ち上がったものの、ハリーたちは、アルテシアには気づかず飛び立ってしまった。それを見送るように空を見つめながら、アルテシアが、ぽつりとひと言。
「わたし、どうすればいいのかな」