戦闘まではあと数話お待ちを……。
――ローマ連邦・イタリア クイリナーレ宮殿
白亜の壁が荘厳な雰囲気を醸し出すこの宮殿は、イタリア国王の公宮であり、大統領官邸であり、そして現在ではローマ連邦の大統領官邸として機能している。
その内部、客人用の特別な一室で、彼は目を覚ました。
「……」
体を起こし、寝起きのぼんやりした頭で壁にかけられた時計を見る。
約束の時間に遅刻するという時間ではない。
さりとて、今から二度寝をして……なんてことができるような時間でもない。
生まれて初めての柔らかさの布団で逆に落ち着く事ができず眠れなかったのである。
恐ろしく高級な布団だ……と彼は改めて苦笑する。
本当ならばもう一度身を横たえたいけど、そろそろ朝の用意を始めないと。
そう考えた彼は、自分の隣を見る。
正確に言えば、同じベッドで寝ている、二十歳を迎えたか迎えていないかというくらいの、彼と同年代の女性の顔を。
少し癖っ毛だから、と普段から彼女が気にしている金の長髪は主のそんな意思など知るかと言わんばかりに無造作に広がってベッド内の青年の領地を侵略し。
どこか高貴さを感じさせる整った顔立ちではあるものの、いい夢でも見ているのかその表情はだらしなく緩んでおり、懐っこい犬かなにかを彷彿とさせる。
幸せそうな表情で寝息を立てている彼女を起こそうとして、すこし逡巡する青年。
理由としてはこんなに幸せそうなのに起こすのは悪い、というのがまずひとつ。
自分のせいで、彼女には多くの苦労をかけてしまっている。
こんな高級なベッド、自分は逆に落ち着かず寝付けなかったが、彼女にとっては懐かしい感覚なのだろう。
ふたりの懐事情から彼女にこんな寝具を用意してやれない罪悪感もあり、起こすのは躊躇われた。
そして、もうひとつの理由。
「……ふふ」
"最近、よく笑うようになりましたわね"
彼女の寝顔を見て、その通りだと青年は穏やかに微笑む。
彼のこれまでの人生は、地獄と言ってもよかった。
孤児院とは名ばかりの研究施設での日々。
実験で薬を投与され、時には能力試験のため人を殺す事を強要されることさえあった。
それから解放されたのは、ほんの数年前のことだった。
そこから今に連なる生活は、彼に生きる実感を十分に与えてくれた。
幸せだ。
今の彼は、心の底からそう言うことができるだろう。
そしてその幸福は、横で眠る彼女の存在が大きな要素を占めていることを否定などできない。
「……起きろ、遅刻しちゃうぞー」
いたずら混じりに、彼女の鼻をつまむ。
「んむぅ……」という少々苦しそうな声と共に、形のいい眉が顰められる。
ちょっとだけ悪く思いぱっと手を離すと、再びその表情はふにゃっとしたものへと。
別に起こさなくてもいいかな? という考えが、青年の中に湧き上がる。
今日の用事は自分ひとりでも済む事だし、ゆっくり休んでもらっても……と。
彼女の為を思うだけではない。
なんというか、起こすのをちょっとだけ惜しく感じるのだ。
ころころ表情を変える彼女は、いつまで見ていてもきっと飽きないだろう。
いや、別に表情を変えていなくても……。
そこまで考えて、少し気恥ずかしくなり。
青年は自分を誤魔化すかのように頬をかき、意味の無い独り言を呟く。
「……んぅ?」
そんな青年の横で、彼女はうっすらと目を開いた。
「あら……起こそうとしてくださいましたの?」
寝起きのぽやんとした目で、青年を見つめる女性。
いいえ、寝顔を見ながら悩んでいた段階です、なんてとてもいえず。
「おはよう、エミリー」
「おはようございます、シロ君」
ふたりは、穏やかに朝の挨拶を交わすのだった。
――数十分後、朝の用意を済ませこれまた品のいい調度品がしつらわれた応接室に迎えられたシロとエミリーの前には、老年の男が崩れた様子で椅子に腰かけていた。
溌剌とした、歳相応の老いを感じさせない男性だ。
それもそのはず、と言えよう。彼はこの国の主といっていい存在なのだから。
彼、ルーク・スノーレソンは微かな呆れを持ってふたりを順々に見る。
「眠そうだな、お前ら……」
開口一番、ルークは呆れた様子の声を出した。
それはルークが人間観察を得意としているというよりかは、ふたりの状態が誰の目に見ても明らかだったという方が近い。
最低限の礼儀はここ数年で培ってきたため、欠伸を必死に堪えているシロ。
ほわほわと意識が定期的に向こう側に行ってしまいそうになっているエミリー。
そんな眠たそうなふたりを見て、ルークはふむ、と一度頷き。
「若いお前らに我慢しろとは言わないけどな、こういう日の前くらいはちょっと自制心を……な?」
爆弾をぶち込んだ。
「そ、そんなんじゃないです俺たち!」
「ななな、なにをおっしゃいますの!?」
しゅぼっ! という音でも聞こえそうな勢いで同時に顔を赤くし、ルークにまくしたてるシロとエミリー。
そんなふたりをへっ、と鼻で笑い、ルークは話を進める。
「冗談だっての。シロ、お前みたいなヘタレは手出せねえだろ」
ぐぬぬ……と押し黙るシロ。
ヘタレという点に関しては大いに反論したいところである。
だが、それを否定すると別のところで問題が発生するのも確か。
名誉を捨てて実を取った形である。
強情な子どもではなく、彼も成長しているのだ。
「んで、本題に入るが……お前らに、仕事を頼みたい」
神妙な様子のルーク。
雑談は終わり、ここからが本題だ。
シロとエミリーも身を整える。
ルークはふたりにとって、お得意様とでも呼ぶべき存在だ。
シロがここ、ローマ連邦に流れ着いてから3年が経つ。
まともに金を稼ぐ手段は限られている。資金もいつか尽きる。
中国の追っ手から逃れ、かつエミリーに人並みの生活をさせてやりたい。
そう考えた彼は思い悩み、そして重大な価値があるものを所有している事に気が付いた。
それは、『自分の肉体』。
臓器の需要が高まっているだとか体を売るだとかそういう話ではない。
シロの体は、幼い頃にバグズ手術の被術者から受けた臓器移植の結果、本人のMO手術ベースに加えてさらにその移植元の能力も発現する特異な状態である。
中国はシロの体を検査し、同様の手法によってMO能力を複数持つ被検体を生み出そうと実験を繰り返していたが、成功例は見られず。
『ファースト』や『セカンド』と比べれば劣るだろうが、それでもMO手術の発展にとって重大な意味を持つことには変わりはない。
それを、ローマ連邦の大統領府へと売り込み。
結果として、シロは定期的な検査やちょっとした実験に付きあったり、国に属さない戦力として裏の仕事をルークから任される傭兵めいた仕事を担ったりしている。
以前にシロは、謎のデータディスクの奪還を命じられた事がある。
その時は想定外の介入があり失敗してしまったが、どうにもきな臭いものを感じていた。
今回もまた、それ絡みの話なのだろう。
根拠こそないものの、直感というべきものでシロはそう予想を立てていた。
そして今のシロは知らないものの、ルークから語られたのは予想通りそれに関連する任務だった。
場所はフィンランド。
とある機密研究施設の強襲、という内容である。
なるほど、具体的にはわからないがローマ連邦になにやら都合が悪い研究でもされているのだろうか?
そう考えるシロとエミリー。
「いや、設備自体はどうでもいい……頼みたいのは目標の暗殺、もしくは捕縛だ」
しかし、ルークの次の一言で首をかしげる事となる。
暗殺か捕縛? わざわざ機密の研究室に潜入してまで?
「いや、わかるぜ。他にやり方はねえのかってな」
ルークは忌々しそうに頭を掻く。
特定の人物が対象なのであれば、わざわざ研究室、それも機密の施設にいる時を狙う必要がない。
外に出たタイミングを狙えばいいだけの話なのではないだろうか。
そもそも研究所に引きこもってる相手なのだろうか?
「……その、外に出てるタイミングってのが今なんだとよ」
そりゃ正論だけどな、とシロとエミリーの言葉を肯定した後で、ルークはだが、と説明する。
ルークの言葉の意味が理解できず、仲良く首をかしげるシロとエミリー。
「本来はもっと機密性もセキュリティもガチガチの場所に潜んでて、これでも一大チャンスなんだってよ?」
付け加えられた説明に一応の納得をするふたりだったが、しかしそれでも疑問は残る。
恐らく、軍人やMO手術被術者によって守られている機密施設。
そこを『外』と表現せざるを得ない程に表に出てこない標的とは、一体何なのか? と。
話を聞き、今回は断ろうというのがシロの正直なところである。
危険すぎる。
リスクを侵すのは裏社会の稼業の常ではあるのだが、今回は目標が未知数に過ぎた。
彼にとって最優先するべきなのは、エミリーと自分の安全である。
裏社会に身を置いているのも、今のシロにとってはそれが一番安定した手段だったからだ。
だから、リスクがそれを上回ればすぐにでも逃げる。
そうやって、生き延びてきたのだ。
「ああ、言い忘れてたけどな」
だが、ルークが告げた次の言葉で、その判断は揺らがざるを得なくなる。
それは、ふたりにとって、平穏を脅かす重大な危機を感じさせる内容であったのだから。
「ヤツを放置すれば、世界が滅びるまである、だとよ。それも真っ先にウチの国が潰されかねないってな。聞いた話だけどな」
一度地獄を経験し、平穏を得たはずの彼ら。
そんなふたりの長い数日間は、かくして幕を開けることとなる。
―――――――
ローマ連邦 某所
地下に隠された書庫で、エロネとジョセフは静かに言葉を交わしていた。
一族の秘密の集会所のひとつであるここは、これまでの一族が関わって来た書物や論文の保管庫でもある。
会議にこれといって向いている場所というわけではないが、急を要する案件であったため使えそうな場所を使ったのだ。
「エロネ、君は立場上、『槍の一族』については最低限の情報しか知ることはできなかったと思う」
ジョセフの言に首を縦に振るエロネ。
槍の一族、ゲガルド家が管理する『神殿』は、ニュートンの血脈が非常事態で壊滅状態に陥っても途絶えないように血族最新のクローン、当代でいえばジョセフのそれを作成し保管しておくための施設だ。
政財界にも強い力を持つニュートンの一族。
彼らが危機的状況に陥るという最悪の事態に至ってなお機密性を保つため、槍の一族に関する情報、特に『神殿』の所在地については厳重な情報規制が行われている。
エロネは彼らにとって、ファティマとの雑談程度で得た大雑把にどのような存在か、という程度の知識しかない。
しかしそれはエロネの立ち位置がニュートンの本家筋から遠いからという理由ではなく、そもそも一族の一般には知られてはいけない情報だからなのだ。
それこそ、その正式な所在はニュートン一家の中ですら歴代当主とその参謀しか知らされていないほどに。
そしてジョセフの父の死により現在当主不在の中、次期当主であるジョセフにその情報は渡っていた。
「今から君には全てを話しておこうと思う」
ヤツらがどんな研究をしてきたのか、そして、どこに本拠を構えているのか。
その全てを君に伝えておきたい。
そう重みを持った声色で語るジョセフに、エロネは思考を巡らせる。
槍の一族の全てを知る事ができるのは、当主と参謀のみ。
一族の中でも決して階級が高いわけではないエロネに本来知るべきではないそれを伝えるということは、つまりはそういう意味なのだろう。
「……喜んで拝命します」
ジョセフが言外に告げたその意味をエロネは察し、頭を下げる。
それに無言で頷き、ジョセフは話し始める。
当主にのみ知る事を許された、その情報。
ある研究施設に姿を現すという情報が何人もの間諜の犠牲により掴めたため、ローマ連邦と一族でそれぞれ戦力を出し強襲を仕掛けるという算段。
そして、これから戦うべき怪物の在り方が、人間を逸脱した何かであるという事を。
「彼に会ったことはありませんが……今の話を聞くと、まるで」
ジョセフの知る限りの情報を聞いたエロネの表情には、微かな困惑が見えていた。
その情報が、にわかには信じられなかったのだ。
その敵の在り方が、エロネには信じ難いものとして映っていた。
知識としては理解できても、脳が納得する事を拒んでいる。
「ああ、私たちが始末すべき相手は、我々とは違う摂理を生きている」
それは、日本で行方不明になったミルチャがジョセフに以前語った言葉だった。
とっくに滅んでいるはずの存在です……いや、事実、既に滅んでいる。
それなのに、存在し続けているのです。
お気を付けください。
ジョセフ様なら大丈夫でしょうが……決して、理解などしようと思いなさるな。
ヤツは、摂理から外れた存在だ。
「本来ならば、生きているはずなんてない亡霊なんだよ」
そう言ってジョセフは、本棚に手を添え。
憂鬱げに本を2冊、その背表紙を撫で、呟く。
『楽園への階』『不滅なる記憶』。
その著者欄に刻まれた、一族の人間。
彼にとっては、一族の基盤を築いた尊敬すべき先達であるはずの、その名を。
「オリヴィエ・ゲガルド・ニュートン……
ご観覧、ありがとうございました!
Q.何故ベッドがひとつしか無かったのか?
A.ルーク大統領の仕業