黒の世界があった。無でもない、有でもない、混沌とした世界である。実際のところ黒ですらない。混沌とは果てしない広がりが永遠を刻むことを指す。淀みさえない。流動さえなかった。真の無。なにも無い、世界。だけども、全てに終わりがあるように、始まりだってある。寂しげな世界に異変が起こった。
その黒に、一筋の存在が現れた。
それは醜い蛹だった。蛹が割れて、半透明な生物が外にはい出る。
二枚の翅に、何本かの足。触角。蝶である。
時が経つにつれて蝶の体は色を得て硬くなった。
蝶は世界を見に行こうと羽ばたいた。
蝶が舞っていた。白、黒、赤、青、どの色でもない。光の反射を受けて翅が刻一刻と表情を変える。まるで虹の輪っかを纏っているように楽しげな調子を発現したかと思えば、漆黒の闇を衣に変えて着込んだように暗澹たる調子にもなる。
蝶の羽ばたきが竜巻を黒の世界に発生させた。光が産声を上げて黒と混じる。
蝶が舞っていたのは、春風吹き抜ける草原であった。上下なだらかな土地を覆い尽くす緑の絨毯が風に靡いて波を描いている。空気は底ぬけて透き通り、天空は果てしない。青、緑、そして蝶。地平線は僅かに線からそれて、蝶には大地が丸く見えた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、と花が咲く。水に雫を垂らすようにして草原に波紋が生まれ、そして消えていく。
蝶は風に揺られながらも花に降り立ち、触角を振って世界を見ていた。
空には太陽があった。
蝶はしばらく世界に留まっていたが、やがて翅をせわしなく使って空に上がっていった。すると羽ばたきが草原を舐め、花弁が躍った。蜜を吸うかい。花が言ったけれど、蝶ははにかみながら断った。
もう行かなくちゃ。
竜巻が俄かに草原から伸びると蝶をさらった。
次に蝶が目を覚ますと、太陽の力が増していた。
ぎらぎらと眩いばかりの日光が大地に差していた。草原にはいつの間にか木々が生えて小さな森が出来上がっていた。木々を蝶は知っていた。どこで知ったから定かではない。本で読んだかもしれないし、母親に聞いたかもしれなかったし、風に教えてもらったかもしれなかった。ひょっとすると、自分で名前をつけたのかも。
木に近づくと、やかましく鳴く虫が風に揺られてやってきた。それは木枯らしにさらわれる葉っぱのように大地を低く飛んでくると、乱暴に木に取り付いて、一斉に鳴き声を上げ始めた。お腹を震わせて、雌を呼んでいるのだ。
蝶は風に危うく連れて行かれそうになった。まだ木を見ていたかった蝶は、風に頼み込んだ。風がやんだ。
蝶が木に止まっていると、太陽が徐々に暮れていった。空が青色から群青に移り変わる。じりじりと大地を焼いていた直射日光も薄れてオレンジ色になっていった。太陽が地平線に触れ始めると、その付近の大気が揺らめいているのが見て取れた。
太陽がいなくなると、今度は草原に川ができた。草が退いて、どこからともなく亀裂が走ると、地平線の向こうから透明で冷たい水がやってきた。退いた草は姿を変えて花となり頭を垂れ、その花に虫が集まってお尻に光を灯してはウィンクする。
世界は美しかったが、いつまでもいられなかった。
そろそろいかなくちゃ。
蝶は風と手を繋いで空に消えた。
蝶が風から手を放して翅で飛んでいると、大地が枯れているのを見つけた。
草木は枯れて、木々は茶色の化粧をしていた。緑の葉っぱも地面に落ちて小さな虫や動物たちの食糧になっていた。
太陽もどこか弱弱しい。
だけど風だけは強く、大地の埃と枯葉を酷く巻き上げたのだった。
綺麗な花も、やかましい虫も、この世界にはいなかった。蝶と似た蛹が風に揺られて木からぶらさがっているのが見えた。木々には葉っぱの蛹が生えて、寒さに顔をしかめていた。
蝶は蛹を見つめてから風に乗って空に旅立った。
蝶が大地にやってくると、そこは一面の銀世界だった。
水のようで水じゃない。氷のようで氷でない。ふわふわとして、雲にもよく似た結晶が空から降り注ぎ、地面に溜まっていた。草木は枯れて影も無くて、木々は白い結晶を枝に乗せて苦しそうにしていた。
風は無くても、空気が冷たい。蝶の翅が凍り付いてしまいそうだ。
光る虫がいた小川も凍り付いて水音一つ無い。
静かな世界。
蝶は終わりの予感を感じて風に言った。
さぁ連れて行っておくれ。
蝶は酷く眠かった。いろいろな世界を見てきたけれど、もう寝る時間なのだ。
枯れて茎だけになった植物の天辺にお邪魔すると、翅を休める。風は吹いてこなかった。
蝶がうとうとしていると太陽の代わりにお月様が空に登った。眩しいまでに自己主張をする星の海がさっと広がった。流れ星が空を横切った。
だが蝶が緩やかに目を閉じると、空も、大地も、何もかもが暗くなっていったのだった。
蝶がすっかり眠りについてしまうと世界は元の黒一色に回帰した。
やがて蝶の肉体はバラバラになっていった。翅がもげ、足が土に還り、鱗粉は空中に溶けた。蝶の体がなくなるまで時間はかからなかった。