「少し外の風に当たってくる……」
誰に言うでもなく、冷泉は呟いた。
「でしたら、私がご一緒します」
即座に加賀が反応する。
「いや、待て、加賀。この場は提督のモノであることを認められた我が身がお供しないなどあってはならぬだろう? 」
「提督のモノって何ですカー! 長門何言ってるンデス? そんなこと、誰も認めていないネー。それに加賀も加賀ね。テートクのお世話は、この金剛にすべて任せるネー」
金剛が会話に割って入る。
「アンタじゃあ、アイツの命がいくつあったって足りるわけないでしょ。無理無理」
珍しく冷静に叢雲が言う。
「は? 長門、何を訳の分からない事を言ってるの。冗談はそれくらいにしておきなさい。さすがにそれ以上のおふざけは、横須賀鎮守府の旗艦までを務めた貴方の名誉を傷つけることになるわ」
その二人の会話を全く無視して話す加賀。
「名誉が傷つく……だと? 落ちぶれてこの身も穢された上に、更には築き上げた名誉まで失う……。ぬぬう。何という運命。何という屈辱。何という……何という、く、くはー! た、たまらん」
「……」
何を想像したのか分からないが、恍惚とした表情をし、クネクネと身もだえする親友を唖然とした表情で見つめるしかできない加賀。他の艦娘も妙に興奮状態にあるかつての横須賀鎮守府の旗艦を務めた艦娘の言動に、凍り付いてしまう。
鎮守府に更なる問題が生じているような気がするが、加賀も長門も超一流の艦娘だ。なんとかするだろうし、なんとかなるだろう。今が彼女たちから逃れるチャンスだ。冷泉はその隙を縫うように車椅子を動かし、部屋を抜け出した。
背後ではまだ喧噪が続いているが、冷泉を追う者はいないようだ。
手動の車椅子だと、片手で車輪を回して移動しなければならないけど、電動車椅子で助かった。ジョイスティックを右手で操作するだけで済むのだから。スムーズな加速で動き出すと、扶桑が歩き去ったであろう場所を目指す。おそらくは司令部庁舎から出、宿舎もしくはドックへ帰るのだろうけれど、さっきの彼女の表情からすると、恐らく港の方へと行くのじゃないかと想像できた。
扶桑は、何か悩み事があった時は必ず海を見に行っていた記憶があったのだ。確か、何かの機会に尋ねた時にそんなことを言っていた事を覚えていた。
「海を見に行って、……とはいっても、自由に外洋に出ることは認められませんから、港から海を見るだけなんですけど、その広さ・海の匂い・頬を撫でる風を感じたら、とても落ち着くことができるんです。そして、そこの全てに包まれていると私が今悩んでいることなんて小さな事なんだなって思えてくるんです。艦娘が何処で生まれどこから来たのか、私たちでさえ分からないんですけれど、こうやって海を見るとその先にふるさとがあるような気がして、安らぐことができるんです」
その時の彼女の表情はとても穏やかで、ついでに言うと綺麗だった。正直言うと、ドキッとさせられた。
少なくとも、さっき見た扶桑の表情はとても暗かった。何かを意図せずに背負わされているような感じがしたのだ。……それが何なのかは分からない。けれど、それを彼女一人に背負わせるなんて真似はできない。放っておいたら、扶桑一人で抱え込んでしまうかもしれない。実際、扶桑の性格からすると、自分一人で悩んでしまうのは想像に難くない。とにかく訊くしかないのだろう。答えなんて出ないかもしれないけど、ほんの気休めにしかならないかもしれないけど、支えて上げる事ができるかもしれないって思ったからだ。
エレベータが一階にたどりつき、扉が開くとそこに扶桑がいた。
彼女は基本的にエレベータを使わない。すべての移動は階段を使用していた。故に、追いつくことができたのだ。
彼女は冷泉の存在に気づいた瞬間、何故だか狼狽したように見えたが、すぐにいつもの顔に戻る。そして、軽く会釈をし、そのまま背を向けると立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って扶桑」
冷泉は慌てて声をかける。
扶桑は一瞬、ビクリとしたように見えた。そして、こちらを振り返る。
「何か、……ご用でしょうか」
彼女は笑顔を見せるが、普段と違いどことなくぎこちない。
「いや、何か急に部屋を出て行ったから、何か急用でも入ったのかと思ったんだよ」
「そう……ですか。それはご心配をおかけしました。安心してください。何もありませんから。少し、風に当たりたくなっただけなんです。……提督は、執務室にお戻りになって、他の子達とお話を続けて下さい。その、いろいろとみんな誤解しているみたいですから、その辺もきちんと説明しておいたほうがいいんじゃないですか? 」
言葉自体はいつも通りの少し毒を含んだ言い方だけど、何か少し違う気がする。それに、とにかくこの場を立ち去りたいという気持ちが言葉尻に表れていて、凄く変だ。彼女らしくない気がする。
「まあ、その辺は後でしっかりと説明しておくよ。お前くらいだよな、こんな風に言ってくれるのは。ほんと……心配してくれて、ありがとう」
「そうですか。それはお願いします。それから、お世辞は結構ですよ」
「お世辞じゃないよ。本気で思っている。実際……」
そこで誰か訊いている人間はいないか警戒し、
「扶桑の助けが無かったら、ここまでやってこれなかっただろうからな」
「そ、そうですか」
何故か戸惑うような表情を見せる。照れちゃったのかな。ふと思うが、すぐにその感想は誤りだと感じる。根拠は無いけれど、直感的に扶桑の反応は、照れとかそういった類の反応とは少し違うように見えてしまったからだ。どちらかというと、それは戸惑い。正誤判断に悩んでるような雰囲気に感じてしまえるのだ。
「いや、本気で言ってるんだよ。それに……」
「提督。……すみませんが、なんだか少し気分が優れないので、宿舎で休ませていただいてよろしいでしょうか? 」
遮るように扶桑が言葉を連ねる。なんだか調子も悪そうになっている感じがする。
「ん? どうしたんだ、どこか調子が悪いのか? 」
「そんなことはないんですが、少しだけ頭痛がするので……。本当は提督とお話したいんですけれど、ちょっと今日は止めておきますね」
「そうか……それなら仕方ないな」
もともと活発とか元気といった言葉とは無縁な雰囲気を醸し出している彼女だから、普段から元気そうには見えない。けれど、今日の扶桑はどこか怠そうだし辛そうに見えるのは間違いない。故に、冷泉はそれ以上言うことができなかった。だから、そう言うしかなかった。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情に安堵が浮かんだ。
「そ、それじゃあ失礼します」
まさに逃げるように背を向ける扶桑。
「扶桑」
思わず冷泉は声をかけてしまう。
「は、はい」
背を向けたまま、扶桑が答える。こちらを振り返ろうとしない。
「何か、困ったことがあるのか? 」
「いえ、そんなことありませんよ」
「そう……か」
「そうです。普段と何も変わりありません。少し、今日は体調が優れないだけですから。心配してくれてありがとうございます」
言葉は平坦で、抑揚が感じられない。少し早口になっていて、いつものおっとりした感じとは違う。そして、そんな風になっていることを彼女は認識していないらしい。
「分かった。今日はとにかく宿舎でゆっくり休んで、体調を万全にするようにしてくれ。とにかく休養を取るんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
「それから……俺は待っているからな」
「はい? 」
冷泉の言葉の意味が理解できずに、思わず声に出てしまったかのような声色だ。
「今、お前の中で生じている混乱がお前の中で整理できないと思ったら、いつでも俺に相談してくれ。俺に遠慮なんてするなよ。とにかく、どんな些細なことでも俺に相談して欲しい。まあ、お前にとっては頼りにならない上司かもしれないけれど、お前の中だけで抱え込んだりしないで、俺を頼ってくれよ。俺はいつもでお前の味方だ。信頼してくれていい。それだけは約束できる。……お前は俺の秘密をずっと守ってくれている。俺だってお前の秘密を守って上げることができる。そして、……お前を絶対に護るから信頼して欲しい。お前から見たら頼りないかもしれないけど、俺の力はわりとあるんだからな。だから、ドンと来いだ」
扶桑は彼女の中の悩みを今は話してくれそうにない。頑なな拒絶が見える。けれど、いつでも冷泉は相談に乗るつもりだし、きっと解決してあげられると思っている。そのためなら自分の社会的地位をフルに利用しても構わないと思っている。そして、冷泉の地位なら、ある程度の無茶もできてしまうのだから。
「ありがとうございます」
扶桑は小さく呟くと、そのまま去っていく。
このまま行かせていいのか?
ふと疑問。
扶桑なら、まずは自分でなんとかしようとするだろう。今、自分が出しゃばって言ったら、彼女が嫌がるかもしれないだろ? 困ったら、きっと相談してくるさ。
では、相談してこなかったら、いつ彼女に問うのか?
また疑問。
手遅れにならないという確証があるのか?
更に疑問。
けれども、扶桑の抱えているものがどんな悩みかわからないし、事をよく分からないまま女の子にずけずけと聞けないだろう?
それに―――。
それに、何だ?
いろいろと言い訳をしているようだが、扶桑の悩みが深刻な物だったらどうするんだ? 彼女個人のことではなく、鎮守府全体に関わることだとしたら。早急に手を打たなければ手遅れになるかもしれないではないか。
扶桑は、あんな風に自分の事で悩むとは思えない。それはお前も知っているだろう。きっと他の事に違いないんじゃないだろうか。
しつこいほどに問いつめられる。
確かにそうかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれない。そして、訊いても答えてくれないかも知れない。現に扶桑の態度はそうだった。今のままでは彼女はそれが何か教えてくれないだろう。何かきっかけが無ければ……。彼女の心の垣根を越えるような。
けれど、いまの冷泉には彼女の心の奥へと踏み込む事ができないし、彼女もそれを許さない。
今は待つしかないんだ。
もちろん黙って待つ訳じゃない。何らかの情報収集もするつもりだし、扶桑にも再度訊いてみるつもりもある。
そして、鎮守府司令官としての冷泉を艦娘達は信頼してくれている。扶桑だって同じだ。彼女たちにとって、鎮守府で一番頼れるのは自分しかいないという自負もある。本当に困ったら、絶対に俺に相談してくる。
それに……そもそも、実際は大した話じゃないかもしれないだろう?
うん、大丈夫だ。
結局、冷泉はそれ以上深く考えないようにすることにした。
決して目を逸らしたわけではないんだと自分に言い聞かせるように。