探偵な魔女は黒猫がお好き   作:灰かぶり

1 / 6
初めて小説を書くなら二次創作がいい、とネットで書いてたので挑戦してみたら、思いのほか辛くなり、つい書きたいものを書いてしまった。そんな作品です。
推理要素はあんま無いかも的な、ファンタジー推理小説。似たような設定がどこかにあったらスイマセン……。


哀しげな彼女は黒猫に出会う

 その不思議な黒猫に出会ったのは、叔母が死んでからしばらく経った暑い夏の日。

 

 変わり者として家族と疎遠だった叔母は、自分にとって一番で、そして唯一の理解者だった。学校で嫌なことがあったり、家族と喧嘩してしまった時などは、よく隣町に住む彼女の自宅へと逃げ込んでいた。

 叔母はいつでも明るく迎え入れてくれて、どんな話も聞いてくれたし、色々な相談に乗ってくれた。今の高校に入ったのも叔母の母校ということ、そして叔母自身が進めてくれたからだ。

 しかし、そんなことを続けていたのがいけなかったのだろう。度々家出してしまい、娘の将来にも影響を強く与えることに、母はついに業を煮やして叔母との関わりを一切絶つように厳しく言いつけてきた。

 もちろんそんな横暴を素直に聞く気はなかったが、叔母は自分自身が姉に良く思われていないことを承知していたので、またもや家出してきた姪に素直に従うように言った。

 しょうがないわ、と言う叔母の悲しげな顔。それが、いつも明るかった叔母の、自分にとっての最後の記憶になってしまった。

 

 高校に入学して最初の夏休みを迎える前日。終業式を終えて友達とおしゃべりしながらの帰り道。

 真上に昇った太陽と地面から伝わるコンクリートの熱気、そして道に植えられている木々から鳴り響くセミの鳴き声に文句を言い合いながらも、浮き足立つように夏休みをどのように過ごすか計画し合っていたのをよく覚えている。気の合う友達と過ごす夏に期待していたから、というのもあるが、それ以上に久しぶりに叔母に会えるかもしれないと思っていたからだ。

 部活にも入らず一生懸命勉強したおかげで、1学期の成績は学年でも1位。有名な私立の進学校に通わせたかった少し教育ママなところがある母も、この成績ならば叔母に会うことを許してくれるかもしれない。叔母もきっと、母の許しを得たと聞いたら、快く会ってくれるに違いない。

 大好きな叔母にまた会える。そんな期待で胸を躍らせながら家路を急ぎ、成績表を早く母に見せ付けてやろうと逸る気持ちを抑えられずに、勢いよく自宅の玄関を開けた。

 そこに待っていたのは、澄んだ空気が重たく感じる静けさと、背中を丸めて居間の椅子に座り蹲る、母の震える背中。

 

『雪が死んだわ』

 

 お帰りも言わずに、そう呟く母。何も感じられない、どこまで行っても平坦でしかないその口調は意味を捉えることが難しく、ただ叔母の名前があったことしか分からなかった。

 叔母さんと呼んだら怒る、彼女の名前。「ゆきねぇ」と無理矢理呼ばせられながらも、そこまでの年の差はないほど若くて綺麗だったから、あまり違和感を覚えなかった呼び名。

 簡潔な、誰かが死んだことを伝えるその文脈の中、すんなりと心に入ってくる彼女の名前があることに大きな違和感を覚えて、呼吸が止まる。

 人の話を聞くのが上手いくせにおしゃべりな叔母。その日の内に、物言わぬ姿に変わり果ててしまった彼女と無言の対面を果たした。

 

 

 何でこの場所に来てしまったのかはよく分からない。

 眼下に広がるのは、自らが住む広い街。自分が知らないところまで見渡せる、とまではいかないぐらいの景色が堪能できる、丘と呼ぶほうが相応しいような小さな山の頂上にある静かな公園。

 自分より年上のこの公園は、自然と触れ合う機会の減った子供たちのため遠い昔に作られたものらしいが、肝心のここまでたどり着く道に自然を残しすぎてあまり人が寄り付かない。綺麗に舗装されているが車では通れず、徒歩や自転車だと坂道がきつすぎる。

 しかも遊具もあまり無い。あるのは錆び付いている2席で1台のブランコと、鉄棒と滑り台のみ。

 雑草が生え放題の野原はサッカーができるぐらいの広さがあったが、ど真ん中にデンと居座る大きな木が邪魔していて、他の遊びをする分には何の支障もないだろうが人数の多い団体競技には向いてない。しかも微妙に地面が平らではないので、結局は学校の校庭で遊ぶのが一番良いという結論を導いてしまう。

 木々に囲まれながらそこだけはげてしまったような空間。大きすぎる木がやたらと目に付く、緑成分多めな公園。

 叔母と自分の、秘密の場所。

 叔母が教えてくれた正式な名前は「深摩山自然公園」というらしいが、どこにもそんな看板は無く、地元民にもほとんど知られていない。深摩山は知っていても、不思議と人の入らぬこの山にそんな公園があることを誰も知らない。

 叔母に一度だけ連れてきてもらったこの公園で、哀しげな彼女――映見は、1人でブランコに乗りながら中央に大きく根付いている木を見つめていた。

 

「ゆきねぇ……」

 

 その木の名前は「深い森の木」。深摩山なのになんで深い森なんだ、と教えてくれた叔母に尋ねた幼い頃の記憶を思い出し、どうしてかしらねと言いながらごまかそうとする叔母の笑顔が蘇る。

 彼女の名前を呼んだのは、寂しかったからか、悲しかったからか、それともまだ受け入れられないのか。映見は自分がよく分からなくなりながら、「深い森の木」を見つめ続けた。

 

 叔母の葬儀から1週間。叔母関係の書類の手続きや弔問に訪れてくれた人々のお礼など、何やら忙しそうな母親を手伝うつもりで映見は叔母の住んでいたマンションの自宅を片付けることを申し出て、叔母との思い出の品を見つめながら部屋の整理をする時間を過ごしていた。叔母には映見の母親である姉しか家族はおらず、あなたが一番適役だろうと憔悴気味の母は許してくれた。

 学校が夏休みに入っていたのをいいことに、早く片付けるためと言い訳して、映見は久しぶりに叔母の部屋で過ごしていたが、部屋の整理は全く進まない。次々と出てくる叔母との楽しい記憶を蘇らせる品々に手を止めさせられ、悲しみが溢れるばかりで、自分の心と同様にほとんど何も片付けられはしなかった。

 寝ても覚めても叔母が居ないことを痛感させられる環境。ご飯も冷蔵庫の残り物で済ませながらこの部屋にずっと居るのがいけないのだろうと映見は思い、一休みしようと外に出た彼女の足が無意識に向かった先が、叔母と一度だけ来たことがあり、秘密にしようと約束したこの公園だった。

 真昼の暑い夏の日差しと山を登るという運動行為の代償として、母親よりも叔母に似た彼女の綺麗な顔には汗が滲み出ていたが、ブランコに揺られて当たる新鮮な空気にゆっくりと乾かされていく。部活には所属していないが体を動かすのは好きという、毎朝のジョギングを欠かさない彼女の細く締まった体からも汗は滲み出ていて、肌に張り付く叔母の部屋に置いていたお気に入りの水色のキャミソールが、澄んだ空気と共に映見の体温を奪う。

 木漏れ日の下で漕ぐブランコは涼しさを呼び、周りの木々からも冷たい風が吹いている気がして季節違いの寒さを感じさせるものだったが、映見は何も違和感を感じなかった。

 大事な人を失った悲しみに震える彼女の心には、まだ暑すぎるぐらいだった。

 

(…………髪、邪魔だな)

 

 微かに揺れるブランコに対応するように、彼女の長い髪が前後に乱れていた。

 映見は疎ましく思い、ブランコを止めてから手に付けていた髪ゴムを取る。そして、自分の栗色の髪の毛を束ねて括った。

 染めていない、天然の栗色の髪。小さい頃によくイジメられたのに、コンプレックスどころか自慢になって伸ばし始めたのは、叔母がすごく綺麗だと褒めてくれたから。

 動きやすくてよく穿くショートパンツも、元々は長ズボンばかり穿いていた自分に、「せっかく綺麗で長い足なんだから、もっと見せなきゃダメよ」とファッションにうるさい叔母がそう言ったから。

 動きやすさばかり優先して選んでいたスニーカーも、今履いているのは「きっとこれが似合うわ」と言って一緒に買い物へ出かけた叔母が勧めてくれた物。メイクの仕方を教えてくれたのも叔母だった。

 髪やメイクや、着ている物。そしてきっと、性格も。

 この公園だけでなく、ここに居る自分だけにすら、大好きな叔母との思い出が詰まっていた。

 

「――ゆきねぇ……」

 

 悲しみを呼び起こす叔母の持ち物から逃げるために外へ出てきたはずなのに、思い出すのはやっぱり彼女のことばかりで、映見は泣きそうな声でもう一度同じ名前を呟いた。

 応えてくれる人間はどこにもおらず、風に揺らされ重なり合う木々の葉擦れの音だけが映見の耳に届く。

 

「――どうして…………」

 

 悲しみだけで動いていた映見の声帯が、意思を持って疑問の形に動く。

 が、喉も口も、その先を言えずに止まった。

 どうして、応えてくれないのか。どうして、側に居てくれないのか。

 悲しみの感情が描いたその言葉は、深い絶望の問いに塗りつぶされてしまっていた。

 「どうして死んだのか」という問いは、口に出したら何かが潰れてしまう気がして、たとえ独り言でも、映見はそれを言えなかった。

 

 叔母の死は、自殺によるもの。

 遺書は無かったが、富士の樹海で発見された遺体に、警察はそう判断を下した。

 叔母が、自ら死ぬことを選んだという結論を。

 

(絶対に、違う……!)

 

 いつも明るく笑っていた彼女に限って、そんなことありえない。

 映見はろくに捜査もせず、そう決め付けた警察を憎く思い、唇をかみ締めた。

 日本の警察は優秀だと漫画かテレビで聞いたことある気がしていたが、それはきっと何かの間違いだ。

 死ぬ理由の無い人間が、自殺なんてするわけない。

 

(――けど)

 

 死因は睡眠薬による過剰摂取。仕事場にも何も言わず無断で欠勤し、誰にも理由が分からない謎の失踪。

 そして、姿を消してから1週間後に見つかった、外傷も無く争った形跡も無い遺体。

 ただでさえそんな状況の中、発見場所である富士の樹海が持つ異名が、叔母の自殺説にさらなる説得力を加える。

 違う、と思いたい。けれど、聞かされた事実が、そう思うことを許してくれない。

 映見はポケットから携帯電話を取り出して、保存していた過去のメールを開く操作をした。

 いくつかのボタンを押して画面に表示されたのは、日付が2週間前のメール。差出人の所には、「ゆきねぇ」という文字。

 

『近い内に、必ず会いに行くから』

 

 しばらく仕事が忙しくて連絡が取れなくなる、という文の後に、おまけとして付けられたようなその文字。

 警察に言っても特に取り合ってくれなかったが、それは映見の最後の心の支えだった。

 

「違うよね、ゆきねぇ……?」

 

 画面に映し出される無機質な文字に、映見は問いかけた。

 ブランコの揺れが止まっても声は震えていて、ごまかしきれなくなった感情が涙を呼んでいた。

 映見がその瞳に熱を感じ始めた時、錆び付いたブランコの悲鳴と木々たちの空しい囁きだけしか届いてなかった彼女の耳に、新たな音が届く。

 

「――ニャー」

 

 猫の鳴き声のようなものが聞こえた気がして、映見は携帯から顔をあげた。

 そこにいたのは、気のせいと否定するには距離が近すぎてよく見える、紛うことなき猫の姿。綺麗な黒い毛並みと長い尻尾、そして夜でもないのに瞳が妖しく輝いていて、こちらを真っ直ぐ見つめている。

 ブランコを囲む塗装の剥げた柵の上に器用に乗り、長い尻尾をタシタシと打ち付けるその黒猫と視線を合わせながら、映見は目を丸くした。

 

(どうして、こんなところに?)

 

 いつの間に、という驚きと、場違いだろう、という違和感。

 野良猫というには立派過ぎるその毛並みは、急に現れたことと合わせて、影から出てきた猫というかなりファンタジーな感想を映見に抱かせた。

 そのおかしな感想がそう見させているのか、景色から切り取られたような不思議な気配をかもし出す黒猫から映見は目が離せなくなった。

 彼女がジーっと見つめていると、黒猫は再び鳴き声をあげる。

 

「ニャ、ニャニャ、ニャー」

 

 一定のリズムで鳴くその声は、何か話しかけてきているようにも感じる。

 映見は気のせいだとは分かりながらも、何となく微笑ましかったので、首を傾げながらその声に応えた。

 

「ごめんね猫ちゃん。私、猫語は分からないの。でも慰めてくれてるんだったら、ありがとね」

 

 涙を止めてくれたお礼も込めて、優しく告げた。そして映見は微笑んだまま、悲しげに言葉を重ねた。

 

「今はちょっと、1人にしてくれるかな……」

 

 返事を少し期待したが、返ってきたのはただ黙って映見を見つめ続ける、金色に光る瞳。

 それはそうだと思い、自分に呆れた映見は黒猫を無視することにして、再び俯いて叔母からのメールを見つめる。

 会いに行く。自分にそう言い残したまま、叔母が死を選ぶはずが無い。

 どんな約束だって守ってくれた叔母を思い出しながら、映見は信じ切れない自分に言い聞かせた。

 それでも、信じることはできなかった。

 叔母が自殺したことも。叔母が自殺ではない、ということも。

 大好きな彼女が、もう居ないことも。

 

(どうして……)

 

 悲しみが混乱へと変わり、打ちひしがれるばかりだった心に、疑問が湧く。

 時間が経ったからだろうか。それとも久しぶりに外に出たからだろうか。

 理由は問題ではない。彼女にとっては気にも留めない些細なことだった。

 映見は、ただ望んだ。

 

(なんで……)

 

 本当に自殺なのか。それともやっぱり違うのか。

 どうして、自分の大事な人が居なくならなければいけなかったのか。

 

(私は、)

 

――知りたい。

 

 好奇心から来る欲求ではなく、ただひたすらに願うように映見は求めた。

 どこかにあるはずの真実を。

 拒むためではなく、受け入れるためでもなく、ただ純粋に知りたい。

 悲しんでばかりいた彼女は大事な人を失った世界で、初めてそう思った――のではなく、初めて自覚したのかもしれない。

 悲しみに隠れていた、自分の求めるものを。

 そしてその強く何かを求める想いが、彼女の頭の中へ向かおうとしていた時――

 

「はぁーあ、ったく……」

 

――声が、聞こえた。

 

 求めに応える声にしてはため息交じりに失望していて、かなり面倒臭さそう。舌打ちのようなものもあったかもしれない。

 が、それどころではない。

 誰も居ない、小さな公園。存在しないはずの声に驚き、映見は勢いよく顔を上げた。

 そこに居たのはこちらから視線を外し、横を向いてる先ほどの黒猫。

 絶対というものがもしあるのならば今まさにこの時、彼女の視界の中に人影は見当たらず黒猫しか居なかった。本当に誰も居ない。

 妙に落胆した様子の、黒猫だけ。

 落ち着きを取り戻した映見が周囲を見回しても辺りには人影すらなく、気のせいだったのだろうかと首を傾げた時、彼女の耳に先ほどの声音と調子の似た声が再び届いた。

 

「ホントやってらんねーな。こいつじゃねーとすると、またこのクソ暑い中で待たなきゃいけねーのかよ……。あのロリババ魔女め、余計な仕事を押し付けやがって畜生!」

 

 黒猫が悔しそうに歯軋りしながら右手の爪を立てる。人間っぽくて可愛い。

 と、普段の映見なら思っただろう。

 

「大体ホントに来るのかよ? マジでこいつ以外誰も来そうにねーんだけど――ってもしや、単なる俺への嫌がらせだったりして……。『それだけ黒かったら、日本の夏はさぞかし愉快だろうな』とかなんとか、昔不気味に笑ってたもんな……」

 

 黒猫が怯えているような素振りを見せてから自分の毛を舐め始める。人間がサンオイルを塗る感覚に近いのかもしれない。

 と思ったが、白い美肌を保つためや後で痛いからという予防的なものとは程遠く、まるで生死がかかっているかのような必死さだったので、やっぱり違うかもしれない。

 なんて、暢気に考えてる場合では無い、かもしれない。

 

「あーもうバックレようかなー、でも後でバレたらやばすぎるしなー…………。逃げても愉快な目に合わされそうだけど、逃げなくてもこの暑さじゃ結局愉快な目に合いそうだしなー…………こういうのを『前門の虎、後門の女将』って言うんだっけな、人間風に言うと」

 

 一文字外しただけでかなりの違いを生み出した黒猫が次に披露したのは、猫なのにドヤ顔という一発芸。それだけで十分、この先の猫生を遊んで暮らせるほどの稼ぎが得られそうだった。

 映見に確認している訳じゃなく、1人で納得して頷いてる黒猫。たとえ彼女に聞いていたとしても、ろくな言葉は返せないほどパニック状態だったので、ある意味では正解だ。知識はかなり間違っていたが。

 しばらくドヤ顔のままウンウン頷いていた黒猫は、今度はハッと何かに気付いたような表情――猫のはずなのに、映見には確実にそう見えた――を浮かべた。

 

「んな事で喜んでる場合じゃない、この先のこと考えなきゃ……。木陰で待ってても寝ちまって、危うく人が来たのも見逃しちまうとこだったしな。しかも暑くて寝苦しいし。かといって、木陰から出たらさらに暑くて死んじゃいそうだしな……。これを機に地の果てまで逃げ出すってのも、もしかしてアリなんだろうか……」

 

 かなり流暢に、しかもやたらと喋る黒猫が、悩んでいるのだろうか尻尾を左右に揺らしながら映見へと瞳を向ける。

 

「なぁ、お前どう思う?」

「え……」

 

 突然の問いに二の句が告げない。そもそも大前提がおかしすぎて、映見は固まった。

 意見を求めてきたのは、猫。

 

「キ…………」

「き?」

 

 猫が、喋ってる。

 頭が真っ白になった映見に、黒猫の訝しい発音は届かず消える。

 

「キ……」

「き、なんだよ? さっさと言えよ、参考ぐらいにはしてやるから。まあもっとも、ボボンキュボン? の女じゃないのは俺としては非常に残念だが――って、あれ? お前……」

 

 非常に失礼な言葉――また微妙に違っていたが、言いたいことは分かる――に対して映見が言い返す余裕など、宇宙の彼方、冥王星のそのまた向こうにさえあるはずが無かった。

 何故なら、猫が――

 

「……もしかして、俺の言葉、聞こえてる?」

 

――喋っているのだから。

 

「――キャァァァァァァ!」

「うおっ! ちょ、お前、急にそんな叫ぶなよ! 気持ちは分かるけど――」

「イヤァァ! 来んな、こっち来んな!」

「――ってドワァッ! あっぶねっ! お前何考えてんの、猫蹴ろうとするなんて! 喋ってるけどこちとら猫だぞ猫! 人間風に言うとあれだぞ! えーっと、その…………そう、『腐っても鯛』ってやつだぞ!」

 

 使い方は合っているかもしれない。が、猫が自分を魚に例えるのは、たとえこの世の全てを敵に回しても、間違いだと全力で叫んでやる。

 こちらの蹴りをヒラリとかわし、近寄ってきていた位置から元の場所へ軽やかに着地して文句を言ってくる黒猫へ、映見は臨戦態勢を解かずに対峙したままそう思った。近寄って退治するかそれとも逃げ出すか、混乱していた頭の片隅で。

 馬鹿っぽいから意外とイケルかもしれない。

 

「お前叫んで怯えてたわりには、ジリジリこっち近づいてきてないか!? 俺に触りたいならまずそのファインディングポーズを解け!」

「誰もアンタなんか触りたく――って別に探してないわよ! また魚ネタ出してきたわね、この化け猫!」

「化け猫って……ただ喋ってるだけで変身なんかしてないだろうが!」

「化け物な猫って意味よ! このバカ猫!」

「……あぁ、なるほど、『化ける猫』って意味じゃないのか。人間の言葉ってのはホント難しいな、特に日本語。でもバカ猫ってのは分かるぞ、褒めてんだろそれ? 『バカであればあるほど子供は美しい』っていうやつだ」

 

 感心した、と言いたげな顔の次は、またもやドヤ顔。どこからつっこめばいいのか分からない。

 そのドヤ顔のまま「化け猫と似てるけど、違いが分かるオス猫なんだよ俺は」と言い、二本足で柵の上に座り腕まで組みだした黒猫を見た映見は、何となく馬鹿にされている気がして頭に血が上った。単純に間違ってるだけなのは伝わってくるが、こんな馬鹿に怯えて悲鳴をあげた情けなさが上乗せされ、目の前に掲げている拳にますます力が宿る。

 だけど、話が通じない、というわけではないようだ。拳の先に見える攻撃対象はウンウン頷き隙だらけで、こちらに危害を加える様子は一切見せない。馬鹿っぽい様子に怒りが込みあがっていたが、同時に大丈夫かもしれないという安心感も映見の中で生まれていた。

 黒猫が頷くのを止め、映見に話しかける。

 

「それはそうと――おい、1つ聞きたいことがある。正直に答えろ」

 

 黒猫の初めて見せる神妙な様子。いや、その雰囲気はこの黒猫が姿を表したときに放っていた、現実離れしていてまるで同じ場所にありながら、違う世界からこちらを見ているような不可思議な光景。

 映見は息を呑み、油断していた心に活を入れた。

 

「な、なによ?」

 

 強がるものの、蘇る怯えに拳が固まる。

 食べられたりしないだろうか。

 

「お前がさっき俺に言った言葉だが……」

 

 黒猫の金色の瞳が妖しく光り、映見の心臓を射抜く。

 大きく跳ねる心臓を落ち着かせようとするが、先ほど放った自らの暴言を思い出し、鼓動が早鐘を打つ。

 やはり食べられてしまうのだろうか。

 

「あ、あの、バカ猫とか化け猫とかは、つい勢いで――」

「驚かれるのには慣れてっから、とりあえずそこは置いといて」

「え?」

 

 黒猫が両手――前足にはもう見えない――を使って、右から左に置くジェスチャーをする。人間っぽくて可愛い、とはもう絶対思えない。

 

「さっき言ってた魚ネタのことなんだけど」

「……魚、ネタ?」

「そうそう、俺あの映画見て『これは闘っているという意味だよ』って教わったんだけど、違うのか? 内容もお父さんが息子のために闘ってるし」

 

 猫パンチを繰り出しながら「だからファインディングポーズだろ?」と首を傾げる黒猫の仕種は、食べられるかもしれないという恐怖やら、夢でも見ているんだろうかという混乱を完全に置き去りにさせられてしまうほど、間抜けに見えて仕方ない。

 現実感はまだ無いが、映見はどうでもよくなってきておざなりに返答した。

 

「違うし、私その映画見てないから知らない」

「え、見てないのお前!? あれ超名作じゃん! あんなに魚がカッコいいと思える作品もそう無いぜ」

「……猫が魚を褒めるのって、なんか違うと思う」

「猫にも色々あんだよ……つーか俺は猫じゃない、『黒猫』だ!」

「? 黒猫は、猫でしょ?」

「それはそうだけど、なんて言えばいいのか……うーん」

 

 悩む黒猫。意味が分からない。今に始まったことじゃないが。

 というかナチュラルに会話してしまっているが大丈夫なのだろうかと不安になり、映見は辺りを見回す。相変わらず静かな公園で人っ子一人いないが、映見は自分の足元に何か落ちているのに気付いた。

 四角い長方形の物体。折りたためばさらに小さくなるそれは、自分の携帯電話。

 どうやら黒猫を蹴ろうとした時に慌ててしまい落としていたらしく、映見は焦りながら携帯電話を拾った。壊れてないか確認すると、ディスプレイに映るのは変わらずにそこにあった叔母からのメール。

 映見が安心してその文字に目をやっていた時、黒猫が叫んだ。

 

「あー面倒くせぇなもう! いいから行くぞ、さっさとついて来い!」

「え? あ、ちょ、ちょっと!」

 

 どこかへ立ち去ろうとする黒猫へ呼びかける。

 

「? 何だよ、まだお喋りしたいのか?」

「それは別にしたくないけど」

「うっ……」

 

 地に伏せた尻尾に付いてくる音は、タシッではなく、ションボリ。もしかして、傷つけてしまったのだろうか。

 

「えっと、ごめんなさい。嫌って訳じゃないんだけど、まだその、混乱してるというか……」

「――まあそりゃそうだろうな。悪かった、ちゃんと自己紹介しなきゃ分かるもんも分かんねぇよな」

 

 黒猫はそう言って、映見の方を向いて綺麗にお座りの体勢を取った。人間っぽい動作は鳴りを潜め、その姿勢の良さは猫らしいほどの猫らしさを映見に感じさせた。人間で言うところの気を付け、みたいなものなのだろうか。

 黒猫が毅然と言い放つ。

 

「俺は『黒猫』、『魔女の黒猫』だ。非常に癪で納得いかないことチョモランマの如しだが、『魔女』の使いをやってる。決して、使いっぱしりではない」

 

 随分と私情が多く挟まれていた自己紹介に、映見は首を傾げた。やっぱり全く、完全に、全然訳が分からない。

 むしろ意味の分からない単語が追加されて、映見はさらに混迷を極めそうだった。

 魔女。ゲームや漫画やお伽噺に出てくる、魔法使い。そのぐらいしか、映見には分からなかった。

 

「魔女の、黒猫、さん?」

「そ。という訳で、さっさと行くぞ。はぐれないようについて来いよ」

「え?」

 

 先ほども聞こえた気がする言葉に戸惑い、映見は一歩も動けなくなった。

 再び背を向けて立ち去ろうとする黒猫のリズミカルに揺れる尻尾を見ながら、映見は自分がやっぱり夢でも見てるんだろうと思い、携帯電話を握ってない方の手で自らの頬をつねった。

 いきなり現れた、喋る黒猫。しかも自分をどこかへ導こうとしているらしい。

 おとぎの国にでも連れて行かれるのだろうか。

 

「? おい、どうした? いきなりほっぺたそんなに伸ばし始めて」

「え、あ、いや……私もしかして寝てるのかなって」

 

 頬は痛い。はっきりと、痛みを感じる。

 痛覚が教えてくれたのは夢ではないということ。そして夢だと否定するには、もう黒猫と言葉を交わしすぎていて、映見の現実は後戻りできなかった。

 

「変な奴だな。それとも最近の人間は、立って喋りながら寝ることができるまで進化したのか?」

「……私を、どうする気?」

「…………え?」

 

 人間の進化論に関しては話題を広げず、映見は警戒心を強めて恐る恐る聞いた。

 呆然とした黒猫が、さも当然かのように言う。

 

「どうするって、『魔女』の所へ連れて行くに決まってんだろ? 案内役なんだから」

「――!」

 

 連れて行く。その物騒な言葉に、映見の心から恐怖が湧き出す。

 もしこれが夢でないのなら。本当に現実だとするならば。

 映見の頭に浮かんだのは、大きなツボの中にある紫色の妖しげなグツグツ言ってる液体を、ヒッヒッヒッと笑いながら混ぜているトンガリ帽子のお婆さん。

 人体実験でもされてしまうのか、それともそのまま材料にでもされるのか。

 

「……私、殺されちゃうの?」

「そうそう、殺されちゃう――ってお前、なんて物騒なこと言い出すんだ急に! 最近の人間は怖いな!」

 

 黒猫が尻尾を地面に叩きつける。猫流のツッコミだろうか。

 しかし、それよりも今は――

 

(――逃げなきゃ!)

 

 自分の身に何が起きているのかは全く分からない。だが、魔女なんてものの相場は、いつだって悪役だと決まってる。

 主に毒リンゴを渡すお伽噺を想定し、映見は猫とは逆方向へ走り出した。カボチャの馬車やガラスの靴の方の話を想定していても、結果は変わらなかっただろう。

 未知なるものへの恐怖心は、いつだって人間をただ突き動かすだけだった。

 

(――出口!)

 

 衝動的に走りながらも、見えた希望の光に喜びを覚える。

 もう少し、あそこを抜ければ。

 この公園さえ出れば何とかなるかもしれないという淡い期待は、突然現れた黒い影に覆われた。

 

「どこ行く気だよ?」

「――!」

 

 あと数歩というところで出口を塞いだ黒猫の姿を確認し、映見の足は急停止をかけるが、止まりきれずにそのまま転ぶ。

 

「っ! いたたた……」

「お、おい。大丈夫か――」

「来ないで!」

 

 映見の強く言い放った言葉で、黒猫の動きが止まる。

 黒猫は焦ってるようにも、困ってるようにも見えた。

 

(でも、騙されちゃダメだ!)

 

 先ほどの馬鹿っぽい言動や様子は、こちらを油断させるために違いない。

 黒猫は、不吉の象徴。害はなくても、災いを呼ぶ。

 そんな抽象的なものではなく、きっとこの不気味な黒猫は直接自分を死の世界へ連れて行こうとしている。

 映見は恐怖に駆られ、腰が抜けて立てない体を後ろへ引きずった。

 後ずさりながら握り締めるのは、走り出した時も放そうとはしなかった自分の携帯電話。

 

(助けて、ゆきねぇ)

 

 映見は心の中で叫んだ。彼女が送ってくれた言葉はただの言葉で、無機質なまま画面に表示しているだけで応えてはくれない。

 それでも映見はお守りであるかのようにそれを握り締めた。

 

(死にたく、ない)

 

 映見はギュッと目を瞑り、叔母の最後の言葉が残っている携帯電話を、祈るようにして胸元で両手に持ちながら体を縮こませた。

 

(ここで死んだら――)

 

 思い出すのは、先ほど抱いた自分の願い。求めたもの。

 どこかにあるはずの、真実。

 

(――何も、分からないままになっちゃう)

 

 それだけは、嫌だ。

 強い想いが恐怖を薄め、強い拒絶が恐怖を体から追いやる。

 

(こんな所で……死んでたまるか!)

 

 諦めたくないという思いと共に、映見が目を見開く。

 相手は、得体の知れない喋る猫。もしかしたら変身して、化け物みたいになってこちらに襲い掛かってくる可能性も、無きにしも非ず。

 それでもやるしかないと意気込んで、映見は睨みつけるように黒猫へと焦点を合わせると、そこにいたのは出口を塞ぐように居座る黒猫――ではなかった。

 

「……ニャー、って言ったほうがいいか?」

 

 そこにいたのは出口を塞ぐように仰向けで寝そべる、不服そうな黒猫。手足も伸ばしてお腹が丸見えなその体勢に、映見は警戒心を忘れて尋ねた。

 

「……なに、それ?」

 

 もしかして、化ける時のポーズなのだろうか。

 

「服従のポーズだよ」

「――それって、犬じゃ……」

「分かりやすいんだから犬だろうが猫だろうが虫だろうが、誰がしたっていいだろ! しかもこれ、結構やるの恥ずかしいやら悔しいやらで泣きたくなるんだから文句言うなよ!」

「ご、ごめん」

 

 黒猫は怒っていたが、仰向けの体勢のままだったので全く怖くなかった。それでも映見はその勢いに押されて、咄嗟に謝った。

 しかし、宙をもがくように手足をバタつかせる姿が面白い。笑いをこらえて、体が震える。

 駄目だ、ここで笑ってはいけない。

 

「……おい、プルプルしてんぞ。笑いたきゃ笑えよ」

「――アハハハハハハ!」

「素直だなおい! もう少し気を使えよ!」

 

 例えば、絶対に乗らなければいけない電車に間に合いそうにない時、必死に走って駆け込み乗車しながらギリギリセーフで乗り込めたら、息切れしながらも人は自然と笑みがこぼれたりする。

 それは、無事だったことへの安堵感と、極度の緊張からの開放感。

 生死の境のような緊張感を持っていた映見はその黒猫の服従ポーズを見て無意識の内に、生への安堵と死からの開放を感じていた。

 要するに、笑いが止まらなくなった、ということである。

 

「アハハハ、く、苦し、ハッハ――」

「……おい、さすがに笑いすぎじゃねーか?」

「――ハァ、ハァ。ご、ごめん…………フッ、フフフフフフ」

「不気味さ増してどうすんだよ」

 

 黒猫は地面から腰を浮かして、反動をつけながら勢いよく起き上がった。

 顔はムスッとしていて、しかも起き上がる時の掛け声が「よっこいショーイチ」という父親ですら言わないようなことを言っていたので、映見はますます笑ってしまった。

 

「よ、よっこいショーイチって……何それ? フフ、フフフフフフ」

「? 人間はみんなこう言うんだろ?」

「言うわけないじゃん! どこの親父よそれ! アハハハハハハ!」

 

 再びたがが外れたように笑いだす映見に、黒猫は気分を害したのか顔中シワだらけになっていたが、気を取り直すように溜息を一つ吐いてから映見に問いかけた。

 

「少しは落ち着いたか?」

「お、落ち着けるわけ、ないじゃない。あんまり笑わせないでよ、お腹痛い……」

 

 息も絶え絶えで応えた映見に、黒猫が小さな首を振る。

 

「そうじゃなくて、もう怯えてないかってことだよ」

「――え?」

 

 笑いが止まり正気に戻った映見の瞳が、黒猫のこちらを案じているような真摯な瞳とぶつかる。少しだけ、怯えのようなものも覗える、金色の輝きが陰った瞳。

 映見はまた、目の前の黒猫を傷つけてしまった気がした。いきなり逃げられたら、猫だってショックを受けるかもしれない。

 

「あの……ごめん、なさい。あなたに怯えてたわけじゃない――って言ったら、嘘になるけど。でも、急だったから、なんだか混乱しちゃって……」

「だから、ちゃんと自己紹介したじゃねーか。『魔女』の使いだって」

 

 黒猫は拗ねたように鼻を鳴らしながら言った。

 接続詞の使い方がおかしい。だから、余計に怯えたのではないか。

 

「そんな、喋る猫だけでもいっぱいいっぱいなのに……いきなり魔女とか、連れていくとか言われたら、混乱するに決まってるじゃない」

「は? なんでだよ?」

「なんでって……え?」

 

 首を傾げるタイミングが重なる。

 何か勘違いし合っている、というのは分かるが、映見にはどこで食い違っってしまったのか分からなかった。

 黒猫が不思議そうに尋ねる。

 

「お前、『魔女』に会いに来たんだろ?」

「……私が?」

 

 心当たりが無い、というかそんなファンタジーを訪ねるような思考回路はそもそも持っていない。

 

「その魔女って……私に何か、用事でもあるの?」

「? だから、用事があるのはお前だろ?」

「そんな妖し――そんな知らない人に用事なんて、別にないけど」

「あれ?」

 

 つい本音が漏れそうだったが、この黒猫の飼い主のようなので何とかごまかした映見の言葉に、黒猫は傾げていた首を反対方向へと直角に曲げた。

 黒猫の「じゃあなんで、俺の言葉が聞こえるんだ?」とブツブツ呟いている様子を見て、失礼な本音には気付いてないことに映見はホッとしながら、転んだままになっていた態勢を変えて座りなおした。まだ立てそうになかったので女の子座りになってしまったが、生え放題の雑草が芝生のようになっていて、足に直接伝わる感触が柔らかくてくすぐったい。

 まだ分からないことばかりだったが、映見は少し気分が落ち着いていた。

 

「じゃあやっぱりこいつじゃないのか? でも、はっきり会話までしてるし……そーいや最初は全然こっちの言葉が聞こえてないみたいだったな、こいつ……いやでも、やっぱり今は聞こえてるんだし――」

 

 小さな顎に前足ならぬ手を当てて、黒猫が独り言をブツブツと続ける。

 忘れられているように感じて、もう帰ってもいいのかなと映見はふと思った。

 

「ねぇ、えっと……魔女の黒猫さん、だっけ? 私そろそろ――」

「なぁお前さ!」

「うわっ!」

 

 視界一杯に現れた黒猫の顔に驚き、映見は後ろに手をつきながら仰け反った。猫だからといって素早すぎやしないだろうか、この黒猫。

 

「いきなり近づかないでよもう、ビックリするじゃない!」

「お前さ、何かない?」

 

 こちらの文句も聞かずになおも迫る黒猫。ひっぱたいてやろうか。

 

「何かって何よ? 意味分かんない」

「だから何かだよ! こう、胸が大きくなりたいとか、もっとボインになりたいとか、豊満な体になりたいとか……」

「それ、セクハラ」

 

 全部一緒だ。それに自分はモデル体型、というやつだ。そもそも、人並みには、ある、はずだ。だから怒る必要は全くない。

 映見は黒猫の耳を引っ張りながらそう思った。

 

「イタタタ! やめろバカ、離せ! 猫の耳はデリケートなんだぞ!」

「じゃあ尻尾がいい?」

「尻尾だけはやめて! 謝るから! 俺はただお前の悩みを――」

「別に悩んでない」

 

 携帯電話をしまい両手を空け、黒猫の両耳を引っ張って持ちあげる。

 

「取れる、耳が取れる! 青い狸になっちまう!」

「色が変わってロボットになるけど、狸にはならないから大丈夫よ」

「なんて説得力の無い大丈夫だ――って痛い! ホントに痛いから! 分かった、俺が間違ってた! ただの例え話だ!」

 

 ジタバタもがくその様を見ながら、なんでこんなのに怯えていたのだろうと自分に呆れて、映見は黒猫の耳を離した。

 黒猫は軽やかに着地して耳を伏せる。

 

「いつつ……なんて凶暴な人間だよ。驚かれるのには慣れてるけど、耳引っ張られたのなんて初めてだぞ」

「自業自得、って言葉知ってる?」

「次号お得?」

 

 当たりやすい懸賞でも載っているのか、それは。

 

「もういいや。それで、なんでそんな失礼な例え出したのよ?」

「失礼って……俺は見たまんまを言っただけで――」

「猫に人間のデリカシーは求めないけど、それ以上セクハラ発言したら、尻尾よ」

「――!」

 

 黒猫の尻尾がゾワッと膨れ上がる。威嚇以外にもなるものなのか。

 映見が興味深々にその尻尾を見つめていると、黒猫は尻尾を腹の下に隠しながら地に伏せて、こちらに話しかけてきた。

 

「よ、要するに、俺が言いたかったのは――お前なんか悩みとかないか?」

 

 先程と逆の立場になった黒猫の恐る恐るの質問に、映見は目をキョトンとさせた。

 

「なんで、悩み……?」

 

 人生相談でもしているのだろうか、この猫は。

 

「別に悩みじゃなくても、困ってることとか、何か探してたりとか」

「! 探してる、もの……?」

 

 黒猫の言葉が微かに頭の中で引っ掛かり、映見は携帯電話を仕舞ったポケットの上に手を置いた。

 探している最中ではない。でも、探したいものなら、見つけたいものなら、ある。

 今どうしても知りたいものは、たった一つだ。

 

「……あったら、どうだっていうの?」

「! そうか、あるのか! いやー良かった、また来るかも分からない人間を待ってなきゃいけねーのかと思ったぜ。それじゃ早速行くか、『魔女』に会いに」

 

 飛び跳ねるような口調と実際に飛び跳ねて喜びを表す黒猫を見て、映見は焦りながら言い訳をした。

 

「ちょ、ちょっと、勝手に話を進めないでよ! そんなもの誰だって持ってるもんだし、大体、それでなんで魔女とやらに会わなきゃ――」

「『深い森で迷ったら、魔女に道を聞きなさい』、だったかな?」

「――え?」

 

 黒猫の言葉に、一瞬で映見の全てが絡めとられる。

 動かなくなった体で頭だけが冴えわたり、黒猫のセリフが一言一句、間違えずに繰り返される。

 

『深い森で迷ったら、魔女に道を聞きなさい』

 

 不思議な響きが、不思議と響く。

 その言葉には聞き覚えが――いや、何故かその言葉を、映見は知っていた。

 誰かに聞かされた記憶は思い浮かばない。でも、知っている。

 黒猫が映見に尋ねる。

 

「どうだ? 聞いたことあるだろ?」

「え? あ、いや、聞いたことはない、と思うんだけど……」

「けど、知ってるだろ?」

 

 確信を持った問い。

 戸惑いながらも、映見は静かに頷くことしかできなかった。

 

「まあそりゃそうだよな。そうじゃなきゃ、こんなとこに人が来るわけないし。いやー言葉が伝わんなかった時はどうしようかと思ったぜ」

「? どういう意味?」

「気にすんな、こっちの事情だ」

 

 黒猫は答えを与えず、問いを重ねる。

 

「さて、それじゃどうする? 珍しく事情が分かってないみたいだから特別サービスで聞いてやるよ。――『魔女に道を聞きたいか』?」

 

 どこか軽かった雰囲気が、一瞬で重くなる。辺りにまで影響を及ぼすように、目に見える景色全てがどこか異次元のように映見には感じた。

 知らない世界に迷い込んでしまったような、不安。けれどそれはこの場所が、目の前にいるお喋りな黒猫が原因では、ないのかもしれない。

 映見はポケットから携帯電話を取り出して画面を見た。そして、表示されたままだった叔母からのメールの文字を目で追う。

 

『必ず会いに行くから』

 

 もしかしたら、この場所に来る前から。この黒猫に出会う前から。

 最初から自分は、迷い込んでいたのかもしれない。

 

「…………その魔女は、知ってるの? 私が知りたいことを」

「『魔女』は道を教えるだけで、案内はしない。それを信じて進むのかはお前次第だ。けど――それが必要だから、お前はここにいる」

 

 月の光を雲で遮り、答えを闇で隠す黒い猫を、映見は信じた。

 喋る黒猫も、魔女という存在も。

 何も分からないままだったが、彼女にはどうでもいいことだった。

 知りたいことは、ただ一つ。どこかにあるはずの、真実。

 

(こうなりゃやけだ――女は度胸!)

 

 黒猫の言うことを信じたわけではない。ただ、迷い込んだ先に答えがあることを、映見は信じた。

 何故、大事な人は居なくなってしまったのか。

 このまま、何も分からないまま、終われる筈が無い。

 

「黒猫、さん」

「おう」

「――私に、『深い森の出口を教えて下さい』」

 

 違和感なく自然と出た言葉。不思議なほど、その言葉は正しい気がした。

 黒猫は不敵に笑い、からかうような口調で告げる。

 

「俺は知らないさ。連れてってやるから、それは『魔女』に聞いてくれ。……それにしても――」

 

 背を向けた黒猫の尻尾が、揺れる。

 

「――人間にしちゃ、いい度胸だ」

 

 早まったかと思わせるように、その言葉は恐ろしげに映見の中で響いた。

 それでも、関係ない。後戻りなどできないし、する気もない。

 どこに迷い込んででも、見つけたいものがあるのだから。

 

「当り前よ! こうなりゃもう、矢でも鉄砲でも持ってこいよ!」

「それじゃ死んじまうだろ――って、もしかしてお前人間じゃなかったのか?」

「人間の、しかも乙女よ! 現役女子高生をあんたみたいな化け物と一緒にするな!」

「ば、化け物って……さっきも言ったけど俺はただ喋ってるだけだろ!? 鳥にだって喋る奴ぐらいいるだろうが!」

「インコがそんな流暢に喋れるか!」

 

 その不思議な黒猫に出会ったのは、暑い夏の日。

 不思議と言うには馬鹿っぽく、それでも時々不思議さを思い出させる黒猫に、彼女はついて行く。

 蝉の声も聞こえない、暑さもどこかへ置き去りにしていた不思議な道を、熱がこもる馬鹿なやり取りを続けながら歩いていった。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。