深緑の火星の物語   作:子無しししゃも

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『産めよ、増えよ、地に満ちよ』


Mind Game:第5話 冒涜楽園

――フィンランド エウラヨキ市

 

「……さて」

 

 冷える空気を身に受けながら、彼は山林の中にある寂れた研究所の門戸を叩いた。

 『エウヨラキ・第四生物学研究所』。国策として生体工学による国際的競争力の増大を進めるフィンランドが開設した、主としてバイオミメティクスを扱う研究所である。

 

 カタカナ言葉にすると聞き慣れないそれは、古くから人類の進歩に関わって来た技術だ。

 日本語に直して、生物模倣。自然界をそれぞれの力により生き抜く多種多様な生物達の特徴から学び、新たな技術やモノづくりに利用する科学技術。

 

 近代以降のものとしては、水の抵抗を減らすサメの肌の構造を参考とした水着。古くには、空を自由に舞う鳥の姿から着想を得た飛行装置、その後に続く飛行機の原型など。

 自然の生物は人間に多くのアイデアを与えてくれる。

 

 この場所で表向きのその裏側で秘密裡に研究されているその技術も、同じくバイオミメティクスの一種と呼ぶべきか? 看板に偽りなど何もないだろうか?

 いや、そう呼ぶには余りに直接的過ぎるか。

 

 そんな事を考えながら穏やかな調子で、彼は自動扉を抜け研究所の中へと入る。

 

 なぜならば、生物の模倣どころか、生物の力をそのまま、直接体に取り込むのだから。

 即ち、MO手術。

 

 とはいえ、それだけで彼がこの場所に派遣されるなどという事はあり得ない。

 ただMO技術の研究というだけならば、世界中どこの国も裏で行っている事だろう。

 

 では何故、彼がここに来ているのか。そして、そもそも彼は何者なのか。

 

 その答えは、今この瞬間に繰り広げられている一幕にある。

 

 

 彼を出迎えたのは、突然の来客に驚いた受付ではなく、無数の銃弾だった。

 殺気を隠し、部屋の死角から放たれた、常人には回避困難な奇襲。

 

哎呀(ふむ)、準備は万端というわけですな」

 

 だが、攻撃を仕掛けた側としては残念な事に彼は常人では無かった。制圧射撃としてばら撒かれた銃弾の半分を身を退き交わし、避けきれない残りを、刀と己が身の動きで捌いた。

 

 

「馬鹿な――」

 

 現代の戦場で、刀をこのように使うなどと。その剣技に息を呑んだ兵士に、次の瞬間刃が振るわれ情け容赦無く命が刈り取られる。

 

「撃ち続けろ! 近付けさせるな!」

 

 

 侵入者が近づいている、とはわかっていても、それが誰かまではわかっていなかったらしく、彼の顔を見た兵士の一人が、驚愕と恐怖に歪んだ顔のまま周囲の仲間へと指示を出す。

 訓練された動きで素早く向けられる銃口を認識し、彼は後方へと飛び退く。

 

 一般人が街中を歩く彼を見れば、脅威、などと認識する事はできないだろう。

 枯れ枝を思わせる細い体躯と顔に刻まれた皺に、白く染まった頭髪。

 

 その姿は、どこにでもいる好々爺に他ならない。……しかし。

 腰に差した、今現在振り抜かれている鍔の無い日本刀が、彼は非日常の存在であると主張する。

 

「何故『百人切り』がここに……!?」

 

 焦りの入り混じった呟きが、兵士の一人からこぼれる。

 彼の名は(ロン) 百燐(バイリン)

 

 剣豪。現代の戦場では廃れた剣という武器の達人を示す称号。

 それを、彼は大真面目に現代の戦場において謳われている。

 

 本人はいつもその通り名を事実では無い、と否定するが、実際に戦場で斬って捨てた数はおよそ五十、加えて射撃すら躱すその体術は銃弾や砲弾が飛び交う現代の戦場において十二分に怪物、と呼べる段階にある。

 

 間合いを詰められては勝ち目など無い。

 百燐が飛び道具を持っていない事を確認した兵士たちが選んだのは、制圧射撃だった。絶え間の無い射撃によって相手を退避に専念させ行動を封じる、銃器を用いた集団戦の基本戦術の一つだ。

 

 小銃による絶え間ない砲火。流石にその全てを掻い潜るのは確実とは言えないのか、百燐は柱に身を隠す。

 とはいえ、このままでは両者千日手だ。ならば、敵にはこちらの動きを封じる事により何らかの利益が得られ

る。

 ここが敵の本拠である事を考えれば、援軍か。

 

「成程、間違っていない判断ですな」

 

 数の優位と火器による接近の阻止。武器の発達により個人の能力が重要視されず、一定の戦力を一定の錬度で一定の数運用する、『英雄無き時代の戦い』に適合した戦闘教義。

 

 ……だが。

 

「誰が指揮官か丸わかりなのはよろしくない」

 

 彼らは判断を誤った。否。どうしようも無かった。

 彼らは、英雄を相手にする戦い(・・・・・・・・・・)など想定していなかったのだから(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 瞬間、弾幕を張る指示を出していた兵士が、一人でに宙に浮かび上がる。

 

「ぐっ……がっ!?」

 

 自分の首を押さえ泡を吹く兵士に、周囲の仲間の動揺からの視線が向く。

 絞首刑を受ける罪人のように、何かが首に巻きつき、天井から吊るされている。

 

 百燐の言う通り、指示を出していたリーダーが一瞬にして無力化され、混乱が生じる。

 それはほんの僅かな時間であり、制圧射撃の姿勢は即座に戻るが。

 

 

―――――その僅かな隙が許されるほど、彼らが向き合う相手は甘い人間では無かった。

 

 

「……え」

 

 懐に潜り込んだ影を認識したと同時に、一人の上半身と下半身が割断される。

 残りの兵士は一斉に銃を向けるが、もはやその姿は彼らの視界には無く。

 

 MO手術とは、英雄を生み出す技術だ。

 生物の力を人間の体で再現したその身は、身体能力で常人を遥かに上回り、さらに多種多様な異能すら身に着ける。

 低い成功確率と施術のための材料の入手の難しさにによる数の少なさを考えれば、それはまさに、武勇に長けた才人が闊歩していたかつての英雄の時代と重なるものがある。

 無論、時が経てばこの技術を取り巻く現状もまた変わる事だろう。

 

 成功確率が向上し、材料の入手が容易になれば、成功率は低いが強大な手術ベースよりも強さはそこそこでも成功率の高い生物を手術ベースとした兵士を大量に生産する、という形に代わっていくのかもしれない。

 事実、あるギャングの中ではその新たな時代を見越した研究が進んでいる。

 

 ただ、現状ではまだ、強力な手術ベースを宿した強力な人間というのは、代え難く強大な存在である。

 

 百燐もまた、そのような存在の筆頭と言えるだろう。

 百人切りの異名に違わぬその武勇は、アネックス、裏アネックス、アーク計画という火星に派遣するべく集められた人員の中でも素体という評価軸でトップクラスに位置する。

 

 そんな彼が身に宿した生物もまた、主の力に見劣りしない強大なものだ。

 

 

 

――――彼の姿を捉えられず、兵士が切り裂かれる。

 

 近縁種の中でも、地上を走り回り獲物を捕らえる生態を持つが故の高い運動能力。

 

 

――――対応しようとしたその体が、足を細い何かに払われる事により転倒し、餌食となる。

 

 その身から生み出す強固な糸。

 

――――すれ違い様に受けた浅いはずの傷から痺れが広がり、動くことさえできなくなる。

 

 昆虫に対し特に強い毒性を発揮する分泌物と、それを対象の体に注ぎ込む鋭い牙。

 

 

 

―――――――――ナルボンヌコモリグモ。

 

 

 それが、百燐の手術ベースとなった生物。

 

 

 『タランチュラ』という言葉を聞いた事はあるだろう。

 一般的に、『でかいクモ』の総称として呼ばれ、少し生物に興味を持っている人間であれば、それがクモの中では大型で力強い種が多い『オオツチグモ科』を指す言葉である事も知っているかもしれない。

 

 しかし、コモリグモの仲間こそが最初にタランチュラという名称が与えられた蜘蛛であるという事は、前二つよりは知られていない。

 

 そしてこのナルボンヌコモリグモは、その名を冠するタランチュラコモリグモの近縁種である。

 

 タランチュラのイメージが与える巨躯は持たず。だが、全ての虫が同スケールで戦えば最強は何か? という疑問に対する答えの一つとして挙げられる蜘蛛という生物が持つ強みを例外なく持つ彼らを身に宿した兵士は、間違い無く強大な戦力として機能する事だろう。

 

 それを裏付けるかのように、七の死体の中に、ただ百燐は一人、立っていた。

 

「……さて」

 

 己の専用装備である刀に付いた血を丁寧に拭い、百燐はちらりと通路を見る。

 その奥から反響してくる怒声を聞き、懐から地図を取り出しながら。

 

 

 百燐がここに来ている理由である一連の騒動の全ての始まりは、他ならぬ百燐が本業である中国陸軍大将の休暇を利用して旅行に赴いた時であった。

 

 そこで交戦した、アダム・ベイリアルの一人。異形のMO手術をその身に施していた男を撃破した後、得られたデ通信記録からアダム・ベイリアルの元凶たる人間が企画したテロの存在を知り、百燐が協力しているアーク計画を初めとしたアメリカの各所は対応に戦力を割く事となり、現在シモンが対処のため任務に出ているアメリカ、キャロルがいざという時の備えとして待機しているフランス、という現状なのだが。

 

 そこから少し外れた場所で、懸念すべき事態が起こっていた。

 任務の帰路に就く途中で、百燐が用を済ませるために数分場を離れた隙にアダム・ベイリアルの死体が盗まれたのだ。

 

 勿論、アーク計画の地球での実働部隊『ティンダロス』の精兵が見張りをしており、任務の中で傷を負ってこそいたが警戒を怠りなどしていなかったはずだ。

 

 そこから百燐がここフィンランドに至るまでの経緯は、各勢力の政治的な関係が絡み合っている。

 

 此度の戦争を見守る、百燐が所属している中国の意向としては、アメリカで起こっている事態に対しては不干渉であるが、それはそれとして戦争に関わっている疑いの強いゲガルド家とフランスに対して干渉を行うというものだった。

 中国はニュートンの一族に対して時期当主であるジョセフ・G・ニュートン率いる多数派、ゲガルド家上層部、フランス大統領であるエドガーと三者三様の関わりがある。

 

 最終目標の一つ前までの協力関係であるニュートンの一族。上級軍人の一部が後ろ盾としており、技術、資金的な協力関係にあるゲガルド家。一部政治家や軍人が関わっている中国発の多国籍犯罪組織『黒幇(ヘイパン)』を介しての取引相手といったエドガー。

 

 この中でも最も重要視したのが、当然ながら規模として最大の、一族の多数派である。

 ゲガルド家の上層部とエドガーは共に一族でありながら当主に反旗を翻しかねない、もしくは既に一族にはコントロールできない状態にある不穏因子だ。

   

 一族としては機会があれば何とかしたい相手である。そこで恩を売りながら障害を排除しよう、というのが中国の考えだった。

 アメリカが弱ってくれるのは結構だ。だが、この機会に一番大きな協力者の敵を弱体化させて自分達の勢力の結束と基盤を固めておこう。

 こうして、その一つとしてエドガー・ド・デカルトの暗殺が提案された。

 

 これらは全て裏の社会で行われている事であり大々的な軍事力の動員は不可能だ。なので槍の一族の本拠があるとされているフィンランドにミサイルを撃ち込む、などとはできなかったが、もう一方、フランスならば話は違う。拠点の最深部に潜んでいる槍の一族の主とは異なり、大統領とは表に出ざるを出ない存在だ。そこに、始末するチャンスが存在する。

 

 しかし、一方で懸念も存在した。フランスに対しての干渉はこれでいい。だが、仮に首尾よくエドガー・ド・デカルトの始末に成功したとして、フランスが占めていたリソースを槍の一族が占有し、強大になってしまわないかという点である。

 単純に勢力としての大きさでは、フランスという一国家とエドガーの資産はニュートンの一族の分家の一つに過ぎないゲガルド家を遥かに上回る。その分、勢力全体としての秘匿性というのが、槍の一族の強みだ。

 

 ヘタに競合相手を潰してしまい、動向を追うのが困難な相手を強大化させてしまっていいものだろうか?

 会議は長引いた。参加している政治家の中には、ゲガルド家やフランスの息がかかった人間も混じっているのかもしれない。会議の方向は右に左に揺れ、定まらない。

 

 

 結果、エドガーの暗殺は決定され、同時に槍の一族の力を削ぐためにフィンランド国内の研究所への破壊工作が承認された。

 重要度が高いのは当然ながら大統領であるエドガーの暗殺だ。警備レベルが高い云々の以前に、彼本人がニュートンの一族としての肉体を有している。生半可な戦力では暗殺は困難を極める。

 

 実行者として選ばれたのが、約二十人の補助人員と、アネックス関連の計画に属する二人の少女だった。

 

 

 一方のフィンランド方面に関して。こちらに関して、会議に参加していた陸軍大将が手を挙げた時の会議場のざわめきは相当のものであった。

 百燐が自ら志願したのには理由がある。それは、以前自分が残してしまった負債を片付けるためだ。

 後の追跡により判明した、アダム・ベイリアルの死体と思われる疑わしい荷物が届けられた場所。それが、この研究所であった。

 

 裏でMO手術の技術開発が行われている研究所。そこに、技術体系の大きく異なったMO手術を施したサンプルが送られた。

 恐らく、碌な事に使われないだろう。中国の軍人としての退職を控えた勤めに加え、新たな職場への手土産の一つと、一人の人間としての、――手を汚す地位に居て今更何を、と後ろ指を差される事など承知の上ではあるが、当たり前の倫理観。

 

 譲らないであろう百燐を見て、軍に大きな貢献を果たしている彼に逆らう事のできる人間もおらず、百燐の派遣は承認された。

 

 

「……しかし」

 

 静まり返った研究室を百燐は歩く。先ほどの怒声、増援部隊は一瞬にして地に伏せた。

 下に下に、と地下に下っていき、研究区画に下っていく百燐はそこに並べられた、赤色灯で照らされたビーカーに浸かる生物を微かに眉をひそめながら眺める。

 

 刺胞動物、海綿動物、環形動物……他、何なのかよくわからない奇妙な姿の生物。百燐に専門家程の知識は無いが、そこに並べられている無数のサンプルたち。それらは、原始的な系統の生物が大半を占めていた。

 

 MO手術のベースとして用いられる生物として例が多いのは、昆虫型、節足動物型、甲殻型、哺乳類型、鳥類型、爬虫類型両生類型に魚類型だ。これらの生物が用いられるのには理由がある。

 

 昆虫型に関しては、単純にバグズ手術から連なる技術的な蓄積が大きいから。昆虫型に近い系統である節足動物型や甲殻型も同じような理由と言えるだろう。他の5系統に関しては、これらが脊椎動物である、という部分が関係している。例外的に、強固な殻を持つ貝類や戦闘において有用かつ多用な能力を持つ頭足類が属する軟体動物型は中国では研究が進んでいるが。

 

 人間と他種の生物を融合させる。免疫寛容臓(モザイクオーガン)という橋渡しが存在しているとしても、人間に近い系統である生物の方が成功率も適合性も高い。

 

 さらに、実際の戦力としての面でも原始的な生物は有用な種が限られるという問題がある。生物として人間から離れた彼らは、昆虫、甲殻類の属する節足動物や脊椎動物と異なり強固な甲殻、筋組織を欠いたものが多く、直接的でわかりやすい強みが少ない種が多いのだ。

 

 また、手術を施す際に変態時の変質の割合を少し誤っただけで変態により臓器全体が原始的な体構造、内蔵の多くを欠いたものに置き換えられてしまうという重大なリスクも存在している。

 

 難易度と有用性。このような理由から、原始的な系統の生物に関する手術事例は多くない。

 ……勿論、原始的であるが故の強力な再生能力や特異性の高い能力を持つ種もいるため、有用なもの自体は存在しているのだが。

 

 ここで具体的にどのような研究がされているのかはわからないが、恐らくは碌なものでは無いのだろう。

 

 

 百燐の脳裏に浮かぶのは、自国の事例。以前研究室のガラス越しに見た、田舎から連れてこられた素朴な少女。

 

 嫌な世の中ですな、と一言心の中で呟き、百燐は最後の扉を、ノックする事なく開いた。

 

 

―――――――――――――――――――――

―――情報屋、トマスの朝は早い。

 

 政治家のスキャンダルから気になるあの子の朝食の内容まで、をモットーとしている彼は、毎日街をせわしなく走り回っている。

 

 細かい事など気にしない、宵越しの銭は持たない、人々を苦しめ利益を貪る悪は許さない。

 よくも悪くも単純でサッパリとしたいつも騒がしい彼は、パリの街角の小さな人気者だった。

 

 そんな彼が興味を持っていたのは、ここ連日街を騒がせている集団行方不明事件だ。

 騒がしく煌びやかなこの街を愛する彼が怒りを覚えるのは当然の事で、彼は己の身を危険に晒す事も厭わず、危険な裏路地にも入り込み、様々なものを調べていた。

 

 地面に刻まれた謎の破壊痕。貧しい様子ながらも仲睦まじい少年少女のカップル。

 興味深かったり微笑ましいものはいくつか見られたが、確たる証拠には当たらず。

 

 しかし、トマスは自身を襲う違和感に気付いていた。

 

 ……自分が、危険な目に合っていない。

 

 一見すれば運が良かったんだね、で終わってしまうそれは、彼にとってはかなり重要なものだった。

 ここ裏路地は、表ざたにできない情報の宝庫であると同時に、一般人が深く入ってしまえば良くて身ぐるみを全て剥がされる、というくらいの危険地帯だ。

 

 だというのに、この辺りをねぐらにしているギャングやここに追いやられた人間に、一度たりとも遭遇しなかった。

 学は無いが頭の回転は速いトマスは、ある予想に行きあたる。表でわかっているよりも、行方不明者はずっと多いのではないか、と。

 

 義憤に駆られ、彼は調査を進めた。たとえ、一般人からしてみれば目を逸らすクズであったとしても。彼としては、時に酒を酌み交わし下卑た話題で大盛り上がりする街の一員なのだ。

 

 しかし、はっきりとした情報は見つからず。

 気落ちしながら彼が拠点としている安ホテルの一室に帰ろうとしたのは、とある日の夕暮れ時だった。

 

 その帰り道で、彼は見てしまった。

 一人の若い女性が、廃墟の中に建つ聖堂から出てくるのを。

 

 あそこはうち捨てられていたはずだ。なのに、何故人がいる? 観光客が間違って入っただけか? いや、観光客ならこんな露骨な廃墟の中になんて……

 

 考えを巡らせたトマスは、深夜を待った。

 長い情報屋としての勘が、彼に知らせてくれた。

 

 あそこには、何かがあると。

 

 

 行方不明事件、それも腕っぷしの強いギャングも恐らく被害に遭っている。

 危険を伴うだろう。しかし。

 

 彼は自分の感情の赴くままに、息を潜めて聖堂へと侵入した。

 

 長年放置されていたにしてはやけに埃が少ないそこを、トマスは慎重に何かの証拠が無いか探っていった。

 

 特に怪しい部分は無い。しかし、何者かによって掃除されているようだ。

 新しく利用する人間がいたのだろうか?

 

 そう結論付け、調査を終えようとしたトマスの鼻を、臭いが刺した。

 淀んだ空気に混じった、血の臭い。

 

 反射的に振りむいたトマスの目に映ったもの。それは、まるで隠すかのように部屋の隅にある、地下に続く階段だった。

 開け放たれた古い木の扉は、まるで自身を誘っているようだとトマスは思った。

 

 足音を立てないように、慎重に。トマスは扉を潜り、自身の持つライトの灯りのみを光源として、階段を下る。

 

 

「……!」

 

 

 そんな彼を出迎えたのは、予想を超えた光景だ。

 数十メートルはあるだろうか? 深く広い縦穴が、トマスの目の前に広がる。階段は、その縦穴の外周をなぞるように螺旋状に穴の底へとずっと続いている。恐らくは、この聖堂の下の半分程はこの穴の範囲内なのではないか、と思える程である。さらには、所々の燭台に、雰囲気など気にしない、とばかりに電球と小型の発電機が置かれ薄暗いながらも照らされている。

 

 これは何の空間だ? 地下墓地か? トマスは恐々と、手すりすらない階段の淵から、穴の奥底を覗き込み。

 

 

「なッ……!?」

 

 驚愕に思わず声を上げてしまう。穴の底に、それはあった。……いた、と付け加えた方がより正確だろうか。

 

 

 

 

 そこには、倒れ伏して動かない無数の人体と、その上に乗り動きを止めている、無数の怪物の姿があった。

  

 手を生やした人間の胴体だけが無数に連なっている、近いものを言えばムカデのような生物が数十、その奥底に巣食っている。

 

 トマスの全身の鳥肌が総毛立つ。

 何だこれは? あの人達はまだ生きているのか?

 吐きそうになるのを必死にこらえ、トマスはカメラでその様子を撮影する。

 

 十分な枚数を撮った後も、暫く彼は立ちすくむ事しかできなかった。

 

 何分経ったのだろう。それとも、そこまでの時間は経っていないか。

 時間の感覚も不明瞭な彼は、とにかく早く、この証拠を持って警察に、と。

 

 あの化け物がいつこちらに気付き動き出すかわからない。急がないと、とトマスは入口へと駆けだし。

 

 

 

 

 

「ようこそ。礼拝にいらっしゃったのですか?」

 

 

 目の前に、修道服の少女が立っている事にそこで彼はようやく気付く。

 ちくちくと肌を刺すかのような感触。彼は声を出す事ができず。

 

「……それとも、懺悔に? でしたらごめんなさい、猊下……神父様は留守なんです。……ああ」

 

 何だ。何なんだ。お前は。声に出す事も、少女を押しのけて逃げる事も、彼にはもはや叶わなかった。

 何故ならば、その体は痺れ、既に碌に動かす事などできなくなっていたからだ。

 

 薄れゆく意識の中で、彼は、

 

「救済を、お求めでしたか? ならば、すぐにでも」

 

 

 何かを思う事すらできず、完全に闇に閉ざされた。

 

――――――――――――――――――――――

 

「おお……おお! 何と、美しい……!」

 

 

 研究室の最深部、眩いライトに照らされた、ホール状の部屋に辿り着いた百燐が、恍惚の呟きを聞くと同時に見たもの。

 それは――――

 

 

「未だ進化を止めず……素晴らしい、嗚呼、何と素晴らしきかな――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――下ッ、半ッ、身!!」

 

 

 

 

――――――変態であった。

 

 

 

 年齢、おおよそ50代。口ひげを生やし白衣を着た紳士然とした男は、そこだけ見れば知的なナイスミドルと言えるかもしれない。

 

 しかし、下半身、裸。

 

 

 得体の知れない研究室の最深部で待ち構えていた変質者に、百燐は顔を少しだけ険しくする。

 それは、街をうろつけばまず間違い無く警察に連行されるような男がこんな場所に陣取っていたからでは無かった。

 

「……何故、生きているのですかな?」

 

 それは、当然の疑問であった。

 この男は、他ならぬ百燐自身がトドメを差し、確実に死んだはずの人間だ。

 

 

「何故生きているかだと? いや、そんな事はどうでもいい。ああ、ここでその時を待っているといいとヤツは言っていたが……本当にその通りになったようだ」

 

 

 百燐の疑問には答えず、変質者はぶるぶると震える。

 その体と同時にモロ出しになっている股間のブツもまた震えている事も同時に描写しなければいけないだろう。 なお、この股間が震えているのはまだ変態していないため彼の能力とは全く関わりが無く、単に体の動きに連動しているだけである。

 

 

 

「私はこの時を待っていたぞ――! 龍百燐、貴様を殺し……我が下半身が再び完全無欠最強無敵であると証明するこの時をなァ……!」

 

 怒りの混じったねっとりとした口調で変質者は百燐を真正面から憎しみに満ちた目で見つめる。

 

 

「ほう、成程……私に、リベンジがしたいと」

 

 

「貴様の……貴様のせいで……! 我が下半神は……ただの下半身に成り下がってしまった……なればこそ……」

 

 

 怒りに燃える変質者と、あくまでも冷静な百燐。

 対照的な両者に、一瞬の沈黙が走り。

 

 

「ならば―――」

 

「我が下半身こそが究極だと、再び証明しよう」

 

 

 そして、互いは互いに己の武器を抜く。

 百燐が狙うは速攻。『薬』を用いると同時に、百燐は変質者へと駆ける。

 

 一方の変質者は懐からクリームを取り出し、自身の足に塗り付ける。

 

 

「人工转型――」

 

「人為変態――」

 

 両者の姿が変質していく。

 百燐の額には六つの目が、顎には蜘蛛の鋏角が。

 

 変質者の下半身から人間の足は消え、八本の赤い甲殻に包まれ、その先端には蹄が、所々に毛と球状に見える関節とはまた別の部位が形成された異形の脚が。その生殖器もまた、脚のものと同じ赤い甲殻に包まれている。

 

 

「――再び、あの世に送って差し上げる」

 

「――"魔女の脚(バーバヤーガ)"」

 

 肉薄した百燐が、変質者の胴めがけて日本刀を振るう。

 だが、その刃が変質者に届かんとした時、変質者の姿は刀の一歩後ろに退いていた。

 

 

「あれから、私がどれだけ苦渋を舐めた事か……我が下半身は完全なものでは無かったのか? と毎晩悪夢に魘され……ニュートンの小娘は何が気に入らないのか刀で威嚇してくる始末……」

 

 変質者の姿が消える。だが、それが擬態の類では無い事を百燐はよく知っている。

 素早く、自身の背後を刀で薙ぐ。

 

 ノミとハエトリグモの脚力を利用した高速の移動。だが、一度それと相対している剣豪はその速度に対応したのだ。

 

「だが。だが! ヤツは……私に答えを、神へと至る最後のピースを与えてくれたのだ!」

 

 刀の軌道にあった赤色の脚が二本吹き飛ぶ。変質者は素早くその二本を根本から自切し、再び高速の移動を開始する。

 一方で、変質者もまた、百燐の手を知っている。

 対虫毒素充填式コーティング苗刀『傍若無人(カタワラニヒトナキガゴトシ)』。

 

 百燐の専用装備であるこの刀は、ナルボンヌコモリグモの毒を擦り込む事が可能だ。

 受けた傷から毒が回ればまずい。それは、先の戦いでの変質者の敗因でもある。

 

 

「ああ、そうだとも。我が下半身、正しく神に至れり! だが……だが! それでも拭いきれぬ屈辱が貴様だ!」

 

 

 別の角度から再び攻撃を仕掛ける不審者だったが、その必殺の蹴りは宙を切る。

 身を屈めた百燐が、薙ぎでは無く突きにより、不審者の体を下から串刺しにしようと繰りだす。

 

 

「く……クク……! 完全だったはずの下半身は貴様に敗れた……だが、今私が勝てば……それは正しく神へ至った事への証明に他ならない!」

 

 必殺の突きを三本の脚を犠牲に威力を食い止め、串刺しにして留められたそれを自切し、不審者は離脱する。

 

 再び正面から百燐と向かい合った時、その三本の脚は既に再生を終えていた。

 

 変質者の妄言を流しながら、百燐は敵を分析する。再生能力が上がっている。だが、動きに関してはそこまで変化が無い。以前一度自分の手の内が見せてしまっているが、しかし。

 

「終わりだ老いぼれェ!!」

 

「……一つ忠言を」

 

 

 両者は、真正面から己の技量を振るった。不審者の八本の脚から繰り出される連撃が、百燐へと襲い掛かる。

 同時に、股間が振動する。

 糸の防御も間に合うまい。仮に対応できても、次いでの一撃に対応できないだろう。パワーでは自身はヤツの上を行く。勝ちだ。

 

 ニヤリと不審者は笑う。

 彼の見た未来、それは迎撃が追いつかず、肉塊と化した百燐だ。

 

 

 

「戦闘中の過度なおしゃべりは、身を滅ぼすのだと」

 

「何ィ……!」

 

 その脚が振るわれた先に、百燐はいなかった。

 そして、不審者に投げかけられた忠言に、即座の離脱では無く、思わずその方向……上を見てしまう。

 そこには、天井の照明、そこを足掛かりとして張られた糸を掴み浮く百燐の姿。

 

「ぐおおぉぉッ!?」

 

 もはや回避しようのない剣が、容赦無く変質者を切り刻む。

 

 

 一撃目で性器が切断される。これを用いた能力による迎撃は、間に合わず。

 そして、次いで二撃により、変質者の腰から上が、神速の居合により切って落とされる。

 

 

 勢いにより数メートル吹き飛ばされた、変質者の上半身。

 糸から手を離し着地した百燐は、素早くそれに向けて駆ける。

 

 既に下半身の再生は始まっているが、それは仰向けに倒れた姿勢も相まって百燐の迎撃に間に合うような状態では無い。

 

「一言だけ遺言を聞きますぞ」

 

「……」

 

 

 一切動作を止める事は無く、変質者の心臓に向けて刃を振り上げながら、百燐は最後の慈悲を見せる。

 変質者はそれに一瞬、顔から表情を消し。

 

 

 

 

 

 

 

 

「遺言を残すのは貴様だ老いぼれ!!」

 

 

 満面に凶悪な笑みを浮かべた。

 

 

「むっ……!?」

 

 瞬間、百燐の背に向け死が襲い来る。

 ミシリという、背骨を軋ませる音ともに、百燐の体が吹き飛ぶ。

 

 糸を仕込んでいなければ死んでいた。

 素早く受け身を取り、その攻撃の正体を見た百燐は目を見開く。

 

 

「く、はは、フフ……ハハハ!」

 

 

 かさ。かさかさ。

 

 そこには、これまで見たものしかいなかった。

 即ち、異形の下半身。

 

 

 

 

――――――それが、変質者の体から切り離されたまま、一人でに動いている事を除いて。

 

 

 

「来るがいい、我が愛し子よ!」

 

 立ち上がれるまでに下半身を再生した不審者が叫ぶ。

 音声認証の装置なのだろう、それに反応し、ホール状の部屋の外周にいくつもある扉が解放され。

 

 

「これ、は……!」

 

 顔を歪ませる百燐の前に、ソレは姿を現した。

 

 

 

 

  かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。 かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。 かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。 かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。かさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かささかさ。

 

 

 

 

 

 

「ああ、どうだ。ゲガルドの姫君より受け取りし我が力は、『百人切り』。美しいだろう? 私の下半神たち(・・)は」

 

 

 

 

 

――――――無数の、変質者の下半身が怒涛の如く部屋へと雪崩れ込む。

 

 

 

 

 

『種の繁栄を約束する器官は下半身にある。余計な付属物なぞ不要』

 

 狂人と呼ばれし天才たち、アダム・ベイリアル。

 その一人は、かつてそう高らかに言い放った。

 

 

――――――それを、体現する生物が存在する。

 

 生殖行為とは新たな生命の誕生の前段階である神聖な儀式だ。

 己の遺伝子を次代に次ぐために、生物達は様々な工夫を以てそれを成そうとする。

 

 

 ある生物の雌は、自身の身のほぼ全てを子の栄養に捧げ、健やかな我が子の誕生を自分の死と引き換えにする。

 またある生物の雄は、器官レベルで雌と融合し、その体の殆どの機能を退化させ精を提供するだけの器官の一部と化す。

 

 

 この生物もまた、特殊な生殖様式を持っている。

 群を成して生殖行動を行う彼らは、それを食用とする地域では豊穣の象徴である聖なる生き物として扱われている。

  

 生殖は、生物にとって最重要であると同時に危険な行動でもある。大きく体力を消耗し、外敵に対して無防備を晒す事となるのだから。

 本来なら岩陰や砂底で暮らす彼らもまた、生殖の際に水面付近まで移動した際には多くの魚類に狙われ、人間にも年に一度のごちそうとしてその多くが捕獲されてしまう。

 

 捕食される特大のリスクと、次世代を残す特大のリターン。リターンを最大限に得た上で、リスクを最小限に抑え込むために、彼らは特異な性質を手に入れた。

 

 

 学術用語で『schizogamy(シゾガミー)』と呼ばれるそれは、本体を危険に晒す事なく旅を行う事ができる。

 

 一見、矛盾しているように思えるだろう。高い再生能力こそあれ、脆弱な彼ら。本来ならば、外に出る事自体が大きな危険となるはずだ。外に出ないなら、旅などとは言えないだろう。

 

 

 ……あるのだ。本体を危険に晒す事無く、生殖の旅を行う方法が。

 彼らは、高い再生能力を持っている。失った体の部位を何度も取り戻す事ができる。

 

 

 概ね、予想は付いただろうか? 

 そんな彼らの、自身の体構造を最大限に活用した手段。そう――

 

 

 

 

 

―――――彼らは、下半身だけを分離させ、生殖に送り出すのだ。

 

 

 

 

「ああ、美しい……これぞ、楽園だ……そう思うだろう?」

 

 下半神の園で、狂人が恍惚に笑む。

 

 

 

 

 

 アダム・ベイリアル・ハルトマン

 

 

 

 

 

 MO手術ver『魔女の脚(バーバヤーガ)1.1』 “特定部位複合型”

 

 

 

 

"甲殻型"タカアシガニ +"昆虫型"ノミ +"昆虫型"チビミズムシ +"節足動物型"バギーラ・キプリンギ etc……

 

 

 

 

  +

 

 

 

"環形動物型"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――パロロ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

―――――下半神(バーバヤーガ1.1)再起立(アウェイクン)




観覧ありがとうございました。

下半神、ご期待ください

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