Muv-Luv Alternative ~take back the sky~ 作:◯岳◯
戦いが起こる前、その時点で一番重要となる情報はなんであろうか。正しい答えはいくつかあるだろうが、筆頭として上がるものが敵の動向である。近代兵装は古代のそれより優秀であることに間違いはないが、準備に時間がかかる。いかな精鋭とて、兵装を持たない無手の状態で不意を突かれたり前後左右に囲まれればひとたまりもない。さりとて争いに、相手がBETAである戦争には特に開始線もなければ、合図もない。攻められる側は、事前に敵の攻勢を察知しなければ大きな失点となり得てしまう。
「だから斥候も偵察も重要な役目なんだ。索敵なんかは特にな!」
「いい加減耳にタコができましたよ曹長殿。本懐である本土防衛に回されなかった愚痴はそれだけで十分ですって」
「新島軍曹…………貴様、誰が愚痴っていると?」
「貴方です、古谷曹長閣下」
日本海に漂う波の上で、2人の男が睨み合っていた。同じ町に生まれ、歳の差はあっても上官と部下として入隊してからずっと同じ隊に配属されているという腐れ縁である2人は、半島で絶賛活動中であるというBETAの動向を探る任務の途中であった。重装甲の艦隊は、多少の波などものともしない程に頑丈だが重光線級のレーザーはその限りではない。陸地に近づけばその光線級の餌食になるだけなので、動向を探れるぎりぎりの距離を保ちながら遊弋していた。
「………これが重要な役割なのは分かってますよ。でもまあ、曹長の気持ちも分かります。夫なら嫁さんがいる京都を守りたかったですよね」
「そうだな。嫁もおらんお前に分かるとは思えんが………ああ夏菜子! 子供も生まれたばっかりだってのにちくしょう………!」
「ご愁傷さまです。あ、でも子供の写真と自慢話はもういいですよ。戻しそうな程にお腹いっぱいですから」
「まあ、そう言うな軍曹。お前しかおらんのだ」
がははと笑う古谷に、新島は乾いた笑いしか出せなかった。監視をしながらも雑談をしている2人に対し、背後から盛大なため息が吐く者がいた。
「まーた雑談ですか? さぼってないのは分かるからいいですけど………万が一にも監視の任の方で下手うったらぶっ殺しますよ」
「うっ、水沼少尉………」
2人の役割とは、望遠で半島の沿岸部やその奥にある平地を監視することだ。索敵は本来であれば航空機の役割だが、BETA相手では光線種に撃ち落とされてしまう。衛星からの監視もあるが、万が一にも敵侵攻の予兆を察せなければ本土に大きな被害が出てしまうことは必至だ。BETA特有の振動によりその動向を察知するのにも限界があった。故に二重、三重にして万が一にも取り逃しのない方法での監視が行われているのである。
「ですが、衛星からの方が確実でありますし。BETAの動向について、自分たちの役割がさして重要であるとは………」
「貴様の言いたい事は俺にもわかる。わかるが、それ以上は言うな新島よ。索敵の失策など、起こってからでは遅すぎるのだ」
分を越えた言動をする新島に、古谷は少し表情を変えて叱責した。声の裏に含められた剣呑さに、まだ実戦経験もない新島は息を呑んだ。
「不満があるのは分かる。だが外には出すな。そういった言葉は一端外に出てしまうと、質の悪い風邪のように蔓延してしまうのだからな」
「曹長の言うとおりです。必要な事だからやっている。思えないまでも、次に言葉にすれば相応の処理はしますよ」
示しがつきませんし、という水谷の言葉に新島は黙り込んだ。とはいえ、それ以上は二人共言わなかった。それが彼の本音ではないことを知っているからだ。
「まあ、確かに本土を守る戦い。その近くに在りたかったのは分かります。実を言えば、私もそうですから」
最初の電撃侵攻により、九州や中国地方に残っていた日本人は大量に殺されてしまった。その土地にあった何もかも、あの異星の化け物によって壊されてしまったのだ。何の罪も無い人が、きっと何を想う暇もないままに。九州の南部に残っていたとされる部隊も、第二次の侵攻により壊滅してしまったという話だ。そんな怨敵を直接ぶっ殺したいというのは、軍人であれば当然の思考だった。
「それに訓練学校で知り合った友達、だったか。身寄りのない、九州に配属された機甲部隊に………残念だったな」
「いえ………MIAになった時点で覚悟はしていましたから」
新島は珍しいことでもありませんし、と首を横に振った。確かに、誰それの知り合いが戦死したなど食堂で聞けば一日に一回は聞くようなことであり、日常の風景の1つでもある。
耐える者、割り切る者、そもそも悲しまない者、色々いるだろう。だが、悔しさが無いといえば嘘である。直接ではないにしろ何らかの形で仇を、分り易い成果でBETAに目にものを見せてやりたいという気持ちを持っている者は多い。
「だがこっちの方も同じぐらい重要な役割だからな。今も言ったが九州に展開していた西部方面軍のこと、知らないわけじゃないんだろう」
不意を討たれて前後からの挟撃。帝国の軍内では西武方面軍は、京都防衛のために配備されている各部隊と同じか、あるいはそれよりも上であるとの噂があった。
だが、BETAの奇襲を受けてしまい、呆気なくとの感想が漏れるほどの短時間で壊滅してしまった。相手の規模が規模だった、という声もあるが、それ以上に不意をうたれてしまったのが原因だとする声もある。
「衛星の監視はほぼ完全だろう。が、恐らくの推測を脱し切れた訳でもない。一刻も早い報告、あるに越したことはあるまい」
そうして、三人は見つめる先を。肉眼では見えない海の向こうの半島を睨みつけていた。BETAに占領や占拠などそういった概念があるとも思えないが、今はBETAの占有地となっている土地だ。こうして見えなくても、何か別の惑星のものであるかのように、異様な雰囲気があるように錯覚してしまう。だけど実際現実、そこから異星の敵はやってくるのだ。それも海を渡り、守るべき祖国の民を脅かす。
三人は、先の侵攻でのBETAの総数は少なかったと聞く。斯衛の奮闘もあったというし、防衛ラインに居た帝国軍の被害もかなり少なかったようだと。
「索敵し、報告し、本土が備えて被害なく迎撃…………最悪よりかはな。ずっと、続けばいいんだが………」
見つめる先、海の向こう、大陸の先の先である半島は今日も奇妙な平穏が保たれているようだった。
一方で、本州。嵐山の基地の中で異邦人であるマハディオは目の前の事態に、疑問を挟んでいた。
「…………で、鹿島中尉殿。なんでお嬢ちゃん達はまた仏頂面に戻ってるんだ?」
久しぶりの涼しい気候。寝汗も少なく、爽やかに目覚めることが出来た朝。食堂に向く足取りも軽くなるというもの。だがマハディオがそこで見たのは、イチャモンをつけようとした大男の衛士がたじろく程に不機嫌な雰囲気を発している2人の少女の姿だった。剣呑という文字を目から発射しているようにも見える。眼光だけで斬られそうだとは、鹿島の弁であった。
「おい………鹿島中尉?」
「あーと………俺も詳しくは知りません。ただ甲斐少尉に聞いたのですが、2人は昨日の夜に何やらレポートらしきものを読んでいたと」
「あー、成程。つまりあの馬鹿がやらかしたってことだよな」
マハディオはそれとなく事情を察した。上昇志向の強い2人が居て、そしてあの女性と仲良くなるスピードにかけては定評のある白銀武が居る。そして、表情。篁と山城の2人の表情には見覚えがあった。腹が立っているんだけど納得できる部分もあるから素直に憤怒に没頭できないと言わんばかりの、歯切れの悪い怒り方は何度も見たことがあったからだ。
「猪突盲信に、自己反省イノシシ娘………フフフ、よくぞ言ってくれたものね」
「剣術一辺倒つまり剣術馬鹿――――それはわたくしに対する挑戦ですわよね?」
ほら、とマハディオが顎で二人を指し。
鹿島は、はあ、としか返すことができなかった。
「そうですね………年頃だし色々あるということで」
「でも………バドル中尉、彼女たちをこのまま放っておいて良いのでしょうか」
斯衛の他の3人の表情がよろしくないというのは鹿島にも分かっていた。なんとなくだが、怒っている2人に対して少し距離があるように思えたからだ。何か新人達の間で揉め事でもあったようにも見える。それはマハディオにも分かって、だからこそ風守少佐が何とかするだろうと軽く流した。だが5人の様子に常ならぬ雰囲気を見ていた鹿島は、マハディオにフォローをしなくても良いのかと再び尋ねた。が、マハディオは黙ってノーサンキューだと言うだけ。鹿島は当然納得できるはずもなく、何がですかとたずねる。対するマハディオは、一本づつ、指を立てながら理由を上げていった。
「………余所者が我が国の斯衛に、海外の義勇軍風情が我らが武家に、歳若い女性の問題にうんぬんかんぬん。ただでさえ複雑極まる状況だってのに、これ以上の上乗せは勘弁願いたいんだよ」
「いや、まさか。彼女達がそんなに悪い子だとは思えませんよ」
「俺もそう思う。だけど、外から見た時の問題を言っている。斯衛の訓練生、任官繰り上げの数が増えたって話は聞いただろう」
斯衛の戦術機甲部隊が最前線に配属される事が切っ掛けだった。致命的にではないにしろ、京都の中央を守る戦力が減じたのは確かなのである。だからと、篁を筆頭とする5人の活躍もあり、斯衛と帝国軍は予備役としていた今季の訓練生を呼び戻したという。また急な話で、明日にはここ嵐山の基地に配属されるという話だ。
「そこかしこで何もかもが動き始めてる………だから、立ち位置は明らかにしておかなきゃな。遠すぎるのも駄目だが、俺たち義勇軍は距離をある程度空けておく。誰にとっても損な事になりそうだしな」
「………風守少佐のフォローにも限界があるでしょう。中尉は、もし間に合わず万が一があったとしても構わないと」
一度とはいえ、同じ戦場に立った隊の仲間である。ややあからさまにいう鹿島に、マハディオがハッと鼻で笑い言った。
「勘違いはするなよ。"俺達が"死なないようにフォローはする。当然、やるさ。だけど馴れ合うつもりは毛頭ない」
優先順位がある。鹿島ははっきりとそう告げるマハディオの目を見て、今までにはない冷たさを感じていた。少し軽い部分があるも、基本的には任務に対して真面目なネパール人の姿はそこには無かった。瞳の端に、冬場にだけ感じるような芯から来る寒さをも感じさせられるような光がある。
それは、東南アジアから帰ってきた幼馴染の初芝八重の中と同種の輝きだった。それに、俺達とは誰と誰までが入っているのか。問いたいという気持ちが出てくるが、逆の言葉も浮かんでくる。
「ピリピリしてますね。何かあったんですか?」
いつもの余裕が含まれた態度とは違う姿に、鹿島は違和感を抱き。原因あっての事かと質問をした彼の言葉を聞いたマハディオは、少し戸惑いを見せた。
「ああ………そうだな。何も―――いや、無いってのは違うか」
知らない内に、どうしてか余裕のない自分になっている。それはあの決意が原因ではなく。マハディオは嫌な予感がすると言おうとしたが、確証もないので謝罪だけを告げた。
「ちょっとイライラしてたようだな。申し訳ない、中尉」
「いえ………自分も、フォローをしなければいけない立場でした」
「そうそう。例の少佐殿にするように、な」
マハディオはそう言うと、少し表情を崩しながら言った。
「勿論、斯衛のお嬢ちゃんたちもな。これ以上酷くなるようならフォローはするさ。ただ今言ったように、俺だけじゃなくて、中尉の方も気をつけておいてくれよ」
ぽんと肩を叩いて、その場を去った。そして歩きながら思考を切り替えていく。
――――さほど興味もない事から、重要とすべき興味のあるものへと。
「いよいよ動くか、タケル。それに、風守少佐も」
今この場に居ない2人、隊の長たる風守少佐と武は明け方に車で京都市内の方へと発っていた。目的地は、五摂家が一家である斑鳩の屋敷という。そして、提案したのは誰でもない白銀武であると、風守少佐から聞かされていた。
「………確率は半分。それだけあればいいんだけどな」
大げさに過ぎる。それが斑鳩の屋敷を見た白銀武が、まず最初に抱いた感想だった。でかいというだけではない。武もこれぐらいの大きさの建物なら、海外に居た頃に何度か招待された。戦術機甲部隊の慰安ということで、盛大なパーティーが開かれて、中隊と一緒に出たりもした。だけど、その時のような家とは一線を画するもの斑鳩の屋敷には存在していた。
入り口の門1つとっても、そこいらのものなど目ではない程のものが感じられるような。日本を出た時には価値などはさっぱり分からなかった武だが、今の自分の視界の内にあるさまざまが一般庶民とは隔絶した位置にある所に属していることは何となく理解はできていた。屋敷周辺より中まで、一種の世界として完成されているようだった。それは重く、どこまでも厚いものを感じさせられる。案内され、中に入ってからはより一層それが増していく。戦場の重圧とはまた違う、まるで自分が異物であると思わされるような、そこは異世界だった。
(これが何百年………いや千年を超える歴史ある家が持つ、重圧かよ)
調度品ひとつとっても、職人の逸話や夏に相応しい"曰く"がありそうな。金額も、聞けば繰り返し問うてしまうようなものだろう。武は転倒するかしてそれらを壊してしまわないように、慎重に歩を進めていった。随伴している少佐や、案内の者も始終無言のまま家の中を進む。
武は居心地の悪さの中、歩いているだけで息が上がってしまいそうなりながら数分を歩いた後に、目的地へと辿り着いた。どんな広さだと、とは心の中だけで思い、案内の者の視線を受けて止まる。そして客人を連れてきたという案内の人の声に、入れという返答が響いた。摩擦の音もわずかに木の襖が横に滑る。その向こうに目的の人物は鎮座していた。
「よく来たな。そこに座るがよい」
一面、畳が敷かれている部屋。その奥にわずかに高くなっている場所に、斑鳩崇継は座っていた。その手前には、赤い服の斯衛が立っている。恐らくは自分に対しての備えであろうと、武は思った。進むと、部屋の左右に見事な絵が書かれている襖が見えた。だけど武にとっては、更に緊張する材料にしかならない。武は息を呑むと、用意されていた座布団らしきものに進んでいく。
そして、後を追うようにして、風守少佐が歩いてくるのが分かった。
(………もし俺が刺客だったら、か)
入念なボディーチェックにより、武器の類は全て預けてある。というか、持ってきていない。だからもしもの危険性を考えるのであれば、近接した上での白兵戦による殺害しか方法がない。その対処として、まずは正面に居る赤い斯衛の男が止める。そしてその間に背後から追いついてきた風守少佐が仕留めるのだろう。そして武は座った後も、風守少佐が自分から見えない位置に座ったことに気づいた。これも対処の1つなのだろう。そして同時に、前に斑鳩崇継が自分をたずねてきた時とまるで状況が異なっていることに気づいた。
―――恐らくだが、殺されても闇から闇。結末がどうなってもたかが義勇軍の一人の兵士である味方をする者などいなく、書類だけで自分の死は流されてしまうのだろう。それを確信させられるだけの空気はあった。屋敷と、住まう人と、護衛の者と、そして主が構築しているこの世界では、異物である自分の行動次第では、死をも当然だと思わされるような。
「ふむ。存外遅かったようだな。だが、戦場で勇を示していたのだから当然か。で、あるならば1つ、その戦場の話でも聞かせて―――――という前置きは不要か。其方もせっかちであるな」
斑鳩崇継は無表情のまま、武を見据えた。武は、自分の張り詰めた雰囲気が相手に伝わったことを知ったが、それも良しとした。余裕のない人間は、その焦りを利用される。だけど、腹芸が得意ではないと割り切った上で、悪あがきだけはしないと決めていた。
そして、ここは完全なる
「はじめまして、斑鳩閣下。改めて名乗ります」
頭を下げて、言う。
「自分の名前は鉄大和――――ではなく、白銀武。横浜は柊町生まれの、日本人です」
そして頭を上げて、告げた。
「オルタネイティヴ計画の行く末。今日は、この世界の未来について話をするために来ました」
無言が満ちる。誰もが、何も言えないでいる。それは斑鳩崇継とて例外ではなかった。白銀武と名乗った少年の背後にいる―――――何のことやらさっぱり分からない風な――――風守光を見た後に、思考を切り替えた。
合図を1つ。崇継は、聞くものがこの部屋の中の4人だけになった後に問いかけた。
「鉄中尉――――いや、白銀武と呼ぼうか。そのオルタネイティヴ計画とやらが何であるか、説明をしてもらおうか」
崇継は偽名の事を追求せず、ただその先を促した。武はその言葉に応じ、一切の反応を示さずに淡々と説明を始めた。ディグニファイド12を発端とする、計画の推移まで。オルタネイティヴ3の説明になった時に、崇継は介六郎の方を見た。介六郎は頷き、武に問いかけた。
「………白銀武。オルタネイティヴ3、その計画とスワラージ作戦には深い関連があるな?」
「はい。そもそもあの作戦の最大となる目的が反応炉を、あるいは大群のBETAを前にリーディングをする事にあったようです」
だけれども大々的に発表することなどできず。その結果、現場に余計も極まる混乱が起きて、大半の将兵が死んでしまったこと。国連から作戦の裏や真相を知らされていない南アジアや東南アジア各国が、より一層不満を抱く事態になったこと。
ターラーやアルフレードなどから聞かされた当時の様子を混じえて、武はきっちりと説明をした。
まだ予習の内であったからだ。スワラージの失敗、その背景を日本帝国が疑問に思わないはずがない。そうして目の前の真壁介六郎は、武勇はそれなりに優れてはいるが、風守少佐程には衛士としての実力が高いとも思えない。
面会の時も、月詠真耶よりかは、無礼なと言われた時の威圧感は少なかった。恐らくは、世界で起きているあらゆる大事件の詳細の把握などは、以前より行われていたのだろう。だからこそ、現時点では想定内である。武は荒唐無稽な話ではあろうが、一笑の下に切り捨てない斑鳩崇継を見た。
五摂家は斑鳩の当主たる男。彼は笑ってはおらず、好奇心だけでもない、ただこちらをじっと見据えている。願ってもないことだ。最悪は、話すまでもないと切り捨てられること。
あるいは、腹心であろう赤の両名がくだらぬ話で主を惑わすなと止めに来るか。そうなれば、恐らくだが生きては帰れなかった。だが、実際は違う。武は深呼吸をして、気を落ち着かせた。ここまでは第一段階である。そして本題は、次にあるのだ。
「斑鳩大佐」
「なんだ、白銀武」
名前を呼び、呼び返される。武はそれを行い、崇継の目を見返した。そのまま、数秒。経過した後にやがて、武は居住まいを正した。背筋を伸ばし、膝においた手は震えないように握りしめて、震えそうになる声を気合でどうにかする。
そうしてようやく、口を開いた。
「斑鳩大佐。そして、この話を聞かれている2人。この先に伝えるのは、世界規模での…………国家機密でも最上に位置する情報であります」
言葉に、反応はない。ないままに武は、だからこそと言う。
「自分は腹芸はできません。こういっちゃなんですか、俺がこんな役回りをするのは…………指し手としては無力であることは自覚しています。でも、だからといって俺には全てを諦めることなんて出来ないから」
「白銀武、貴様は何を言っている。いや………」
真壁は、武からそれまでとは異なる雰囲気を感じ取っていた。その上で、今に話したオルタネイティヴ3までの情報を上回るものを口にすると言う。馬鹿らしいこと、嘘だとこき下ろす。そう一笑するのは簡単で、だけど介六郎は出来ないと悟った。出来ないほどの圧が、白銀武という少年の周囲にはあったからだ。
「た………白銀中尉。その情報は――――」
風守光は何かを言おうとして、押し黙った。武は視線を前から感じる。それは斑鳩崇継の意志であった。口を挟むことは許さないと、言葉にもせずに視線だけで光を従わせていた。
先ほどまでの、少し飄々とした雰囲気など微塵もない。目の前の武家の棟梁の一人からは、あるいは怒りを顕にしたアルシンハ・シェーカルに勝る、重圧のようなものを発していた。光が、介六郎が、武が。屋敷の外からわずかに聞こえていた木々のざわめきまでが止まっているかのよう。
まるで斑鳩崇継が、風を止めてしまったかのような。冗談染みた論理ではあるが、納得してしまいかねない程に、斑鳩崇継は一筋縄ではいかないであろうこの場を支配していた。3人は無音の中、針が敷き詰められているかのような緊迫感を覚えて。
やがて、場を支配している主が口を開いた。
「………情報は、力である。例外はあろう。だが本来であれば相応しくないものが、世界を左右する情報を持つことはできない」
知るにも立場が必要なのである。末端の兵士が全てを知る必要はない。軍全体の動きを決めるのは指揮官であり、彼らは相応の知識を元に情報の価値を捌いていく。そのプロセスに淀みがあってはならない。例えば、意図の裏を知った駒が命令に対して疑問を抱くようでは困るのだ。
それを切っ掛けとして全体が崩れてしまえば、結果的には誰のためにもならない。情報も、身分相応の役割のために必要であれば。だからこその“Need To Know”である。
「其方がたった今口にした事さえ、過ぎたるものだ。それ以上を口に出せばどうなるのか、まさか分からないのではあるまいな?」
「………悩んでいました。どうすれば良いのか、ずっと」
初陣を前に夢を見た時から、ずっと。情報の価値の重さに気づかない内から、気づいた今でさえも。声ではない。内にある記憶とやらが囁いてくるのだ。そして初陣で死にかけた時のように、助けになることもあった。それが自分の内にある時はよかった。しかし事態はもう、個人の中で処理すべきではない所まで来てしまっている。口にすれば、間違いなく監視が付くだろう。必要であれば、強引に口を割らせるような手段に出るかもしれない。
自分が持っているのはそういった情報であり、口にする事は四六時中狙われるという契約書にサインをするようなものだ。斑鳩崇継が指摘するのは、そういった忠告だった。政治に関わること、武には圧倒的な苦手分野である裏の泥々とした事に関わらざるをえなくなるという事に覚悟はできているのかと。
武は、唇を噛んだ。
「俺には………何が最善であるかなんて、分からない。だけど立ち止まったままこの情報を腐らせるのは、きっとみんなに対する冒涜です」
「みんな、とは誰を指している」
「俺たちに夢を託して、死んでいった戦友達です」
誰もが言った。思い出せる者も、思い出せない者も、聞いている暇も無かった者も。鉄と火と肉が弾ける只中で最後を聞いてきた。後を頼む、そして人類に勝利をと。故郷に帰る夢を見たもの、状況にただ流されて戦っていた者、事情は様々だったろう。だがそのほとんどが、あの憎き怪物を打倒してくれと言いながら散っていったのだ。屍の上に自分たちは立っている。このままで居るというのは、その結末が“あれ”になることを了承する行為だった。
戦友も友達も家族と思った人達も皆、骨だけになるのだ。塩まみれの国土、やがて敗北した上には青いこの星は惨めな茶色に覆われるのだろう。死の星である。故郷も何もなく、地球は地球でなくなってしまうのだ。あの戦いも全て。何かを殺しながら歩いてきた道程、そこで出会った人達の想いや決意の全てが無駄になって、何もかもが終わる。
「………犬死にじゃないですか。それだけは許せない――――ましてこの星を捨てて別の星へと逃げていくなんて、絶対に許せねえ!」
叫ぶ。口調も乱れたが、それを指摘する者は誰もいなかった。ただ、崇継だけは落ち着いた声で問いかける。
「それでは、其方の望むものは」
「香月夕呼博士への面会。そして、米国主導で行われているオルタネイティヴ5の阻止です」
「――――ふむ」
それきり、崇継は黙り込んだ。部屋に再び沈黙が満ちる。他の2人は何のことか分からないので黙らざるを得ないし、武としてはこれ以上何も言うことはできないのだ。
先に要求を言う。その上でどう応じるか、自分が持っている情報の価値を見出して要求に応じてくれるのか、それは崇継の判断によるものだ。緊張の1分が経過した後に、崇継は口を開いた。
「オルタネイティヴ4の完遂、とは言わぬのだな」
「っ、それは………」
「1つを選ぶということは、1つを捨てるということだ。其方に分からないはずもないが」
誰かを助けるのなら、誰かを見捨てなければならない。この場合は第五か第四か。武は、付随して失われるものがなければ、喜んで第四の方に協力すると言っただろう。だがこの場合に失われるものは純夏であり、だからこそ武としてはオルタネイティヴ4を完遂させるためとは言えなかった。
中途半端な決意。崇継は、その武の覚悟の不備を見逃さなかった。
「会いたいという理由にもよる。生半可な情報では、その要求を通すわけにはいかぬな」
「それは………いえ、仕方ないのかもしれませんが」
武は少し焦り始めていた。ここで何もできないのであれば、別方向での最悪の結果に終わってしまう。崇継は武の様子を見通した上で、問いかけた。
「そもそも、だ。其方は本当にオルタネイティヴ5を知っているのか?」
「はい。主目的は、BETA由来元素であるグレイ・イレブンを材料に作られた新型兵器。通称G弾と呼ばれる爆弾で、地球上にある全てのハイヴを一掃する計画です」
すらすらと、用意していた答えを言う。
崇継は頷き、それを見た2人の斯衛の顔が驚愕の色に染まった。
「正気か!? BETA由来元素など、そんな不安定なものに人類の未来を賭けるなどと!」
「いや………本気のつもりだろう。HI-MAERF計画は中止されたが、サンタフェ計画はまだ動きがあるようだ」
光の檄に、介六郎が答えた。HI-MAERF計画とは、グレイ11がもつ抗重力機関を利用した決戦兵器を開発する計画だ。今では中止されているのは知っている。
一方のサンタフェ計画は民間には委託されず、米国陸軍の指揮下で徹底的な秘密主義の中で行われているというもの。名前しか分からず、内容は毛の先ほども分からないという、トップシークレットに当たる計画だ。介六郎も斑鳩に入ってくる情報を統括する役目についているだけあってその計画の名前だけは知っていたが、その内容については知らなかった。だがいかにも米国らしい兵器だと、納得できる部分も見出していた。それに対して、斯衛としてはどのような見解を持っているのか。2人の視線が崇継に集まり、崇継は表情を保ったまま何でもないように答えた。
「………斯衛としての見解は、“否”だ。帝国が主導する第四計画がある上に、そのような不確定要素が多すぎるものに全てを賭けるつもりはない」
五摂家の当主だけが知っている情報だった。崇継は言う。
「香月博士からの使者、手紙は届いた。斯衛は、政威大将軍閣下は第四計画に対する協力を惜しまない。後を引き継ぐものも同様だ」
「………使者とはもしや、紫藤樹ですか」
「そうだ。繋ぎ役としては、帝都の奇人もいるがな」
武は樹の名前に驚き、そして聞いたことのない名前に疑問符を浮かべた。名前からするに、強そうでもあるがそれ以上に変人のように思える。それに答えたのは、声だった。
《鎧衣左近だ。お前は覚えちゃいないだろうが、一度だけ会ってるぞ》
それは失われた記憶の中だろう。だが、諜報員としては超一流らしい。横浜に居るであろう博士からの使者は樹とその人物であり、斯衛に対して今後どのような立場になるのかを問いかけ、そして将軍閣下の返答は、“是”であったようだ。そうであるなら、これから先の情報が役に立つ。武はそう判断して言葉を続けた。
「そして………ここからが自分の持つ情報です。今年中に第五計画を推進する者達は、ダイダロス計画の成果を持ってくるでしょう」
まずは一つ目、という言葉に崇継は怪訝な表情をして、ああと頷いた。
「先に言った別の星とやらか。宇宙のどこかにある人が生活できる星に………つまりは、第五計画派は系外惑星の移民を餌に国連軍の上層部を釣ると?」
「理由の1つにはするでしょう。第四計画に不安を抱き、第五計画にも賛成しきれない中立派が居るとすれば効果はあると思います」
どちらにも付き合っていられないという人間が居るとして。避難できる目があるのでこちらに乗れと言われたらそちらに転ぶことは間違いない。崇継も、系外惑星への移民を行うとして、その人間が限られてくるという事は理解できていた。計画を遂行するとなれば、ハイヴが少ない内である方がいい。その短い期間に星間航行を行える船を造るなど、どうしても無理がありすぎるからだ。
「その話が真実であるならばな。情報源など、その真偽を裏付けるものはあるか?」
「残念ながら、ありません。ですが今も第五計画推進派は裏で動いています。最初の侵攻より幾度か、その結果を目の当たりにしてきました」
「………四国の帝国陸軍の話は聞いている。起爆装置の不備もな。だが、それだけではないと?」
「瀬戸大橋を落とそうとする時に、奇襲を受けました。犯人は帝国陸軍の衛士。ですが仕掛けは、第五計画派によるものでしょう」
指向性蛋白。その言葉を聞いた崇継は、小さなため息をついた。
「大橋が落ちなければ、山陽側の兵站に重大な危機が訪れていた。しかし、其方はどうしてそこまで知っている」
「大陸で見ました。忌まわしい実験の場も。そして、指向性蛋白ですが、あれはどうも自分を狙ったという訳ではなさそうです」
武は推論を告げた。指向性蛋白は知らない内に人間を諜報員に仕立て上げるものだが、そう便利なものではないと。切っ掛けは、大橋を落とすという会話。衛士が丸亀市の出身者だったこと。大橋が落ちることに抵抗があって、その思想の指向性を増進させられた可能性が高いと。
「………故郷を想う民を利用したのか、第五計画派は」
「はい。そして自分が標的になったのは、当時の集団で一番に目立っていた、中心人物であったのが原因と思われます」
「故に誰にでも、都合よく利用できるものではないと。確証はないが、その可能性は高いだろうな」
「そのようで。しかしそのために、帝国の力を削る必要があるか。光州作戦の動き、それに関連してだろうな」
「自分も、そして元帥もそう思っています」
「ほう………すると元帥も第五計画を認めてはいないと?」
「そのようです。指向性蛋白についても、同じような見解を持っているのでしょう」
もしも誰にでも何時でも狙った通りの裏切りを発生させられるとすれば、もっと露骨な手段に出るはずだ。出来るのであれば、しない理由はない。ということは、出来ないと考えた方が整合性が取れるというもの。
「指向性蛋白のこと、何処で知った」
「………βブリッド。
武は少し嘘を混ぜて告げた。話としては、恐らくは間違っていないだろう。指向性蛋白は、BETA由来のものである可能性が高い。真偽はどうだか分からないが、それが武の見解だった。
「βブリッド、だと? ………まさか異星種間混合生物のことか!?」
「はい。自分も、記憶は途切れ途切れですが………」
武はそこで黙り込んだ。思い出そうとすれば思い出せる部分もあるが、見るだけで精神に多大な負荷がかかる。吐き気と、やるせなさと、研究者への殺意が混じりに混じってしまうのだ。だからこの場においては、それ以上の事は言わなかった。
「そこで知った、か。あるいはアルシンハ・シェーカルにその後で教えられたか?」
「後者です。シェーカル元帥も、あの研究を酷く嫌っていましたから」
武としても、考えたくもない悪夢の研究だ。そこに、介六郎が声を挟んだ。
「襲撃者が義勇軍であれば、シェーカル元帥の見解もそうであろうな。しかし貴様ら義勇軍がシェーカル元帥の私兵であること、我らに教えても良かったのか?」
「必要な情報であれば、惜しまずに出しますよ。自分が恐れている事態は、この程度のもので収まりませんから」
失言を問うような介六郎の言葉に、武は何でもないように言い返した。義勇軍のシェーカル元帥私兵論に関しては、東南アジアでは公然の秘密だった。決定的な裏付けがないにしろ、五摂家の人間が知っていないはずがない。推測できるものよりもと、武はまず介六郎を見た。
「真壁大尉」
次は、後ろを。
「風守少佐」
そして、前に向き直った。
「………斑鳩大佐。これから、本題に入ります」
オルタネイティヴ計画の由来と第五までのこと。これからの情報や斑鳩でさえ把握していなかった情報だが、武はそれを枕だと断言した。それにまず驚いたのは、光である。
彼女は武の話に、半ば以上についていけなかった。知らない事が多く、また知らされた事にもいちいち衝撃を受けるほどのもの。まるで機密の連装砲である。だがそれ以上の爆弾を、武は持っているのだというのだ。
「自分がこの場での話を望んだこと。その二番目の目的は香月博士との面会であります」
「………つまり、これより話すことが」
「一番の目的です」
そして、武は告げた。
「BETAの侵攻が激化するにつれ、京都の防衛戦力は削られていくでしょう。そしていずれは、耐えられなくなる時がやって来ます」
事実であるかのような言葉。流石に我慢の限界に来ていた介六郎は立ち上がろうとしてが、崇継の手によって制された。
「よい、続けよ」
「ありがとうございます。その後BETAは、中部や東海を越えて関東に進むでしょう。そしてハイヴが建設されます――――横浜と佐渡に」
断定的な口調。介六郎はそれを聞いて、鼻で笑った。
「自分が預言者とでも言いたいのか? ハイヴが建設される位置の予想など、未だ成功したことなどないぞ」
愚弄するならば、という介六郎に武は反論した。
「一度だけありますよ。だからこそ、マンダレーのハイヴは攻略できました」
「――――貴様」
介六郎が、殺意混じりの視線を武に叩きつけた。だけど武は、その反応を見て狼狽えるどころかしてやったりという気持ちになっていた。何を馬鹿な、と即座に否定されないということは、斑鳩としてもあの作戦の事を疑問視していた証拠でもある。
当時のシェーカルの判断について、各国の首脳部がどう思っているのか武は知らない。運が良かったか、あるいは。そして斑鳩の家は、その原因について調査していたという事だ。だからこそ、裏付けになる。自分の言葉、それがただの妄言ではなく、真実味を増す隠し味になるのだ。
だが崇継だけは動じないまま、その先を促した。
「横浜、そして佐渡か………して、その後は?」
「京都防衛戦において、帝国軍や斯衛は核を使うつもりはないでしょう。万が一にもそのようなものを使えば、帝国軍の権威は地に落ちてしまう。ましてや、千年以上の歴史がある帝都です」
あるいは、新型爆弾を推してくるかもしれませんが。
武の言葉に、介六郎は忌々しいという顔をした。
「あり得んな。だが、だからこそか」
「はい。恐らくは国連軍と帝国軍、斯衛や大東亜連合を含めた総力による本州島奪還作戦。パレオロゴスの次に大きな作戦になるでしょうね」
武の言葉に、もはや反論の声は上がらない。真実とは限らない与太話ではあるが、このまま進めば十分に有り得る展開だからでもある。想定の状況を作り出しそれに対処する方法を練るのは、作戦を起案する立場にいる人物や、軍その他に影響が大きい者であれば重要なことである。
「だけど、ハイヴは攻略しきれない。そこで―――――」
「世界に覇を唱える米国らしく、G弾を強引にでも使ってみせるか」
その結果、第四計画を主導する帝国の国土を奪還するのに、G弾が必要不可欠であったと。そう思わせられたのなら、第四計画はその日の内に終焉を迎えるだろう。
「ですが、まあそう上手くはいきません。都合2発のG弾、五次元効果爆弾。威力は目を剥く程ではありますが、想定されていた以上ではなかった」
「スペック以下の威力しかなかった、と。そして――――五次元効果爆弾が。重力異常でも発生しそうな兵器だな」
「…………えっと」
言いよどんだ武に、介六郎は想像はつくと告げた。元々がHI-MAERF計画と同時に進められていたものであれば、抗重力を利用した兵器だろう。しかし、HI-MAERF計画はその重力を制御しきれないという判を押されて、中止となった。介六郎はそれらの要因を考えた上で、武に告げた。
「少し強引な押し売りという所か。だが未完成品であり、国連軍の上層部はG弾という兵器そのものに疑念を持った」
「はい。ですが、話はそれだけに終わりません。横浜の攻略作戦、その後のことは分からない。ですが、その――――重力異常こそが問題なんです」
本題はそこにある。そして、武は慎重に、1つづつ、自分の中から抽出するように取り出した。
「オルタネイティヴ5。その通称戦略名は、バビロン作戦と呼ばれます」
「バビロン、か」
「………神の法に背き。しかし背いた事に囚われた挙句、自ら崩壊した古代バビロニアの古都の名前だな」
介六郎の言葉に、今度こそ武は顔をひきつらせた。どんな皮肉だというように、その表情を見た介六郎もまた表情を変えた。
「―――まさか」
「ユーラシア全土に投下されたG弾。それは大規模な重力異常を発生させることになります」
地球の大気圏以下にある流体は、当然のようにそこにある。気圧も水圧も、バランスを保ちつつその場に在るのだ。だけど、それを撹拌するような大規模な力が作用してしまえば。
「海が陸に。日本でいえば――――太平洋そのものが、日本海へと攻めてきます」
光は絶句した。
“光だけ”が、言葉を失っていた。
「人類史上類を見ない、未曾有の大災害。それは作戦成功後に発生し、世界をめちゃくちゃにしてしまいます」
武は言葉を止めない。止まらないままに進めて、そして声は言う。
《不完全、だけど》
「干上がった海水、海塩、それにより地球は茶色と白色に――――」
言葉にならないまま、告げる。
「それは、バビロン災害と呼ばれます」
そして、声は。
《――――チェック2、通過だな》
その言葉と同時に、場は苦悶の声に支配された。
「――――ぐっ!?」
最初に斑鳩崇継が頭を押さえて、
「ぎ、グぁッ!?」
それを気遣う間もなく、介六郎も同様に頭を押さえた。まるで割れる頭を抑えようかというように手で強く押さえつけている。同時に、動くものが居た。
「―――何をした!」
「か、風守少佐!?」
「閣下と真壁に何をした、言え!」
武は自分の首筋に短刀が当てられていることに気づいた。返答次第によれば――――しかし、武は何も言えなかった。
「お、俺にも何がなんだか…………!」
信じられないまでも危機を告げて、もし自分が戦場で死んでしまったら。いざという時の備えであり、武は目の前で苦しんでいる2人に対してどうこうしようなどという意志などは持っていなかった。光も、武の様子に嘘はないと見た。しかし、何もしない訳にはいかない。
武が戸惑う内に襟を掴み、関節を極めた上に押さえこもうとしたのだ。しかし武も咄嗟に反応をしてしまう。だけど超近接、組打ちの間合いでは光の方が1手も2手も上である。抵抗もしきれず、数秒の後に武は仰向けになりながらも両手を足で押さえこまれ、上乗りになって短刀を突きつける光を天に仰いでいた。
「白銀武――――もう一度だけ聞く。閣下に、何をした」
そこに殺意はない。ただ、冷淡の表情をする斯衛の衛士が居て。
武はそれをじっと見返して、言った。
「だ、から―――俺は何もしていませんよ! なん、でっ、俺が斑鳩大佐達を害さなければならないんですか!」
「ではどうして2人は苦しんでいる。心あたりがあるなら、今ここで全て言え。言わなければ………」
光の口が閉じる。その先は、武が言った。
「殺すんですか。俺を、主を害する敵として」
「―――――っ」
光の顔が歪んだ。赤の斯衛の衛士として、殺すというのが正解であるはずだ。武家としても軍人としても、任務に忠実足れということは絶対である。2人の苦しみの声は徐々に小さくなっているが、それでも原因を考えれば自分の方にあると想うはずだ。この世界での異物は自分しかいない。それを敵とするのであれば、最終手段も辞さないのが正答。
だからこそ、間違いはないはずで。だからこそ、武には分からなかった。
「どうして………迷ってるんですか。なんで、そんなに悲しそうな顔をしているんですか」
「わ、たしは、悲しそうな顔など!」
光は言え、と前に屈みながら武の襟を締めつけた。そして光の顔と、武の顔が近くなった。
武は息苦しさを感じ、どうにかしなければいけないと考える。だが考えながらも、間近に見える風守光の顔から目が離せなかった。それは、見惚れている訳ではなくて。
――――覚えがあった。自分を見下ろすこの構図、顔は初めてではない。
今にも泣きそうな、本当に辛そうな。黒い髪、一筋通った眉毛、綺麗な肌色。だけれども、破裂しそうな程にどうしようもない悲しみを秘めていて。それを抱きながらも、強く在ろうとしている小柄な女の人が居た。自分に別れを告げる声があった。申し訳ない、情けない、どうか私を恨んでと懇願する声があった。
でも、どうか生きてと。その声からは、自分に対する途方もない優しさが透けて見えて。
はっきりとは覚えていない。10年以上も前のことを、覚えているはずなんてないのだ。それが人としての当たり前で。
だけど、子供が居た。赤ん坊でしかなかっただろう。
それでも、だからこそその顔、その表情、その声は。
武は仄かに香る匂いを感じると同時に、知らず言葉が口から飛び出ていた。
「――――母さん?」
たった三文字。だけどその単語は、稲妻の衝撃を持って風守光の芯に通っていった。だけど、歴戦の彼女の脊髄に斯衛の責務は残っていた。故に短刀は手から離されず。切っ先が行き先を見失い、迷っている最中に声が響いた。
「二人共そこまでだ! 風守、白銀より離れよ!」
主である斑鳩の命に、光は即座に反応し一歩だけ退いた。驚きのままに、崇継を見る。
「お………さまったようだな。問題無しと言うには、少し語弊があるだろうが」
「こ、っちもです閣下。ただ…………」
2人は苦しげな表情を抑えこみ、すぐに居住まいを正した。すぐにその鋭い視線を武の方に向ける。だけど、黙ったままだ。崇継は介六郎を見て、介六郎は応じるように小さく頷くと、目を閉じたまま武に告げる。
「其方にも想定外なことがあったようだな。だが、これは…………」
崇継にしては珍しく、言葉の途中で黙り込む。それを見た光が立ち上がろうとするが、崇継はそれを手で制すると、武の目を見た。
「其方の情報、確かに受け取った。その言葉、覚悟と決意を今更は疑うまい。風守、そして真壁もそれは分かっているな」
「………は」
「それは………疑ってはおりません」
崇継が言っているのは、話しだす前のことだ。荒ぶった感情、そこに秘められたものに気づかない程、この場にいる3人は愚かでも鈍くも無かった。
「だが、今の其方を香月夕呼博士に会わせるわけにはいかない。原因は分かっているな」
「………今の事ですね」
先に並べた事が全くの嘘で、実は第五計画派のスパイか、刺客である可能性も零ではないのだ。そして万が一がある以上、第四計画の根本とも言える人物と会わせるわけにはいかない。ましてや、今の意味不明かつ奇怪な現象が起きた後である。武としても、これ以上を望めない事は分かっていた。
「だが、貴重な情報である。他に何か要望があれば、言ってみるがいい」
「それは…………」
武は後ろにいる光の方に視線をやった。そして、即座に言う。自分が9歳の頃にインドにいる父の元に行った事。それを望んでいた人物が、自分を殺そうとしている人間が居ることを。
「俺は………俺を殺そうとしている人。その真意が知りたい」
解決すべき事項であると同時に、何もかも関係なしに知りたいことではあった。
何故、自分の死が望まれているのか。それほどに、どうしても殺したいと言うほどに。
「戦地に送ってまで、どうしても殺したいと。それほどまでに俺は憎まれているのでしょうか」
顔も知らない誰かに。あるいは、自分を知っている誰かに。
武はそうして、再び背後にいる光の方を見ようとする。
だが、その時に大きな声が入り込んだ。
「た、崇継様!」
「客人の前であるぞ、何用だ!」
「て、帝国海軍より報告がありました!」
ただならぬ様子に崇継は入室を促す。そして入ってきた斯衛の衛士は、告げた。
「半島を監視していた艦隊が、半壊! BETAの三度目の侵攻であります!」
急ぎ声のままに、報告の言葉が告げられた。
「鉄源、ブラゴエスチェンスク、ウランバートルから南下するBETAに加え、重慶より東進する一団が………」
「重慶も………ここに来て、東進だと!」
「側面をつかれた艦隊は、重光線級の斉射により、半数程が轟沈とのこと! そして…………っ」
――――敵BETAの規模、想定数にして前回のおよそ10倍とのこと。
絶望の言葉が、衛士たる4人の鼓膜を震わせた。