永末は床に脱ぎ捨てたシャツを拾い上げるながら、床にうな垂れたままの扶桑を見つめる。
彼女の瞳は虚ろなままで、放心状態にしか見えない。声をかけてみるがまるで反応は無く、意識があるのか無いのか判別しづらい。……先程までの彼女の嬌態がまるで夢のように感じられる。本当にあんな事があったのだろうか……。幻覚でも見たのでは無いのか? そして、すぐに否定する。そうだ、あれはすべて事実なのだ。
永末は自分の腕に抱いた彼女の感覚を思い出し、再び興奮するのを感じた。
ずっと、……ずっとずっと憧れ続け恋い焦がれた存在。
遠くから見つめることしかできなかった存在だった扶桑という名の艦娘。時折、笑顔を向けてくれることはあっても、決して手にすることなどありえないと思っていた存在。そんな高嶺の花といえる物を手にできた喜びで、心の底から喜びがこみ上げてくるのを感じていた。
手段はどうあれ、自分が成し遂げた事に永末喜びを感じずにはいられなかった。……おそらく人生の中で最良の日と言っていいのではないだろうか。
ああ、また彼女を……。
くっ、いけない、いけない。
欲望の波に飲みこまれそうになるのを必死になって自制する。しかし、その自制心もここにいる限りどこまで持ちこたえる事ができるか知れたものじゃない。必死に別の事を考えて、意識を逸らすしかない。
これ以上の長居は無用だ。そう。あまりに長時間の滞在は、さすがに不審がられる事になる。それに、彼らに結果を報告をする時間が近づいてきているのだから。
「扶桑さん、また次の遠征先でお会いするのを楽しみにしています。……その時は、鎮守府の状況をお教えいただければと思います。そして、より深い記憶の究明ができるよう勤めましょう。また、可能であれば、協力して貰えそうな艦娘を遠征メンバーに加えてください。鎮守府の艦娘たちの失われた記憶が、我々の目的の為に必要なのですから……」
やはり、彼女は何も答えない。何も答えられないのだろうか?
「では、またお会いしましょう」
いつまでも待っていても仕方がないので、部屋を後にしようとする。部屋を出る時、床にへたり込んだままの不知火が、永末の視界に入った。
ずっと永末たちを見ていたはずだけれど、彼女からは何の反応も無かった。
もしかすると、あの時からすでに気を失っていたのだろうか?
……時間の経過のせいか、異臭が鼻を突くことに気づいた。
臭いな……。そして実感する。艦娘だって人間と何ら変わらないのだ。そう思うと親近感も感じるし、逆に嫌悪感も感じてしまう。かつては手の届かない、高貴な存在だと思っていたことが嘘のようだ。掴もうとすれば掴めるし、手に入れようと思えば、少々乱暴な方法を使えば手に入る存在でしかないなのだ……。
そして、再びふつふつと下腹部に沸き上がるものを感じた。
こいつにも同じ事をしてやろうか?
ほんの一瞬だけ、そんな欲望が鎌首をもたげたが、慌てて否定をする。
何を考えているんだ、私は」
自分はそんなゲスな欲望の為に来た訳じゃ無いのだ。自分の目的は、そんなことじゃないのだから。欲望に溺れて生きていくだけでいいのなら、こんな危険な真似はする必要なんてないのだから。
永末の頭には、欲望以上に打算めいたものの方が遙かに支配力を持っていた。
彼女を、不知火を是非とも蹂躙したいと言っていた幹部がいることを聞いていたのだ。こんなラリった状態ではあっても、不知火はまだまだ上手く使えば役に立つだろう。一時の欲望に溺れて彼女を穢したら、それこそ大変なことになる。彼女を交渉道具として利用しようと思っても、その時に傷物になっていたと知られたら、永末にとって不味いことになるのだから。
「私が手を付けたりしたら、困ったことになるからね。君には何もしないよ、ふふふ、安心したまえ。……もっとも、すでに冷泉によって使用済みになっているのかもしれないけれどね」
その時は、まあ。その時だ。
全部の罪は冷泉に取って貰えば良いだけのこと。自分には何の関係もない。そんなことを思うと笑ってしまう。
「そうそう、薬については、次に会う時まで保つ以上の量はお渡ししておきますね。あなたに禁断症状でも起こされて、それが発覚したら、冷泉提督が大変ですからね。彼が大変な事になっても別に構わないのだけれど、まだ時期尚早なんで、申し訳ないが我慢してください」
永末は不知火の前に薬の入った袋を放り投げた。しかし、彼女は何の反応も無いのだが……。
「興味なさそうですが、それを心の底から欲しくなりますよ。大切にしまっておきなさい」
それだけ言うと、永末は戦艦扶桑を後にする。
港に降り立っても、港には人影は無い。警備に当たっているはずの人間の姿すら見当たらない。
「しかし、軍施設では無いからやむを得ないか。こんな適当な警備じゃ、平和主義を標榜する左翼系暴力革命的市民団体の侵入すら許してしまうんじゃないのか? あいつら……爆発物もどこかから入手してたりするから、場合によっては艦娘だって被害に遭うかもしれんぞ」
あまりの無警戒さに呆れてしまう。
けれどこれも仕方ないことか……。
すべての港に軍を派遣することなど、人員の面からも費用対効果の面からも現実的じゃない。遠征艦隊が寄港する程度の港に裂く兵力など無いのだろうな。
そもそも、艦娘の警備能力さえあれば、テロリスト程度なら何の脅威にもならないのだから関係の無い事か。
「杜撰な警備だからこそ、私が自由に出入りし、それを誰にも気づかれずに済むのだから感謝しないといけないか」
そんな独り言を言いながら、永末は港内をのんびりと歩いて行く。少し歩くだけで港湾施設の出入口に辿り着いた。
「ごくろうさんです」
永末に気づいた警備の男が、にやけた笑みを浮かべる。
「ご苦労様です」
軽く会釈をしてゲートをくぐっていく。
身分証明書も無く最高機密の艦娘が寄港している港に出入りできることは大問題だが、彼も普段はちゃんと仕事をしていることだけは言っておこう。ただ、永末が彼に対して、それなりの見返りを渡したために、彼の視界からは永末が見えなくなり、そもそもその日の記憶すら曖昧なものになってしまうだけなのだ。
彼にも生活があるのだ。警備員の給与なんて、そんなに良い物じゃない。深海棲艦による侵略が始まって以降、日本国民の生活レベルは格段に落ちてしまい、貧富の差もかつて無いほど広がってしまった。富裕層以外は、みんな生きていくために必死なのだ。少々の事なら金の為なら眼を瞑る事を誰が責められようか。
永末は……否、永末が所属する組織は富める組織であるから、その富を利用し、彼らに施しを与える代わりに、望む物を得る。ただそれだけのことなのだ。ウィンウィンの関係でしかないのだ。
いろいろと物思いに耽っていたせいか、すぐ側に近づいていた車に気づくのが遅れてしまった。
音もなく近づいてきたのはグレー色のステーションワゴンだった。ハイブリッド車として作られたト○タ製の物だ。完全停止したそれの後部ドアが自動で開く。
お出迎えか……。
永末は、おもむろに車内に乗り込んでいく。
室内は異常に広い空間だった。本来3列シートの車両の3列目を撤去して2列目席の居住スペースを広げたロイヤルラウンジというグレードのものだろう。
運転席の後部の席に一人の男が座っているのを確認する。永末が席に腰掛けると同時にドアが閉まり、音もなくゆっくりと動き出す。
「随分と時間がかかったようだな。さて、……それで首尾はどうだったんだ? 結構な時間、こんな車の中でずっと待たされた私の事もおもんぱかって欲しいもんだよな。まさか、それで成果無しなんて事は、無いだろうな」
唐突に話し始める男。意味もなく高圧的で、永末を下に見ているのがあからさまだ。
男の名は、佐野と言った。中部憲兵隊に属する少尉だ。永末が冤罪によって捕らえられた時に鎮守府に来た憲兵の一人だった。
「遅くなり、申し訳ありませんでした」
恐らくは自分より年下の軍士官に対して下手に出る。年齢では上であっても、相手は軍の人間。それに引き替え、自分は軍属を追われ、今は軍の関連団体の一職員でしかない。当然立場も違うのだから、やむを得ないこと。それに、自分は軍には逆らえないのだから。
さざ波立ちそうになる心を必死になって制御し、永末は本日の成果について伝えた。
「なるほど。思ったより良い感じじゃないか? まさか、アンタがここまで進展させられるとは思ってもみなかったよ、永末さん。やるじゃないか」
褒めているつもりなのだろうが、そういう風には聞こえない。
「ありがとうございます」
素直に頭だけは下げておく。彼に対してはこれくらい謙っておいたほうが良いことはこれまでの経験で知っている。気分屋でいつ機嫌が悪くなるかしれたものじゃない。なまじ権力を持っているだけにタチが悪い。頭を下げるくらいで機嫌良くやってくれるなら安いものだ。年少者に偉そうにされても何も感じないくらいには、丸くなったというわけかと、自分の事を褒めたくなる。
永末は、現在のクライアントである佐野に今後の予定案についても説明を続ける。
「なるほどな。まあ、上手くいくかどうかはアンタ次第ってことだから、きちんとやってくれ。報告だけは遅滞なくしろよ。……それから、報告書もきっちりとまとめて出せよ」
「もちろんです。速やかにお送りします」
上への報告書類の作成まで自分に押しつけてくる佐野のその図々しさに苛立ちを感じるものの、絶対に表にそんな感情は出さない。
「分かった」
と興味なさ気に佐野が応えるのを合図としていたかのように、車が停車した。用件は済んだから、ここで降りろということだ。
永末の宿泊先から随分と離れた場所に来てしまっているが、そんな事はお構いなしってことだ。
「それでは、また定期的に連絡させて頂きます」
そう言って、席を立とうとする永末。
「永末さん、一つだけ念押ししておくけどな……」
そう言って佐野が背中に声をかけてくる。
「アンタは我々の駒だってことを絶対に忘れんなよ」
「もちろんです。私はあなた方の為に働くと約束したのですから」
「そうそう。アンタは本来なら処分されてもおかしくなかった身分なんだからな。日本国を裏切り私腹を肥やしていたド畜生なんだからな。アンタがいろいろできるのは私達が背後でフォローしているのを忘れんなよ。間違っても裏切ろうとしたり、情報を横流ししようなんてことを考えたら、また拷問部屋に逆戻りだぜ」
ニタニタした笑みを浮かべながら佐野が永末に宣告する。
「涎垂れ流し、ションベンやクソを床にまき散らしながら許しを請い、他の奴はどうなってもいい、自分だけは助けて欲しいって泣き喚いたアンタの言葉、本気だって私は信じているんだからな。あんな地獄から救い出してやった私達に絶対的な忠誠を反故になんて絶対にできないんだよ」
「もちろんです。私はあなた達のおかげであの地獄のような日々から救い出されたのです。あの恩を返せるのなら何でもやります。ご安心下さい」
そう言って卑屈すぎるくらいの笑みを眼前の年下の男に見せた。
「そうだ、それでいいんだよ。私達の命ずるままに何も考えずに行動するんだ。それだけでいいんだよ」
男は、その醜いまでの姿を見せる負け犬にいたく感動したのか満足そうに笑った。
ドアが開く。
永末は、もう一度深々と頭を下げ、車を降りた。すぐにドアがしまり、佐野が乗った車は発進する。永末はその車の姿が見えなくなるまで頭を下げたままで見送った。
「……クソ忌々しいガキが」
ごくごく小さな声であるものの、毒々しい言葉が思わず口に出てしまう。誰も聞いていなかったか慌てて確認し、辺りには誰もいないことを確認し、安心して大きなため息をつく。
憲兵に捕らえられ、幾晩に渡って果てしなく与え続けられた痛みは、今でも思い出すことがあり、その恐怖で悲鳴をあげてしまう事がある。忘れられないあの悪夢を消すことは果たしてできるのだろうか。
永末は、肉体的にも精神的にも徹底的に折られてしまった。本来ならそのまま廃人となるか、完全な駒となってしまうところだった。けれど永末は、最後の最後で立ち直ることができた。
それは、理不尽な罪を着せられた怒りだったのだろうか。裏切られた怒りだったのだろうか? 永末自身でもよく分からない。ただ、いろいろと情報を得ていく内に、密かな野望が芽生えていることを何となくは感じていた。
自分を裏切った緒沢提督。無実の自分に地獄を与えた軍部。今、掴みつつある真実は、上手く使うことができればあの連中に鉄槌を下す願いを叶えることができるのかもしれない。
たとえそれが叶わなくても、構わない。しかし、今夜、手に入れた物だけは、絶対に離さない。あらゆる手段を使おうとも、これだけは認めない。
けれど、この感情だけは誰にも知られてはならない。
力を手に入れるまでは、奴らの駒として行動しよう。
すでにプライドなどどこかに捨て去っている。どんな屈辱でも受け入れよう。そんなもの、安い物だ。
けれど、見ているがいい。力を手に入れた暁には、連中に何十倍にして返してやるのだからな。
そして、失った全てをこの手に取り戻し、更に手にするのだ。
―――疾走する車の中。
「あれでよろしかったでしょうか? 」
後部座席に腰掛けた佐野が前に向かって喋る。
前に座る者は、運転手しかいない。けれど、彼は敬語で話しかける。
「……そうだね、あれくらい強く言った方が彼もやる気を出すんじゃないかなあ」
のんびりとした口調で運転手が応える。
ルームミラー越しに、彼の顔が見える。佐野よりは10歳くらい年上に見えるその男。
「永末くんも何かいろいろ考えているようだから、佐野くんも気が抜けないんじゃないかなあ」
「香月少佐、やはり彼は何か企んでいますか? ちょっとおかしいなとは思っていたんですけど」
「多分ね。……彼も半信半疑だったんだろうけど、一部の艦娘が自分の説得に応じたということで自信をつけたのかな。ちょっと欲をかき始めたんだろうねえ。彼は隠してるつもりみたいだけど、ギラギラした物を感じたもん」
「あの野郎……一回、締め上げたほうがいいでしょうか? 」
「いや、あれくらいの方が上手くいくと思うよ。復讐は良い燃料になるからね。上手く誘導してあげれば、きっと我々の望む成果を手にしてくれると、私は思っている。そして、たぶんそうなるよ」
根拠があるかどうかあやふやなのに、香月の言葉は自信に溢れている。
「わかりました。永末の行動には十分注意しておきます」
「そうだね。でも、基本的には自由にやらせて上げなさい。注意すべきは……」
「注意すべきは? 」
「舞鶴の冷泉さんだね。彼には永末さんがいろいろやっていることを悟られないようにしないといけないよ。最終的にはぶつかることになるだろうけど、今じゃない。彼に悟られる可能性を感じたら、迷わず永末さんを消しなさい。そうしないと、こちらにまで火の粉が飛んでくるかもしれないからね。私達はまだまだ冷泉さんと事を構える次期じゃないんだからね」
ぼんやりとした口調ながらも、冷泉というキーワードの部分だけは強調する香月。
「やはり、冷泉提督は要注意ですか」
「そうだねえ。彼は向こう側の連中も味方しているようだし、うかつな手出しは我々としてはしないでおかないとね。……他の馬鹿はいろいろとやってるみたいだけどね。さてさて、あいつらがどんな目に遭うか楽しみさ」
軍部なのかそれ以外の組織なのかは名言しないものの、おもしろそうに彼は語った。
流石に香月が何を言っているか理解の範疇を越えている佐野は、曖昧な笑みを返すしかできなかった。