自分は直前まで何をしていただろうか。
思い浮かぶのはひとつの漫画本。そして、それを読んでいた自分の姿。記憶の中の自分は間違いなく、自分の部屋の自分のベッドの中で眠っていた。なのに、うだる様なこの現実。目の前には『俺』じゃない『俺』の姿。
時間にして数分、鏡の中の結城リトとメンチを切り合った俺は、自分のやってる事になんだか馬鹿馬鹿しくなってしまって、とりあえずさっきまで自分が眠っていた部屋へと戻った。少々、危険な足取りで。
結城リトの部屋に着いた俺はベットに座り込み、叫びたくなる様な意識を落ち着かせようとする。が、当然ながら全く治まらない。治まる訳がない。
この状況はいったい全体何なのだろうか。吐き気を催す頭痛、激痛。苛立っていたらマズい、何も考えられなくなる。ともかく、色々と大変な事になっているという実感は、俺の意識を通じて嫌でも伝わってくる。この自分の体であって自分の体でない違和感。さっきからの気持ち悪さは、これが原因だろう。ハッキリと言うが、今俺は『結城リト』になっているのだ。何故? わからない。俺が知りたい。
口元に両手の平を押さえ、ゆっくりと酸素を吸い込み、吐き出す。繰り返していないと過呼吸になりそうだった。そうしていれば少しは落ち着けた。
……数分ぐらい経っただろうか。無理矢理にでも気持ちを切り替えようとしてみようと、周りを見回した。
そういえば、今はいったい何時だろうか。時間が知りたくなった俺は、壁に飾ってある掛け時計を見た。
長針と短針は6時半を示す。まだ少しだけ早い朝だ。もっと詳しく知りたくなった俺は、ベットの横に置いてあった結城リトの物であろう黒いガラパゴス式携帯電話を掴み取り、開いた。
6月の……日曜日。妙に不思議な感覚だった。寝た日も日曜だったのに、起きてもまだ日曜だったなんて…………何か変に得した気分だ。実際は得なんぞ全くしておらず、この状況下から逃げたい俺の現実逃避だったのだが……。
「あーーーあーーあー……ッ!」
自分の聴覚は無情にも正常。頬を軽く引っ叩いてみたが、バッチリ痛い事を実感するなり、俺はベッドにぶっ倒れた。感情のままに垂れ流れた喚き声は段々と小さくなって、消えた。
窓からは朝日が直接俺に当たり続け、視界がぼやけてくる。でも、本当は自分の目から出てくる液体を、自分自身で誤摩化したかったに違いない。ぼやけの原因は、久しぶりに流した、俺の涙だった。
本当に久しぶりに泣いた、俺の涙だった。
歪みに歪んだ世界を見つめたまま、俺は目から出せるだけの水分を垂れ流し、無言のまま泣き続けていたのだが、やがてその流す水も無くなると、俺はふと……窓の外を眺めた。窓ガラスへ微かに映っている結城リトの目は、見る影もなくやつれている。
これからどうすればいいのかと、俺は他人事の様に考えていたのだ。
俺は、主人公『結城リト』の様に純情過ぎた心など持ってはいないし。ヒロインの一人である『西連寺 春菜』に恋心を抱いているわけでもない。
そんな場違いも等しい俺に、この世界でいったい何をどうしろと言うのだ? まさか、『結城リト』の様に生きて逝けとでも言うのだろうか!? 冗談じゃない!!
一旦思考を落ち着かせる。とにかく……なっちまったモノは事実であって、俺自身どうする事もできない。これが何かタチの悪い夢なら、覚めるまで待ってやってもいいが、この現実感といい何かといい……俺が居るのは間違いなくリアルの世界だ。なら、この『結城リト』になっている以上、ToLOVEるに巻き込まれるのは確実。彼にはもうそういう天性……いや、主人公故の運命とも言える様なスキルが存在する。これから始まるのはオープンスケベ、セクハラの連続であろう。
そんな引っかかるだけ『痛い目』を見る運命なら、俺はそんなToLOVEるなんぞ遭いたくない。巻き込まれるのもゴメンだ。
しかし、そのためにはどうすればいいのか……
「リトー、ごはんできたよー」
無言で天井を見つめたまま、考え事をしていると、下の階から聞き慣れない少女の声が聞こえた。もっとも、『俺』はこの声の主を知っているんだがな……
『リト』と呼ばれた事には『俺』が行かなければならない。
「…………………………………。……行くか……」
まるで戦場にでも出撃するかの様な覚悟を決めた声で、俺はベットから立ち上がると、もう一度階段を――今度はゆっくり気を落ち着かせながら一段ずつ下りていく。飯を食いに行くにしては、いささか緊張しすぎているのは自分でもわかっていた。
ふと、過る。『俺』はもう名前で呼ばれる事など、ないんじゃないかって。
・・・♡・・・♡・・・
「おはよーリト」
その子はいつもと変わらないのだろう……色合いの暖かそうなパジャマの上からのエプロン姿と、朝の日差しにも負けないぐらいの明るい笑顔で、ダイニングキッチンに立っていた。
「お……おはよ」
それがすごく直視出来なくて、ぎこちなくそう返して彼女から視線をずらす俺。何か行動をして気を紛らわしたかったから、目についた冷蔵庫から牛乳を取り出して、ハムエッグとトースターが並べてあるテーブルの椅子へと座った。
思えば、他人の家……ではなく、一応ここは自分の家と言う事になるのだが、冷蔵庫を開けた時は、他人の家で失礼な事やってしまった罪悪感が、しっかりと自分に絡み付いた。身体は結城リトでも、心は相変わらずらしい。
だが、俺はそのわだかまりにかまっている暇はなかった。なぜなら……
「ふぅ、珍しいね、リトが早起きするなんて」
今、俺の目の前には超絶的な美少女が、こちらに笑顔を向けているからなのである。
この子の名前は『結城 美柑』。主人公、結城リトの『妹』である。特徴は毛先になるほど段々とバラバラにウェーブしていくその黒い髪。性格は見た目に反してしっかり者だ。エプロン姿に貫禄あるのは気のせいなのだろうか?
それにしても、『リト』…………。今、当たり前の様に呼ばれたが、俺は見た目が『結城リト』であって中身は違う。おまけに自覚も無い。それでも、彼女を騙している様な気分が、嫌でも感じる。
「リト……」
「え? 今なんか言った?」
ヤバい、声に出ていた様だ。とりあえず、彼女とのコミニュケーションのために、俺は焦りながらも『言い訳』と言う名の話を考える。
「いや……何かさ、リトって名前、結構変だなって思って……」
「朝からそんなコト考えてたの?」
しょうもなさそうな顔で俺を見てくる美柑。良かった。どうやら俺が演じているリトは、美柑の知っているリトと変わらないらしい。原作では二人っきりの時の話など、ほとんどなかったから、どうしようもなく不安だった。
俺は顔に出さず、一安心する。しかし、その心には当然の如く、モヤモヤと偽善の念が張り付いた。そして恐らく、これが外れる事はないのだと、瞬間的に悟った。
その後はお互いにハムエッグトーストを頬張りながら名前の話をしていた。俺の話を聞いて普通に笑う美柑はとても愛らしい。しかし、この笑顔は本来『結城リト』が見ているものなのだと思うと、それ以上に苦しかった。
俺はそれをなけなしの精神力で我慢した。今の俺に救いの手など、あるわけないのだから。
「そう言えば、リト?」
「ん?」
「朝、なんかすごい音が聞こえたんだけど……」
「あ、あぁ…………ちょっと寝惚けてて……階段から転げ落ちたんだ……」
「えぇ〜……リト、現実と妄想の区別ぐらいつけてよ〜。妹として恥ずかしいから」
「ハハハ…………ゴメン………」
そんな話をしながら、俺と美柑は朝食を綺麗に平らげた。
「ごちそうさまっ」
「俺も……」
「洗うよ、ホラ」
と、美柑は俺の持っていた皿をヒョイと取り、流しのシンクへと運んでいった。
「あぁ…………ありがと」
やる事がなくなってしまった。ここに座ったままは何だか嫌だったから、背中を向けて皿洗いを始めている美柑にそう言って、俺はキッチンから出た。ただその時、美柑が不思議そうな顔で俺を見ていた事には、気がつかなかった。
俺は階段を上り、自分の部屋……と言ってもまだ数時間程度しか経っていないリトの部屋なのだが、そこに戻ると再びベットの上へと寝っ転がった。そして、特に寝る事もなく、ただただ天上を見た。眠くはなかった。
「………美柑……可愛かったな……」
小学生相手に少々危険な事も考えながら、俺は自分のやるべき事を頭の中で整理する。もし、この世界が本当に夢でなかったら、俺はこの先ずっと『結城リト』として生きていかねばならないのだから。
では今、俺が優先的にやらなければならない事。それは結城リトの通う学校『彩南高校』を探し出さなくてはならないという事だ。今日は日曜であって、明日は間違いなく学校である。遅刻を覚悟で探すなんて色々と危険すぎる。
この状況を見て実感して察するに、どうやら今は原作開始時よりも前の時間なのだろう。折角日曜日に来れたのだから(別に好きでこの世界に来た訳ではないのだが……)ひと通り、見て回った方が良いかもしれない。彩南町の商店街とか、少し興味はあるし。
「動くか……」
俺はベットから跳ね起き、備え付けのクローゼットだろう扉を開けた。
そして、俺はそこでしばし感動した。なぜなら、その中にはリトが自分なりに考えたのであろう、おしゃれな洋服が綺麗に収納されていたからなのである。
思い出せば、リトの服装は結構格好良かった気がする。今はもう見る事はできないが、目の前に並んである服が彼の優れた美的センスをしっかりと証明してくれた。
俺はクローゼットから適当な服を引っ張り出して、着替える。当たり前だがサイズはぴったりで、別に変なニオイなどしない。それどころか、優しい洗剤と太陽の香りがする。美柑が洗っているのだろう。凄いな。
少しだけ気分は和らいだ。俺はクローゼットを閉めると、リトの物だった黒いバッグを肩にかけ、さっきよりも全然軽く感じる足取りで、階段を下りていった。
居間では美柑がテレビを見ていた。髪の毛は頭の上のやや後ろ側で纏め、服装もパジャマではなく、ユルそうな部屋着へと変わっている。
さすがに何も言わないまま家を出るわけにはいかないので、俺は彼女に声をかける事にした。が…………少し躊躇する…………と言うか、段々緊張してきた。普通に『美柑』って言えばいいのだが、あって間もない彼女を名前、しかも呼び捨てにするなんて少々気が引ける。少なくとも、今の精神状態のままでやる事じゃない。
だが、このままでは何も出来ない。だから意を決して美柑に声をかけた。
「みっ、美柑……俺……出かけてくる」
「えっ、ドコまで?」
俺の方へ顔を向け、驚いた様な表情で俺を見てくる美柑。そこを聞いてくるのか、と内心焦りながら何て返そうかと俺は考える。もちろん、自分の学校探してくるなんて口が裂けても言えるわけがないし、ただ日曜日に学校へ向かう理由も早々考えつくものでもない。
「ちょっ、ちょっとそこら辺……?」
「なんで疑問系なのよ……」
ジト目で俺を見る美柑。可愛いちゃ可愛いが、いかせん気分は晴れない。
やっぱりマズかったかと思っていたら、彼女は「まぁいーや」と、のんびりした口調でテーブルの上に置いてあったエコバッグを俺に渡してきた。
「ついでだから朝市の買い物行ってきて。中にメモと財布入ってるから」
「……わかった」
どうやら、そういう事らしい。個人的な目的でもあったのだが、別に買い物系統の場所へ寄る予定もあったし、なにより『美柑』の頼みである。『結城リト』なら間違いなく引き受けると思ったから、俺は素直に彼女のバッグを受け取った。
「いってらっしゃーい」と言う美柑の声に、「いってきまーす」とおうむ返しみたいな挨拶を返して玄関に向かう。段差に座り、絶対にリトの物だろう、黒に赤色の模様が入ったスポーツシューズに足を突っ込んだ。
うん、ぴったし。間違いなく彼の物。
ゆっくりと玄関を開けて外へ出ると、太陽の光が自分をめいいっぱいに照らしてくれた。大きく背伸びをして、ついでに大きくあくびもして、俺はふと横を見る。視線の先には名前もわからない、様々な植物が植えられた植木鉢が並んでいた。
この『結城リト』の趣味の中に、『植物の水やり』というものがある。彼の家は植物などが多いのだが、親は滅多に帰らず、妹は家事全般をやっているため、自然にそう言う世話は彼がやる様になったらしい。
ちなみにヒロインの西連寺春奈曰く、それはリトの優しさだそうだ。
まぁ、俺には知ったこっちゃないけどな……
と、考え事をしていた自分自身にツッコミをいれ、俺は庭へと向かう。結局、俺が結城リトなのだから、俺がやるしかないのだ。
ふむ、パッと見渡すと数はあるが、多いってほどでもなさそうだ。俺は庭の水道にシャワーのホースを繋ぎ、植木鉢の束に向けて水を撒いた。
太陽に照らされてキラキラと輝く水は、俺に虹を見せて植物達へと落ちていく。結構綺麗な光景だ。
水の加減なんか知らないが、こんなもん……だよな?
蛇口を閉め、水を出し切ってホースを軽く丸めると、元のあった場所へと置き直す。さて、今度こそ行くか……
俺は近くに置いておいたバックを手に取り、見慣れない町を歩き出す。途中、何度か振り返り、帰り道を確認した。迷子とか、シャレにならない。
「いけね、っ」
俺は美柑の言葉を思い出し、バックから彼女の書いた買い物のメモを確認した。年相応の可愛らしい文字が、白紙の上に書き連ねてある。
人参、キャベツ、ジャガイモ……重い物ばっかだな……
腕時計は9時半ぐらいの所を指している。このあまりにも無謀な冒険が、どうか2時間程度で終わりますようにと祈りながら、俺は知らない道を歩いて行った。
・・・♡・・・♡・・・
「た……ただいまー」
俺は結城家の玄関を開けて挨拶をした。慣れてない様な雰囲気が出ているのは自分でもわかる。まぁ……これからなんとでもなるだろう。
そんな事を思っていると、足音を立てて美柑が俺を迎えてくれた。
「お帰りぃー」
「み、美柑……ほら……」
俺は買い物袋が入ってずっしりと重くなったエコバッグを美柑に渡した。
「ありがと♪」
美柑は笑顔でバッグを両手で受け取り、中身を確認すると、更に俺へ呼びかける。
「リトー、お昼焼きそばでいい?」
「ん……あぁ……」
焼きそばは好きでも嫌いでもないのだが、美柑の作る物だからきっと美味しいのだろう。少なくとも不味くはないと思っている。
過剰な期待しているだろうか?
「……っと」
俺はある事を思い出し、慌てて携帯電話の時間を確認した。
12時21分。3時間ぐらい出かけていた様だ。1時間オーバーか。
話がズレた。ここに帰ってくるまで何をしたのかと言うと、俺は『彩南高校』を探す間に買い物を済ませ、なんとか学校を見つけた後は、時間を見ながら家まで帰ってきたのだ。
学校から家に帰るまで、ほぼ30分くらい。学校は8時半ぐらいまでには教室に座っていなければならないのだから、7時45分ぐらいには家を出なきゃならない。とすると、起きるなら7時前後となる。
「楽なスケジュールだな……」
俺は携帯をしまいながら、美柑の歩いていったキッチンへと向かう。彼女はもう焼きそばの準備を始めていた。
「あれ、どうしたのリト?」
朝も見たエプロン姿の美柑がこちらを見て不思議そうな顔をしている。
リトの奴、暇なら美柑の手伝いくらいしなかったのだろうか……
「あ、いや、暇だから手伝おうかと思って……」
「え!? リ、リト……あんた料理ヘタじゃなかった?」
しまった。そう言えばそうだった。コイツは病人食作るのも下手糞だった事を、俺は今になって思い出した。
「あぁ、そうだったな……ゴメン……」
手伝いは諦めるか……と俺は美柑に謝ってキッチンから出て行こうとしたのだが、その行動を起こす前に、彼女は俺の服の裾を掴んでいた。
「いいよリト。野菜切るの手伝って」
視線を戻すと、嬉しそうに真っ白な歯を見せて笑う美柑。ただ、その笑顔は少し小悪魔っぽい。俺が失敗する事を予想しているのだろうか?
断る理由もない俺は、彼女と二人で仲良くキッチンに並ぶ事となった。
因みに、キャベツの白い部分を、細かく切って捨てていたら美柑に怒られた。「好き嫌いしないのっ!」って。
美柑って妹と言うよりか、姉……もしくは母親に近いモノを持っているのでは? リトが妹に弱いのも、わからなくはなかった。
そんなこんなで焼きそばを完成させた俺達二人。美柑に「まえに包丁持たせたときは10か所ぐらいケガしてたのに……」と言われたが。「いつまでも下手じゃいられない」と言ったら笑われた。どうやら生意気に見られたらしい。
ともかく、俺と美柑は皿に盛った焼きそばを運び、テーブルの椅子へと座った。そして、朝食の時と同じ様に手を合わせた。
「いっただきまーす」
「いただきます……」
箸で焼きそばを頬張る。うん美味い。焼き加減なんか丁度良い。そう言えば、包丁持ったの久しぶりにしては上手く切れたな……
「うん! リトがつくったにしては中々……」
「いやいや、焼いたのは美柑だろ……」
と、そんなしょーもない話をしながら俺は焼きそばを頬張りつつ、別の事を考えていた。
とりあえず、飯を食い終わった後は俺の部屋、もといリトの部屋の家宅捜索を始めよう。こんな事態になってしまった以上、俺は彼の事をもっと深く知らなければならない。もしも今前で食事をしている美柑や、これから出会うリトの事を知っているキャラクター達に、彼と矛盾した事など話してしまっては、目も当てられない。
彼の嗜好や趣味。学校の通信簿とか、アルバムなども見た方が良いのかもしれないのだが、この広い家のどこにあるのかなんざわからないから、後回しにするとして……
「どうしたの?」
気が付くと、美柑がまた不思議そうな顔をして俺の顔を見ていた。いつの間にか考え事に没頭していた様だ。
反射的に、俺は変な声が出た。
「うぇ!?」
「うぇって……。なんかリト、難しい顔してた」
そう言って俺を見てくる美柑。得に言い訳も見つからなかったので、ここは話を逸らす事にした。
「難しい顔って……こんな顔?」
少しだけユルい変顔をしてみた。ゴメン、リト……
「ぶっ! ちょっと〜、食べてるのに笑わせないでよー。クスクス」
あっ、笑った。やっぱり可愛いな……
日曜の静かなお昼過ぎ、聞こえるのは俺と美柑の笑い声。
平和である。平和すぎるぐらいだ。これ何の漫画だったか忘れそうなほどだった。もう、ララとか来なくていいんじゃね? とか思ってしまったがそうもいかないのだろう。
早ければ明日から、リトの……いや、俺の……ToLOVEるを抱えた毎日が始まる。
だから、それまではこの時間を大切にしようと、いつの間にか俺は美柑を笑わす事に専念していた。
「はー、笑った笑った」
「もー…………黙っていればカッコいいのに……」
「え? 今何か言っt、
俺がそこまで言った時だった。
ガチャガチャ、キィィ バタン!
ついさっき聞いた事のある音がした。数分前の俺と同じ、今のは玄関の扉が開いて閉まる音だ。「何だ?」と俺の言葉が発する前に、ソイツは軽いのか重いのかよくわからない足取りで俺達のいるダイニングキッチンの前へやってくると、ドアをバン! と強く開いた。
「ようリト!! 美柑!! 元気にしてたか!!?」
「おっ、お父さん!?」
現れたのは結城リトとよく似た髪型に、うっすらと見える男らしい無精髭。額には墨汁の太い字で『大漁』と書かれた白い鉢巻きをしたおっさん。今の美柑の言った台詞からして間違いないだろう。
「お、オヤジ……?」
そう、この元気の良い、もとい暑苦しい人物こそリトの父『結城才培』。連載中の作品を三本も持っている、凄い漫画家だ。
イヤ、本当に凄いと思うぞ。三本って……化け物かよ……。まぁ、そのせいで家に帰って来る事は滅多にないらしいのだが。
と、そんな事を思い返している内に、いつの間にか俺は焼きそばを奪われ、話も進んでいた。
「……というワケだ!! リト、お前も手伝え!! 小遣いを止められたくなかったらな!!!」
前半は全く聞いていなかったが、この人の言う手伝いなんてひとつしかない。漫画の手伝いである。上記の言葉通り、断ると小遣いが止められるし、リトがこの人の言う事を断るとは思えないので、俺に選択肢は一択しかない。
だがそのまえに……
「とりあえず焼きそばを返せ!」
「おっ、やるのか!? お前も遂に反抗期に突入したか〜!! ガハハハハ!!」
ハァ……何だか酷く疲れてきた……
何とか焼きそばを取り返し、俺はほとんど残っていない皿の上をかき込むと、椅子から立ち上がった。
「おし!! 行くぞリト!!」
そう言って栽培は俺のコップの水を一気飲みして、先に外へと行ってしまった。いちいち声がデカいんだよ、このオッサン……
て、ヤバいヤバい。見失うと色々と面倒な事になる。俺も急いでコップに水を注ぎ込むと、口の中を流し込む。
服は…………このままでいいや。
「じゃあ美柑……行ってくる……」
「ふふ、いってらっしゃーい」
面白そうに、少しだけ寂しそうに手を振る美柑に手を振り返し、俺は玄関へと走った。
靴に履き替え外に出ると、栽培が仁王立ちで道の真ん中に立っていた。あの……一応、ここ道路なんだけど……
「よし!」
「よし」って……何が『よし』なんだよ……。おい、まさか……と俺が考えるよりも早く、栽培は背を向けて走り始めたのだ。それはもう、物凄いスピードで。
「走れぇリト!! 俺についてこい!!!」
「ああぁ!! ったく!」
彼の声に負けないぐらいのうだる様な声を上げ、爆走する栽培を追う俺。
ララが居なくてもリトはToLOVEるの毎日なんだな……と、全力疾走で走る中、俺は感慨深く思っていた。
・・・♡・・・♡・・・
「たっ……ただ、いま……」
「お、お帰り……だいじょうぶ?」
「な……何とか……」
美柑が心配そうに声を掛けてくれているが、結構ヤバい。まず、栽培……あぁ、もうオヤジでいいだろう……。まず、オヤジの仕事場に行くのに、フルスロットルで数キロ走った気がした。
その後、着いたら着いたでみっちりと扱き使われ、終わった後に再び帰り道、数キロを歩いたのである。
因みに、なぜ俺が漫画の手伝いが出来たのかと言うと、俺の友達に漫画を書いてたやつがいたので、俺も一緒に手伝っていたからなのだ。家も近かったし。
思い出してほしい。宇宙人達にも手伝わせるくらいだぞ?(彼らも、最初は好きで手伝っていたわけではなかった様だが……)俺が手伝わされたのは、簡単な物がほとんどだった。
それでも辛い事に変わりはない。気が付けばもう8時。すっかり予定が狂ってしまった。美柑はもう晩ご飯は食べたのだろうと思ったのだが、そうでもないらしい。
「リト、今日はリトの好きなからあげだよ」
そう言えばアイツ、好物が唐揚げだったな。
「……本当に?」
「おフロわかしてあるから、さき入ってて。その間に作っちゃうから」
ニッと笑う美柑。リト、お前……幸せ者だな……
……どうしてこんな事になっちまってるんだよ……
とにかく、今は美柑の厚意に甘えて、風呂に入る事にした。
脱衣所に持ってきた着る服をそこら辺に置き、脱いだ服を洗濯機に中に放り込む。そして小さめのタオルを一枚持って、俺は結城家の風呂場へとお邪魔した。
シャワーで体を洗い流し…………この場面は必要ないだろう。男のバスタイムなんぞ誰得、と思ったのでここは少し省略する。
ひとつだけ言うとするなら、他人の家の風呂場に入ると、シャンプーはどれを使えば良いのかわからなくなる。そう言う状況に俺は陥っていたのだ。
その後、風呂から上がった俺は、またしょーもない話をしながら、美柑の揚げた唐揚げをおかずにご飯を食べた。
あっ、美柑の揚げた唐揚げは、今まで食べていた唐揚げよりダントツで美味かった。何と言うか、揚げ加減が絶妙。思わず「美味しい」って口に出したら、笑われた。
ダメだな俺……この世界を……すっかり楽しんでやがる……
『結城リト』は許してくれるだろうか。問い尋ねる事も出来ない心の片隅で、そんな思いが回転を続けていた。
・・・♡・・・♡・・・
飯も食った。歯も磨いた。気が付いたら9時を過ぎていた。だが今、俺はリトの部屋を探索している。オヤジのおかげでほとんど時間が無くなってしまったので、俺は片付けの楽そうなものを漁っていった。彼の事を知るために。
見つかった彼の物は、ゲーム、教科書、その他諸々等、時間割表を見つけられたのはラッキーだったが、少し散らかってしまった。まぁ、問題ないだろう。この程度なら片付けは簡単だ。
で、今、そのゲームでリトのデータを見ていたのだが。
「……リ、リト……お、お前……『アカム』も『ウカム』も倒してんのかよ……」
前の世界で俺がやっていたゲームと同じ様な物を見つけた。某、あの有名すぎる『アレ』だ。見た目は少し違っていたがパッケージに『狩魂』って書いてある辺り、アレで間違いないだろう。『アレ』である。
そのデータを見ていて俺は感動していたのだ。すげぇよリト。ゲーム得意は伊達ではないらしい。
そんなこんなでリトのデータを閲覧している内に、時計の針はもう11時を指していた。さすがに初日で遅刻は勘弁したい(と言ってもリトは普通に登校してたと思うが…) 何だか、小学校低学年の頃の遠足の前日みたいな気分を思い出した。
そんな不安を背負いながら俺は周りの物を片付けて、リトの学校用の鞄に明日使うであろう教科書類を入れ、部屋の電気を消した。そして窓の外からの明かりを辿って、ベットへと潜り込む。
「…………………………」
当然の如く、眠れない。
色々な事があった。ありすぎた、と言った方が正しいかもしれない。不安は俺から溢れそうで、正直、大声を上げて泣き出してしまいたかった。
もし、ここで寝て。目が覚めたらどうなるのだろう。全て元に戻るのだろうか……? それとも……
そんな難しい事を考えている内に、俺はいつの間にか眠りについてしまった。