Muv-Luv Alternative ~take back the sky~ 作:◯岳◯
必要な道具は以下の通りです。
・壁
・エスプレッソ
・藁人形
・リア充の髪の毛
・ごっすん釘
・鉢巻
・蝋燭
・霊力
仙台市の外れ、とある基地の中。白銀武はいつもより息が白くなって見える、特に冷え込んだ日の夜にある場所をたずねていた。
片手には、お菓子が入った箱を。もう片手にはシャンパンを。どちらも昨今では滅多に手に入らない高価なものだ。
「それで、何しに来たわけ?」
「嫌だなあ。電話でも話したじゃないですか」
「………何かの冗談だと思っていたわ。斯衛の、それも赤のあんたならこの時期は糞忙しいと思ったけど」
「息抜きってやつですよ。先生もどうぞ」
武は呆れた顔をする夕呼にメリー・クリスマスと告げ、シャンパンを手渡した。
これは賄賂だと、そして検閲も頼みますと、もう一方を出して告げた。
「サーシャと霞に会わせてくれますか」
武は色々と疲れた表情を見せる夕呼を賭けの報酬を混じえた理由でもって強引に押し切り、二人がいる部屋に来ていた。
社深雪ことサーシャ・クズネツォワと、社霞。二人の反応は、対称的であった。
「二人共、メリー・クリスマス!」
「あー!」
「の゛ッ……み、鳩尾に………!」
「………大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう。か、霞………メ、メリー・クリスマス………」
霞は驚きに目を丸くしながらウサギの耳のような耳飾りをぴょこぴょこと動かしていた。
それを見た武は、手に持っていたものを掲げる。
「あー、これお土産だから。サーシャと二人で食べてくれ」
お菓子を手渡す武。その中には、チョコレートから和菓子まで、多種多様のお菓子が詰められていた。
霞はそれを見て驚いた。戦争により様々な物の値段が上がっているが、その中でも砂糖は特に値が高騰しているのだ。
それを考えれば、これは超高級品とも言えるものだろう。
「どうして………」
「どうしてって、クリスマスプレゼントだ。って言っても、イヴだけど。ほら霞ってそういったお菓子とか、食べたことがなさそうだったし」
霞は武の言葉に、無言で戸惑っていた。
経緯を聞いているのではなく、どうして自分なんかにこういったプレゼントを持ってくるのか、その理由を聞きたかったのだ。
「ん? どうした、俺の顔になんかついてるか」
「………いえ」
さも当たり前だ、と言いたそうな表情。霞はそれを見て、この人は何を考えているのだろうかと、それをよく知っていそうな人物の方を向いた。
5年も前の知り合いだという、ある日突然にやって来た人。自分と似たような境遇で育ち、そして別の場所で戦っていた。
彼女は、既にお菓子を口に入れてもぐもぐとほっぺたを動かしていた。
「………姉さん」
「うー?」
咎めるような視線を送り、返ってきたのは心底不思議そうな視線と、口元をチョコレートで汚しながら首を傾げる姉の姿。
霞は、小さくため息をついた。
「って、口の回りを汚すなよサーシャ。霞、なんか拭くやつない?」
「………こちらに」
霞はハンカチを手渡した。武はそれを受け取り、サーシャの口元を拭おうと手を伸ばす。
だが、あと一歩ということで叩き落とされた。べしり、と痛そうな音が部屋の中に響き渡る。
「ってえぇ! 何すんだよサーシャ!」
武は怒るが、サーシャはどこ吹く風とお菓子を食べ続けている。
それにイラッとしたのだろう。武は蟀谷をぴくぴくさせた後、素早くサーシャの額にデコピンを放とうとする。
だが、サーシャ・クズネツォワは仮にも精鋭と謳われた衛士である。即座に反応すると、武の手を払いのけた。
うーっ、と唸りながら間合いを取り、中腰になって警戒の体勢になる。
対する武も中腰に、一足一刀の間合いでレスラーのように手を上げながら攻勢の構えを見せる。
一瞬で傍観者に仕立てられた社霞は、じりじりを間合いを測り合う二人を前に呆然としていた。
迂闊に仕掛けた方が負けるとでもいいたげに、フェイントであろう左のジャブで牽制しあう二人。
それを見て、霞はおかしそうに笑った。本当に小さな笑い声。
だけどそれを聞いた武も、そしてサーシャも。
驚き、目を丸くした。
「か、霞?」
「あ………すみません。つい、おかしくて」
霞は頬を桃色に染めながら、言い訳をした。
だって、と説明をする。
脈絡もなく喧嘩をする二人。だけれども、じゃれあうように触れ合うように。それでいて遠慮の欠片もないのだから。
同じではなく、他人ではなく、だけど慣れ合うだけでもない。
その上で、家族のように接している。それは、記憶の中で見たあの中隊の独特の関係であった。
――――羨ましいと、素直にそう思えた人達。それが、目の前で現実のものとなっているのだ。
「あー、流石に刺激が強かったか? って関節取ろうとするんじゃねえよサーシャ!」
「おー」
「感心した声出すのも禁止だ!」
怒る武。傍目には怒声を浴びせている男に女といった絵だ。
霞はそれを見て、武に言った。
「あ、の………姉さんを苛めないで下さい」
「あー………いや、これはな? 苛めているわけじゃなくて」
困った顔をする武。そこに、サーシャの声が飛んだ。
「うー?」
「くっ、だからって不思議そうな顔をするなよ。第一、お前そんな可愛い仕草を見せるようなキャラじゃねえだろうが」
「………あー!」
「ぐあっ、膝関節を! は、はええ!?」
武は蟹挟みからのホールドに為す術もなく転がされてしまう。何とか固定点を外し、即座に対応するものの寝技での攻防はサーシャに一日の長があった。
流れるような動作で腕ひしぎ十字固めに移行する。
「いたたたたたっ! ギブ、ギブ、ギブ!」
ギブアップ宣言に、サーシャはしたり顔で離れる。そして立ち上がるや否や、両手を上げて勝利宣言をした。
武はそれなりに生身での戦闘の腕も上達したというのに、あっさりとやられてしまった事に落ち込んでいる。
霞はその対比がおかしくて、また笑ってしまった。
「おー………」
「霞が笑った………」
当事者の二人は、それぞれに驚きの表情を見せていた。じっと霞を見つめる。霞は注目される事に慣れていないので、少し動揺した表情を見せた。
だが注視する二人は気にすること無く、霞を至近距離からまじまじと見つめる。
無表情ながらもかなり居心地が悪そうな霞は、一歩だけ後ろに下がると、武がもう一つ持っているものに気づいた。
本のような形状をしているそれは、装丁も普通だ。とてもプレゼントには見えない、資料のようなものに見える。
計画に関する資料だろうか、それとももしかしてプレゼントなのだろうか。
武は表情を見せないまでも興味津々といった様子をする霞に、苦笑と共に告げた。
「これ、写真だよ。大陸に居た頃のな。霞、見たかったんだろ?」
武は、以前に霞から聞いた言葉を忘れてはいなかった。
――――何処かの世界では、霞は純夏の思い出から世界と人間を知った。普通の人達の生活を知った。
それが、こちらではサーシャになったのだ。たった2年程ではあるが、個性的な仲間達と過ごしたあの日々は濃密に過ぎた。
霞はそれを見て、外の世界を学んだらしい。毎日のように誰かが死んでいく辛い記憶ではあるが、霞にとってはこの上ない刺激になったようだ。
そうして、数回の面会の中で、霞が望んだものがこの写真の数々だった。
時折だけど流れてくる、サーシャの中の記憶。霞はふとした時にサーシャの頭の中に想起されるその断片を読み取っていたらしいが、それはかなり辛いことらしい。
だから、実際の絵として。読み取らずとも、見るだけで想像できるようなものが欲しいと言ったのだ。
故に霞は武の言葉を聞いて、武が驚く程に目を輝かせた。とことこと急ぎ足で近づき、その写真を受け取るとすぐに一枚目をめくる。
1ページに4枚の写真が綴じられている本、その1ページ目はへばっている武と、勝利宣言をしているかの如くピースサインをしているサーシャの姿だった。
「これは………」
「あー、亜大陸に居た頃の一枚だな。まだ、ナグプールの基地があった頃の事だ」
写真の横には、“リベンジマッチに敗れる愚か者”というタイトルが書かれている。
「じゃあ、これは?」
霞が指さした写真。そこにはまだ小さい頃の武が、頭を抱えて蹲っていた。隣には褐色肌を持つ女性が、腕を組んだまま仁王立ちしていた。
その二人を、金髪の女性と銀髪の少女が眺めている。タイトルは、“愛ある鞭というか鉄槌”とある。
「あー………仁王立ちしてるのがターラー教官な。で、金髪の大きいのがリーサで、銀髪はサーシャ」
5年も前だからだろう、今よりも更に小柄なサーシャは背も小さく、表情も乏しい。
亜大陸に居た頃の写真は概ねそういったものが多く、今のサーシャしか知らない霞は新鮮だった。
ふと、気づいたことを尋ねる。
「あの………タケルさん。周囲の人達は」
見れば、数枚を隔てればその場にいる人間の顔ぶれが変わっていたのだ。
それを見た武は、ああと頷いた。
「亜大陸防衛戦の末期だったからな。ボパール・ハイヴで奇襲を受けて潰走した後からの撤退戦は、特に損耗が酷かった」
「え………」
「隊に入っては死んでいく奴が多かったんだ。確か………合計で7人、だったな」
そうして、写真はまた別の場所に移っていく。
スリランカより、アンダマン島へ。その中には、霞が知っている人物の姿もあった。
「………紫藤大尉ですか」
「ああ。アーサー、フランツにファンねーさん。ビルヴァールにラムナーヤに、マハディオだな」
アンダマン島に居た頃の写真は特に多く、中には水着を纏ったサーシャの写真もあった。
ほんのりと頬を赤くしていて、少し露出が多い水着を。肌を見せないように、腕で庇っている。
恨めしそうな表情を撮影者に向けていたが、タイトルには、“愛しい野郎もこれで一撃!”とあった。
「………タケルさん、じゃありませんよね?」
「ああ、この時か。なら、撮ったのはアルフレードだな。この直後にサーシャをからかっているのがバレて、リーサにフライングクロスチョップからの関節技を極められてた。とどめはラーマ隊長のヒッププレスが炸裂してた………っと、こっちの写真だ」
タイトルは、“因果応報・天罰覿面”とあった。ちなみにサーシャはターラーの背中に隠れるように身を潜めている。
「あの、こっちの睨み合っている人達は?」
「それがアーサーとフランツだ。通称、凸凸コンビ」
どちらも気が強い上に対照的で突っ張り合ってるから、顔をあわせたら衝突するか摩擦しあうしかない、一つの形として収まるわけがない、という意味でつけられた仇名だった。
霞は一枚一枚、武の解説と共にページをめくっていく。
武も、お菓子を食べながらそれを眺めていた。サーシャもおとなしくその写真を見ていた。
色々な種類の写真があった。多くの人間の様々な場面が映っている。
戦術機動の論争だろうか、いがみ合っている写真も。
敗北に対する挑発のせいか、怒気を顕にしている写真も。
悪巧みをしている男たちが映っている写真も、霞にとっては眩しく映っていた。
写真の中の皆の顔はいつも活き活きとしていて、暗い顔を見せている場面は一つもないのだ。
とても、悲惨極まる大陸での末期戦の中で撮られたものとは思えない程に。
「暗い場面は写真として残すな、ってのがアルフレードとファンねーさんの信条でな。絵で思い出すなら綺麗な記憶だけの方が良いからって。ほら、どれ見てもなんか笑えてくるだろ?」
「………はい」
霞は頷いた。否定できるはずがなかった。記憶で見たから余計に、この全員が楽しんでいるのが分かる。
辛く苦しい中でも、精一杯に戦って、感情を決して殺さないまま、当たり前の人間のように笑っていたのだろう。
あるいは、怒っていたのだろう。これは、その日々を抽出した輝かしい記憶の数々であるのだ。
「思い出、ですね」
「ああ。俺の、そしてこいつの宝物だ」
人の命が軽すぎる場所で、多くの人の生死を見た。
死んでも思い出したくないような事もあるが、その一方で絶対に忘れたくないものもある。
戦友との日々はその最たるものだ。
中には、今日のようなクリスマスを祝っているものもある。
「………これは」
「馬鹿をして笑い合える仲間がいれば、それだけで嬉しいってことさ。リーサ曰く、酒飲める理由があったらなんでもいいのよ、らしい」
霞はそれを聞いた後、改めて写真を見た。12人の異国の衛士達。育ちも祖国も違う、だけど全員が顔を緩ませたまま手に持った瓶を持ち上げ、笑っていた。
クリスマス・イヴの事だろう。
「あの………そういえば、部隊の方はいいんですか」
「いや、あっち武家だからな。クリスマスなんて祝わねえって。それどころじゃないって噂も………」
微妙に目を逸らす武。
「こうして、行事にもなってたしさ。ここ2年ぐらいは騒げなかったけど、久しぶりにこいつと、な」
武がサーシャの頭をポンと叩き、反撃を受けてまた戦闘の体勢に。
霞はそれを見て、2つの感情を抱いていた。
一つは、暖かく。
もう一つは、切ない。
それは、乾くような羨望だった。無表情ながらも少し暗くなったそれに、武が気づく。
「霞?」
「私は………私は、こういった思い出はありません」
霞は、写真を前に痛感させられていた。自分には、何もないのだと。
社霞という名前は、香月博士と出会った時に与えられた名前だ。
だけど、自分にはそれ以前の過去がある。“トリースタ・シェスチナ”と呼ばれていた頃の。
霞は、思い出しながら理解する。あの時の自分は、生まれた時からモルモットだったのだ。
あそこには私人の感情など何も無く、ただ性能と結果だけが求められる世界だった。
その中で、自分はリーディングとプロジェクションといった異能を磨くことしかなかった。
他には、なにもなかった。悩まず、苦しまず、淡々と与えられた内容をこなしていくだけ。
辛いと思ったことはない。なぜなら、そこに苦悩はなく、苦難もなく、生まれ持った才能だけを背負わされて、誰かの指図のままに歩くだけで済んだからだ。
「私は………何も………」
霞は暗い声で呟き、落ち込むことしかできなかった。
必要ないからと、知らなかった。知らされなかった。人の感情も何もかも。
だからこそ、対比して落ち込むこともなかった。羨むことなどなにも。
真っ白な殻の中でずっと、外の彩りある世界から隔離されていた。
だけどオルタネイティヴ3が失脚し、外に出てから。そして、サーシャ・クズネツォワという自分と似た境遇を持つ人間の記憶を見てから、気づかされた。
良い記憶ばかりじゃない。辛い記憶だって山ほどある。だけどこのサーシャという人は、出会ったあの人達は。
そして今も目の前に居る男の人は、なんて“生きている”んだろうと。
それに比べて、自分はどうだろうか。能力が無くなったら、あるいは能力が必要とされない世界になったら。
考えただけで怖気が走った。
自分には戦う力もない。苦難を乗り越えようという意志も抱けない。辛いまま、うずくまって膝を抱えることしかできない。
想像できるのだ。壁を乗り越えてきた自覚はない。辛くても、それに抗おうという意志さえ持てない。
きっとあのリーシャという人と同じで、自分の蟀谷に鉛弾を放つことしかできない。
(経緯を聞いて………分かったかもしれない。どうして、リーシャ・ザミャーティンが自殺したのか)
きっと、耐えられるだけの思い出がなかったからだ。底抜けに暗い記憶の前に、そこから逃げることしか選べなかった。
生きている理由もないから、死んだ。それだけだ。
辛い中でも自分の居場所を守るために戦い続けてきた、煌めく思い出を支えに出来る人間ならば耐えられるのだろう。
だからこそ、羨ましい。サーシャの記憶を、遠くから絵を見ているだけなら楽しむことが出来た。
だけど近くで見ると、より一層自分の惨めさを認識させられる。
霞は、胸の中から何かがこみ上げているのを感じた。
だけど、ふと温もりを感じた。
「焦ることないって」
「あ………」
頭の上に、温もりが。髪の毛を優しく撫でる手が、あった。
それも、一つではなく、2つ。
「サーシャも同じ意見だってよ。なあ、霞」
「は………い」
「確かに、今までは思い出なんて作れなかったかもしれない。だけど、まだ何も終わっていないだろ? 霞はここに居る。今日まで生きて、ここに居るんだ」
ぽんぽんと、叩かれる。
「思い出なんかこれから作ればいいさ。この糞ったれな戦争が終わったら………いや終わらなくてもさ。今日のこの事だって、思い出にしていけばいい」
「今日の、ですか?」
「ああ。昨日は大事だけど、今も大事だ。そして、明日の事もな」
「明日………」
「ああ、だってさ。明日の献立が好きなものだったら、嬉しくなるだろってぐあっ!? な、なにすんだよサーシャ! え、なに、やり直し?」
ローキックを受けた武は、文句を言いながら言い方を変えた。
「いや、言いたいことは間違ってないぞ。ようは、明日に何を望んだって良いんだ。高望みだっていい」
「自分の………望みを?」
「ああ。我侭だっていい。例えば、お菓子を食べてみたいです、とかな。夕呼先生に言ってみるのもいい。あの人、見た目とか言動に反して優しいからさ」
「それは………分かりません、でも………」
香月夕呼の頭の中は一度だけ覗いてみたことがあるが、変人そのものだった。
好奇心が9割9分。それ以外のものは分からなかった。
だけど今の自分の境遇というか、環境を考えれば分かるかもしれない。
「それに、個人的推測だけど霞には甘いと見た。新しく何かを始めるのもさ………っても、日常的に接しているのって、あの人だけになるか。でも香月博士も、霞が相手ならちょっとやそっとの我侭ぐらいなら聞いてくれるかもよ」
「………迷惑がかかります」
「あー、内容によってはな。研究の邪魔したら怒るだろうし。でも、何でもない事に対して一方的に邪険にあしらう程、冷酷な人じゃないから」
きっと大丈夫だと、根拠の無い自信のある声で。
それを聞いた霞は、どうしてか大丈夫のような気がしていた。
「何もかも上手くいくってのは無理だろうけどさ。それでも、何かをやってみなきゃ始まらない」
「ですが………失敗は怖いです」
「失敗も思い出になるって」
霞はそれを聞いて、思い出していた。武が吐いている所や、教官に怒られている所もばっちり写真に収められていたからだ。
「あー、思い出した? あれも恥ずかしいっていうか苦い記憶だけど、立派な思い出なんだ。今となっちゃ笑い話で済ませられる。でも、俺も一歩踏み出す前は怖かった。いや、今も怖いかな」
失敗するのが怖い。だけど、と武は言う。
「でも、怖いからこそやりがいがあるんだ。一生懸命やればいいんだ。笑われたって、無駄になってもさ。必死で、考えこんで、本気でやり通せばいい。自棄っぱちになるのは駄目だけど」
「何かのためになることを………博士の役に立つことを自分で考えて、でしょうか」
「ああ。霞って頭いいだろ? だから、先生の手伝いとかもさ。色々と出来ると思うんだ。ちょっとどころじゃないぐらい怖い人だけど………それだけ、笑顔が見ることができたら、してやったりな気分にならないか?」
こう、ワクワクしてこないかと。霞は武の真剣な言葉を聞いて、想像してみた。
香月博士は、いつも怖い雰囲気をまとっている。それだけの重責があるからだと思われる。
油断の出来ない相手が多すぎる上に、本当の意味で頼ることが出来る相手がいないからかもしれない。
思えば、本当の意味での笑顔なんて見たことがなかった。綺麗だけど、喜びを表には出さない。
そんなあの人が、自分のした事に対して喜び、心の底から笑ってくれたら。
「………します」
「え?」
「ワクワク………するかもしれません」
そして、何かが分かるような。霞の小さいけれど、しっかりとした言葉に、武は満面の笑みを返した。
だろう、と笑う。霞はその笑顔から、目が離せなかった。ずっと、こうして話している間も感じ続けていた温もりにも。
「俺も手伝うからさ。絶対に戻ってくる。そうしたら、サーシャと合わせて3人だ」
「………はい。ですが、その…………どうして………」
「ん?」
「どうして………ここまでしてくれるんですか」
直接的に心が読めないにしても、自分の持つ能力は異様と言える。
自分が生まれた経緯さえも、不自然な命であることも知っているはずだ。
問いかける霞に、武は答えた。
「でも、社霞だろ?」
「………え。あ、はい………そうです」
「だったらそれでいいんだ。細かいことは気にすんなって」
理由になってない。そう問いかけようとしたが、今度は頭をわしわしと撫でられた。
驚き顔を上げた霞に、武は内心でイタリアの師匠に教わったまま、素直な言葉を告げた。
「可愛い女の子が頑張ろうって所を見てると、力を貸したくなるんだ。あとは、別に」
「………何も考えていないんですか?」
「直感は衛士にとって必要な能力だぞ? ていうか、俺が何となくそうしたいって思ったから。言葉じゃ上手く説明できないな。あ、でも迷惑なら言ってくれな」
「いえ………その、迷惑なんて」
「なら良かった」
馬鹿のような単純な一言。
霞は頷き、じっと武の顔を見た。嘘のような、嘘じゃない言葉。同時に、分かったような気がしていた。
サーシャの記憶の中で、わずかにだけど共有した感情。その意味というか、根っこにある何かを。
(この人は………人が好きなんだ)
きっと、自分のような境遇でなくても助けたのだろう。
霞は漠然と、何かが分かったような気がして。そして、武の口元を見て、気づいた。
溶けたチョコレートが、少しだけど唇の横についている。気づくのと、動くのは同時だった。
おずおずと出した手に、武は不思議に思いながら、これかな、と気づいてハンカチを渡す。
そうして受け取った霞は、すっと武の口元を拭った。怯えながらも優しく、ゆっくりと。
ひとしきり終わった後に、武が告げた。
ありがとうという、行為に対する礼の言葉。霞はそれを聞いて、小さな声だが、確かな喜びの感情と共に、はい、と頷いた。
そこからも、写真を眺める3人。だけど、楽しい時間は疾く過ぎていく。
サーシャは、途中で眠くなったのかベッドの上に転がっている。
霞は、最後まで写真を。そうして一通り終わった後、武は立ち上がり、それじゃあと告げた。
「………帰るんですか」
「まあな。サーシャも、このままにはしておけないし」
時折、記憶が残っている素振りを見せるが、それも一時のことだ。
「こうして、たまに会うならば良いけど………ずっと傍にいたら、泣いちまいそうだからな」
これはこれでサーシャなのだろう。だけど、武は壊れる前のあのサーシャの方が好きだった。
言葉を交わし、意見を交わし合うような。
「っと、ごめんな。霞に言うことじゃなかったよな」
「いえ………ですが、私が守ります」
香月博士に関することもそうだけど、サーシャの事も出来る限り。
小さく奮起する霞に、武は笑い。
名残惜しそうな表情を見せるも、扉の方を向いた。
――――その直後だった。帰る気配を見せた武に気づいたのか、眠っていたサーシャが飛び起きる。
その勢いのまま、武に背後から飛びついた。
「おわっ!?」
「ね、姉さん?」
いきなりの奇襲に驚く二人。だけどサーシャは意に介さないとばかりに、武を背後からおもいっきり抱きしめた。
腕を首に回して、帰さないと駄々をこねる子供のように。
だけど武は、背中に当たる感触を前に、それどころではない事態になっていた。
「あの………サーシャさん? 背中に柔らかいものが当たってるんですが」
武は戸惑いながらも、心の何処かで確信していた。彼女の双丘は、ここ数年で更に成長したようだと。
だけど、武はこのままではいけないと思っていた。どうしてか、背後のもう一方より冷たい視線を感じるのだ。
「って、帰るから。また今度、機会があったら………あったらいいなあ…………いや作ってでも来るから」
「やー」
「いや、やーじゃなくてな。このままじゃ色々と不味いから」
「やー!」
「ま、ますます強く………っ?!」
武は焦り始めた。引き倒そうとするサーシャの顔、というか髪が自分の頬や首に当たるのだ。
背中には女性の感触。一方で顔の横からはなんというか女性のいい匂いが、それも至近距離より。
いつにない積極的な攻勢に――――と考える前に、不味いと思い始めていた。
この光景を夕呼先生に見られたら駄目なのだ。間違いなく不味い事態に陥ることになる。
武は、かくなる上は霞に助けを、と背後を見ようとした時だった。
裾をつまむ、誰かの手の感触。その方向を見ると、無表情ながらもじっとこちらを見上げている霞の顔があった。
「…………やー」
霞の、頬を染めながらの小声の請願だった。
でも自分の言っている事というかやっている事に気づいたのだろう、数秒してから少し赤かった頬を一層赤く染めると、恥ずかしそうに俯いた。
武はそれを見て、反射的に「じゃあ泊まっていくか」と言いそうになったが、寸前で留まった。
これが霞に先ほど自分で言った“我侭”であることは分かっているし、初めて無表情なだけではない、普通の子供のような表情を見せてくれたのだ。
しかし、場所がまずかった。
具体的には、今もこちらに迎えに来ているだろう知の怪物が、人をからかう事に関しても天才的なあの人が居ることがまずかった。
「って、よじ登るな頭を抱くなサーシャ! 後頭部に尋常じゃない柔らかさが当たってっ!」
「やー!!」
「………やー」
引き倒そうとしてくるサーシャに、ついには両手で裾を掴んでくる霞。
これでは、力づくで振り払うこともできない、できるはずもない。
武は強引な手練と、弱いからこそ抗えない新人を前に、窮地に立たされていた。
万のBETAにも勝ろうかという少年を、抵抗さえ許さないとばかりにずりずりと部屋の中央まで引きずっていった。
「ど、どうしてこうなるんだよぉぉぉぉーーーーー!?」
白い雪が降る聖なる黒の、夜の下。
わずかな光が灯る部屋の中で、とある少年の幸せかつ不幸な叫びが鳴り響いていた。