「この課題、本当にこれで合っているのか?」
「警備じゃないんだよね?」
古い木組みの街並みの通りの一角に着いた時、マキアスとエリオット君がもう一度確認するようにアリサに訊ねる。
夜間警邏、街道警備、空港警備と来たら、普通に考えれば次は港湾警備だろう。そんな少しネガティブな目星を付けていた私達だが、アリサの手に取る最後の一枚となった課題の紙には、予想とは全く異なる内容が記されていたのだ。
「流石に課題の間違いはないと思うけど……最後の良心、かしらね?」
「ま、楽できそうでなにより」
「確かにそうだな。ほらよ、とっとと入ろうぜ」
微妙にまだ半信半疑な様子のアリサだが、フィーとクロウ先輩は暢気なものである。
”釣公師団”。聞き覚えは無いけど、やっている事は丸わかりな看板を掲げた建物へと私達は足を踏み入れた。
「あぁ、待ってました!」
目を輝かせて出迎えてくれたのは、この釣り愛好家団体の支部長。今回の依頼人として、私達がこの街でこなす最後の課題を説明してくれる。
課題『釣り場のテスト』の依頼内容は、この団体が見つけた初心者向けの釣り場を、私達に試してほしいという事らしい。また、嬉しい事に釣れたお魚は報酬を兼ねて、この釣公師団で料理してくれるとのことだ。
晩ご飯まで用意してくれるなんて、かなり良心的な依頼である。
釣りの経験が殆どないアリサ達四人が団員の人から簡単なレクチャーを団員の人から受ける事となる中、『初心者向け』という依頼の趣旨から、それなりに経験があるらしいクロウ先輩と少し齧ったことがある私がペアとなる事が早々に決まってしまった。
個人的には少々不本意に思いながらも、そういう依頼だからと言われてしまえば仕方がない。レクチャーを受けなくて良いのと、何かあっても先輩に任せられる事を考えれば、かなり楽な立場かも知れない。
部屋の奥ではマキアスとエリオット君が竿や漁具の取り回しに手間取っていて、まだまだ時間が掛かりそう。持ち前の容量の良さであっさりと習得したフィーは、二人にアドバイスをしているみたい。ちなみに、先程からどこかやる気に溢れるアリサは、興味津々といった様子で団員の人に色々訊ねている。
きっとアリサはリィンの事でも考えたに違いない。想い人の趣味を知る事は、大きな武器になるから。
まったく、お嬢様は乙女で可愛いんだからぁ。
そんなB班の他の面々を待ってる間、私はブリオニア島で貰ったある物を思い出した。
「そういえば、私、こんな物ありますよ」
リュックから古風な手帳を取り出して支部長へ差し出す。ブリオニア島の老紳士と一緒に釣った、大きなあのサモーナの釣果しか記録されていない”釣人手帖”だけど、意外な所で役に立ってくれるのかもしれない。
「へぇ、お前さん、そんな良いもん持ってんのか」
「おぉ、釣り手帳ですか! やはり名誉支部長の紹介なだけはありますな!」
感心感心と、ご機嫌な様子で私の手帳を受け取ってくれた。
「ふむ……これは見たこともない位古い釣り手帳だ……む……レ、レイクロードだと!?」
温厚に私達に接してくれていた筈の支部長が、突然血相を変える。
「き、君! これはなにかね!? まさか、また私達を追い出そうとするつもりなのか!?」
そして、私は訳も分からないまま、どこか怯えの混じる激しい怒りの矛先を向けられていた。
・・・
「いや、それにしても笑ったな」
「私にとっては全然笑えないんですけど」
あらぬ疑いを掛けられた挙句、いわれのない敵視を向けられた私にとっては迷惑極まりない。
アリサとマキアスのお陰で誤解はすぐに解けたけど、それでも私は敵対する団体の関係者ということで、釣公師団の支部の中にいた団員から中々冷ややかな目で見られたし、釣り竿の貸し出しも少し渋られた位だ。
なんでも、数年前にこの街から釣公師団を追い出そうと、釣皇倶楽部が悪巧みをした事があるらしいのだ。また、クロスベス州では今月支部が乗っ取られて大変な事になっているのだとか。
「でもまあ、まさか、あの将軍が《釣将》とか呼ばれてたなんてなぁ」
なんとこの課題を斡旋したのは、他でもないあの副総督閣下で、その閣下は釣公師団の団員であると共に、数年前に支部を守った功績からこの街の支部の名誉支部長になっているんだとか。
十二年前に入団されてから軍務の傍らで磨いた腕とコツコツ積み上げられた実績は支部の誇り、とか依頼人の支部長は熱く誇らしげに語ってはいたけど、眉唾物である。
「なんというか、人は見た目によらないってことですね」
「ヌシ釣りの為に、戦車の大砲を竿代わりにして一台海に沈めたって話は傑作だったな」
「アレ、いくらなんでも冗談ですよね……?」
ある意味で、最高級の竿を使った事にはなりそうだけど。沈めたなら餌も最高級か。帝国の国防予算の無駄の一片を見てしまった気がする。まぁ、帝国政府に納税する帝都市民ならいざ知らず、サザーラント州民の私からすれば直接的には無関係だけど。
「でも、なんで釣公師団の方に入ってるんでしょうね。副総督は帝国人ですし、レイクロード社後援の”釣皇倶楽部”の方が身近そうですけど」
釣公師団は外国の団体で、帝国では余り活動していないらしいのに。
「そりゃぁ……貴族嫌いだからだろ?」
「あぁ……」
なんて身も蓋もない。
だけど、帝国を二分する二大派閥の対立は、こんな所にも顔を見せる。
いまはまだ政治家や軍人の間の対立が主だけど、帝都で思い知った様に徐々に一般市民の間でも対立は先鋭化してきている。これが行きつく所まで深まれば……。
そんな、背筋が寒くなるぞっとしない考えが、ふと浮かんでしまっていた。
港長の話に出た西の高台にある高級住宅街とは、あの辺りの事なのだろうか。
ここから坂道に沿う街並みは、旧市街とはまた違って気品溢れる雰囲気で、家屋の一つ一つは屋敷といっても良い位の大きさだ。
ただ、それらの多くには明かりが灯されておらず、通りの先には殆んど人気は無くて、ひっそりと静まり返っていた。
私の前を歩く先輩の足が止まる。
「どうしたんですか?」
「ちょっと寄っていかないか」
先輩の視線の先にあったのは、古い石造りの教会だった。こじんまりとした雰囲気が、なんとなく私の故郷の礼拝堂のような懐かしさを感じさせる。
「遂に日頃の行いへの懺悔でもするつもりですか?」
「……それにはまだ早ぇな」
「え?」
いつもの面白い反応を期待した私の冗談だったが、返って来たのは全く違う言葉。神妙な顔つきで呟いた先輩に、思わず聞き返してしまう。
「なんてな。ここは一つ、女神に大漁祈願といこうぜ」
「もう……バチあたりですよ」
軽い調子で古い教会へと入っていく先輩の背中を、少し遅れて私は追った。
なんというかもう慣れっこだ。特別実習が始まった昨日から、こうやって振り回されてばっかりなのだから。
人影の疎らな夕方の礼拝堂に入ってすぐ、私がちょっと目を離した隙に、またもや勝手に先輩はどっか行ってしまった。流石に懺悔の為に告解室に入った訳ではないみたいだけど、反対の意味で期待を裏切らない相変わらずな先輩である。
礼拝堂に居合わせた高齢の神父様と少し話した私は、彼の勧めに従って教会の裏手の墓地へと足を運ぶ。
どうせそんな遠くには行っていないのだろうし、その内に通信でもくれるだろう。
夕日で橙色に染まる芝生の中に墓標が並ぶ墓地は思ったより広かったが、それでも神父様が仰った場所はすぐに見つかった。
墓地の一角に建つ、頂点が四角錐となった記念碑の様な小さな石柱。その脇には見慣れた祖国の国旗と軍旗が掲げられている。
”エレボニア帝国軍・北西動乱戦没者慰霊碑”。
”祖国の安定と守護の為にこの地に貢献し眠る全てのエレボニアの兵に捧げる”――エレボニア帝国皇太子ユーゲント・ライゼ・アルノール。
刻まれている碑文が、私の生まれる前の出来事だと伝える。きっと、これは二十年以上前の戦いの事を指しているのだ。
横から伸びた影法師。
私には、その影が誰のものであるか、すぐに分かった。
「もう、今度はどこに行っていたんですか」
「わりぃ、わりぃ。ちょっくら、挨拶がてら誓ったのさ」
「……大漁を女神様に?」
普通なら絶対冗談だと思うけど、この先輩はあろうことかギャンブルでさえ女神に願掛けしたりするのだ。実際に晩ご飯の為に大漁を祈ったとしても不思議じゃない。
だけど、何故か返事が帰って来るまでには、少しの間が空いた。
「……んま、そんなとこだな」
「ほんと、バチ当たっても知らないですよ?」
「ま、その内当たるだろうな」
わかっているなら、日頃の行いを正せばいいのに。
相変わらずの先輩には呆れたくもなるけど、冗談めいた掛け合いは悪い気はしない。
・・・
今はもう使われていないらしい、旧港の古びた埠頭の先。大分伸びた私の髪を撫でる潮風と暖かい左頬から照らす夕日。
埠頭の地べたに腰を下ろし、海に足を投げ出す。湾内の穏やかな波の満ち引きのリズムが心地よくて、ついつい合わせて脚を動かしてしまう。子供染みているけど、これが意外と楽しくて続く。
私が握る釣り竿から垂れる糸は、未だ微動だにしない。
小さな波音に混じって聞こえてくる、こちらに近付いてくる靴音。他の釣り場を見に行っていた相方が意外と早く戻って来てくれた事に、少し嬉しさを感じてしまう。
「調子はどうだ?」
「ダメダメでーす」
私の返事に小気味良く笑う先輩。
「ほらよっ」
そんな声と共に頬っぺたに押し付けられたのは、温かい紙包みだった。
「へっ?」
「さっき、『腹減った~』って言ってたろ」
「わっ、ハンバーガー?」
包み紙を開けて、私に見える様に目の前に持って来てくれる。出来たてを感じさせるいい匂いが鼻をくすぐった。
ハンバーガーは私の地元の様な田舎ではあまり食べられる料理でもないが、手軽な食事として帝都や都市部では流行っているらしい。なんというか、田舎者にとってはどこかクールな都会を感じちゃう料理だ。
「そこらで安く売ってたからよ。オレ様の奢りだぜ」
冷えた飲み物の瓶を片手に、自慢気なウインクを決めてくる先輩。釣り竿をスタンドに立てて、先輩の買ってきてくれたハンバーガーを受け取ると、両手から心地よい温もりが伝わる。
「……本当に懺悔したんですか?」
「おいおい、なんだその反応は。もっと喜べよ」
先輩はそう言って、私に視線でそれを食べる様に促した。
だって、借金まみれな挙句、五十ミラすらまだリィンに返してないあの先輩が、私に奢ってくれるなんて。
思ってもみなかった嬉しいプレゼント。その端っこを、少し遠慮がちに口にした。
「……おいしいです」
あぁ、ハンバーグじゃなくて白身魚のフライなんだ。思ったよりあっさりとした中身と甘酸っぱいソースが合っていてとても美味しい。
「そうか、気に入って貰えて良かったぜ」
どこか嬉しそうに微笑んでから、私のと同じバーガーを頬張る先輩。
「なんでも、”フィッシュバーガー”っていうジュライの名物らしいぜ?」
漁業が盛んな街らしい名物だと思う。朝ご飯を食べたカジノ併設のカフェのメニューにもあったのかな。
適当なトーストセットで終わらしてしまった朝ご飯への後悔のか、はたまたこのフィッシュバーガーが美味し過ぎたせいか、ついつい思いっきりかぶり付いてしまっていた。
「クク、いい食いっぷりじぇねぇか」
思わずフィッシュバーガーの包む紙で口元を隠す。
「……あんまり、そういうの言わないでくださいよ」
何も考えずにがっついて食べてしまった私が悪いのかも知れないけど、そういう事言われると『はしたない』って言外に指摘されたみたいで恥ずかしい。
きっとアリサなら、もっとお上品に食べたんだろうなぁ。
「こうしてると昔を思い出します」
船が停泊するときに使われていただろう係留杭に座って、まだ見ぬ魚との我慢比べに勤しむ先輩の姿に、懐かしい記憶が重なる。
「奇遇だな。お前さんもか」
「先輩もですか?」
そう訊ねた私に、先輩は「ああ」と頷く。
「爺さんが釣り好きでな。まぁ、よく連れてかれたもんさ」
「へぇ、クロウ先輩、おじいちゃんっ子だったんですね」
「……まぁな」
懐かしそうに頬を緩める先輩の視線は、湾の外の遠い水平線に向けられていた。
そんな先輩の横顔に、なんとなく私も胸が暖かくなる。
「ところで、お前さんも釣りをするなんて意外だったぜ」
「いまみたいに隣で見ているだけだったんですけどね。懐かしいなぁ」
日々の色々な事に迷って悩んでいた筈のあの頃が、今思えば嘘の様に平穏な日々に思える。
ただ、それは多分、今だからそう思えるだけ。
「あぁ、あの領邦軍の幼馴染って奴か」
「先輩に言いましたっけ?」
「いんや、ゼリカの奴からな」
あぁ、納得だ。アンゼリカ先輩は帝都に私を連れ出してくれた位だし、失恋の相手についても誰かの話伝に聞いていたのだろう。
「つい三年前までは、毎日朝から晩まで一緒に居たんですよ。まるで今の先輩や、Ⅶ組のみんなみたいに」
日曜学校に通うのも一緒だった。彼が店の手伝いをしていた頃は、向かい同士で駄弁りながら店番したものだ。
本当に……なんて、懐かしいんだろう。
「なんとなく、先輩に似てるんです。自分勝手で……いっつも私の事、振り回す辺りとか」
士官学院に来てすぐ、まだ私が片思いしていた頃から感じていた事だ。その時は、想い人とこのダメな先輩を一緒にしたくは無かったけど、恋の終わった今は冷静に分析することが出来ていた。その結論といえば、本当にそっくり過ぎて私も呆れたくなるくらいだ。
「へぇ」
視線はそのままで先輩は相槌を打つ。
「そういえば……彼とは違うんですけど、昔、本当に小さかった時に遊んで貰った、近くの村のお兄さんも先輩に似てました」
当時の私より少し大きかった黒髪の男の子とそのお姉さんを連れて、よく村に来ていたあのお兄さん。彼の髪は先輩と似た綺麗な色だった。
小さい頃の思い出に流れる《星の在り処》のハーモニカの音色がとても懐かしい。あの人の名前はなんていうんだろう――お母さんもお父さんも、みんなが居た頃の記憶の一番最初のページ。
ま、もっとも、クロウ先輩より間違いなく良い人なのは確かだろう。先輩なんか、フレールと一緒のちゃらんぽらん野郎だから。
あの頃、今の私と同じぐらいだったから、今はもうサラ教官よりちょっと上の筈。あの綺麗なお姉さんと、もう結婚してるのかな。
ただ、今となっては朧げな記憶だが、ある頃を境にぱったりと彼らは姿を消してしまう。急な事情で街に出たのか、それとも――。
丁度、その頃の筈だ。山火事と村で傭兵達絡みの騒ぎがあったのも、戦争があったのも――隣村が大災害で流されてしまったのも。
考え過ぎかも知れないけど……。
「故郷か……」
漣の海に垂れる糸に目を落としていた先輩が、ふと顔を上げて私の方を向いた。
いや、正確には私の向こうだ。丁度、西に落ちる夕日の影に沈む、教会のあった高台。
「なぁ、お前さん。北西準州で生まれたって言ってたが、元はどこの国だったんだ?」
「アンブルテールという国、自治州だったみたいです」
アンブルテール。その名の通り、ノーザンブリアと関係があるのだろう。古くはノーザンブリアの大公家に連なる王族が治める国だったらしい。
「ということは……お前さんは、あの戦争で帝国に逃れたのか」
逃れた?
先輩の良く分からない問いに、思わず首を傾げてしまった。
「えっと……その……」
「おっと、わりぃ。こういうのは無しだよな」
一体何のことを言っているのか、聞かれているのか私が考えてると、何を勘違いしたのか先輩に一方的に謝られてしまう。その挙句、どことなく気を遣われているみたいだった。
なんか、噛み合っていない。
「そういえば、昨日のお前さんにしては真面目に考えていた――この街が併合された理由、だったか。答えは出たか?」
私にしてはっていうのはちょっと余計だ。昨日の夜はあんまり真面目に聞いてくれなかったのに。
「一応は」
「聞かせてくれよ」
「良いですけど、レポートでパクらないでくださいね?」
口ではそんな事を言ってはみるけど、本当は先輩に聞いて欲しかった事だ。なんだかんだいって頭が良くって、色々な事を知っているから。
「へいへい」
そんな軽い調子は、次に私が口を開いた時には消え失せる。
私がこの街が帝国になった経緯とその背景を語る間、先輩は何一つ口を挟むことなく、ただただ対岸の新港をずっと見つめていた。
「――そうか」
驚く訳でも、感心する訳でも無く、先輩は感情すら表すことなくそう呟いた。
驚かないってことは、知ってたって事なのかな。
「それで、お前さんは――このジュライと同じ様に、生まれ故郷を併合した帝国を――《鉄血宰相》をどう思う?」
そう私に問いかけた先輩の視線は鋭く、何を考えているのか読めない真剣な表情に少しの怖さを感じた。
その赤い瞳に吸い込まれた様に私は目を動かせず、言葉のない私達の間の波音が急に荒々しく聞こえる。
そして、一瞬だけ何かに触れた気がした。
「……あまりに、強引だと思います」
もしかしたら、オズボーン宰相がラマール州に対してやった事を、故郷のサザーラント州に対しても行われているのではないかと思ってしまったから。
でも、それは根拠も無いただの憶測に過ぎない。そんな事より、私がこの街を訪れて実際に見聞きした事実の方が重要だと思った。
「それでも、編入されてこんなに発展しているジュライ特区を見ると、オズボーン宰相は間違ってはいないって感じました。だって、住民の方達も暮らしが良くなったって歓迎しているじゃないですか」
「心の内じゃ何を思ってるかなんてわからねぇぞ。それに、自分の国を失って気分がいい奴はいないだろ」
確かに、先輩の言っている事はもっともだ。万が一にもあり得ないが、もし帝国がどこかの国に併合されてしまったら。例え仮にそうなっても、私は死ぬまで帝国民である事を捨てない筈だ。
「そう言う意味で、聞いてみてぇと思っていた。帝国じゃない”外国”で生まれた、お前さんにな」
その時、やっと私はかみ合わなかった理由が分かった。
「ふふっ、おかしな事を聞きますね、先輩」
先輩はとっても大きな勘違いしている。
それは気遣いなのか、はたまたお節介なのか、それとも好奇心なのかは分からなかったけど。先輩の真剣な顔が、逆に可笑しくなってしまう位のでかい勘違いだ。
「生まれ故郷っていっても、私はずっと軍の基地の中だったんです」
生まれたのも、育ったのも、北西に駐留していた帝国軍の基地。鉄条網のフェンス越しに近くの街はよく見たし、お母さんに抱っこされてお買い物をした事もあるかも知れない。それでも、あの時の私にとってのお家は軍の基地の中にある官舎だった。
「それに、すぐにお父さんの実家のあるサザーラントに移り住んだので、あんまり覚えていないんです」
私にとって本当の意味での”故郷”は、生まれたあの軍の基地ではない。私の故郷は、大好きなみんなの居る、お祖母ちゃんに育てられた、あの暖かい村なのだ。
「……なるほど。お前さんは、”エレボニア人”なんだな」
普段なら複雑に思ってもすぐに肯定しただろう。私にとって、これはとても大事な事だから。でも、先輩の真意がどこにあるのか分からなくて、すぐに言葉を出せなかった。
「……お母さんの事、言ってます?」
「いんや、そっちの意味じゃねぇんだが……そういえば、そうだったな」
先輩は今月からⅦ組に入ったから、今日初めて知った筈。
「ルーアン市長、だったか。リベール人は誇り高ぇな……ああはなれねぇ、心底そう思っちまったぜ」
「……確かに、そうですね」
先輩は空港での最後のやり取りをどこからか見ていたらしい。あの時のノーマン市長の言葉は、今も私の心に残る。
その時、私はクロウ先輩の何かに再び触れた気がした。
「わりぃ、変な事聞いたな。忘れてくれ」
そう言って再び穏やかな漣の海へと視線を戻した先輩は、「中々釣れねぇなぁ」とぼやく。
どうしてだろう。その姿に、私はそこはかとない不安を感じていた。
夕日は教会の向こうの高台へと既に沈み、薄暗くなった対岸の新港側には明かりが灯る。
どうも女神様は、先輩の願いを叶えてはくれないみたいだった。
・・・
坊主どころか丸坊主に終わった私とクロウ先輩のペアとは正反対に、他のペアはしっかりと釣果を上げてくれたお陰で、私達は釣公師団の支部長が腕を振るったジュライ風の魚料理にありつけた。
だけど、愉しい時間は長くは続かない。私達は明日の朝迄に帝都に戻り、午前中にはA班と合流して東部国境のガレリア要塞に到着しなくてはいけないのだ。
東部国境に近いレグラムで実習を行っているA班は実習地での二泊で問題ないのだが、帝国の反対側の北西に来ている私達はそうはいかない。なんていったって、ジュライ特区から帝都までは約十時間掛かるのだ。その為、私達は今回、〝初めての列車”に乗る事となる。
夜行列車《ウェスタン・エクスプレス》。ジュライ特区と帝都を直通で結ぶ数少ない列車であると同時に、帝国国内で最高クラスの格を誇る寝台特急に私達は乗っていた。
「……もしそうだとしても、デリカシー無さ過ぎませんか?」
「わりぃわりぃ」
なんとなく、クロウ先輩の向かいの席に座る。
列車が走り出して三十分ほど。列車の中とは思えない程豪勢な内装の施された二人部屋の個室に一人じゃ落ち着かなくて、私は当てもなく夜の薄暗い車両の中を散策していた。みんな疲れているだろうから誰かの部屋の扉を叩く訳にもいかずに、ちょっと興味もあって隣の車両――”BAR”と金文字の入る扉を開けると、見知った顔が佇んでいたのだ。
お洒落なランプと窓からの月明りがぼんやりと照らす車内は、まさに大人の空間といった雰囲気。その中に完全に溶け込んでいる彼に、私はすぐに声を掛ける事が出来なかった。
先に言葉を声にしたのは向こう。
それも、先週の出来事をまたからかってきたのだ。大体、この総二人部屋の寝台列車の個室にはトイレがあるのに。
「それより……お酒はダメですよ」
「こんな高級列車、満喫しないのは損だろ?」
小ぶりなロックグラスで氷が浮かぶ琥珀色。否定もしない事から、もしかしなくても、お酒だろう。酒屋の娘の目には、値段も度数の高そうな蒸留酒に見える。
「……アリサ達にバレても知りませんからね」
アンゼリカ先輩に連れてかれた次の日のアリサは、それはもう鬼の形相だった。でもまぁ、相手がクロウ先輩なら彼女も呆れるだけだろうけど。
私の忠告なんて聞く耳すら持たない先輩は、ぼんやりと窓へと目を向けていた。
溜息を付いてから、私もつられる様に窓の外を見る。薄いガラスの向こうには、月が二つ。夜空に浮かぶ月と、夜海の中で揺れる月。
「――月が綺麗ですね」
「そうだな」
その横顔から、目が離せなかった。
「オレの顔に何か付いてるか?」
「いえ――」
何て言えばいいのか、少し分からなかった。
「――最近の先輩、ちょっと変だから」
「クク」
口角を上げ、どことなく自嘲的な薄ら笑い浮かべた先輩は、少しの間目を瞑る。
「一杯、付き合えよ。ゼリカの時みたいに潰れても、部屋まで担いでいってやるぜ」
ああ、やっぱりお酒なんだ。分かりきっていた事だし、帝国法では先輩は普通に飲める歳なのだから不思議では無いけど。
「そーゆーのは彼女さんとどうぞ」
「結構酷い事言うよな、お前さん」
軽口に軽口を返した私に、クロウ先輩は小さく頬を緩めてから、冗談っぽい不敵な笑みを作る。女の影どころか、気配すらない先輩にはよく効いた事だろう。
「前から思ってたんですけど、ちょっと不思議ですよね。先輩、ふつーに”顔は”格好良いのに」
「だろ?」
さも当然の様に肯定するのはどうかと思うけど、実際に先輩は顔は良い。
「ええ、顔だけでひっかかる子とか結構いそうですけど」
「お前さん、ホント最近容赦ないな?」
きっと、それだけ先輩とは気が置けない間柄になっているのだと思う。Ⅶ組のみんなと同じぐらい。って、先輩ももうⅦ組だけど。
「あはは……でも、私は結構好きですよ?」
「チッ、つまんねーつまんねー」
そう言って、グラスを煽る。
その姿が、私にはどうしても、大好きだった幼馴染と被ってしまう。
「……彼女、欲しいんですか?」
「ったりめーよ。花の士官学院生だぜ? 今思えば、可愛い彼女の一人や二人作って青春したかったぜ」
なんとなく聞いてしまった私の問い。過去形で、どこか諦めきった言葉を返す先輩に、何か懐かしい感情を思い出した胸が微妙に高鳴った。
「じゃ、じゃぁ、可愛くはないかもしれない、ですけど……私なんか……どうですか? いまは、好きな人とかいないですし……」
少々照れくさくて、視線は右に左に逸らしちゃうけど、言葉は不思議なほどすらすらと言えた。
「……私、先輩のこと、結構好みっていうか……実は意外と私達――」
「お、なんだぁ? オレ様に惚れちまったか?」
途中で切ったのは、茶化す様な先輩の声。その真っ赤な瞳が、逃げていた筈の私の視線を捉える。
「そ、そんな訳ないじゃないですかっ! あくまでモテなくて寂しそうな先輩が可哀想だったから――!」
先輩の言葉に、かっと一気に熱くった身体は、いつの間にかテーブルに手を付いて立ち上がっていた。いきなり速まった鼓動に合わせる様に、私の口から出る否定の言葉は速い。
だけど、微妙な期待と気恥ずかしさの中、言葉の勢いは長続きはしなかった。
「それに――わ、わたしも、ちゃんと、優しくしてくれるなら……その、恋人とかって……興味あるっていうか……憧れるっていうか……」
先輩となら、きっと相性は良いと思うのだ。
だって、あの幼馴染に似ているんだから。私をいっつもいっつも振り回し、それでも頭は良く回って、なんだかんだ面倒見が良くて、そして、どこまでも優しい。
「――」
「えっ?」
とても小さな呟きは、列車の走行音に掻き消される。
「やめとけやめとけ。お前さんに手出ししたりしたら、ゼリカやトワ……が煩そうだしなぁ」
さっきとは違う、軽い声で否定される。
先輩の反応をあまり深く考えていなかった私は、まだ不思議と何も感じる事は無かった。
「それに、オレ様はもっとここらへんがボイーンとかバイーンとかしてないとな!」
「も、もう! なにいってんですかっ!」
先輩は両手で膨らみを強調する下品なジェスチャーをしながら、ニヤついた笑みを浮かべている。いつも通りの通常運転な先輩に、私もいつも通りに反応してしまう。そんな自分に、心の片隅に微妙な違和感が生まれるのを感じた。
ボイーンとかバイーンとかはしてないけど、私にだってちゃんとあるのに!
「っていうか、何で私がフラれたみたいになってるんですか!?」
思わず出た不満は、ここに来て自分でも良く分かるほど照れ隠し以外の何者でもなくて。
「クク、今のはお前さんが告ったのと同じようなもんだろ?」
「違いますよ! 違いますからね……!? 違うんですから……」
必死に否定しながらも、内心はどこか残念で。
「……そんなに、私、魅力ないですか……?」
瞬く間に、胸の中で一気に膨らんだ失望感から、次には幼馴染の時には聞けなかった事まで口にしていた。
「やっぱり、子供っぽいですか? それとも、可愛くないからですか?」
Ⅶ組や士官学院の子と比べれは、容姿じゃ私なんかが敵う訳がないじゃないか。それを理由にされてしまえば、悔しい以上に悲しい。でも、ある意味ではすんなりと納得は出来そう。
そんな自嘲めいた考えが、何もかも飲み込んでゆく失望の中に過る。
「あー……、わりぃ。そういうことじゃねぇんだわ」
軽いノリだった筈なのに、いつの間にか本気になってしまった私が先輩を戸惑わせていた。
「じゃあ、好きな人がいるとか?」
「それも違うな」
間髪入れずに帰って来た返答は、普段の先輩を見ていれば至極納得出来るもので、何故自分がそんな質問をしたのかが一番分からない。
きっと、そうであって欲しい、という願望なのかもしれない。
聞きたいのに、言葉にならない私を見かねたのか、小さな溜息の後にクロウ先輩は、口を開いた。
「だって、お前さん――好きな奴いるだろ?」
「えっ……」
先輩の言葉の意味が、私には分からなかった。
「はぁ……まぁ、何となくは分かっていたがなぁ。リィンの奴なんかより遥かに鈍感だよな、お前さん」
「な、なにいってるんですかっ……?」
リィンの朴念仁と比べられただけでも、不本意極まりないのに、彼より鈍感だなんて喧嘩を売られているみたいだ。
でも、そんな失礼な事を口にする先輩に、私は怒る事も、不満の一つも返すことは出来なかった。自分でも良く分からない所の、もっと良く分からない感情が、大きく揺さぶられていた。
「それも、人の気持ちに鈍感なんじゃない。自分の気持ちにだ――こりゃ、相当性質悪いぜ」
私を責める訳でもなく、ただただ呆れたように左右に首を振る先輩。
「ち、違いますよ……だって……」
「そのペンダントは何よりの証だろ」
「これは……」
夏至祭で買ってから、一日たりとも着けない日の無い八分音符のペンダント。思わず隠す様に握ってしまったそれは、熱を帯びた掌を突く、鋭い冷たさを感じさせる。
もう自分でも分かるぐらい、私の心は激しく動揺していた。だって、この音符は――。
まるで、声を失ったかのように、言葉が出なかった。
「ま、なんにせよ、だ。後悔しない様にな――今度は――」
そんな忠告を最後まで聞かず、私はその場から逃げた。先輩の言葉の意味は分かるのに、何もかもが良く分からなくて。
Afterwards...
勢い良く閉められた扉が、その反動で小さく開く。
「やれやれ、ちょいとお節介がすぎたか」
「ふふふ、優し過ぎるわね? 使ってみても面白そうだったのに」
人の気配の無い車両に何処からともなく一人の美しい女が現れる。深く鮮やかな蒼と碧の色の階調が煌びやかな衣装と、朧げな蒼白い薄光を纏って。
「何言ってるんだか――鉄血の子飼いになりたがってる、いやもう既に”繋がっている”ような奴だぜ」
肩をすくめる銀髪の男。そのすぐ隣に女はおもむろに座り、愉しそうに口を開く。
「だからこそじゃない?」
月光に照らされる男の影から伸びた、影の無い女の白い右手が、彼の頬を触れる。
「決して叶わぬ偽りの愛に微睡んだ女の真実を知った絶望と憤怒――何故だか知らないけど《怪盗》もお気に入りみたいだし、私なりの”美”を演出してあげても良かったのだけど」
まるで歌劇の一節の様に言葉を唄う女の笑みは、妖艶さ以上の深く淀んだ淵を感じさせるに十分過ぎるものだった。
「アンタ、やっぱ趣味悪すぎだぜ」
「ふふ、貴方を見出す女だもの」
「違いねぇ」
男は口元を緩めて、自嘲的な笑みを女に向けた。
「でも、ちょっと妬けちゃうわね――私の選んだ貴方がフラれちゃうなんて」
「見てたのかよ」
「ええ」と頷いた彼女が指差す先、窓の外に蒼い鳥が現れる。幸せの象徴とは程遠く禍々しいその鳥は、女よりも遥かに存在感のある光を纏っていた。
「どうりであの場所で坊主な訳だぜ」
月光が作る鳥の影に嘆息を漏らす男。彼とは対照的に微笑を浮かべた女は、列車の揺れで徐々に開いてゆく扉に視線を送る。
「だから私、あの子の事、とても嫌いよ」
こんばんは、rairaです。
今回は8月29日、第五章の特別実習の二日目の夕方と夜のお話でした。
特別実習ジュライ編最終話として、ほぼ一話丸ごとクロウと主人公エレナの会話パートでお送りするお話となっております。
サブタイトル「誓いの在り処」は、空の名曲「星の在り処」とクロウの敵討ちの誓い、及び彼の故郷ジュライを掛けてさせて頂きました。
ジュライのアルファベット表記”Jurai”は、フランス語で「誓った」(直説過去)という意味だったりします。
次回は翌8月30日、サラ及びリィン達A班と合流しガレリア要塞へと向かう予定です。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。