ほんの少しだけ軋む背中を気にしながら、教室の座席にゆっくりと腰を下ろす。
昨日のザスティンの一撃は俺の体を軽々と吹き飛ばし、そのまま背中からベンチへと激突させた。それなのに俺は動けなくなる様な痛みも怪我も起こらなかった。背中は軽い打撲で済んだのだ。
だが、俺は苦笑いを隠せない。『結城リト』の身体能力を思い返してみると、彼だって結構バケモノじみている様な気がする。ザスティンはおろか、いつか出会う羽目になるであろう、宇宙でもトップクラスの暗殺者『金色の闇』の攻撃からひたすら逃げ回り続けるという異常なほどの回避能力を持ち、その後幾度も彼女の攻撃を受けたり(彼女が手加減している可能性有り)、普通は死ぬ様な、衝突、激突、落下、をしても体をボロボロにするだけでそれ以外は特に……っていう事も結構、ザラ。
まぁ、ラブコメなんだし、所属ギャグ漫画なのだからこういう事は起こっても不思議ではないし、何より俺自身、読んでいる時はあまり気にする事もなかった。
しかし、それは二次元である筈の世界が三次元になる前の話である。
腹に手を添えてみれば、そこにあるのは体育系男子高校生の程好く鍛えられた腹筋。風呂場で見たのを思い返すと、腹はあまり割れてはいなかったが、足は色々と凄いのを覚えている。さすが元サッカー部。
だがどう見ても、あんなハチャメチャな展開に付いていける様な肉体はここにはなかった。ザスティンに吹っ飛ばされて平気だったのは、当たり所が良かったのか、言わば『主人公補正』ってヤツだったのか、俺にはわからないし、理解できる事でもないだろう。ただひとつ、率直に感じたのは『凄い恐かった』って事。
自分はこの先、生きていけるのだろうか不安で仕方ない。『金色の闇』の事も頭から離れないが、それ以前に俺の体力と精神力が持つのだろうか……。痛いのは嫌だ。人としては当然の事の様にも見えるが、これが漫画の世界となると、酷くワガママな注文に感じる……
久しぶりに筋トレでもするか……そう結論付けた時、ララが俺の顔を覗き込んできた。彼女の明るい瞳は、疲れた俺の顔が良く映る。
「どーしたのリト? お腹痛いの?」
腹に押さえていた手を離し「何でもない」と答えた俺は、弁当箱を取り出したのだが、手を付けようとしたら彼女に止められてしまった。「みんなで集まってから♪」だと。
ララの転校初日、彼女は俺と、猿山、籾岡、沢田、西連寺、その他二人と一緒に昼飯をとった。ララは彼女達と友達なのだから別に俺が異論を持つ理由などない。飯を食うにしては大所帯な気がするのだが、それは昨日も同じであり、そして今日も彼らはいつもの様に俺とララの周りに集まっている。どうやら、これが当たり前の集合体になってしまった様だ。
「おーっす♪ あっ、待ってくれた?」
ぶっきらぼうな挨拶で教室に戻ってきたのは籾岡達。だが、そこにはいつものメンバーがひとり足りなかった。
「ねぇ、春菜は?」
「あれ? 先に教室に戻ったんじゃないの?」
西連寺がいない。妙な困惑に満ちる空間。そこを通りかかったクラスメイトの女子が、籾岡に向かって答える。
「春菜なら、さっき佐清先生と一緒に部室の方へ歩いて行くの見たよ」
彼女がそう言った瞬間、周りのヤツらは「マジで!?」と、あらぬ噂を立てながら騒ぎ始めた。ララだけは何の事だかわかっておらず、籾岡に疑問を投げかけているが、彼女はそれを易々と言いくるめ、彼女を適当に弄ぶ。
一方、猿山達は「おやおや〜?」って言ったがっている様なドヤ顔で、俺の事をいやらしい目で眺めてきた。彼は『結城リト』が『西連寺春菜』を好きだという事を知っているのだから、からかっているのだろう。
食事の前に始まったひと仕事を前に、俺は溜め息を吐きながら机から立ち上がった。
「……ちょっとトイレ行ってくる」
「ん? お前さっきも行ってなかったぁ〜?」
このサル……わざと言っているとしか言い様がない。彼にはわかっているのだろう。俺こと、この『結城リト』が今から何を行おうとしているのか。
だが、ここでからかわれても俺は止まるわけにはいかない。
「残尿。言わせんな……」
猿山達の笑い声を背に、俺は教室から出た。遠くから猿山がララを口説こうとしている声が聞こえるが、聞き流す。丁度そこへ、俺の携帯が無機質な振動を立て始めたので、俺は歩みを止めた。
開いた携帯の画面に映ったのは『通話先不明』と言う真っ黒な文字。震え続ける携帯の画面を暫くの間、眺め続けていたのだが、どうせ切れてもまたかかってくると思ったので、俺は色々と諦めながらその携帯を耳に押し当てた。
『……やぁ結城リト君』
電話の先、聞いた事があるかといえば、ある声。俺は通りすがったら挨拶程度の会話しかした事はないが、『結城リト』はすぐに気付いたこの声。
女子の体育教員の『佐清』だ……いつもの女子受けが良さそうな明るい爽やかな声とは全く違う、薄暗くて、いやらしそうな佐清の声が携帯から聞こえてきたのだ。
ところで、コイツは何で俺の携帯番号を知っているんだ? そんな場違いな事を考えている内に、彼は話を続けてくる。
『デビルーク星のプリンセスの事で話がある……今すぐ会えるかな………』
俺は居場所を聞き出すなり、携帯を切った。そして、奴の元へと歩き出したが……
それはすぐに疾走へと変わった。
あぁ……西連寺捕まってんだよ……俺の馬鹿!!
・・・♡・・・♡・・・
『女子テニス部』。そう書かれた看板を確認して、ゆっくりとそのドアノブを握る。こんな状況なのに平然と落ち着いていられる自分が嫌になりそうだったが、そんな事を考える余裕はない。ドアを開けた先にはニヤニヤと嫌らしく笑う佐清と、気持ちの悪い触手の様なものに拘束され気絶している西連寺の姿があったからだ。
「ほー、なかなか速かったな。もう少しのんびり来てくれてもよかったのに……」
「お前のせいで昼飯を食う時間がパァだ。それと、その子は俺達と何も関係がない。放せ」
正直、素直に返してくれるなどとは毛頭思ってもいない。だが、この状況の西連寺を無視する事のできない俺は言わずにはいられなかった。
俺の言葉を聞いた佐清は何が可笑しかったのか、大きく笑い始める。そして奴は叫んだ。
「ククク…………はぁああぁぁぁああああァ!!!」
ゴキゴキッ……めきょ……みしみし……。どう考えても人間の体から鳴る様な音じゃない、耳障りな変態音と共に佐清が歪んでいく。その体からは明らかに人間のモノではないパーツが生え、辛うじて人型を成した何かになった。体格も一回り大きくなっただろうか、運動用のスニーカーから大きな指が破け出ている。
「面白い奴だなオマエ……でも、この女を無傷で解放してやりたいなら、オレの言う事を聞きな……」
変態を終えたソレは、ゆっくりと頭を上げた。
「地球人は同族を大事にするんだろォ? キヒヒヒヒッ!」
そこに立つモノは、もう佐清と言う人間ではない。細い指。大きく広がった耳。鱗の様なモノが生えた頭部。二つの飛び出た様な丸い眼球は真っ直ぐに俺を見つめ、剥き出しの牙からは、シューシューと長い舌が動いている。とにかく、気色悪い宇宙人になっていた。
全身が拒否反応を示す。自分の体の毛と言う毛が逆立った様な気がした。吐き気を催しながらも、ソイツに向かって言葉を吐く。
「ッ……本物の佐清はどうした?」
「ククク、家のベッドでぐっすりだよ。顔はイイのに、寝顔は酷かったなァ……」
どうやら、いらん事聞いてしまった様だ。気にする必要はなかったかもしれない。
そんな俺の心境など無視して、ヤツは話を始めた。
「オレの名は、ギ・ブリー。結城リト、ララから手を引いてもらおう。応じなきゃこの女は返さねーぜ? ま……それもアリかもしれねーがな、ククク……」
俺を脅しに掛けている様だが、俺は昨日デビルーク王からのメッセージで彼のプレッシャーを嫌という程噛み締めている。こんな事では、俺の心は揺るがない。
だからすぐ発言に出た。ハナっから奴の言葉なぞ耳を傾けないつもりだったのだから。
「悪いが、その前に俺の質問に答えろ……。デビルーク王はどんな基準でララの婚約者候補を選んだんだ?」
「はァ? そんな事俺達が知るか!」
なんで正式な婚約者候補がそれを知らねぇんだよ。チッ、やはりデビルーク王、本人から聞き出すしかないな……。
奴が話し始める前に質問を続ける。いつか会うだろう、銀河の王に悪意を込めながら。
「じゃあもうひとつ…………お前はどうやってその候補になったんだ?」
「んなモン……オレが偉いからに決まってるだろう! これでもバルケ星の王子だぜ?」
ギ・ブリーは「当然だ」と言わんばかりの声色で喋りながら俺を見下す。そして自分と俺との身分の違いや、地球人がどれだけの下等な種族なのかを長々と話し始めた。まぁ、人類が弱いのは否定しないし、案外納得してしまった自分もここにいた。
偉そうな奴=権力と金、って言う成り立ちはどの世界も一緒か……
小さく苦笑いをした。
「最後に、もう一個質問……」
「チッ、いい加減にしやがれ! てめぇは何を……
シャーシャー吠えるギ・ブリーに「黙れ」と一声、大人しくさせる。本当に最後の質問なんだ。黙ってろ。
俺は奴の顔を見て、はっきり……こう言った。
「ララの事……どう思ってる……」
これが最後の質問。返答によっては少し痛い目に遭わせるつもり……
「あぁ? お前、何かカン違いしてねーか?」
その言葉を聞いて、俺の思考に数秒の間が現れた。ギ・ブリーの言った言葉は、俺の予想していた言葉のどれにも、当てはまらなかったのである。
奴は丸い眼球を更に見開いて俺を見ると、びっしりと牙の生えた口を歪ませて、可笑しそうに笑い始めたのだ。
嘲る様な馬鹿笑いに「何が可笑しい」と答えるしかなかったが、そこから返ってきたのはどこかで聞いた事がある様な台詞。
「良く考えてみろよ。ララと結婚すればデビルーク王の支配する銀河は全て、自分のものになるんだぜ? こんなチャンス、見逃す手はねーだろ?」
彼の口から出てきたのは、『権力』やら『支配』の事ばかり。そこには『ララ』に対する思いなど、一切出てこなかったのだ。
酷い頭痛を感じた。言葉では表せない様な憎悪感が、自分の中からブワッと溢れ出していく。どこかで聞いた様な台詞の筈だと思っていたが、実際に聞くのとでは遥かに感じ方が違った。
怒りが激流する中、俺は頭の中で結論付けた。こいつは、ララの事を『道具の様なモノ』にしか見ていない、と……。
俺はゆっくりと拳を握る。自分の爪で掌を傷つけるくらいの力で。
「……お前にとって、ララは『モノ』か……」
「そうさ、重要なのはデビルーク王の後継者になれるという『利点』 ララはオマケみたいなモンだ。お前みたいに、アイツを『好き』で結婚する馬鹿なんざ、いねェよ。まァ、アイツは性格こそまだガキだが、最高にオレ好みのヒト形だぜ……」
「そんな事で、ララが振り向くとでも……」
「んな事関係ねェ! 性格なんざ教育して、『オレ好み』にすればいいしなァ!」
ドゴォン!!!
力任せに拳を叩き付けた壁は、脆かったのか、俺の力が強すぎたのか、大きな亀裂が走り、表面の砂っぽい物質がパラパラと地面に割れ落ちた。
「ッ!!!?」
ギ・ブリーが驚く中、衝撃で、
トンッ、トン、トントントトトト……
と荷台から零れ落ちてきたのは、緑色のテニスボール。それを足で器用に蹴り上げ手に掴んだ俺は、
思いっきりヤツの顔面へとブン投げた。
「グェ!!」
カエルが潰れた様な呻き声と共に、重力を無視するが如く吹っ飛んだギ・ブリーの体は、そのまま部屋のロッカーに激突。上に乗っていた様々な荷物の落下に巻き込まれ、そして動かなくなった。
ようやく部屋に戻ってきた静寂。舞い上がった酷い埃を払い除け、俺はギ・ブリーの様子を確認した。
ピクッ……ピクッ……
そこに転がっていたのは、さっきの姿が嘘みたいに思える、猫とも狸とも似付かない小動物の姿をした生物だった。これがギ・ブリーの正体だ。
俺はそいつを軽く摘み上げてみる。どうやら完全に気絶した様だ。
それにしても、本体は結構可愛らしいじゃねぇか。でもボールをぶつけた事に罪悪感は湧かない。
「もう……二度と来るな」
そうギ・ブリーに呟いた俺は、奴をそこら辺に置き捨てると、先程からずっと放ったらかしであった西連寺を助ける事にした。彼女を拘束している触手は、ブチブチと筋が切れる不快な音を出して引き千切れ、気持ち悪い液体が流れ落ちる。あんま触れないようにして、千切れたそれをポイッと投げ捨てた俺は、解放した彼女を背負った。そして、これ以上居たくもないこの部室を後にしようと、思い足取りながらも早足で歩き、外に出た時だった。
「リトーー! 帰って来ないと思ったらこんな所に〜♡ って、春菜?」
俺の顔面に飛びついてきたのは、当然の如くララ。だが彼女の視線はすぐに俺の背負っている西連寺へと移り、また俺へと視点を戻す。
「リト、何があったの……?」
ララが奇妙に思うのも無理はなかったが、その時の俺は頭が痛みで、理由を話す事すら放棄していた。
「どうして?」と言わんばかりの顔をするララの瞳に映った俺は、随分と酷い顔をしていた。
・・・♡・・・♡・・・
☆おまけ☆ (西連寺視点)
本当は部活があったんだけど、リサとミオの気遣いで私は自分の家に帰ってきている。ただの貧血なのにあそこまで心配してくれたのは嬉しいけど……本当は一緒に私を送って部活をサボりたいだけなんじゃないのかな……?
……うん、ありえちゃう。
私は溜め息を吐いて、玄関を開けた。当たり前だけど、まだお姉ちゃんは帰ってきていないから、挨拶をしても声は聞こえない。でも、
「ワンッ、ワンッ!」
「ふふふ、ただいま♪」
私の愛犬、『マロン』がお出迎えをしてくれた。いつもより早く帰ってきたのが嬉しいのかな。シッポをふりふりしながら私の足のまわりで跳ね回ってる。
元気なマロンを踏みつけない様に気をつけながら、私は自分の部屋へと戻る。荷物を降ろして制服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替える。そしてマロンをだっこして、私は自分のベットへ座った。
「ふぅ……」
ようやく一息つけた私は、マロンを手であやしながら今日の事を思い返してみた。
えと……どこで気を失っちゃったんだろう……。確か私は佐清先生に呼ばれて、部室の方へと歩いて行ったハズなんだけど…………う〜ん、そこから先が全然覚えていない。
気がつくとそこは保健室のベッドで、隣りにはララさんがいた。
「目が覚めた?春菜」
最初は保健室の天井しか見えなかったけれど、その横からひょっこりララさんの顔が見えた。
何が何だかわからなかった私は、反射的にララさんの名前を呼んだ。
「ララさん……? 私、どうして……」
「春菜、テニス部の近くで倒れてたんだよ。『貧血』ってヤツだって」
その言葉に、最初はちょっと疑問を感じた。だって今まで貧血なんてあった事もなかったし、ここ最近は体の調子が悪い事もなかったのだから。
自分の体を押さえてみたけど、特に嫌な気持ちとかも感じられない。本当に、ただの貧血だったのかなぁ……。そんな事を考えていたら、急にララさんが私に抱き付いてきた。
「それにしてもっ、よかった〜!! 春菜が無事で!」
ちょっとビックリしたけど、ララさんはそのまま優しく私を抱き寄せる。あぁ、私の事心配してくれてるんだ。
アレ? じゃあ、私をここまで運んできたのはララさんなのかな?
「その……ララさんが、私を見つけてくれたの?」
私はこの疑問を解くために、ララさんに質問した。でも、返ってきた返事は私を驚かせた。
「ちがうよ。春菜を助けたのは、リト!」
「え……」
その言葉に私は少しの間だけボーゼンとしてたけど、微かに心の中でトクン……と何か嬉しい気持ちが跳ねた。
自分の一番好きな人が助けてくれた。たったそれだけで、私は嬉しさを感じて笑みをこぼす。
更に詳しく聞いてみると、私は結城くんにずっと背負われてここまで運ばれてきたらしい。想像してしまった私は、もう嬉しさを超えて段々恥ずかしくなってきてしまった。
「リト、カッコよかったよー!」
「そう……だね……♪」
私はララさんと笑い合って、ほんのチョットだけ結城くんの話をしたんだ。
その後、教室に戻ってきた私は結城くんを探そうとしたけど……どこにもいなかった。猿山……君に聞いてみたら、「気分が悪いとか言って帰ったぞ?」って言ってた。
ララさんは「えーー!?」と驚いていたし、内心、私も同じキモチをだった。結城くん…………何かあったのかなぁ……
心配になったけど、さすがに結城くんの家に行くわけにはいかないし……と思ってたらララさんが聞いてくるって……。
そうだった……ララさん結城くんと一緒に住んでるんだ……。一緒に住んでる……一緒に……
「春菜?」
「ひゃぁ!」
ヨコシマな事を考えていた私に、突然ララさんの声が入ってきたモノだから、私はいつもは絶対に出ない様な声を出していた……と思う……。
バクバクと跳ね回る気持ちを落ち着かせ、私は結城くんの事をララさんに任せて、部活に行く事にした。もうとっくに午後の授業も終わってしまった時間だったの。
仕方なく私は部活に行こうとしたら、そこをリサとミオに呼び止められた。
「春菜、大丈夫?」
「倒れたって聞いたけど……今日は部活ヤメといたら?」
もう大丈夫とは思っていたけど、それでも二人は私の事を心配して、半ば強制的に家へと送ってくれた。途中、結城くんにおぶられた事をからかわれながら。
そして今、私はここに座っている。思い返せば少し災難な日だったけれども、それを上回るくらい嬉しい出来事があった。
結城くん……次に会ったらお礼を言わなきゃな……。
「ク〜ン?」
マロンが不思議そうにこっちを見ていた。