Muv-Luv Alternative ~take back the sky~   作:◯岳◯

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34話 : 止まれない者達_

「あー………糞忙しいっすねー」

 

「分かってんなら、口じゃなくて手を動かせ。BETAは待っちゃくれねえんだぞ」

 

大阪は大阪市の、南港。今では近畿で1、2を争う規模となった港の上で、荷降ろしをしている男は愚痴っていた。四国から続々と届いている軍事関係の物資に対してだ。畳み掛けるように、途絶えることなく運ばれてくる荷物は、彼らに休眠を許さなかった。荷物が増えるようになって、まだ二日目。だけど男の脳裏に、月月火水木金金という言葉が浮かんだ。それは間違いのない感想だ。

まず120%の確率で、今週どころか来週、最悪は来月まで自分達が休日を謳歌できることはない。

正式に通達された訳ではないが、この凄惨たる現実の状況が何よりも物語っていた。

 

「仕方ねえだろ。明石の大橋も壊れちまったんだから」

 

「…………神戸も、ねえ」

 

愚痴った男の先輩にあたる、白髪が目立つ現場のまとめ役の言葉に、男も頷いた。BETAの最終防衛線における兵站の要は四国である。だが、実際の決戦の場所は京都の北より兵庫の山陽側、そして大阪だ。どうしても四国と本州の間にある海を越える必要がある。

 

そして、越える手段は陸路、つまりは橋を渡るか、海路、つまりは南港か神戸へと船で荷を運ぶか。今までは明石海峡大橋を主な運搬経路としていた。海路ではどうしても荷を積む作業と荷を降ろす作業に時間が取られてしまう。それよりは大型トラックか運搬用の車両でピストン輸送をする方がコストも運搬時間も少なくて済むのだ。

 

「でも、大橋っても全部壊れたってんじゃないんでしょ? なんでも、渡ってこれないように一部だけ爆破したって………だったら」

 

「危険極まりないし、大阪にまで運ぶ道路がねえよ。あっちは激戦になった場所だぞ」

 

当然として砲撃跡やBETAが踏み荒らした場所が多い。悪路でも走破できる特殊な車両であれば何とか通れるぐらいで、通常の車両であればたちまち立ち往生してしまうことは想像に難くなかった。特殊な車両とて、一度に運搬できる量は僅か。そして車両の絶対数は、通常のトラックとは比べ物にならないぐらい少ない。

 

「それに………兵隊さんが命賭けて戦ってくれてるんだ。だったら俺たちも、命賭けるとまではいかんが、休んでる訳にはいかんだろ」

 

言いながら、海の向こうを指さす。大型クレーンを操作する建物は高く、そこからは大阪湾を一望できる。男たちも、BETA殲滅の報があってしばらくしてここに戻ってきた。そして男も、先輩の男が見た光景がある。それは、海の此方側から、そのずっと向こうにまで。地面より生えた黒煙の柱が、空に昇っては散っていた。遠くの向こうはうっすらと見えるだけ。だが、それはあの場所で戦争が行われていた事を何より感じさせるものだった。

 

「陽が、沈みますね」

 

男は答えず、手を動かすことに専念した。先輩の男が、それでいいと頷く。だけど二人は、夕焼けに染まる大阪湾から目を離せないでいた。今はもう、黒煙は立ち昇ってはいない。だけど、あの戦争が行われた場所、その向こうにある地域はどうなっているのだろうか。想像するまでもなく、知らされる過酷な現実が情報として通達されていた。

 

この海の向こう。見える限りの風景。その更に奥の中国地方、果ては九州に至るまでの土地にはもう生存者はいない。それを実感した途端、いつも見ていた風景に対する認識が変わった。

見慣れていた筈の国土、それがまるでBETAに支配された異星の地のように思えてしまうのだ。

踏み出せば帰ってこれない、何もかもが破壊された土地が目を凝らせば見えてしまう。もし先の防衛戦でもっと戦況が悪ければこの慣れ親しんだ職場である港も、あのようにされてしまったかもしれない。それを防ぐために必要なことは、抗うことだけ。そして必要な物資は手元にあるが、届けなければなんの意味も成さないものだ。

 

「………俺、気張りますよ先輩」

 

「おう」

 

何とも言えない不安が混じった声。目に見ることができない恐怖を振り払うようにして作業に集中する男二人の頬を、窓から入った潮風が撫でていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして、日が落ちた頃。京都の中央にある病院の中で、白銀武は覚醒した。寝台より起き上がり、まず聞こえたのは遠くの喧騒の声だ。入院している患者が多いらしく、ああじゃないこうじゃないと忙しそうに叫んでいる医師や看護師の声が聞こえる。

とはいえ、遠い。そこで武は、ここが一般病棟ではないのだな、と何となく分かっていた。見るからに広く、個人を治療するために用意されたものだと想像できる。そんな中で近くから聞こえる音があり、武はふと、その方を見下ろした。視界に映ったのはひどく見覚えがある赤い髪。そして、そこから伸びている触角のような一房の毛だった。

 

顔は、自分が寝ているベッドの布団に突っ伏しているので見えない。だけど起き上がった時の震動で気づいたのか、赤い髪の幼馴染はうーと呻きながらもぞもぞと身体を起こした。寝ぼけているのだろう。目をごしごしと、おあようございますという朝の挨拶でさえ、呂律が回っていない。しかし、それも数秒のこと。やがて目の前の人物が誰であるかを認識した少女、鑑純夏はみるみるうちに目を丸くしていった。

 

「…………よ」

 

「あ、た、た、た」

 

「いや、殴らんでくれな」

 

武は―――――"タケル"は、どもりながらこっちを指さす間の抜けた顔をする少女に対して、苦笑した。曰く、変わっていないと。

 

「おはよう。ていうかよだれ拭けよきったねえなあ」

 

「あ!」

 

純夏は指摘されて気づいたとばかりに、口の端を拭う。しかし、そこによだれはついていなかった。戸惑う純夏は、はっとなって武を見た。そこには、してやったりの顔。何年も前に見慣れた、悪戯を成功させた悪ガキの顔だった。それを見た純夏は、最初は両手を下にして触角のような毛をいきり立たせて、怒った。だけど、それは一瞬のこと。怒りながらも涙目になるとすぐにうつむき、最後には両目を押さえて泣いていた。

 

「っ、ちょ!?」

 

武は急な展開に、盛大に慌てた。なんというか9年間過ごしてきた中での経験により、身体が条件反射的に動いて誂ってしまった。怒る所までは、いつもの流れだった。しかし、まさか泣かれるとは思っていなかったのだ。

 

「っ、バカ!」

 

「おわっ!?」

 

純夏は、問答無用とばかりに突進した。武は慌ててそれを受け止めた。途端に全身に筋肉痛が走る。武は痛みのあまり叫びそうになったが、何とか歯を食いしばりながら耐えた。耐えられるだけの温もりがあったからだ。武は強化服越しではない、薄い病人服の向こうにある温もりをじっと感じ取っていた。二人だけしかいない病室に、純夏の泣き声が響く。そんな中で、二人共が互いの鼓動の音を耳の奥で捉えていた。

 

武は、予想外の柔らかい感触に戸惑っていた。筋肉がついていない、女の子そのものの身体。そんな一般人と抱き合う機会など、ここ数年の間は一回も無かった。脆いとさえ思わされるほどに、純夏の身体は小さく筋張ったものなど一つもない。それこそ、鍛えた自分の両腕であれば力いっぱい抱きしめれば壊れてしまいそうな。

 

(ていうより、純夏と抱き合うことなんてなかったし………)

 

家族のように、ずっと傍にいた少女である。誂いの対象ではあっても、こうして直に接する機会は多くなかった。それでも、一緒の過ごした年月は短くなく、また軽いものではあり得ない。帰りたい場所、守るべき日常を考えればまず最初に浮かんだのがこの間の抜けた幼馴染の顔だったのだから。そんな彼女が、この戦場になった日本の、おそらくは京都であろう病院の中にいる不思議。武は戸惑う所もあったが、このひと時だけは全て忘れることにした。言葉を発さず、互いの生存を確かめるように抱き合う二人が。どくん、どくんという音、血が流れる音。やがて泣き止んだ純夏は、武の生存を腕いっぱいに確かめた跡、恐る恐るといった具合に尋ねた。

 

「生きて、るんだよね。タケルちゃん、死んでないんだよね。私、タケルちゃんがミャンマーで死んだって聞かされて………っ」

 

「ミャンマーって、どこでそんな情報を」

 

そこから純夏は京都に来た経緯を、たどたどしくも説明した。家に届いた手紙のこと。切符を片手に、一人で京都にやって来たこと。男の二人組に、篁の家にまで案内されたこと。

 

「は、篁の? ………ああ、知ってるのかあの人達は」

 

「えっと、何かはわからないけど良くしてくれたよ。でも、サンタウサギ忘れちゃって」

 

「あー………あれか。ていうか京都にまで持ってきたのか」

 

「うん。最高のお守りだもん。でも、取りに行きたいって言っても聞き届けられなかったし。篁さんのお父さんが帰ってきたとかで」

 

「ああ、そりゃあな。じゃあ俺の方から言って………つっても、また新しいのなら作ってやるけど」

 

武はそういったが、純夏のきつい視線に晒されてすぐに撤回した。頷かなかれば、きつい右拳どころか幻の左まで飛んできそうだったからだ。武はやることが増えたと思いながらも、続きを聞いた。

 

それは、篁の屋敷から連れだされた後のことだ。監禁されていた、永森という男の屋敷のこと。あのビルの屋上で出会った経緯。全てを把握した武は、そこで頭に痛みを覚えた。連動するようにして、全身の筋肉痛がひどくなっていく。

 

(………いや。そもそも、どうして自分は病院に)

 

基地ではなく、この部屋の中で筋肉痛になっているんだろうか。武も、経験上また戦場か基地の中で気を失ったことは分かっていた。でも、どうしてここ一年はとんと覚えのなかった筋肉の耐久力を超過したことによる痛みがあるのだろうか。おかしい部分が多すぎた。でも、自分は何もかもを知っているようで。そうした混乱の中で、徐々にだが気を失う前のことを思い出して行った。

 

どくん、と心臓がひときわに高く鳴り。

 

「………ぐっ」

 

武は氷のような冷や汗が出てくるのを感じていた。浮かんでくる最後の光景を思い、呻き声を上げる。それを感じ取った純夏が武の顔を見た。そこには、空もかくやという真っ青になった顔があった。尋常ではない様子に、たまらずと狼狽える。

 

「た、タケルちゃん?! だ、大丈夫なの、どこか怪我とか!」

 

何をすれば、誰かを呼ぼうかとあちこちを見る。だけど数秒の後には、武は大丈夫だと返した。そしてまた、純夏をぎゅっと抱きしめた。

 

「…………夢にまで見た、か…………………酷なこと、するよなぁ」

 

変わった、と。純夏が思い浮かべた言葉が、それであった。そうして、白銀武は大切な宝物のように、純夏の両肩をそっと握りしめると、自分から遠ざけた。

 

「タケル、ちゃん」

 

「なんだよ。ていうか、おじさんとおばさんには無事だって連絡入れたのか?」

 

「え、あ、うん」

 

純夏は何か違和感を覚えつつも連絡は取れたと頷き、その時の様子を説明した。

両方ともに話した途端にまず怒られて、すぐに泣かれたと。

 

「そうか………まあ、どっちも無事でよかったよ」

 

純夏も、おじさんもおばさんも。タケルが呟くと同時に、まるでタイミングが分かっていたように、病室の扉が横に開いた。がらりという音と共に、いかにも目立つ赤色の服を来た男が入ってくる。

 

「無事、目覚めたようだな」

 

「お陰様で。ご心配させたようで、申し訳ありません………真壁大尉殿」

 

武はひとまずと、敬礼をした。対する真壁の、観察するような視線を受け止めての反応だった。純夏といえば、状況が把握できていないといった心中を全身で表していた。武といきなりに現れた、赤服の斯衛とで視線をいったりきたり。武はその様子に、この上なく優しく苦笑を向けると、ぽんと頭を叩いた。

 

「すまん、純夏。再会の祝いは、ちょっと後でな」

 

「え………」

 

戸惑うような視線。本心でいえばずっと傍にいたかった純夏ではあるが、急に変わった武の様子と、部屋の中に満ちる張り詰めた空気より何かを感じ取っていた。

 

「だい、じょうぶなの? タケルちゃん、また居なくなったりしない?」

 

「………俺は居なくなったりしないさ。お前がどこかに行かない限りは。外ももう安全だろうからな」

 

約束だと、小指を立てる。純夏はその様子に戸惑いながらも、タケルの言葉を信じると言い返した。そして、振り返って真壁を一瞥する。武からはその視線の様子は見えなかったが、対面にいた真壁は何かを感じ取ったのだろう。じっと視線を受け止めると、やがて目を閉じながら告げた。

 

「心配は不要だ。少なくとも、この男が何もしない限りはな」

 

真壁の声と共に、武は純夏の肩を安心させるように叩いた。

 

「万が一のために、外に護衛を用意している。窮屈を強いるが我慢して欲しい」

 

「は、はい。分かりました」

 

純夏は、それでも最後まで不安な表情のままだった。後ろ髪を引かれていますといった様子を隠さないままに病室を去っていく。こつ、こつ、と遠ざかっていく足音がやがて聞こえなくなった頃、口を開いたのは真壁の方だった。

 

「戦場を知らぬ娘のわりには、大した胆力だ。私の視線を真正面から見返し、一歩も退かないとは」

 

「そういった事には疎い………鈍い奴ですから」

 

武は挑発的な言葉に、苦笑だけを返した。意図を把握してのことである。

 

「例の下手人は確保できましたか」

 

「既に首謀者まで捕らえている。改めての沙汰は、後日にまた連絡しよう」

 

聞いた武は、安堵の一息をついた。護衛に任せるということで、ある程度の経緯は予想していたのだが、実際に確認するまでは不安だったのだ。嘘を言っている可能性もあるが、それを疑っても自分にできることはない。真壁介六郎はそうした方面での小細工を好かないのだ。武は事情を飲み込み、改めての問いを向けた。

 

「最後に戦場で暴れた怪物。あれは、どういった扱いになりましたか」

 

「………鉄大和中尉は、補給を受けに基地に入った途端に気絶」

 

そこから先は、武が想定していたケースの一つに収まったという。つまりは、鉄大和の代わりと今まで静養していた義勇軍の一人が代わりに陽炎に搭乗して、彼は暴れ回り――――死んだということ。

 

「俺を回収する際は?」

 

「救助の作業は、斯衛の大半が撤退した後に行った。遺体ということで、顔を隠し搬送した」

 

「成る程」

 

事実が発覚する要因は多々にある。陽炎に搭乗する姿を見た者も居たはずだし、それ以外にも。だけど、誤魔化せる言い分もそれ以上にある筈なのだ。尋常ではない戦術機の腕、そればかりではない。特に、戦場であの陽炎を操っていた衛士と言葉を交わした者が皆無だったという点が大きい。

 

「………王の遺体は?」

 

「レーザーに貫かれた後に爆散し、更にBETAの大群が通ったんだ。コックピットの欠片さえも回収できなかった」

 

「そう、ですか」

 

武は深くため息をつき。そして、生き残った三人の事を聞いた。マハディオ・バドルは基地のハンガーに。最後の時に右腕部と左膝の関節部を損傷してしまい、その修理をどうするか整備班と話し合っているらしい。そして、もう二人。

 

「黛中尉と小川中尉はどうしていますか?」

 

「一応、口止めは完了している。彼らも思う所があるだろうからな。万が一にも、外に漏らすことはあるまい」

 

「………そういや、小川中尉の実家は武家でしたか」

 

白い髪に赤い瞳、そこから連想するに彼女がどういった経緯で家を出たのかは何となくだが予想はできる。実家のこと、それ自身に対してどういった思いを抱いているのかまではわからないが、黛中尉はおそらく知っているはずだ。

 

そして、あの時に化物のような戦果を出した自分に対して思う所があるという言葉を、武は苦笑と共に受け入れていた。想像だが、あの二人はあの機動、戦術を取る自分を、手加減なしの本気の姿と取ったことだろう。ならば、不満と共に不信を抱かないはずがないのだ。

 

「どうして、最初から本気を出さなかったと、そういうことですか」

 

「それは私自身も思う所だが…………そう、単純な話でもないようだな」

 

武の様子から何かを感じ取った真壁は、確かめるように問いかけた。戦場で目にした機動、そして更に進んでいった前線に現れた悪鬼。人づてではあるが聞いた戦いぶり、そして戦術機に残された映像に映っていた鬼神の如き姿は、尋常ではないという範疇でさえ収まるものではない。

 

武自身もわかっていることだ。警戒が深まることも。

 

(起き抜けに純夏しか居なかったのは………そういう事だよな)

 

おそらくだが、起きた自分がまた暴れまわるということも予想してのことだろう。その対策として純夏だけを病室に残したこと、非情に思う所はあったが我慢することにした。怪しまれる原因が何を言えるのか。それに、まだ自分のことに関して伝えていない部分が多すぎた。それに、純夏がそうした扱いをされている原因は他ならぬ自分なのである。今はこの奇貨を。"意識ある状態で動き回れる現在の状況"を活かすべきである。そう判断した武は、また後で話しますとだけ告げて、真壁に向き直った。

 

対する介六郎は、その内容が一体なんであるのか。問いかけようとしたが、何よりもまず確認することがあると、武の目を見て言った。

 

「一つ、尋ねてもいいか」

 

「はい、答えられる問いであれば」

 

「ならば、言わせてもらおう―――――貴様は、一体誰なのだ」

 

真壁介六郎が白銀武と対峙した回数は、2回。しかしそのどちらとも、目の前の男と人格の像が重ならない。暗い過去を思わせる、という共通点はあろう。だが、それに対するスタンスがまるで異なっているようにしか見えなかった。身に纏う空気も、悲壮さを感じさせる少年のそれではない。変貌とも言える様子に思わず問いかけた介六郎に、武はまた苦笑を重ねた。

 

「………なにがおかしい?」

 

「いえ、奇妙な縁であると思っていました。政威軍監閣下の側近殿」

 

介六郎は、何かを言おうとして失敗した。その言葉の意味を理解しようとすると、どうしても頭が痛くなるのだ。それでも、と問いかけようとする介六郎、武は言葉を重ねた。

 

「解離性同一性障害、という言葉を知っていますか?」

 

「二重人格。または、多重人格と呼ばれる疾患のことか…………同じ身体に全く別の人格を持つ症状。最前線のベテラン、重い後催眠暗示を繰り返し受けた衛士に見られると聞いてはいるが」

 

「はい。取り敢えずは、そういう事にしておいてください。詳しくは、後で説明します」

 

今は先に済ませておくことがあると、武は本題を話した。

 

「篁祐唯氏に会いたい。回収したいものと、そしてどうしても今の内に伝えておかなければならないことがあるので」

 

「勝手な物言いを………待て、篁祐唯だと?」

 

介六郎は武の言葉を聞くなり、戦術機に関して何かを伝えようとしている事に気づいた。あり得ない未来の知識。それを持っているという事が嘘でなければ、国内の戦術機設計者でも随一といえるほどの人物に伝えるべきことは多いはずだ。だが、言われてはいそうですかといえるほどにかの人物は帝国にとって軽いものではない。

 

一体どうする方が良いものか、介六郎はしばらく考えたが、この際だと首を横に振った。それは、断るためではなく、今後の方針に対する結論を固めるための、余計な考えを振り払う意味である。疑心暗鬼に囚われて有用な可能性まで潰すのは介六郎とて本意ではないし、主たる斑鳩崇継が最も嫌うことである。主君である崇継が最も嫌う人種とは、自分に課された在り方を無視し、足元の安全だけしか見ようとしない愚物であった。

 

(生きるとは、高き岩壁を昇るが如し)

 

自分の命すら危うくなるほどの困難に挑むのに、足元の確保は必要であろう。だが、留まっているばかりでは成せないものがある。欲しいもの、辿り着きたい場所があるのであれば、苦心の限りを尽くしてそのルートへ続く足場を探し、踏み出さなければならない。安全であった場所を足掛けに、時には危険となる行為を厭うてはいけない。あるいは死の危険性があったとしてもだ。

 

そして主君と自分が辿り着くべき場所は到達困難にも程がある場所であった。

 

(比べて、目の前の男はどうか)

 

目の前の少年は見た目通りの存在ではない。今までの事を思い出せば分かるもの。あるいは、侮っては頭から食われるかもしれない化物と同じレベルの脅威でもあるのだ。果たして信じるに値する者なのか。介六郎は自身よりまず主君の事、そして帝国のこれからの事を考えた。

 

先の防衛戦による痛手。それは決して浅くはなく、痛みをもたらしたBETAの発生源である大陸のハイヴもいまだ健在なのである。どちらが脅威であり、また恐るべき敵か。それを考えると、軍配はBETAの方に傾いていた。

 

これより打倒すべき相手は異星の化物、地球の常識の外にある理を持つ恐るべき敵なのだ。

其れに対して既存の価値観にしがみついているようでは、勝機さえも見いだせない。

 

(ふ………それに言葉が通じるだけ、マシというものか)

 

話し合えるだけの余地か、互いに敵意を斟酌できる時間が、理性があるということなのである。ならばと、介六郎は覚悟を決めた。少年の覚悟は本物だ。先に見せた異常な機動のこと、確かに脅威ではあるが味方の方には害意は向いていなかった。先に対する不安は大いにある。不穏な気配のこと、忘れたわけではない。だがこの少年がもたらすものは、狂気に満ちた理屈や理論もあるいは有用であり、十分に利用できるものだとも考えられる。

 

真壁介六郎は、斑鳩崇継という人間がそれを飲み干す器量があると信じていた。

だから試しにと、何を伝えるつもりか尋ねた言葉に、武は笑って答えた。

 

「今回の防衛戦で、最も大きな問題となった…………戦術機の補給に関するあれこれです」

 

それを、一新するに足る概念を。武の言葉はあまりに予想外なものだったが、内心の動揺を表に出さないまま介六郎は聞き返した。

 

「夢のような技術だな。だが、それは本当に実現可能なことか」

 

「少なくとも米国では。あと数年で実戦に耐えうるものを作ってくるでしょう。あとは、篁主査と巌谷榮二さんを交えて話した方が良いと思われますが」

 

「………そのセッティングを私にしろと?」

 

「無理なら篁少尉を頼ります。でも、真壁大尉が居た方が説得力が高まり、より良い結果が得られるかと」

 

「待て。貴様、いったいどこまで喋るつもりだ」

 

「米国はこれよりG弾を主な兵器とします。それに付随して、戦術機の運用方法も…………わかりますよね、大尉なら」

 

武の言葉に、真壁は考え込んだ。勿論、機密に関することである。しかし、今後の対世界における戦術機運用や新しい可能性を語るのであれば、最低限開発に携わる者のトップは知っておくべきことがあろう。この国にとって有用な技術や知識が入ってくる。それを考えた場合、この提案を却下するのは国益を著しく損ねる行為になりかねなかった。

 

「ちなみに、アルシンハ・シェーカル元帥殿は知っています。親父………白銀影行も」

 

「貴様の父親については置いておこう。個人的には興味があるのだがな」

 

風守光の夫である者が、いったいどういった人物であるのか。介六郎は、怖いもの見たさが混じった心境で、それを見たいとも考えていた。だが、注視すべきはそちらではない。

 

「シェーカル元帥、か。彼は貴様の言い分を信じたのか? いや、そもそもいつから元帥と繋がっていた」

 

「亜大陸撤退戦よりの付き合いです。ある意味で共犯者ともいえる関係で………まあ、技術に関してはちょっとまだ実現は。大東亜連合はまだ発展途上といえるものですから」

 

帝国の技術者が居るとはいえど、東南アジア各国の技術力はまだ発展途上の段階である。

全体的な水準は日本に大きく劣っているし、何より人手が少なすぎることもあった。

 

「食料生産プラントのことも聞いています」

 

「やはり、知っていたか」

 

帝国は極秘裏にだが生産プラントの技術の一部、というより大半を大東亜連合、主に東南アジアの島国各国へ提供している。大東亜連合は見返りとして、戦術機をはじめとした各種兵器の工場を建設する土地を提供し、共に技術力の向上に努めている最中だ。生産プラントに関しても、日本で新たに建設するものの一部を東南アジアで既に作っている。上手くいけば、やがては公表されると共に、疎開民や難民に対しての食料不安も大幅に解消されることとなる。

 

「そういえば、建設予定地を東北地方にとの提案があったが」

 

「具体的には仙台ですね。佐渡、横浜に対しての拠点と、難民の受け皿となる土地は絶対に必要になりますから」

 

土地に関してはどうしようもないが、食料に関しては先手を打てる。実際に、九州や中国地方、近畿より疎開している民間人の受け入れ先は多くないのだ。狭い土地で、食べるものも少なくなる。他国より民度が高いと言われている日本人でも、いよいよとなった段階では暴徒と化してしまうだろう。

東南アジアでも、難民に対する食料援助は可及的速やかに解決すべき問題であった。そして帝国の食料生産プラントに関する技術力は世界でも随一で、整備性や耐久性だけではなく、味に関しても定評があるのだ。安定して食料を供給できるのであれば、治安の維持に割く手も少なくなる。

 

バングラデシュ以東よりの防衛戦で増えた難民を暴徒としてではなく、生産力として動かすことが可能となれば、兵器その他の軍需産業も発展していく。何もかもそう上手くいくはずが無いだろうが、それでも目指すに足る指標ではあった。アルシンハ・シェーカルが出した、帝国に対する大幅な譲歩案を、連合各国の首脳が受け入れるぐらいには。

 

「………懸念事項であった。裏の思惑があると。しかし、シェーカル元帥が知っているのであれば腑に落ちる点はあるな」

 

「ええ。オルタネイティヴ4の打ち切りは、連合にとっての死刑宣告も同義ですから」

 

実行と、津波に呑まれるか空気に揉まれて死ねという言葉が等号で結ばれる。

オルタネイティヴ5による災害を考えれば、死刑宣告という言葉は正しい表現だと言えた。

 

「故に、元帥はここ数年が勝負の時であると思っているのだな」

 

「はい。10年の後に連合が不利な立場に追い込まれようとも、と考えています。少なくとも裏切ることはあり得ません。ここ数年の出来事、元帥にとっては悪夢も同然でしたから」

 

「ちなみに………貴様が元帥に接触したのは何時の頃だ」

 

「亜大陸撤退戦の直後です。その時はスパイかと勘ぐられましたが」

 

介六郎はそれを聞いて、元帥に深く同情をした。当時の白銀武が提案したという様々なこと、それはおそらく少年という立場であっては持ち得ない情報だったのだろう。だが、無視できないものがあった。元帥が持っていた情報に合致するものでもあったのではないか。そうして生かしている内に、次々と入ってくる新たな情報。まるで少年は未来を予知しているかの如く。それが戯言ではなく、次々に確かなものとなっていくのを見るのはどういった心境を生むのだろうか。

 

それは、時間と共にオルタネイティヴ5の末路が、人類の破滅にも似た結末が現実のものであると認識させられていくことを意味しているのではないか。

 

(ならば、多少の損を被ってでもだ。帝国が支えるあのオルタネイティヴ4に頑張ってもらわなければならない)

 

それを考えれば、光州作戦の連合の動きは理にかなったものと思えた。彩峰中将の退役に関する、国内の帝国陸軍の動揺は小さくない。そして帝国陸軍と本土防衛軍の間には浅くない溝がある。

もしもあれがもっと酷い事態に、例えば銃殺刑になっていれば此度の防衛戦とてもっと苦戦していた可能性があった。

 

「………色々と質問すべき点はあるがな。しかし、よく回る口だ。先日の貴様と同一人物だとは思えんな」

 

「自分の方は開き直っているだけです。言っておきますが、自分にも政治的な駆け引きなんて出来ませんよ。先ほど告げたことに嘘はありませんし、言葉遊びによる意識誘導も行っていません。ただ事実だけを述べているだけです」

 

「そして後は託した相手の手腕に任せるのか。無責任とも取れるが………無能な働き者になるよりマシだな」

 

それに、黙りこんでいられるよりかは大いに利用できる。そう考えた介六郎は、すぐに主君たる斑鳩崇継に連絡を取ることにした。

 

「そういえば、風守少佐には。連絡は取らなくていいのか」

 

「今は………ちょっと、勘弁して欲しいですね。俺も、今のあの人に会って冷静でいられる自信はありません」

 

起きてより初めて、複雑であるという心境を顔にした武に、介六郎は疑念を抱いた。だが、冷静でいられなくなるのは、この先の話を考えると避けるべきことだ。そのため介六郎は、直接に崇継へと繋がる経路で連絡を取った。返答は迅速であった。

 

「それでは、斑鳩公も認められると?」

 

「"良きに計らえ"。それが、崇継様より承った言葉だ」

 

手早く着替えを終えた武は、その服が白の斯衛であることに何の疑問も挟まずに、準備が出来ましたと言う。髪型を変えて、いかにもな伊達眼鏡をつける。顔見知りでも一目ではわからないレベルの変装である。介六郎はその様子を始終観察していた。そしてテキパキと変装を終えて、何の疑いもなく急ぎましょうと促す武の言葉に、呆れ声で返した。

 

「昏倒より目覚めたというのに、もう次の事か………貴様もよくやる」

 

「慣れました。それに時間は有限であります、大尉殿。合言葉は、次の戦争のために」

 

「………BETAはこちらの都合など構わないと、そういう事か」

 

「はい。人相手の戦争とは違って………ハイヴに乗り込んで間引きでもしない限りは、もう向こうの侵攻時期は確定しているんですよ」

 

「より多いかもしれない、次の戦争が。カウントダウンが始まっている以上は――――」

 

「明日の準備は早い内にしろ。口を酸っぱくして教えられましたから」

 

今の防衛線にも戦力は残っている。だが無防備はないにしろ、物資も人員も圧倒的に不足している。10日後に始まるのであれば、残された時間は240時間。時計の長針が240回を回るまでに準備できなければ、先の比ではない数の被害が出る。

 

「あれがまた来る、か」

 

介六郎はこの眼の前の少年の心が本当であるか、それを見極めることに対する時間も必要だとは思っている。だが、それ以上に今回の防衛戦におけるこの国の脆さに対する思いが勝っていた。

次に同じような侵攻があれば、耐えられるかどうか。帝都を守り、主君の命を守るためには。その上で今の状態でしか出来ないことがあるという言葉を、介六郎は斟酌した。

 

(底の見えない爆弾………胃が痛いが、それでも得られるものの大きさを考えればな)

 

それとなく腹を押さえながら判断材料をまとめた。この少年に対して、信頼も信用も預けるにはまだ遠い。先の一戦のこともある、失敗すれば即滑落する危険な行為であろう。だが、乗り切ったことにより得られる旨味がそれを凌駕していた。こうしてあちこち予想外に飛び跳ねようとする、実に油断のならない相手だ。しかし底にある人柄はどこぞの愚物とは全く異なっている。

 

「良いだろう。巧遅よりは拙速の方がやりようはある。それに、機を逸した挙句に間に合わないことだけは御免だからな」

 

「早い判断、ありがとうございます」

 

武は告げるなり、深く頭を下げた。

 

「………礼を言われる筋合いはない。必要であれば躊躇なく斬り捨てる、だが………次の戦争に耐えるために、利用できるものは全て利用しなければならない。そして、次の次の戦争のために。あるいは最後の戦争のために、やるべき事は多いからな」

 

介六郎が軽口を混じえた言葉を叩き、武は良いこと言いますねと笑って親指を立てた。

 

だが病院より密かに出発し、目的地である篁の屋敷に到着するとその顔はややひきつっていた。

 

篁の屋敷に到着し、玄関で応対に出た使用人いわく、この屋敷には市ヶ谷より京都に戻ってきた目的の人物である二人だけではなく、その娘も一時的にだが戻ってきているというのだ。

 

お嬢様もお戻りになって、という言葉に武は天を仰いでいた。

 

(………oh)

 

(では、ないだろう。いや、スケジュールの確認を怠ったこちらのミスか)

 

介六郎は今回の面会のこと、あまり外に出せる情報ではないと極力内密にすべく動いていた。娘である唯依のスケジュールも、余計な勘ぐりをしては疑われることになると確認を行わないでいたのだ。

 

(そういえば、京都に自宅を持つ斯衛の数人は一時的な帰宅が認められていたか)

 

対外的には、鉄大和は入院中とされている。あの戦いぶりを見ていた人間からの追求を可能な限り避けるためだ。それほどに、あの凶手と呼ばれる程に狂った機動を見せた衛士のことは注目され始めている。正体は隠されたままであるが、候補の人物の筆頭としては鉄大和が上がっている。そのような状況でこのようにこそこそと動いてる今の姿を篁唯依に知られることは、あまり上手くない状況を呼び込みかねなかった。

 

(きっと、大丈夫ですよ。演技は得意ではありませんが、何とかしてみせます)

 

(なんだその根拠のない自信は。いや、嘘が下手だと言った貴様の言は信じるに値しない。私が良いと言うまで絶対に喋るなよ)

 

介六郎は使用人に対し言葉巧みに話しかける。武から聞いても上手いと手を叩きたくなるほどの手腕で、何とか主人たる篁祐唯だけ呼び出すように成功した。そしてやって来た長身かつ痩躯に見える男に対して、開口一番に言ってのけた。

 

斑鳩崇継様の名代で来ております、と。

 

対する祐唯は驚きの表情を見せた。

 

「斑鳩公の名代と、真壁の………当家にどのような要件でしょうか」

 

「御堂家に関しての事。そして、お預かり頂いていた少女について………」

 

そこで介六郎は並んでいる武を前に出した。

 

「はじめまして、になりますでしょうか。すみません、純夏がお世話になったようで」

 

「君は…………!」

 

「ご想像の通りです。父よりどこまで話が行っているかは分かりませんが」

 

「それに関することも。そして他国の戦術機の技術について、機密に関する話がある」

 

介六郎の提案に、祐唯は更に驚いた表情を見せた。彼としては、実戦で使われた瑞鶴についての報告と、機体の状態を実際の目で見るために京都に戻ってきたのだ。

同時に死の八分を越えた娘に祝いを言うつもりであったが、それはあくまで仕事外のことだ。京都でのスケジュールに、戦術機の新技術に関する情報を受取るなど予定にない。

 

だが、祐唯はこれが嘘や冗談の類であるとも思えなかった。斑鳩公は五摂家の当主の中では曲者として警戒されているが、同時にその有能さも広く知られている。そして、彼の懐刀は二刀あるという。

すなわち、"武"の風守に"知"の真壁だ。その真壁が、このような忙しい時期に何の思惑もなく冗談を言いに来るはずがない。白銀武の両親のことも知っている。故にここでお引き取りを願うなど、選択できるはずもなかった。

 

「失礼ですが、斑鳩公はこのお話を?」

 

「私が崇継様の名代だ。良きに計らえとのお言葉を承っている」

 

つまりは、斑鳩公の言葉も同然というわけである。俄然に信憑性が増してきたことにより、祐唯の心臓が跳ねた。他国の戦術機、その技術に関する話だ。帝国の技術者として、これを聞き逃すなどできようはずもない。

 

「また、同席者は巌谷中佐だけとしてもらいたい。絶対に外には漏らせない話だ」

 

「………分かりました。では、こちらへ」

 

 

 

そして、数分の後。屋敷の一室、畳の上で4人の男が対面していた。

 

「さて、急ぎ話を聞きたい所ではありますが………その前に、一人だけ私も篁も知らない人間がいますな」

 

質問を向けたのは帝国陸軍の中佐、巌谷榮二である。険しい表情のまま、唯一身元が明らかでない少年に視線を向ける。篁祐唯と巌谷榮二、その両名は顔は知っているが、まだそうであるとの確証がない。武はそれを受け止めると、ではと口を開いた。

 

「自分は、鉄大和…本名は白銀武といいます。年は15歳。今はベトナム義勇軍所属で、階級は中尉であります」

 

「鉄、大和か」

 

「はい。アルシンハ・シェーカル元帥の指示で、そう名乗らされています」

 

「大東亜の黒虎の………!」

 

そこで二人は視線を真壁に向けた。彼の背景については知っているのか、という確認をするような探りの視線だ。真壁はそれに対し、全て把握していますと答えた。

 

「………唯依から話は聞いている。娘が世話になったようだな」

 

「先任の義務を果たしたまでであります。自分も、篁少尉には随分と癒やされました」

 

「ほう、唯依ちゃんがな。しかし癒やされたとはどういう意味でだ」

 

「素直で真面目な努力家である所が。すぐに自己反省に没頭する所がありますが、それも高みを目指しているからこそ。いや、純朴すぎるので見ていて危ういと思える点も多々あるのですが」

 

「成る程。確かに、国連軍も大東亜連合軍も曲者が多いとは聞いている」

 

武は深く頷いた。記憶を掘り返しても、精鋭部隊には曲者が多すぎるように思えた。だが、今はそのような話をしに来ているのではない。そして巌谷中佐の言葉は、自分の元の所属を知っているかのような言葉だ。

 

「………失礼ですが、中佐は最近になって父と会われたことが?」

 

「シンガポールでな。君の話も、断片的にだが聞いた。ここではとても話せないが………まさか京都で一緒に戦っているとは思わなかった」

 

「助けられた、という唯依の言葉を信じよう。だが、腑に落ちない点が多くある」

 

純夏の事と、御堂家の動きに関してだ。そして帝国内でも有名な情報省外務二課の課長が動いていることは知っていた。横浜でのこと、風守と白銀に関する問題だけであれば外務二課が動く理由はない。しかし、ここで納得できるような情報が入ってきた。

 

「シェーカル元帥と言ったな。榮二も言っていたが、君は国連軍の衛士として東南アジアで戦っていたのか」

 

「亜大陸撤退戦の以前より。ボパール・ハイヴ攻略戦にも、囮役としてですが参加していました」

 

「………は?」

 

記憶が確かであれば、それは4、5年も前のこと。つまりは10歳で実戦に出たという事を意味するのだ。二人はそこで真壁の方を見た。まさかこのような狂言を信じているのではないだろうな、という無言の抗議である。呆れすら含まれた視線を向けられた真壁だが、疲れた顔のまま確認は取れていると頷いた。

 

「今朝方ですが、詳細についてターラー・ホワイト中佐に確認が取れました。また、東南アジアに派遣されていた帝国陸軍の尾花少佐と、初芝少佐。そしてかつてクラッカー中隊に所属していたというマハディオ・バドル中尉も認めています」

 

「影行が亜大陸に出向していた事は知っている。君はそれを追いかけていった………まて、クラッカー中隊だと?」

 

「はい。ターラー教官の指揮下で、マンダレー攻略戦まで戦っていました」

 

生きた反応炉を世界で初めて撃った男です、と淡々と語る武。

対する祐唯と榮二は、目を閉じて眉間を揉んでいた。

 

「亜大陸には………追いかけたのか追い出されたのか。そのあたりの事情も含めて、自分の背景というか絡んでいるものは本当に複雑なんですけどね………」

 

「風守に関しては、それとなく推測はできる。だが、要因はそれだけではないと?」

 

「原因というかそのあたりに関連している武家としては、風守と御堂。そして煌武院の家々が上げられます」

 

詳細を聞きますか、という武の問いかけ。対する二人は、卓上のお茶をゆっくりと飲んだ後で、断固拒否するという構えを見せた。冗談でも聞くような内容でないと、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。武は二人の返答に頷くと、ではと話を進めることにした。あくまでここまでの話は、いくらか信憑性と説得力を高める材料でしかない。このあたりの事情に関しては本当は余分であり、技術開発に携わっている二人には詳細を知らせる必要のないことだ。

 

「まずは、米国の次世代の主力機について。第三世代機として正式に配備されるのは、最前線で衛士が必要としているタイプの戦術機ではありません」

 

「どういう意味だ? 対BETAの兵器である戦術機だが、最前線で衛士が使うような類のものではないという理由が分からん」

 

「失礼ですが、第四、第五計画という単語について聞き覚えはありますか」

 

「………単語だけならばな。詳細は知らされていないが、それに関連するものか」

 

「はい。今後の米国は………詳細は伏せますが、超威力の爆弾による爆撃を前提とした戦略ドクトリンを練ってきます」

 

「戦術機によるハイヴ攻略ではなく、あくまでその爆弾を主体とした攻略作戦か。つまりは、戦術機を見限る方向で動いていく………いや、それだけではないな」

 

「はい。その爆弾による攻略が確実として、米国は戦後の事も念頭において開発を進めています」

 

武の言葉に、祐唯は戸惑いながらも思考を止めず結論に達した時に、忌々しげな表情を見せた。

 

「ステルス、か。対BETAではなく、対人類であればこの上なく有用なものになるな」

 

レーダーに映らなくなるというそれは、対人類用のそれ以外のなにものでもない。

対BETAの兵器として生み出された戦術機としては、邪道にも程があるという機能だった。少なくとも人類の大敵たるBETAを倒すために戦術機開発を進めてきた人間であれば、そんな機能は無駄の極みであり、最初から付けたくもないという想いを抱くだろう。

 

「ファストルック、ファストキル。ステルスにより米国は対国家戦での運用で、絶対的な優位性を得ようとするでしょう………ですがまあ、こっちは取り敢えずは放っておいていいです」

 

むしろ放っておいた方がいい。当面の敵はBETAではある。第五計画を考えれば米国も敵といえるが、力で打倒する相手ではないのだ。どちらもたやすくは御せない相手ではある。

 

BETAは数の力。そして米国もBETAには劣るものの物量という武器を持っており、その技術力や諜報能力も生半可なものではない。敵手としての厄介さとその頑健な在り方を考えれば、米国はBETAに匹敵する大敵であるとも言えよう。

 

だが帝国に二正面作戦をするような余裕はなく、またどちらも一国だけが全身全霊を賭けたとして勝てる相手ではない。ステルスも、簡単に対策を立てられるような生半可な技術ではないのだ。

 

「その第三世代機は、YF-22とYF-23。前者はロックウィード・マーディン、後者はノースロックの………フランク・ハイネマン氏がデザインした機体で、性能はこちらの方が上。ですが、採用はされないでしょう」

 

「米国の戦術ドクトリンと合わなかった、ということか」

 

祐唯はあらゆる違和感を無視し、もしあったらという想定の上で武の意見を真剣に受け止めた。その論調に乱れがなく、内容もまるっきりの嘘ではないどころか納得できる部分があるからだった。ドクトリンと戦術機の扱いかたの変遷に関しても、無視しきれないものがある。開発される兵器は国が決めた戦略に沿った性能で無ければ意味が無いのは確かであるからだ。米国は戦術機を斜陽の機体とし、その超爆弾を主たる兵器として用いるつもりである。成る程、と頷かされる理屈ではある。

 

その先の説明に関しても、およそあり得ないと指摘できるような点は無かった。近接格闘性能でいえば、ハイネマンのYF-23の方が優れているが、整備性や低燃費高速飛行を考えればYF-22、後にF-22A《ラプター》と呼ばれるようになる機体の方が優れている。

 

ステルス性を活かした隠密行動、対人類における戦争を考えればF-22Aの方に軍配が上がる。第三世代機ではないが、どこかで聞いたことのある話だった。

 

「ですが、それは対人類の戦争が起きてからのこと。また、第五計画が本案として採用された後のことです」

 

その後はもう、対人類とかそういう範疇ではなくなる。故に活かすべきはもうひとつのことであると、武は考えていた。ステルス能力も、本体の設計も門外漢である武にはわからない。必要だとも思えない。だがもうひとつの機能がある。

 

それは元はYF-23の機体に備えられていたもので、そのあまりに優れた概念に、設計変更を厭わずF-22Aへ搭載されることが決定されたという程に有用なもの。

 

(その上で、"理由"が足りる)

 

武はこの奇貨に感謝を示した。篁祐唯は戦術機開発では国内では並ぶものが居ないほどの技術者である。その上で、かつての曙計画では影行と共にフランク・ハイネマンに師事していたというのだ。そして先の防衛戦で、帝国軍は補給に関する隙をつかれた事もある。

だからこそ追求された時の対策にもなるのだと、武は説明を始めた。

 

「統合補給支援機構――――通称"JRSS(ジャルス)"と呼ばれる概念があります」

 

補給を改善する問題と、そして。

 

「将来に開発されるであろう、オルタネイティヴ4の副産物について」

 

それから武が語った内容は雷鳴に似た衝撃を以って、三人の武家の戦人の心に激しい火を灯していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜。武は部屋に戻り、呼び寄せた客人を待っていた。空はもう薄暗い。雲はなく、欠けた月がぼんやりと浮かび上がっている。病室の中は暗く、明かりはわずかな月明かりだけ。

 

唯一あるベッドの横の台には、篁の屋敷で受け取ったサンタウサギがある。

嫁である篁栴納にはかなり疑われていたようだけど、本人に返すためだと説得してくれたらしい。

 

「苦労、かけちまったな」

 

実戦と戦術機の事に関しても、雑談交じりに夜も遅くまで話をしてしまったせいか、篁少尉がかなり拗ねてしまったらしい。訝しむ嫁と拗ねている娘という二正面作戦を強いてしまった元凶は自分でもあり、やや申し訳ない思いがあった。だけど今頃は家族水入らずの団欒を楽しんでいるだろう。篁少尉だけではない、多くの武家の、あるいは普通の人たちでさえも。

 

来月には十五夜だ。この蒸し暑い夏も終わり、秋が訪れるだろう。

 

(無事に生き残れば、だけど)

 

武は元の病人服に着替えつつ、椅子に座って呼吸を整えた。

そして予定の時間の5分前に、その人物は現れた。

 

「よう、マハディオ・バドル」

 

「…………はじめまして。いや、また会ったなと言うべきか」

 

呼びかける名前。マハディオはシロガネタケル、という微妙にニュアンスが異なる声を発した。武はそれの意図するもの理解しつつ、笑ってみせた。

 

「いや、数回は会ってるだろ。まあ、俺としても今回の事は予想外だったけど」

 

少し距離をおいて二人は対峙していた。そこに長年の戦友という間柄は存在しなかった。気の置けない関係ではない、一瞬足りとも気が抜けないという緊張感が部屋を染めていく。

武は、飄々と。マハディオは探るようにその姿を観察していたが、埒があかないと口を開くことにした。

 

「聞きたかったことがある。お前も言ったが、俺とお前が出会った場所についてだ」

 

俺の記憶が確かであれば、とマハディオは訝しげに尋ねた。

 

「いつも、糞ったれな戦場だった。あるいは、俺の知らない何かを喋るに必要な時だけ」

 

過酷な戦況、目を覆う程の事態になってからだ。あるいは、どうしても必要になった時か。マハディオは目の前の少年とコックピットの外で、しかも大した状況でもない、普通の廊下で雑談するような状況に違和感を覚えていた。武もその意見に頷き、同意を示した。

 

「俺も、正直想定外だった。特に純夏が京都に現れるなんて、夢にも思わなかったから」

 

「………幼馴染のあの子か。確かに、ひどく取り乱していたようだったが」

 

「あの、浅い段階での暴走もな。正直な所、想定さえもしていなかった」

 

マハディオはその言葉の意味、そして真偽を考えた。想定外という言葉は、普通に考えれば同意できるものだった。まさかあんな所にポツンと民間人が残されているなど、諜報員にツテでもなければまさか思うはずがない。その時の状況と、紫藤樹の言動を思い返せば尚更だ。実際に、武の顔も沈痛な面持ちに変わっていた。マハディオはその表情を見て、意外だと呟いた。

 

「何もかもが想定の内、全ては計画通り。お前にはそういうイメージを抱いていたんだが………」

 

「まさか、あり得ない。どこぞの天才でもあるまいし」

 

思い浮かぶのは自分の知る世界最高の天才。そして、その天才でさえも想定外の事はあり、全てを掌の上で転がすことなどできないのだ。

 

「俺も、神様じゃないからな。持っている札は多いけど、相手の手筋を全て予想できるはずもない」

 

特に今の日本では、多くの勢力がそれぞれの思惑を抱えながらぶつかり合っているのだ。その全てを予想し掌に収めるなど、およそ人間に可能なことではない。

 

「………いつだって人は数字の中には収まらない。予想外の事なんて、日常茶飯事だ」

 

実際の所、"声"が想定していた事態は半分以上が外れている。

失敗もあった。実際、予定どおりにいかない事の方が多かった。

 

「まあ、最低限のラインはかろうじてクリア出来ているけどな。それも、本当にぎりぎりだけど」

 

「その、最低限のラインとはなんだ」

 

マハディオとて馬鹿ではない。今の目の前のシロガネタケルが想像を越えた情報を持っていることは、何となくだが気づいていた。それを以って何を成そうとするのか。どうしても理解しておかなければならないと、一歩踏み込んで問いかける。

 

「お前が守るべきものはなんだ。何のために、あいつとお前は戦っている」

 

あいつは、白銀武。お前は、シロガネタケル。その奇妙な言い回しに、武は動じずに答えた。

 

「あいつに関しては………まだ定まっていないんだろうな。あまりに多くの事がありすぎたから」

 

特に風守光、母親との再会と純夏との再会は最大のイレギュラーで、この上ない心労になりうるものだった。だが、それをも活かすことが出来た事を考えると、むしろ想定していたより良い方向に転がっていると考えられた。

 

(まだ、最後のライン次第だけどな)

 

守るといえど、どのあたりまで。大切な人、戦友との約束、それら全てが複雑に絡み合っている。

 

「明確な答えはないから。今は眠っている本来の白銀武の考えも、定まりきっていない。優柔不断だって責めるか?」

 

「それがあいつの性格だ。守りたいものが多く、諦めることを知らない」

 

「………だが、それじゃあ足りない。今のままでは、不足なんだ」

 

武は下唇を噛んだ。ふっと、横目でベッドを見る。

そこには、生身の鑑純夏が座っていた場所だった。

 

「お前は………武じゃないそうだ。だけど、ならお前が守るべきものはなんなんだ」

 

「白銀武が守りたいと思った、全てのものだ」

 

"声"の主はきっぱりと告げて、だからこそと言った。

 

「何を犠牲にしてもだ。こいつが泣き事に暮れようともその方法を追い求め、提示し続ける。最後に定めた望みを、成功させるために存在している」

 

「…………お前は、一体なんだ」

 

「自分が何なのか、それがわかっている人間がどれだけ居るんだろうな」

 

はぐらかし、告げる。

 

「だけど、それを定めなければ始まらない………それにはお前が邪魔なんだ」

 

「な、に?」

 

「清水寺での言葉、聞こえていた。尤も、元帥も予想していた事だけどな」

 

アルシンハ・シェーカル。その名前が出てきたこと、邪魔だと言われた途端にマハディオは最大限の警戒心を抱かされた。元帥が行った策謀、裏工作について全てを知っている人間はいないが、それでもその手腕は東南アジアどころか世界各国に知られている。それを聞いては、緊張するなという方が無理だった。

 

「どうして、武にとって俺が邪魔になる。俺に白銀武を害する意志はない。いや、それすらも疑うってのかお前は」

 

「疑ってねえ。本当に、誓ってもいい。本気で守ってくれてるってのは分かってる、だけど………凶手と呼ばれた"アレ"だけど、まだ最終段階にまで至っていないのは分かるだろう」

 

「当たり前だ。アレになる前はいつも、お前が出てきて何かを語っていた」

 

まるで、それが合図のように。だからこそ警戒するマハディオに対し、武はその通りだと答えた。誰からも凶手と呼ばれる、理外の獣。あれはトリガーを切っ掛けに現出するものだからだ。

 

マハディオも嫌というほどに理解できていた。なぜなら、未覚醒を示す証拠として、最終的に味方機の誰も害されていないのだから。

 

「それも、もう三度目か………だけどこれが最後の機会なんだ。それを乗り越えるには、一人でなきゃ意味がない。これだけは、人の手を借りちゃいけないんだよ」

 

「………人間、どうしても一人で乗り切らなきゃいけない時があるとは言うがな。だが、それだけで納得するとでも思ったか?」

 

それでも、マハディオは納得しなかった。何より、目の前のシロガネタケルの言葉が真実である証拠など、どこにもない。一歩も退かないという意志を見せる。その決意に対する少年は、更なる決意を返して、彼を言葉で刺した。

 

「………予想はできていた。マハディオの言動なら、ある程度は………元帥もな」

 

「なにを、言っている」

 

「ガネーシャ曹長と、プルティウィ。今は二人共、シンガポールで元気に暮らしているだろうな」

 

「なにを言って…………っ、お前、まさか!?」

 

「大東亜連合軍、アルシンハ・シェーカル元帥よりの言葉を伝える」

 

戦慄くマハディオを前に、武は辞令の文を淡々と読み上げるように告げた。

 

「マハディオ・バドル中尉。貴官の要望に応じ、大東亜連合軍戦術機甲連隊の大尉として、貴官を受け入れる」

 

「っ、誰がそんな要望を出した! 俺は、最後まで武を守ると…………っ!」

 

怒り、胸ぐらに掴みかかる。武は襟元を締めあげられて息苦しくなったが、それでもと至近にまで近づいたマハディオの目を見たまま言葉を続けた。

 

「これ以上は、不要だ。必要とされる場所に帰れ、マハディオ」

 

「俺はここに残ると決めた。あいつならいざしらず、おめおめと引き下がりはしないぞ」

 

「………正直、ありがたく思っている。マハディオ・バドルが居なければ、白銀武はユーラシアで死んでいただろう。しかし、それでも――――」

 

「聞かないって、言っただろう」

 

梃子でも動かないとばかりの返答。対する武は、諦めたようにため息をついた。マハディオもそれを察し、手を緩める。しかし、次の言葉は爆弾に等しい衝撃をもってマハディオの脳の奥に届いた。

 

「許してくれ、とはいわない。言えない。だけど…………」

 

言葉を切って、告げた。

 

 

「要望を受け入れて連合の衛士になること――――それが、二人が無事でいる条件だ」

 

 

「っ、てめえぇっっっ!」

 

 

マハディオは怒りのままに、武の頬を全力で打ち据えた。殴られた武はたまらず、壁にまで後退し、ずるずると座り込む。切った唇から血が落ちる。武はそれを拭うが、視線だけはずっとマハディオから逸らさなかった。

 

「………何とか、言えよ」

 

「なにも、言えない。これ以上は、なにもない」

 

「っ、言い訳でもなんでもいいから! だから、何か………っ!」

 

「それでも………万が一があるんだ。許されない。ただ………これは俺が提案し、元帥が頷いたから。それが全てだ」

 

そして、と武は告げた。

 

「なあマハディオ。いつだったか、最初の演習の時のリーサの言葉を覚えているか?」

 

「………ああ」

 

マハディオは俯きながらも、答えた。

 

「絶望の海を泳ぎきるのに必要なもの。それは微かでもいい目標と、絶対に越えるという覚悟と勇気だ。それだけが、先の見えない暗闇の光明となる」

 

光さえもない夜の海に落ちた時、助けも期待できない時に生き残る方法はただ一つだけ。それは、泳ぎきるという絶対の意志。必要なものは小さくても目印になるものと、諦めない断固たる決意である。

 

「それが必要なんだよ。今のように、ただ戦っているだけじゃ………前に逃げているだけじゃ、あの海は越えられない」

 

そして、と武は自分の掌を見つめた。

 

「………目を背けていることがある。あの日に浮かんだ疑いを、そのまんま放ったらかしちまったんだ。それを、直視しなければ戻ってもこられない」

 

武も自覚していた。今は眠っている武は、記憶より抹消した。それを考えることさえ嫌で、眼を逸らしたまま部屋の端っこに隠してしまった。だけど、それはもう自分の一部となっているのだ。それと対面し、暴かなければ本当の意味で前には進めないと武は信じていた。

 

「もう一度、できるなら。逃げないで真正面から向き合うことが必要なんだ。だから今度のBETA侵攻の時、俺は引き金を引く」

 

記憶の蓋を最後まで開ける、とは心の中だけで呟いた。半端な覚醒ではなく、今までに何度か行ったことを。だけど、それは自殺行為に等しいことであった。武も、もう自分の精神に限界が訪れていることは分かっていた。

 

音もないが、確かにひび割れる感触があったからだ。その原因には心当たりがありすぎた。記憶の蓋を開けるとは、つまりはかつてのどこかで白銀武が戦い生きたループの記憶を直視することを意味する。戦い、戦い、戦っても最後には負けてしまった記憶達。道中で身につけた技術は様々で、使えばこの上ない武器になるものも多い。

 

だけど、そう都合よくはいかないのだ。例え自分の心でも、いや自分の心であるからこそ思い通りにはいかないもの。

 

最愛の人の傍にあり、それでも無残に引き裂かれて踏み潰された記憶を思い出す。それは、膿きった傷にナイフで塩水を抉り割く行為に等しい。そして、武は自惚れじゃなく断言できた。

 

ラーマにとってのターラー、あるいは、その逆。

 

風守光にとっての白銀影行、あるいは、その逆。

 

マハディオにとってのプルティウィ、あるいはその逆。

 

今までに出会った人は多く、誰しもが絶対に失いたくない大切な人を持っていたはずだ。

 

それを目の前で失うという、考えたくもない痛みがある。己が眼を潰し、胸を掻き毟り、腸を引きちぎりたくなる程の慟哭の記憶が付随してくる。

 

 

「限界と共に、また試される時がくる………もう、これが最後の機会なんだ」

 

 

誰が何を言い繕おうとも、帝国は今や斜陽の時である。国土の半ばが侵され、蹂躙されている。もう近畿以西は別の土地だ。人はなく、山も川も全てが破壊され続けている。帝都とて、最早限界に近い。次はいけるだろう、しかしその次は危うく、更に数を重ねられればその結末は目に見えている。

 

そして、その後は何もかもを御破算にする、人類史上最悪ともいえる計画が待ち構えているのだ。

 

(バビロン災害。全人類を巻き込んだ壮大な自殺を………そんなものを許すわけにはいかない)

 

だが時間など既に無く、具体的な勝算も在らず、全てを解決する方法など何処にも存在しない。

でもだからこそ、その時こそが、この日本で戦ってきたことの総決算となると。

 

 

見たことがない程の決意を秘めた瞳を前に、マハディオはそれ以上の反論を全て封殺されていた。

 

 

 


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