もし一人のオリキャラが増えることで、ユウキが生きるルートが生まれるなら 作:葦束良日
「なぁ、ユウキ」
「へ?」
その日、俺とユウキは以前から約束していたモンスター狩りに出かけていた。
数日ほど前に、たまにはRPGっぽいことをしよう、というユウキの言葉を受けた俺が提案したものだ。これは、かつてSAOの中で暇さえあればレべリングを行っていたことから、経験値稼ぎ=RPGっぽい、と俺が認識していたためだ。
いわゆるレベル制RPGではないALOでは、プレイヤーの実力に大きな影響を及ぼさないのだが、ユウキはそれでも問題なかったようだ。
俺の提案に楽しそうに頷いた彼女と交わした約束の日が今日。そのためこうして二人で出かけ、今モンスターをある程度狩った後なのだが……その最中に覚えた彼女に対する妙な違和感。ひと段落した今、俺はその正体を確かめるべくユウキに声をかけたのだった。
「今日、なんかいつもと違うぞ。大丈夫か?」
どことなく無理をしているな、と感じる。確証があるわけではないが、しかし言葉にはしがたい微妙な差異を俺は感じ取っていた。
普段よりも少し明るい態度、そして振るう剣には力が籠もっていた。かと思えば歩く時にはどこかふらふらとしていて、しかし話しかければ笑っている。
世界樹攻略の時にもユウキは悩みを抱えていたが、あの時と同じかそれ以上に何かを抑え込んでいる。そう感じさせるような様子だった。
何かあったのか、だとすれば大丈夫なのか。そんな気持ちから生まれた言葉を聴いたユウキは、一瞬目を見張った後、すぐにわたわたと手を振った。
「な、なんでもないよ、ソウマの気のせいだって! あはは、ボクはいつも通り元気いっぱい! だいじょうぶ!」
「本当か?」
嘘だ。と確信していた。
少し指摘しただけで、ユウキの表面を包んでいた“いつものユウキ”は剥がれかけていた。それほどまでに脆い空元気しか出せない何かがあったのだ。
重ねて、今度はより力を込めて訊けば、ユウキは一瞬言葉を詰まらせた。
「っ、えっと、そのね……ホントに、だいじょうぶ、だから……」
途切れ途切れにこぼれた言葉に、もはや説得力はなかった。
見る見るうちにユウキの表情は崩れ、その目には大粒の涙が浮かび上がる。
仮想世界で、感情に嘘はつけない。脳の信号をそのまま世界に反映させるアミュスフィアは、生まれた感情をダイレクトに表現するからである。
つまり、泣きたくなった時には我慢できないのだ。
「あ、あれ……?」
自分の頬を伝うものに気がついたのだろう。ユウキが困惑した声で頬を拭った。
しかし流れる雫は止まることはなく。更に乱暴に擦ろうとしたその手を掴んで止める。赤く潤んだ瞳が俺を見上げた。
「無理するな……大丈夫じゃないだろうに」
泣くほどの何かがあったのだと理解して口にした言葉だった。ぐっと握る手に力を込める。無理はするな、本心から思っているその気持ちが伝わればいいと、そう思ってのことだった。
不意に、ユウキがくしゃりと顔全体を歪める。そして、ぶつかるようにして俺のほうへと体ごと寄ってきた。
服を掴み、頭を擦りつけ、ユウキは声を殺して泣いていた。それでも漏れ聞こえる抑えきれない慟哭の声が痛々しい。
何か声をかけてやろうと思うが、俺は何も言わなかった。何を言っても、安っぽい慰めしか言えないような気がしたからだ。ユウキの涙の意味を知らない俺に、言えることは何もない。
だから俺はただユウキの肩に手をやり、そしてもう片方の手でその頭を撫でた。
ユウキが抵抗することはなかった。ただその手を受け入れて泣いていた。震える小さな肩がまるで硝子細工のように儚いものに見える。俺はそのまま何も言うことなく、ただユウキの小さな体を抱きとめていた。
――しばらくして落ち着きを取り戻したユウキは、ごめんね、という言葉と共に俺から離れた。
そんなこと気にする間柄でもないだろ、と返せば、ユウキはほんの少しだけ笑みを見せて頷いた。
「……それで、どうしたんだ?」
一瞬迷ったが、俺はあえてユウキに問いかけた。
悩みというものに対して、人が自分から言ってくるまで、俺はあまり踏み込まないようにしている。ネットでは特にそうだ。現実世界の事情に言及するのはこの世界では褒められた行為ではないという常識が、特にそう意識させるのだ。
しかし、今はそういった事にこだわっている時ではないと俺は感じていた。ここを逃せば、きっとユウキは悲しみにも蓋をして前に進んでいく。そんな気がした。乗り越えるのではなく、ただ受け入れて。
それはきっと良くない。そんな漠然とした予感が、俺にその問いを投げかけさせた。
「………………」
ユウキは黙っていた。けれど、それは無意味な沈黙ではない。彼女が今何事かを考えて黙っているのを俺は察していた。
俺はじっと待った。その赤い瞳が逡巡に揺れ、胸の前で結ばれた手が幾度も居心地悪そうに組み替えられても、それでも俺は急かすこともなくただユウキの前に立っていた。
フィールドは既に夕暮れが近い。赤く染まり始めた草原を一筋の風が撫でる。長いユウキの髪が夕焼けを透かすように踊り、橙色の太陽を背にして、ユウキはどこか悲しげにも見える表情で口を開いた。
「……本当はね。言わない方がいいかなって思ってた」
ユウキは困ったように笑みを見せた。
「ソウマは優しいから。きっとボクのことを知ったら、気にしちゃうだろうなって。そうなったら、きっとボクたちの関係は変わっちゃう。だから、言わない方が……ううん、言いたくないって思ってた」
「……世界樹攻略の時の悩みも、その言いたくない事に関係しているのか?」
俺の問いに、ユウキは首肯する。
そして笑みを浮かべようとして、失敗していた。よくて泣き笑いとしか言えないそれは、俺が知る普段のユウキとは全く違う表情だった。
俺が知らないだけで、ユウキがずっと内に秘めていたのであろう表情だった。
「ボク、ソウマとの冒険が楽しかった。皆と出会って、もっと楽しくなった。姉ちゃんもALOを始めて、きっともっと楽しくなるって信じてた。そんなわけないのに、ボク、馬鹿だ……」
「なにを……」
皆はいる。なら、これから幾らでも楽しい時間は作っていけるはずだ。冒険をしてもいい。ただ馬鹿騒ぎをしてもいい。ゆっくり観光してもいいし、集まるだけでも楽しいはずだ。
そんな思いからこぼれた呟きに、ユウキは首を振った。
それはまるで「そんなことはありえない」と言っているかのように、厳然とした否定だった。
「ソウマ……たぶん、ソウマは後悔するよ。きっと、聞かなきゃ良かったって思う。だから、だからね……このまま何も聞かずに――」
「それで、お前はそのまま涙をこらえ続けるのか?」
反射的に言葉が出ていた。思考より先に言葉が飛び出すなど初めてのことである。
え、とユウキは驚いていたが、俺のほうこそ驚いていた。しかし、この言葉は俺の本心だと漠然とではあるが信じられた俺は、そのまま勢いに任せて言葉を続けた。
「俺は、絶対に仲間を見捨てない。それは何もゲームだけの話じゃない。俺は、お前のことを友達だと思ってる。大事な友達だと思ってる。いいか、大事な、だ。俺にとって、お前はもうそれだけ大きな存在なんだ」
たとえ出会ってから過ごした時間が数か月という短い時間でも。それでももう俺にとってユウキは、キリトらと変わらない大切な人間になっていた。
「ユウキ、お前が何を言ったって後悔なんてしない。お前が泣いているのに何もしない方が、よっぽど後悔する」
仲間を失った時、誰かを死なせてしまった時。人を殺した時。
辛く悲しく苦しかった。言葉にすれば陳腐でも、そこにはたとえ万の言葉を費やしても表現しきれない感情の嵐が渦巻いていた。
そんな時、俺の支えとなり、立ち上がらせてくれたのは、いつだって仲間の存在だった。キリトたちがいたから、今の俺がある。俺もまた彼らにとってのそういう存在であると思う。友達とは、そういうことだろう。
「俺に教えてくれ、ユウキ。お前のことを。俺は、お前と一緒に悩みたい」
一人で苦しい時は二人でいよう。ただそれだけのちっぽけな提案しか出来ない俺だが、それでもひとり悩み苦しむ友人を見捨てることなんて、俺には到底できない事だった。
ユウキはそんな俺の言葉に、小さく噴き出した。その表情には笑みが浮かぶ。涙を流したまま、ユウキは笑っていた。
「……ずるいなぁ」
夕焼けの中、ユウキの姿は赤く染まって見えた。顔もまた夕日の色を映して赤い。
「……ありがとう、ソウマ。話すよ、ボクのこと」
俺は頷いた。何を言っても全て受け止める。そう心を決めた。
「ボクと、姉ちゃんのこと。……ソウマ、姉ちゃんには、もう会えないんだ」
「え?」
少し掠れた声で、ユウキが言う。
「姉ちゃんはね、もう――」
その先の言葉は、淡々としながらも鋭い切れ味を持って俺の胸をえぐった。
全てを受け止めると心を決めても、なお。その事実は俺の心に衝撃をもたらしたのである。
――ユウキの姉、ランというプレイヤーは、現実世界で死亡した。
その原因は、病死。
病名は《後天性免疫不全症候群》――AIDS(エイズ)。今もってなお治療法が確立されていない、不治の病だった。
*
場所を変えようか。そうユウキから切り出された俺は、ただ頷いて飛び立つユウキに着いていった。
辿り着いた場所は世界樹。俺とユウキを結びつけたアスナ救出の際に、山場となったグランドクエスト攻略の場。そしてユウキと幾度も話をかわした場所であり、ランと初めて会った場所でもある。
そんな関わり合いの深い場所であるここは、時刻がすでに夜に差し掛かっていることもあってか人が少ない。ぼんやりと街の光が世界樹を照らす中、ユウキと俺は誰もいない広場の奥へと移動して芝生の上に腰を下ろした。
ユウキは俺に窺うような目を向けてくる。それは「本当に話してもいいのか」という俺の意思を再確認するためのものだったように思う。
ランの死、そのことだけを聞かされて、今の俺は混乱していると言ってもいい。だからこそ、これ以上話すことにユウキは躊躇いを覚えたのだろう。
しかし、動揺はしても俺の気持ちは変わらない。ユウキが抱えるものを知り、そしてその悩みを共有できたらという思いに、一片の揺らぎもなかった。
俺は頷き、ユウキに話を促す。ユウキは逡巡するも「わかった」と頷きを返し、そして長い話が始まった。
始まりは、ユウキとランの出生時に帝王切開が必要となったことに起因する。
その際に大量の出血が発生し、輸血が余儀なくされた。すぐさま輸血は施され、ユウキとランは無事この世に生を受ける。ここまではそんなこともあるだろう、という出生時のエピソードに過ぎない。
けれど、彼女たちの場合はそれだけでは終わらなかった。輸血用血液製剤の汚染。輸血に用いられた血液は、運の悪いことにウイルスに汚染されていたものだったのだ。
ウイルスに汚染された血液は、最新の科学でもおよそ十日間はウイルスの潜伏を見つけることが出来ない。これはどうしようもない、現代科学の限界なのだ。
けれど、そもそもウイルスに感染することが稀だし、発見不可能な十日間というわずかな間に血液を採取してしまうこともごく稀である。ゆえに、輸血によってウイルスに感染するなどという可能性は、何十万分の一程度に過ぎない。
けれど、ゼロではない。そしてユウキたちはその何十万分の一に該当してしまったのだ。
輸血を受けた母、そしてその血を受けたユウキとラン。そして、父までもが気がつけばすでに感染しており、もうどうしようもない状態になっていたのだという。
大変だったよ、とユウキは苦笑しながら言った。しかしその言葉に込められた重みを思えば、簡単に同意することなど到底できなかった。
カトリック教徒であった母は、自殺を考えるも出来なかったという。キリスト教では神から与えられた命を自ら断つことを言語道断の罪としている。しかし、それゆえに母と父は随分と悩んだらしいと言っていた。
結果としては、投薬をはじめとした治療を受けつつ生きる事を選択したのだという。そればかりか、HIVキャリアであることは伏せられ、学校にも通ったとか。その時間は本当に得難いものだったとユウキは懐かしんでいた。
一方、家族の病状は目に見えないまでも日に日に進行していた。そして、ほどなくして学校にユウキとランがHIVキャリアであることが伝わり、保護者の間にも広がってしまう。
感染者に対する間違った認識を基にした誹謗、中傷。嫌がらせの電話や手紙は後を絶たず、家族一丸となって乗り越えようとしたそうだが……どうにもなからなかった。やがて二人は転校を余儀なくされた。そして家族もまた転居をするしかなかったのだという。
その直後、ランがエイズを発症。後を追うようにユウキもまた。こうして二人はついに外の世界での自由を諦める日が来たのだという。
「ボクたちの担当の先生は今でも、あの時の誹謗中傷が原因になったって悔やんでるみたい。姉ちゃんがそう言ってた。でも、確かに辛かったけど、本当はきっと違うと思うんだ」
「違うって?」
今の話を聴く限り、俺だってその学校で行われたユウキたちへの対応が原因だと思う。
病は気から、という言葉は何も根拠がない根性論ではないのだ。だからこそ、その気持ちを折るかのような真似をした彼らには、今更こんなことを言っても仕方がないとわかっていても、憤りを感じずにはいられなかった。
けれど、ユウキは首を横に振った。
「ボクたちが受け入れてもらえなかったのは、きっとあの人たちのせいじゃない。皆は皆の家族が大切で、その危険をほんの僅かでも取り除きたかっただけなんだと思う。たとえ日常生活で感染の危険がほぼないとはいっても、ゼロじゃないから……。だから、ボクは今でもあの学校にいたことを恨んだことはないんだ」
だから、辛くはあっても納得できたとユウキは言う。
けれどそれは、とても悲しい理解だった。自分がそんな腫れ物のような扱いを受けてしかるべきだと自然に受け入れてしまっている。それが一体どれだけ悲しい事なのか。
俺はユウキにそんな気持ちを抱かせてしまう運命を呪わずにはいられなかった。けれど、そんなことをいくら言ったところで意味はない。
俺は自分の無力さに唇をかみしめるしかなかった。
「それで、ボクたちは入院。低下した免疫じゃ色々なウイルスを防ぐことは出来なくて、いろんな病気にかかったり、沢山の検査をしたりした。そんな時に、ボクは先生からある医療器具を紹介されたんだ」
「ある医療器具?」
「うん。――《メディキュボイド》っていう、ナーヴギアの親戚だよ」
それは辛く苦しい治療を劇的に変化させる機械だったという。
メディキュボイドはナーヴギアと同じように、脳への電気信号の一部をカットすることで使用者を仮想世界へフルダイブさせる。
電気信号の一部をカット、の中には痛みに関することも含まれる。激しい痛みを伴うものもある投薬も、仮想世界にダイブしたままならば痛みを感じることはない。苦痛を感じる治療に対して、患者が痛みを感じなくても済むのなら、それは確かに画期的なことだろうと思えた。
ユウキはそのために、ずっとバーチャル世界にいるのだという。常に行われている治療、間断なく襲い来る副作用の痛み、担当医師との面談もまたバーチャル世界で行い、それ以外はずっといろんな世界を旅しているのだと言った。
「それは一体どれぐらいなんだ?」
「うーん、もう二年にはなるかな」
「二年!?」
俺たちSAOプレイヤーとほぼ同じ時間だ。
その答えを聞いて、俺はようやくユウキが持つ強さの秘密に気がついた。なんてことはない、ユウキは俺たちSAOプレイヤーと同じく二年もの長きにわたってフルダイブを行っているからだ。
それだけの間をVR世界で過ごした、というその得難い経験が、あの類稀な反応速度と滑らかな動作や剣筋を実現しているのだ。
俺たちSAO経験者と同じように。
「そうして色々な世界を回っていて、今ボクがいるのがこの――」
「ALOってわけか……。ランも、ユウキと同じように?」
「うん。一緒にいろんな世界を回ってたんだ」
「そうか……」
けれど、ランはついに限界を迎えたということなのだろう。そしてユウキもランも両親の今については触れていない。ひょっとしたら、ご両親も……。俺は言葉を詰まらせるしかなかった。
脳裏に、ランと二人で交わした会話が思い出される。どこまでもユウキのことを思い、優しく見守っていたラン。まだあれから一か月も経っていない。きっと、あの時にはランはもう……。
ユウキのことをよろしくお願いします、と言っていたランの姿が浮かび、思わず涙腺が緩む。じわりと何かがこみあげてきて、俺は乱暴に目元を一度だけ拭った。
そこで、はたと気づく。
さっき、ユウキはランとほぼ同時期に発症したと言っていた。そして、ユウキもまたランと同じ治療を受けていると。
なら、ユウキの病状は今どうなっているのだ?
さっと顔から血の気が引いた気がした。今、目の前でこうして言葉を交わしているこの少女が――死ぬ?
まさか、と思うも、しかしその最悪の予想は俺の脳裏にこびりついて離れなかった。
恐ろしい推測だった。けれど、このまま聞かずにいるには恐ろしすぎる未来でもあった。
俺は、口の中のつばを飲み込む仕草をする。ばくばくと五月蠅い心臓の音を耳障りに感じながら、俺は震える唇に力を入れてユウキに向き合った。
「……ユウキ。お前は、どうなんだ? お前は、このままなら、ずっとこの世界にいれば、大丈夫なのか?」
そんなわけはない。頭の中で冷静な部分がそう囁いていた。
けれど、信じたくなかった。そう遠くない未来に、目の前の少女もまた消えてしまうのだということは。
どうしようもない現実であるとわかっていても、そうだと言ってほしかった。大丈夫だと言ってほしかった。否定が返ってくると悟っていても、その可能性に縋りつきたかった。
だが、世の中にはそんな奇跡などありはしない。そう思ってしまう程度には、俺は世間を知ってしまっていた。その冷静で現実主義者な部分がその可能性はないのだと否定している。そして俺の理性もまたそうだと納得してしまっていた。
ユウキが後悔することになると言っていた理由が今わかった。ランのこともユウキの事情も、確かに後悔してしまいそうになることだった。けれど、これは別格だった。
ユウキはもう、俺にとって生活の一部だった。妹のように思い、仲間として信じ、家族のように近しく思っていた。たった数か月の付き合いだというのに。
その少女が、永遠にいなくなる。それは、耐え難いほどの昏さを伴う絶望であった。
果たして、ユウキは首を横に振った。大丈夫ではないと示したのだ。それがもたらす未来を想像して、俺が愕然とした、その時。
「大丈夫じゃなかったんだけどね……ボクにだけ、奇跡が起きたんだ」
「……え?」
その言葉の意味を問おうとして見たユウキの顔は、笑みと涙がごちゃ混ぜになった複雑な表情になっていた。
気づけばすでに星が見え始めている宵闇の中、空の星が放つ光を受けながら、ユウキはぽつりぽつりと話し始めた。
「十二月ごろにね、手術をしたんだ。といっても、ボクは横になっていただけだったけど。大変だったのは相手の人だったと思う」
「相手?」
手術に相手とはどういうことだろうか。その疑問はすぐにユウキからもたらされた。
驚きの言葉と共に。
「うん。骨髄移植手術だったんだ。だから、骨髄液を提供してくれた人は大変だったと思う。ボクはベッドに横になって、点滴みたいに骨髄液が注入されるだけだったから」
俺はさっきとは別の意味で愕然となった。
十二月といえば、俺がドナーとして骨髄液を提供した時だった。
「それでね、その人はすごく珍しいHIVウイルスに耐性がある遺伝子を持った人だったんだって。偶然、ボクとその人のHLA型っていう細胞の型が合って、ボクの中のHIVは段々と弱くなってるみたい」
俺はあの手術の後、自分が持つという変異遺伝子について調べてみた。
その遺伝子は白人の一%のみが持つという。俺はアジア人だ。けれど、家系を調べてみると、ひいひいお爺さんが英国人だったことがわかっている。
今のところアジア系では一%にも満たない変異遺伝子保持者だと俺は自分のことを思っていた。ましてドナー登録しているともなれば、恐らくは唯一であるはずだった。
「担当の先生は、このままなら数年の間に完治も夢じゃないって言ってた。ソウマと会った時はね、そのことで悩んでたんだ。ボクには、姉ちゃんや他の同じ境遇の仲間がいたけど、皆にどんな顔をして会えばいいかわからなかったから」
ユウキが抱えていた悩みとは、それだったのか。
同じ境遇、目に見えた命の期限を告げられた仲間の中で、ユウキだけが助かってしまう。そのことに負い目や遠慮をユウキは感じてしまったのだろう。
「このまま生きていいのかな、なんて思っちゃったりね。ボクにせっかく骨髄を提供してくれたドナーさんに、申し訳が立たないけど」
気まずそうにユウキは苦笑した。それがぜいたくな悩みであり、また抱いてはいけない悩みだと思っているからだろう。その悩みを持ちたくても持てない仲間をユウキは知っている。その葛藤が、ユウキを苦しめていたのかもしれない。
「けど、もう大丈夫。ボクはもっとボクの仲間を信じればよかったんだ。ボクはきっと誰かが助かるって聞いたら、心の底から喜んだと思う。皆もそうだってもっと信じればよかった」
ユウキは既に仲間たちに打ち明け、全員から祝福されたという。中にはユウキの悩みを知り、もっと自分たちを信じろ、と怒った者もいたそうだ。
そのことを語るユウキの顔は確かに晴れ晴れとしていた。ユウキの悩みはそうして解決されていたのか。今はじめてその内容と経緯を知り、俺はひとまずの安堵を感じていた。
となれば、次に気になるのはユウキへと骨髄液を提供したドナーのことだ。もしアジア系から骨髄液を受け取ったならば、恐らくは俺以外にはいないだろう。
もちろん、海外で白人の中にいた変異遺伝子保持者から輸送によって骨髄液を受けたという可能性もある。そうも思うがしかし。
倉橋医師は言っていた。俺の骨髄を受けた相手は「十三歳の女の子」だったと。
ランは言っていた。「手術を受けたのは横浜港北総合病院ですか?」と。
倉橋医師の所属病院の名をユウキの姉であるランが出したことは無関係じゃないだろう。そして倉橋医師が言っていた十三歳の女の子。それは、ユウキなのではないだろうか?
「なあ、ユウキ。ひとつ教えてくれないか?」
「うん。なに?」
「担当の先生の名前は、なんていうんだ?」
「へ? 倉橋先生だけど……」
「横浜港北総合病院か?」
ユウキは驚いて目を丸くした。
「な、なんで知ってるの?」
たぶん、間違いない。
ユウキだ。
俺が骨髄を提供し、助かったという少女はユウキのことだったのだ。
それなら、あの時ランがひどく狼狽していたのも理解できる。あの時、ランは俺がユウキの骨髄液提供者だと気付いたのだ。だから、涙を流すほどに動揺したのだろう。
あの時点ではまだ俺ではなく、他の変異遺伝子保持者からの提供である可能性もあったはずだが、ランには何か確信できる根拠があったのかもしれない。今となってはもうわからないことではあるが。
しかし、なんという偶然だろう。この世に存在する七十億あまりの人間の中からユウキのHLA型に合致し、かつHIV耐性を持つ遺伝子を持っているのは、恐らく俺だけのはずだ。
その俺がドナーに登録しており、ユウキに骨髄を提供し、そして不治とされるエイズに完治の可能性が出た。それだけではない。その後、数あるVR世界の中で、互いの事情を知らぬまま出会って交流していたという事実。
胸が熱くなった。俺があの時ドナーとして骨髄を提供したことで、この目の前の少女が生きられるのだと思うと、ただただ嬉しかった。言葉に出来ないほどに、感情が極まる。
目から極まった感情を表すように涙がこぼれた。かつてあの世界で人を殺した俺は今、明確に誰かの命を救ったのだ。今まではそうだと言われても実感がなかった。けれど、ユウキという当人が目の前に現れたことで、ようやく実感できた。
俺は人の命を救ったのだ。奪っただけだった俺が。
「ど、どうしたのソウマ」
ぎょっとしてユウキが狼狽している。
俺はそんな彼女の手をぐっと掴んだ。
「ふぁっ!?」
「ありがとう」
ユウキは一瞬声を上げたが、直後の俺の言葉に首を傾げた。
彼女には意味が分からないだろう。しかし俺が提供者だと告げたところで、何かが変わるというわけでもない。感謝されたいわけでもないのだから。
だから俺は、ただ明確にこの感情を言葉にしようと思った。飾らずに、今心から思っていることをユウキに送りたかった。
「生きていてくれて、ありがとう。俺は、お前がこうして生きているのが本当に嬉しい」
涙は止まったが、まだ声は掠れていた。しかし、俺は頭を下げて心の中の本音を表した。
こうして触れ合える。言葉を交わせる。そうした現実が何とも数奇な出来事の積み重ねによって生み出された稀有なものであるとすれば、本当に得難いものだ。
この巡り合わせに、俺は感謝した。俺がいることで救われた命がある。それだけで何だか救われたような気持ちになり、俺は握るユウキの手に力を込めた。
「ぅー……ぁ、の……」
ふと小さなうめき声が聞こえ、俺は下げていた頭を上げた。
そこには、顔を真っ赤に染めて視線をあちこちに泳がせているユウキの姿があった。
そういえば、思わずユウキの手を取ってしまったが、ハラスメントコードに引っかかる行為だ。それに身を乗り出すようにしていたから、少し距離も近かったかもしれない。迂闊だった。
俺は慌ててユウキの手を離し、少し距離を離した。感極まっていたとはいえ、少し無遠慮だった。
「ごめん、不躾だったな。悪かった」
「ぇっと、や、その……」
「けど、言ったことは本音だからな。それに、ユウキの事情を聴いても俺の気持ちは変わらない。後悔はしていないし、ユウキのことは大切な仲間だと思ってる」
偽りない本心を改めて告げれば、ユウキは更に顔を赤くし、そして一瞬落胆し、けれど嬉しそうにしつつも、溜め息をついた。
「……ソウマって、やっぱりずるい。たらしだよね」
なんでだ。
突然予期していなかった評価を下され、俺は心の内で首を傾げた。
「……でも、嬉しい。そう言ってもらえると、ね。ありがとう、ソウマ」
俺はその感謝を素直に受け取り、ただ首肯を返した。
そして少し会話が途切れる。ユウキは一気に話して疲れただろうし、俺もまた色々な情報が一気に入ってきて整理しきれていないこともある。
そのため生まれた沈黙は、しかし決して不快ではなかった。ただ二人で座り、より明確に光り始めた星を見上げた。
こうして何気なく空を見上げることすら出来ない人がいる。そんなこと考えたこともなかった。
けれど、ユウキはそんな一人だったし、ランもまたそうだったのだろう。ユウキにとっては常に一緒にいた半身。そして唯一の家族。そのランを亡くした悲しみは、癒えていない。
しかし、こうして俺に話したことで少しでもその気持ちが楽になっていればいい。そう思った。
その時、ふとユウキから伸ばされた手が芝生の上に置かれた俺の手に触れる。おずおずと今にも引っ込まれそうなそれを、俺は引き寄せるように掴んだ。
温もりが伝わる。生きている温度だった。今伸ばされた手は、ユウキの心の表れだと思った。
きっと寂しいのだ。話を聞いた今だからわかる。ユウキにとってランは恐らく別格の存在だったのだろうから。あれだけ姉ちゃんと言って慕い、ランの話をしていたのには、今聞いた背景も無関係ではないだろう。
そんな存在を失ってしまった気持ちは、俺には全て理解できるとは言えない。けれど、そうして出来た喪失感を少しでも埋めてやりたかった。ランの代わりが出来るとは言わない。けれど、この少女のことを俺は俺なりに見守っていこうと思う。
伸ばされた手は、誰かを求めるサインだったのだ。少なくとも俺はそう感じた。
だから大丈夫だという意思を込めてその手を掴む。一人ではないと伝えるために、温もりを共有する。
ちらりと横を見ると、ユウキは空を見ていた。ただ、その耳の先がほんのり赤かった。年頃の女の子であることを思い出し、あまり過度な接触は負担になるかと思い、気を付けていこうと再確認。
そして俺もまた空に視線を戻すと、おもむろに口を開いた。
「今度さ、木綿季のところに行ってもいいか?」
これは、リアルの、という意味を含ませていた。つまり病院だ。
ユウキはその意味を確かに汲み取ったようで、「いいけど、なんで?」と訊いてくる。
俺は答えた。
「ランの見送りをしたいんだ。ちょっと遅れたけど、許してくれるよな」
ユウキは一瞬、きょとんとした顔をしていたが、すぐにぱっといつもの明るい笑みを見せてくれた。
「もちろん! 姉ちゃんも絶対よろこぶよ!」
俺も笑みを浮かべ、「そうだといいけど」と呟くとすっかり紫色が目立つ空に視線を戻した。
脳裏には、最後にランと交わした言葉が蘇っている。
――ユウキはあんな子ですが、よろしくお願いします。
あの時、俺は「任せとけ」と返した。けれど、もう一度誓わせてもらおう。
――任せてくれ。
だから安心して、ユウキを見ていてやってくれ。そう祈りを込めて、俺は空に瞬く星に向かってそっと目を閉じた。