深緑の火星の物語   作:子無しししゃも

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第101話です。
戦闘&回想&。


第101話 苦痛の棘

「おっ、あんたが例の家出少年っていう? ふーん。へー?」

「……あ?」

 

 血まみれで裏路地を歩いていた彼に声をかけたのは、この貧民窟にはどう考えても場違いなドレスを纏った少女だった。

 

「どうせヒマなんでしょー? だったらちょっと、付き合ってくれない?」

 

 青年が外見から察するに、十代半ば……一回り年下だ。

 金の長髪、友好的な笑み。

 その容姿は名の知れた絵画のごとく美しく整っており、懐っこい笑みを浮かべている。

 

「ね、クロヴィスくんっ♪」

 

 びしっと指を付きつけながら青年──クロヴィスの名を呼ぶ少女。

 決まった……と得意げな様子の彼女に、クロヴィスは。

 

「……」

「あっちょっ! 無視しないで! 悪い話じゃないからー!!」

 

 彼女の横を通り過ぎ、足早に帰路を急ぐ。

 

 整った容姿、ここでは偽名で通していた自分の本名を知っている。

 そこから導き出される回答はひとつ。彼女は、ご同胞である。

 

 そしてわざわざこのような場所へ訪ねてきたのは、自分を連れ戻すか始末しにでも来たのだろう、という推測が浮かび上がる。

 

 

 クロヴィス・A・ゲガルド。

 彼はニュートン一族の中でも特殊な役割を担う分家、ゲガルドに生を受けた。

 とはいえ、彼が生まれた家の立ち位置は他の分家筋とそこまで変わるものではない。

 

『神殿』の管理、維持を担う当主筋ではなく、経済界に影響を持っているごく当たり前の名家。

 そこで彼は幼き頃より高度な教育を受け、長男として育てられてきた。

 

 優れた頭脳、運動能力。両親が経営する、いずれ受け継ぐことになるであろう企業。より性質を厳選するための、選び抜かれた許嫁。

 誰もが羨んで止まないであろう境遇の全てを蹴り飛ばし彼が家を出たのは、16歳の事であった。

 

 物心ついてからずっと、『己の生はつまらない』と思い続けてきた。

 

 何もかもが与えられ、教えられた通りに努力するだけで計算通りに進む予定調和の生。

 何歳の何ヶ月、テストでこの範囲内の成績を取る。

 このコンクールで最優秀賞を受賞する。

 何年の何月、この人間と交際を開始して、何年後に別れる。

 

 数多くの事例より算出された能力に基づく、一族の人間としてのキャリアの積み重ね、人生の予定表。

『レールの上を走るような人生』というのは使い古された表現であるが、クロヴィスのそれは度を超えていた。

 

 だから、外れてみたくなった。

 全てを投げ出して、周りから何を与えられることもなく純粋に自分自身の力を試してみたくなった。

 

 人生というのは、理不尽で予測不能で面白いものであるのだと知りたかった。

 

「連れ戻しに来たなら諦めろ。服が汚れない内にとっとと帰るんだな」 

 

 そんな彼からすれば、このヨーロッパのスラム街を渡り歩くのは少なくとも実家よりまだマシだったと言えるだろう。

 ストリートファイトの見世物を演じることもあった。

 縄張り争いをしているマフィア共の用心棒として雇われることもあった。

 

「そんなんじゃないわよ! アンタをスカウトしに来たの!」

「……はぁ」

 

 けれど、それで十分な充足を得ることはできなかった。

 家の財力とサポートを捨てたとしても、彼には一族として受け継いだ強靭な肉体と頭脳があった。

 それを振るえば、大概のことは今までと何も変わらず予定調和のように上手くいってしまう。

 

「……何をさせるために?」

 

 クロヴィスの内には返答を聞く前から失望があった。

 結局、少女のスカウトとやらも自分を満たしてくれるようなものではないのだろう。

 ひと時の暇つぶしくらいになればいいのだが。

 体のいい捨てゴマにでもするつもりなら、それはそれで構わない。

 戦場にでも放り込まれて死ぬのなら、多少は満足できるかもしれない。

 

 

 

「世界征服」

 

 そう考えていたから、荒唐無稽なその回答に彼は言葉を失った。

 

「もっと楽しいコト、やりたいんでしょ? だったらあんた、あたしの執事になりなさい! こき使ってやるから!」

 

 少女の言葉を脳が理解するにつれ、くつくつと笑みが漏れ出る。

 とんでもないバカに捕まった。

 それがクロヴィスの最初の感想である。

 

「人集めて国取って、最後は世界も丸ごといただき! あたしのために命張ったりヒマな時の話し相手になったり、きっと飽きないわよー?」 

 

 それから、彼は納得する。

 なるほど、最初から発想のスケールで負けていたのだと。

 こんな場所でジメジメとアウトローなんざしていたら、そりゃ満たされるワケもない。

 

 恵まれた才能があるから何でもできてつまらない、などとほざくくらいなら、それを以てしてでも無理ゲーだ、と思うようなことをするべきだった。

 

「そりゃでけぇ仕事だな。報酬は?」

 

 その時に見た笑顔は、クロヴィスには今もなお鮮明に思い出せる。

 

 

 

「あたしが世界の王様になるところ、一番近くで見れる権利っ!」

 

 何もかもが予測不能な目の前の少女は、自信満々で大真面目で、理不尽に満ち溢れていた。

 

――――

 

「……ふ、む」

 

 クロヴィスの投擲具、中空となっているガラス質の針状の武器。

 オリヴィエは己の腹に突き立ったそれを引き抜いて、放り投げる。

 

 栓が抜けどくどくと流れ出した血は、3秒も経たない内に塞がった。

 彼の手術ベースヒトの胎芽による高速の再生能力。

 この程度の傷であれば、彼の際立った継戦能力にはなんの影響も与えない。

 

 

 反撃のため槍を構えようとしたオリヴィエの視界に移ったのは、クロヴィスが指で弾き迫ってくる針。

 身をよじり、それを全力で回避しようとする体勢へと移る。

 だが。

 

「遅い」

「──」

 

 一歩踏み出そうとした脚を、狙撃銃の重い一射が打ち抜いた。

 肉が弾け、右足が膝下から千切れ飛ぶ。

 

 そして、クロヴィスの針は回避される事なく次々とオリヴィエの身に突き立った。

 

 

 オリヴィエが今取ったのは、この戦いを見守っている戦士がいたとしたら、不合理に移る回避行動だった。

 

 クロヴィスが投擲する針は、体を貫通するような威力のものではない。

 通常であれば警戒すべきは、胴に直撃すれば内臓が抉れ飛ぶ威力を持つ銃の方だろう。

 

 事実その結果、オリヴィエは大威力の銃を被弾し、その後、結局針までも受ける羽目となった。

 

「どうした、化物。もっと良い反応を期待したのだがな」

 

 理由を明かせば、心底意外に思うかもしれない。

 槍の一族を統べる王が、遥か数百年を生きる怪物が、まさか。

 

「“痛いのは嫌だよー”とでも子供のように泣き叫ばないのか?」

 

 一時的な苦痛から逃れるために、不合理な選択を強いられたなどと。

 

 

「いや……はや……これは、中々……」

 

 ゆらりと立ち上がるオリヴィエの傷は、既に塞がっている。

 刺さった瞬間に引き抜いた針による刺傷、破壊された右足。

 先の一合の攻防で受けたいずれもが、傷痕も残らず元通りになっていた。

 

 だがその表情には明確な変化が──額には、僅かに汗が浮かぶ。

 

 

 

──その毒性を語るにおいて、『致死』よりも『苦痛』が優先される植物が存在する。

 

 ギンピ・ギンピ。

 

 オーストラリアに生息する、イラクサの一種。

 これといった特徴も無い、いっそ地味といっていい外見で雑草の中に混じるその植物は、しかし人間にとって凄まじい不幸を与える性質を有している。

 

 根、茎、葉、その体全体を覆うのは、細かな棘。

 そして中空構造となっている棘の中に込められているのは、凄まじいまでの毒。

 

 猛毒。

 殆どの場合、それがどれほど強力なものか説明するための事例は、こうだ。

 

──たったこれだけで人間が何万人と死ぬ。

──1滴にも満たない量でマウスが死んだ。

 

 如何に少量で、どれほどの数を殺せるか。

 なるほどわかりやすい。

 

 それではこの植物の毒について説明する文を挙げるとしよう。 

 

──熱した酸を浴びせられたと同時に感電したかのような感覚である。

──刺されてから二年もの間、患部が痛み続けた。

──真偽は不明であるが、誤って葉で尻を拭き、痛みに耐えられず銃で己の頭を打ち抜いた人間がいた。

 

 致死率、という一般的な毒の強さを測る基準で考えればそれほどのものではない。

 死亡事例こそ存在しているものの、それは被害者全体の数に比べてあまりにも少ない。

 

 この植物が凶悪な有毒生物として名を馳せている理由は、その毒で生じる痛みにある。

『ギンピエチド』。

 

 彼らの刺毛に局在する特殊なタンパク質が著しい痛みを生じさせ、とある研究データによればその成分は神経細胞のチャンネルを恒久的に歪め挙動を不安定にし幾年にも渡り痛みを持続させるのだという。

 

 

 

 そして、元のスケールでさえこのように恐れられる生物の力を、人間大のスケールで、かつ能動的に、攻勢に運用したとすれば。

 

 

「……」

 

 これまでで棘を4発受けたオリヴィエの体内は、激痛という表現すら生温い苦痛の坩堝と化していた。

 

 何をするにも、痛みに思考が妨害される。

 生物の本能として、他の何よりも優先してそれを回避しようとしてしまう。

 もはや、平常の行動を取れるような状態ではない。

 

「……怪物め」

 

 だがそれでもなお、クロヴィスの表情にもまた余裕はなかった。

 

 オリヴィエの動きが鈍っているのは、痛みに対して耐性がないから、というわけではない。

 むしろ、それだけで済んでいるのが異常なのだ。

 常人であれば、いや、経験豊かな戦士であっても苦痛に苛まれ動く事すらできなくなる量を打ち込んでいるはずだ。

 

「今度は……私が追いかける番、という事……かな?」

 

 そして、無力化できなければ一度の判断ミスでたちどころに命を奪われる相手であることを理解しているからこそ、クロヴィスは油断せずに勝機を伺っていた。

 

 針を牽制に飛ばし、それを回避しようとした隙を銃撃で叩く。

 大槍の射程圏内を僅かに外れた距離を維持しながら。

 

 しびれを切らして距離を詰めようと強引に動いたオリヴィエの隙を突き、銃撃により体を打ち抜く。

 これまでに三発の銃弾が胴を打ち抜いたが、敵の唯一の急所、MO(モザイクオーガン)の破壊には至っていない。

 

 けれど、逆説的にこれまで銃が貫通した場所にMOが存在しないという事から、おおよその位置は予測がついていた。

 

 再び、オリヴィエが距離を詰めるべく地を踏みしめる。

 それは、クロヴィスにとって明確な攻撃の好機である。

 

 槍を構えたその姿勢は、胴の急所を晒す形となる。

 狙いを違えず、照準を合わせ──

 

「優雅さには欠けるが、仕方ない」

 

 その、瞬間。

 射程圏外であるはずの槍が、明確にクロヴィスを射程圏に捉える軌道で襲い来た。

 

「……ッ!?」

 

 一族の極まった動体視力と反射神経でオリヴィエを見れば、もはやその手に槍はない。

 

 投擲された。

 想定外の行動に、クロヴィスは一瞬、ほんの一瞬虚を突かれ対応が遅れる。

 だが、その程度の隙はニュートンの身体能力にとってはさほどのものではない。

 

 身を翻したクロヴィスの頬を辻風が掠め、槍がその身を貫くことはない。

 

 

 

 

「捕 ま え た」

 

 そして、一瞬の隙に距離を詰めることもまた、ニュートンの身体能力にとってはあまりにも容易かった。

 しまった、とクロヴィスは知覚するが、対応するにはあまりにも遅い。

 

「むぅ……!」

 

 首をへし折らんばかりの勢いで握られ、喉から貴重な酸素がひゅうと零れる。

 視界が明滅し、じわじわと黒に閉ざされていく。

 

 死の間際、その脳裏には走馬灯の如くいくつもの像が浮かんでは消え、を繰り返していた。

 

――――

 

「ん、よく……似合っ……んふふはははっ! あは、ははははは!」

「笑いすぎですぞお嬢様」

「似合わなっ! スーツも口調も似合わなっ!! ……あはははははっ!!」

「従者の品格は主人の品格……だからこんな似合わんものを着てるんだろうが……」

 

──お嬢様……ルメリア様は、不思議なお方だった。

 

「この少年、いかがいたしますかな? 指を折っていけば、内通していた相手はすぐにでも聞き出せるかと思いますが」

「食事とちゃんとした寝床を与えてあげて。後であたしから話聞きに行くから」

 

「……お言葉ですが、お嬢様。そのような温い姿勢では──」

「黙りなさい、クロヴィス。この子を見て決めたのよ。あたしの眼に文句があるのかしら?」

 

 

──気安い友のようであると同時に、気高い女王のようであり。

 

「ここの紛争も、しばらくは大丈夫かしらね……」

「流石の手腕ですな。永久の平和という絵空事も、夢では──」

「お世辞はいいわ。あたしが死んだら、この平穏は終わりよ」

「今はあたしのすっごーいカリスマで無理やり繋ぎ止めてるけど。不安定に過ぎるのよ、今はまだ、ね」

 

「……は。仰る通りですな」

「だからまだまだ長生きしないとっ! 期待してるわよ執事! 健康的な食生活から護衛まで何でもね!」

 

──どこまでも現実主義者であって、何よりも世界の残酷さを理解していたはずなのに。

 

 

「オリヴィエぇ……アンタほんと胡散臭さの塊みたいなヤツなんだから、もうちょい真面目にやりなさいよ?」

「耳が痛いね。しかしそういう君も、一家(最高会議)の総意から離れて勝手に動いているようだが、それはいいのかい?」

 

「あたしはいいの! いずれ世界の王になる女よ! アンタも他の連中もすーぐにわかるんだから!」

「それはそれは、結構なことだ。その日が来るのを楽しみにしているよ」

「感情が籠ってない! 言い直しなさい!」

 

──政敵とも平然と席を囲み、いつか分かりあえると心から信じていた。

 

 

 そんな彼女の元には多くの人間が集い、同じ夢を見ていた。

 恐怖による支配などではなく、人々が手と手を繋いで成す世界統一、などという絵空事にしか思えなかった夢を。

 

 彼女はこのまま、どこまでも高く飛んでいくのだと。

 その姿を最も近くで見ていた執事は、そう信じて止まなかった。

 

 

 ……だが。

 

 

「……火災?」

 

 彼の、人生で二度目に全てを変えてしまった一日の記憶は、目まぐるしく移り変わる。

 

 

 客人に出す食事の材料に、買い忘れがあった。

 その調達を頼まれたクロヴィスが急遽家を空けた、たった一時間のことだ。

 彼の主君と僅か数人の使用人が残っていた屋敷は炎に包まれ、跡形もなく焼け落ちた。

 

 

 

 

「これはッ……どういう、こと、だ……!」

 

 一面の炎へと飛び込む視界は、一転して豪奢なホテルの一室へと変わる。

 一族の最高位たち、ニュートン一家による緊急の会議。

 

 礼儀の欠片もなく扉を蹴破った彼を迎えたのは、憐みの感情が多くを占めていただろうか。

 

「オリヴィエ……! 貴様がッ!!」

 

 周囲へと一切の意識を向けることなく、参加者の内のひとりにクロヴィスは全力で走り寄った。

 一族の存続が危うくなるような事態──例えば、一家に名を連ねる人間のひとりが暗殺された、などという事態になれば、必然的に召集される家系の人間に。

 

 ……加えて。

 一族に無断で日頃世界を飛び回っている彼女が屋敷に戻っている日程を知る人間──今日の客人であった男に。

 

 

「……誰の許しを得てオリヴィエ様の玉体に触れようとした、下郎が」

 

 だがクロヴィスが懐から取り出した暗器は、その喉には届かなかった。

 オリヴィエの傍に控えていた白スーツ──椅子に座る事もなく岩のように佇んでいた青年が、クロヴィスの腕を掴みへし折らんばかりの力を込めていたのだから。

 

「死ね。我が主の御目を穢した罪過、その薄汚い命で贖うがいい」

 

 青年が懐から銃を取り出す動きを、クロヴィスは目で追うことができなかった。

 押さえつけられた腕はぴくりとも動かせない。

 

「離してあげなさい、陸藍(ルゥラン)。君の忠節はとても嬉しく思うけど……クロヴィス君をあまり責めないであげてほしい」

 

 だが、彼の心臓を射貫こうとした弾丸が放たれることはなかった。

 不気味なほど穏やかに、オリヴィエはクロヴィスと己の従者である青年へ微笑みかける。

 

「主を失った従者がどんな気分なのかは、自分に置き換えてみたらよくわかるだろう?」

「……仰せの通りに」

 

 次いでの言葉でようやく納得したのか、青年はクロヴィスから手を離す。

 もはや、クロヴィスには目の前の敵へと挑む気力は失せていた。

 

「クロヴィス君も、こんな席に参加している場合ではないんじゃないかな」

 

 ただ無駄死にするだけであると、理解していたからだ。

 それに加えて。

 

「きっと彼女も、心細く思っているよ。一番信頼できる人が傍にいないと──」

「──まだ生きている、と気付いた誰かが刺客でも送り込んできたら、大変だからね」

 

 平坦な、感情の籠っていないオリヴィエの言葉で、クロヴィスは弾かれたように会合の場を後にする。

 死ぬわけにはいかないと思った、ただ一つの理由のために。

 

 

 

 視界が歪む。

 記憶の行き止まりは、絶対安静を無視して飛び込んだ病室の中だった。

 

「……ごめんね、クロヴィス」

「お嬢様」

 

 その名を呼ぶ声には、いつもの気勢は残っていなかった。

 

「アンタが、飽きないように、ずっと、楽しいもの、見せてあげる、って、言ったのに」

「お嬢、様」

 

 両眼を潰され、全身に火傷を負い手足の殆どが炭化し。

 無数の管に繋がれることでどうにか命を保っている彼女は、別人のように思えた。

 

「報酬、払えそうにないや。約束、したのになぁ……」

「よろしいの、です……私、は」

 

 クロヴィスは想いの丈を主君に伝えようとする。

 だがその言葉は、喉に(つか)えて出てこなかった。

 何よりも彼女がそれを望まないのだと、わかっていたから。

 

「……あのさ」

「お断り、します」

 

 嘆き、悔悟、様々なものへの怒り……負の感情の嵐が吹き荒れる。

 それでもクロヴィスは、せめて貴女の前でだけはと押さえこむ。

 

「今日でクビ、出ていきなさいって言ったら……聞いてくれる?」

「いいえ。私は……ずっと、お嬢様のお傍におりますとも」

「……そう。ありがとう」

 

 不忠な執事への返答は、お叱りではなく短い礼の言葉だった。

 そして、ニュートンの異端児が生涯の忠誠を誓った少女は一度だけ、小さく笑う。

 彼が最初に出会った時の態度とはまるで違う、穏やかな声であった。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が自ら命を絶ったのは、その三日後のことだった。

――――

 

──誇り高い彼女が、心優しい野心家であった彼女が、『争うことなき世界征服』という夢を絶たれた嘆きは、苦痛はどれほどのものだったのだろうか。

 

 あのまま、彼女が死を選ばなかったとしたら。

 重傷を負った体がどこまで回復するかはわからないが、一族としての財力とコネクションで平穏な生を送ることができただろう。

 退屈な余生。夢は叶わず何を成すこともなく静かに枯れ朽ちていく日常。

 

 かつてのクロヴィスが何よりも嫌っていた、波風の一つが立つこともない予定調和の人生。

 

 

──それで、よかった。

 

 ぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 意識が遠く、遠く薄らぐ。

 

 

 彼は今でもあの瞬間を夢に見る。現実という名の悪夢に跳び起きる。

 悲しげに呟く彼女に、自分がどう思っていたのか伝えることができていたのなら。

 

「私、は」

 

──貴女が生きてさえいてくれれば、それだけでよかったのだ。

 

 

 

「ではね、クロヴィス君。あっちでルメリア君によろしく伝えてくれたまえ。彼女はいい友人だったからね」

 

 ミシミシと音を立て、もうすぐへし折れようとしている己の首。

 まともにできない呼吸。

 

 だが、彼の眼に、再び光が灯った。

 

 

 

 どす黒い憎悪に塗れた、黒い光が。

 

「……オ、オオオォォォ!!」

 

 空気を裂くような雄叫びが響くと同時、オリヴィエが背後に跳びのこうとする。

 そう、叫びである。

 

 喉を押さえこまれていた状態のクロヴィスが大声を上げられたという事実はすなわち、オリヴィエによる拘束が緩んだ、という事。

 もはや決着という局面で、何故なのだろうか?

 

 

「……っっ」

 

 その回答は、既にクロヴィスから手を離していたオリヴィエの右腕にあった。

 腕にびっしりと突き刺さった、無数の針片。

 

 ギンピ・ギンピという植物は、先に述べた通りその植物体全体に毒棘を有する。

 クロヴィスの腕──人間大へとスケールアップした苦痛の棘を、擦り付けられでもすれば。

 

 どんな局面であったとしても、高圧電流が流された強酸をいきなり手にかけられて、反射的に引っ込めない人類など存在しない。

 

「これは、油断──」

 

 困ったように呟くオリヴィエの右腕はだらりと垂れていた。

 過剰も過剰に与えられた苦痛により、最早まともに動かすことも叶わない腕。 

 

 そして先程までの局面とは逆に、退避を図ろうとするオリヴィエへと一直線に迫る男が、ただ独り。

 

「終いだ……オリヴィエェェ!!」

 

 意趣返しと言わんばかりに、クロヴィスはその首を掴む。

 掌に直接形成された無数の毒棘が、魔物の喉笛を食い破る。

 大量の針を、毒を、その身に送り込むために。

 

「ぐ、か……!」

 

 オリヴィエの身からは一滴の血も流れていなかった。

 その凄まじい再生能力は、肉体損傷の尽くを無力化する。

 だが、肉体の修復が対処法にならない手段であれば。

 

 オリヴィエに、この至近距離でクロヴィスに抗する手段は存在していない(・・・・・・・)

 もはやその動きには優雅さの欠片も残ってはいなかった。

 クロヴィスを排除すべく手足が振るわれるが、そのような対処はもはや無駄であった。

 

 

「……貴様の積み重ねた罪過に比べれば、一瞬も一瞬でしかないのが業腹だが」

「……、」

 そして、数十秒にも渡る、抵抗の末。

 

 

 

「その苦痛を、贖いの一片にするがいい」

「…………」

 

 数百年を生き続けた怪物の器は、その動きを止めた。

 

 

 

「……お嬢様。貴女はこのような行いを望んでいないのでしょうが」

 

 しばし、物思いに耽り。

 駆けてくる数人の足音を聞き、クロヴィスは顔を上げる。

 

 

「仇は、取りましたぞ」

 

 クロヴィスの独断専行により戦力が大きく減り大変な苦労を強いられた仲間たちである。

 さてはて、どう言い訳をしたものか。

 減給を申しつけられたりしなければ、いいのだが。

 

 そう、生涯の目標を成し遂げた復讐者はこれからの事に思いを馳せるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おめでとう。満足したのなら、もう舞台から降りてもらってもいいかな?」

 

 

 そして、予測不能に、理不尽に。

 

 背後に現れた気配に、クロヴィスは一切の油断をしなかった。

 一面に焦りの表情を浮かべた俊輝たちの表情で異常を察し、クロヴィスは身を翻し針を投擲しようとして──

 

 

「ぐ、がっ!?」

 

 彼の全身を、無数の槍が刺し貫いた。

 

 即死こそ辛うじて避けたが、体にいくつもの穴と裂傷を穿たれ地へと崩れ落ちるクロヴィス。

 苦悶を噛み堪え身を震わせながらもどうにか視線を上げた、彼の視界の先には。

 

 

 彼が先ほど討ち果たし地に沈んだ、魔物の亡骸。

 そして。

 

 

 

 

 

 

「やあ私、随分と手酷くやられているようだ」

 

 それと全く同じ姿をした何かが、立っていた。




観覧、ありがとうございました。

次回、いろいろと判明する回です

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