もし一人のオリキャラが増えることで、ユウキが生きるルートが生まれるなら   作:葦束良日

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05 世界樹

 

 

 紺野木綿季にとって、死とは既に受け入れたものであった。

 

 諦めたのではない。受け入れたのである。この違いはとても大事な違いだと木綿季は信じていた。

 AIDSという不治の病に冒され、なお前を向いて生きることが出来る者は少ない。木綿季がまがりなりにもそうして生きる事が出来たのは、早い段階で“死”というものを受け入れたからに他ならなかった。

 絶望に暮れ、諦めが心を覆いそうになった時もあった。けれど、そのたびに母が、姉が、そして大切な仲間たちが心を支えてくれた。

 イエス様は私たちに耐えることの出来ない苦しみをお与えにはならない。木綿季たちは、キリスト教徒であった母に倣ってよく祈ったものだった。

 昔はそれが不満だった。信じるだけでは助からないと幼心に悟っていたからだ。また、悟らざるを得ない境遇でもあったからだ。

 けれど、あの祈りは無駄ではなかったと今ならわかる。母は、我武者羅に祈っていたのではない。私たちのために祈ってくれていたのだ。その気持ちで、包み込んでくれていたのだ。

 

 母が死んでから母の愛の深さと真実に気づかされ、木綿季は姉と共に少し泣いたこともある。

 

 そのことを知ってからだろうか。木綿季は前向きに生きようと誓った。笑って過ごそうと決めた。死に諦めて涙するのではない。死を受け入れて、精一杯生きるのだ。

 私はここに生きているんだと、誰が見ていなくても自分で叫び続けるのだ。最期の時、その一瞬まで。

 だから、諦めてなんかやらない。死のその瞬間まで、自分は笑って、幸せでいてみせる。そんな決意を固めて木綿季はこれまで生きてきた。

 そして、これからも死を迎えるその瞬間までそうして生きていく。

 それが自分にとっての病への抵抗であり、生き方なのだと木綿季は信じている。

 

 

 ――だから、突然その病が治ったと聞かされた時。木綿季はその言葉を理解できなかった。

 

 木綿季は先日、骨髄移植を受けた。担当である倉橋医師からの強い勧めであり、木綿季はそれに頷いただけの手術である。木綿季にとっては、治すというよりは少しでも症状が抑えられるのならという思いで受けたものだった。

 結果として、その骨髄移植手術は成功した。いや、天文学的な確率で大成功を見たのである。

 なにせ、提供者のもたらした骨髄液の遺伝子は極めて珍しいHIV耐性を持つ遺伝子であったのだから。

 木綿季と合ったHLA型の骨髄ドナーが数が少ないバンクの中から見つかることだけでも難しいというのに、そのドナーがHIV耐性の遺伝子を持つ人間であったというのだから、大成功というのも頷けるだろう。

 特にHIV耐性を持つ変異遺伝子は白人の約一%のみが持つと言われている。まだアジア系からは見つかっていないのか、それともアジア系には存在し得ないのか、はたまた過去に白人の血が混じっていれば他人種でもありえるのかはわからないが、それでもかなり奇跡的な確率であるのは確かだった。

 木綿季は現在、抗HIV薬の投与が徐々に抑えられている。そして術後の経過を見ても、日に日に体内のHIVウイルスの数は減っているという。

 このままであれば、じきに体内の遺伝子は全て耐性を持つものに入れ替わり、HIVが完治するかもしれない、と倉橋医師は目に涙を浮かべながら喜んでくれた。

 木綿季も表面上は喜んだ。相手にぜひお礼を言いたいとも言った。残念ながらそれはドナーに関する法律などによって叶わなかったが、木綿季はそれで良かったのかもしれないと思う。

 何故なら、心からの感謝の言葉を相手に言うことが出来ないかもしれなかったからだ。

 

 木綿季にとって、人生とは既に終わりが見えているものだった。それが自分の宿命なのだと思っていた。

 けれど、こんないきなり、これから先何十年も生きられるかもしれないと言われても、木綿季はどうすればいいのかわからなかった。

 姉の藍子は、涙を流して喜んでいた。そして涙が止まると、今度は木綿季を抱きしめ、何度も何度も「良かった」と繰り返した。

 涙にも微量のウイルスが含まれていることを藍子も木綿季も知っていた。しかしそれは微量すぎて涙から感染することはないと言われている。けれど、藍子は万全を期したのだろう。こんな時にも木綿季のことを考えてくれている姉に、木綿季のほうが涙を流したほどだった。

 今はまだ病院から出ることは出来ない。けれど、やがて退院できる日も来るはずだ。倉橋医師からもそう言われた。けれど、木綿季としてはそう言われても戸惑うことしか出来なかった。

 だって、これからどうすればいいというのだ。

 死ぬことを受け入れていたというのに。もう、そうであることを認めていたというのに。

 何をしたいかなんて、考えたことなどないというのに。

 何より、姉に何て言えばいい。皆には何て言えばいい。

 

 《スリーピング・ナイツ》。姉がリーダーを務める、同じように不治の病に冒された者たちがVR世界で作り上げたギルド。時に慰め合い、時に励まし合い、時に喜び合い、時に悲しみ合い、そうして共に生きてきた彼らに、何と言えばいいのだ。

 自分だけが助かって、彼らにどんな顔をして会えばいい。どんな話をすればいい。

 木綿季にはわからない。わからないから、まるで逃げるようにVR世界に飛び込んだ。

 スリーピング・ナイツの皆が知らない世界に行きたかった。絶対に会うことがない世界で、今は心のままに動いていたかった。

 だから、倉橋医師に無理を言って《アルヴヘイム・オンライン》を手に入れてきてもらったのだ。

 そうして、木綿季はALOにダイブした。何も考えずに、今はただゲームを楽しみたい。そんな気持ちのままに。

 

 

 降り立ったインプの街で、木綿季は周囲を見渡した。予備知識もなく入ったので、せめて最初だけでも誰かと一緒にプレイしたかったのだ。そうして最初に目に入った自分と同じく初期装備の男性に声をかけたのが、ユウキにとっての始まりだった。

 なりゆきから戦うことになった彼との戦いは楽しかった。VR世界で過ごしてきた自分と遜色ない対応速度で剣を振るう彼との戦いは心躍った。長くVR世界にいることで、この世界に限り運動には自信があったユウキは、世界が広いことを知った。

 生きているんだな、と実感できた。同時に、まだまだ知らないことが沢山あるんだと知り、それらとこれから出会えるのかと思うと、正直に言って心が弾んだ。

 そして彼――ソウマに連れられて出会った、キリトとリーファ。キリトの連れた妖精、ユイ。彼らとの出会い、そして冒険もまたユウキにとって最高に楽しいものだった。

 生きているのだと、そしてこれからも生きていくのだと感じる時間。それは、スリーピング・ナイツの面々といた時には、あまり感じられなかった感覚だった。

 それはきっと、自分たちが内側へ向かう感情に根差して行動していたからだろうとユウキは思う。

 自分たちの現状、環境を考えれば当然であるが、スリーピング・ナイツは閉鎖的だった。ただただ自分たちだけで完結している世界。どのVR世界に行ったとしても、自分たちの世界はスリーピング・ナイツの中だけで完結していたのだ。

 それを悪いと思ったことは一度もない。むしろだからこそ自分たちは自分たちの現状に絶望することなくやってこれたのだと思う。同じ思いを抱える人たちと同じ時間を過ごすことが出来ていたから。

 けれど、今は違った。ただのユウキとして一人でやって来たそこでは、不治の病に冒された木綿季ではなく、ただのユウキという一人のプレイヤーだった。

 ソウマにはじまり、キリト、リーファ、シルフの領主サクヤにケットシーの領主アリシャ、ユージーンに、トンキー。様々な人物と交流し、別れ、また出会いを何度も繰り返した。

 けれど、それはただの別れではない。またこれからも会おう、という別れであった。そして実際、ALOに入ればまた会えるのだ。そして、これからもユウキは知らない誰かと沢山出会っていくのだろう。まるで現実で生きるかのように。

 木綿季の心はALOに入ることで、少しだけ晴れていた。まだまだ心の整理はついていなかったが、それでも自分は本当に生きられるのかもしれない、と少しだけ思えた。

 

 けれど、まだ皆と顔を合わせるのは気まずかった。

 だから、木綿季はまたALOにダイブする。皆といれば、自分がどうすればいいのかわかる。そんな気がしたからだ。

 少なくとも、彼の一言が木綿季にそう思わせていた。

 

 ――素直になれ、かぁ。ソウマの言う通りだよね、ホント。

 

 けれど、その勇気が出ない。だから、きっと木綿季がダイブするのはその勇気を探すためなのだ。

 そのために、木綿季はALOに向かう。そこにきっと、自分が求めるモノがあると信じて。

 リンク・スタート、と声に出されるのと同時に、木綿季の意識は妖精の世界へと飛んでいった。

 

 

 

 

 

 

 午後三時を少し回った時間。俺は慌ててALOにログインし、《央都アルン》に点在する宿屋の一つ、その室内にて目を覚ました。

 間違いなく昨日……正確にはほぼ早朝にログアウトした場所だった。それを確認すると、俺は急いで部屋を出て階下に降りた。

 そして、食事場にもなっている幾つかのテーブルの中に黒髪のスプリガンと金髪のシルフの二人組を見つけ、ほっと息を吐きつつも足早に近づいた。

 

「悪い、遅れた」

「十分ぐらいだし、誤差みたいなもんだよ。気にするな」

「それに、ユウキもまだだしね」

 

 怒るでもなくそう言ってくれた二人に、俺はありがとうと礼を言った。

 

「しかし、ユウキもまだなのか。……ん? リーファ、少し目元が赤くないか?」

「っそ! ……そんなことないわ。ソウマくんの勘違いよ、勘違い」

 

 リーファは一瞬わかりやすく動揺したが、それでも何でもないように振る舞った。訝しんでキリトを見れば、こちらもなんだか居心地の悪そうな顔をしている。

 触れない方がいいことのようだ。そう察した俺は、この件に関してこれ以上の言及を控えた。

 直後、バタバタと階段を下りる音が耳に入る。

 

「はぁ、はぁ……ごめん、みんなー!」

 

 必死に謝りながら駆けてくるユウキに三人揃って苦笑して、今度は俺も含めて「気にするな」とユウキに返す。

 それにほっと胸を撫で下ろしたらしいユウキは、「改めて今日もよろしくね!」と快活に笑った。

 それに俺たちも頷いて、そして宿屋の外へと向かう。

 今日こそは、俺とキリトにとっての天王山。世界樹への挑戦が始まるのだ。

 

 

 

 世界樹を中心に円を描くように形作られた荘厳な都市を歩く。目指す場所はもちろん世界樹である。俺たちがこの世界に来た目的であり、そして必ず果たすべき役割の完遂の場。俺にとっても、そして何よりキリトにとって何よりも待ち望んだ相手が、あそこにいるのだ。

 円錐形に盛り上がった積層構造によって成り立つこの街は、つまり中心部に向かうにつれ街を昇ることになる。俺たちが最初に降り立ったのはアルンの外環部。そこから雑談を交わしながら俺たちは歩を進めた。

 途中、様々な種族とすれ違う。その誰もが、それぞれの思いと目的を持って街の中を歩いているのだろう。友人との語らい、ただのショッピング、冒険への期待、この街には多くの思いが溢れている。

 しかしながら、まるで宇宙にまで突き出しているのではないかと思うほどの巨木が近づくほどに、徐々に人の数は減っていく。

 この世界最大のクエストとでもいうべき《世界樹攻略》。その難易度は当然最高に設定されているが、ALOでは実質攻略不可能というのがほぼ定説になっている。それゆえに、ある種族は種族の垣根を超えて結びつこうとしていたし、ある種族は他種を吸収して強大になろうとした。

 つまり、それほどの規模でなければ攻略できないと言われているのだ。

 であるから、通常の一般プレイヤー、あるいは小規模パーティレベルでは到底無理なのは目に見えている。そのため、世界樹の入口にすら近寄る必要はなく、必然世界樹の近くには人影が見えなくなっているのだ。

 しかし、俺たちの目的はまさにその世界樹なのだ。一人、二人、とすれ違う人間の数も数えられるほどになり、ついに俺たち以外には誰も見えなくなった。

 リーファやユウキの表情にも若干の緊張が見られる。この世界最大のクエストが行われる場所を目前にしているのだから、それも当然だろう。

 そして、ついに俺たちが世界樹へと続く門の前へと辿り着いた。

 いよいよその門をくぐろうかといったその時、不意にキリトの胸ポケットからユイが勢いよく顔を出した。

 

「ママ……ママがいます!」

「……ッ、本当か!?」

 

 息を呑み、表情を強張らせてキリトは声を上げた。

 

「間違いありません! このプレイヤーIDは、ママのものです! 座標は……まっすぐこの上です!」

 

 直後、キリトは背中の翅を広げると、黒い弾丸と化して空へと駆け昇っていた。飛び立つ直前に見えたその顔は、激情すら置き去りにしてきたかのように蒼白であった。

 そんな仲間をただ見送るだけの俺たちではない。示し合せることもなく、キリトから一拍遅れて俺たちも高速で空へと飛び立った。

 しかし、スピードなら誰よりも優れているキリトが先行しているのだ。とてもではないが追いつけない。しかし、どうにか声だけでも届かせようとリーファが叫んだ。

 

「気を付けて! すぐに障壁があるよ!」

 

 肩車による多段ロケット方式で外部から世界樹上を目指したプレイヤーたちがいたことから設けられたというシステム上の障壁。

 そんなものにこの速度でぶつかればどうなるのか。アミュスフィアは、ゲーム内の衝撃もある程度反映する。それは割合で軽減しているだけなので、より大きな衝撃を受ければ脳の意識に返る衝撃もまた大きくなる。

 もう一度、俺は自分に問う。この速度でぶつかれば、どうなるのか。

 

「あんの、バカ……ッ!」

 

 訪れるかもしれない最悪の結末に思い至った瞬間、俺は一層翅を動かしてキリトの後を追った。

 しかしてその直後、雷鳴のような轟音が耳朶を打った。その正体は、はるか上空。世界樹の枝の前に展開された見えない何かに物がぶつかった音だった。

 それが何かなんて言うまでもない。体を虹色の光に侵されながら、キリトは勢いをすべて失って墜落を始めていた。

 

「くッ……!」

 

 俺はその直下にすかさず移動。どうにか上から降って来たキリトを受け止めることに成功した。

 そして同時に意識を取り戻したらしいキリトが再び空に上がろうと身を動かし、俺はそれを押さえつけた。

 

「無茶をするなキリト! お前の身に何かあったら、悲しむのはお前じゃないんだぞ!!」

「お前ならわかるだろう、ソウマ! 俺は行かなきゃいけないんだよ! 何が何でもッ!!」

「わかるに決まってる! だから言っているんだろう! 落ち着け!」

 

 どうにかキリトに言葉をかけるが、キリトは落ち着くどころか逆に俺に詰め寄ってきた。

 

「落ち着けだと!? やっと、やっと目の前にいるんだ……! 手の届くところに、やっといるんだッ!!」

「キリト……!」

 

 必死、というには違う。それはどこか、母親を探す子供のような、世界に自分だけしかいないと思っているような、そんな寂しさに満ちた瞳が目の前にあった。

 

「目の前で死んだと思った……失ったと思ったんだ……。けど、生きてた。なのに、システムなんかが邪魔をするのかよ! あの時も、アスナの命を奪ったのはシステムだった……ッ、そんな血の通っていない無機物ごときに、奪われてたまるかよッ!!」

 

 血を吐くような言葉だった。それは俺に訴えているのではない。《プログラム》という、VR世界において絶対不変の反逆しようのない根源そのものに、キリトは憤っていた。

 その気持ちは、俺にも僅かにだが察せられた。あの時、キリトとヒースクリフが一騎打ちをした75層のボス部屋。俺たちはシステムによって体を拘束され、キリトの手助けが出来なかった。

 あの時、どれだけ悔しかったか。すぐそこにゲームのクリアが見えているのに、すぐそこに助けてやりたい背中が見えているのに、俺のHPにはまだ余裕があったというのに。俺はただ地を這っていることしか出来なかったのだ。

 あの時動けていたなら、目の前でアスナが死んでいく姿を見ることもなかった。その光景に絶望するキリトを見ることもなかった。……後にも先にも、悔しさで涙が出てきたのはあの時だけだった。システムを憎いと思ったのも、あの時が一番だった。

 だから、俺はそのキリトの言葉に何も返すことが出来なかった。何故なら、それは俺もまた心のどこかで抱いていた反骨心の代弁であったからだ。

 そうして俺が押し黙った時、キリトからユイが離れて上を見つめた。

 

「警告音声モードなら、届くかもしれません……! やってみます!」

 

 そう言って、ユイは俺たちの前で目一杯に空気を吸い込み、ママ、と強く強くアスナのことを呼んだ。俺もキリトも一時言葉を止め、祈るように空を見上げる。

 ……そうして、何秒経っただろう。

 不意にユイが「あっ」と声を上げた。

 少し遅れて、俺たちも同じく声を漏らす。それは、空から光を反射しながら降ってくる何かに気がついたからだ。

 キリトが俺から離れてその何かに手を伸ばす。そして手に掴んだそれは、銀色に輝く一枚のカードだった。

 

「なんだ、これ……?」

「さぁ、なぁ」

 

 それを見て、俺たちは首を傾げあったが、覗き込んだユイは驚いて目を見開いた。

 

「これは……システム管理用のアクセス・コードです!」

 

 管理用のコードだと? ということはまさか……。

 

「これがあれば、GMの権限が使えるのか?」

 

 俺と同じ結論に達したキリトがそう問うが、ユイは首を振った。

 

「いえ、対応するコンソールがなければいけません。私では、システムメニューを開くことは出来ませんから……」

「そうか……でも、そんなものが落ちてきたってことは、たぶん……」

「はい。ママが私たちに気付いて落としたんだと思います」

 

 それを聴いて、キリトはそのカードをぎゅっと握りしめた。まるで、そこにアスナの意志が宿っていると言わんばかりに。

 そして、決意を込めた表情で顔を上げる。俺はそれを見て、キリトの考えを悟った。

 

「行くのか」

「ああ。正面から殴りこんでやる。そして、取り戻してみせる」

 

 俺に、それを止めるつもりはもうなかった。アスナがこの先にいると確信できた、その高揚が俺にもあった。

 俺も付き合うという意味を込めて頷きを返すと、キリトは目で感謝を示し、リーファへと向き直った。

 

「リーファ、教えてくれ。世界樹の中には――」

 

 しかし、キリトの言葉は途中で途切れた。俺は訝しんで、その視線の先、リーファを見る。

 そこには、驚愕と悲哀に彩られた顔でキリトを見つめる、リーファの姿があった。

 

「……ア、スナって……」

「あ、ああ。俺が捜しているって言ってた人のことだ。けど、それが……」

「……お、にいちゃん、なの……?」

 

 え、とキリトの掠れたような声が漏れた。

 リーファの愕然とした呟きに、キリトのほうこそ驚いて、リーファを凝視する。

 そして、まさかという感情がありありと込められた声で、リーファのことを違う名前で呼んだ。

 

「スグ……直葉……?」

 

 それは、いつかキリトから聞いたことがある、彼のリアルでの妹の名前だった。

 俺も驚いたように改めてリーファを見れば、彼女は大粒の涙をその瞳に湛えて震えていた。

 

「――あんまり……だよ……こんなの……っ」

 

 言って、リーファは素早く左手を振るとウインドウを出現させてその下に表示されているだろうアイコンをタップする。それだけで、瞬時にリーファの姿はこの場から消えた。ログアウトしたのだ。隣のユウキが止める間もないほどだった。

 しかし、その直前の様子があまりにも異常だった。俺がどうするのかとキリトを見れば、キリトもまた驚きから立ち直っていないようで、しばし呆然としていた。

 キリトはきっと今すぐにもアスナの元へ向かいたいだろう。それはきっと本心のはずだ。しかし、妹が泣いていたのだ。それを放っておきたくないのも同じく本心であるはず。

 ならばきっと、キリトが次にとる行動は決まっている。

 そしてやはり、自失から立ち直ったキリトは俺とユウキに向き直って、こう言った。

 

「ごめん、しばらく落ちる」

 

 俺とユウキはわかっていたとばかりに頷いた。

 

「ああ。行って来い」

「リーファのこと、よろしくね」

 

 キリトは「ああ」と短く答えて、リーファと同じくログアウトしていった。

 これで、ここで待っていれば再び二人はここに現れるのだろう。地面に降り立った俺は、当たり前の事実をそう改めて考えた。同じく隣に降りたユウキはここで二人が戻ってくるのを待つつもりのようで、じっと待機している。

 けれど、俺はその肩を叩いて声をかけた。

 

「ユウキ」

「え?」

 

 俺は世界樹から離れるように一歩を踏み出し、ぽかんとしている彼女に振り返った。

 

「ちょっと散歩に行こう」

「え、ちょ、ソウマ!? 二人を待たないの!?」

 

 俺はそれに答えず、足を動かしながらひらひらと手を振ってついてこいとだけ示す。

 それに対してユウキは納得できないような声で「うー、あー、もー!」と唸り、やがて俺に追いつこうと小走りで駆けてくる。

 斜め後ろにユウキがついて来ている気配を感じながら、俺は世界樹の隙間から差す木漏れ日に彩られた街路を歩いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

「……それで、ソウマ。どうしてキリトとリーファを待たなかったの?」

 

 巨大な世界樹を一周するように、先程までいた中心部から一つ外周に出た区画を俺たちは歩く。

 しかし、そんな中でも未だに俺があの場を離れたのが納得いっていないのか、ユウキはぶすっとした面持ちで俺を見つめていた。

 頭一つ分ほど下から突き刺さるその視線に苦笑して、俺は口を開いた。

 

「あの二人が家族なのは、ユウキも聞いてただろ?」

「うん。まぁ、それはね。ビックリしたけど……」

 

 思いっきりキリトのことをお兄ちゃんと呼び、リーファのことをキリトは異なる名前で呼んでいたのだ。ユウキとしても、二人の関係を間違うことはなかっただろう。

 

「俺も詳しくは知らないけど……むしろ、だからこそ家族の問題に俺たちが許可なく首を突っ込むのは、なんか違うと思ってな」

 

 あの場にいたら、必ず二人と顔を合わせることになっていただろう。二人としても、俺たちがいる前では話しづらいこともあると思う。

 リアルのほうで話をつけているかもしれないが、もしこちらにまで持ってきて話し合うつもりなら、俺たちはいない方がスムーズにいく。そう思ったのである。

 そのことをユウキに伝えると、ユウキは「うーん……そうかも」と腕を組んで空を仰ぎつつ、一定の理解を示した。

 俺は頷いて、話を続けた。

 

「そんなわけで、しばらくブラブラして時間を潰そう。終わったら、連絡が来るだろうし」

「んー……まぁ、いっか。そうだね!」

 

 逡巡してはいたが、ユウキも一応は賛同してくれたようである。そんなわけで世界樹を一周するように作られた街路をゆっくりと歩く。

 きょろきょろと石造りの西洋建築を物珍しそうに眺めているユウキは、すっかり散歩を楽しんでいるように見えた。そんな少女の姿に苦笑しつつ、俺はさっとメニューを出して時刻などを確認する。

 そしてすぐにまたメニューをしまったところで、ユウキが唐突に「あ」と声を上げた。

 どうしたのかとユウキを見れば、そこには楽しそうに俺を見つめる瞳があった。

 

「そういえば、ボク、男の人と二人で出かけるの初めてだ!」

 

 大変なことに気がついたと言わんばかりの表情に、しかし俺は何を言うかと思えばと苦笑いだ。

 

「初っ端に二人で歩いたろ。ほら、インプの街からスイルベーンに向かう時」

 

 つまり、俺とユウキがキリトとリーファに出会う直前のことだ。あの時だって二人でシルフ領に向かっていたのだから、今と何ら変わりない状況である。

 しかし、ユウキ的には明確な違いがあるらしく、

 

「そうだけどさー。でもあの時は冒険の一環だったけど、今はちょっと違うっていうか……」

 

 と不満げである。

 確かに、パーティを組んでいる面子からわざわざ離れて、こうして二人で過ごしている時間は、あの時とは違うかもしれない。

 しかしまぁ、それぐらいのことに特別さを感じるあたり、ユウキも女の子なんだなぁというかなんというか。

 どうやら、リアルでは中高生ぐらいだろうという俺の予想は当たっていそうだ。そんなことを思いながら、俺はからかい混じりに口の端を持ち上げて言葉をかけた。

 

「それじゃあ、これがユウキにとっての初デートってわけか?」

「デート!?」

 

 ユウキは半ば予想していた通りに驚いたような声を上げた。

 しかし、その表情を見ると、いささか俺の予想とは違う表情を浮かべていることに気がつく。

 少しぐらい動揺してくれているかと思いきや、ユウキはなんと楽しそうに破顔していたのだ。

 

「そっか、デートかぁ……。なんかいいなぁ、そういうの」

 

 言うと、ユウキは不意に俺の手を握った。

 これには俺の方がぎょっとする。

 

「お、おいユウキ?」

「デートって、こうやって歩くものなんでしょ? ボク、一度でいいからデートってしてみたかったんだ!」

 

 つないだ手をぶんぶん振って、ユウキは俺を急かすように歩き出した。当然互いの手で繋がっている俺は引っ張られるように歩き出す。

 からかうつもりがとんだことになってしまったようだ。しかし、本来デートとは好き合った男女がするものではなかったか? それに、いくらなんでも会って一日程度のネット上の男に気を許し過ぎではないだろうか。

 そんなことを諸々考えながら、ちらりと半歩先を行くユウキを見る。機嫌がよさそうに笑っていた。

 それを見て、なんだか色々考えるのが馬鹿らしくなった俺は、諦めたように息を吐くとユウキの隣に並ぶ。

 

「……デートっていうには味気ないけどなぁ」

「ショッピングとかするんだっけ? あ、映画も見るんだよね」

「まぁ、そうだな」

「それで、その後ご飯食べて、遊園地いって、ホテルに泊まるんだよね!」

「最後は余計だ」

「そうなの? 姉ちゃんは、それが定番だって言ってたけどなぁ」

「そりゃ大人にとってはそうだろうよ」

「姉ちゃんとボク、双子だけどね」

「何歳だよ、お前ら」

 

 そんなたわいもない会話を交わしつつ、俺たちは頭上に広がる枝葉の隙間から降り注ぐ陽光の中を歩く。

 実りある、とはどう取り繕っても言えない会話ではあったが、それでもどこか心地よいこの時間は、それはそれで意味があるように思えた。

 そうして歩いていると、不意に会話が途切れた。特に何を言うというつもりもなかったため、そのまま歩く。ユウキもまた同じなのか言葉が出てくることはなかった。

 しばらくそうしていると、ユウキが唐突に口を開いた。

 

「そういえば、キリトもソウマも凄く強いよね」

 

 俺はユウキを見た。ユウキは茫洋と空を見ていた。

 

「ボクもそこそこ自信はあったけど、勝てなかった。二人の動きはボク以上にVR世界に慣れていた気がする。それに、キリトはさっき言ってた。“システムに殺された”って」

 

 言葉が切られ、そして続けられる。

 

「――もしかして、さ。二人はSAOの……」

 

 ユウキはそこまで口にして、ハッとしたように口を噤んだ。

 どこか焦点が合っていなかった瞳が現実へと引き寄せられ、表情を形作っていく。

 ユウキの顔には、申し訳なさと焦燥が入り混じった複雑な感情が渦巻いているように思えた。

 SAOの事件で何かを失った人は多く、まだその傷は癒えきっていない。社会的にも未だその衝撃が冷めやらぬ中なのだ。

 下手したら塞がりかけていたカサブタを剥がすかのごとき行為だったかもしれない。そう思い当たったユウキは、誤魔化すように笑った。

 

「えーっと、今のナシ! ごめんね。ボク、ちょっとぼーっとしちゃってたみたい」

 

 あはは、と気まずそうに笑うユウキは、自分でもどうしてそんな話を口にしてしまったのか理解できていないように見えた。

 つい口をついて出てきてしまった、そんな感じだった。

 SAOの何かが、ユウキの中の琴線に触れていたのだろうか。ふと、そんなことを思った。

 

「いや、いいさ」

 

 だから、俺は気にすることはないとユウキに告げる。

 その答えにほっと胸を撫で下ろす彼女に、俺は言葉を続けた。

 

「確かに、俺とキリトはSAOの中にいたからな」

 

 その告白に、ユウキはその赤い瞳を限界まで開いて驚きを露わにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 




最初は五話ぐらいで終わるつもりだったのになぁ。
予定は未定……予め決めたことは未だ決まっていないのと一緒、とは上手いこと言ったものです。

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