私が殺した彼女の話   作:猫毛布

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8n.乖離幻想曲

 セシリア・オルコットはカクンと首が落ちそうになるのを止めて、目を覚ました。

 僅かに感じる頭痛。目の前に広がる書類の山。肩が重く感じる。

 どうやら仕事をこなしている途中で眠気が来たのだろう。

 背筋を伸ばして自らの肩を揉み解す。少しばかり肩が軽くなったような気がした。

 

「代表、紅茶をお持ちいたしました」

 

 扉を開け、カートを押して来たのは織斑一夏だ。執事服を着こなし、優雅に紅茶を注ぐ彼。その隣にはカートに乗っていたクッキーを器用に口へと放り込むメイド服を着用したルアナ……、そう、織斑ルアナだ。

 織斑家はオルコット家に代々仕える家系であり、遡ればどうやら江戸末期に西洋へと渡った織斑の先祖が当時のオルコットに拾われたのが始まりらしい。

 日本人らしい実に誠実で、義理堅い性分からか今に至るまで忠誠を尽くしてくれる織斑にオルコット達は感謝をし、礼を尽くした。

 

 そんな日本人らしい織斑一夏とその隣にいる西洋人らしい織斑ルアナにはちょっとした面倒な関係があったりする。

 そもそも織斑ルアナには名前などなく、言ってしまえば野良猫の様な存在であった。当然、ただの野良猫なら拾った瞬間に捨ててしまえば話は済むのだけれど、この野良猫は元殺し屋だったりする。

 尤も、今はそんな事を思わせない柔らかい雰囲気を出しているけれど、実際に狙われていたセシリアはよく知っている。

 そんな狙われていたセシリアを当然の様に守った織斑一夏。猫は面倒そうに口を尖らせ、降参を示した。そこから従者はとんでもない事を言う。

 曰く、猫を飼う。との事だ。

 お嬢様はソレはもう驚いた。ソレこそ恋仲にまで発展しそうだった彼を馬鹿だの、アホだの、スケベだのと罵った。そんな罵りを慣れていた彼はへにゃりと情けない笑みを浮かべるだけだったのだが。

 

 そこから数日して、猫に猫耳とメイド服を着せて甘えさせてみれば意外とアッサリお嬢様は陥落されたのだが、ソレは昔の話である。

 汚れ仕事も含めて色々とやってくれるルアナ。普段の様子とは違い、仕事を頼めば何でもこなしてくれる。頭も切れるらしく、今となっては自分に無くてはならない存在だ。

 

「疲れてそうだな、大丈夫……ですか?」

「一夏さん、ココには私とルアナさんしか居ませんから、いつも通りで構わなくてよ」

「そうか。大丈夫か?」

「ええ。私がこなさなくてはいけない事ですもの」

「変に気負いすぎ。面倒多すぎ。倒れる方が面倒」

「ルアナは言いすぎだけどな」

「事実」

 

 シレッと言ってのけたルアナは私の前に積まれていた書類を数枚確認して息を吐き出した。

 

「この程度なら私でも出来る。少しは休めば?」

「いえ、ですが」

「休めば?」

 

 首をコテンと傾げている様は非常に可愛らしいルアナさんであるけれど、その瞳は有無を言わさない迫力がある。

 どうしたものかと一夏さんに視線を向ければ肩を竦めている。どうやら兄妹共々休ませたいようだ。

 

「わかりましたわ。少しだけ休ませて貰います。何かあれば」

「セシリアが心配するような事は何も起こらない。なんとなく、だけれど」

「……わかりましたわ」

 

 彼女の『なんとなく』は非常に良くあたる。そんな『なんとなく』に何度も救われたことのある自身が言うのだから間違いない。

 

「じゃあ、一夏。後は任せる」

「おう。愛しのセシリアを存分に甘えさせてやるよ」

 

 そういう言葉を急に吐かれると驚いてしまう。顔が熱い。

 いや、そもそも婚約をしているのだけれど。それでもそういう、甘い言葉はコチラの心の準備をしている時にしてほしい。彼女も目を伏せて溜め息を吐いているではないか。

 

「では、後を任せます」

「了解致しました、お嬢様。是非世継ぎは男児を」

「ッ、もうっ! ルアナさん!!」

「ケンゼンでキヨイお付きあいヲ」

 

 非常に含みのある言い方をしながら一夏さんに押し出されて部屋を出される。

 

「まったく! ルアナさんは突然あんな事を」

「まあまあ」

「第一! 一夏さんはルアナさんに甘すぎますわ!」

「ははは、大事な妹だからなぁ」

「もっと、……もっと私に構って下さっても、いいではありませんか……」

 

 出て行く声が小さくなり、自分が吐き出した言葉が余計に恥ずかしくなる。

 後ろから抱き締められる。少しばかりの怒り……いや、これも嫉妬からくるモノだけれど、そんな小さな嫉妬もこうして抱き締められると許してしまう。甘い甘いと彼に言う私は彼に甘々である。

 

「ごめんな、セシリア」

「……いいですわ。こうしてくれれば、許します」

「ん、ありがとう」

 

 身体の向きを変えて正面から抱き合う。彼の匂いを肺一杯に押し込める。うん、彼の香りだ。

 

「一夏さんの香りがしますわ」

「そうか? さっきまで紅茶を触ってたから匂いが移ったかな」

 

 相変わらず、彼はどこか抜けている。そんな彼が好きなのだから別にいいのだけれど。

 一分ほど彼の香りを嗅いで、彼から離れる。頭がスッキリした。こういう現象をルアナさんに相談すれば彼女は面倒そうな顔をするのだろう。

 

「一夏分を補給完了しましたわ」

「一夏分って……」

「一夏さんから放出される栄養素ですわ。ちなみに命名はルアナさんです」

「アイツか……ちなみに効果の程は?」

「十二分ですわ」

「……セシリアって普段は完璧なのに急に天然になるよな。そこが可愛いからいいんだけど」

「天然、なんて一夏さんには言われたくありませんわ。まあ、そこが素敵だからいいんですけれど」

 

 顔を合わせて言い合い、お互い可笑しくなって吹きだしてしまう。

 笑いが漏れ出して、私を抱き締めていた腕が解かれる。少しばかり名残惜しくもあるけれど、扉の前でずっと抱き合うのもやっぱり可笑しい。

 

「抱き締めてわかったけど、色々と凝ってるな。マッサージでもしようか?」

「よろしくお願い致しますわ」

「畏まりました、お嬢様」

 

 そんな言葉に口を少しだけ尖らせて不満を漏らせば彼は笑って私の頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マッサージの為、というちょっとした大義名分を掲げてからシャワーをゆっくりと浴びる。身体に当たるお湯が少しずつ身体を温めていく。

 そう、これはマッサージの為のシャワーなのだ。血行を良くしてリンパ線がどうのこうのという理由なのだ。決して、好意のある行為を致す為に身を清めている訳ではない。そういう事なのだから、何も疚しい事など無い。

 脳裏に彼女の言葉が聞えたが、今は無視しておこう。

 

 お気に入りのシャンプーへと手を伸ばす。

 扉が開かれる。

 

「手伝うよ」

 

 頭が真っ白になる。目の前には一夏さん。鍛えた肉体。割れた腹筋の下はどうやらシャワーの煙が濃くて見えはしない。

 

「ど、ど、どうして入ってくるんですの!?」

「髪の手入れとかを手伝いにだよ。子供の時に一緒に入ってただろ?」

「子供の時の話ですわ! 今はもう」

「なら大人の時の話にしようか」

 

 手を取られて甲に優しくキスをされる。言い返そうとした言葉が封殺され、恥ずかしくなって背を向ける。

 

「お、お願い致しますわ」

「おお。まあ、セシリアの髪に触りたいってのが事実なんだが」

「一夏さん!」

「はいはい。黙って手だけ動かすよ」

 

 クスクスと背中から声が聞こえてきて私は口を尖らせる。

 シャンプーの香りがして、彼の少しだけ骨ばった指が私の頭へと優しく乗せられる。頭の上から、毛先まで優しく彼の指が梳き、丁寧に洗われる。

 

「慣れてますわね」

「あー、まあ。セシリアの為に練習したからな」

「ふーん……」

 

 誰で練習したかは敢えて聞かなかった。どうせ今日の一連の事を彼女に話すと納得顔をするのだろうし。というか、もしも彼が他の女に手を出していたり、この練習をそこらの女でしていれば彼女から容赦の無い制裁と私への報告があるだろう。

 それが無いという事は、つまり、そういう事なのだ。

 

 シャワーの水流で泡が流される。始まりから終わりまで至極優しい手つきであった。

 

「やっぱり綺麗だな」

 

 呟くように言われた言葉。私に聞えたのが奇跡な程小さな声であった。彼の本心から言われた言葉に心が高鳴る。

 そんな私の背筋にペタリと彼の手が当たった。

 

「ひゃいっ!」

「悪い、冷たかったか?」

「いえ、そうではなく、えっと」

「髪が終わったら身体だろ?」

 

 さも当然の様に言ってのけた彼。付け加えるように、マッサージへの準備も含めて、などと言われる。

 彼も彼で、そういった大義名分がいるのだ。私と一緒で。

 

「いい、ですわ」

「そ、そうか」

 

 妙な空気が流れて、彼の手がゆっくりと背中に当たる。

 背筋を撫で、脇腹に触れ、抱き締めるように腕が前へと。くすぐったい様な、甘い刺激に少しだけ声を我慢する。

 後ろから彼の身体が密着する。彼の荒い息が耳朶に当たり、彼の熱が肌に押し付けられる。

 どこか冷静な部分が「男性はここまで熱くなるんだ」と変な理解をしてしまう。

 彼の手が臍を撫で、上昇する。肋骨を少しだけ辿り、母性へと触れる。

 鼻に掛かった声が漏れ、彼の動きが少しだけ止まって、再開する。

 耳朶を甘く噛まれ、彼の力の入れ具合に翻弄される母性。その頂を指で軽く挟まれて、顎が上がってしまう。

 足に力が入らない。身体が浮いているような錯覚。しっかりと彼が支えていなければ、倒れていただろう。

 

「セシリア、大丈夫か?」

「え、ええ……」

 

 嘘である。大丈夫なものか。

 鏡に映っている自分の顔のなんと情けない事か。蕩けた瞳に紅潮した頬。女だと分かってしまう表情。

 

「セシリア……」

「一夏さん……」

 

 顔を見合わせて、ゆっくりとセシリアは瞼を閉じた。

 シャワーの音が鼓膜を揺らす。その音が雷鳴が如き音へと塗り潰された。

 

「何事ですの!?」

「セシリア、下がってろ」

 

 銃声だと理解したのは一夏の方が先であったらしく、セシリアを自身の影へと隠した。

 扉が激しく音を鳴らす。開かない扉にイライラしたのか闖入者は銃声を鳴らし、扉を蹴破る。

 ガスマスクにフード。防弾ベストをした存在はライフルを片手に現れた。

 

「……誰ですの!?」

「…………」

 

 ガスマスクは答えない。ただ状況を確認して、空いている手を拳へと変え、強く、強く握り締めるだけだ。

 ズカズカと歩き、拳を振り切った。拳は織斑一夏の顔面を正しく捉える。

 

「ガッ」

「何をしますの!?」

「…………」

 

 ガスマスクはセシリアを一瞥して、防弾ベストを脱ぎ捨て、上着を脱いで彼女へと投げた。

 身体の状態を改めて理解したセシリアはその上着で身体を隠すようにしてガスマスクを睨める。

 ガスマスクはそんな事もお構いなしに、織斑一夏へと近寄る。倒れていた織斑一夏は無表情にガスマスクを見上げた。

 

「……何をした?」

 

 セシリアはゾクリとした。ソレは知っていた声であり、そして知りはしない低い声であった。

 愛しい人。織斑一夏の声。ではその声を発したのは? 倒れた彼の口は動いていない。

 

「セシリアに何をしたって聞いてんだよ!」

 

 ガスマスクに阻まれた声ではあるが、しっかりと、明確に、その声が響いた。

 拳が生々しい肉の音を響かせる。その音にセシリアの意識は戻り、咄嗟に声が出た。

 

「やめてくださいまし!」

 

 出てきた声は制止の声であった。

 ペタペタとタイルを鳴らして、セシリアはガスマスクの腕を止めた。ガスマスクはセシリアへとようやく顔を向け、どうしてか泣きそうな顔をしているセシリアにようやく気がついた。

 

「もう、大丈夫ですから……ありがとうございます、一夏さん」

「…………」

 

 襲い来る頭痛を耐えて、セシリアはガスマスク……一夏の拳をゆっくりと握り、解いた。

 ガスマスクが零れ落ち、タイル床へと音を鳴らした。

 セシリアは解いた拳を愛おしく撫でる。倒れた"織斑一夏"へと視線を向ける。

 

「私の一夏さん。私だけの……」

 

 目を伏せて、頭を振った。

 思い出せる限りの甘い言葉や甘い世界。幻想の様な時間。

 セシリアは深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。瞼を上げ、一夏へと微笑む。

 

「大丈夫ですわ。帰りましょう、一夏さん」

「ああ」

 

 景色が小さな粒へと変化していく様を見ながらセシリアはふと思い出す。

 なんでもないような顔をして、一夏へと詰め寄る。

 

「……そういえば、私の身体、見ましたわね?」

「…………ユゲデミエナカッタナー」

「今ならこの上着に免じて許してあげますわよ?」

「ごめんなさい! バッチリ見えました。素敵なプロポーションで思わず見蕩れた!」

「ふう、まあ許しましょう」

 

 安心顔の一夏に思わず笑いが出てしまう。口を手で隠し、少しだけ丈の長い袖から硝煙と彼の香りがした様な気がして、セシリアは更に笑みを深めた。


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