Muv-Luv Alternative ~take back the sky~ 作:◯岳◯
最後の短編であります。
日本が誇る帝国斯衛軍。その衛士養成学校の士官候補生であり、40余名いる二回生の総代である真壁清十郎は欧州で危地に陥っていた。
衛士になる最後の試験である総合戦闘技術評価演習を前に、重要な経験を積むためにという目的で行われた欧州での視察研修。清十郎はグレート・ブリテンを守護するために建設されたドーバー基地群の中で、日本には無い場面に色々と出くわしていた。到着するなりトライアルコースに迷い込んだり、個性とアクの強いツェルベルス大隊の面々に翻弄されたりと、苦難の連続に見舞われていた。それでも清十郎は何とか乗り切れると思っていた。
―――皿に盛られている、ハギスの山を見る前までは。
ヒツジの内臓と麦や玉ねぎを胃袋に詰めて蒸したものと書いて、味覚への暴力と読む。清十郎はどうして合成食料を使ってでもこの料理を再現したのかと、人類の相互理解の未熟さを思い知らされていた。
(一つ目は、噛まずに飲み込めたが………っ!)
それでも甚大なダメージを負い。さりとて正直な感想を言うのは軟弱だと強がったのが良くなかった。気がつけば、目の前のイルフリーデ・フォイルナーの―――ツェルベルスの衛士であり、視察研修における清十郎の世話役であり、清十郎にとってアクが強いと断言できる隊員の筆頭格―――が食べる筈だった分まで押し付けられ。それでも何とか強がりながら乗り切った所を、同じくツェルベルスの衛士であるヴォルフガング・ブラウアーに向かって強がり、押し付けられ。それだけでは収まらず、集まってきた衛士にあれよあれよという間にハギスをプレゼントされたのだ。
(いや、笑顔での贈り物だった。そう、彼らに決して悪意はないのだ―――なんて思う訳があるかっっっ!)
そそくさと去っていった事から内心は推察できる。さりとて、武士に二言は無いという。清十郎は心配そうに自分を見るイルフリーデの視線を受け止めると、フォークを握り息をごくりと飲んだ。
「………大丈夫、清十郎?」
「Ha、HAhaha」
清十郎はイルフリーデの言葉に答えず、虚空を見上げながら笑った。そして母と長兄と六兄に感謝を示した。こちらに来るな、という声が無ければどうなっていた事か分からないと。
(いや、介六郎兄は死んでいないだろう)
戦死した誠一郎兄や亡くなった母とは違い、真壁介六郎は健在だ。どうしてか胃の周辺を押さえていたが、自分と同じような理由か食あたりにでも見舞われたのだろうか。清十郎は兄の身を案じながらも、次なる局面を迎えることになった。午後から行われる屋内レクリエーションのことだ。
イルフリーデ・フォイルナーのスカッシュか、ヘルガローゼ・ファルケンマイヤー少尉のフェンシングか、ルナテレジア・ヴィッツレーベン少尉の水泳か。
清十郎はスカッシュなる未知なる競技や、欧州の剣術であるフェンシングにも興味があった。だがそれよりも、確かめなければならないことがあった。
(おしぼりの君………度々目にするヴィッツレーベン少尉の熱い眼差しの理由を!)
おもてなしの心か、あてがわれた部屋に置いてあったほのかに温かいおしぼりと、部屋の付近に居たルナテレジア。どういった意味があるのか、清十郎は知りたかった。故に表向きの理由を―――ドーバー海峡を泳いで渡る猛者を生み出す欧州の泳法にも興味があるからと、ルナテレジアとのレクリエーションを取ることを告げた。
イルフリーデは、眼を瞬かせた後、訳知り顔になった。
「まあ、そうよね~。ルナはぱっと見ヤマトナデシコだっけ? そういう風に見えるらしいし」
「なっ、俺はそんな不純な想いを抱いてなど!」
「でも、なんだったっけ。男の子ってみんな大きい方が好きだって聞いたことあるし」
「………いえ、確かにヴィッツレーベン少尉は、フォイルナー少尉の土星を越える木星の如き巨なるものだと見受けられますが―――ハッ?!」
語るに落ちる、と。清十郎は身構えた所で、イルフリーデの小さな笑いがこぼれた。やっぱり清十郎も男の子なのね、と言わんばかりの優しき微笑。清十郎はこのままではいかんと、別の目的を告げた。
「そっ、それだけではありません。幼き頃より六兄・介六郎に教えを受けた泳法と、欧州の泳法。どちらが早いのか、という好奇心を抑えられませんでした」
「えっと………清十郎には兄が六人も居るの? それに、スケロクロウってどこかで誰かから聞いたような………」
イルフリーデはそこで通りかかった人物を見てハッとなると、すぐに立ち上がった。
「あっ、フォルトナー少尉!」
「うっ………お、お久しぶりね。フォイルナー少尉」
例えるのなら、どうしようもなく苦手な人物を相手にした時のような。イルフリーデとも知己であるらしいその女性は溜息をつき、2、3話をすると清十郎の方を見た。
「視察研修に日本の衛士が来る、というのは噂に聞いたけど………まさか帝国斯衛の“赤”が来るとは思わなかった」
「………赤?」
「そこでどうして不思議そうな表情を浮かべるのか、私にはさっぱり分かりかねるけど」
調べてないのね、と女性は再度溜息を吐きながら真壁清十郎に向き直った。
「クリスティーネ・フォルトナーよ。貴方のご同輩には、随分と世話になった」
「はっ、真壁清十郎であります!」
「………苦労していると思うけど、決して悪い子じゃないと思うから多分」
イルフリーデを横目で見ての一言に、清十郎は少し額から汗を流しながら小さく頷いた。それと同時に、内心で驚愕もしていた。同姓同名でなければ、その名前は世界で唯一のハイヴ制圧を成し遂げた中隊員の一人だ。同輩というのが斯衛を示すのであれば、もう間違いはない。紫藤樹は厳密に言えば斯衛の衛士ではないが、武家の一人である事に間違いはなかった。
欧州に名高いツェルベルスだけではなく、この人からも戦場の話などを聞けば、国内では得られなかった経験を積むことができるかもしれない。国税を使っての欧州研修なのだからして、何も持ち帰ることができないなど許される筈がない。そう思った清十郎はしかし意を削がれた。
「って、ちょっと待て。マカベ………真壁? ひょっとしてなんだが、主家が斑鳩家の、あの真壁?」
「え、ええ。そうでありますが………お詳しいですね」
清十郎は大陸方面の全てを制圧された欧州連合軍は、自国自領を取り戻すことに躍起になっていると聞いていた。国連が推奨する各国間の交流もさほど深い所まで達していない。共同の作戦を展開した回数があまりないからだ。故に米国はともかくとして、日本に対する知識など持っていないのが普通のはず。
ツェルベルスの象徴、黒き狼王ことヴィルフリート・アイヒベルガー少佐が父・零慈郎の事を知っていたのは、そういった情報に触れる機会があってのこと。どういう事なのか、思索を深める清十郎にクリスティーネは一歩踏み込んだ。
「是非とも教えて欲しい人が居る。十六大隊所属にして斑鳩家傍役という女性の事を」
「はっ!?」
って顔が近いです!そう叫びそうになるほどの距離だが、両肩を掴まれている清十郎は逃げられなかった。
(くっ、単独では脱出困難! ここはフォイルナー少尉に………って何をきょとんしているんだアンタはっっ?!)
唯一の希望である世話役は、状況判断に難あり。観念した清十郎は、取り敢えず相手の要求する内容を聞いた。
「風守光少佐のことですか? 私も、深い交流がある訳ではありませんが………得意な戦術などといったものをご期待されているのならば、それは」
「いや、そういうのはどうでもいい。興味があるのは容姿とか、性格だけ」
鬼気迫る表情。清十郎は内心で大量の疑問符を浮かべるも、相手を興奮させるのはよろしくないと判断して、差し障りのない言葉で説明を始めた。
かといって、さほど語れるほど言葉を交わした相手ではない。学校で教官役を幾度か、同じ主君を持つ赤の家として何度か、その程度だ。
容姿は黒髪に短躯。顔は清十郎が見ても分かるほどの童顔。30は越えている筈なのにどう見ても20代前半だというのが、衛士養成学校の二回生の総意である。何を血迷ったか、時折ほんの少しだけど見える影のある表情に惚れた、というのは同級生の戯れ言だったが。
「これ以上話せることはありませ………ひっ?!」
「小さい身長に、童顔………だと………?」
がどーんとかいう効果音が聞こえたような。人は絶望した時にこのような表情になるのだろう。そう断言できる程に、クリスティーネの顔は凄絶だった。ていうか顔のパースが狂っていた。清十郎は自らを掴む手の力が緩まったのを感じ取ると一歩退き、困惑のままにぶつぶつと溢れる言葉を聞いた。
そういえばシンガポールでも、そういった傾向が、ロリコン、アピールの方向性を、と。断片だけしか聞き取れなかったが、纏うものが尋常ではない。触れれば諸共に巻き上げ吹き飛ばされそうな。一方で、その空気を完全に無視する者が居た。
「あっ、そういえばフォルトナー少尉。スケロクロウって名前を以前にお聞きしたのですが、どういった方なのか忘れてしまって」
「………スケロクロウ・マカベ。日本帝国斯衛軍でも最精鋭と呼ばれる斯衛第16大隊の副隊長。以前、ファルケンマイヤー少尉とヴィッツレーベン少尉、ブラウアー少尉と一緒に話したでしょう」
その時の話題は、世界各国で名が知られている部隊は、最強の衛士は誰かというものだったらしい。清十郎はそこに斯衛が、それも実の兄の名前が上がった事に途方もない嬉しさを感じていた。
一方で、その話を完全に忘れてしまっていたらしいフォイルナー少尉の慌てる様子に、清十郎は幾度目かになる疑念を抱いていた。この人本当に大丈夫か、と。その視線に気づいたのかどうか、イルフリーデは話題を転換するようにして別の人物の名前を上げた。
「そういえば、帝国斯衛軍にはヴィルフリート様と同じように、伝説になっている衛士が居るって聞いた覚えが………」
「―――
日本侵攻の際に特に戦果を上げた部隊、その中でも鬼才を持つ衛士であり、赤の武神をも越える異形、故に鬼神。その活躍は欧州にまで届く程だったという。
「そうね………清十郎くん、貴方は知ってる? 16大隊の衛士らしいし、お兄さんから何か聞いているのかしら」
「いえ、私は何も………唯一分かるのは、その衛士の噂が出始めた時期に、六兄は胃腸が弱くなったという説が」
「………成程」
清十郎は“納得すんのかよっ!”と内心で盛大にツッコミを入れた。
「でも、凄い名前よね。日本人はそんなに派手な名前を付けるのには抵抗がある性格をしているってヘルガに聞いた覚えがあるけど」
「少し不満気味だな、フォイルナー少尉。確かに、愛しのアイヒベルガー少佐よりも派手派手しい名前に対して思うことがあるのは察しがつくが」
「べ、別にそんな訳じゃ………そういえば少尉も、あちらの方で付けられた名前があったとお聞きしていますが」
「止せ、やめてくれ。私のはそんなに意味があるものでは………そういえばフォイルナー少尉、何か用事があったのではないか?」
時間の方は大丈夫なのか、懸念の言葉に返ってきたのは、あっ、という返答。それだけで全てを察した清十郎とクリスティーネは奇妙な連帯感を持って感想を抱いていた。
―――これがこの美しくも間の抜けた女性の、平常運転なのかもしれないと。
少し遅れての屋内レクリエーション後。そこで清十郎は再び、想定外の事態に見舞われていた。ルナテレジアとの心暖まる屋内プールでのレクリエーションで起きた、木星との接近遭遇は良い。シューメーカー・レヴィ第9彗星の気持ちを理解した清十郎だが、問題はプールを出た後にあった。
ヴォルフガング・ブラウアーの奸計に嵌った清十郎は、予めすり替えられた男女識別の札を信じてシャワー室へ。
(あの男はフォイルナー少尉と鉢合わさせるのが狙いだったのだろうが………)
そこには先客が居たのだ。ヴォルフガングが男女の札を入れ替え、清十郎の所に向かう僅かの間に、同じように騙された人物が。
(それがよりにもよって、フォルトナー少尉と同じクラッカー中隊の………確か、リーサ・イアリ・シフ中尉だったか)
かなり疲れていたらしい。突然乱入してきた清十郎をぼんやり見つめると、ポンポンと頭を叩いてそのまま寝ぼけたような表情でシャワーへ。そこに訪れたツェルベルスの女性陣と出くわし、ちょっとした騒動になった。
(………地獄門と呼ばれたこの基地で天国と地獄を短時間に味わう、か。一体何人がこのような経験をすることが出来たのだろうな)
もっとも、他の部隊の衛士を巻き込んだからか、七英雄の一人でありツェルベルスの副隊長である“白き后狼”ことジークリンデ・ファーレンホルストに説教を受けていたブラウアー少尉の姿を思い出すと、溜飲は下がる。そう考えていた清十郎は、ふとノックの音を。次いで来室者の名前を聞くなり、急いで扉に駆け寄った。
力の限り早く扉を開け、その姿を見ると騙りや誂いではないのだと気づく。紛れも無く、シャワー室で見かけた美女の如きナニカ。北欧の女性衛士の姿が、そこにあった。
「先ほどは失礼しましたっ! 真壁清十郎であります!」
「リーサ・イアリ・シフだ。ちょっと、怖いオバサンに色々と言われてな………」
そこでリーサは身震いをすると同時に、周囲を見回した。同じく得たいの知れない寒気を覚えた清十郎は、臨戦態勢に入った。そのまま、数秒。落ち着いたリーサは、小さな溜息をつくと清十郎に向き直った。
「ケジメの事だ。さっきの一件だが、気にしないでいい」
「はい、いいえ。しかし、それでは男子の責任というものが………」
「前線ではよくある事故だ。意図的でも、男特有のちょっとした好奇心なら一度は許してやるのが筋ってもんだしな」
かっかっかと笑う姿を見て、清十郎は思った。貫禄通り越して色気もなにもねえと。
「しかし、オバサンとは誰でしょうか」
「あン? いや、決まってんだろ。名前だけは言えねえが」
「………苦手のようですね」
何となくだが、清十郎は感じ取った言葉を告げた。リーサは苦笑しながら、肯定の意を示した。
「からかい甲斐がねえ相手だからな。もうカッチリと定まってる相手に小細工なんざ無駄だし」
それでも目が惹きつけられるのは、勇猛だからか、不器用な二人を思い出すからか。自嘲が混じった声の意味を、清十郎は理解できなかった。何か複雑な背景があるのだろうか。情報が少なすぎるため、推察するまでもいかない。それでも割りきった清十郎は、愚直にも自分の知りたい事を聞いた。
視察研修に来たのは、実戦の場に立つ前に何かを掴むためだ。ただで帰る訳にはいかないと、清十郎は藁にもすがる思いで、悩んでいる事を打ち明けた。
ツェルベルスの面々から得られるものはあったが、それでもどこか享楽的で。想像していた命の危険に晒されている軍人とは異なる、スポーツ選手的なイメージがつきまとうのだと。
「あるいは自分が間違っているのかもしれませんが………」
「………そうだな。いや、私にも分かんねえんだけど」
「は?」
「アタシにも、ツェルベルスの人間が何を考えてるんだか分からねえよ。あっちは正真正銘のお貴族様だしな」
ツェルベルスに“フォン”の冠詞が付かない衛士はいない。ただ、とリーサは付け加えた。
「それに、世話役が“あの”フォイルナーだろ?」
「………その表現には引っかかるものがありますが、何故かストンと心に落ちました」
「ああ。正直、あいつが何考えてんだが一番分かんねえ。天才ってのはどこか一本ネジが飛んでんのか知らねえけど………」
苦手なんだろうなあと清十郎は頷いた。恐らくはフォルトナー少尉も。
「それでも、この欧州であの第44戦術機甲大隊が頼りにされてるってのは確かだ。間違いじゃあない。地獄の番犬って異名は伊達じゃねえ。一度は蹂躙されつくしたこの欧州じゃ、ハッタリなんざ誰も求めてねえからな」
「………それでは、私の方が間違っていると?」
見えていないものがあるのか、清十郎は悩んだ。未熟故に掴めていない、自分だけが置いて行かれているような感覚。そうして眉間に皺を寄せる清十郎の胸板に、リーサは軽く拳を当てた。
「それを確かめに遥々やって来たんだろ、少年。尻についた卵の殻を、手前の拳で打ち砕くために」
それは慈しむようで、懐かしむようで、挑戦的な。お前にそれが出来るのか、という言葉が聞こえるような表情で。清十郎はそれを見た途端、考えるより前に首を縦に振っていた。
「なら走れよ、少年。今の内にしかできないんだぜ。分からない答えを求めるために、誰かに問いかけるって真似はよ」
「………シフ中尉は、答えられないと」
清十郎はそこで、言葉の意味を考えた。今の内に、とは実戦に出てからは聞けないのだ。
(………そうだな。例えば、介六郎兄が、崇継様がそのような姿を見せればどう思うか)
指揮と士気に問題が出る。戦場に出れば背中にのしかかるものが増えるのだと。清十郎は欠片でも、何かをつかめたような気がした。
「まっ、そこいらの問答は部外者のアタシが担うモンじゃねえ。適役が思い当たるなら、駆け足だ。時間も距離も無眼じゃねえんだ。よちよち歩きで満足するタマじゃねえんだろ?」
「っ、当然です! ―――失礼します!」
そうして、清十郎は走り去り。見送ったリーサは、その小さな背中と髪の色に誰かを重ねた後、自嘲の笑みを零しながら自分の部屋へと戻っていった。
清十郎はその後、ヘルガローゼの元を訪ねた。欧州の騎士道精神を体現しているかのような姿を思えば、自分の疑問に正しい答えを返してくれると思ったからだ。
(“人生とは即ち選択と決断―――其に際しては常に己が目で本質を見定め決定せよ”。そうですよね、介六郎兄)
兄の教訓に従い、慎重に問いを重ねていく。対するヘルガローゼは、難しい表情のまま少し黙りこんだ後、口を開いた。
「お前の疑問は………よく分かった。だが、その上でこう答えるしかない」
「え?」
「申し訳ないが、その問いには答えられない。その問題だけは、自分で掴み取るしかないからだ」
誤魔化しではない、ヘルガローゼの言葉は真剣そのものだった。清十郎はそれを聞いて、沈黙のままに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「………ああ。しかし、本当にそれでいいのか?」
「はい。明確ではありませんが、何かを掴めたような気がするんです」
思っていたものと違う風景。求めていたものとはズレる現実。納得していないのは誰なのだろうか。もう少し情景や人々の言葉を聞いていけば、何か一つの形として得られそうな気がしたのだ。
ヘルガローゼは清十郎の言葉に頷くと、ぽつりと呟いた。
「やはり………イルフリーデがお前の世話役に任命されたのは、正しかったのだな」
「………フォイルナー少尉が、ですか?」
「似たような悩みを抱えている者はあいつだけではないが、それでも………」
だからこそ人が、と。ヘルガローゼはそこまで言った後に、小さく首を横に振った。清十郎もそれ以上は聞かなかった。
その後、清十郎はそれまでより貪欲に基地の中を見回した。イルフリーデやルナテレジアに初陣の事を尋ねたり、ヴォルフガングの言動の事を考えたり。基地内で行われたシミュレーター訓練の見学でも、瞬きの間さえ惜しむ程に観察し続けた、が。
(………分からない。喉元まで出かかっているんだが)
残りの日程も僅か。ドーバー基地を出て火力演習が行われるシェットランド諸島に向かう途中、清十郎は第一空母・テュフォーンの甲板で遠くに見える水平線の向こうに悩みの答えを求めていた。
(火力演習の想定状況。ツェルベルスはその中で最も重要かつ困難な役割を任されている事は間違いない)
ひょっとすれば、そこで答えが見つかるかもしれない。いや、見つけなければならないのだ。そう意気込んではいるものの、視界の端でサッカーに興じているブラウアー少尉の姿に不安を覚えている時だった。
「あら、清十郎どうしたの? シェットランド諸島はまだ遥か彼方なのに」
せっかちね、と微笑むイルフリーデ。清十郎は、考えていた事を素直に告げた。その上で、どの部分に注視すべきかを問うた。
「それは決まっているわ。ずばり、それはこの私―――イルフリーデ・フォイルナーの駆るEF-2000を置いて他には無いわ!」
「………そう、ですか」
気のせいかもしれないが、シミュレーター訓練でミスを犯し、ヴェスターナッハ中尉に説教を受けていたような。なのにこの内から溢れる輝かしいばかりの自信はどこから来るのだろうか。
その内、地中海ならば泳げたのになどと言い始めるイルフリーデに、清十郎は苛立ちを覚えていた。小さな声で、もっと気を引き締めるべきだと提言もする。イルフリーデは勿論と、演習が始まれば気を引き締めるし、今から緊張していたら本番でベストのパフォーマンスが出来ないと笑顔を見せた。
「そう………かも、しれないですね」
清十郎は、それは緊張を持続させ続けることが出来ない者の言い訳ととらえた。
根本的な考え方が違うのか。いや、あるいは視点そのものが。
清十郎は引っかかりを覚え、何かを見いだせそうになり。
―――そこで、欧州に着いてからは覚えのない警報の音を聞いた。
視線は自然に見るべき所に定まった。笑顔を見せていた、金色の麗しき女性。その顔は、まるで別人であるかのように引き締まっていたのだ。
「………清十郎、急いでついてきて」
「何やってんだイルフリーデ! ―――行くぞッ!」
その声は、先ほどまで球を蹴っていたもの。だが、もう甲板の入り口にまでたどり着いているその背中は衛士以外の何者でもなかった。
そこからはあっという間もあればこそ。
―――国連北海艦隊からの救難要請。
―――それもBETAの支配地域から発せられたもので。
―――ツェルベルスが、それに応じる事になったのだと。
清十郎には現実が上手く飲み込めないで居た。急転した状況にも、欧州統合火力演習に参加できなくなった事を喜ぶ姿も、人格が変わったかのように衛士の雰囲気を全身に纏っているイルフリーデ達の顔も。
(いや………フォイルナー少尉は言っていた。ツェルベルスはドーバー基地の防衛だけじゃない、北欧から北アフリカまで緊急で即応展開する部隊だと)
あちこちで起こるBETAの侵攻に対応しなければならない。つまりそれは、ひっきりなしにこういった実戦が起こるという事だ。
(実戦の空気………くそ、心臓が………それに比べてフォイルナー少尉達はどうだ)
不安で押し潰されそうになる空気の中でも、平然とした顔で。訓練時とは比較にならないだろう自分の消耗具合を考えれば、どうか。清十郎はイルフリーデの言葉を思い出し、歯を軋むほどに強く噛んだ。
(剣術の基礎中の基礎ではないかっっ! 力むだけでは、ただ棒を振っているのと何も変わらないと!)
強張った手では技もなにもない。むしろ柄を握る手は柔らかに、されど弾き飛ばされないように強く。欧州に名高いこの部隊は、損耗率が高いBETAとの実戦を熟知した上で、それを自然体でやってのけているのだ。
「―――真壁候補生」
「はっ!」
声は反射的に、背筋は物心ついた頃からある通りに真っ直ぐに。清十郎は素早く立ち上がると、呼びかけたヴィルフリートを正面で見据えた。ツェルベルスの最強は、変わらぬ様子で清十郎に状況を説明した。これより艦が向かう先と、その危険について。例えば突発的に重光線級が現れれば命の保証はないと。
「確認だが―――紙とペンは必要か?」
「―――っ!?」
戦場を前にしての言葉。それ即ち、遺書をしたためておく必要があるかどうかを聞いているのだ。
(即応部隊とはいえ、本来は演習目的に積まれたもの。AL弾の数は不明………)
それが尽きれば、空母とはいえひとたまりもない。そして、戦場に保証があるのならば日本帝国軍が、欧州連合軍が現在の状況にまで追い込まれている筈がない。
(同じだ………なんら変わりない。フォイルナー少尉達と同じだ。自分は今、生死の境目に居る………っ!)
清十郎は自分の鼓動の音が跳ね上がるのを感じていた。口の中に血に似た味が広がっていく。握りしめた拳はしかし、微かに震える事を止めてはくれない。
(真壁に、斯衛に、兄達の教えにあるまじき姿だ………いや、違う!)
清十郎は静かにヴィルフリートを見た。ツェルベルスの面々を、イルフリーデを見て思い出した。
(―――そうだ。フォイルナー少尉は、一度も家名の事を口にはしなかった)
フォイルナー家がどうだの、家柄が、それを口実に何をも語ることがなかった。初陣の話でもそうだ。ただありのままに戦い、思った事を口にしていた。
(比べて、自分はどうか。何かにつけて兄達の言葉を引用した。まるでそれが真実正しいものであると、寄りかかった)
悟る。家もなにもない。実戦を、今自分が味わっている死の恐怖を知った上で笑ってみせた。他でもない、自分の力で笑ってみせたのだ。自分の足で立って、その上で当たり前のように戦う意志を固めている。
(バカだな、俺は………)
なんと未熟な事か。清十郎は静かに自分を恥じた上で、拳を壊れる程に強く握りしめた上で腹に力をこめ、知らない内に下がっていた顔を上げた。
「―――不要であります。元より、遺書は祖国に」
震えそうになる声を力でねじ伏せて、叫んだ。
「出国する時より覚悟は! ツェルベルスの方々が食い荒らす地獄の空気を共にできるのであれば、それこそ本望であります!」
背筋を伸ばし、震える手で敬礼を。
その姿を見たヴィルフリートは頷き、答えた。
「………日本帝国の武士に対し愚問だったな、許せ。いや、それとも―――」
ヴィルフリートは清十郎を見据えた上で、小さな笑みを見せた。どういった内心の変動によるものなのか。清十郎には分からなかったが、隣に居る白き后狼が少し驚いているのだけは分かった。
そして、イルフリーデを見る。いつもと変わらない、どこか明るい感情を思わせるその女性は先ほどより凛としたものを思わせる表情で、小さく頷いていた。
どうしてか、死ぬかもしれないなどとは微塵も思えないそれを見て、清十郎は自分の誤解を認めた。
―――そうして、予測の通り。
ツェルベルスは難度の高い任務にも関わらず、当たり前のように全機で生還し、その作戦を成功させた。
「………もう、ここともお別れか」
帰国の日。出発を控えた清十郎は、訓練生になって初めてとなる個室に別れを告げていた。期間はさほど長くない。荷物が増えた訳でもない。それでも去る事になる部屋を眺めていると、小さな郷愁による痛みを思わせてくれる。
「いや………名残惜しいのだろうな」
去りがたい場所とは、思い出を共有する大切な者が居る所だ。清十郎は数度だけ出会ったことがある風守光の言葉を噛み締めながら、それが真実であることを実感していた。
出撃以降、ツェルベルス部隊とは会えなかった。デブリーフィングその他、やる事が山程あるからであることは明白だ。そのような状況で、衛士にもなっていない新人に時間を割いてくれると思う方が間違っている。
(だが………俺は、この10日間の事を覚えている………決して、忘れられる筈がない)
清十郎は作戦の時の事を思い出していた。ファーレンホルスト中尉が、自分にデータ・リンクを許してくれた時の言葉を。この作戦時において、真壁清十郎はツェルベルスの一員であると認めてくれた時の興奮を。精強高潔たる“地獄の番犬”に末席であろうとも列せられたことを。
語らず、背中で見せてくれた。誇るまでもなく、衛士のあるべき姿の一端を。
(一からやり直しだ。だが、どうしてだろうな………不安よりも、期待感の方が勝る)
何かに寄り掛かることなく、自分の両足で戦場を走る意味。それを確立するには、今まで兄たちの言葉を表面的に理解するのではなく、骨身に染み込ませる必要がある。教条的なものではない、己が眼で見定めた上で大切な何かを選択していかなければならない。
答えは与えられるものではなく、自分で発見した上で組み立てていかなければならないもの。その先は遠く、険しいだろう。だがどうしてか、清十郎はその先に見えるものに奇妙な好奇心を抱いていた。
何より、尊敬できる主君が、兄が。今の自分と同じように。人と別れ、場所と別れてでも、姿勢を曲げずに不敵な笑みを浮かべ続けられているその理由を思った。
「ふ………俺はここより旅立ってみせる。しかし、そうだな」
清十郎は部屋を見回し、言った。
「立派になった暁には、いつか再会があるかもしれんな―――欧州真壁城よ」
初日に名付けた部屋に敬礼し、再会を誓う。同時に、背後より吹き出す男の声を聞いた。
「な―――ぶ、ブライアン少尉っっっ!?」
「誰だよ、ブラウアーだっての」
「そ、そんな事より何時からそこに、っていうか居たんなら声かけるとかノックとか!」
「いやー、悪かった悪かった。別れの儀式を邪魔したくなくてな」
にやにやと笑みを浮かべるその表情は、全てを聞いていた人間がするものだ。そう思っている間もなく、我慢していた堤防は呆気無く決壊した。
「欧州真壁城ね~。いや、最後の最後に面白いモンが聞けたわ」
「ちょっ?!」
微笑ましい表情が逆に憎たらしい。それでも立つ鳥跡を濁さずと、清十郎は敬礼をした。
「それで………何の御用でしょうか」
「お迎えだよ。少佐のとこまで連れていかれるよう頼まれてな」
「は………? いや、フォイルナー少尉は」
「ああ、デブリレポートであり得ねえミス連発してな。何度目だってメデューサにこってり絞られてる」
清十郎はミスの事が気になりつつも、出てきた名前の方が気になっていた。疑問符を浮かべる清十郎に、ヴォルフガングは常識を語るような口調で説明を始めた。
ベスターナッハ中尉の本名であること、アイパッチに隠された右目が由来であること。
「でな。その隠された魔眼に睨まれた奴はな」
「なんですか。人を魅了するとか、命令をきかせるとか、そういった効果があるんすか」
「いや、そこまで言って………お前も卑猥な想像をするな、おい。シャワー覗くだけじゃ物足りなかったってのかよ?」
「ぐ………」
清十郎はドン引きするその姿に怒りを覚えたが、我慢した。案内されるがままに、やがて目的地であるヴィルフリートの部屋の前までたどり着くと、ヴォルフガングに向き直り、敬礼と礼の言葉を告げた。
「おいおい、小僧。嘘はいかんな、嘘は。感謝というものには心がこもってなけりゃあよ」
「は………?」
「無理すんなって。本当はイルフリーデに最後まで付き合って欲しかったんだろ?」
「な、なぬを………いや小官は別にそんばことろはっ!」
「いや、何語だよそれ」
清十郎は失態を恥じつつも、小さな溜息と共に答えた。
「いえ、ブラウアー少尉にもお世話になりました。多くのものを学ばせていただけましたから」
ヒントはそこかしこにあった。初日にかけられた言葉が最もだろう。
―――サムライってのはサムライの家に生まれたものなら誰でもなれるのか、と。
「ご助言には感謝を。我が身の未熟の一端を、知ることができました」
「いや………そう固い話をしてるんじゃなくてな、小僧」
互いにいつ死ぬのか分からないのであれば、この機会を逃せば二度と訪れないかもしれない。その言葉を、清十郎は受け止めた上ではっきりと答えた。
真壁、斯衛の使命は大切なこと。それを果たす始発地点に立っただけの小僧が、何の想いを告げるのか。
「今はまだ遠い。高みに居られる女性を引きずり下ろすような無粋を、誰よりも俺が許せません」
力も、自覚も、経験も何もかもが違う。だからひとつずつ、自分の手で上り詰めてから。その他に相応しいと思える方法はなく、何より自分が満足できないと。告げられたヴォルフガングは、小さく眉間に皺を寄せながら静かに眼を閉じた。清十郎はその表情の変化に気づきながらも、言葉を続けた。
「積み上げるまで、時間が待っていてくれるのかも分からない。その先になにがあるのかも分からない。でも、それは変な近道をして良い理由にはなりません」
欧州で学んだこと。身の丈に合わない言動をしても、何もならないこと。理論や教訓に振り回されているだけの自分を知ったこと。
「子供臭い戯れ言かと、笑ってください………それでも、これは武士を目指す自分としての譲れない一分です」
はっきりと最後まで告げて。直後、ヴォルフガングの口はへの字口ではなく、笑みの形に収まっていた。
「全く………ひでえ言い草だな」
「え?」
「俺も、まあ寂しいんだぜ? 明日からお前のその百面相が見られなくなるってのは」
「いえ、その、覚えがありませんが」
「観察眼ある人間なら分かるって。フォルトナー少尉とかも言ってたぜ? ころころと感情の移り変わりが見て取れる面白い奴だって」
「バカなっ?!」
清十郎はここに来て過去最大級の恥辱に身を震わせた。問い詰めること、数分。喧騒の時も、やがて終わりが来る。
「と、そろそろだな」
「はい」
「元気でな。色々あったろうが、忘れてくれるなよ? 特に俺が演出してやったイイ思い出とか」
「その割に身体がちょっと小刻みに震えているのは俺の目の錯覚でしょうか」
どんだけ怒られたんだ、とは言わずに。
「少尉も、お元気で。いつか日本に来てください」
「………へえ」
「ご期待通りに、報いる事を………努力します」
堅物である自覚はあるが、そのような破廉恥な真似ができるのか。あるいは、洒落で済ませてくれる誰かを見つけるべきか。悩む清十郎の肩に、腕が回された。
「本当だな?」
「はい―――俺は、真壁清十郎は武士であり、二言はありません!」
「よーし、よく言った!」
これは侍と騎士の歴史的盟約とであり、男と男の約束であると、冗談めかした口調で。
「―――いいな。男なら、約束果たさずに、勝手に死ぬんじゃねえぞ?」
「―――ブラウアー少尉も」
そうして、清十郎は最後の敬礼を。
「ああ………じゃあな、清十郎」
そうして、真壁清十郎は欧州を後にした。
ツェルベルス37番目の衛士として認められた証と。僅かな時間でも再会でき、別れと約束を告げられた輝かしき金色の衛士との思い出と。
騎士の誓いという言葉と共に額に受けた、温かい残照を感じながら。
「………それで? こんな木っ端衛士に、なんの御用ですか白き后狼」
「取り立てて問い詰める事はありませんよ、ヴァレンティーノ中尉。そちらに何の意図も無いのであれば、の話ですが」
「ありませんよ………まあ、クリスのアレは事故に似た何かです」
ちょっとライバルの事が知りたかっただけですから。アルフレードが経緯を説明した後、ジークリンデはひとまずの納得を見せた。
「では、シフ中尉の一言は?」
「ちょっとしたフォローですよ。実戦未経験の衛士に、どんな言葉をかければその気にさせられるのか。フォイルナー達にそこまでを求めるのは酷ですから」
あえて粗暴な言葉で未熟を思わせるからこそ、向上心を刺激する事ができる。任官半年で、それも家柄を考えるとそれはできないだろうというアルフレードのそれは私見だったが、ジークリンデは否定しなかった。
「でも、たった一言であそこまで化けるとは思っていませんでしたが」
「………まるで全てを見ていたかのような口調ね」
「少年兵上がりの奴は大勢見てきたんで。表情と纏う空気見りゃ、大体の察しはつきます。あれは紛うことなき本物ですね」
将来が楽しみだと、笑う。ジークリンデはその表情に疑問を抱いていた。当然のようにアルフレードは気づき、答えた。
「私情ですよ、貴方と同じに。どうしても懐かしい誰かの影を思い出すんで。尤も、アイツはもっと不真面目でしたが」
「………」
ジークリンデは答えない。アルフレードも問いつめない。
互いの目的を推察するだけに留めた。例えば、視察研修に立候補したのがジークリンデの意見であるとか。その理由が、精神的には新人の域を出ていないイルフリーデ達の成長を促すためだとか。あるいは、日本侵攻の際に勇名を轟かせた大隊の縁者を見ることで、その力量を推察することだとか。
(………言ったら殺されかねんなぁ。黒の狼王と、白い后狼。実際にやってる事はその真逆だなんて)
アルフレードは幾度かの会話で、ヴィルフリートの人柄を計っていた。
―――類まれなる英雄。それが、打ち出した結論だ。
(俺たちの教本を。それに興味を示し、機会を作ってでも直接会って理論を学び、自分の血肉にした。全くもって勝てる気がしない)
度量も、実力も、自分程度では遠く及ばない。実戦経験も、ターラー・ホワイトを上回る。その上で貪欲に、油断の欠片もなく戦場を見据えている。正道この上ない。弱点など、揚げたじゃがいもが好きすぎる事以外に見当たらない。
その上で貴族だ。欧州で青血を引いているというのは、日本のそれより特別な意味合いが根強い。樹から聞いて分析した上での結論だった。当然、高級将官にもそういった傾向が強い。
それでも、綺麗事だけで何もかもを解決するのは不可能だ。命じられるまま、良いように使われるだけではいくらツェルベルスでも長期間戦い続けられない。
その調整をしているのは誰か。裏の駆け引きを、政治的なそれを。表向きは欠片も見せないだろうが、それでもツェルベルスでそういった役割を担うのは誰なのか。
情報を収集した上で、アルフレードは結論付けた。戦場で敵に回したくないのはヴィルフリート・アイヒベルガーだが、戦場以外で敵にしてはいけないのがジークリンデ・ファーレンホルストであると。
(―――いい女だなあ、くそ。本気で敵に回したくねえよ)
裏にある想いを推察すれば余計に。それは狼の習性に似ていた。
“群れ”の形を決めているのはヴィルフリートで、“群れ”の方向性を決めているのはジークリンデ。独断的という噂がないのは、ジークリンデの調整能力のお陰か。個性が強い貴族ばかりを上手くまとめているのは、群れのトップに君臨する夫婦狼の功績が大きい。
(あるいは、中核を成す七英雄が一種の連帯感を持っているせいか)
とても入り込む隙間がない。故に派閥的な敵対をするのは得策ではないと、アルフレードは確信していた。だからこその協定だった。
―――クラッカー中隊は、変に目立たない。
―――ツェルベルスも、クラッカー中隊と敵対する姿勢を見せない。
欧州に戻って間もなく、アルフレードがジークリンデに申し出た内容だった。アルフレードはフランツ達を守るため、ジークリンデは衝突によって第三者が漁夫の利を得ないようにするため。例えば装備的に優遇されているツェルベルスに嫉妬する衛士が、第三勢力を掲げないようにするため、協定は結ばれた。
(さりとて、いつまで続くのか………いや、今は焦る段階じゃないか)
地力を磨く時だ。それを疑わず、アルフレードは平時と変わらぬ様子を保っていた。
(―――やはり、警戒に値する相手ね)
ジークリンデは、欠片も相手の事を侮ってはいなかった。真壁清十郎が抱いた、ツェルベルスのイメージとは違うのが彼らだ。
任官して数年程度の、ヴォルフガングでさえ平時は精神的摩耗を減らすためにサッカーなどの娯楽を嗜んでいる。一方で、欧州に戻ってきたハイヴキラーの面々は違った。常に貪欲で、鍛錬を怠らない。生活の全てが衛士としての実力向上に割かれていた。
才能はある方だろうが、それで増上慢にならず、逆に力不足を嘆く様は一種狂的な何かを思わせた。それで壊れないのは、ヴィルフリートや自分と同じように、青年期よりずっと戦場に侵されて、日常になってしまった者特有のものだ。
それでも、人格的に歪んでいる訳ではない。むしろ新任の衛士に対する面倒見が良く、階級や功績に驕らない姿勢は素晴らしいものだ。警戒するに値しないと言われれば、そうかもしれない。だが、気になる噂もあった。1995年、5年前にマンダレーハイヴを攻略したクラッカー中隊に、12番目が居たという噂。
(それも、当時若干12歳。荒唐無稽なんて域じゃない、くだらない冗談だと思う所だけど………)
アルフレードの言動を見るに、あながち間違いではないのかもしれない。その衛士が戦死したという噂も聞かない。あるいは、アルフレード達はその衛士を待っているのではないかと、そういった疑念も浮かんだ。
(あー、ちょっと言い過ぎたか?)
アルフレードは何となくジークリンデが考えている事を察しつつも、溜息をついた。台頭するつもりはないのだ。ヴィルフリートの協力もあって、理論の浸透は既に済んでいる。アレは教育にこそ真価を発揮するもので、効果が出るのは数年後のこと。それも地味であり、はっきりと栄誉を賜るような大仰なものではない。
ツェルベルスの新鋭も、突撃砲兵も、新兵特有にあった穴を埋めるのに役立った。あとは才能溢れる衛士が生き残れば、全体の生存率も上がる。
そして、仕上げが来れば。そこまで考えた時、アルフレードにしては珍しく、特に深くを考えずに言葉を紡いだ。
今は、先も見えない。欧州の大半が制圧され、ツェルベルスもあちらこちらに呼ばれ、後始末を命じられる日々。ハイヴ制圧など、欧州奪還など、雲の先にも見えない状態だけれども。
「そう遠くない内に………中尉殿が、愛しのお方の子供を産む。それが許される未来が、来るかもしれません」
「―――」
静かに、驚愕に。アルフレードは、悪戯が成功した男児のような顔のまま告げた。
「後進に任せれば不安はないと、責められることなく引退できる。それが受け入れられる、明るいものが―――」
「………」
同意の言葉は返らず、リアクションもない。あるのは、ほんの少し、強くなったと思われる拳の握りだけ。それでも、アルフレードは共通点を見出していた。
同じような言葉を向けたターラー・ホワイトが、ラーマ・クリシュナの方を見ながら示した反応と、同じような。
その隙をついて、アルフレードは手を上げて別れを告げて逃げ出した。
一瞬だけ遅れた制止の声。
その間が生じることで見えた美しき后狼の、女性としての当たり前の幸せを求める想いが残っている事に、多大な自己満足を覚えながら。
余談その1 清十郎が帰国後の真壁家
「………そうか。清十郎は無事、帰国したか」
「はい。しかし、これはとあるルートからの情報なのですが」
「なんだ。構わん、言ってみろ」
「その………清十郎様ですが、ツェルベルスの女性陣が居るシャワー室に事故ですが乱入してしまったと」
「―――」
「す、介六郎様?! お前もかって何の事で―――昏倒?! だ、誰か、医者を、早く―――!」
余談その2:アルフレードと音速の男爵『ゲルハルト・ララーシュタイン』
「そういえばですね、ララーシュタイン大尉」
「ふむ、なんであるかヴァレンティーノ中尉」
「ちょっと小耳に挟んだ話なんですが。フォイルナー少尉は、盛大に勘違いしてたみたいですよ。何でも真壁清十郎の事、小学生だと思い込んでいたらしいです」
「………」
「………」
「あと、基地の衛士の間でもですね。妙に清十郎君に接触しているフォイルナー少尉を見かけたという情報が。あと、ヴィッツレーベン少尉は中学生と勘違いしていたようです」
「………」
「………」
「―――国際問題にならなかったのは、奇跡ですね」
「終わり良ければ全て良しなのであるっっっ!」
「あ、珍しく汗かいてる」
余談その3:アーサーとクリスティーネ
「なんだ………どうした、クリスティーネ。俺の顔になにかついてんのか?」
「いや、どうしてもね。自分の身長を低くする方法を知りたくて」
「よしその喧嘩買った表に出ろ」