書けるかどうかは置いといて。
ルアナ・バーネットは息を吐き出した。そこには何の感情もなく、ただ吐き出した透明の空気が空へと向かう事だけを感じている。それだけ。
瞳に映り込んだ月を瞼を落とすことで捕まえ、もう一度息を吐き出す。
ゆっくりと。静かに。長く。細く。
「学生寮の屋上で何をしている」
屋上の扉を開き姿を現したのは織斑千冬であり、既に月が昇っている時間だと言うのに未だにスーツ姿だ。相変わらず月を瞼で閉じ込めているルアナは千冬を見ることもせずに、「別に」と小さく呟いた。
千冬は口をへの字に変えて溜め息を吐き出す。額に指を当てて軽く頭を横に振った。
「まったく誰のせいでこんな時間まで仕事をしていたと思っている」
「感謝はしてる。貸しも菓子も与える気はないけれど」
「知ってるさ。どうせお前は一夏の為と言い張る事もな」
言い張る、という言葉に反応してルアナは瞼をゆっくりと上げる。変わらず深い青の瞳は黄色い月を映し込んでいた。
「一夏の為」
それは確かにルアナの言葉であった。千冬に振り向く事もせずに、月を向いたままルアナは口を開きさらに言葉を続ける。
「シャルロットは一夏の為に購入した」
「……ああ、そうか」
「そう」
バッサリと言い切ったルアナにやはり千冬は溜め息を吐き出してしまう。
目の前にいる紫銀の少女はすべてを一夏へと捧げている。髪の先から爪の端まで、美少女だといえるその全てを一夏へと捧げている。いいや、捧げた。
だからこそ、千冬は溜め息を吐き出してしまう。目の前の存在は確かに変わっている。性格的にも性癖的にも変態と言えるが、一番最初に話した時よりもソレを感じる事はない。
良い意味で機械的だったルアナが悪い意味で人間的になっている。
千冬はそう感じた。ルアナを取り巻く環境かそうしているのか、少なからず一夏が原因ではないだろう事は千冬は容易く理解できた。
「千冬」
「なんだ、ルアナ」
「…………なんでもない」
千冬を数秒程瞳に映したルアナはその一言を呟いてまた空を見上げた。まるで口が無いように押し黙ったルアナを見ながら千冬は新しい溜め息を空気へと溶かし込んだ。
◆◆
「ルアナ」
「ん……?」
簪は冷蔵庫の中身を確認しながら同室である食いしん坊へと呼んだ。
食いしん坊は素知らぬ顔で簪へと近付いて「なんだなんだ」と言いたげに首を傾げた。冷蔵庫の中には何もない。
そう、何も無いのである。
「お茶請けを勝手に食べた?」
「はて、私は存じません」
「オカシナ口調になってるのが何よりの証拠」
「お菓子な口調……」
じゅるり、とそんな突拍子もない所で涎を飲み込んだルアナに簪は溜め息を禁じえない。この同居人と過ごしてから一日一回は溜め息を吐き出している様な気がする。
ともあれ、ルアナがお茶請けである簪特製のお菓子を食べた事は事実である。我ながらいい出来だ、きっとルアナも喜ぶだろう、だなんて考えていた簪は知らぬ間に食べられた事にフツフツと何かが芽生えてきた。
簪もどこかにルアナに勝手に食べられるだろう、という考えはあったけれど、それでも実際に勝手に食べられると怒りたくもなる。
その奥深くにはルアナに目の前で食べてもらいたかった、という気持ちがあるのだけれど、そのことに簪は目を向けていない。そんな事よりも食べられた事の方が問題なのだ。
怒ってます。という看板でも前につけているのか、顔に貼り付けているのか、ともかく簪は怖かった。尤も、頬を膨らませてプイッとそっぽ向いている様を見て怖い、と思ってもないことをルアナは言えなかった。いや、言えたかもしれない。その時は饅頭怖い、という言葉も一緒に言ったことだろう。
ああ、なんと怖いのか、恐ろしい顔である。そんな顔をされると反省しなくてはいけない。
ともあれ、ルアナは非常に暖かい気持ちとどこかドス黒い……というか、真っピンクでドロドロとした何かを心の奥へと押し込めて、眉尻を垂れ下げた。
「簪、許して」
「ダメ、もう作らない」
「!?」
作らない、という言葉に雷が落ちたように反応してしまったルアナ。古い漫画のように大きく仰け反り驚きを露わにして世界の終わりだ、と言わんばかりに床へと伏した。
突っ伏して数秒。顔だけを上げたルアナが何かを決心したかのようにキリリとした顔で口を開いた。
「なら、私が作る」
「え?」
簪は驚いた。驚きのあまりメガネが割る、なんて古典的表現はありえなかったが、それこそ言葉にするならギョッとした、とそのくらいには驚いた。
いいや、思い出して欲しい。すっかり作者本人も忘れていたのだけれど、この紫銀の美少女、ルアナ・バーネットは料理部に所属しているのである。そう、料理をしなくては食べ物にありつけない料理部に所属しているのである。
そんな事数ヶ月同室である更識簪も知っている。時折遅く帰室した時の言い訳は「料理部で
もしかすると、ルアナはとんでもなく料理音痴なのではないだろうか。
そんな料理部に居て尚餌付けされているルアナ。自分で作った物はおそらく少ない。いや、無いだろう。たぶん。おそらく料理部の人たちはルアナに餌付けをして楽しんでいるんだ。
と自分の事を思いっきり棚どころか神棚に飾っている簪。当然、無意識である。
「る、ルアナって料理、出来るの?」
「む、失礼な」
相変わらずYシャツ一枚という姿の彼女は袖をめくりフンスと鼻息を吐き出した。
その姿が余計に恐ろしく映る簪。頭の中には数々の漫画とアニメに映ってた
なんと言っても目の前の美少女は料理部であるのだ。そう料理部なんだ! ほら、お茶入れるのは上手いし。大丈夫、大丈夫……。
無理やり自分を納得させた簪は終ぞキッチンに向かうルアナを止めることは出来なかった。
珍妙な、リズムのへったくれもない、言ってしまえば下手くそなルアナの鼻歌を聞きながら40分程。簪はISの調整に手を付けながら、というよりはルアナを心配そうに見ながらISの調整を行っていた。
本当に、大丈夫なのだろうか。
40分前の宛もない自信など既に消え去り、簪の心は心配でいっぱいである。
一応、鼻腔を擽る甘い香りはする。砂糖の焼ける匂いであることは簪はよく知っていた。
簪のいる所からキッチンのルアナを見ることは出来るがその手が何をしているかを見ることは出来ない。
不安、いやルアナなのだから……ルアナなのか……。不安だ。食べれるのだろうか。
簪は少しだけお腹を摩った。おそらく、きっと、苦痛を強いる事になるだろうが、許して私のお腹。
心で自分の臓器に謝罪を述べている簪の耳に聞きなれたキッチンタイマーの音が響く。ソレを素早く止めたルアナはオーブンを開き、口角が自然と緩んだ。
「アップルパイ?」
「うん、apple pie」
妙に発音のよかったルアナの言葉など耳に入ることはない。
砂糖が溶けた事により網目状のパイ生地に煌びやかなヴェールが掛かり、その奥からは魅惑的なりんごの果肉が覗いている。部屋にはりんごが熱によって熟れた香りが広がり、匂いでわかる甘さに思わず頬を緩める。
わかってしまう。これは美味しい物だ。
ルアナが包丁を通せば、パイ生地が音を立てて割れ中に収まっているりんごの果肉からトロリと甘そうな汁が溢れていく。
簪の喉が鳴った。
「どやぁ」
と口でいうかの様にそれなりに育った胸を張るルアナ。確かに彼女は料理部だったのだ。尤も、食べる側に回っているのだけれど。
しっかりと中皿に取り分けられたソレを机に置いたルアナ。隣に紅茶を置くことも忘れはしない。
座っていた簪は思わずルアナを見上げた。見上げられたルアナは少しキョトンとして、何かを思いついた様に笑みを顔に浮かべる。
「お嬢様、お待たせいたしました」
Yシャツがメイド服に代わり、ルアナの頭にはメイドカチューシャが添えられ、いつしか部屋は花の咲き誇る庭園に変わっていた。
もちろん、幻覚である。簪さん、そろそろ妄想から戻ってきてください。
目の前にある美味しそうなアップルパイ。甘いソレに合わせる様に甘味の少ない紅茶。
そういえばルアナが「美味しい物を食べる為」と言いつつお茶を沢山持っていた事を思い出した。そんなルアナが料理下手な訳がない。
「いただき、ます」
フォークを横に倒し、パリパリとパイ生地を割っていく。意外にあっさりと割れた一口大の欠片をフォークに突き刺し、口の中に入れる。
砂糖の甘さが舌に触り、歯で噛んでやれば砂糖の甘さを孕んだリンゴの果肉が口の中で広がった。
口を閉じてその甘さを堪能しながら声を出して幸せとリンゴの果肉を噛み締める。甘さで自然と頬が緩みだす。
「美味しい、美味しいよ。ルアナ」
「んぐんぐ」
当然と言いたいのか、ルアナは焼いたアップルパイの半分を皿の上に乗せてフォークで啄いてく。これは私の物だ、と言わんばかりに。
ただ、決して言いはしない。
このアップルパイのカロリーの事など、口にすればそれこそ簪の機嫌を損ねてしまうのだから。
>>あっぽーぱい
作者は苦手な食べ物。パイ生地が……
>>砂糖とリンゴ
リンゴの芯をくり抜いて、そこに砂糖とバターを放り込みます。レンジに入れて熱します。あら不思議、美味しい!
>>一夏の為の行動
もうそろそろ書かないといけない
>>ルアナの料理
料理を作るのは得意です。基本的には食べる側だけれど。美味しい物が作れて損は無い。