『命の事です』
いつも、弱者は苦痛の中で生き、そして死んでいく。
届かない青空に必死に手を伸ばしながら、あるいは、手を伸ばすだけの時間すら与えられず。
何故なのだろうか?
弱者とは、恵まれない人間とは守ってあげるはずのもので、この世界は、人間は、大いなる存在に見守られているのでは無かったのか?
曇天に向かって叫ぶ俺に、答えを返してくれる相手は誰もいなかった。
何とも、未熟な話だ。
この世界の真理であり歩むべき道筋が示された我らが教義を知らなかった、無知な子どもの癇癪だ。
だからこそ、我らが夜道を探り見つけ出す必要があるのだ。この世界を照らし、導いてくれる灯りを。
だからこそ、未だ見つからぬ灯りに代わり、暗闇に惑う迷い子を救済せねばならないのだ。
だからこそ、試練を与え枝を剪定し、芽を選定するのだ。
愚か、あまりにも愚かだ。俺の何が間違っていたというのか。
信仰を違えた愚物など、愚かなニュートンの塵屑など、全て燃やして灰にしてしまう事の、何がいけないのか?
ああ、早く、早く見つけねばならない! 残された時間は少ない。まだ見ぬ神よ、人々を見守り守る事のできる、貴き神よ――
―――――――――――
「さ、お先にどうぞ? ……って、もうさっき君達から仕掛けてきたか!」
あいやこれはまいったね! とアヴァターラは陽気な調子で自分の頭をぺしりと叩く。
彼の周囲を取り巻く、その体に接続し、さらに周囲で蠢く異形の怪物たちというその光景は、彼の明るくマイペースな雰囲気とは酷くズレており、キャロルと剛大にはひと目で目の前のこの男がまともな人間では無いという事が理解できた。
「……本当は色々と話したいんだけど、状況が状況だから仕方ないな。まあ、手っ取り早く」
ひょいとアヴァターラが左手を上げると同時に、周囲の怪物たちが動き出す。
その大多数はアヴァターラの体と結合、もしくは体内に取り込まれ数は大分減ってはいるが、それは戦闘中の横やりを許すと十分な脅威になりかねない。
怪物たちは散開し、四方八方から襲い掛かった。
「なっ……!?」
……キャロルと剛大を無視して、その背後の避難する住民たちへと。
「試練を受けてもらおうかな」
二人の判断は一瞬であった。キャロルが自身の背後、人々を守るように走り出し、剛大は逆に正面、アヴァターラへと向け駆ける。
打ち合わせをしていたわけでは無い。これが、今の状況で正しい判断だと両者がそれぞれ考えたのだ。
直接的な攻撃能力に長けた剛大が敵の本体を叩き、キャロルが避難する住民を保護する。
互いの適性を考えた上での戦況判断だ。
「……ふむ、ふむふむ!」
何かを考えている様子で何度か頷いているアヴァターラの頭に向けて、容赦なく剛大の蹴りが放たれた。
ごしゃりという鈍い音と共に頭蓋が砕け、末期の声を発する事もなくアヴァターラは崩れ落ちる。
これで終わりでは無い。気持ちとしてはキャロルに加勢に行きたい所であるが、そう容易く仕留められるような相手では無いことを、剛大は薄々感じ取っていた。
「うーん、戦術としては間違っていないと思うのだけれど……」
その想定の通りに頭部を再生し立ち上がったアヴァターラは、値踏みをするかのように呟く。
自身の体から生えた怪物たちを剛大に差し向けながら。
「っ!」
首から上の無い、人間の胴体が連なったそれを剛大は素早い動作で一体一体回避する。
まるで救いを求めるかのように伸ばされるその無数の腕から生えるのは、生物の牙と貝殻状の盾。
剛大の体を切り裂こうと振るわれるそれは、アヴァターラの手術ベースである主にゴカイの仲間を指す多毛類達の中でも、発達した顎器を持つイソメ。その一種である『ギボシイソメ』の牙だ。
環形動物の中で最も身近な生物であるミミズ。
彼らが与える弱弱しい体という印象に違い、筋肉のバネにより繰り出されるその一撃はアーク計画の関係者の一人に施された手術ベースである大型種では餌とする魚を切断する程の威力を誇っている。
とはいえ、それだけであれば大した脅威にはならなかっただろう。
アヴァターラの手術ベースの本体である生物は動き自体は鈍く、それを基として特定部位複合型が組み込まれている関係上、本来の『ギボシイソメ』を手術ベースとした場合と比べ、速度では劣っている。
この程度であれば、剛大の手術ベース、『トビキバアリ』の機動力と裏アネックスにおける幹部搭乗員に選ばれるだけの実力者である剛大の素体の強さが合わさり、回避する事は難しくない。
……そう、それが、一人分の相手だけであれば。
「さあ、見せてくれ。君が神足り得る存在なのか!」
まるで舞踏会か何かのように、踊りの相手を求めるかのように、無数の腕とその剣が剛大へと伸ばされ、退避する空間さえも制圧する。
回避できる場所は存在しない。ならば、強引に道をこじ開ける。
「フッ!」
力を入れた息遣いと共に繰り出された刺突。剛大の右腕から生えた、『トビキバアリ』の針だ。
『トビキバアリ』。オーストラリア原産のこの蟻は、日本で一般的に見かけるアリとは大きく異なった特徴を有している。それが、尻から生える毒針だ。
アリの中でも原始的な系統に属する種に多く見られるその特徴をこのトビキバアリは特に色濃く残しており、その毒は昆虫界でも指折りの強さを有している。
例え凄まじい再生能力があろうとも、これを叩きこまれてしまえばタダでは済まない。
「アリかハチか……その腕力からして、アリかな? しかも、わざわざ針を当てに来るという事は、強い毒だ」
「……」
だが、それは当たり、さらにそれを体内まで刺す事ができれば、の話である。
当てるという段階で問題は無い。アポリエール、ニュートンの一族の一角。その身体能力は相応に高いのだろうが、大量の重量物が体に付いているアヴァターラの動きは鈍っている。
問題はそれを体内まで刺せるかどうか、だった。
剛大の毒針は、異形の怪物が構えた盾によって防がれていた。
アヴァターラの言葉と同じく、剛大もまた相手の手術ベースを分析しているところだった。
変態薬の形状からして、環形動物型。だが、この盾という要素がその分析を狂わせる。
環形動物に、この殻のような固い盾を持つものはいない。
分泌物によって砂や周囲のものを固めて住居を作る種こそいるが、アヴァターラから生えるこの怪物の盾は、そのような類のものでは無い。
一体、何型だ? 答えに辿り着いていたにも関わらず、剛大の推測は間違った方向へとフラフラ曲がっていく。
剛大の知識に、誤りは無かった。確かに、環形動物に貝のような堅牢な殻を持ち歩く種はいない。
……原生種に限れば。
それは、現在の地球では既に存在しない生命。
『プルムリテス』。小刀類、とも総称される、オルドビス紀の古代生物だ。
レオ・ドラクロワ博士に様々な報酬を約束して施されたESMO手術によってアヴァターラが得たそれは、三葉虫を細長く引き伸ばしたかのような姿をした鎧持つ環形動物である。
節毎に一対の殻を有する彼らは、節単位で体を伸ばせるアヴァターラの手術ベースとしてこの上無く合っていたのだ。
その殻は、『ネオピリナ』という貝類の遺伝子から移植され再現されたものである。
環形動物と軟体動物は類縁関係にあると考えられている。
その理由の一端が、両者の幼生の形状の類似性と、このネオピリナという生物の存在である。
生きた化石と呼ばれる原始的な軟体動物、ネオピリナ。その体構造は、一定の構造の繰り返しで構成された環形動物の体節性に近いものを有しているのだ。
原始的な種故なのか殻の強度こそ多数の貝に比べ劣るが、環形動物型と組み合わせるのに高い親和性を示したこの種を用いた事により、『プルムリテス』は再現され、今こうして邪教の指導者の身に組み込まれている。
毒針は通らない。ならば、一度打撃で盾を砕くしかない。
剛大は毒針での攻撃を止め、自身に降り注ぐ無数の剣の回避を優先しながらも、アリの筋力を遺憾なく発揮する拳を、脚を振るう。
「成程、悪くない腕をしているね」
「くっ……」
だが、見物客のような調子でぱちぱちと拍手をしながらそれを観戦するだけのアヴァターラの余裕を剛大は崩せない。
剛大の一撃は、その盾を砕く。基にしている生物の殻の強度がそこまで高く無い事もあり、回避を試みながらの合間の反撃でも、盾の破壊は可能である。
だが、そこから先に至る事をアヴァターラの布陣は許さない。
車懸かりの陣。中世において用いられ、日本でもある戦国武将が用いたとされる戦術。
現在では架空のものだったのではないかという説が濃厚であるが、アヴァターラが剛大に対し向ける怪物たちの動きは、それに近いものを取っている。
各部隊が集まって全体では円形の陣を構成し、回転しながら敵の前衛へと当たる。連続的に攻撃を仕掛け常に一部を退かせる事で、自軍は休憩する時間があり、敵は常に戦い続けねばならず消耗を強いられる。
これが一般的に言われる車懸かりの陣であるが、アヴァターラのそれはその生物達の性質も合わさり、より厄介なものへと姿を変えていた。
怪物の各節や各個体が次々と剛大へと襲い掛かり、素早く下がり他の個体や節へと交代する。
剛大の一撃は確かに盾を砕いた。だが、守りを失い無防備になった節に向けたトドメの一撃は、別の節から生えた腕の盾が受け止める。その隙に、破壊された盾が再生し元の姿を取り戻す。
同時に、別の節が攻撃を仕掛け、剛大の余裕を削っていく。
その絶え間ない攻撃に、じりじりと追い詰められていく剛大。
「……ああ、君もまた、違ったか」
包囲網を狭めながら、アヴァターラは悲し気にぽつりと呟く。
そして、全ての怪物を、剛大へと差し向け。
「させないッ!」
そこで、包囲網の一角、アヴァターラの体から伸びた怪物の一匹が、盾を構えられない背側からの強い一撃により、引きちぎられる。
開けた突破口。剛大は自身の脚力を最大限に活用し、そこに向けて離脱する。
しかしアヴァターラもただそれを眺めている程甘くは無い。
その付近にいた怪物が、剛大の背に刃を突き立てようと次々に襲い掛かる。
だが、その全ては堅牢な盾に阻まれ、剛大へとたどり着く事はできなかった。
「おやおや」
自身から生える怪物に遮られたその視界の先を確認するために、アヴァターラは怪物たちを一度退かせ、その光景を見て、目を輝かせる。
……そこに立っていた、気丈にアヴァターラを見つめる、赤毛の女性の姿を捉えて。
「おやおや、もうあの人々を助けるのは止めてしまったのかい?」
「……いいえ。あの人達は、軍人さん達に助けられたよ」
キャロルの目に宿るのは、普段の溌剌とした彼女を知る人間からすればさぞや印象と違うであろう、強い怒り。それは、一直線にアヴァターラへと向けられている。
「……島原さん」
「ああ」
キャロルは隣に立つ剛大を、静かに、しかし力の入った声で呼ぶ。
その意気の籠った声に、剛大は短く頷き。
「アタシに、力を貸してください」
「喜んで」
今の状況では、当たり前とも言えるその言葉を口に出し、同時に、アヴァターラへと向けて駆け出す。
絶対に止めなければならない。目の前の、この男を。
自分の役割は、人々を魔の手から守る事で、悪を裁く事じゃない。
それが、警察官としてのキャロルの考え方だ。
今、ここでやらなければ。
襲い掛かる怪物の構えた盾が、キャロルの振るう
地力が違うのだ。
キャロルの身に組み込まれた手術ベース、『ミツツボアリ』。それによって引き出される凄まじい腕力が、相手のそれを圧倒する。
盾を砕かれた節を退かせようとアヴァターラは動くが、それが叶う前に、盾を失ったその節に毒針が撃ち込まれる。
本来であればアヴァターラ本体から切り離された怪物はそのまま別個に活動を始めるのだが、『トビキバアリ』の毒により、その場に倒れて沈黙している。
「ち……!」
怪物の、毒針を受けた節から先を自切するアヴァターラ。次いで次々と怪物が二人に向けて襲い掛かるが、それは先ほどの剛大一人の時のようにはいかなかった。
剛大が、怪物と次々と打ち合い、その隙の死角から襲い来る攻撃をキャロルが盾でカバーする。
逆に、キャロルは盾の重量もありそれを構えている以外の方向からの攻撃を同時にいくつも捌く事はできないが、しかし剛大がキャロルの隙を狙った一撃を叩き落とす。
そして、反撃に繰り出す、間を置かない二人の同時攻撃は、怪物の盾を砕いた直後に撤退を許さず、その先の無防備な節にある時は強力な拳打で引きちぎり、またある時は毒針によって自切を強要させる。
「……島原剛大君にキャロル・ラヴロックちゃん……で間違いは無かったかな?」
その攻防が繰り返され、アヴァターラの体から数本の胴体が失われた時、アヴァターラの側から二人へと声がかけられる。
同時に怪物たちが二人から下がり攻勢が止んだため、二人も荒く息次ぎを繰り返しながらも戦闘の手を止めた。
「素晴らしい。いや素晴らしい。近接戦闘系の手術ベースのたった二人で、俺を相手にここまでやれるとは。……そんな君達に、良いニュースと悪いニュースがある」
「……」
戦闘を突如中断したかと思えば、いきなり何を。二人はそう言いだしたかったが、今の戦況はキャロルが加わっても未だ五分であった。
数度牙を受けてしまったとはいえ、怪物たちを相手に優勢に立ち回っている二人。だが、尽きる事の無いそれとの断続的な戦闘に、二人の疲労は溜まりつつある。
「良いニュースからにしようか! 今なら、君達は俺を殺す事ができるよ」
「何だと……?」
自分に不利な情報を自ら出したアヴァターラ。剛大から、いぶかし気な声が上がる。
「ああ、説明をしようか……俺の腹の中に埋まってるの、圧縮栄養芽を作り出す装置でね」
『
それは、彼が得た過剰な栄養を圧縮栄養芽に変換して保管しておくための装置だ。
MO手術は人智を超えた力を人間に与えるが、それでも物理法則を無視できるものではない。
例え凄まじい再生能力を持つベースでも、失われた部位を再生するためにはそれに見合った栄養が必要となる。
その観点から見れば、アヴァターラの力は外部から見れば極めて不自然だった。
何百という、人間の子ども数人分のサイズの怪物が、たった一人の身から生じるのだから。
それを可能としているのが、この専用装備である。圧縮栄養芽。その名前のそのまま、栄養を高密度に圧縮したもの。アネックス計画の専用装備としてロシアが開発しているこれに近いものを、アヴァターラの体内の装置は過剰な栄養から生成し蓄積する事ができる。
「……でも巡礼のために沢山使ってしまっているからね、今はストックが殆ど無いんだよね~」
本来であれば、アヴァターラに対して、高い再生能力を有するMO能力者に対する対処法、『死ぬまで殺す』は通用しない。正確に言えば、『四桁回数殺せるだけの気力と実力があれば可能』。
だが、今のアヴァターラはそうでは無い。これまでに貯め込んだその栄養の殆どを怪物の生成の為に吐き出しているからだ。
「まあ手短に、今なら頑張れば殺せるかもだけど、ここを逃せばめちゃくちゃ再生回数の上限増えるよ、と言っておこうかな」
相手の言葉は、嘘か真か。二人はアヴァターラと相対しながら、怪物たちの動きに注視しながらも考えるが、はっきりとした結論は出ない。何故こんな情報を突然出したのか、それがわからなかったのだ。
「ま、信じるか信じないかは一つとして。キャロルちゃん、君がU-NASAに、アネックス計画に参加した理由は『弱い人を守りたい』……だったかな? 珍しいね、警察がわざわざ命懸けの手術なんて」
良いニュース、の話を打ち切り、アヴァターラの目はキャロルへと移る。
世間話のような気安さを持った、何故知っているのかキャロルの個人情報を含む問いにキャロルは答えを返さないが、アヴァターラはそんな事は全く気にしていない様子だ。
「うん、いいね。とてもいい。『弱い人を救いたい』だなんて、実に共感できる考え方だよ。俺と同じじゃないか」
「何……が……!」
大量殺戮と、それから人々を守る。やっている事は真逆なのに、それを同じだと目の前の人間は言い張る。
何を言っているのか到底理解ができないそれに、キャロルの目が曇る。
「君達は可哀想に思わないのかな? こんな、苦痛しかない世界で、神に至る可能性を失って、それでも生き続けなければいけないんだよ? ああ、人殺しは犯罪だと言いたいのかな? 君達には確かに許容できないのだろう。……でも、だからこそ、誰かが罪を被ってでもそれをやらなければならないんだ」
アポリエール家の事は、剛大もキャロルもそれぞれ別の場所から得られた情報で知る所だ。
ニュートンの一族のように、長い品種改良の結果では無く、人間は何も手を加えれなくとも生まれながらに、その先のステップに進む可能性を持っている。
……だが。その可能性が無いから、
その可能性が有るから、
その判断基準さえも、自分の勝手な内にしか無いもので?
ここまで頭の茹った狂気に染まっているものだとは、思っていなかった。
「さて、弱い人々を、俺が救わねばならない人々を、わざわざ生かそうとしている、キャロルちゃん。君には、ちょっと悲しい事実を告げなければいけない」
「何を……?」
哀れむかのような目で、アヴァターラはキャロルへと告げる。
さあ、これを聞かされて、君はどう考えるだろうか?
折れてしまうかな? それとも、それでもって立ち上がってくるのかな?
アヴァターラは内心で、試すべき相手への期待に満ち溢れながら。
「君の手は、既に守るべきものの血で真っ赤に汚れているんだ」
「……!?」
そうだろう。無視できないだろう。たとえ君にとって俺がどうしようもない敵だったとしても、自分の信念にべったりと汚れが付く、そんな可能性を突きつけられてしまえば。
「……疑問に思わなかったかい? どこから、これだけの
――――おいで、ミカヤ
全くの唐突に、アヴァターラは名前を呼ぶ。
それに反応し、アヴァターラへとその体を近づけたのは、アヴァターラから生える怪物の一個体だった。
「……あ、え……?」
慈しみの表情で怪物を撫でるアヴァターラのその動きに、一瞬理解できず……そして、ある可能性に思い当たってしまったキャロルの顔が、青ざめていく。
盾を持つ手は小刻みに震え、アヴァターラを射ていた決意の瞳が、ふらりと揺らぐ。
「君達がこれまで散々殺して来た俺の嬰児たち、意識を残した市民の皆さんなんだよ」
そして、なんという事も無げに、アヴァターラはそれを突き付けた。
さあ、試練を与えよう、と心の中で呟きながら。
「ありがとう、救済のために愚かな俺が仕方なく縛り付けてしまっていた彼女達の魂を、
さらなる追い打ちの言葉を、その締めとして。
――――――――――――――――――――
――――彼がふかふかのベッドでは無く硬いコンクリートの上で目を覚ましたのは、5才の誕生日を迎えた日の事だった。
いつも遊んでくれたお父さんは? 優しかったお母さんは? 全くの突然の出来事に、彼は混乱し。そして、すぐに絶望した。
食べ物は無い。……ゴミ箱の中に無い事は無いのだが、彼はそれを食べ物と認識できなかった。
飲み物も無い。……地面に油の浮いた水たまりはあるが、食べ物と同じく。
暖かい寝床も、おもちゃもそこには無かった。
彼が、この場所を犯罪組織同士の紛争地帯と化している、国から見捨てられた一都市のスラムだという事を知るのは、この場所を抜け出してからの事だった。
生にしがみ付いた。何としてでも生きて、お父さんとお母さんのところに帰る。幸運だったのは、彼が常人から外れた身体能力と優れた知能を有していた事だろう。生きるために知識を蓄えた彼の元には、何人もの街で暮らす恵まれない子ども達が集まって来た。
娯楽など何も無い、この場所。そんな子ども達に彼がしたのが、捨てられていた書物……昔に聖職者が布教のために配っていたのだろう、聖書の一部分が書かれた冊子を読みきかせる事だった。
神様はいつも皆を見守っています。だから、清く正しく生きましょう。そうすれば、いつか神の身元へと招かれ永久の幸福が訪れます。
神を信じていた。自分達を、哀れで弱い子羊を、神様は救ってくれるのだと信じ、待っていた。
盗みはさせなかった。殺しはさせなかった。全て、子ども達では無く、彼本人がそれを行っていた。
自分が代わりに地獄に落ちます。だから、皆だけは助けてあげてください。守ってあげてください。
その性格は、彼が元々は恵まれた家庭で育っていた事と本人の気質が合わさったものだったのだろう。
歪んだ献身の甲斐もあり、彼と共に過ごしていた子ども達はこのスラム街で生きる人間としては信じられないほど優しく育った。
……だが、彼は知らなかったのだ。裏社会の、犯罪組織のおつかいをこなして得た殺しと生存の術を得ていても、人間の悪意そのものに堪能でなかった、清く正しく、皆を導こうとした、聖人のような彼は。
この世界では、優しいだけの人間は、食い物になるしかないのだと。
「にいちゃ、ごめん……おかね、とられ……」
「そんな事はいいから! 喋るな!」
嗚呼、何故なのですか、神様。
「痛い、苦しいよぉ……」
こんなに、傷んでいるではありませんか。こんなにも、弱いではありませんか。
「けほっ、こほっ」
なのに、何故。
「死にたくな――」
この子達を、俺を、守ってはくれないのですか?
……
「おお……よく生きて帰ったぞ!」
「今晩はご馳走よ! 教皇様もいらっしゃるだなんて! あなたは凄い子だわ!」
……ああ、神様……
――――――――――――――――――――
「貴……様……!」
「……」
アヴァターラに対する、業火の如き怒りを浮かべる剛大。その手は、2本目の『薬』に伸びていた。
盾を支えとして何とか体勢を維持しているはいるが、体の熱が引き、青ざめているキャロル。
「……ああ、『助けて』『助けて』と彼らは言っているね。もう救われた皆の事が羨ましいんだろうな! どうだろう、警察のお二方? この子達を、『救って』あげてはくれないか?」
正義感。使命感。義憤。正の方向の感情を持って自身に向かってくる、眩しい世界で生きる彼らをいかに汚し、その心を折るのかをアヴァターラは熟知している。
……ただ、剛大君の方は折れなかったか。
アヴァターラはまあ想定通りか、と怒りのままに飛び掛かって来る剛大を迎撃しながら策を巡らす。
剛大の攻撃は力と勢いを増し、アヴァターラの怪物によって組まれた防衛網を速度に任せて突破し、本体へと迫る。
「ふむ、薄情だなぁ」
先ほどアヴァターラが突きつけた怪物の真実。だが、剛大が怪物へと振るう力は全く遠慮が無く、むしろ増している。
「黙れ……人々の心までその詐術の餌にするな……!」
成程成程、とアヴァターラは剛大のその態度から二人の性格の差異を見抜いていた。
剛大は感付いているのだろう。先ほど、自分の言った言葉は嘘であると。
アヴァターラの能力によって生じる怪物の素材として栄養の塊である人間を用いている事は事実だが、そこに精神は生じない。それは栄養として消化されてアヴァターラの血肉として再構築されているだけの話であり、元の人間の要素は無いからだ。
圧縮栄養芽、という時点で剛大はそれに感付いた。だからこそ、憤ったのだ。
苦しみに満ちた世から人を救う、などと言いながら、その心を心理戦で優位に立つ為の材料に使うなど許さない、と。
恐らくは、互いに警察官であり人々を守るという決意と信念を持ってはいるものの、キャロルの方が理想家で直情的な面があり、剛大はどこか冷めている部分がある。だからこそ、このような場面で剛大は憤り、キャロルは憤る、までたどり着く前に心が折れてしまった。
どちらが良いのか、などとは一概に言えたものでは無いのだが、少なくとも、アヴァターラにとっては話術の段階で折れてくれないのは多少やりにくい相手である。
「でも……神に至るには遠いな」
剛大の突撃は、しかし阻まれる。
確かに、剛大の動きは変態薬を追加で用いた事により先よりも早まっている。
いくつかの節が速度に対応できず、毒により潰された。
しかし、届かない。その体は突きだされた無数の剣による反撃により、じりじりと押し戻されていく。
「……ラヴロックさん!」
剛大はそこで、キャロルの名を叫ぶ。首を何度も振り、何とか立ち直ったキャロル。だが、その目は暗く、恐らくは十全の力を発揮できるような精神状態では無いだろう。
仕方のない事ではある。自分が守るべき市民を、他ならぬ自分が殺めていた、と突きつけられたのだから。
それは虚偽であるのだが、その誤解を解くには、今のこの戦いでは余裕が無さすぎた。
「貴方は市民を殺してはいない……奴の言葉は嘘だ! ……たとえ嘘でなかったとしても、今我々が倒れたらもっと沢山の人が犠牲になる! 我々は、皆を守るためにここに来たのでしょう!」
剛大の言葉に、キャロルがはっと顔を上げる。その心に圧し掛かったものはまだ違うという確信を持てていないからか完全には取れたわけでは無さそうだが、その通りだと自身を鼓舞し、キャロルはアヴァターラへと再び、立ち向かわんとし。
「……おや、立派。まあ、君達に反撃のチャンスなど無いのだけどね?」
「な……に……?」
しかし、さあ反撃だという体勢の剛大とキャロルは、踏み出すと同時にその場に倒れこんだ。
体が、痺れて動かない。
「救済の使徒を殺すなどと罰当たりな事をしてはいけないよ」
説教をするかのようなアヴァターラが指を指したのは、辺りに転がる怪物の死骸。
引きちぎられたものや、毒で死んでいるもの。その体からは、多毛類と人間の血液が混じった赤い体液が流れ出している。そしてそれは、剛大やキャロルが攻撃を加えた時に怪物から飛び散り二人にかかったものでもあった。
死んだイソメを摂食しようと近づいたハエが死ぬという現象は、それを釣り餌として用いる釣り人達の間で古くから知られていたが、それが一体何なのか具体的に検証されたのは、1930年代の事である。
『ネライストキシン』。実験に用いられたギボシイソメ科のLumbrineris属からその名が取られたこの化学物質は、中枢神経のシナプス伝達を抑制する神経毒であり、アヴァターラの身に宿る『ギボシイソメ』の体内に含まれる成分だ。
攻撃に用いられる事は無いが死後に周囲に撒き散らされ、揮発性の高いそれは、まるで、無念が形を成した呪いかのように死骸を貪ろうとする生物に被害を与える。
人間を初めとする哺乳類に対してはよほど多量で無い限り致命的な効果を与えないが、昆虫に対して特に高い殺虫活性を持つこの物質は、MO手術によってツノゼミを組み込まれた被術者にとって大きな作用を及ぼす。特に、剛大とキャロル、昆虫であるアリを手術ベースとして組み込んでしまっている両者に対しては。
「……さて、ここまでかな」
『
無数の末端から繰り出される剣と盾が接近を許さず、それを潜り抜け本体に攻撃を加えられたとしても、無尽蔵の再生能力が決着を許さない。
そして、破壊された末端から生じる麻痺毒が、そもそも末端を破壊しないか即座に再生能力を削り切るかという無謀極まりない二択を強要する。
それは近接戦闘の手段しか持たない手術ベースでは勝ちの目などありはしない不落の要塞だ。
「……さて、このまま君達を救ってあげたいのだけれど」
無力化した二人に向けて、その剣を振り上げたアヴァターラだったが、そこで自分の胸を押さえ、次いでその口端から血が一筋、流れ出す。
「時間切れのようだ……俺は聖堂で待っているからね、もし君達が生きていたら遊びに来ておくれよ!」
動けない二人を横目に、アヴァターラは自身の体へと怪物たちを回収し、引き下がっていく。
そこには、他に人も怪物もおらず、ただ二人だけが残されていた。
――――――――――――――
「……ああ、疲れた」
聖堂に戻ったアヴァターラは、ステンドグラスを眺めながら椅子で横になっていた。
少し眠ってしまっていたようだ、と目を瞬かせ、激痛に少しだけ眉を歪める。
体内で、αMOが悲鳴を上げている。オリアンヌとの交戦の一幕で、その能力を行使する核であるαMOが損傷してしまっているのだ。自身の再生能力により、じわじわとその傷は癒えてはいるのだが、本格的な治療が行えず、使徒たちを大量に生み出すために、体に大きな負担を強いた上先の戦闘で全力で能力を振るったため、その傷口は結局のところ、再生速度を下回り徐々に悪化しつつあった。
宣教師たちからの定時連絡は無い。結局、彼らも俺の信仰を理解してはいなかった。
何故、彼らを含む教団の皆はいつも救済だ、救済だとそればかりで人間を試練を与える対象と考えないのだろうか?
勿論救済も重要な我らの責務だが、新たな神を迎えるのはそれと同等に重要な事のはずなのに。
神の卵を選抜するという行為にトラウマがあるからか? ああ、愚かだ。
「……おや」
聖堂の扉が開く音。アレクシアだろうか。宣教師たちだろうか。それとも――
微かに期待を寄せながら、アヴァターラは立ち上がり、聖堂へと立ち入った人間を、目を丸くして見つめる。
入って来たのは、一人だけ。虹の道服についた汚れを払い、聖職者として恥が無いように、その身を整える。
そして――
「ようこそ、キャロルちゃん。……今日は、お祈りに?」
強い意志の瞳で自分を捉えるその女性の姿に、口端を歪めるのだった。
観覧ありがとうございました!