深緑の火星の物語   作:子無しししゃも

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間が空いてしまいました、第40話です。

キリのいい話数、ストーリーの上でも大きな転換点となる話です。
心理描写多めであります。


第40話 "私"の話 (後編)

 フィエステリア・ピシシーダ。

 通常のMO手術では適性を得る事が極めて難しい、特殊なベース生物の一つ。

 

 その理由はいくつかある。

 

 

 第一に、単純に適性を持つ人間が極めて限られているという事。αMOならともかく、通常のMOでは地球上を洗いざらい探してもその数は万に満たないであろう。これは、他のαMO手術のベース生物にも言える事であるが。

 

 次に、フィエステリアという生物の特性。休眠形態から遊泳形態に、遊泳形態からアメーバ形態に、人間がその受け皿となるには荷が重い、急激かつ急速な変化。

 

 最後にこれが一番大きな理由であるが、フィエステリアが単細胞生物である事。

 

 一つの細胞で独立した生命体として成立している存在を、人間という多細胞生物に融合させ、その器で能力を起動する。これの解決には多くの時間を費やす事となった。単体で完成している生物の能力を、群体によって構成される生物がその総体で能力を使用できるように移植しなければならないのだ。中国から極秘で入手した『紅式手術』のプロトタイプのデータも参考の一つとし、いくつかの技術的制約をクリアしようやく完成となったそれは、MO手術の本場、技術大国ドイツの英知の結晶と言えるだろう。

 

 そして、この技術が最初に用いられたのは、αMO手術、その完成形の初の被術者であった。

 αMO手術という技術。単細胞生物のMOベース化という技術。

 これらを組み合わせた、まだ十分に安全の確認もできていない手術をその被術者は受け入れ……とはいっても彼は死刑囚であったため、拒否権は最初から無かったのだが、とにかく彼は自ら進んでそれを己の身に施した。

 

 結果は成功。彼は強大な力を手に入れ、そして、自らの理論の正しさを証明した。

 そう、それが極めて低確率の成功を偶然手にしたと知らないまま。

 

―――――――――

 

 熱い。全身を灼熱に炙られているかのような苦痛を伴った熱さだ。

 体中の神経が別の生物に作り替えられていく細胞たちの悲鳴を集約し脳に伝え、臓器は変化を必死に食い止めようとフル稼働する。

 

 今の私の体内は、人間という生物としての体は地獄の釜と化している。

 これが、私の受けるべき罰なのだろう。これが、私という人間の行く末、末路なのだろう。

 

 ここで死ぬのはまだ早い。最後に、やらねばならない事があるのだ。

 阻止しようと伸ばされた手を振り払い、一歩下がる。

 私は、目の前のアナスタシアを見据える。

 彼女があの研究会の後どのような経緯を辿ったのか、私は知らない。何故"裏切り者"に与しているのかもわからない。

 しかし、どのような理由があったとしても。彼女が私のかけがえのない友人であり、研究者としての知を競い合ったライバルであったとしても。いや、だからこそ。ここで決着を付けなければならない。

 

「博士、どうして、でしょうか……そんなに私の手で楽になるのが嫌なのですか……?」

 

 この戦闘に、私の勝利という結末は存在し得ない。

 過剰摂取。変態用の薬を多量に摂取する事により変態の度合いを通常よりも進め、能力を高める手段。

 通常のMO手術であれば、まだ元に戻る事のできる希望はある。しかし、αMO手術のそれは通常の変態でもその度合いは過剰摂取に近い状態となっている。これ以上度合いが進めば、それは最早歯止めが効かないものとなる。

 

 相討ちか私だけが死ぬか。結末はその二択でしかない。良くてイーブンだ。

 そう、この戦闘ならば。

 

「わからない、わからない、わからない! 何故なのです!? こんなに好き勝手に利用されて、大切な家族を殺されて、兵器として、国に利益を渡すためだけの道具として使い捨てにされて、それでもまだそんな国の為に、こんな世界のために抗おうとする、私にはわからないのです!ああ博士、貴方も私と同じでおかしくなってしまったのですねそうですよね手術を受けたのは博士の方がずっと前なのですから症状の進行もきっと博士の方が速いんですよねそうですよねわかりますきっとそうですそうに決まっています!」

 

 ……認めたくない、とばかりに早口でまくしたてるアナスタシア。

 改めて、私は彼女との出会いを思い出す。

 

 研究会会場の廊下でぶつかって涙目になっていた彼女を。その性格と能力により孤立している事に寂しさを感じていた彼女を。研究会で本多博士と私に惜しくも及ばず、悔しがる彼女を。長きに渡って研究を重ね、周囲から若き天才と持て囃されていた私と本多博士。

 そう呼ばれてはいたが、きっと私は、もしかしたら本多博士でさえも、天才などではなかったのだ。境遇と弛まぬ努力、恵まれた機会。そして少しの才能。その全てが合わさって、あの場に立つ事ができていたのだ。それと同じ領域に私達の半分と少ししか生きていない段階で到達した彼女。

 

 彼女の存在が無ければ、我々はとっくにアネックス一号との合流という形の勝利を掴んでいただろう。

 ロシアの研究院が彼女をスカウトし、クローン技術を最大限に発揮し、それを磨く機会を与えなければ。彼女を始末しようとしなければ。逃げ出して負傷した彼女が中国の手に渡らなければ。彼女は今この場に無数のMO能力を携えて、裏切り者の指揮官として立ってはいなかっただろう。

 

 紛れもない天才。人類の宝と呼んでもオーバーではない、その才覚、英知。

 

 ……だが、私を含め彼女をそう呼び褒め称えた、敬愛した、あるいは恐れた人々のどれだけが、気付いていたのだろうか。

 

 彼女が、よく泣いてよく笑う、自分の興味のある事にはどこまでも前向きな、少し気弱だが優しい、どこにでもいる少女であった事に。

 

 

 大切なものを失い、その原因を根絶するためさらに罪のない人間の屍の山を築いた私。国を守る、その一心で未来ある多くの若者を犠牲にし、世界を裏切る道を選んだ本多博士。私という人間は根本から狂っていたし、本多博士は強すぎた。だが、彼女は。人類史に名を残してもおかしくないであろう偉大な能力と共に同居していた彼女という人間は、あまりに普通だったのだ。

 

 だから、こうして壊れてしまった。誰もが天才であり、普通の人間であった彼女を利用し、切り捨てたが為に。

 彼女にも償うべきなのだ。しかし、それをするにはあまりにも遅すぎた。

 

 

「……私は、国の為に動こうなどとは思わない。世界のためでもない」

 

 彼女に、私は言葉を返す。国には感謝している、死を言い渡されるだけの私にこの機会を与えてくれた事に。

 世界、世界と言われればそうなのかもしれない。だが、私は、世界ではなく。

 

「じゃあ、なんで」

 

 アナスタシアの目からは光が消え、その暗い双眸はただ私を映している。

 失望されてしまったか。残念だ、などという人間的な思考、それがまだ残っている事に苦笑する。

 

 二匹の異形のテラフォーマーが構えを取り、私との距離を詰める。問いかけておきながら、答えなどは聞きたくない、そんな相反した思考の意思表示だろうか。

 

 

「国でもない、世界でもない……国が破れようが、世界が崩壊しようが、ただそこにいる人達の未来を守り、次に繋ぐ! 私は、その為にここに立っているのだ!!」

 

「――――――――――――」

 

 声にならない、落胆と絶望の表情を浮かべたアナスタシアが異形のテラフォーマーを伴い突撃してくる。

 アメーバを展開し、それで異形のテラフォーマーの一体を包み込む。

 

 全身を覆うオニヒトデの毒棘が突き刺さるが、今の私の肉体は苦痛すら受けている余裕がない状態だ。

 アメーバで圧潰させるにはあまりに強固なオニヒトデの外皮によって強化されているテラフォーマー。だが。

 

 直後、異形のテラフォーマーの体中に数十の穴が開き、その身が揺らぐ。

 

「なっ―」

 

 驚愕の表情を浮かべるアナスタシアであったが、タネを明かせば簡単な事だ。フィエステリアの捕食器官、微生物であるフィエステリアが魚の皮膚と鱗を貫く事を可能とする武器、ペダンクルの複数同時展開。流石に数十という数をアメーバ形態を保ったまま行うには専用装備だけでなく過剰摂取の力も必要で負担も大きいが、その火力は非常に高い。

 

「ァァァァ……!」

 

 体中に穴を開けられてまだ生きているのか、異形のテラフォーマーはアメーバに溺れている状態で咆哮する。くぐもり殆ど外に漏れる事はない声だが、私の体の一部であるアメーバを通して振動が伝わってくるため、実に不快な感覚だ。

 

 しかし、次の瞬間にそれは沈黙した。一度体に傷口ができてしまえば、もうこちらのものだ。過剰摂取で大幅に強化された毒を流し込み、瞬間的に異形のテラフォーマーを停止させる。異形のテラフォーマーは寄生虫によって操られている存在であるため、通常のテラフォーマーと異なり寄生虫の存在する脳を破壊しなければ活動を完全に止める事はできず、呼吸により摂取される毒の効果も薄いが、全身の傷口から流し込み器官を機能不全にすれば無力化が可能だ。

 

 次いで襲い来るもう一体を腕から生えたペダンクルで迎撃、数回打ち合い距離をとる。

 

 その時、わき腹に鈍い感覚が走り、すぐしてドロリという液体が零れた感覚に襲われる。

 目で確認するまでもなくアメーバを振り下ろし、わき腹を裂いたアナスタシアの尾のような手を押し戻す。

 ハリガネムシの硬化と筋肉凝縮による強化を施した手刀。人間一人の体を破壊するには十分な破壊力のそれの与えた傷口からあふれ出す血を確認。大丈夫だ、内臓が零れたわけではない。

 

 間髪入れず二匹目のテラフォーマーが腰から生えた腕で大振りな一撃を放ってくる。

 それをアナスタシアの尾を押し戻したアメーバの塊で防御し押しとどめた後、同時にベダンクルで喉を穿ち反撃。流石に次ぐもう一撃で吹き飛ばされはしたものの衝撃を和らげる。

 

 少し空いた距離を詰めようと異形のテラフォーマーとアナスタシアが近づいてくるが、テラフォーマーの動きがぴたり、と止まる。命令と違う動きだ、と足を止めないまでもアナスタシアは異形のテラフォーマーの方をちらりと見るが、その隙は逃さない。

 

 再びアメーバを伸ばし、アナスタシアの胴を拘束する。異形のテラフォーマーはそれに対応する事なく崩れ落ちた。その喉には、ぽっかりと穴が開いている。

 

 異形のテラフォーマーがその部位を破壊されても活動を続行できるのは承知の上。アナスタシアもそれを理解した上で大したダメージではないと考えていた。だが、それは大きな間違いだ。

 

 損害が喉に開いた穴のみならば、その通り。しかし、それ以上のダメージを内部に負っていたのだとしたら?

 

「……脳を貫いたのですか」

 

 拘束されたまま杖で地を叩き、アナスタシアは独り言のような声色で質問してくる。それは疑問ではなく、確信を持った言い方だ。

 

 その通りだった。喉を貫き、そのままペダンクルを上向きにし喉を駆けあがり、そのまま突き進んで脳を貫き破壊する。理屈としては簡単なものだが、反撃が来るまでのわずかな時間にこれをこなす反応速度は、やはり過剰摂取による強化に由来するもの。つくづくギリギリの戦いを強いられているものだ。

 

 アナスタシアの言葉と同時に、己の脚をアメーバ化し、その上でペダンクルを形成し防御する。直後に襲い来た尾の一撃はペダンクルを数本折り、止まった。

 

 このまま締め上げれば、私の勝ち、いや、相討ちだ。二体の異形のテラフォーマーを撃破し、ようやく彼女に届く事ができた。ここで仕留める事ができたのなら。

 

「もう終わりだ、アナスタシア」

 

 降伏勧告はしない。する意味もない。彼女は最後まで拒み続け、今ここに立っているのだろうから。

 時間をかければ、アナスタシアの体に接触しているため寄生虫を流し込まれる危険がある。

 先ほどの異形のテラフォーマーにしたのと同じように、この状態で無数のペダンクルを展開する、それだけで再生能力があるとはいえただの人間であるアナスタシアはαMOを含む臓器を喪失し、死に至るだろう。もう既にその体は過剰摂取を行った私に近い状態となっている。能力の核であるマンボウを制御しているαMOを破壊すれば、その全体の能力は暴走し、その肉体を破壊するだろう。

もしくは、頭部の破壊。それならば、確実な死を迎える。MOを葬る事での死。それとも、彼女を葬る事での死。どちらが、せめてもの、ほんの少しでもの救いとなるのだろうか。

 

「悲しいですね、博士。最後くらいは、あちらの名前で呼んでほしかったのですが」

 

 追い詰められた状態のアナスタシアが発した言葉は、怨嗟ではなかった。

 あちらの名前? なんの話だ? 私の記憶に、彼女の言葉がするりと入り込み、何かを思い出させようとしてくる。しかし、はっきりとわかる。これは、今の戦闘とは全く関係の無い事だと。

 

 アナスタシアの杖がもう一度、かんと地面を叩く。

 ……嫌な予感がする。もう時間も少ない。私は、とどめの一撃を――

 

 

 ――刺そうとしたその時、地面が吹きあがった。まるで間歇泉のようなそれに目を奪われた瞬間、横殴りの力任せの一撃を叩きこまれ、骨がひしゃげる感覚を覚える。

 

 霞む視界には、拘束を逃れ立ち上がるアナスタシアと、その周囲を囲む四体の異形のテラフォーマーが在った。

 ああ、こんな事が。まだ、余力を残していたというのか。

 

 血を吐きながらなんとか立ち上がる。この上で、この数は。もう。

 

「完全に死に体の、私が動かさねばならない失敗作ではありますが、取っておいてよかったです」

 

 静かに、喜色は見せず、アナスタシアは淡々とこの切り札の事について話す。

 

 

「……さようなら、ヨーゼフさん。私の尊敬する、大好きな博士」

 

 

 同時に襲い来る、四体の異形のテラフォーマー。

 ……ここで、終わりか。

 私を殺し、エリシアを殺し、その後で誰かに殺されるのか、それとも裏アネックスを殺し尽くすのか。

 誰かに殺されるにしろ、任務を完遂した上で衰弱死するにしろ、彼女という()()を知るものは、誰もいない場所で彼女は最期を迎えるのか。

 力及ばず、届かなかった、罪無き子ども達が苦しむ事なく見る事のできる未来。

 それを自分の手で、見て、叶えられなかった口惜しさ、それと同じくらい、彼女が迎えるであろう孤独な最期に口惜しさを覚えるのだ。

 

 ああ、なんという事だろう。人の為に未来を救う、などと大言壮語をしておきながら、それと同列に死の間際にたった一人の、個人の、自分の大切な仲間の心配をしているなどとは。

 自分が弱い人間である事など最初からわかっていた。しかし、芯に据えた思いがこのようなところで別のものを考えてしまうような信念だったとは。

 

 

 ……いや、ならば、だからこそここで終わるわけにはいかないのだ。

 人を、未来を救う、それは私の後に引き継いでくれる人達がいる。最悪な話、私でなくても救ってくれる人間はいる。

 では、もう一つの方は。

 

 

 

 四体の異形のテラフォーマーが同時に振り下ろす拳、その隙間、わずかな隙間でアナスタシアに一撃を加える事ができる。頭部を正確に破壊できるだけの時間はない上に硬化で守られているに違いない。標的の大きい体を狙った一撃では再生される。どこを、どのような力で狙うべきなのか。

 

 手を伸ばすかのようにして猛撃の隙間からペダンクルを伸ばす。それを見て悲しげに笑うアナスタシア。私は、それを、

 

 

 

 その手に持つ杖を貫いた。

 

 

「……あ……」

 

 同時に、異形のテラフォーマーが動きを止め、そして、アナスタシアが糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。

 ペダンクルは持ち手に直撃し、杖の上部を砕いた。その破砕した部位から覗くのは精密機械。

 

 異形のテラフォーマーはぴたりと停止して動かない。

 

 血まみれの体を引きずり、私はアナスタシアの傍に近づく。

 

「……いつから、気が付いていたのでしょうか……私が、自分で自分を操っていた事に」

 

「最初から、だ。確信は持っていなかったよ」

 

 地面に倒れ、ぴくりとも動かないアナスタシアは、口を動かす事さえも苦しげな様子だ。

 何故、アナスタシアは杖で地面を叩く動作を頻繁に行っていたのだろうか。ただの癖という可能性もあるが、彼女の性格からしてあまり合っていない動作だ。そんなおぼろげな理由であるが、この動作には何らかの意味があるのではないか、と思っていた。結果は、これだった。

 

 

 アナスタシアは、もはや自分自身の力ではまともに体を動かす事すらできなくなっていたのだ。あの杖は、原理こそわからないが自身の体から生じた寄生虫を選択的に操る事ができる道具だった。彼女がいくら多数の寄生虫の能力を持っていたとしても、自分の体から生じた存在であるとしても、別の生命である寄生虫を操る事はできない。

 それを用いて、彼女は自身の脳に巣食わせた寄生虫に命令を与え、無理やり自分の体を動かしていたのだ。執念では、心だけでは限界がある。ならば、執念を実際の動きに変換できる道具があれば。彼女は、そこまでしてここに来ていたのだ。

 

 

「あーあ、私の負け、ですか……結局、最後まで博士には勝てなかったなぁ」

 

 苦しげに頭を動かし、彼女は空を見上げる。その目にはわずかであるが光が点り、少しだけ正気を取り戻したかのような雰囲気になる。

 

「もって数分、といったところでしょうか」

 

 余命宣告。それは、彼女自身のものなのか。それとも、私のものなのか。

 そう迷うほどに、私の体もまた、崩壊が進んでいた。

 

「ごめんなさい、博士。言ってませんでした」

 

「何だ」

 

「私の頭の中、爆弾が埋まってるんですよね。死んだ時に道連れにできるように」

 

「そうか」

 

「もう逃げられる距離じゃないですね、博士」

 

 その言葉に驚きこそなかったが、少し悲しい。彼女は、結局他人に利用されたまま兵器として死んでいくのかと。

 

「でも、ちょっと嬉しいんです」

 

 表情を変えるのも難しいのか、アナスタシアは目元を数度ぴくりとさせた後、穏やかな笑みを浮かべた。

 嬉しい、か。

 

「私はこんな事をして、地獄行きですね。博士もひどい事たくさんしました。だから地獄行きです。つまり、向こうでも一緒ですね。嬉しいなぁ……ああ、バイロンには謝らないと……あの子はああ見えて寂しがりやですから、怒りながらでも待ってるかもしれません……それと、今から巻きこんじゃうヨハン君にも……あれー、あの子は良い子だからもしかしたら天国かもしれませんね……」

 

 感情が昂った時の彼女の口ぶり、まくしたてるようなそれも今は弱弱しい。

 だが、そこに少しでも彼女の救いがあるような気がして。

 

「悪いな、私は死後の世界は信じていないんだ」

 

 ただ、私は自分の考えを嘘偽りなく言う。こんな場面で彼女のための嘘もつけないなど、自分の性格を残念に思うが。

 

「ふふ、博士は酷い人ですね」

 

「ふう、久しぶりに運動をして眠くなってきました……では博士、おやすみなさい」

 

 私の言葉に少しだけ頭を動かして笑い、彼女はゆっくりと目を閉じようとする。

 ……そんな彼女に、私は最後に思い出した記憶、その事を伝える事にした。

 

 私は一度だけ、彼女にそれを言った事があった。

 可愛らしいあだ名だけど、周りは自分の事を怖がっているから呼んでくれない、と。そう哀しげな笑みを浮かべる彼女。

 そんな彼女の事を一度だけ、そう呼んだのはその時の一度だけだった。

 積み上げられていく記憶、その底に埋もれた些細なエピソード。

 

 ああ、なるほど、だから、彼女は。あの子の名は。

 

「……おやすみ、ナターシャ」

 

「本当に……ひどい……ひと……ですね、はかせ……は……えへ……へ……」

 

 穏やかな眠りについた彼女を置いて、私は立ち上がり、歩く。

 爆弾が機動するのは何秒後の事なのか。

 

 思い起こせば、ずいぶんと遠くまで来てしまったものだ。

 

 頭の中を過るのは、人々の顔だった。

 

 両親、近所の人達。

 幼少時代の友人。

 研究グループのメンバーたち。

 

 ぷつり、という音と共に皮膚感覚が無くなる。

 

 お互いの技能を競い合った大切な友人、アナスタシアと本多博士。

 

 ごぼり、と足が意思と無関係にアメーバ状に変形し、歩けなくなる。

 

 何よりも大切だった最愛の妻と娘。

 

 どろり、と傷口から内臓のような何かがあふれ出してくる。

 

 そして、孤児院の子ども達。

 

 ミゲル、ソーニャ、アベル、数えるのは、数十人の、忘れた事の無い名。

 その最後に、ナターシャ。

 

 

 

「死後の世界、か」

 

 もう体は一歩も動かず、岩にもたれかかる事しかできない。

 

 死後の世界。そんなものは信じていなかった。正確には、信じたくなかった。

 死後の世界で自分が命を奪ってきた子ども達が幸せに過ごしている、などという考えに囚われては、自身の贖罪に甘えが出てしまう、と考えていた。

 

 だが、今は。

 何の罪もなく死んでいった妻と娘、自分が奪ってしまった孤児院の子ども達。非道を行ったとはいえ、救われていなかったアナスタシア。そんな皆が幸せに過ごしている世界、そんなものがあってもいいのではないかと思う。

 

 

 既に殆ど機能が喪失されかかっている視界に、強烈な光が飛び込み、同時に耳には轟音が響き渡って来る。内臓が焼け落ちるような業火が近づいてくるのを間近に感じる。全てが融け落ち、崩れていく。

 

 

 死後の世界が仮にあったとしても、天国と地獄、そんな良し悪しで二分される場所なのかも知らないが、自分が行くのは悪し、の方であるのはわかりきっている話だ。自分は罪を重ねすぎたのだから。

 

 ただ、それでも。自分が許される事の無い存在であることなどはわかってはいても。

 

「君たちと同じ所に行けたら、などと……考えてしまうよ……」




観覧ありがとうございました!


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