探偵な魔女は黒猫がお好き   作:灰かぶり

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花咲く森の道での遭遇

「こちらです」

 

 マンションの入り口から出てすぐ。警官の先導に従い、自らが来た方向の反対側を曲がると、そこには駐車場があった。フェンスに囲まれたそのスペースは、5階建てのマンション――郵便受けを見たところ、部屋数は25戸――にしては広い。マイカー通勤が多いのか、駐車している車が少ないからそう感じるのかもしれない。

 一般的なその外廊下型のマンションは、真っ直ぐ伸びる共用廊下の途中に4部屋、行き止まりに1部屋。死角は少なく、外からも丸見えだからピッキングで侵入するのは危険。そして駐車場に面している1階の廊下には、侵入防止の格子が取り付けられている。

 緊急避難における開放性も規定として施設には求められているので、格子は絶対に外れないようになっている訳ではないが、背後の駐車場の向こう側は広い道路に店が立ち並ぶ大通り。人目が多く、外そうとしていたら通報された、なんて可能性が大だ。

 

「では、私は見張りに戻ります」

(――おっと)

 

 刑事の習慣と言うべきか、大神がつい犯罪者側の視点で周囲を観察していると、管理人から預かっていたのだろう鍵を使い、通用口の扉を開けた警官が星野に道を譲っている所だった。

 駐車場を抜けず、手前の駐輪場付近に備わっている通用口の扉は鋼板製で、中からは自由に開けられても外からは鍵が必要なホテル錠の錠前が採用されている。安価なセキュリティながらも効果的。

 だが、出てくる人間を待ち伏せれば入れるだろう。上に設置されている監視カメラも常にレンズの向こう側に人が居る訳ではないから、予防的なものでしかない。

 エントランスには監視カメラに加え、管理人室も設置しているが、管理人にも駐在時間があり、宅配業者等に扮装すれば管理人が居ても侵入は不可能ではない。

 

(まぁ部外者の侵入を完全に防ぐ、なんてのは端から無理な話か…………だが、出入りした痕跡は消しにくいな)

 

 扉をくぐらず立ち止り、こちらを見下ろす監視カメラのレンズと視線を合わせる。

 管理人の記憶に監視カメラの映像。さらに住民の聞き込みを行えば、建物から出る時にすれ違いざま入って来た不審者の情報も直ぐあがるかもしれない。大神は下した結論の最後に、あくまで不法侵入の場合は、と注釈をつけ加えながら、なおも監視カメラをじっと見つめた。

 顔見知りならば、部屋に入れてもらえる。そして恐らくだが、物盗りの可能性は低い。

 

(リスクが高い割には、リターンが少なそうだ)

 

 高級そうなマンションとはお世辞にも言えない外見の割に、比較的固いセキュリティ。もしかしたら過去、空き巣にでも入られて追加で設置したのかもしれない。

 とかく、割に合わない。部屋の鍵はまだ見ていないが、一見しただけでそう言える。共同住宅地を狙うなら、同じセキュリティレベルでもっと高価な物が置いてそうなマンション、もしくはもっと防犯意識の薄い同じようなマンションに侵入した方がいい。人目の多い立地条件も盗みには適していないし、この一帯には盗みに入りやすそうな建物が他にある。

 余程何らかの理由が無いかぎり、侵入しようなんて気は起きない。

 つまりは、怨恨。

 

(って決め付けるにはまだ早過ぎるが、それだと被害者の人間関係も並行して洗っといた方がいいか)

 

 堂々と入ってきたならば、管理人や住民の記憶には引っ掛かっていないかもしれない。部屋番号の入力を捉えている監視カメラも、体で隠せば自然と死角になる角度だった。

 まず動機のある人間を割り出せば、聞き込みで有力な情報を得られる確率も増すし、監視カメラの映像も、出入りする全ての人間を注視するより効率的だろう。

 隠せば隠すほど、目立ってしまう。例え変装しようとも、どこかに見た目の特徴を残しているはず。確たる火を胸に秘め、大神はレンズへと向けていた視線を一層強めた。あくまで記録でしかない過去の犯人を、まるで、時を超えて見通したかのように。

 もし監視カメラが喋れたら、そろそろ「ごめんなさい殺さないで下さい」と泣きだしてしまう所だった。

 

(あとは内部犯――――住民間のトラブルって線もあるか、このご時世。それなら管理人に聞けば分かるだろうし、マンション内の聞き込みの段階で犯人像が浮かび上がるかもな。もしくは、被害者本人と一緒に入って来てたとしたら……衝動的にやっちまった、で決まりか)

 

 今から殺そうとする人間と一緒に、カメラに映るとは考え難い。計画的でないなら、いくらでも証拠は残っているだろう。

 

(いずれにしても、続きは現場を見てからだな)

 

 見た目で不良と決め付けられていた学生時代。予習を欠かしたことが無いという周りが引くほどの真面目なギャップさを持っていた大神は、大人になっても持ち続けているその習性から、現時点で推測出来る可能性と今後の捜査における必要事項を頭の中で一先ず整理し終えて、監視カメラを死の恐怖から解放した。若かりし頃の大神曰く、「復習する二度手間が面倒臭い」ということらしい。

 そして現在の老けた大神は、「予習するなら結局二度手間じゃねーか」と言って呆れる同級生から送られた過去の視線と、同じ種類のものを浴びていた。

 

「…………先輩、3秒ルールってご存知ですか?」

 

 勝手に閉まってしまう鋼板製の重い扉を手で押さえながら、星野が平坦な声を出す。

 3秒ルール。落ちても3秒以内なら食べられるという、何の根拠も無いただの食い意地。

 

「いい年齢(とし)して拾い食いか?」

「お箸以上の重さの物を3秒以上持ってはいけない」

 

 かすってすらいない程の大不正解だった。

 

「……どこのお穣様だ、それは」

「今決めた俺ルールです。掟を破ってまで()って()っていますが、早く入らないと閉めますよ」

 

 ()っているのではなく、扉を押さえて()っている星野の視線が、大神から外れて横へ動く。

 

「ま、ただでさえ先輩のせいで職務へ戻れない方に、もう一度開けてもらうよう頼むっていう恥をかきたいなら、俺は喜んで閉めますけど」

 

 大神が星野の視線の先を追うと、彼の言葉通り、見張りに戻ったはずの制服警官が所在なげに立っていた。どうやらきちんと扉が閉まったか確認すべく、見張りには戻らなかったらしい。

 そして、扉の手前で監視カメラをジッと見上げる自分に「早く入れ」とは怖くて言えなかった、と。

 

「……もう持ち場に戻ってくれていいぞ。すまんな、仕事の邪魔をして」

「――あ、い、いえ! こ、こ、こちらこそ、お、おおお邪魔をしては、悪いかと思いましてっ!」

 

 ビシッと敬礼する若い警官は相変わらず震えていたが、態度は素直で好感が持てる。少し年上位の誰かと違って。

 

「すまんな、助かるよ」

「俺も助けてくれないですか、先輩。腕が折れたんですけど」

 

 決して好感を持てない若い後輩が、重い扉の圧力に抗って肩を寄りかからせる。「俺の3秒ルール」とやらに則れば、腕を犠牲にしてなお肩で頑張る健気な後輩だったが、折れた筈の腕を余裕で組んでいたので、残念なことにふてぶてしすぎた。

 

「お前はさっさと中に入れ。邪魔だ」

「態度が180度空中旋回。あまりのUターンっぷりに乗客からは怒号が――」

「また、頭を冷やせ、か?」

 

 扉に手をかけ、星野の皮肉と重みを奪う。

 そして大神は空いている方の手で、シッシッと星野を中へ追いやろうとしたが、扉の圧力から解放された筈の彼は動かず、チラッと視線を上に向けた。

 その先は、大神が見つめていた監視カメラ。

 

「……まぁ、今のはいつもの先輩らしかったから、別にいいっすけどね」

(――ん?)

 

 背を向けて中へと入っていく星野の顔は窺えなかったが、声の調子は相変わらず機嫌が悪そうだった。が、大神は1つ、別な事に気付いた。

 音が抜ける相棒の敬語。今の言葉の中では元に戻っていたが、そういえば先程からずっと、ちゃんと「です」と言っていた気が――

 

「そ、それでは、ほ、本官は、見張りに戻らせていただきますっ!」

 

 理由へと至ろうとする道の途中を、警官の大声が塞ぐ。突然草むらから現れた山賊にしては震え過ぎで可愛いものだったが、大神は思考を止め(たちどまり)、とりあえず敬礼(けん)だけを返す(むける)

 慌てて逃げ出す山賊――ではなく、早足で戻ろうとする警官の後ろ姿を見て、なんとも言えない気持ちになりながら扉をくぐろうとした大神の視界の端に、白い山が映った。

 

「――おい、ちょっと待て」

「ひゃいっ! 申し訳ありませんごめんなさい!」

「……謝らなくていい。聞きたい事があるだけだ」

 

 振り返り、「ズビシィッ!」という文字が浮かびそうな敬礼をする警官に、大神は出来る限りの優しい声を出した。相手の情けなさか、自分の(つら)か、どちらに非があるか微妙な境界線(ライン)だ。

 警官が震えながら口を動かす。

 

「な、ななな、なんでしょう?」

「…………あれは何だ?」

 

 シャキッとしろ、という言葉は余計怯え出しそうなので飲み込み、扉を引きながら一歩下がった大神は、顎をしゃくって尋ねた。

 自転車が数台置かれている左側とは逆、右側にある白い山。通用口から階段まで――真上には螺旋状の階段がある――の僅かな距離の壁と、1階の開放廊下の高い塀。直角に交わり、やや死角となるその影の中には、白い山があった。

 もちろん、登山は出来ない山だ。

 

「は、はぁ、ゴミ捨て場、ですね……」

「そんなの見りゃ分かる」

「――す、すすすすす、すみませんっ!」

「…………すまん、俺の言い方が悪かった。謝るから、質問を続けていいか?」

「は、はぃ……」

 

 白旗を上げた大神に、警官が消え入りそうな声で頷く。

 聞き込みは基本的に相棒任せな欠陥刑事――そのくせ彼には決して謝らない――はブロック塀で囲われたゴミ捨て場を見つめ、口を開いた。

 

「どうしてあんな、ゴミの山になってる」

 

 ゴミ袋が積まれた白い山。「燃えないゴミ」と書かれている方に置かれていないという事は、燃えるゴミの山、という事になる。カラス対策のネットが覆い被さっているが、夏場であることを鑑みると、カラスよりも虫が湧く心配の方が大きい。

 だが、大神は虫の心配はしていなかった。

 

「そ、そういえば、確かに多いですね」

「それもあるが、そこじゃない」

「? では、何が――」

「なんで回収されてないんだ」

 

 ゴミの回収日は今日のはずだ。それは、この街を知り尽くしているという自負を持つ、大神の刑事としての知識から導き出された疑問だった。

 日付と時間、地域のゴミ回収スケジュールとルート、それらを照らし合わせるともうそのゴミの山は回収されていなければならなかった。ルールを守らない「フライング出し」にしても、ただ回収車に間に合わなかっただけにしても、多過ぎる。既に太陽は下降線を辿っており、昼前の時点でゴミ捨て場は空だったはず。

 考えられるのは、回収業者が大幅に遅れているか、もしくは――回収日だけを知っていた誰かが、慌てて捨てた。

 回収時間を知っている住民が捨てたとは考えにくい。ならば、外部の人間。馬鹿が付く程のお人好し、なんて特例を除くと、何故そんな事をしなければならなかったのか。

 持っておくことが出来ない。捨てなければならない。直ぐに、処理しなければならない。それはきっと、罰に怯える罪を犯した人間が、消せない記憶の代わりにせめてもの思いで投げだした、目に見える罪の証。

 なんて都合の良い話は、もちろん無い。

 

「――あ、あぁ、思い出しました。そういえば、ある捜査員の方が回収に来た業者に『後日にしろ!』と叫んでおられました」

「腰も腹もヘビー級だったろ?」

「はい、お尻も重そうで…………ファッ!?」

「安心しろ、黙っといてやる」

 

 奇声を上げる警官と詐欺まがいの契約を交わし、大神は小さなため息を零した。

 

(久しぶりの現場で張り切ってるらしいな、あの係長は……)

 

 何となく予想していたが、少々、落胆の色は隠せない。

 そのゴミの山が全て物的証拠だとしたら、凶器や返り血の付いた服、というか血や指紋の付いた全ての物を捨てたことになってしまう。拭いて逃げた方がよっぽど早いし、量をカモフラージュしたとしても、やはり逃げた方が早い。

 推理とも呼べない希望的観測は、そうであってくれたら犯人の住む地域とおよその犯行時間が早く特定できるのになぁという、ただの節約根性だ。

 

(しかし、後日回収しろとは……色んな所から苦情が来そうだ)

 

 そしてその責任を、部下に押し付ける係長の姿が容易に想像出来た大神は、無性にタバコが吸いたくなった。

 愚かな判断だと一概には言えない。むしろ正しい。住民のゴミにまぎれさせ、本当に犯人が証拠を捨てていたら、それは英断だ。が、それは無い気がする。大神はボンヤリとそう感じていた。

 係長が来ていたという事は、死体発見はゴミ回収よりも以前。もし証拠がここに捨てられていたら、犯行時間に関わらず、犯人は凶器などの処理を犯行現場に後で来るだろう他人へ任せた、ということになる。そんなのあり得ない――なんて事は、ない。「アリかナシか」で考えれば、「ナシっぽいけど、アリもアリ」だろう。

 他にも、死体発見が犯人の予測より早く、回収業者が付く前に警察が現場に来てしまった可能性。血の付いた衣服など、持ち歩くには目立つ物を捨てた可能性。考えると、事件解決に繋がる可能性は高いと言える。

 だがそれでも、大神は違うと感じていた。唯一の根拠はただ1つ。

 

(的外れ、というか……むしろ裏目に出るからなぁ、あの人のやる事なす事……)

 

 一部下として抱く、上司への絶対的信頼だった。その重い腰は、実は部下が上げさせないようにしていたりする。

 そして大神が、ゴミ回収の件の始末書を書かせる人材――平たく言うと係長への生贄――を誰にしようか悩んでいると、その第一候補に挙がっていた人物が彼の背後に忍び寄っていた。

 

 

 ゴンッ、ゴゴゴゴゴゴッ、ゴンッゴンッ。

 

 

 掴んでいた扉から、振動が伝わる。

 それは、マンションの内部から引き返してきた星野の、いつまで経ってもやって来ない大神に対する無言の意思表示。鋼板製の扉を叩く音は重く鈍く、音程も無いので非常に分かりにくいが――――笑点だ。

 

「……おい、気の抜ける音出すな。ぶっ殺すぞ」

噺家(はなしか)さん達への侮辱とみなします。あっちに行ったら偉大なるお歴々の師匠方にチクリます」

「なんでちょっと弟子の立場なんだ、お前は。状況を考えろって言ってんだよ」

 

 ここは日曜夕方のお茶の間ではなく、殺人現場のマンションだ。という訓戒の意を込めた言葉は星野の耳に届いた筈だが、その顔は「そんなこと百も承知だ」と言わんばかりだった。

 そんな彼の口が紡いだのは、あべこべな肯定。

 

「それならピッタリですよ」

「……何?」

「ムカつく気分を和らげるのは、いつだって笑いです」

 

 全く笑っていない星野の言葉を聞き、大神は耳を疑った。内容ではない。

 彼がハッキリと、その感情の名を口にしたことだ。

 

(しかもまた、『です』……か。――――成程、相当()()()()()らしいな)

 

 とさかに来た、とも言うが、どちらにせよゆるふわパーマの相棒には合っていない。が、そういう問題でも無い。

 

「ちょっと待たせたぐらいで、そんなに拗ねるなよ」

「現場が目の前にあるってのに、道草を食う方が悪いんじゃないですか?」

「ここはもう現場だ。捜査は始まってんだよ、新米」

 

 柔和な雰囲気を持つ垂れた糸目が、じろっとこちらを睨む。新人扱いに気を悪くした、とも取れるが、彼はそんな神経は持ち合わせていない。

 

「別に、拗ねてる理由はそれだけじゃないですけどね」

「……他に、何かあるのか?」

「自分の胸に聞いてみたらどうですか? 手を当てるまでも無いでしょうけど」

 

 それ以上何も言わず、静かに背を向けてマンション内部へ戻っていく星野を見つめながら、どうしたもんか、と大神は頬を掻いた。心当たりは大いにあるのだ。

 一つ重い息を吐いて、側に残っていた警官へと振り向く。

 

「引き止めて悪かったな。もう戻っていいぞ」

「は、はいっ! 失礼いたします!」

 

 警官の綺麗な敬礼に挨拶代りの適当な敬礼を返し、扉をくぐる。

 後ろ手に閉めた扉から、ガチャン、と鍵がかかった音を確認し、大神は星野の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 建物の外と内を分ける境界線を越えた先の通路は、途中に小さな段差が3つほどあるだけの短いもの。突き辺りまで行って左右を見ると、右の手前にはそのまま上へと登る階段が続いており、その先には一階の共通廊下。侵入防止用の格子が、灰色の床に濃い影を落としている。そして左には、入口前のエントランスとエレベーター。

 下降を指示するボタンを押して、エレベーターを無表情で待つ星野へと歩み寄る。

 

「おい、階段使え。住民の迷惑だろうが」

「遠慮しときます」

「言葉のチョイスがおかしいんだよ」

「現場は5階ですよ? しかも上りにくそうだし」

 

 背後にある階段は、5階まで続く螺旋階段。デザイナーズマンション、とでも言えばいいのか、理解できそうにない建築家のその主張部分は、赤茶色でただ上りにくいだけだという感想を大神に浮かばせる。錆びているようだし、もっと目に見える部分をこだわればいいのでは、とも思う。

 だが、それはそれ、これはこれ。

 

「このぐらいでガタガタ言いやがって。ただでさえ住民には後で事情を聴かなきゃならんのに、わざわざ悪印象を与えるな」

「先輩の目つきの方がよっぽど悪印象ですけどね」

 

 

 ピンポーン。

 

 

 大正解、とでも祝福するようなタイミングで、エレベーターの到着を告げる音が響く。自覚があるだけに、非常に屈辱的だった。

 おお、と星野が感嘆の声を上げる。

 

「ギフト券付き、ハワイ旅行宿泊ペアチケットをゲット?」

「なんでだよ」

「クイズの優勝賞品」

 

 いつからクイズになった。

 

「自腹で行けよ。税金泥棒呼ばわりされたくなかったらな」

「すでに署内では給料泥棒扱いされてるので気にしません」

 

 皮肉に返ってきた自虐を、大神は自身のコンプレックスを突かれた事も忘れて否定しようとした。

 確かに、そういう輩もいる。誤解されやすい性格ということも手伝って、星野の評判はあまり良くない。こんな若くてふざけた奴が同じ警察官だなんて、と言う上司や同僚も居た。

 しかし、大神は星野と組む内に、彼が案外真面目な面も持っていることを知っていた。特に仕事に対しては。もちろん、プライベートというか普段の発言は置いといての話だが。

 だからこそ、そんな事は無いと言ってやりたかった。本人はあまり気にしていないのだろうが、それでもそう呼ばれているというのを知っているという事は、耳には入ったのだろう。少なくとも、自分ぐらいは庇ってやらねばという、親心ならぬ先輩心が大神の無意識に働きかけていた。

 が、それを言う暇は無かった。

 

「どうぞ、お先に」

 

 星野がエレベーターの扉が閉まらないようにスイッチを押し続けながら言った。大神は一瞬、自分に言ったのかと思ったが、直ぐに後ろの人物に気付いてそれが間違いだと気付いた。

 先ほど自分達を通せんぼした入口の自動ドアから入ってきたのは、白いシャツにジーパンというラフな格好をした女性。化粧をしていない顔立ちは素朴で、見間違うことなく若い。手にぶら下げているコンビニの袋には、弁当箱が入っている。

 平日の昼間に暇そうな所を見ると、学生の入居者だろうか。

 

「え、と……いいんですか?」

「ええ、構いませんよ」

 

 エントランスに入った途端、立ち止っておろおろしていた女性を、慣れた手つきで星野がエスコートする。英国紳士さながらに綺麗な仕種で促すそれは、気障過ぎて大神の勘に触った。

 ナンパ野郎。という訳ではないが、一々わざとらし過ぎるのだ、こいつは。

 

「それじゃ……すみません、失礼します」

 

 頭を軽く下げながら大の男2人の間を通る女性に、大神は視線を送らないように気を付けた。怖がらせてしまうのは目に見えている。

 エレベーターに乗った女性が振り返り、開放スイッチを押すと――――少し、間が空いた。

 

「……あれ? 乗らないんですか?」

 

 大神も同じ疑問が湧いた。

 

「どうぞ、行っちゃって下さい。良い旅をー」

「旅を、って……。私、4階に行くだけですけど」

 

 手をひらひら振る星野に、女性がクスッと笑う。相変わらず、初対面の人間の心の内にすんなり入れる男だ。

 大神は呆れながらも、星野が乗ると思って首根っこを掴まえようとした手を、所在なさげにポケットへつっこんだ。

 女性が笑いながら礼を言って開放スイッチから指を離すと、エレベーターの扉が閉まっていく。と、閉まり切る寸前で扉がまた開いた。

 笑顔を神妙な顔つきに変えた女性に、星野が尋ねる。

 

「どうかしました?」

「あの、警察の人、というか…………刑事さん、ですよね?」

「ええ、こんなんですけど」

 

 それに自分も含めていたらぶん殴ってやろうかと思い、大神はギロッと星野を睨みつけようとしたが、話がややこしくなりそうなのでやめておいた。

 少し迷う様子を見せていた女性が、言葉を継ぐ。

 

「……ちょっと、お尋ねしてもいいですか?」

 

 これは、いつものパターンか。

 大神は驚くことなく、黙って女性と反対側の方へ向いた。

 刑事という職業は厄介だ。堂々と他人から事情を聴ける立場でありながらも、その立場がかえって邪魔になってしまうことがある。

 警察、というだけで萎縮され、忌避されるのだ。後ろ暗い所の無い一般市民ですらそうなのだから、国家権力様々である。その中でも刑事と聞くと、十中八九驚かれる。

 その結果、余計なことを喋ったらいけない気がするのだろう。有益な情報を聞き出せない事もしばしばある。間違いを恐れるのはお国柄、と言うべきか、それとも警察の体制が問題なのか。

 いずれにせよ、この男には関係ない事柄だった。

 

「はいはい、何でも聞いて下さい。正義のヒーロー、市民の味方、あなたの犬のお巡りさん、この星野大司が何でもお答えいたしますよ」

 

 誇大広告かつふざけているとしか思えない決まり文句をびしっと言い放つのは、とても刑事には見えない刑事。

 有益な情報だけでなく、偶に要らぬ世間話まで向こうからやってくる星野に対し、大神は自らの見た目のせいだけでは無いと信じていた。比較する相手が間違っている、とも言える。

 

「……失礼かもしれませんけど、刑事さんって本当に刑事さんなんですか?」

「もちろん。手帳見ます? ドラマとかでしか見た事ないでしょ? あ、あと、大司君でいいですよ」

「――ふふ、遠慮しときます、星野さん」

「ありゃま、ふられちゃった?」

 

 聞きようによってはただのナンパ現場だったが、大神は星野を信頼してその場を任せ、自身はマンションの構造を確認するような素振りを見せた。こういう時、自分が居てもマイナスにしかならないという事は、彼の刑事人生だけでなく今までの人生経験そのものから学んでいる。

 笑い声が響く中で、改めて星野が切り出した。

 

「ではでは、ご質問は何でしょうか? えーっと……」

「あ、私、如月(きさらぎ)って言います。近所の大学に通ってて、401号室に住んでいる者です」

「なるほど、如月さん。下の名前は?」

「優子です。……けど、それって聞く必要ありますか?」

「個人的に知りたいなぁと思って。職権乱用になるんで、内緒にして下さいね?」

 

 信頼したのが間違いだったか。女性の笑い声が響く中で、ますますナンパ現場になりはじめていた空気に、大神は怒鳴り声を上げたくなった。

 ぐっとこらえ、気を紛らわすように周囲を見る。

 

「それで、優子さんは何を聞きたいんですか?」

 

 しれっと下の名前か。

 

「あ、はい。すみません、お仕事中に引きとめちゃって……」

「いえいえ、これも立派なお仕事ですから」

 

 馴れ馴れしい呼び方だったが、やっと本題に進みそうな気配を感じて、大神は1階の共用廊下を見渡した。

 一番手前の部屋が、101号室。ということは、突き当たりの部屋が105号室だろう。5階の構造も同じだったから、現場の505号室はエレベーターを降りて一番遠い部屋になるはず。

 そして、侵入防止用の格子。

 

「それで、あの、聞きたいのは亡くなった方の事なんですけど……」

「はいはい、小鳥遊(たかなし)さんですね? もしかしてお知り合いでした?」

「ええ、一応」

 

 格子は一階にしか嵌められていなかったことを思い出しながら、大神は2人の会話をぼんやりと聞いていた。

 

「ありゃ? 違う階に住んでるのに、ご近所付き合いがあったんですか?」

「ご近所付き合いと呼べるほど大したものでは無いんですけど……。一度だけ、小鳥遊先生とはお話しを……」

「? 先生?」

 

 アルミの柵を手で引っ張ると、ネジが緩んでいたのか、少しがたついた。メンテナンス不足か、はたまた取り付け方が悪いのか。

 疑念を抱いた大神が他のネジの緩みも本格的に調べようとした時、ボソボソと控えめだった女性の声調(トーン)が、急に素っ頓狂なものへと様変わりした。

 

「……あれ? 知らないんですか?」

 

 それはそうだ。まだ現場に着いていないから、星野は実際何も知らないに等しい。

 これは疑問とやらにも答えられそうにないかな、と思いながらも、大神は今の遣り取りにどこか引っ掛かりを覚えた。

 それは、先ほどと同じ感覚。初めて被害者の名前を見た時と同じもの。

 

「小鳥遊先生は、薬剤師ですよ?」

 

――一瞬、呼吸を忘れた。

 

「へぇ、薬剤師さん。……ん? 薬剤師さんって先生だなんて呼ばれるんですか?」

「医療関係者からは呼ばれますよ、普通に。私も薬学部に通ってて、将来は薬剤師になろうと思ってるんです。それが縁で……というか、偶々ですかね。小鳥遊先生が病院勤務の薬剤師だって知って、立ち話程度にお話しを伺った事があるんです」

「ほぉ、なるほどなるほど」

 

 何の気なしに頷く星野とは打って変わって、大神の心中は嵐が吹き荒れていた。

 ただ、まるで台風の目の中に居るように、どこか静かな部分もあった。

 

「それで、って言ったらなんなんですけど……。小鳥遊先生がお亡くなりになったって聞いて、私、少し動揺しちゃって。一度しかお話しした事ないし、あんまり関係者とは言えないんですけど、どうしてお亡くなりになったか聞いてもいいですか? 部屋でお亡くなりになったんですよね?」

「あぁ、そうですね……。それはちょっと……」

「――やっぱり、駄目ですか……」

「あ、いや、そういう意味では無くて、まだ調査中と言いますか、実はまだ調査にも加わってないという身と言いますか――うわっ!?」

「きゃっ!?」

 

 ダンッ、とエレベータの扉を抑えつけるように腕を伸ばし、大神は2人の間に割って入った。驚く様子が後ろから、そして前からは怯える様子が見て取れたが、気にする余裕は持てず、大神は問い詰めるようにして女性へと尋ねた。

 

「彼はどこの病院にお勤めでしたか?」

「え、あの――」

「もしかして、浅木病院じゃないですか? 隣町の」

 

 矢継ぎ早の質問に、女性が何とか頷く。怯える目からは少し涙が浮かび始めていた。

 そんな女性を目の前にしてニヤッと笑みを浮かべる大神は、もしこの場に警察官が居たら取り押さえられるであろう程に凶悪で――――(いや)、訂正しよう、この場には警察官が二人居た。

 本人でない方の警察官が大神を後ろから取り押さえる。

 

「ちょっと先輩、何考えてるんすか!?」

「何って……おい、離せ。ちょっと事情を聞いただけだろうが」

「どう考えてもエレベーターで女性を襲おうとしている変質者っすよ!」

 

 冗談にしてはあまりにも酷い言い種だと思い、大神は激高しかけたが、目の前の女性を見て、はた、と止まった。

 狭い密室で震えあがる女性と、興奮しながらエレベーターに乗り込もうとしている自分。なるほど、客観的に見ると酷い構図だ。もし自分だったら問答無用で犯人を地面に這いつくばらせているかもしれない。

 やってしまったという後悔と自分の情けなさに襲われ、大神は頭の中で自分が自分を取り押さえるという意味不明な想像をしながら、慌てて目の前の女性に謝罪した。

 

「あの、失礼しました。私もこれと同じ刑事でして……どうかご安心ください」

「今更遅いっすよ! 失礼しました、どうぞ行っちゃって下さい! 後ほど改めましてお話しと謝罪の為に伺わせて頂きますので! もちろん、これを置いて!」

 

 羽交い締めをされながら謝罪する刑事と、しながら必死に叫ぶ刑事。傍から見れば面白い絵だったが、当の被害者――と呼んでしまっては大神が可哀そうだがそう呼ばざるを得ない――は大急ぎでエレベーターのスイッチを押して密室の奥へと引っ込み、体を笑いではなく恐怖で震えあがらせていた。

 扉が閉まって上へあがるまで、大神はエレベーターの扉に付いているガラス越しに頭を下げ続けた。

 

「……一体なんなんすか、今日の先輩は」

 

 耳元で吐かれる男の溜息はあまりにも気持ち悪いものがあったが、文句を言える立場では無い。

 だが、一つだけ。

 

「おい、よくもまぁ先輩を()()扱い出来るな」

「すみませんね、あまりにも焦っちゃって。飼い犬が他人(よそ)様に噛みつこうとしてたら、誰だって動揺しますよ」

「……とりあえず、離れろ」

 

 誰が飼い犬だ、と思わないでも無かったが、やはり全面的に自分に非があることは分かっていたので、大神はそれだけを言うに止めた。

 はいはい、と呆れながら大神から両手を離した星野が、上がってしまったエレベーターを呼び戻す為、再びスイッチを押す。

 

「それで?」

「あ?」

 

 もう階段で行けとは言えないな、と自らの立場を再確認していた大神に、星野が要領を得ない疑問を投げかける。

 

「だから、一体なんなんすか?」

「……何がって――――あぁ」

 

 先ほどの醜態の弁明をしろ、と。大神はそう解釈した。

 エレベーターランプが四の数字の所で点滅し、四階で止まった事を表示する。

 

「喜べ、星野」

「……先輩、誕生日だったんすか?」

 

 いきなりのお祝い宣言に、呆れ果てる星野。

 毒の薄れた舌先にも言及せず、大神は意気揚々と続けた。

 

「いや、すまんな。喜べは不謹慎だった。それに、何も解決した訳じゃ無いしな」

「……とりあえず、独り言を大声で口に出すのをやめて欲しい()()ね」

 

 星野の苛立ちが再び表れても、大神は気付けなかった。

 微かな駆動音に合わせ、四で止まっていたエレベーターランプも動きだす。

 

「馬鹿にしてられるのも今の内だぞ、これから忙しくなるんだからな。全部洗い直しだ」

「? さっきから一体、何の話してるんですか?」

「浅木病院だよ」

「はい?」

「そこで聞いたんだ。小鳥()遊ぶんじゃなくて、小鳥()遊ぶような人。だから、『タカナシ先生』じゃなくて、『コトリ先生』って呼んでたらしい」

「……先輩、本当に独り言になってますよ」

 

 説明ではなく、自らの記憶を口に出して確認するその作業は星野の言う通り、独り言である。

 それでも大神は続け、そしてふと、ある仮説に行き着こうとしていた。

 

「もしかしたら、これは――」

 

 

 ピンポーン。

 

 

 再びの到着を告げるチャイムの音。

 正解への祝福ではなく、今度はその解へと辿り着くのを阻止するかのようなタイミングだった。

 

「……とにかく、現場に行くぞ。話はそれからだ」

「あ、ちょっと!」

 

 エレベーターの扉が開くと同時に乗り込んだ大神は、すぐさま五階のボタンを押した。彼の焦りにも見えるその興奮は、どこか犯人の潜伏先に乗り込む前の意気込みに似ていた。

 閉まろうとする扉を抑えつけて乗り込んだ星野が、口を尖らす。

 

「ほんと、いい加減にして下さいよ」

「悪かった、そう怒るな。別に挟まれた訳じゃないだろうが」

「それもありますけど、それじゃないです」

 

 まるで駄々っ子のような言い分だ。

 

「お前はもっと飄々(ひょうひょう)と生きてる奴だと思ってたが、今日は随分とガキみたいに拗ねるな」

「……どうやら、自分の胸に手を当ててみた方がよさそうですね」

 

 デジャブのような遣り取りに、思い出すのは大きな心当たり。胸ではなく、扉に挟まれる寸前だった星野を見て咄嗟に「開く」のボタンに指を当てていた大神は、ゆっくりとボタンから手を離し、そのまま頬を掻いた。

 罰の悪さは残っているが、もう話題を避ける必要は無い。

 

「それについても、もう安心していいぞ。というかやっぱり俺が正しかったんだからな」

 

 エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、目に見えない力に抑えつけられる。

 

「この間の事件……先輩が()()()()()()()()()件と、今回の事件……何か、関係があるんですか?」

「刺があるな、その言い種は」

「悪意しか無いんで、刺じゃないですね。針、と言ったところでしょうか」

「……成程な」

 

 剣ほど無粋じゃないが、刺よりも意図的に突き刺しているらしい。確かに、効果はある。

 

「とにかく、関係大有りだ。だからそう拗ねるな」

 

 大神は背中を向けながら、扉のガラスに映る星野へと語りかけた。外の光景が、上から下へと流れていく。

 

「だから、じゃないですよ。実際そこはどうでもいいんです」

「何?」

 

 遅く感じるエレベーターが三階を通り過ぎた辺りで振り向くと、そこにはやはり予想通りでしかない顔があった。

 今日一日で見慣れてしまった、不機嫌そうにふてくされた顔をする相棒が、細い目をさらに細めて口を動かす。

 

「ボーっとしたり、急に女性に襲いかかったり……いい加減勘弁してほしいんですけどね。後輩に迷惑かけるなんて、恥ずかしくないんですか?」

 

 大神は酷く衝撃(ショック)を受けた。

 たとえ迷惑をかけていた自覚はあっても、こいつにだけは言われたくなかった。そして、訂正しなければならない。

 

「おい、誰が女性に襲いかかったって?」

「先輩です」

 

 指差し付きの即答は確信に満ちていて、返す言葉が見当たらない。

 

「……ちっ、悪かったよ」

 

 軽い舌打ちと共に視線を外しながら、大神は再び正面を向いた。認めたくは無いが、謝罪が先だと思えるぐらいには、罪悪感があった。

 遅いエレベーターの動きがさらに遅くなる。外を見ると、やっと五階に着いたらしい。

 と、ガラス越しに、星野が慄くように震えているのが見えた。

 

「――ク、クララ……」

「あ?」

 

 まるで恐ろしい何かを見たような顔をして、星野が続ける。

 

「――クララが、立った……!」

 

 続けさせなければよかった。

 

「……誰がクララだ」

「だって、先輩が謝るなんて……。職務中にボーっと考え事してるのをいくら注意したって、決して謝らなかったあの先輩が……!」

 

 エレベーターの扉が開き、「開く」ボタンを押して星野に出るよう促した大神は通り過ぎざまに、悪意ある驚きしかない似非(エセ)ハイジの尻を蹴飛ばした。「いたっ!」と盛大な悲鳴が上がるが、同情の余地は無い。車椅子に乗る薄幸の美少女と仏頂面の三十路を同列に語った報いである。

 

「いたた……。何も本気で蹴ること無いじゃない()()か、先輩」

「一々うるさいんだよ、お前は」

 

 どうやら機嫌が戻ったようだったが、逆に大神の機嫌が傾き始めていた。「二度とこいつには謝らない」という強い決意を固めてエレベーターを降り、5階の廊下へと出る。

 一階とほぼ同じ作り。通路の一番端に供えられたエレベーターから降りると、左には何もなく、右には備え付けの例の螺旋階段と、すぐ側に五〇一号室。

 マンションの玄関口がある事以外の違いは、共用廊下に侵入防止用の格子が無い事と、見慣れた青い作業服を着る鑑識の人間がうろついている事だった。

 

「それに、いつ誰がボーっとしてたって言うんだ?」

 

 大神は文句を言いながら、こちらに気付いた鑑識の人間に軽く敬礼をした。四人の鑑識は、あぁ、と聞こえそうな表情を浮かべ、大神と同じような無作法の敬礼を返しただけで、仕事に戻った。顔見知りだったので、いつもの二人か、と納得されたのかもしれない。

 

「この頃ボーっと考え込んでばかりいたじゃないっすか、先輩。今日だってボーっとしてたかと思ったら、『ふっ、事件に大きいも小さいも無い、か……』とか気障ったらしく呟いたり、こんな真夏なのにいきなり『さ、寒いよー……』とか意味不明なこと言いだすし」

 

 三文芝居の大根役者かと見紛うほどの、大袈裟な仕種(オーバーリアクション)。色々とつっこみたい所ではあったが、大神はあえて無視し、廊下を歩きだした。目指すのは、一番奥の扉。

 事件現場である、505号室。

 視線は真っ直ぐと定めながら、大神は後ろから付いてくる星野に話しかけた。

 

「随分と脚色されてんだな、お前の中の俺は」

「でも、言った覚えはございますでしょ?」

 

 大有りである。しかも一つ目は、口に出してしまっていたのかと後悔している。だが二つ目に、非難される(いわ)れは無いだろう。

 

「寒かろうが暑かろうが、お前にゃ関係無い」

「ありゃま、迷惑をかけている後輩になんて言いよう」

 

 二つ、部屋を通り過ぎる。明かりが付いていない部屋に、人の気配は窺えない。平日だから仕事だろう。それに学生が住んでいるという事は、間取り的に一人暮らしの入居者専門のようだ。他の部屋からも、帰りを待つ家族が居る気配は無かった。

 

「別にそれは、考え事してたからじゃない。ただそう感じちまったんだよ」

 

 すると在宅しているのは、五〇五号室のみ――――いや、遺体だから在宅とは言えないかもしれない。

 

「感じちまったって……こんな暑いのに?」

 

 五〇五号室の扉を見ながら、それとももう運んじまったかもな、と自分の余り上手くない皮肉に苦笑いして、大神は星野の質問に答えようとした。

 森に居る気分に――夜の森に迷い込んでしまったような、不安と寒さに襲われたのだ、と。

 

――だが、言えなかった。

 

 それは、言っても意味が分からないだろうと諦めたからでは無く、事件現場の部屋の扉が開いたからで――

 

「……は?」

 

――そこから、少女が出てきたからだった。

 

「……? どうかしました?」

 

 足を止めた自分を追い越し、不審げに振りかえった星野が目に入る。けれど、目に入るだけ。

 瞳を奪うのは、少女の色。

 

(――赤、い……?)

 

 その幼い身体に着るのは、真っ赤なドレス。その小さな手に持つのは、真っ赤な日傘。そして、腰にまで真っ直ぐ伸びる、真っ赤な長い髪。

 血よりも深く、夕陽よりも鮮やかなその赤を見て、大神の体は震えた。

 寒い。まただ。まるで――

 

「――森……?」

 

 違う、ここは事件現場のマンションだ。大神はそう言い聞かせながら、自らの腕を強く掴んだ。

 それでも、震えは止まってくれなかった。

 

「? 森がどうか…………って、先輩? なんか、震えてません?」

 

 ドアを自らの手でゆっくりと閉める少女へと、全神経を注ぐようにしてじっと見つめる大神に、星野の訝しむ声は届かなかった。

 そして、こちらを振り向く真っ赤な少女の顔を、しっかりと大神は見た。

 気だるげな目つきは冷たさを伴い、真一文字に結ばれた桃色の薄い唇は、青い訳でもないのに生気が感じられない。あまりの肌の白さに加え、その完璧な造形から、大神は作りだした者の魂だけが宿りし、生命無き芸術品であるかのように見えた。

 それはまるで、女神の彫像。少女の形に拵えたのに、少女らしさを微塵も感じさせ無い、矛盾した美の芸術品。

 だがそれよりも、大神は彼女の瞳に魅入られていた。

 瞳が、赤い。

 

 

――ドクンッ。

 

 

 心臓が一段と飛び跳ねる。

 感動では無い。ましてや、欲情でも無い。

 それは、本能が鳴らす警鐘だった。

 

「……? 本当にどうしちゃったんすか、先輩。幽霊でも見たんすか?」

 

 真っ赤な日傘を狭い廊下で開き、少女が歩き出す。少し長めの袖と、足元まで覆い隠すドレスに付いたいくつもの段重ねになったフリルが、少女の歩調に合わせて微かに揺れる。その服装に加えて、真夏の日中だというのに汗一つかいていない涼しげなその顔は、星野の言う通り幽霊のようだった。

 そして、暑さを感じ無い幽霊はまた、誰にも見えない。

 

(一体、どうなって……)

 

 少女が歩くと、顔見知りの鑑識達が自然に体をどかし、道を開ける。こちらと前から来る少女の方へと何度も往復させた星野の顔は、疑問に満ちている。

 嫌でも目立つその真っ赤な少女に気付いているのは、自分だけ。その事実に、大神の体はさらに震えを増した。

 それでも大神は、少女が幽霊のようには見えなかった。

 

 

――そこは、森の中だった。

 

 

「……いい加減にして下さいよ。俺、先に行きますからね」

 

 動くだけで何の変哲も無い木々の間を、何事も無いかのように歩く、たった一つの存在。光が照らすコンクリートの道を、深く暗い森に変えて歩く、真っ赤な少女。

 痺れを切らした星野が歩き出す。そしてやはり、少女を避ける。彼もまた、森を散歩する少女の邪魔をしないように心掛ける、忠順でありながら意志無き木々の一つになっていた。

 そして、ふと、少女が足を止める。

 

「――おや?」

 

 真っ赤な長い髪が、風も無くなびいた。

 

「これはまた、珍しい……」

 

 まるで季節外れに咲く花を木の上に見つけたかのように、少し驚いた顔を上げる少女。だが、口元を僅かに綻ばせただけで、再び日傘で顔を隠す。

 珍しいが、興味は無い。そう言いたげに、元の歩調に戻る少女を、大神は黙って見つめていた。

 

 

――いつの間にか震えが収まっていた自身もまた、少女にとって取るに足らない木々の一つとなっていた事に、彼は気付かなかった。

 




大神さんの話、ほぼ全部カット。書いてる内に誰が主役なのか分からなくなった……。

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