アルミラージ三匹は横一列に並び、こちらに向かって真っ直ぐに突進してくる。氷の床など物ともしない動きだ。
いや、氷に足を取られてはいるが、後先など考えていないのだろう。ふりかざした鋭い角を俺に突き刺すことしか頭にないに違いない。滑る勢いすら利用して、加速度を増すアルミラージの群れ。
だが、もしも俺に回避されれば三匹まとめて壁に激突するのは必至なはず。それが分かっていて、ぼんやりと突っ立ったままでいる俺ではない。
「あらよっと」
昔何度かやったことがあるスケートの要領で、円を描くようにして足を動かす。トリプルアクセルは無理でも、緩やかに移動する程度なら俺でも可能だ。専用の靴ではないので少々難儀はしたが、それでも見事アルミラージの攻撃を回避できた。
俺に避けられてしまったからには、アルミラージは壁に激突するしかない。まるで吸い込まれるように、頭から壁へと突っ込んでいった。当然の帰結と言えよう。足場の悪い所で、後退無視の万歳アタックなど敢行するからこうなるのだ。
「痛そうだなぁ」
俺は他人事のようにそう言いながら、壁の前で潰れる三匹のアルミラージを見やった。頭から硬い石壁にぶつかったおかげで、三匹とも角がぽっきり折れている。起き上がる気配を全く見せないし、このまま放っておけばいずれは力尽きて死ぬだろう。角とか、なんとなく弱点っぽいしね。
「あ、そうだ」
目の前に倒れるアルミラージの体を見て、俺はあることを思いついた。こいつらの毛皮は、きっとアレに使えるに違いない。
懐からブーメランとは別に持っていた護身用のブロンズナイフを取り出すと、俺はおもむろにアルミラージへと近付いていく。ブロンズ製だけあって切れ味はそこまで鋭くはないが、それでも動かない魔物から皮を剥ぐにはこれでも十分。
「南無三」
俺はアルミラージの体から、少量の皮を剥いだ。こいつの使い道は、もちろん……。
「ユート、なにやってるの?」
聞き覚えのある声に振り向くと、俺の後ろにはリュカの姿。肩の上にはゲレゲレが乗っている。さすがは主人公。滑る床にはもう慣れたのか。
「リュカか。ベラはどうした?」
「ベラならあっちのかべのほうにいるよ」
リュカに言われた方を見ると、そこには確かにベラの姿があった。ベラは壁に両手を付き、滑ってしまわないようにガニ股気味に足を開いて床の上に立っている。膝はガクガクと笑っていて、今にも転んでしまいそうだ。
「きゃあッ!」
あ、転んだ。
「ベラ……何やってんだ……」
「ちょっとユート、見てないで、助け……ああっ」
ベラの言葉はそこで途切れた。その理由は、また転んだからだ。
「もう! この床、いい加減に……きゃッ!」
起き上がろうとしては再び転ぶベラ。二度三度と転倒を繰り返した後、冷たい床の上でベラはしばらく動かなくなった。
やがてベラはその場で起きるのは諦めたのか、床を這ったままこちらへと匍匐前進を開始した。予想外の行動だ。
その姿は歴戦の軍人を思わせる。ああ、軍靴の足音が聞こえてきそうだ。
「やっと、着いた……わ……」
「ご苦労様」
息も絶え絶えにこちらにやって来たベラに、俺は肩を貸して立ち上がらせる。
「この床は最悪だわ! おかげで這って進まないとここまで来られなかったし、ひどすぎるわ。肘が冷たいったらないわよ、本当に。ねぇ、見てよこの腕。まったく、乙女の柔肌をなんだと思ってるのかしら」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、ベラが腕を見せてくる。その細い腕は、しもやけができたのか赤くなっていた。これは辛そうだ。
「だったら長袖の服を着ればいいのに……」
「ユート、今何か言ったかしら?」
「いえ、なんでも」
小さな声で言ったつもりが、聞かれていたようだ。
「で、あなたは何をしているの? さっきからその手に持っているのは……魔物の皮?」
「ご名答。大当たり」
「変な子ね。そんな物どうするのよ」
「あ、ぼくもずっと気になってたんだ。ユート、それどうするの?」
「どうするも何も、使うんだよ」
「……ユートがたべるの?」
「食べるか!」
リュカよ、お前には俺が魔物の生皮剥いで食べるような人間に見えるのか? 悪食のゲレゲレと一緒にするんじゃない。
「これは、こう使うんだ」
俺はアルミラージの皮を手頃な大きさに切って分けると、自分の靴裏へと巻き付けた。本当は縫い込むように貼り付けられればいいのだが、そんな贅沢を言ってはいられない。
「皮を靴に巻いたりして、何のつもり? リュカ、あなたはユートが何をしたいのか分かる?」
「ぼくにもわかんない」
「んー……実演して見せた方がいいか。なら、ちょっと実験してみよう」
試しにその場でジャンプしてみる。
「ユート、転ぶわよ!?」
ベラが慌てるが、俺は難なくその場で着地に成功。ベラとリュカのポカンとした顔が愉快だ。
「ユートすごい! どうしてころばないの!?」
「そ、そうよ! 教えなさいよ!」
詰め寄ってくる二人。俺、大人気。落ち着けお前ら。
「別に種を明かせば大したことはないよ。魔物の毛皮が滑り止めの役割を果たしているんだよ」
本来は雪道で使用する方法だが、氷上でもきちんと効果はあったようだ。スイス軍の山岳部隊などは、スキー板の裏側にアザラシの毛皮を装着して逆行止めに使っているのは割と有名な話である。
「へー。ユートって子供なのに物知りね。皮をこんな風に使うなんて、思いもしなかったわ」
「ユートはやっぱりすごいよ。ぼくのしらないことたくさんしってるんだね」
そう褒めてくれるな。これでも中身は一応大人ですから。
「車だって、雪が降ったらタイヤにチェーン巻いたりするだろ……って言っても誰も分からないよなぁ……」
「知らないわ」
「うん、ぼくもわかんない」
ですよねー。
「まぁ、原理はともかく、みんなも使ってくれ」
俺は残りの皮をベラとリュカに配った。
「ほれ、ゲレゲレ。お前も足を出せ」
「ふにゃ?」
ついでに、ゲレゲレの足にも皮を巻いてやる。これでリュカの肩から降りても大丈夫だ。
「ユート、これすごいよ。うごきやすい!」
リュカがぴょんぴょんと跳ね回っている。そのすぐ後ろから、床に下りたゲレゲレも嬉しそうに追っていく。
「はいはい、嬉しいのは分かったから今は先を急ぐわよ。ザイルって子を探すのが私達の目的なんだからね」
ベラが年長者としてしっかりまとめ、俺達は氷の館の奥へと足を踏み出したのだった。
◇
館には滑る床の他にも行く手を阻む仕掛けがあった。氷の床の先には、無数の落とし穴がぽっかりと口を開けていたのだ。それに、入り組んだ道はまるで迷路のよう。靴に滑り止めがなければ、今頃はどこかの落とし穴に真っ逆さまに落ちていたはずだ。
「本ッ……当に、意地悪な造りの館ね!」
ベラは顔をしかめている。
「落とし穴まであるなんて、建てた人は何を考えているのかしら」
「ねぇベラ。ザイルがこの家をつくったのかな?」
「うーん、それはどうかしら? ドワーフは手先が器用だから、考えられなくはないけど……」
「ぼくもまえに、ユートとすなでおしろをつくったことがあるけど、こんなに大きなのはむりだなぁ」
「あはは。さすがに砂のお城と比べたらだめよ、リュカ」
「むぅ……」
口を閉じて頬を膨らませるリュカ。まるで頬袋に食べ物を詰めているリスのようだ。
「ザイルの他にも、誰か黒幕がいるかもね」
俺はぽつりと呟いた。
「ユート、それはどういう意味?」
ベラの視線が、リュカから俺へと移る。
「そのままの意味だよ。ベラ、この氷の館っていつ頃からあるんだ?」
「そういえば、いつからかしら? そんなに昔じゃなかったとは思うけど、気が付いたら建っていたって感じね」
「なら、分かるだろ? そんなに短期間に、ドワーフといえども一人で館を建てたりはできないはずだよ」
「……それもそうね。一応、ザイル以外の存在も警戒しておく必要はあるわね」
「備えあれば憂い無しとか、石橋を叩いて渡るって言うしな」
「どこの言葉よ、それ」
「俺の故郷の格言」
「ふーん。聞いたことないわね」
それはそうだろう。何しろ、日本の格言だし。
「でも、ユートは流石ね。そんなことに気が付くなんて」
「偶然だよ、偶然」
「あら、せっかく褒めてあげてるんだから、謙遜しなくてもいいのに」
今の俺には、こうやってさりげなく注意を促すくらいしかできない。ザイルの背後には「雪の女王」がいるなどと、本来知るはずのない話をストレートに言うわけにはいかないのだ。
「ねぇねぇ、ふたりともなんの話をしてるの? むずかしい話は、ぼくわかんないよ」
「おっと、リュカにはまだ早かったか。心配するな、大人になれば分かる話だ」
「ぶぅ。ユートだってぼくとおなじで、まだこどもじゃないか」
「ああ、そういえばそうだっけ?」
「そうだよー!」
リュカをからかっていると、ベラがこちらを優しい目で見ていた。
「あなた達って、とても仲がいいのね。まるで兄弟喧嘩でもしてるみたい」
そう言って口を閉じると、何かに堪えるようにくっくと喉で笑った。
「兄弟ねぇ……」
そういえば、サンタローズ村で何度かパパスの子供かと勘違いされたことがあったっけ。確かに俺はパパスやリュカと同じ黒髪だけど、そんなに似ているのかね。自分ではよく分からん。
「俺が兄貴で、リュカが弟だとしたら、ベラは……お母さん?」
「なんでそうなるのよ! そこは普通お姉さんでしょう!?」
「まぁ、そう言わずに。リュカだってベラみたいなお母さんは欲しくないか?」
「え? うーん……うーん……?」
リュカは頭を抱えて悩み始めた。頭から湯気が出てきそうだ。そこまで真剣に悩まなくてもいいのに、真面目なやつだなぁ。
「悩まれても、それはそれで腹が立つわね」
胸中で葛藤でもあるのか、ベラは微妙な顔をしている。複雑な女心というやつだろうか。女心と秋の空。女性の心理は、いつの世も難しい。
「みんな、ちょっとまって!」
頭を抱えていたはずのリュカが、唐突に一同を呼び止めた。
「急にどうしたのよ?」
ベラの問いに、リュカは唇に指を当てて静かにすように促す。ここで騒ぎ立てるほど俺は空気を読めないわけでもなく、ベラと同じく沈黙する。
「見て、ゲレゲレがうなってる……」
リュカが小声で言った。見てみると、ゲレゲレが毛を逆立てて低く声を上げていた。この姿は警戒態勢だ。
「どうやら、誰かそこにいるようだな。おい、観念して出て来い!」
俺の言葉に、氷の壁の合間から小さな影が現れた。
「へっ、まさか俺が見つかるとはな。バレちまったからには、出ていってやらぁ」
そう言って出てきたのは、ドワーフの少年だった。顔全体を隠すように黒い頭巾をし、両目の部分だけを切り抜いている。そこから見える目は、爛々と輝いていた。
全身を覆うようなぴっちりとした薄い緑のローブの下からは、ドワーフらしく発達した筋肉が見て取れる。
「お前ら、もしかしてポワンに頼まれてフルートを取り戻しにきたのか? ご苦労なことだな」
小柄な体躯に似合わない大きな斧を楽々と肩に担ぎながら、ドワーフの少年は皮肉っぽく笑みを浮かべている。
「きみがザイルだね!」
リュカが叫ぶ。
「この子がザイルなの? こら、ザイル! フルートを返しなさいよ!」
「はん、お断りだね」
「まぁ、生意気な子ね! あんたがフルートを盗んだせいで、ポワン様が世界に春を告げられないのよ!」
「そんなの、俺の知ったこっちゃないね」
ザイルはベラをせせら笑った。
「ポワンは俺のじいちゃんを村から追い出した憎いやつだ。そんなやつがどうなろうと、俺には関係ないね」
「それは誤解よ! 私の話を聞いて、ザイル!」
「うるさいうるさい! お前らの話なんか知ったことか! どうしてもフルートが欲しければ、力づくで奪ってみろよッ!」
激昂したザイルは聞く耳を持たない。向こうが話し合いを拒否したのだから、こうなってしまった以上は戦うしかないだろう。
……という訳で、
「ゲレゲレ、行け。足だ」
「ガウッ!」
俺の言葉に、コンマ何秒かの速度でゲレゲレが反応する。
普段の躾の賜物だ。軍用犬のように高度に訓練されたゲレゲレは、正確な指示さえあれば強靭な兵士に匹敵する存在となる。俺の言葉を即座に理解し、ザイルの足元へと一瞬にして身を躍らせた。
「うわ、なんだこいつ!?」
慌てふためくザイル。反射的に手に持った斧を足元に振り落とそうとするが、あまりにも遅すぎた。
勝敗は、この時点で既に決していたと言えよう。
ザイルの足首に噛み付いたゲレゲレは、顎を振って強引に獲物の体を倒そうとする。受身を取ろうとして体を捻ったザイルの手からは、斧が投げ出された。
「次、ベラが魔法」
「え? 分かったわ……ギラ!」
ベラの手から放たれた魔法の炎は、体勢を崩したザイルの正面から激突。
「熱ッちィいいい!?」
氷上を転がり、ローブに燃え移った火を消そうとザイルがもがく。足には先ほどからゲレゲレが噛み付いたままだ。だが、これで終わりではない。
「最後はリュカ。追撃」
「うん、いってくる!」
元気よく返事をして、リュカが氷を蹴った。身を低くし、あっという間にザイルとの間合いを詰める。接近を感知したザイルが床から顔を上げた時、リュカが持った樫の杖は既に大きく振りかぶられていた。
「えいッ!」
掛け声と共に力強く降り下ろされた杖は、ザイルの腹部に深々とめり込む。
「げぇッ」
ザイルは腹を押さえると、膝から崩れ落ちるようにして前のめりに倒れた。凍った床に、ザイルの頭がぶつかる「ゴン」という音が響く。
まだザイルが抵抗するようなら、俺がブーメランでも投げてやろうかと思ったが、その必要はなさそうだった。
「ぐ、うぅ……」
ザイルは呻き声を漏らすのが精一杯で、これ以上抵抗する様子は皆無。勝負ありだ。
「ゲレゲレ、もう離れていいぞ」
俺の指示に従って、ゲレゲレが口からザイルの足を離した。
「呆気なかったな」
思った以上に上手くいった。自画自賛したい気分だ。非力な俺だが、意外と指揮官としての才はあるのかもしれない。
「くそー! 負けた負けた! まさかこんなに簡単に俺がやられるなんて……」
ザイルが腹をさすりながら立ち上がる。
「お前ら、なかなか強いな。驚いたぜ」
どこかすっきりとした声で、ザイルは言った。
これはあれか。漫画とかでよくある、戦ったら友情が芽生えるとか、そんな感じなのか?
「やっとゆっくり話ができそうな雰囲気になったわね。ザイル、私の話を聞いてくれるかしら?」
「負けたからには仕方ねぇ。いいよ、聞いてやるよ」
「もう、態度が大きい子ね」
ベラが苦笑した。
「そもそも、あなたは勘違いしているようだけど、あなたのおじいさんは別に追い出されたわけじゃないわ。だからポワン様は、何の関係もないの」
「ベラのいうとおりだよ。ぼくも会ったけど、ポワンさまはとってもいい人だったよ」
リュカも頷く。
「じいちゃんを村から追いだしたのは、ポワンじゃないって?」
「こら! それを言うならポワン様でしょう! 様をちゃんと付けなさい!」
「……ポワン様じゃないって?」
ベラに剣幕に押されたのか、律儀にザイルが言い直した。
「でも、雪の女王様が……」
「雪の女王様? 誰よ、それ?」
「それは……」
その時、ザイルの言葉を遮るように、突然辺りに激しい冷気がたち込めてきた。冷気は渦を巻き、室内の一角に氷雪が吹き荒れる。
通常ではありえない現象だ。ここは「室内」である。いくらなんでも、吹雪まで発生する訳がない。ということは、これは自然現象ではないということだ。
「みんな、気をつけろ! 何か来るぞ!」
俺の言葉に、ベラとリュカが身構えた。
風雪は竜巻のような形を作って屹立し、一箇所に集っていく。唸りを上げて渦を巻く雪と氷の粒は、やがて人の姿へと変わっていった。
「ククククク……。やはり子供をたぶらかせて、という私の考えは甘いようでしたね」
風雪の中から甲高い女の声が聞こえてきた。
「あわわ。ゆ、雪の女王様!」
ザイルが怯えたように叫ぶ。
「あれが雪の女王ですって!?」
ベラの声に答えるように吹雪は晴れ、雪の女王と呼ばれた女が姿を現した。
「そう、私が雪の女王。雪と氷を司るのが使命。どんな物でも私の前では凍てつくことでしょう」
底冷えのするような冷たい声で、雪の女王は言った。
白いドレスに、異様なほど白い肌。人というよりも、美しい彫像のような造形をした女であった。
すらりと伸びた長い手足は深雪のように白く、見開いた瞳の色は白銀。青みがかった灰色の髪は静かに風になびいている。
「女王様は、じいちゃんを追い出したのはポワン様だって……」
「ククク……。あなたは、まだそんなことを信じているのですか?」
「女王様、それって、どういう意味……」
「あれは、あなたにフルートを盗ませるための嘘です。つまり、あなたは騙されていたのですよ」
「そ、そんな……。だったら俺は、なんのために……」
ザイルはがっくりと肩を落とした。
「愚かなドワーフよ。フルートが私の手にある以上、もうあなたは用済みです。消えなさい」
雪の女王はザイルの方へと向けて手をかざし、そっと息を吹きかける。真っ白な唇から凍りつくような息が吐き出され、ザイルへと襲い掛かった。
「ザイル、よけて!」
リュカがとっさに声をかけるが間に合わない。雪の女王の息で、ザイルは壁際まで吹き飛んでいく。そのまま受身すら取れずに激突したザイルは、気を失ったのかぴくりとも動かなくなった。
「ザイル!? よくもザイルをやったな!」
「待て、リュカ!」
怒りに我を忘れたリュカが、俺の制止を振り切って飛び出していく。まずはゲレゲレを先頭に攻撃を仕掛けるという、俺達の作戦が出だしから躓いてしまった。こうなってしまってはどうにもならない。出たとこ勝負で流れを戻すしか手はないだろう。
「ベラ、リュカに魔法で加勢を! ゲレゲレは雪の女王の背後を狙え!」
手遅れになる前に、急いで指示を出す。間合いを一足飛びで詰めたリュカは、今にも雪の女王と交戦しようとする寸前だった。
「了解よ、ユート。ギラ!」
ベラが呪文を唱えながら杖を振ると炎が生まれ、
「ガウーッ!」
ゲレゲレは主人のピンチだとばかりに、雄叫びを上げながら突撃する。
俺もブーメランを構えると、雪の女王へと狙いを定めた。
「クク……」
薄く笑う雪の女王。氷のような美貌が、醜く歪む。
「痴れ者どもめ! 身の程を知るがよい!」
眼前へと迫るリュカをあっさりと片手でいなすと、女王は大きく息を吸い込んだ。
────まずい。
女王を境に、空間が歪むような違和感。ある種の嫌な予感が俺の脳裏を過ぎる。濃厚な死の気配が、体をヒリヒリと焼いていく。
「みんな、一度戻……」
俺は最後まで言葉を続けることはできなかった。
女王の口から放たれた息は、荒れ狂うブリザードのように部屋中を満たしていく。雪と氷の乱舞は、どこまでも無慈悲に全てを侵食する。まるで、自然の驚異そのものが相手だ。悲鳴すら出す余裕がない。なすすべもなく、女王へと向かったみんなは吹き飛ばされてしまう。
やがて……静寂だけが空間を支配した。
圧倒的な攻撃を前に、部屋の中は一瞬で凍り付いてしまったのだ。
「ぐ、うぉ」
最後方にいたおかげか、俺一人はかろうじて無事だった。
いや、無事というのもおこがましい。倒れていないというだけで、氷付いた体は寒さのためにまるで言う事をきかない。
「みんな……ちくしょう……」
リュカもベラもゲレゲレも、動かない。うつ伏せになって倒れている姿には、嫌な予感しか沸いてこない。
もしかすると──みんな死んでしまったのかもしれない。
ああ、なんということだろう。臆病者で役に立たない俺一人だけが、無様にもこうして残ってしまった。
何が作戦だ。何が指揮官だ。パーティのお荷物である自分という存在を、体のいい言葉で誤魔化していただけじゃないか。
「は、はは……」
いつの間にか、俺の口元は自嘲の笑みを形作っていた。
「おや、気でも触れましたか?」
俺は何も答えない。女王は、ゆっくりと俺に向かって歩みを進めてくる。
「かわいそうに。私がそんなにも怖かったのですね。さぞや苦しかったのでしょう。さぞや辛かったのでしょう。でも、それもここまでです。敵わぬ相手に立ち向かうなど、愚かの極みでしかありません」
俺は何も答えられない。女王は言葉を続ける。
「もう、あなたは何も考える必要はないのです。恐れも痛みも、眠ってしまえばすぐに忘れられますよ」
歌うように。
「私は雪の女王。私はこの世に存在する全てを凍らせます。幾千の憎しみも、幾万の悲しみも。そして……幾億の魂すらも」
祈るように。
「さぁ、とこしえの眠りに誘いましょう」
囁くように。
「おやすみなさい、坊や」
女王の顔が間近に迫る。冷たい何かが俺の体へと進入してきたような気がした。
「あ……」
意図せず、俺の口から声が漏れた。溜め息にも似たその声を、俺はどこか遠くから聞いていた。
視線を下げると、俺の腹部には巨大な氷の刃が突き刺さっていた。背中まで貫通しているのが、感触から理解できる。無機質な氷の塊を伝って、赤い血が床へと垂れた。
「う……あ……」
なんとも間抜けな声だな、と思った。
この自分の呻き声が、俺の聞いた最後の言葉。痛みはない。あるのは、恐ろしいまでの眠気だけ。既に目の前は真っ暗で何も見えない。方向感覚すら曖昧で、自分が立っているのか倒れているのかすら分からない。
これが、この感覚がそうなのか。
そう、俺は。
俺は──死んだのだ。
◇
目を覚ますと、部屋の中には西日が差し込んでいた。
今は何時だろうか。ここは……俺の部屋か。
ああ、思い出した。確かにここは俺のアパートの部屋に違いない。寝起きで上手く頭が働いていなかったようだ。
顔を上げると、スクリーンセイバーの起動しているモニターに自分の顔が映った。三十路前の、くたびれた男の顔だ。見慣れたはずの顔だが、どこか違和感があった。
「う~ん……っと」
大きく伸びをして眠気を振り払う。年季の入った座イスが、ギシギシと嫌な音を立てた。
「PCやりながら寝ちまってたのか」
よくあることだ。何日も徹夜でネトゲをやった時など、俺は電池が切れるように突然眠ってしまう。
「なんか、長い夢でも見てた気分だな……」
無精ひげを手でなぞりながら、俺はぼんやりと考える。奇妙な満足感と倦怠感があった。そしてなぜか、軽い後悔のようなものまで。まるで、眠っている間に夢の中で大冒険でもしてきたような気分だった。
「でも、どんな夢だったっけ」
しばらく考えてみたが、どうにも思い出せない。思い出せないということは、そんなに大した夢ではなかったのだろう。たぶん、そうに違いない。
「ま、いいか」
俺は椅子から立ち上がると、部屋の窓の方へと移動した。カーテンを開けると、アパートの前が黄昏に染まっているのが見えた。今は恐らく、夕方の五時か六時頃だろう。
「飯でも買いにいくかな」
俺は誰にともなく呟く。一人暮らしをしていると、どうにも独り言が多くなっていけない。まるで俺が寂しい人みたいだ。
「自炊は面倒だし、コンビニ弁当でいいか」
いつもと変わらない行動だ。こうして、変化のない日常がまた始まる。そのはずなのに……なぜだか、胸の奥がざわめいているような気がした。小さな炎が燻るような違和感を抱えたまま、俺は洗面所に行って顔を洗った。不安を洗い流してしまいたかったのかもしれない。
そして財布をジーパンのポケットに突っ込むと、俺はアパートを出てコンビニへ向かったのだった。