家に戻ると桜が玄関に立っていた。
桜の気性を考えれば予想できたことだが、あれだけ言っておいてこのザマでは姉として格好がつかない。
あちこち擦り剥いて服を台無しにしているのだから取り繕いようもないのだが、とりあえずは、
「ただいま桜。その、なんだ」
「ね、姉さん一体何が」
「風呂に入ってきていいか?」
全身汗でぐっしょり濡れて気持ち悪いし風邪を引きそうだ。
風呂から上がった私は部屋に帰って寝ようとしたところを桜に捕まった。
「それで、いったいなにがあったんですか?」
桜に詰問されるのは久しぶりだ。
もちろん正直に答える訳にはいかない。私は嘘、乃至冗談を口にすることになる。
「冷や汗といい汗をかいてきた」
桜の手には処置無しと判断してゴミ箱に投げ込んでおいた服が握られている。
地味かつ作りがしっかりした服を好む私だが、買い物という行為は嫌いだ。
自然私の服を買ってくるのは桜で、いつも姉さんの服選びは手間がかかると文句を言われていることを思い出す。
桜の機嫌が悪いのは、血と汗とほつれでぼろぼろになった服を勝手に廃棄したからだろうか。
「これ、捨てちゃうんですか?」
「………………もう着れないだろ、それ」
葛木の血と私の汗ぐらいなら洗えば落ちたかもしれないが、あちこちささくれた生地は元に戻らない。
「そうかもしれませんが………………」
「買ってきてくれた桜には悪いがな………………ああそうだ」
さも今思いついたという風に口を開く。
「桜、明日買い物にいかないか?」
「買い物、ですか?」
目を白黒させる桜を眺めながら、やおら策が形を為していく。
聖杯戦争の最中、買い物に行くという無謀。
同時に買い物嫌いの私がそれを口に出したという珍事。
迷った挙句に桜が出した答えは私を満足させるもので、明日を楽しみに私は寝床へと潜った。
──約束を果たせなかった男に、しかし人々は歓声を惜しまない。多くの血が流れたことは確かだし、男の独力でもなかったが、それでも男は英雄だった。
──我らの王に、と声高に叫ぶ声がある。男は満更でもなさそうに笑って応える。
男がそれを望んでいることも知っていたし、かつて、それは叶わなかった事もしっている。だが。
──アッコンを奪還し、我らを再びここへと導いた男が我らの王で何の問題がある! 異論あるものは申すがいい!
この戦いを成功へと導いた三人の英雄の中でも最も長くこの地で戦い続けたこの男が、遠からず王位に着くのは必定だ。
前王たるギー・ド・リュジニャンは当然、獅子心王でさえ、アル・マルキシュの手からその地位を奪うことは叶うまい。
命が下るとすれば長年あの男を監視し続けた我にである。
一度命を受けたならそこに迷いはない。
だが、ようやく安定を取り戻し始めたこの地に諍いの種を撒いてまでそれは成すべきことなのかと、そう思っているのも事実だった。
治める者が誰であれ、過ごす民に安寧があるのなら、我らの牙は収めるべきではないのか、と。
翌朝、眠りから覚めた私は思いの他快適に目覚めた。
適度な運動が体にいいというのは本当なのかもしれない。
日頃なら二度寝を楽しむ時間だったが、そんな気分ではない。
もぞもぞとベッドから抜け出して、適当に着替える。
余った時間を潰すべく居間に入り茶を啜っていると、桜が顔を出した。
桜は制服を着ずに、私服、それも出かける格好をしている。学校をサボる気なのは言わずとも察してくれたらしい。実に優秀な妹だ。
「ずいぶん早いですね、姉さん」
「ああ。妙に寝覚めが良くてな」
厨房に入った桜を追う。
下準備は昨夜のうちに終えていたらしく、桜はてきぱきとそれらを調理していく。
「座ってていいですよ姉さん」
「うん」
手伝おうにも邪魔になる手際の良さだ。見ていて気持ちがいいので邪魔にならないよう隅から眺めることにする。
「桜、解ってると思うが、今日の外出は釣りだ」
「ええ。でも先輩達は学校に行くと思いますよ?」
なるほど、桜があっさり承諾したのはそれが理由か。
思うところはあるが、桜がそう考えているならば好都合だ。
「それでも、だ。まあ襲撃される危険は無いに等しい。私ならまず手を出さない」
釣り餌ではないのかという疑念が行動を妨げる。
確固とした自負、あるいは無謀。食いつきそうなメンツには対応できる。
「姉さんがそう言うのなら私は別に。でもちゃんと買い物には付き合ってくださいね」
「………………ああ、わかってるさ」
にっこりと笑った桜の顔は酷く威圧的で、私はそそくさと厨房から退散した。
「随分夕べは慌ただしかったようじゃが、なにかあったか、皐月?」
このところ爺様の機嫌は実にいい。いよいよ願いが叶いそうだというのだから、それも当然か。
「爺様が気を揉むような事じゃないさ。ちょっと死に掛けた、ぐらいの話だ」
魔術師ならば別に珍しくもない事だ。
「カカカ、まあ今生きておるならそれでよい。気をつけよ」
「ああ、それで今日は意趣返しをしてみようと思ってな。今日は桜と二人で外出する」
「ふむ。そう容易く釣れはせんと思うがのう」
爺様は私の言わんとする事をあっさりと察した。
「釣れない事に意味があるんだ。先に痺れを切らした方が負け。キャスターの一件で思い知った」
無意味だったとは言わないが、キャスターの排除は全てのマスターにとって利益であり、それはつまり手間を負った私達がその分損をしたと言い換える事ができる。
何もせずに利益が上がるならそれに越したことはない。
「…………慎二はどうする?」
「さあ、慎二次第だな」
我関せずと味噌汁を飲んでいた慎二が露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだ、いやなのか」
「嫌だろ普通。女の買い物になんで付き合わなきゃならないのさ」
その割には取り巻きの女の子にあれこれ奢っていると聞いているが。実は私と一緒で買い物が嫌いなのだろうか。
「私はどっちでもいいんだが、まあお前の身の安全を考えただけだ。一人無関係を主張するのと、関係者としてサーヴァントの側にいるのでは、どっちが安全かと思ってな」
「…………そんなの分かるわけないじゃないか」
そう、分かるわけがない。だから決断を慎二に任せたのだ。
「ふむ、まあよいじゃろ。好きにせい」
状況を分ける程の行動ではないせいか、爺様も半ば投げやりだ。
無茶だけはするなと言い置いて屋敷の奥へ戻っていった。
「それにしても学校を堂々とサボるとはね。姉さんはともかく桜はそういうの嫌いだろう?」
慎二の疑問は的外れだ。
むしろ桜は学校に行きたくないはずだ。この状況で遠坂や衛宮と顔を合わせるのは気まずかろう。
「昨日の事を考えると遠坂との協定も信用出来ない。まあ、桜が遠坂を殺す決断ができたら一緒に行ってやってもいい。殺せないなら私が殺してやるし、殺したくないなら、殺さずに済ます道を探せ」
姉殺し。辛い道だが、桜がそれをせずにいるのは血肉を分けた姉への親愛からだろうか?
「…………姉さんは相変わらず厳しいですね」
「お前は慎二と違って強いからな。ああでもしんどくなったら泣いてもいいぞ。ちゃんと可愛がってやる」
もちろん対価は頂く事になるのだが。
ぺろりと唇を舐めると隣で慎二が悲鳴を上げた。うるさい奴だ。
「…………姉さんはやっぱり怖い人です」
結局学校に行くという慎二を見送り、さて出かけようかというところで思わぬ邪魔が入った。
「サツキの意図が私には分からない。桜の身に危険が及ぶ可能性がある以上、私は反対です」
柳眉に皺が寄る。目を覆っているのにライダーの表情は分かりやすい。
とはいえどこにいて何をしていようとと危険はつきまとう。常日頃と同じ行動を取ってさえいれば安全ということはない。
ライダーとてそのあたりは了解しているだろうから、この反駁はマスターたる桜の主体性に私が干渉することを嫌ってのものだ。
「そうは言うが、学校に行けばそれはそれでマスターと顔を合わせる事になるんだぞ?」
「それは、そうですが」
後ひと押しは餌で釣ろう。
書斎に篭っているライダーが一際バイクのカタログに興味を示していたのを私は知っている。
「あと、これは完全に私の都合だが、バイクの慣らしをしたくてな」
案の定ライダーの顔に迷いが出た。感情的な問題で強く反対するほどライダーは強情ではない。餌で釣ってやれば容易く覆せる。
「く、ずるいですねサツキは。ええ、出来れば一度バイクに乗ってみたいと思っていました」
とはいえ生憎とライダーが期待するようなぶっ飛んだバイクはない。
普通二輪を取った記念に買ったSR400。純正の側車が付いているのはもちろん将来のことを考慮に入れてだ。
「サイドカー付きなんだが、構わないよな?」
後ろに私が乗って認識阻害を続ければ、無免許でも問題ないだろう。仮にもライダーだし、事故を起こすようなこともあるまい。
「サイドカーとはなんですか?」
「あー、まあ二輪車の横に荷物やら人やら積める側車をつけた物だな」
法令上は動力の有無などめんどくさい区分があるのだが、無免許上等のライダーには関係ないだろう。
「ふむ。それで構いません」
「ただし後ろに私を乗せろ。アレは一応免許がいるからな、後ろで認識阻害を掛けないとな」
聖杯戦争時に真昼間から魔術行使なんて狂っているが、私は目立つ必要がある。
桜を側車に回したのは、私が桜に負担を掛けないよう配慮しているというポーズ。
「……それではサツキに迷惑がかかるのでは?」
こっちを伺うような態度は桜そっくりで、なるほどマスターとサーヴァントは似るらしい。
「二輪は整備してやらないとすぐ機嫌を損ねる。乗らないのに整備するのは正直苦痛でな」
「…………サツキは交渉上手ですね。分かりました。条件を飲みましょう」
やる気を見せるライダーに頷いて返し、私は準備に取り掛かった。
てきぱきと整備をする私を食い入るようにライダーが見つめている。そんなに面白いだろうか。
ヘルメットを渡してやると嬉しそうに被った。
「じゃあ行くか。桜、窮屈じゃないか?」
「いいえ、ちょっとわくわくしてます」
そういえば側車に誰かが乗るのは初めてだ。
「私の遊びに突き合わせているようで悪いですが」
「気にしないで、ライダー。無理を言ったのは姉さんなんだから」
二人して悪者にされると居心地が悪い。抗議代わりにライダースーツに身を包んだライダーにしがみ付く。
「冗談ですよサツキ」
意図は伝わったらしく苦笑が漏れ聞こえた。心なしか桜の視線が恐い。
「………………ライダーを取ったりはしない」
「ならいいですが」
初めてとは思えない手際でライダーが発車する。
この分なら振り落とされる心配はしなくて良さそうだ。
簡易結界をかけ、操縦者を私だと誤認させる。何かの間違いで検問にでもひっかかったら私の免許を使わねばならないからだ。
初めての二人乗り。それも後ろは経験したことがないので、落ち着かないのではと思っていたが、ライダーはしがみ付き甲斐のある体なので悪くない。
「あの、サツキ?」
ヘルメット越しのくぐもった声が、私の手を止めた。
「なんだ、思ったほどではなかったか?」
「ああいえ、従順で実に乗りやすい。そうではなくてですね、何故そんなにしがみ付くのですか?」
「危ないからだ。私は魔術行使に意識を割くからな。振り落とされてはたまらない」
これはもしかすると桜より大きいかもしれないな。
ウエストも締まっていて無駄がない。
あちこち弄っているとライダーが私の手を掴んだ。
「く、くすぐったいのですが」
この当たりが引き際だろう。
「それはすまなかった────ライダー、分かっているとは思うが」
「────ええ。一組を落としたとなればこちらの疲労を予測したマスターは私とサクラを狙いたがる。これは撒餌なのでしょう?」
「正解だ。よかったよライダーがちゃんと考えていて」
「それはどうも。しかし話の切り替えが無茶苦茶です」
「怒るな。しかし随分反応がよかったぞ、ライダー。もしかしてそっちのケもあるんじゃないか?」
「────サツキ?」
ゾッとするほど低い声。からかいすぎたようだ。
「悪かった。真面目な話、な。認識阻害の程度を下げて探査に意識を割いてるんだ。普通にするから掴まらせてくれ」
「分かりましたが、次はありませんよ」
「分かったって。しかし私は結構ライダーは好みなんだがな」
「…………まだ言いますか」
げんなりしたように言葉を切ったライダーだが、私の魔力制御がそこそこ複雑なのを把握したのだろう。黙って運転に戻った。
もっとも私が四苦八苦しているのはレイラインの隠匿だ。
『そこから左奥のビルの上、遠坂の陣営がいる』
『こっちに気が付いているか?』
『ああ。凄い顔で睨んでいる』
怖い。遠坂には随分嫌われたようだ。
『弓を出したアーチャーを遠坂が止めた。仕掛ける気は無いらしい』
『分かった。監視を続けてくれ』
好都合。どうやら衛宮と遠坂は四六時中共にいるわけではないようだ。遠坂は桜次第だが、衛宮に関しては殺さない加減がいる。
二人まとめて相手にするのは難しいと思っていたところだ。
「ライダー、アーチャーペアがいた」
「っ、こちらを──」
取り乱しかけたライダーをきつく抱き締めて黙らせる。察知した事を気取らせては駄目だ。
「ああ見ている。手出しする様子は無いからそのまま知らぬ振りをしろ」
「…………何をする気ですか?」
「ついてくるようなら衛宮と遠坂を分断できる」
遠坂ならば昼日中にサーヴァントを争わせるような事態は避けるだろう。
「……分かりました────サツキは桜に手を汚させたいのですか?」
「いいや。ただ桜にとってどっちを選ぶも重要な決断だ。ならばその決断と責任を自分で取れるようにしてやりたい」
「貴方はいい姉だと思いますよ、サツキ」
ライダーの警戒が少しだけ薄れた気がする。
遠坂もしっかりついてきているようだし、精々時間を潰してやろう。