南一局 親:原村和
原村和 44700
竹井久 26900
宮永咲 40700
青山茂喜 287700
長きにわたって続いた東四局。
それこそ誰かが飛ぶまで続くのではないかと思われた青山の連荘は、竹井久の執念の和了によって終焉を迎えた。
けれどこれで勝負が終わったわけではない。
麻雀における半荘とは前半の東場、後半の南場に分かれた二部構成。
つまるところ、未だ勝負は折り返しを迎えたにすぎないのだ。
後半戦、南一局。起家である原村和は手元の起家マークをひっくり返すと、そのままサイコロのスイッチへと細い指を伸ばした。
二つのサイコロの合計は5。
それに従い各人は親であるのどかの山から手牌を自模っていく。
自模る順番の関係から必然的に誰よりも早く手牌を引き終えたのどかは、己の手牌を整理するとスカートに置いた手を強く握りしめた。
……24万3千点差。
切り下げれば24万点、切り上げれば25万点。
それがのどかと青山との間に立ちはだかる“壁”だった。
現状、前半を終えたのどかの順位は青山に次ぐ二位。
しかしそれが仮初めの―――自分が勝ち取った結果によるものではなく、たまたまの偶然でしかないことをのどかは理解していた。
最後に久が一矢報いたものの、東場は文字通り青山の独壇場。
まるで他人の思考が読めるかの様に、山の牌が見えているかのような打ち方で青山は和了を重ね次々と点棒を積み上げていった。
……でも人の思考が読めるとか牌が見えるなんてそんなオカルト―――
―――そんなオカルトありえません
一体何度、対局中に心の中でその言葉を叫んだだろう。
原村和の麻雀は確率の麻雀。
より和了率の高い方を、期待値の高い方を選択し続ければ必然的に勝率は高くなるという至極まっとうな『常識』を突き詰めた打ち方。
そこには牌が見える、好きな牌を引ける、人の心が読めるなどといった常識外の『オカルト』など一ミリたりとも介在していない。
というより、のどか自身が信じていないのだから考慮に入れる余地すらある筈もない。
多少変わった打ち方、和了の仕方を目にしてもそれらはあくまでも偶然に過ぎないのだとのどかは信じてきた。
……でも。
昨夜の対局では五度、今日の対局では既に八度も青山はその通常では考えられない『オカルト』染みた和了を見せている。
一度ならば偶然で済むだろう。
二度続いてもまぁ、そんなこともあるだろう。
三度、四度、五度続こうとものどかは偶然の偏りだと無理やり納得するだろう。
けれどそれが十度も続けばどうだろう。
偶然だと、納得できるだろうか。
……認めないと、いけないのでしょうか?
オカルトの存在を。
しかしそれは自分の麻雀を、原村和を否定するのと同義。
のどかは揺れていた。
青山茂喜という理外の怪物に触れ、己を信じることが出来なくなっていた。
……怖い。
ぶるりと、のどかは身体を震わせた。
高校生にしては余りにも発達の良すぎる胸が大きく上下に揺れ、ほっそりとした足が小刻みに震えだす。悔しい気持ちがないわけじゃない。
だがそれよりも今は恐怖こそがのどかの心を支配していた。
震える体に鞭を打ち、原村和は己の手牌へと視線を落とす。
理牌を終えたばかりの十四枚の手牌。
ここから一枚余分な牌を選んで捨てる、それは幾度ともなく経験したことだというのに。
……どれを切れば―――
点差が開いているとは言え、無理に現実的でない大物手を作りに行くよりも堅実な手で点数を重ねていった方がまだ逆転の可能性は高い。
普段ののどかであれば即座にそう判断し、平和・断幺九の芽を残した{西}切りを選択しただろう。けれど今は、
……わからない。
何を切ればいいのか、どうすれば和了れるのか、どうやったら青山から逃げれるのか。
いつもなら簡単に判断できることが出来ない。
暗い闇の中に閉じ込められたような閉塞感。
しかしこのまま迷っていては一向に対局が進まない。
とりあえず何か牌を切ろうと指を伸ばしたその時だった。
「のどか」
久から声がかかったのは。
「あなたは、あなたの麻雀を打ちなさい」
「部長……」
にこりと笑うと、それ以上久は何も言わなかった。
まるで伝えたいことはもう全部伝えたと言わんばかりに。
のどかは伸ばしていた指を牌から離すと、久を見つめる目を少し細めた。
……部長はすごいですね。
素直にそう思った。
打ち方そのものは到底のどかの受け入れられるものではなかったが、どれだけ振り込もうとも、どれだけ点数がなくなろうとも常に久は前を向いていた。
前を向いて自分の意地を貫き、そして最後には青山から一矢報いた。
勿論、それはあくまでも結果論であり和了れないまま飛ぶことも十分にあり得た。
また一矢報いたとはいっても、実際のところ無謀な攻めを続けたせいで点棒は増える所か大きく減っている。とてもいい打ち方とは言えない。
でもそれでも、原村和は竹井久を凄いと思った。
―――諦めなければきっと道は開けるわ
諦めることなく自分の意志を貫き通した麻雀部の部長を尊敬し、そして少しだけ嫉妬したりもした。
……私にも出来るのでしょうか?
久みたいに、どれだけ打ちのめされようとも自分の麻雀を貫けるのかと、のどかは己に問うてみる。
―――返ってきたのは不安だった。
自信がなかった。これまで比較的不自由なく育ったのどかには、この逆境を一人で乗り越えられるだけの自信も経験もなかった。
……せめてエトペンがいてくれたら。
今は学生鞄と共にある友人を思う。
まだ小さい頃に親が買ってくれたペンギンのぬいぐるみにして宝物。
ネット麻雀では常に自分の傍で支えてくれていたかけがえのない友人。
そう、せめてエトペンと一緒ならばいつものように自分の麻雀を――――
そこまで考えて、のどかは背後を振り返った。
パソコン台の横。
荷物置き替わりにと、旧校舎の教室から拝借した複数の勉強机を並べて作られた平台。
その上に置かれているのは、部員の学生鞄とそして―――
「ちょ、ちょっと待ってもらっていいですか!?」
対局中に席を立つことがマナー違反であるのは知っていたが、背に腹は代えられなかった。久がまず笑顔で、そして続いて咲が目を白黒させながらも小さく頷く。
そして卓の中で唯一の部外者である青山が最後に頷くと同時に、のどかは席を立った。
礼儀正しいのどかにしては珍しくスカートのプリーツを乱して平台に駆け寄ると、可愛らしい花柄の刺繍の入った袋を手に取った。
……エトペン。
袋から取り出した大きなペンギンのぬいぐるみを大事に抱きかかえ、席へと戻る。
部室中の視線が胸元へと集まっているのを感じながら、のどかは丁寧に頭を下げた。
「急に席を立ってすみませんでした。もう大丈夫です」
「えっと、それはいいんだけど……のどか。それってぬいぐるみ……よね?」
「はい。エトペンです」
「エト……ペン?」
久の頭上には?マーク。
いや、久だけではない。一緒に卓を囲む咲も傍から観戦している部員達も、そして果てはあの青山でさえ目を白黒とさせていることにのどかはくすりと笑った。
……私はもう大丈夫ですよ部長。
一人だったら駄目だったかもしれない。
でも、今は一人ではなかった。
……エトペンが一緒にいてくれる。
たったそれだけのことで、のどかの心に広がっていた闇は消え失せた。
……見える。
さっきまではまるで見えなかった手牌の進むべき道が、ハッキリと見える。
それは自宅でネット麻雀を打っている時と同じ感覚。
外界からの余分な音が消え、自分の感覚が鋭くなっていくのがのどかにはわかった。
数秒の思考の後、のどかは牌を握った。
……どれだけ点差があろうとも、私は自分の麻雀を貫きます!
{西}を捨てるその顔には、最早迷いはなかった。
Ⅱ
「ツモ。1300オールは1400オールです」
南一局一本場。
引いた牌を優しくマットに置き、のどかは手牌を倒した。
リーチ平和ツモの3翻20符。
安目を引いたために三色も断幺九もつかず裏ドラも乗らなかったが、それでも麻雀の教本に載っているかの様な綺麗な手だった。
青山茂喜は既定の点数を支払うと、僅かに眉を顰めた。
……これで二連続。
南場に入ってから連続となる原村和の和了。一見すれば東場の頭を思い出す何てことのない安手の連続和了だが、青山に言わせれば全くの別物もいい所だった。
……流れに淀みがない。
東場の時の無理に流れを歪めて作った安手とは違う、場の流れに沿った自然な打ち筋での和了。恐らく和了った本人は気付いていないだろう。
ただ確率と期待値を計算した先に辿りついた結果としか考えていまい。
だが確実に、今原村は場の流れと繋がりつつあった。
……『間』を狙われた形になったな。
呼吸と呼吸の間、流れと流れの間。
偶然とはいえその隙間を上手く突かれたと、青山は思った。
勿論、幾ら偶然とはいえ凡百の天運しか持たぬ打ち手にできることではない。
……原村和か。
青山と同じ、昨年のインターミドルの覇者。
男女部門の違いこそあるが同じ大会に出場していたことと、ちょっとした個人的な理由から青山もその名ぐらいは知っていた。
そして昨夜、とある偶然から共に卓を囲んで打った感想としては、
―――なってない。
その一言に尽きた。
持って生まれた天運、強運を全く活かせていない。
人は平等ではない。
それは容姿や身体能力だけでなく、持って生まれた運にさえ当て嵌まる。
大抵は強運でも弱運でもないどっちずかずの凡運を持って生まれ、それからあぶれた人間が弱運を、そして極々一部の選ばれた人間のみが強運を授かる。
その分類でいえば原村和は間違いなく強運の―――“持っている”側の人間であると言える。ただ思いのままに打っていればそれだけで勝ってしまえる、選ばれし側の人間。
だが原村和はその自分の才能を全くと言っていいほど引き出せていなかった。
ミスの多い中途半端なデジタルな打ち方で場の流れを乱し、自ら強運を鎖で抑えつけてすらいた。
しかし今は。
……完全なデジタルに徹することでその鎖を解き放ったか。
昨夜の対局、そして東場では見られていたイージーミスや打ち方のブレが南場に入ってから全くと言っていいほど見られない。確立を重視したミスの少ない打ち方を徹底することで、自分の天運を前面に押し出した麻雀をのどかは展開しつつある。
……皮肉な話だ。
青山はそう心の中で呟くと、小さく鼻を鳴らした。
それは苦笑というより半ば冷笑にも近かった。
デジタル麻雀とは元来、持たざる者が少しでも勝率を上げるためのもの。
短期決戦における必勝の策を持たない凡人が、一局一局の密度を、熱を下げて終始機械の如く確立に任せることで何とか長期スパンでの勝ちを拾おうと編み出した苦肉の策。
だがそんな持たざる者のための打ち方を、“持っている側”の原村和が誰よりも信奉し徹底しているという皮肉。
……長期視点から見た場合、デジタルに徹すれば誰でも二割~三割はトップを取れるという。
それを運が強いのどかが行えば、それこそトップ率にもう二割は上乗せできるだろう。 平均的に安定して良い結果を残すという意味では原村和は間違いなく優秀。
……とは言え。
南一局二本場六巡目。
青山が捨てた牌にのどかが動いた。
「ポン」
鳴いた{中}を晒し、手牌の一番右端の牌に手をかける。
手が重く遅くなり、黙っていては期待値が小さくなるようなら積極的に動いて期待値を少しでも大きくする。数字を絶対とするデジタルな打ち方ではよく見られる鳴き。
麻雀には正解はないとはいえ、確立と期待値に基づいた判断は客観的に見れば正しいのかもしれない。
しかしそれゆえに、ひどく読み易くもあった。
「ロン 8000は8600」
のどかが牌を捨てると同時に青山が手牌を倒す。
断幺九三色ドラ一。
断幺九狙いの手でありながら直前までドラでもない中を抱えていたこと、両面で待てたにもかかわらずあえてカンチャンで待っていたこと。
のどかの思考と手牌を読んでいたとしか思えない打ち回し。
だというのに、点棒を渡すその顔には東場に見せた動揺は欠片もなかった。薄らと顔を赤らめながら、どことなく焦点の合っていない瞳でただただ卓上を見つめていた。
……南場に入ってから場に対する熱を欠片も感じない。打ち方だけでなく、心まで完全な機械になったか。
青山をしても初めての経験だった。
のどかのようにデジタルな打ち方をする人間はいくらでもいた。
けれど内面までもデジタルに―――完全な機械になってしまう人間は誰一人として見たことがなかった。恐らく今ののどかは例えどれだけ不可解な打ち回しを見ようとも、それこそ理不尽な負けを喫しようとも“そういうこともある”と平然と割り切り、受け入れてしまうのであろう。それは強みであるが、また同時に弱みでもある。
少なくとも青山はそんな相手に負ける気は欠片もしなかった。
むしろと、対面でニコニコと手牌を眺めている自分をここへと招いた原因へ目をやる。
……悪くはない。
だが特別良くもない。精々が凡人に毛が生えた程度の天運。
多少なりとも効く勘で誤魔化して入るようだが、どう見積もっても原村和や自分のような“持っている”側の人間ではない。
しかし彼女、竹井久には原村和にはない一局一局に対する“熱”がある、想いがある。
短期決戦ではそれが恐ろしい。
時としてその熱が差を、場を、流れを、実力を、天運をひっくり返すことがある。
事実、半ば弱まりつつあったとは言え青山が支配していた場から竹井久はその熱を持って和了を勝ち取った。そして折れかけていた原村和を立ち直らせ、その真の姿を呼び覚ます呼び水となった。
……少し、あいつらに似ているかもしれないな。
青山の脳裏に浮かぶは中学時代の記憶。
かつて、毎日の様に上級生のクラスに訪れては麻雀部に入ってくれと真っ直ぐな目で頭を下げてきた後輩達。恵まれた才能は持っていなかったが、たった一つの目的を果たすためにと熱を持っていた麻雀部員達。
通りで対局を頼まれた時に断れる気がしなかったわけだと、青山は苦笑する。
……無意識の内に会長とあいつらを重ねていたってわけか。
我ながら女々しいことであったが、不快ではなかった。
元を正せば様々なしがらみから逃れるためにやって来た長野だが、そんな場所でも竹井久の様な熱を持った人間と出会ったことに青山は偶然以外の何かを感じざるをえなかった。
……まぁ、それならそれでいいさ。
どのみち、昨日あの雀荘に入った時からある種の運命は感じていたのだ。
それに比べれば、竹井久との出会いなど誤差レベルでしかなかった。
南二局。最後の親番であるにもかかわらず、竹井久は既にやるべきことはやり尽くしたと言わんばかりに静観の構え。
5巡目。青山は当然の様に手牌を倒していた。
「ツモ。1000・2000」
原村和 45300
竹井久 21500
宮永咲 36300
青山茂喜 296900
満貫、跳満、倍満といったそれまでの怒涛の高火力に比べれば何て事のない安手。
ともすれば局を消化するためにも思えるその和了は場を流すためのものでもなければ、小刻みに点数を稼ぐためのものでもない。
それは息継ぎ。
一度は途切れた流れを再び引き込むための調整。
……さっきの満貫とこのツモで準備は終わった。
元より東場の段階で基礎となる土台は作り終わっていたのだ。
二局もあれば原村和の流れを断ち切り、再び自分に流れを引き込むなど容易に出来た。
次局からの青山は東場終盤のような仕上がった状態となる。
……このまま何もせず終わるのか、それとも何か魅せるのか……
お前はどっちだと、青山は問いかける。
その目は依然として俯いたままの、宮永咲へと向いていた。
作品を複数書いてると、主人公の名前がごっちゃになる時があるという……