第38話 「500年後のいま」
「アルテシアは戻ってきましたか?」
さすがはマクゴナガル。凜と響くその声は、この屋敷のどこであろうとも聞こえたことだろう。だがその問いかけに対する返事は、彼女の期待したものではなかった。すなわち、否である。
「戻ってこれるんですかねぇ、先生さま。このまま新学期になって、そのまま学校へってことになれば、あたしゃ、どうしたらいいですかねぇ。待っているしかねぇんでしょうか?」
「その点については、幾重にもお詫びしなければなりません。こちらの事情も知らず、不用意なことをしました。ですが、クリミアーナ家とは縁のある家なのですよね? そう、聞いています。心配はいらないはずです」
「あたしは聞いたことないんですけどねぇ。ほんとにそうなんですかね。あたしじゃ、この家の交流関係まではわかりませんもので、たしかめようがないんですよね」
もちろん心配はしているのだろうが、言葉のわりには落ち着いているようにも見える。話しながらも紅茶の用意をしっかりと整え、マクゴナガルの前にティーカップにポット、それにいくつか菓子類を並べていく。紅茶を用意したのは、マクゴナガルにあわせてのことだろう。これがたとえはアルテシアであれば、そこには別のものが並ぶ。クリミアーナ家特製、秘伝の飲み物だ。
「あなたは、いつからこのクリミアーナ家に?」
「そうですねぇ、14年か15年。それくらい前からですねぇ。ほんとは、アルテシアさまが無事お生まれになるまでってことだったんですけど」
「それは、どういうことです? あなたは、クリミアーナ家とはどういう関係なのですか。なぜ、クリミアーナ家に来ることになったのか、聞かせてもらえませんか」
いまさら、そんな話を? そう思ったのは確かなのだろう。いぶかしむようにマクゴナガルを見たものの、拒否するつもりはないようだ。
「先生さま、ここだけの話ってことでようございますかね? とくにアルテシアさまには話さないでほしいんですけどね」
「なぜです? もちろん事情がおありなのに、ムリに話せというつもりなどはありませんが」
「いえいえ、特別な事情なんかねぇですよ。ただ、アルテシアさまが気になさるんじゃないかと、そう思いましてね」
「そうですか」
尋ねないほうがよかったのではないか。そんな思いが、マクゴナガルの頭をよぎる。と同時に、パルマがいつもとは違う静かな調子で話しだす。
「うぬぼれるわけじゃありませんが、アルテシアさまは、あたしを信じ頼ってくだすってると思うんですよ。生まれたときからずっとお世話をしてますし、マーニャさまが亡くなってからは、2人だけで暮らしてきましたからね」
「ああ、わたしもそう思いますよ」
マーニャとは、アルテシアの母親の名前である。マーニャは、アルテシアが5歳となったときに亡くなっている。
「もちろんマーニャさまにはお話しましたけど、アルテシアさまは知らないはずなんですよね、あたしが何者なのかを」
「どういうことです?」
「ああ、誤解なすっちゃいけませんですよ、悪いこと考えたりとか、そんなことじゃねぇんですから」
「それは、そうでしょう。クリミアーナに害をなそうとする者が、この家に入り込めるはずはありませんからね」
「ですけど、先生さまはご存じですかね。クリミアーナの主人が認めたんなら、そんなのは気にすることねぇんですよ」
クリミアーナ家には、魔法がかけられている。歴代の魔女たちの手によるものであり、内容も保護魔法だけに限らない。さまざまな魔法が施されており、その効果はさまざまだ。
そのなかに、外敵を排除することを目的とした魔法がある。これにより、マクゴナガルが言った『クリミアーナに害をなそうとする者』たちは排除される。容易には近づけないというわけだが、そんな相手でもクリミアーナ家の当主が招いたり、出入りを許可したりといったことがあれば、クリミアーナ家には入れるのだ。パルマの言うことはそういうことだ。
「昔のことを気にすることはないとマーニャさまはおっしゃいましたし、もともと、あたしも気にしちゃいません。ただ、アルテシアさまはご存じないはずなんで」
「なにか、あったのですか。さしつかえなければ」
「さしつかえなんかありませんけど、マーニャさまが言うには、もう誰も知らないような昔のことでしてね」
「もしかして、それが『失われた歴史』といういうものなのですか」
もしそうなら、アルテシアはそのことを知りたいはずだ。マクゴナガルは、アルテシアがそのことを調べている、いや、調べようとしていることを知っていた。
「そうじゃねえです。あたしもその『失われた歴史』のことは知りません。誰も知らないからこそ『失われた歴史』と呼ばれてるって聞きましたけど」
「あぁ、なるほど。では、なんなのです?」
クリミアーナ家には『失われた歴史』が存在する。もちろん、内部的にそう呼ばれているだけであり、たとえばホグワーツの魔法史の授業で、ゴーストのピンズ先生によってそのことが語られたりしているわけではない。
クリミアーナ家の魔女は、魔法書により魔法を学ぶ。その、最初の魔法書が書き記されたことにより、クリミアーナ家は始まったのだ。だが問題は、その魔法書を書き記した人物の、それまで経歴だ。生まれ育った家のことや当時の状況はもちろん、どのようにして魔法を身につけ、それを魔法書という形でまとめたのかは分かっていない。つまり、どのようにしてクリミアーナが生まれたのか、誰も知る人がいないのだ。これを称して『クリミアーナの失われた歴史』と呼んでいるのである。
「まぁ、昔のことには違いありませんけどね」
「まさか、50年前などとはおっしゃいませんでしょうね」
「50年? いえいえ、500年ほど前だと聞いとりますけどね」
50年前といえば、秘密の部屋が最初に開かれた頃だ。その秘密の部屋が再び開かれた今回の経験が、マクゴナガルにそう言わせたのであろう。
「500年ほど前に、クリミアーナでは大きな騒動が起こったそうでしてね」
「騒動、ですか」
「いまは平和なクリミアーナにも、争いの歴史はあったってことです。そのころの人たちは、みな、ばらばらになったそうで」
「ばらばらとは、つまりどういうことです?」
「クリミアーナから離れていったってことですよ。残ったのは、そのころのクリミアーナ家のご当主さま、ただ1人。領地も分け与えたりして、ずいぶんと小さくなったんだとか」
かなり昔のことでもあり、パルマも詳しいことまでは知らないらしい。だが大きな争いが起こったのは確かであり、その事態を収拾するため、すべてをなしにして最初からやり直す、という選択がなされ、それまでクリミアーナ家とともにあった人たちはみな、この地を去ることとなったらしい。
「火だねと火消しってのがありましてね。騒動のもととなったほうと、なんとかそれをおさめようとしたほうと」
「なるほど」
「あたしは、争いの火だねとなった家に関係あるんですよ。でもマーニャさまは、それを知りつつ受け入れてくだすった。すばらしいお人でしたよ」
「わたしも、1度だけですが、お会いしたことがありますよ。1つ、お伺いしてもよろしいですか?」
「へぇ、そりゃかまいませんですけど、難しいことはわかりませんよ」
「そこに、ルミアーナ家はどう関係しているのですか?」
その質問は、単に1つだけの疑問に留まらない。そこには、マクゴナガルのなかにあるいくつかの疑問がまとめられていた。
※
アルテシアは、眠っていた。そこがどこであり、自分がなぜそこにいるのか。それを、アルテシアは知っているのだろうか。マクゴナガルも承知のうえであることを、はたしてアルテシアは、知っているのかいないのか。
そのアルテシアが眠る部屋のドアの外に立ち、ソフィアは考える。学年末に起こった、秘密の部屋を舞台とするトム・リドルとハリー・ポッターの争い。その決着がつこうとするその瞬間、なにもせずただ見守っていたなら、どうなっていただろうか、と。
あのとき、アルテシアの意識はあったのだ。だから、あんなことが起こった。仮にアルテシアがなにもせず、ただ見守っていただけだったなら、どうなっていたか。
だが、アルテシアは、そうしなかった。現実にはそうしなかったのだから、いま何を言っても推測ということになる。ソフィアの頭の中にあるのは、推測でしかないのだ。だがソフィアは、それがただ1つの、唯一の答えであると思っていた。ソフィアにとっては、それが正解なのだ。だからあのとき、涙がこぼれた。あの秘密の部屋の片隅で、ただ泣くしかなかったのだ。
結局アルテシアは、ソフィアの母であるアディナ・ルミアーナによって、ルミアーナ家の客間にあるベッドへと移されることになった。実はその移送は、アディナがマクゴナガルの元を訪れ許可を得たときには、すでに完了していた。同時進行ということではなく、それを終えたあとでマクゴナガルのもとを訪れ、許可を得ているのである。完全なる事後承諾ではあるが、そのことを気づかせねば済むことだった。
そのときアディナは、娘であるソフィアを同行させている。もちろんマクゴナガルの信用を得やすくするためであり、療養のためにアルテシアを預かるという許可を得やすくするためであろう。
首尾良く、というか予定通りにその許可を得て、アディナは娘とともにルミアーナ家へと移動する。すでに許可は得ているので必要ないようなものだが、あえて、その移動魔法をマクゴナガルの目の前で発動させている。これは、ルミアーナがクリミアーナと無関係ではないことの証明となる。マクゴナガルならばそう判断するはずであり、より信用度を高めることにもなると考えてのことなのだ。
「ソフィア、少し話がしたいの。わたしの部屋に来てちょうだい」
これは、アディナの声。おそらくは、客間のドアの前にたち、ただそのドアをじっと見つめているだけの娘を見かねたのだろう。ソフィアが振り返る。
「気持ちはわかるけど、そんなとこに立っていてもしょうがないわ。とにかく、わたしの部屋へ来なさい」
2人は、マクゴナガルの前で見せたような移動方法は選択せず、ゆっくりと歩きながらアディナの部屋に向かう。そしてその部屋で、ソファーにゆったりと座った。
「ソフィア、いまは待つしかないのよ。少しは控えた方がいいわね」
「でも、かあさま。いくらなんでも、もうそろそろ」
「そうね、目覚めてもいいはずだけど、あなたの話を聞いた限りでは、ずいぶんな無茶をしてるようだし、まだムリだと思う。あんなこと、私にはとてもできないわ。さすがはクリミアーナの直系よね」
「そうだけど、魔法を使うたびにああなるんじゃ、いざってときに困るんじゃないかな。去年も同じようなことがあったらしいよ」
その言葉に、アディナは笑い顔で応えた。なにしろ、母娘なのだ。そんな言い方をしているが、アルテシアのことを本気で心配していることくらい、簡単に読み取れる。だが必要なのは、休養。あせってもどうにもならないことぐらい、ソフィアも理解しているはずだと、アディナは思う。だが、必要なことは言っておかねばならない。
「魔法が使えるようになるのは14歳になってから。そのように言われていることは、知ってるはずよね。でも、それより早く使えるようになる人はいるし、もちろん遅い人もいる。だけど、それは優劣なんかじゃない。そんなのは関係ないの。魔法が使えないと危険だとか、そんな状況を経験したかどうかの違いだけ。あのお嬢さんには、きっとそんなことがあったのね」
「学校で聞いた話だと、トロールに襲撃されたってことがあったらしいけど」
「きっと、それでしょう。魔法なしでトロールと対するのは難しいわ。そのとき魔女の血が、いいえ、クリミアーナの血が目覚めたのでしょうね」
それは、アルテシアが1年生のときのハロウィーンの日のことだ。トロールに殴り倒され、医務室に運ばれるということを経験しているのだ。ちなみにホグワーツでは、そのときトロールを撃退したのはロンの浮遊呪文ということになっている。
「14歳より早いとどうなるか。もちろん魔法族の人たちとは、違うわよ。あの人たちには、魔法の杖がある。これは、私たちだけの問題。杖がいらない分だけ、身体に負担がかかるのよ。だから14歳としてあるの。あのお嬢さんだって、そのことは知ってるはずよ」
「知ってる? 知っててあんなことを」
「なにしろ、血筋からいっても強力な魔法が使えるものね。光の制御は誰にでもできることじゃないし、時を操るのも大仕事。その負担はかなりのものだったでしょうね。とにかく14歳となるまでは、ムリをさせないようにしないと」
「14歳になれば、大丈夫だってこと?」
「そうよ。あのお嬢さんはずいぶん小柄だからもう少しかかるのかもしれないけれど、少なくとも大人になれば、どんな魔法でも平気で使えるようになるでしょう」
アルテシアがベッドにいるのは、そういう事情であるらしい。ソフィアも納得したようだ。ちなみにソフィアとアルテシアとは、その体格はほとんど同じに見える。だが2人の間には、1学年の違いがあるのだ。小柄だとしたのは、そのためだろう。
「ところで、ソフィア。これからのことだけど」
「そのことなら、もう決めた」
「そうでしょうね。でもね、いちおう言っておくけど、もしもの場合を考えていないんじゃなくて? イエスかノーか、まだ返事を聞いてはいないのよ。もしノーならどうするの?」
実を言えば、その返事をもらうための質問すらもしていない。なにしろアルテシアは、眠ったままなのだ。ソフィアの手もとに、ホグワーツの制服が現われる。彼女の魔法によって、呼び寄せられたのだろう。
「でも、これを見て。この制服には、魔法がかけられてる。着ている人を守るための魔法だよ。ノーだとしたら、こんなことは」
「ええ、しないでしょうね。でも、するかもしれないわ。それにあなたは、肝心なことを忘れているようね」
「肝心なこと?」
その疑問系の言葉には応えず、アディナはソフィアの制服を手に取った。もちろんホグワーツの制服であり、秘密の部屋に入る直前に、アルテシアが保護魔法をかけたものだ。あの魔法は、成功していたらしい。
「たしかに魔法がかかっている。みごとだわ。こういう使い方は、さすがというしかないけど、私ならここにもう1つ加えたいところね」
「もう1つ?」
「そう。たとえば着ている人が意識を失うようなことになったらすぐにベッドに転送する魔法、とかね」
そのベッドがどこのものかは、あえて言う必要はないということだろう。着ている人によっても、その行き先は変えるべきなのかもしれない。
「あの小さな身体で、あれだけの魔法を使っていれば、倒れてしまうのもムリはないわね」
「でも、必要だったんだと思うよ。あのときは」
「同意見ね。それは結果が示している。なにしろみんな無事だった。もっともご本人だけはベッドのお世話になってるけど」
そこでアディナは軽く笑みをみせたが、ソフィアはニコリともしなかった。そのときその場にいただけに、笑う気持ちにはなれなかったのだろう。たとえそれが、形だけのものだとしても。
「ルミアーナ家には過去、ヴォルデモート卿を助けたという事実があるわ。当時はトム・リドルと名乗っていたらしいけど、この事実をどうするか。どうなるか。考えておかないといけないのよ、ソフィア」
※
アルテシアが目を開けたとき、その目に見えたもの。それは、見覚えのない部屋の景色と、そして見知らぬ人だった。会った人のほとんどを覚えているアルテシアだが、初対面の人のことなどわかるはずがない。
「わたくし、イリアでございます。この家の家事を任されているものです。ただいまこの家の当主を呼んで参りますので、少しお待ちくださいませ」
アルテシアの返事など、待ってはいない。どちらにしろ、いまのアルテシアは、ただ寝ているしかない。そう判断してのことだろうし、正しい判断でもあったろう。実際、この家の当主が呼ばれてやってきたときにも、アルテシアは起き上がることすらできていなかった。ただその目を、室内のあちこちに向けているだけ。
「身体の具合はどうですか?」
相変わらず身体を起こすことはできないようだが、アルテシアの目は、しっかりとこの家の当主を見つめていた。
「私は、アディナ。あなたはホグワーツの秘密の部屋で、いいえ、医務室の片隅に置かれた椅子に腰を降ろしていて、というべきかしら。そこで意識を失われましたので、ここルミアーナ家にご招待もうしあげました。秘密の部屋でのこと、少しは覚えておいでですか?」
「あの、みんな無事だったのでしょうか。ハリー・ポッターやソフィアは、どうなりましたか。あのあと、あの本がどうなったかご存じですか?」
声の調子からしても、まだ十分に回復していないことがうかがえる。それを自覚しているのだろう。アルテシアは、起き上がろうともしていない。
「トム・リドルという者の日記帳のことなら、ハリー・ポッターによりとどめをさされたそうですよ。それに、誰ひとりとして、ケガなどしていません」
「そうですか。あの本はちょっと気になったけど、みんなが無事でよかった」
「気になった?」
「その本の仕組みが、魔法書に似ているような気がしたんです。もっとよく調べたかったんだけど、あれはハリーのものだったから」
アディナは、何も言わなかった。だがそれは、アルテシアが目を閉じたからではない。むしろ、アディナが何も言わなかったから目を閉じた、としたほうがいいのだろう。だがその閉じた目は、すぐにまた開かれることになる。知らせを聞いたソフィアが飛び込んできたからだ。
ソフィアが、ベッドのすぐ脇へとやって来る。アルテシアも、そんなソフィアを見上げる。どちらも、何も言わない。そのことにじれったさを感じたのは、アディアであった。
「ソフィア。なにか言うことはないの?」
「あ! ううん、そんなことないんだけど」
「ソフィア。あなたが助けてくれたんだよね。ありがとう」
「そんな、違いますよ。むしろ助けてもらったのはあたしのほうで」
そんな話を始めた娘に、アディナは軽くため息。本来の目的が分かっていないのではないかというのが、そのため息の理由だ。自宅にアルテシアが招いているといっても、いくらでも時間があるというわけではない。本人が帰るといいだせば、それまでなのだ。それを止めることなど、できはしない。
そんなアディナの心配がソフィアにも伝わったのか、あるいはアルテシアのほうでそれを察したのか。2人の話は、少しずつアディアが予定していたものへと近づいていくようだ。これでいい、とアディナは思った。あとは頃合いをみて、確認をとるだけだ。誰でもない、これは自分が言うべきことであり、そのタイミングは、いま。
「お嬢さん、私のほうからお聞きしたいことがあるのですが」
「あ、はい。なんでしょうか?」
さすがにソフィアは、何を聞くつもりなのか察したらしい。いくぶん表情が固くなっている。
「ですが、その質問をするまえにお話ししておかなければいけないことがあるのです。よろしいですか?」
「もちろんです。あの、身体を起こしてもらえませんか。自分では起き上がれなくて」
すぐさま動いたのは、ソフィア。アディナも手伝い、たまたま部屋の片隅にあった揺り椅子に座らせる。座面も広く、背もたれ部分にもたれていれば、寝ているときとそれほど大きな差はないのではないか。
「ありがとうございます」
「ああ、いえ。それで、ぜひともお話ししておかなければいけないのは、ルミアーナ家は過去、ヴォルデモート卿と関わったことがあるということです。そのこと、ご存じでしたか」
アルテシアは、軽く目を閉じた。その表情には笑顔が残ったままではあるが、疲れも同居しているようだ。やがて、ゆっくりと目が開かれる。
「そんな話を聞いたことはあります。調べてみようともしましたが、やめました。いまではどうでもいいことだと考えています」
「どうでもいい?」
「はい。失礼な言い方になってしまいますけど、そんなこと、気にしなければいいんです。過去にそんなことがあろうとなかろうと、それは問題ではないと思うようになったからです」
「な、なぜです? なぜ、そんなふうに」
「ソフィアと会えたからです。いろいろ話もしたし、一緒に行動もしました。ソフィアがどういう人なのかよくわかったからですよ」
言いながら、ソフィアを見る。だがソフィアのほうは、何を言われているのかわかっていないようだ。きょとんとした顔つきをしている。そんなソフィアに、アルテシアは笑顔をみせた。
「ねぇ、ソフィア。あなたはもう、わたしのそばにいなくちゃいけない人になったの。だからあなたのことは」
「待ってください。待ってください。お待ちください。少し、待ってください」
アルテシアが、何を言おうとしたのか。ともあれそれは、アディナが割り込んだ形となり中断されてしまう。だが言いたいことがあるはずのアディナが、何も言わずにいるのはなぜか。
アルテシアが、微笑んだ。
「アディナさん、クリミアーナには失われた歴史と呼ばれるものがあるんです。それを知りたいとは思っていますが、同時に、こだわる必要などないんじゃないかと思うことがあります」
「お嬢さん、私は」
何か言いかけたものの、やはりその先が続かない。アルテシアが、ソフィアを見る。なぜかソフィアは、目を赤くし、まぶたに涙をいっぱいにためていた。
「わたしは思うんです。まだ生まれてもいなかった頃のことで悩んでも、あんまり意味はないんじゃないかって。本当に大切なのはこれからなんだって、そう思いませんか」
「お嬢さん……」
やはり言葉は、その先へと続いていかない。一息ついて、アルテシアが話を続ける。
「わたしは、そう思うようになりました。ところで、ご存じですか? ホグワーツには、何人ものゴーストが住んでいます。グリフィンドール塔にはニコラスというゴーストがいて、彼は500年前に首を切られゴーストとなったそうです」
「500年前……」
「彼が、500年前のことを話してくれました。バジリスクによって石にされマンドレイク薬で治療されたことが、そのきっかけとなったのかもしれませんが、思い出したことを話してくれました。500年前に起きたことを」
「え! それってまさか」
アディナではない、ソフィアの声だ。いったい、何に気づいたのか。だがソフィアも、それ以上は言葉にしなかった。アルテシアは、軽くため息。
「ええ、そうよ。わたしはこのベッドに寝たまま、魔法でホグワーツに飛んだのだと思う。そして、サー・ニコラスと話をした。彼は、知る限りのことを話してくれた」
「500年前のことも、ご存じだったのですね」
「最初から知っていたわけではないです。もしかすると夢なのかもしれませんが、夢だったとしても、サー・ニコラスと会い話をしました。それでわかったのです。きっとそんな夢を見たのは、この部屋の寝心地がよかったからでしょう」
いったん、アルテシアは言葉を切った。ここにパルマでもいれば飲み物を勧めてくれるだろうし、ここがマクゴナガルの部屋であれば、紅茶を手にできただろう。だがルミアーナ家の客間に、そんな用意はされていなかった。
「たとえ夢だとしても、その内容が偽りであるはずないんです。『失われた歴史』より後のことは、魔法書に残されている。クリミアーナで起きたこと、その魔女が経験したことは魔法書のどこかに記されるはずです。だって魔法書には、その時代を生きた魔女の、そのすべてが詰め込まれるのですから」
「ではお嬢さんは、私たちを、ルミアーナを…… それでも娘に、さきほどの言葉を、言ってくださるのですね」
アルテシアは、大きくうなずいてみせた。そして。
「ヴォルデモート卿とのことも、たとえ何があったにせよ、わたしが責任を持って話をつけます。きちんと決着させますので、安心してください」
アディナは、なにも返事をしなかった。何か言いたそうではあるのだが、またしても言う言葉をみつけられないか、忘れてしまったらしい。苦笑いを浮かべたアルテシアが、ソフィアに目をむける。
ソフィアに軽くうなずいてみせたあとで、目を閉じる。そして、眠りに落ちた。