Ⅰ
東四局 五本場 四巡目。
まとまらない手牌に目をやりながら、久は重い息を吐いた。
……わかっているつもりだったってことかしらね。
久は自分が青山茂喜という存在を見誤っていたことを悟った。
彼の力が今の自分達よりも上だというのは、彼女とて最初からわかっていた。
だこらこその大会ルールにかこつけた、持ち点十万点と言うルール。
しかし、安全ネットとして設けたはずのそれが今や見る影もなくなっていた。
東四局 五本場
東家:青山茂喜 254500
南家:原村和 48500
西家:竹井久 52500
北家:宮永咲 44500
……酷い点数ね。
普通の25000点持ちの麻雀ならとっくの昔に飛んでいる。
今はまだ5万点と言う点数を保持しているが、このまま行けばあと数局でそれも消えてしまうだろうことを久は理解していた。
……こんなことなら飛びなしのルールにしておけばよかったかしら。
一瞬そんな後悔が脳裏を過ったが、すぐに無駄だと悟る。
飛びなしになった所でマイナスが増えるだけで、状況が好転するわけではない。
またそんな違和感バリバリのあからさまなルールにしては、プライドの高いのどかが反発しただろうことが部長である久には容易に想像できた。
久はこの対局の主役である、左右の席に座る二人の様子をうかがった。
最初は対照的な顔を見せていた後輩たちは、今や同じような有様だった。
上家に座るのどかは対局当初のような気力は感じられず、ただただ悔しそうに少なくなった点数を見つめ自分のスカートを強く握りしめている。一方下家に席を置く咲は暗かった表情に更に影が差し、牌を引く時以外はひたすら俯いていた。
そこに対局前に期待していたような光景はなかった。
……全ては私の想定の甘さが招いたことね。
浮かれていたのかもしれないと、久は思った。
高校最後の年に新入生が四人も入り、咲とのどかという可能性に溢れた二人を見て半ば諦めかけていた全国の夢を見れるようになった。
“あの二人ならきっと何とかできる”
そういう想いがあったからこそ、久は青山茂喜を連れてきた。
例えトラウマがあったとしても、のどかと咲ならば対局を行う中できっと前を向いて乗り越えることができるはず。
そんな信頼と呼べば聞こえのいい盲信がこの状況を招いてしまったと、久は己の浅慮に唇を噛みしめた。
……本当ならこうならない様に私がサポートするはずだったのに。
青山茂喜の強さが自身の想定を超えていた場合、後輩達が潰されぬようサポートするために久は卓に入った。
いや、その筈だった。
……まさかこうも何もできないとはね。
青山の親を流すために鳴いて安手の聴牌を作れば、あっさりと同巡に面前で倍満をツモられる。何とか流れを変えようとのどかに差し込んでみれば、まるでわかっていたかのようにその差し込んだ牌で和了られる。
青山の親番が始まってからこれまでの五局、結局久は何一つできることなくただただ点棒が減っていくのを黙って見ているしかなかった。
そして今も。
「リーチ」
青山のリーチの声に、一年生コンビはびくりと体を震わせた。
やはり手を緩めてはくれないかと、久は再度手牌に目を落とした。
……配牌からほとんど変わらない四向聴。
捨てた牌が通ったことに安堵の息を漏らすのどかを横目に入れ、久は山に手を伸ばす。
引いてきたのは手の変わらない不要牌。
……形も悪ければ伸びそうな気配もないわね。
降りるという考えが彼女の頭を過る。
幸いというべきか、例えまた役満をツモられたとしても誰も飛ぶことはない。
最悪のケースとしては咲かのどかが青山の役満に放銃してそこで飛び終了となることだが、下手に久が動いて代わりに振り込んでしまってはあまり意味がない。
薄いとはいえこのまま青山が和了牌を引けずに流れる可能性がある以上、ここは咲とのどかが振り込まないことを願いつつ次局の配牌に期待する。
……常識的に考えればそれが正しいはず。
久の指が手牌の中央、対子となった{六萬}にかかる。
{六萬}は青山の現物。
手は崩れるが、その代わりに二巡の猶予を得ることができる。
細い指先が{六萬}を持ち上げる―――――途中で、ピタリとその指が止まった。
同時、これまで役満を和了っても何ら反応を示さなかった青山の眉が僅かに動く。
……本当にそれでいいの?
―――常識的に考えれば正しいのかもしれない。
―――けれどその常識でこの現状を変えることができるのか?
―――今の自分では青山茂喜に勝つどころかのどかと咲のサポートさえ出来ない。
―――精神状態がどん底にある二人には、きっとどんな言葉をかけた所で届きはしないだろう。
―――なら今私が二人のために出来ることは何?
しばしの逡巡の後、久は牌から指を離すと大きく息を吐いた。
「―――よしっ!」
乾いた音が卓に響いた。
突然の音に思わず咲とのどかが顔を上げると、そこには痛みに呻きながら両頬を手の平でおさえる久の姿があった。
「いたたた……自分で叩いたら痛くないって聞いたことあったけど、十分痛いじゃない」
「ぶ、部長?」
「―――でもまぁ、お蔭で覚悟がきまったわ」
久は自分の手牌にあらためて手をかけた。
しかし指先が向かったのは中央ではなく、手牌の一番右端。
手を進めていく上で必ず切らなければならないが、まだ場に一枚も出ていない超危険牌。
不要な牌の中にはもっと安全なものもあった。
けれどあえて、久はその牌を選んだ。
河へと置かれた牌から久の指先が離れる。
青山からの和了宣言はなかった。
ふっと久は正面に座る人物に笑みを浮かべた。
「さぁ。勝負と行きましょう、青山君」
Ⅱ
麻雀における素人と玄人の違いは何か。
そう尋ねられた時、多くの雀士は“守り”の差だと答える。
麻雀は運の要素が強い競技。
引きが良くなければどれだけ経っても和了ることは出来ず、逆に引きが良ければそれこそ配牌の段階で勝負が終わってしまう。
牌効率を重視した打ち方によって多少なりとも和了率を上げれたとしても、その本質は変わらない。麻雀が運の競技と言われる理由でもある。
しかしそんな“攻める”ことに関しては運の要素が重要になる一方で、逆に“守る”ことに関しては実力の差が顕著に表れる。
捨て牌はもとより手出しかツモ切りの違い。
更には僅かな視線の動きと言った卓外の事柄までも考慮に入れて相手の待ちを読み、振り込まない。全ての局を和了ることが現実的に考えて不可能である以上、いかに振り込まずに失点を最小限に抑えられるか。
それこそが麻雀の勝敗を分かつポイントであり、また全ての局を和了ろうとする素人と玄人の差でもある。
その観点から見た場合、竹井久は間違いなく玄人の部類に入る。
原村和の様に詳細な確率や期待値から計算するわけではないが、場の状況によって柔軟に対応できるその能力の高さは同年代の中でも光るモノがある。
悪待ちなどセオリーを無視した打ち方を好むにもかかわらず、失点が少ない。
それこそが久の強さの要因の一つ。
だというのに、
「ロン 11600の6本場で13400」
「っつ!」
久の指が捨て牌から離れると同時、作業染みた発声と共に青山がその手牌を倒した。
タンピンドラドラという、至極ありふれた和了形。
随分と軽くなった点棒ケースに久は一瞬顔を顰めたものの、すぐにふっとまた笑みを浮かべた。
「さぁ。次に行きましょう!」
◇
「……部長一体どうしちゃったんですか?」
続けて二度の放銃をしながらも笑顔で次の局を催促するのは先輩の姿に、京太郎は困惑の表情を浮かべ素直に自分の思ったことを口にした。
そしてそれはまた対局を見めていた他の二人も同じ。
まこと優希もまた、声にこそしなかったが少なからず京太郎と同じような表情をしていた。
「今のも無理に行くようなとこじゃなかった……ですよね?」
席順の関係から京太郎達がいる場所からは久の手牌が見える。
だからこそ、その不可思議な打ち方もまた三人にははっきりとわかった。
未だ初心者の域を抜け出せていないためにイマイチ自信なさげな京太郎の疑問に、まこは「じゃけぇ」と頷いた。
「有効牌の少ない二向聴。いくら点数差があるっちゅーても、聴牌気配がある相手に勝負に行く形とは思えん」
「さっきの局もリーチ一発目にいきなり危険牌を切ったと思ったら、その次も無筋のど真ん中を切って満貫の放銃……普段の部長ならありえないじぇ」
「……もしかして点数差が開き過ぎておかしくなったとか?」
「京太郎」
「うっ。すいません」
先輩に対して礼を逸した発言をしたという自覚はあったのだろう。
じろりとメガネのレンズ越しに見咎められ、京太郎は素直に謝罪した。
怒られて少し小さくなった京太郎とそれを冷やかす優希の姿をレンズの端に捉えながら、麻雀部唯一の二回生はまぁそう思っても仕方ないかと嘆息した。
普段ではまず見ないような安易な放銃を二度続け、点数は既にいつ飛ぶかもわからぬ危険域に入っているというに尚も笑顔のまま。
傍から見ていれば、心が折れてしまったと思うのも当然というもの。
……じゃけど、あんたはそんな軟やないやろ?
まこは知っている。
久の強さを。部員のいない麻雀部をここまで立て直した竹井久の強さを、染谷まこは誰よりもよく知っていた。
……いったい何を考えとる?
この二局、久が行っていたのは超攻撃的な打ち方。
ただただ和了るための、リスクを考えない神風特攻。
直撃を受けても笑って前を向くその姿はまるで誰かに見せつけているようでもあって―――
……って、まさかアンタっ!?
Ⅲ
……まこは気付いたみたいね。
背後で親友が息を呑んだのを察し、久は口元に小さく弧を描いた。
青山茂喜の独壇場で迎えた東四局は既に七本場目。
トップとラスの点数差は優に20万点を超え、最早一方的というのも憚れる虐殺ショーへと変貌している。
……私の残りの点数は約2万5千点。
一般的な半荘での持ち点とほぼ同じ。
今からでも遅くない。
守ることに徹すれば、無茶な打ち方を辞めれば少しは延命できるのかもしれない。
けれどそれは迎える終わりがほんの少し後に伸びるだけ。
だからこそ、持ち点が四分の一になってもなお久は前に出ることを選んだ。
後に、託すために。
……ふふ。さっきから二人とも有り得ないって顔をしてるはね。
自分が牌を捨てる度に顔色を変える後輩達に内心で苦笑する。
特にデジタルな打ち方を好むのどかから見れば、今の久の打ち筋は狂気の沙汰だろう。
危険を顧みず和了ることだけを、前だけを向いた打牌。
……二人とも気付いてくれるかしら?
手牌から切った牌に自身の想いを込める。
五巡、六巡と自分の番が巡ってくる度に腕は重くなる。
もしかしたらもう青山が張っているのではないか、本当にこんな危ない牌を切っていいのか、次に振り込めば飛んでしまうのではないか。
冷静なもう一人の自分が止めろと叫ぶ。
そんな声を無視して、久は余分となった{三萬}を河へと捨てた。
「ロン 12000の7本場で14100」
東4局だけで8連続、その前から合わせれば都合9連続となる青山の和了。
対面で倒された手牌を確認し、久は自分の手牌へと視線を落とした。
……少し間に合わなかったわね。
一向聴だった手牌を伏せ、また笑顔で次の局を迎える。
東4局8本場
東家:青山茂喜 295500
南家:原村和 48500
西家:竹井久 11500
北家:宮永咲 44500
相も変わらず、この局もまた久の手牌は良くなかった。
手の作りやすい中頃の牌に欠けた、横への伸びが期待し辛い配牌。
横に伸び辛い分縦に期待が出来る幺九牌の対子が3つあったが、そこから暗刻へと重ねていくのは至難の業。ドラも絡んでいない以上、七対子、状況によっては鳴いての対々といったところが現実的な落とし所だった。
けれどその時、久の頭にはぼんやりと別の絵が浮かんでいた。
一巡目。親である青山が牌を捨て、番は南家へ。
山から牌を引いたのどかは青山の顔色をうかがい、恐る恐るといった様子で河
へと牌を置く。
そして何の反応もないことがわかると、ほっと豊かな胸を撫で下ろした。
最早そこにはいつもの強気なインターミドル王者、原村和の姿はない。
あるのはただただ無力な一人の少女の姿だけ。
……怖いわよね、のどか。
心の中でのどかへと語りかける。そう、怖くない筈がないのだ。
久はそこで一度のどかから視線を切ると、今しがた引いたばかりの牌に目をやった。
山から引いてきたのは一見不要な{八萬}。
横も縦のつながりも見えない以上そのままツモ切りで問題ない、けれどあえて久はそれを手牌に残すことを選択し対子を切り崩した。
続くは北家、宮永咲。
対局が始まってからずっと影を纏っていた少女は山に手を伸ばすときだけ僅かに顔を上げたが、牌を切るとすぐにまた俯いてしまった。
まるで何かから逃げようとするように。
……恐ろしいわよね、宮永さん。
心の中で咲へと話しかける。そう、恐ろしくない筈がないのだ。
一巡目が終わり、番は再び青山へ。
二巡目以降の展開は一巡目同様静かなものだった。
特に誰かが鳴くこともなく、ただただ牌を打つ音だけが室内に響く。
けれどそれに比例して重くなっていく空気。
場が動いたのは12巡目。動かしたのは、やはり青山だった。
「リーチ」
投げられたリーチ棒、曲げられた牌に咲とのどかは身体を震わせた。
ただリーチをかけただけだというのにこの怯え様。
……辛いわよね、二人とも。
そんな二人へと心の中で久は話しかけた。そう、辛くない筈がないのだ。
怖いだろう、恐ろしいだろう、辛いだろう、逃げ出したいだろう。
久自身がそうなのだ。
いくら才能があろうとも―――否、なまじ才能があるからこそ、格の差を嫌でも痛感するこの対局は二人にとってキツイものだろう。
もしかしたら、麻雀を止めたいとすら思っているのかもしれない。
……でもね二人とも。
山へと手を伸ばす久の顔はしっかりと前を向いていた。
才能の差なんかに、実力の違いなんかに屈するものかと、前を向いて笑っていた。
……勝負から逃げ出してしまえばそれ以上前には進めないの。
掴んだ牌の腹に指先をそっと当てる。
薄らと凹んだその感触に久は時が来たことを悟った。
……きた。
12巡目にして、竹井久もまた聴牌。
―――青山に、追いついた。
……あとはどっちで待つか。
{北}を捨てれば{二筒}{三筒}待ちのシャボ、{一筒}を捨てれば{北}の単騎待ち。
どちらの捨て牌候補も青山の河にあるため、いずれを切ったとしても即当たることはない。判断の材料としては、現在久から見て{北}は三枚そのありかが見えている一方で{二筒}{三筒}はまだ四枚しか見えていないということ。
単騎よりも両面が必ずしもいいという訳ではないが、それでも四枚VS一枚。
安手になる可能性があることを計算に入れても、期待値的には両面待ちの方が遥かに大きい。
迷うことのない場面。久もまた迷わなかった。
「リーチ」
牌を曲げる。指が牌から離れた時に久の河に現れたのは{一筒}。
竹井久、セオリー無視の地獄単騎待ち。
勿論そこのことを両隣の咲とのどかが知るよしもない。
知っているのは久本人と後ろにいる三人の後輩、そして―――
「……なるほどな」
対面に座る青山が声を上げたことに久は驚かなかった。
彼ならばわかっていても不思議はない、そんな妙な信頼にも似た確信があったから。
場に二つのリーチ棒が向かい合ったことで―――正確に言えば青山がリーチをかけた段階で咲とのどかは戦力外。
勝負は必然、青山と久の一騎打ちに絞られた。
……普通ならきっと負けるんでしょうね。
持って生まれた天運の差とでも言えばいいのだろうか。
完全なオカルトになるが、自分と青山との差を久はこの十局足らずで理解していた。
リーチ競争となれば九割九分、99%の確率で自分が負けるのだと久は本能的に感じ取っていたのである。
……でも、今だけは負けるわけにはいかない。
例え99%駄目でも、まだ1%の可能性が残っている。
ならば前を向いてそれに賭けよう、引き寄せよう。
そして後輩たちに示すのだ。
……諦めなければ。
二人がリーチをかけた次巡。
それまで神懸かり的な引きの良さを見せていた青山だったが今回ばかりは一発とはいかず、引いた牌をそのまま河へと置いた。
続くのどかは完全に降り姿勢の安牌切り。想いを込めて久は山へと手を伸ばした。
……諦めなければきっと道は開けるということをっ!
久は理解していた。これがラストチャンスであることを。
ここを逃せば、次巡で青山に和了られるということを久は確信していた。
ゆえにその自模は運命の分岐路。
久は引いた牌の図柄を確認し、柔らかく微笑んだ。
「……応えてくれてありがとう」
想いは、届いた。
「リーチ一発ツモ!」
引いた{北}を台に叩き付け、手牌を倒す。
両隣から呆けた声を耳にしながら久は裏ドラを捲った。
「チャンタドラ一! 12000は14400! 6800、3800!」
青山茂喜 287700
原村和 44700
竹井久 26900
宮永咲 40700
点数だけで言えば未だ大差。
たかだか12000弱の跳満など大勢には何ら影響を及ぼさない微弱な誤差でしかない。
けれどその微弱な誤差こそが久の欲していたものだった。
まるで有り得ない物を見たかのように口を半開きにした後輩二人に、久は心の中でではなく実際に言葉を紡いだ。
「諦めなければきっと道は開けるわ」
勝負は、南場へと突入する。
やっぱ部長は可愛い。けど照さんが一番可愛い(確信)
あっ、私的なことですがblog始めました。咲の実験作なんかも書いてるんで、よかった見に来てください。リンクは私のマイページに載っています。