ルアナは空を見上げていた。
相変わらず空に漂う雲は美味しそうな形をしている。
「まあ! なんですの。そのお返事は!」
そんな驚きの声でようやくルアナは口を袖で拭って声の方向を向いた。
声の主は金色の長い髪を揺らし、驚きでその碧眼を大きく見開いている。
そんな今となっては希少価値である『ですわ』口調の相手をしているのは唯一の男性の一夏である。
ルアナは思わず目を細めた。ジトーッと睨んでいる訳ではなく、ただ瞼を下げて、金髪の少女を睨んでいる。
スクッと立ち上がったルアナは片手を腰にあるポケットの中に突っ込んでテクテクと近づく。
金髪と一夏との掛け合いは一方的にヒートアップしていく。そんな中、ルアナは金髪の後ろから近づいて、丁度机一個を開ける形で立ち止まる。
「一夏」
そして一夏へと声を掛けた。
相変わらず片手はポケットの中に入ったまま。そんなルアナを見て一夏はバツの悪そうな顔をする。
「大じょぅ、」
「ちょっとアナタ! 今は
「一夏」
「あー、落ち着け、やめろ。ともかくそのポケットに入れた手を出してくれ」
失礼にもなる。と小さく付け加えた一夏。その言葉に従う様にルアナは何も持っていない右手をポケットから取り出した。
金髪の少女を挟んでいるというのにルアナは決して彼女の視線を合わせることも無く一夏を見ている。
そんな態度に金髪少女はムッとしてしまう。
「もしや、アナタも
「セシリア・オルコット。イギリスの代表候補生。IS学園の入試で唯一教官を倒したエリート中のエリート」
「そ、そうですわ」
淡々と言われる自身の紹介文。ルアナはルアナで何も感じていない様にただ文章を読み上げた様な態度だ。
そして鼻で笑う。
「矜持を無くした英国貴族。民を守る盾は自身を守る為にだけにしか使わない」
「な?!」
「おい、ルアナ」
「聞き捨てなりませんわ!」
「謝罪はしない。矜持を高く持つのは結構。ただそれは盾であるべき。弱い者に差し出すのは剣ではなく手であるべき」
「
「たったついさっき。そんな事も忘れる重度な痴呆症なら今すぐ病院へ。意識せずに振りかざしたなら失言だった。さっさと国にでも帰って民を切り捨てればいい」
「ルアナ!」
「……」
一夏の声にようやく口を閉じたルアナはセシリアに向かって鼻で笑う。そして相手が口を開く前に踵を返した。
セシリアが口を開こうとした時には既にタイムリミット。三時間目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「ッ……ルアナ・バーネット! 次の休み時間に訂正してもらいますわ! 逃げないことね! よくって?!」
「……」
そんなセシリアの声も無視を決め込んでルアナ自身に当てられた席に座りまたのんびりと空を見上げる作業へと戻っていった。
教室へと入ってきた千冬は教室の微量にピリピリとした空気に溜め息を吐きだした。
そして自身の弟である一夏を見る。一夏は肩を竦めて同じく溜め息。千冬も同時に溜め息を吐きだした。
「……では授業を開始する」
そんな溜め息混じりに開始を宣言した千冬。教科書を開いたところで、思い出したように言葉を紡ぐ。
「ああ、その前に再来週に行われるクラス対抗戦に出る代表者を決めなくてはいけないな」
その言葉と同時に色めき立つクラス。疑問符を浮かべている織斑一夏。あ、あの雲パンみたい、なんて空気を読まないルアナ。
「はいっ! 私、織斑君を推薦します!」
「……」
その言葉に雲から視線を外してルアナは手を挙げた少女を見た。
到って普通の少女。それが邪気の無い笑みで手を挙げ、一夏を推薦している。そしてその波に乗るように新たに一夏を推薦する声。
ルアナは面白くない様にまた空を見上げる作業に戻った。
「待ってください! 納得がいきませんわ!」
そして声を上げて立ち上がったのはセシリア・オルコットである。
胸に手を当てて自己を主張していく。曰く、クラス代表は私しかいない。曰く、男がクラス代表だなんていい恥さらしだと。
様々な言葉を並べ、ようやくエンジンが掛かってきたところでルアナはハンッと鼻で笑った。
「矜持も持たない貴族はよく吠える」
「あら、男の肩を持つ犬もよく吠えますわ」
「……」
「男もこんな人形の様な少女に守られて何も言えない軟弱者だと」
「――セシリア・オルコット」
静かに、ルアナは立ち上がり、そして低い声を出した。たったソレだけの行為であるのにセシリアの口は止まり、ルアナに釘付けとなる。
そしてルアナは全員の視線など関係なしに口を開く。
「あでっ」
千冬の投擲したチョークがルアナの額に当たった。仰け反ったルアナは額を擦りながら千冬をジトリと睨んで見せた。
「バーネット。自他推薦の無い者は座れ」
「……了解」
千冬はそんな睨みもどこ吹く風か淡々と座る様に促し、そしてルアナもソレに了承の意を唱えて席に座る。
座ってからはまた空を見上げて雲を追いかけだすのだ。
「で、誰が軟弱者だって?」
ようやく溜め息を吐いて先ほどの言葉を拾った一夏はセシリアの意識をルアナから自分へと向ける為に口を開く。
セシリアもハッとした様に、そして温まったエンジンをもう一度回す為に口を開く。
あとは売り言葉に買い言葉、トントン拍子に二人の決闘は決まる。
セシリアはそんな状態でも決してあれから口を開くことはなかったルアナへと視線を向ける。ルアナの視線はクラスには無く空を見上げていた。
◆◆
放課後になり、机へと突っ伏している一夏。セシリアの決闘を受ける事になったのは別によかったのだけれど、授業を真面目に受ければ受けるほどわかる自身の認識の違い。
ある程度は自習をしたけれど、それでも全く足りてはいなかった。
これは、ダメかも知らんな。なんて頭の中に浮かんでは消えている一夏の前に影。
「一夏」
「……おう」
紫銀の少女である。
毒舌家である彼女に友人は出来るのだろうか。一緒に住んでいる一夏にしてみればかなり心配である。もはや兄の気持ちではなく、父親のソレに近いのかもしれない。
ともかくとして、そんな一夏に見られたルアナは首を傾げて「どうした?」と聞いてくる。毒さえ吐かなければ実に愛らしい。
まぁ、白雪姫もびっくりの毒りんごである。
そんな二人の元に慌ててやってくる影。
「あぁ、よかった。織斑くん! まだ帰ってなかったんですね」
「いや、今から帰る所ですけど」
「さよなら、やまだやま先生」
「バーネットさん、まやです。
「ごめんなさい、山田まやま先生」
「次は多いです」
「あーえっと、それで山田先生。俺に用事ですか?」
明らかに遊んでいるルアナを遮り一夏が元々の要件を聞き出そうとする。
真耶もあぁ、そうでした、と口にしてから言葉を紡ぐ。
「織斑くんの部屋が決まりました」
「へ?」
「え?」
一夏とルアナは同時に声を出した。方や驚きの声であり、方や嬉色の混ざった声である。
驚きの声を上げた一夏は自身の疑問を真耶へと問いただし、そして嬉色の声を混ぜたルアナは来るべき素晴らしき食生活に目を輝かせた。
「ちなみにバーネットとは別室だ」
「なん……だと……」
新しく登場した千冬の声によってルアナ・バーネットは床に手を付いた。輝かしい食生活がガラスの様に砕けて散った。勿論、寮生活において食堂なんて物があることをルアナはまだ知らない。
そして一夏と別室と言われて意気消沈しているルアナはおそらく自分の部屋であろう部屋の前に到着した。
はぁ、と絶望色の強い溜め息を吐き出してルアナは扉を開く。
鼻に漂ったのは甘いバターの匂い。そして何かが焼ける香り。ヒクヒクと鼻を動かして部屋へと突入したルアナ。
肩に掛けてあったカバンをその場に置いてともかく匂いに向かって走った。
「あ……」
「……じゅるり」
丁度取り出す所だったのか、オーブンを前にキッチンミトン装備の水色の髪の少女。手にはアルミ板に置かれたスコーン。
ルアナは口から溢れ出すヨダレを拭った。そして正座して流れる様に頭を下げる。
少女、ドン引きである。
「ど……同室の人……だよね?」
「ルアナ・バーネット。スコーンが好き」
「あ、えっと……食べる?」
「是非!」
顔を上げたルアナは本当に笑顔だった。数時間前に毒を吐き出していたとは決して思えない。
あぐあぐ、もきゅもきゅとスコーンを美味しげに頬張るルアナ。
人形の様な容姿も相まって、小動物でも飼った様な気持ちが溢れてくる少女。
誰も奪う事は無いのに、二つのスコーンを素早く口に収めたルアナはゴックンと喉を鳴らして、息を吐きだした。
「美味しい」
「あ、ありがと……」
「名前、知らない」
「あ……私、
「よろしく、簪」
「っ……」
最初から名前で呼ばれた事に簪は少し驚く。その表情を読み取ったのか、ルアナは首をコテンと傾げて疑問を口にする。
「嫌?」
「……いや、ではない……けど」
「なら、簪は、簪」
もう話は終わりました。と言わんばかりにルアナはスコーンを頬張る。
あれだけイギリス貴族を馬鹿にしたけれど、こうしてスコーンを美味しそうに食べているのはどういうことか。一夏の「世界一まずい料理で何年覇者だよ」という言葉に対しても微妙に眉間を寄せていたので食に関しては譲れない物でもあるのだろう。
対して簪の方は更識ではなく、全うに自分自身を見てくれる稀有な存在への驚きとそしてその存在が小動物の様にスコーンを頬張っているギャップに頭が追いついていない。
しっかりとスコーンを食べ終え、淹れられた紅茶を飲んでからルアナがご馳走様を言い終えるまで、この微妙に混沌とした空気は続くことになる。
そんな混沌とした部屋とは別の部屋。織斑一夏が割り当てられた部屋。
この部屋もまた混沌としていた。というか女部屋に男である一夏が存在するのだから既に混沌としているのだけれど。
「待て箒。話せばわかる」
「知ったことかッ!」
これだけ聞けば浮気か無駄遣いのバレた夫とソレに怒る妻である。当然、その認識は違う。断じて、違うのだ。
バスタオル姿の年齢の割に大きな乳房を持った幼馴染を見た野獣。そしてそのブラジャーをしっかりと手にとったクソ野郎、織斑一夏。被害者、
肌襦袢を着た箒は力いっぱい振るった木刀を白刃取りした一夏。頭など割れてしまえばよかったのだ。
ともあれ、一悶着あれば気持ちは落ち着いてしまうもので、ベッドへと腰掛けて溜め息を吐きだした箒。
そして箒が落ち着いたことで安堵の息を出した
髪を梳かしながら一夏からある程度の事情を聞いた箒。仏頂面でそれはもう面倒事になった、と言わんばかりの顔をしている。
心の中では百八十度違う反応で完全に小躍り状態だ。もはやパーティだ。表彰台には自分しか乗っていないし、受け取っているのはトロフィーではなく織斑一夏その人である。
全くそんな事をおくびにも出さないのは素晴らしい事だろう。相手がこの鈍感で無ければ、少しでも気づいたかもしれない。この男ならば喜んだ所を見せても『箒もやっぱり幼馴染と一緒にいるのは嬉しいよな!』と男女の関係には決して結び付けないだろう。哀れ篠ノ之箒。
「そういえば」
「ん?」
「あの女は誰だ? ほら、紫銀の髪の」
「あぁ、ルアナか」
当然の様に名前を呼んだ一夏に対して少しだけむっとしてしまう箒。
自分だけしかいなかった表彰台に不穏な影が忍び寄る。
「アイツは……そうだな、家族だ」
「よし殺す」
「ちょっと待て、待ってください箒さんや。木刀を下ろしてくれ」
「あぁ、わかった。貴様の頭に垂直に下ろしてやる」
「死ぬ! 頭は死ぬから!!」
「あぁ、死ね」
愛情の裏側は憎悪である、なんてのは誰が言ったのだろうか。
箒の脳内表彰台の頂点にあの毒舌女が立っている。そしてソレを一夏が抱きしめているのだ。許せるか? 否である。
一夏と箒の戦いは夜半にまで続くのであった。